フランクフルトでゲーテハウスゲーテ博物館 を訪ね、

「そうだ!ゲーテを読もう」との思いを抱いた…と書きましたのはつい先日のことながら、

ドイツの夏旅から帰ってすでに2カ月余。


月日の経つのは本当に早いものでありますけれど、

実はこの間にせっせと、ですが断続的に(というのは、途中で新門辰五郎の本を読んだりして)

読み続けてきて、ここへきてようやっと読み終えたのでありますよ。

ゲーテ作「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」、岩波文庫で上中下の三分冊でありました。


ヴィルヘルム・マイスターの修業時代〈上〉 (岩波文庫)/J.W. ゲーテ ヴィルヘルム・マイスターの修業時代〈中〉 (岩波文庫)/J.W. ゲーテ ヴィルヘルム・マイスターの修業時代〈下〉 (岩波文庫)/ゲーテ


そも「ゲーテの何を?」と思ったときに、ウェルテル はもはやお馴染み感がありますし、

「ファウスト」に取り組むのが一般的かと思うところながら、あちらは戯曲だものですから

ちと小説にこだわってみると「やはりこれか」と、「修業時代」を手に取った次第。


そんな関係で(毎度のごとく)特段の予備知識が無いために「修業時代」とは

てっきりどっかの親方に弟子入りして徒弟修業でもするんかいね…と思っていたわけで。

何しろマイスター=親方ですし。


ところが、実際にはWikipediaにも「教養小説の古典的な作品」と紹介されているように、

いわゆるビルドゥングスロマンであったのですなあ。


青年ヴィルヘルム・マイスターは裕福な商家に生まれ、
ひと通りの教養を身につけた人物として登場してきますですが、およそやることは「若いなあ」と。


青年ならではの熱情を演劇に傾け、これこそ自分の天職とまで思い込む。
役者としてもいっぱしである以上に、劇作に関してはドイツの国民演劇を自ら創り出すとまでの
意気込みでありますから。


ある時、家の商売の関係で売掛金回収の出張に出た際、出先で劇団の創設に加わり、
ハムレット 」の上演に当たっては自らの演劇論を披瀝して、
どんなに鼻白む者がいても臆することがない。実に血気盛んといいますか。


当然にそうこうしている間に商売の関係はおよそ念頭にないばかりか、
いっかな家に帰ろうと考えることもないあたり、若気の至り感に溢れているのではと。


同様に恋愛遍歴の部分でも「若いな」と思うことしばしなわけですが、
このあたりはウェルテルよりもいささか現実的なのかどうか…。


とまれ、こうした経験の数々を糧に人間としてヴィルヘルムは成長していくのですけれど、
内面の成熟みたいなところの表現はいささか皮相な感無きにしもあらず。

それよりも読んでいてまず思うところは、この話が小説である以上に戯曲のように思えるのですね。


もちろん外形的に小説の体ではあるものの、いわゆる地の文が非常に「ト書き」っぽいなあと。
あるいは劇中に挿入されるナレーションぽいなあとも。


奇しくも本作中では「小説と戯曲とどちらがすぐれているか」という議論が展開されたりするのですが、
戯曲というギリシア悲劇以来の長い伝統のある形式とは異なる文学表現である小説という姿で
本作「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」を書こうとした意気込みたるや、
ゲーテ本人もまた成長過程のヴィルヘルム・マイスターその人ということになりましょうか。


だいたい近代小説の始まりとも言われるサミュエル・リチャードソンの「パミラ」は
1740年に発表されたばかりで、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスター…」は1796年と
近代小説の歴史は56年しか経過してない段階とすれば、戯曲との歴史の差は歴然なわけで。


しかも「パミラ」は書簡体小説ですから、その体裁をとらない小説のありようときたら、
まさに発展途上でありましょうし。


ですから、作中でヴィルヘルムがいかに戯曲と小説の優劣(というより違い)を言い立てたとしても、
この段階で小説に関する言説は決定的なものというより、
戯曲との違いを強調することで得られる小説の理想像てな捉え方もできましょう。

そして、作品はその実践としてあると。


話をストーリーの方に戻しますと、登場人物は結構多彩ながらも
「あの人は、実はこの人だった」という世間の狭さに驚くほど頼って出来上がっているという。


旅の道すがらでふいとすれ違ったあの女性が忘れられない。
場所を移して、このほどさる伯爵夫人のお目見えを得ることになり、
伯爵夫人の館を訪ねてみれば「なんと!あのときすれ違った女性ではないか?」てな具合。


特に大団円に近付くにつれて、この状況は酷く(言い方が悪いですが)なっていく。
「え、あいつもこいつも、そういう関係?」みたいなふう。


このあたりの落ちのつけ方も多分に演劇的だなと思うところで、
割り切って考えれば「そう来たか」と騙された(?)ことを楽しんでもいいわけで、
そうならそうで面白い話、よくできた話ということはできそうです。


たまたまにもせよ、昨年読んだトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人びと」
どっしりと重厚感のある小説であっただけに、単純に比べるのは適当ではありませんが、
むしろ近代小説黎明期にゲーテがこうした試みをしたことがあってこそ、
その100年後(「ブッデンブローク家の人びと」は1901年発表)、小説という表現の深化に繋がった。


その礎としてのゲーテの意味合いを掴まえておくべきではあろうと
改めて思う「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」でありました。


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