少し昔の笑い話(?)。チェコ人の会話です。


A:我が国にも海軍省があっていいよね。

B:海軍省ったって、チェコには海がないじゃない。

A:そんなこと関係ないよ。ソ連には文化省があるじゃないか。


とまあ、聞きかじりのこの話は、説明するも蛇足ではありましょうけれど、

ようするに、文化なんて無縁のソ連 に文化省があるんだから、

チェコに海軍省があっても何ら不思議ではないではないか…ということ。


もちろん「ロシア文化」とはよく言われるように、ロシアに文化がないわけではありませんが、

ソ連だった時代には、例えば「表現の自由」といったことが担保されていたとはいえなかろうと。

そんな状況をして「文化がある」とは言えんだろうというわけですね。


そうした状況下にあっては、芸術家といわれるような、

自身の発想の赴くままに表現を展開することを本分とする人たちは何かと生きにくい。

作曲家で言えば、まっ先に挙がってくる名前がショスタコーヴィチ でもあろうかと。


しかしまあ、藪から棒にこうした話が出て来ますのは、

演奏会でショスタコーヴィチの交響曲第10番を聴いたからでありまして、

テミルカーノフ指揮の読響とはつい先日マーラーの3番 を聴いた組み合わせの再来。

ここでも、管のソロの浮き立ちもよろしく、力演でありましたですよ。


読売日本交響楽団第178回東京芸術劇場マチネーシリーズ


で、ショスタコーヴィチの交響曲ですけれど、ひとつ前の9番シンフォニーがソ連内では大不評。

初演が1945年11月という時期で、番号が「第九」となれば、スターリンをはじめお歴々は

それこそベートーヴェンの第九 のような輝かしい(戦勝の)歓喜を歌い上げることを

期待していたような。


そこへ持って来て、ショスタコーヴィチの第九はコミカルな印象さえある軽妙さから始まる。

大いに当局の期待を裏切ったとして、哀れ、ショスタコーヴィチはぼこぼこにされることに。


こうしたことがあった第9番に続くだけに、1953年に初演の第10番は

それまでの作曲ペースから比べるとずいぶんと遅れて見える8年ほどもの間隔が開いているのですなあ。


1953年にスターリンが亡くなってようやく発表しやすくなった…てなふうにも見られたり、

爆発気味の第2楽章は「暴君スターリンの肖像」と解されたり、

はたまた作曲者自身のイニシャル(DSCH)によるモティーフが多々現れることから

「終楽章では、すべてを押し流す圧倒的な音の流れに抗うようにふるまう」(公演パンフより)

作曲者の姿に見立てたり…と、いろいろと政治絡みの話がまとわりついているようなのですね。


ただ近年の研究によりますと、

教え子の女性に密かに寄せる想いが隠されていたとかいうことで、

あまりことさらに政治情勢とのしがらみで論じると肩すかしをくうことになるのかも。


むしろそうした内容を含んでいたものであっただけに、

スターリンがいなくなって発表しやすくなったとは言えるのかも。


奇しくもスターリンの亡くなる1953年が、冒頭に触れたソ連文化省が設立された年。

となると、それ以前に比べればまだ少しでも「文化」が存在し得るようになったということでしょうか。

それでも、チェコから見れば「まだまだ」なのでしょうけれど。


と、すっかりショスタコーヴィチの交響曲第10番のことばかりですが、

その前に演奏されたのがプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番。

結構巨大(巨体?)なデニス・マツーエフ(何故か、マツしか被らないのにデラックスを思い出す)が、

指の動きよりも手首の動きでもって、弾くというよりぶっ叩く、ぶっ叩く(そういう曲なんですが)。


その凄さは、アンコールで取り上げられたスクリャービンの練習曲「悲愴」で

より遺憾なく発揮されていたような。


ロシア尽くしのコンサートの最後の最後、読響にしては珍しいアンコールで演奏された

エルガー の「エニグマ」からニムロッドにじんわりしつつ、

これも先頃テミルカーノフが読響の名誉指揮者となったご祝儀かなと。

とまれ、2週にわたって、テミルカーノフ/読響を堪能したのでありました。