第二次世界大戦はナチス・ドイツ のポーランド侵攻によって始まるわけでありますけれど、
実のところ独ソ不可侵条約の裏協定で、ドイツとソ連 はポーランドを半分こにすることに
なっていたわけでありますね。


独ソともにポーランドの部分では取るべきは差し当たり手にしたし、ドイツは反転、
オランダベルギー からフランスへの侵攻を開始して、戦火は拡大していくという。


では、ソ連の側は黙って見ていたのか…というと、
どうやら黙って見ているならまだしもということを勝手に始めていたのですね。


フィンランドに攻め込んで領土を分捕り、

バルト三国には圧力を掛けて言うことを聞かせようとする。
穏便に、穏便にとソ連に宥和的に臨んだラトビアにはあっという間にソ連軍が入り込み、
占領されたも同然に。


そこで起こったことと言うのは、
スターリン体制下であれこれ理由を付けては「社会主義革命の敵」とのレッテルを貼って
たくさんの人々をシベリアなどへ送り込むということ。


ソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィチの一日」を思い出したりしますけれど、
そうしたことがソ連の中だけでなく、ラトビアでも(実際にはバルト三国でもというべきか)
行われていたとは考えてみたこともなかったですが、
このほど読み終えた「ダンスシューズで雪のシベリアへ」は当時、ラトビアから酷寒の地へ
送られた人々の話でありました。


ダンスシューズで雪のシベリアへ/新評論


タイトルがいささか意表を突くところにも思えますが、
いきなり捉えられ、輸送貨車に詰め込まれ、見も知らぬ場所に送られることが
いかに予期せぬことであったか、いかに唐突に降りかかったかを示すものであろうかと。


著者の母親が子供の時代、パーティー用にと兄からもらったダンスシューズがうれしくて
手放すことができない…そんな家族団欒の場面にやおら追捕の手が伸びてき、
持っていても何の役にもたたないダンスシューズ持参でシベリアに来てしまった…。
何ともどういう表情を作っていいんだか困ってしまう、そんな潜みでありました。


全く普通に暮らしていた家族、経営者的な位置付けにあってちょっとだけ他の人たちよりは
裕福だったかもしれないけれど、決して大金持ちとかいうわけではない家族。


それだけで「社会主義革命の敵」とされて、シベリアに送られてしまうことも、
また身寄りもお金も食べるものも住むところもないシベリアで労働を強いられることも
社会主義という面を被った全体主義の、極端な極端な自己保身のありようとして
「なんだって、そんなことができるんだ」と思わずにはいられないですよね。

「何が人をそうまでさせるのか」と。


こうしたソ連の脅威があらばこそ、独ソ戦が始まってナチス・ドイツがラトビアに侵攻してきた際、
ナチス・ドイツをソ連からの解放者として迎えたラトビアの人たちがいて、
それ故、ラトビアは枢軸側であったと言われることもあるようですが、これは「うむむ」と。


すぐにラトビアの人たちも、前の主人にしても後から来た主人にしても

さして変わることはなかったと気付いたものと思いますが、後の祭り。

やがて、ドイツが敗走して入ってきたのはまたソ連であって、結局のところ著者の一家が
ラトビアに帰ってこられたのはスターリン批判(1956年)の翌年になってからとは…。


ソ連崩壊に至る激動の中で、
ラトビア発でバルト三国に波及した「人間の鎖」という行動がありましたですが、
著者はその主導者であって、ラトビア独立後には外務大臣を務め、
ラトビアがEUに加盟するとラトビア初代の欧州委員となった人。


本書の新聞書評には

「NATOのバルト三国、ポーランドでの軍事演習を歓迎するラトビア外務省の最近のニュースは、
ウクライナの聴きが他人事ではないというメッセージともとれる」とありましたですが、
人間の感情の中で「怒り」ほど簡単に伝染するものはありませんから、
(きれいごとかもしれませんけれど)何とか悪循環に陥らない方向に行かないものかなと

思いますですね。


反対にロシアの側でのことで、先ごろ新聞で見かけた話に、
スターリン批判後に「ボルゴグラード」となった都市の名称が
「スターリングラード」に戻るかもしれない…というのがありました。


退役軍人の一人が「名称変更が可能かどうか」をプーチン大統領に尋ねたところ、
「法律に従えば、住民投票で可能」との答えであったそうな。


大統領にしてみれば、法律ではそうなんだからという答えかもしれないですが、
その通り答えるだけというのは果たしてどうなんでしょう…。


と、ここまで来て、
この地名の話を日本に置き換えると、日の丸・君が代なのかもしれんなぁと思ったり。
あれこれ脱線めいてますが、いろんなことを考えることになった一冊でありましたですよ。