年末が近づくにつれ、

何か演奏会でも聴きに行こうかなと思っても演奏会プログラムは「第九 」一色でありますね


別にこれを聴かないと年が越せないてなこだわりもなし、

だいたい何で年末なんだ?という点にも確たることはなく…だものですから、

かつて個人的には年末の第九に相当以上冷ややかな視線を送っていたという。


ですが、読響の定期会員を継続しておりますと、

毎年12月の公演に「第九」が付いてくる…。


で、何度か聴いているうちに、一年に一度くらいのことなら

指揮者の違いによる演奏の聴き比べと思えばいいかな…と思うようになったのが、

ようやっと去年のことでありましたが、月日の経つのは早いもので、

2014年の「第九」をレオポルト・ハーガーの指揮で聴いてきたのであいますよ。


読売日本交響楽団 第172回東京芸術劇場マチネーシリーズ


このレオポルト・ハーガーという方は、

しばらく前までウィーン芸術大学で指揮法の教授をしていた…てな経歴でもあるようですので、

ウィーン直伝の指揮者てなことになりましょうけれど、いやあ、最初から早めのテンポで、

時に「このまま行ったら合唱が破綻しないかしらん」と心配を呼び起こしつつも、

なかなかに彫りの深い作りでもって、実にくっきりきっちりした「第九」を聴かせてくれました。


ベートーヴェン は長くウィーンで活躍し、

「第九」を完成させた3年後の1827年にウィーンで亡くなっていますので、

ウィーン仕込みがいわゆるオーソドックスなものなのかなと思っていたりしましたですが、

どうやらそうとも言えんぞ…と思いましたのが、演奏会に先んじて読んでいた本からの印象。


これに加えて、当日のプログラム・ノートにも関連するエピソードの紹介があったものですから、

演奏を聴きながらあれこれ考えてしまいましたですよ。


〈第九〉誕生: 1824年のヨーロッパ/春秋社


ちなみに先んじて読んでいた本といいますのは、邦題こそ「〈第九〉誕生」というものながら、

原題は「The Ninth:Beethoven and the World in 1824」でして、

内容的には原題を見ればなるほどと思うものでありました。


1824年と言いますのは、先程もちらり触れましたとおり、

「第九」が完成され、初演された年なのですけれど、

この時期がどういう情勢であったのかという点はあまり考えることがなかったという。


世界史的な流れを思い出しつつ振り返ってみると、

「第九」に先立つ交響曲第3番(エロイカですが)をナポレオンに献じようとしていたものの、

皇帝になってしまったのでやめた…という有名な話が示すように、

ベートーヴェンはフランス革命からナポレオン戦争 へといったあたりの同時代人なわけです。


で、作曲が進んで9番交響曲のこの時期は、

ナポレオン戦争の後始末をつけたウィーン会議を経て、

立場を危うくした君主たちがよってたかって反動的な政治をヨーロッパに繰り広げた

ウィーン体制 下の時代ということになりますですね。


この時代、下手な動きをしてお上に睨まれるよりは

小ぢんまりと家庭的な幸福追求に目を向けようと、

ウィーンあたりでもビーダーマイヤーの時代と言われて、

抑圧、そしてその裏返しの鬱屈状態をオブラートで包み隠していたてなところかと。


そうした風潮は一見、軽佻浮薄とは言い過ぎかもですが

音楽に関してもベートーヴェンのような主題労作から生まれる大伽藍のようなものよりも

軽めで耳に心地よいものが求められたようでありますね。

そうしたことの象徴として、ウィーンでのロッシーニ 人気があったようです。

(もっとも、ロッシーニはパリでも大人気でしたですが)


ですから、ベートーヴェンは確かに功なり名を遂げた大作曲家と誰もが思っていても、

それよりもロッシーニのオペラでコロラトゥーラを聴いていた方が心地よい…てなようすに

ベートーヴェン先生は愛想を尽かして、第九初演をベルリンで行おうと目論んだそうな。


しかし、これを聴き付けたウィーンの知識人(的な人々?)たちは

大先生の新作初演はウィーンでこそやって欲しいと懇願し、ウィーン初演にこぎつけた…ものの、

興行的にはうまくいかず(ということは、生活の糧も得られず)大先生は憤懣やる方ないことに。


…てなふうにこのエピソードは言われるわけですけれど、

ベルリンでの初演の目論みは、ウィーンの音楽事情に呆れかえっていたとか、

ベルリンの方が興行的成功を得られそうだとかいうだけではなかったのかも…思ったりするのですね。


全くの思いつきですので誤解のないように願いますが、

ベートーヴェンがうんざりしていたのはウィーンの音楽事情だけでなくして、

ウィーンそのもの、ウィーン体制と言われる情勢そのものだったのではないですかね。


で、そうした状況に変化をもたらす頼みを、台頭著しい新興国プロイセンに求めたではないかと。

もちろんプロイセンも反動政治真っ盛りでしたけれど、

大国病度合いではオーストリアよりましと思ったかもですね。


実際、「第九」の献呈先は、

当初ロシア 皇帝アレクサンドル1世(ナポレオンを打ち破った)が予定されていたものの、

献呈前に亡くなってしまったこともあり、プロイセン国王のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世になりました。


ベートーヴェンが「第九」に込めた思いをプロイセンが受け止めて、

後のありように変化がみられていたとしたら、

166年後のベルリンで「第九」の大合唱に至るまでのドイツの歴史は大きく変わっていたのかも。


ただ、ベートーヴェンは激情的な人っぽくありますから、

ぱっとナポレオンに飛びついてしまったりするところからすると、

このプロイセン頼みも多分に思い付きの域を出ないところかもしれませんですね。


そして、本当に意図を伝えたいとするには、

作り上げた曲が当時の人々にとっては(それがウィーンであれ、ベルリンであれ)

面食らうような異形の音楽であったことはむしろマイナスにしか作用しなかったことでしょう。


その点ではやっぱりベートーヴェンは芸術家であったということではないかと思いますが、

「お前ら、いい加減、分かれよ!」というベートーヴェンのメッセージ、

果たして今に至るも伝わっているのでありましょうかね…。