先日、なんとはなしにFM放送を聴いておりますと、
チャイコフスキー 作曲の「スラブ行進曲」が流れてきたのですね。


中学で吹奏楽を始めてから、たくさんクラシック系の音楽を聴くようになりましたけれど、
この「スラブ行進曲」はその最初の頃、当時どこかの学校がコンクールで演奏したものか、
たぶん聴いたのはたぶん吹奏楽版であったような。


そうしたことから「スラブ行進曲」には
「懐かしいな…」という個人的な感情がへばりついているのでありますが、
で、改めて耳にした「スラブ行進曲」からはつらつらと思い巡らすことがありましたですよ。


メロディーメーカーであるチャイコフスキーの作品ながら
(といって、他の作品でも気付くことはあるので、これもチャイコフスキーの個性の一部かもですが)
鈍くさいといっては何ですが、鈍重な(まだこの方がいいですね)印象があるのですね。


ステレオタイプな気もしますけれど、これが「ロシアらしさ」かもとも思いつつ、
一方では、どうもアラビックと言いますか、オリエント的な感じも受けるなぁと。


この曲にチャイコフスキーはセルビア民謡を用いているようなのですが、
バルカン半島はトルコと接し、中東にも近く、黒海を隔てて中央アジアにも通ずるところとなれば、
そうした東方の香りが漂うもの無理からぬことなのかもですね。


果てしなく続く大地を、本来人間は人種がどうのということもなく、

自由に行き来していたのですから。


ですが、そうした自由な行き来があったことに対して、
作曲の経緯を見ると、複雑な思いを抱かざるを得ないような。


1876年、オスマン・トルコの脅威にさらされたセルビア人

スラブ人の同胞として手を差し伸べるべくロシアでは義勇兵を送るという事件が

あったそうなのですね。


モスクワ音楽院の院長であったニコライ・ルビンシテインは

この事件での犠牲者を追悼する演奏会を企画、
作品を求められたチャイコフスキーは「スラブ行進曲」を書いて応じた…ということ。


つまりはトルコとの緊張関係から生まれた産物となれば、

かつて大地を自由に行き来していたことから東洋的な印象が受け取れること自体、

遣る瀬無い話だなぁと思ってしまうわけです。


そこで思うのが、国境ってのはどうしてあるんだ!みたいなこと。
(オスマン・トルコとその西側の対立には宗教的要素は抜きにできないでしょうけれど、それでも)
これがあるために「ここからはこっちのもの」みたいな意識がどうしてもできましょうし、
ともすると「ちょっと先にいい牧草地があるから、そこまではこっちのものにしたいな」てな

欲にも駆られたりすることにもなりましょう。


この線が境目ですという区分けも、自然の河や海といういかにもな隔てがある場合もありますが、
陸地の場合には「ここからと言われても誰が決めたのよ?」みたいなものではないかと。


今でこそGPSによって、例えば砂漠の真ん中でも
「見えないけどここに線があって、ここからはこっちのもの」と分かるのでしょうけれど、
機械が無ければやっぱり分からない。


と、ここでふと思い出したのが、
「ここからこっちのもの」を分かるようにしてしまったのがあったっけ!ということ。


万里の長城でありますね。

「Stone Dragon」と呼ばれることもある(らしい)万里の長城は、
北京から行ける八達嶺を一度訪ねたことがありますけれど、ここで見る限り、
山の稜線に沿って延々と遥か先まで続いている姿は、
いかにも長く長く築かれた城というに相応しい見かけではないかと思うところです。

そして、まさにここが「境なんだあね」と。


ですが、これは(確か)明の時代に作られたものであって、
長城の歴史は昔々にさかのぼった漢の時代などでも
北京辺りよりはずっとずっと西の、それこそシルクロードの入り口あたり、
辺境の守りとして土塁みたいなのが築かれていたりしました。


それこそ平らな大地にやおら壁が立ちふさがって、
「ここからはこっちのもの」という線を目で見える形で示しています。


とはいえ、これも遊牧民(の一部?)による略奪への対策であって、
「ここから云々」の自己主張ありきでは必ずしもなかったとすれば、
「国境」なるものを悪者にする以前に、人の中に悪者が住んでいる…ことが
そもそもの始まりだと言えるやもしれませぬ。


さりながら、こうした歴史の果てにある現在、そして未来に向けて、
人間に過去の失敗を繰り返さない学習効果があるとすれば
「国境」なるものに対しても、もそっと違う(ありていに言うと開けた)考え方が
できるのではないでしょうかね…。