ポワロとコロンボとホームズ とを引き合いに出したネタばれ話の中で

チャイコフスキーに触れるところとなりましたけれど、

それで「そうだ!」と思いだしたのがMETライブでありまして。


今シーズンもちょうど公開が始まったところですが、

そのオープニング作品がチャイコフスキー の歌劇「エフゲニー・オネーギン」であった…

とまあ、そういうことを思い出し、見に行ったのですね、最終日ぎりぎりで。


METライブビューイング2013-14


決してオペラ通というわけではありませんから、そうそう見ている演目のないながら、

それでも「これはあんまり見る機会がなさそうかな…」という作品を

METライブでカバーしているようなわけでして、「エフゲニー・オネーギン」も

そんなひとつだろうと踏んだのですね。


原作は19世紀前半に書かれたプーシキンの韻文小説で、

「話はオネーギンの生い立ちの紹介から始まる」(Wikipedia)ようで、

名実ともにエフゲニー・オネーギンがタイトル・ロールなわけですが、

オペラの方では、METライブの公演プログラムによりますと

「原作からロマンチックな部分を抜き出して、詩情豊かな恋愛ドラマに仕立てている」

となっている。


見てみると確かにオネーギンよりも

その相手役となるタチヤーナ・ラーリナの方に重点が置かれているようにも見えるのですね。

全3幕のうちいちばん長大な第1幕の、第2場・第3場などを見ていると、

これは完全にターニャの物語だぁねと思えてくるわけです。


小説の本来は、例えば岩波文庫版「オネーギン」のAmazonの内容紹介にあるように

「バイロン的な主人公オネーギンは、ロシア文学に特徴的な〈余計者〉の原型となった」ような

人物造形がされているのでしょうけれど、オペラでは

そうした要素が大幅に割愛されてしまっているのですね。


指揮者のワレリー・ゲルギエフが幕間にインタビューの中で

ソ連時代の子供の頃に「暗誦させられた」と言っていたことからしても、

チャイコフスキーが作曲をした当時にしてもプーシキンの原作は名作の誉れ高く、

誰もが知っている話だったのかもしれません。


また、このプロダクションでオネーギンを歌ったマリウシュ・グヴィエチェンもインタビューで

「He is a dog for women」(heはオネーギンですが)みたいなことを言っていて、

そうしたことが誰しもに共有されているかのよう。


オペラの中でオネーギンのそうした性向は周りで囁かれるくらいで

必ずしもはっきりと表出されるわけではないのですけれど、

結局のところプーシキンの原作のベースとなる部分を皆持っていた上で、

オペラを見ていたのかもしれませんですね。


あいにくとそうしたベースを持ち合わせないものとしては、

オネーギンの葛藤にも触れられてはいるものの、

やはりターニャのビルドゥングス・ロマンとして見る方がストンと落ちるように思われます。


少女の頃(16、7らしいですが)にオネーギンを一目見るや「運命の人」と思いこみ、

熱い思いを手紙に託したものの、オネーギンにはむしろ子供の恋をいさめられる始末。

やがて、貴族に見染められて公爵夫人となるもターニャの心にはいつもオネーギンへの思いが。

そんなところへ現れたオネーギンは、もはや凛とした気品をもそなえた女性となったターニャに

恋情を燃え立たせ、愛を告げるものの、ターニャは心の揺れを隠し決然と別れを告げる…。


元々はオネーギンがターニャに色目を使い、

幼くまた思いつめる恋心を呼び覚ましておきながらそれを諌めるという行為に出ますが、

最後の最後には全く立場が逆転してしまう。

結局のところターニャの成長に比べれば、オネーギンの方がもはや子供のよう…という具合。


ターニャの成長を(もはや貫禄たっぷり?になった)アンナ・ネトレプコが見せていましたし、

話の進行に従ってチャイコフスキーの曲も尻上がりで本領発揮(チャイコフスキーらしい点で)と

なっていくことなどからも、面白く見ることのできる作品ではありました。

が、まあそのうちにプーシキンの原作にもあたって、

作品を見るベースを作っておいた方がよさそうですね。


ところで全くの余談ですけれど、第1幕第3場だったでしょうか、

農夫たちが地主のラーリン家(女性の名字ではラーリナ、タチヤーナ・ラーリナというふうに)に

農作物を持ってくるところがありますけれど、なぜだか大きなパンプキンがいっぱい。


METでの上演収録が10月5日と、

これからハロウィーンに向かうという時節柄ゆえの演出かと思ったわけです、

アメリカでの上演ですし。


ただ舞台となっているのが19世紀のロシアとなると、

ハロウィーンに関するwikiの記載が思い出されるところでして、こんなふう。

東方教会(正教会・東方諸教会)の広まる地域(東欧・中東など)においてもハロウィンはあまり普及していない。ロンドンにあるロシア正教会の司祭はハロウィンを「死のカルト」であると批判している。またロシアにおいてはロシア教育省が宗教行事の一環であることを理由に、公立学校に対してハロウィンの関連行事を行わないよう通達を出している。

…となると、ちとアメリカ側にサービス過剰の演出であったかと思わなくもないですが、

まあ単なる深読みしすぎということではありましょうけれど。