おろしや国酔夢譚 」の大黒屋光太夫が訪ねたときにはサンクト・ペテルブルク、
光太夫の足跡を辿る「シベリア大紀行」で椎名誠さんが訪ねたときにはレニングラード、
そして今ではその名がサンクト・ペテルブルクに戻っている町。


ロシアの首都はモスクワになっていますので、今となっては
サンクト・ペテルブルクは歴史的、文化的な側面を持った観光都市とも言えましょうか。


ではありますが、サンクト・ペテルブルクを紹介した海外の番組では、
ここは「人骨の上に造られた町」と言っていましたですね。


ピョートル大帝が(無理をしてでも)「ロシアもヨーロッパだけんね!」ということを
アピールせんがために、1703年に民衆の苦役を強いて作り上げた町でありまして、

元もと低湿地であったところなだけに工事で命を失った人々は数知れず、

「人骨の上に作られた町」と言われた所以であります。


そうして贅を凝らして磨き上げた町はロシア帝国の首都としての機能を十二分に果たすわけですが、

「シベリア大紀行」でレニングラード(当時)を訪れた椎名誠さんは、

いかにもヨーロッパからの借り物然とした町のたたずまいに違和感を抱いたようでありました。

行ったことはないですが、分からなくもないですね。


と、町の始めからして多くの犠牲を強いられた町で、

そこに住まう人々がもう一度とてつもなく過酷な状況に置かれる事態が生じたのは1941年、

独ソ不可侵条約を一方的に破棄したナチス・ドイツが侵攻を始めて包囲網を築き、

完全にレニングラードは孤立してしまうのでありました。


モスクワからの食糧輸送もままならず、

レニングラード市民が飢えと寒さに耐え忍んで送った日々は900日にも及んだとのことで、

餓死する者、路上で凍り付いてしまっている者も多く出る中、死者は100万人にも達したと

言われているのですね。


こうした状況の中、まさにその場所で、ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」

書き始められたものである…ということは、3月に日フィルの演奏会で聴いたときにも書きましたですが、

実のところレニングラードの置かれた状況認識があまりにあさはかなものであったと、

「戦火のシンフォニー レニングラード封鎖345日目の真実」という本を読んで思いましたですよ。


戦火のシンフォニー: レニングラード封鎖345日目の真実/ひの まどか


レニングラード市民も最初のうちは意気軒昂で、

自分たちの町を守るのだと気合十分なわけですね。

1906年(ですから、革命前)にサンクト・ペテルブルクで生まれたショスタコーヴィチも、

世界的に名の知られた作曲家なだけにモスクワからの疎開要請を断って故郷に残り、

(近視で従軍志願できないため)消防隊に参加して町の防衛の一翼を担ったりもするという。


消防隊のショスタコーヴィチ


これは、昔出ていた「レニングラード」交響曲(ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン・フィル)の

レコード・ジャケットですけれど、以前は「なんでショスタコ、こんな恰好してんだ…」と思ってましたが、

これが消防隊の制服姿のようですね(後ろの高射砲は合成ですが)。


もちろん消防隊もいいですが、ショスタコーヴィチとしては自分の持てる能力で何かできないかと

考えたときに、レニングラードのために新作交響曲を書くことを思い立つわけです。


何でも敵軍包囲の最中でも、ラジオからも公開でも音楽が流されていたレニングラード、

必ずや市民を鼓舞する音楽を書き上げると思ったのでありましょうか。


しかしながら、第3楽章を書き上げるまでに状況は深刻化の一途を辿り、

ショスタコーヴィチはさながらだまし討ちのように強制疎開させられてしまい、

最終第4楽章は疎開先で仕上げることになってしまったという。


当然に初演も疎開地でということになりますが、

その頃には電力供給もままならないレニングラードでは、初演のラジオ音声もとどかずしまい。

レニングラード市民のための交響曲であるというのに。


ですが、曲の完成を伝え聞いたレニングラードのラジオ局では、

自分の町でこそこの曲の演奏会をと考えるわけですね。


そして、町を離れることを潔しとせず(その他の事情もありましょうが)

志願兵となって前線に出ていたり、痩せさらばえ寒さに凍えて町の防衛に務めていた

ラジオ・シンフォニーの楽員たち(名門レニングラード・フィルは早くに疎開していた)が

ぼろぼろの状態から始めて、何とかかんとかこの曲の初演を果たすのでありますよ。


本書副題の「345日目」とは初演の日のことで、

これを聴いた民衆のボルテージアップは推して知るべし。

ではありますが、このレニングラード初演の終了後に、

疎開先からショスタコーヴィチが寄せた電文の何と冷ややかなこと、

口あんぐりになってしまいそうなくらいでありますよ。


おそらく(と、想像するにですが)ショスタコーヴィチの思いが疎開先で変化したのではないかと。

最初こそ渦中のレニングラードにあって、「ここのために、ここの人たちのために」と思っていましたし、

疎開後の惨状も聞き及んでいたでしょうから、タイトルは「レニングラード」としましたけれど、

出てしまえば惨状のほどは想像するしかなく、モスクワでも他でも戦火に曝されている状況があり、

そして自分の作品はレニングラードのみならず、故国全体を鼓舞できるのではないか…てなふうに。


ですから、やはり疎開していたレニングラード・フィルという温存された一流オケを

ムラヴィンスキー(作曲者と親交があり、名誉回復の交響曲第5番を初演)が振った演奏は

世界に向けてのプロパガンダになったでしょうし、

マイクロフィルム化された楽譜は連合国側(もはや敵の敵は味方というわけですね)に送られ、

レニングラード初演よりもロンドン初演の方が早くに行われたてなことになってしまったのですね。


それにしても、ショスタコーヴィチの新作交響曲の作曲・初演にまつわるエピソードも

あれこれ興味深いものがありましたですが、レニングラードの惨状に関しては本当のところ、

認識を新たにしましたですよ。


で、いろいろと思いを巡らす中で悩ましく感じるところは、

ナチス・ドイツと歩調を併せてレニングラード包囲の一翼を担っていたのがフィンランド軍であったこと。


ロシア(ソビエト)では、この時の戦いを「大祖国戦争」と呼んでいるそうなんですが、

それはフィンランドにとっても同じことで、それまで常に圧力を掛けられ続けてきた側が

それこそ国土の失地回復とばかりに、やはり敵の敵は味方とばかり、ドイツ軍と並んで

レニングラードを包囲したのですね。


またドイツ軍の侵攻にあたって、さも味方であるかのように

ロシアへの道を「どうぞお通りください」として素通りさせたバルト三国も

ファシズムに加担していたというより、散々ソビエト=ロシアに痛めつけられたいたのは

先に「ダンスシューズで雪のシベリアへ 」で読んだラトビアの話や、

エストニアの言語警察 の話などを思い出してしまうところではないかと。


こうなってくると、いったい何が悪くて、何が良いのか…てなふうな思いにもかられるところですけれど、

冷静に、至って冷静に考えてみると、レニングラードの人たちも、フィンランドの人たちも

ラトビアやエストニアの人たちも基本的には何も悪くないのですよね。


何かしらの仕組みというか、機関というか、いずれも人が作り出したものではあるものの、

そうしたものがよろしくない働きをしてしまっているわけで。

それが何であっても、こうした歴史を繰り返すことに繋がるとすれば、改めるにしくはない。

それくらいの頭を働かせることを、人はできるでしょうに…と思いたいところでありますよ。