と、またしてもうどん で昼食を済ませた後には、
「歴史の小径」沿いで前日に訪ねられなかったところを巡ります。


最初は、旧館林藩士の住まいであったという茅葺きの武家屋敷「武鷹館」へ。
おそらくは鷹匠町の武家屋敷であることからのネーミングでありましょう。
近隣の寄り合い施設としても使われることがあるようです。


武鷹館長屋門


長屋門(「歴史の小径 」のところで写真に撮ったものとは別もの)を潜って行きますが、
どうやらこの建物自体は本来の武家屋敷とは別のところにあったのを
それらしく移築してきたものだそうで、どうやら大正期に造られたとされているようです。


とまれ、敷地に足を踏み入れますと、武家屋敷がでぇ~んと…と思いきや、お掃除の真っ最中。
聞けば、ボランティアが集まって障子の張替えをすることになっているのだとか。


武家屋敷は障子の張替え真っ最中


で、この障子張替えのボランティアというおじさんが大変に話好きの方だったようで、
いろんなことを教えてくれたですよ。


茅葺きの家は館林にはもはや2棟しかなく、この武鷹館ともう一つは田山花袋旧居 であると。
田山花袋 の家は昨日、見てきましたよ」と言うと、実にうれしそうにしておられる。


ボランティアのエネルギーは地元愛かと思ったですが、他から越してきて、
地元となった館林の歴史みたいなあたりを一所懸命に勉強されたそうで。
だからこそ、語って聞かせたい意識があるのかもです。


棟札が発見されていないので、正確にはいつ建てられたのかは不明ながら、
間取りや柱配りからして江戸後期のもので、

最後の藩主秋元家が館林に移封となる以前からの家臣が住まい、
何とその一族の方が何と!平成11年まで住んでいたというのですね。


それだけに茅葺きの古い外見ながらも、内部はかなりリフォームしてあったようす。
それを移築復元して、今の姿になったというか、戻ったというか。


武家屋敷の台所(復元)


いわゆる台所も三和土ではあるものの、妙に新しいのはそうした由縁なのですな。
実際に近年まで住まっていた人がいた当時は、
三和土を覆った板の間のお勝手とでもして使っていたのでしょう。
(母親の実家が、かつてそんなふうなリフォームをしたもので…)


武家屋敷の屋根裏


屋根の内側はこんな感じですけれど、現在は普段から人が住んでいるでもなく、
当然に竈を使って燻されるようなこともないので、茅葺きの傷み(虫がでるとかも)が早いようです。
やっぱり住まいには人が住んでこそでありますな。


厠の外側


それからちと臭い話になりますが、こんなところもちゃんと復元するのだなと思ったもので。
要するに厠の外側ですけれど、地面すれすれに小窓(?)が設えてある。
ま、若い方で何に使うか分からない場合は年配の方に聞いてみていただければと。


ところで、あれこれの話を聞かせてくれたおじさんの曰く、
秋元のお殿様は徳川家にとって関東に移ってからの家臣ながら勲功著しく、

家康 公から槍を賜り、これが資料館に展示あるんですよと。

「ああ、それも昨日、第一資料館で見ました」と言えば、またうれしそう。


ながら、その土地土地で幕藩体制最後の藩主となったお家よりも有名というか、

人気のある人もままいますよね、熊本の加藤清正 とか甲府の武田信玄 とか…てなことを言うと、

このおじさん、「武田信玄は別格でしょう!」とやや勢い込む。


おじさんは他から館林へ越してきたと言いましたですが、どうやら山梨ご出身のようで。

今は館林の歴史ボランティアとしてご活躍であるものの、

生まれ故郷の歴史はまた別扱いのようす。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの」なのですなぁ…。