日比谷図書文化館の特別展示室で開催中の
「千代田の坂と橋-江戸・東京の地形-」という展覧会を見てきたのですね。


「千代田の坂と橋-江戸・東京の地形-」展@日比谷図書文化館


かつて都立図書館であった日比谷図書館も千代田区に移管されて、
すっかりご当地ものの展示ということになりましょうけれど、そこはそれ、
千代田区は都心も都心でありますから、お江戸のど真ん中あたりの地形に関することと
受け止めればよいわけでして。


江戸という場所は西に武蔵野台地が広がり、東は低地で川も多く舟運の盛んな地域であった…
となれば、そこには台地から低地へと下る「坂」が多く、また川が多ければ「橋」も多い。
そんなところから今回の展示企画が浮上したのでありましょう。


たくさんあればあったでその中には、お江戸の名所に数えられるようなところも出てくるわけで、
歌川広重 による「名所江戸百景」の題材にも多々取り上げられておるそうで。


この「江戸百」と言われる名所図会ですけれど、実際には百を上回って全118点であり、
もしも安政五年(1858年)に広重が亡くなることがなければさらに増えていたろうという

人気のシリーズ。


その中に「坂などの起伏を描いたもの」が19点、

「堀や河川、江戸湾、橋など水辺を描いたもの」が82点、
なるほど「坂」と「橋」は人気スポットでもあったわけですね。


ちなみにこのシリーズは安政二年(1855年)にあった大地震の

翌年から刊行が始まったとのことで、描かれている江戸の町並みは復興途上でもあるそうな。
そうした目でもって「江戸百」を眺めてみるというのも、興味深い発見があるやもです。


ところで、「坂」や「橋」がお江戸の人気スポットたればこそでしょうけれど、
例によって人気度合いを反映して相撲の番付に見立てるてなことが起こってくるという。


江戸後期のものとされる見立番付 「橋坂渡シ案内」という展示をみますと、
東の方を「橋」で、西の方を「坂」でまとめた対決構図、
例によって横綱は別格として最高位の大関には「かたや、日本橋、にほんばしぃ~」、
「こなた、神楽坂、かぐらざかぁ~」てな具合。


関脇には両国橋と九段坂が入り、おそらくは周囲の賑わいの点で大関には敵わぬものの、
スケールの点ではいずれも大関を凌駕しているような気もしますですね。


特に九段坂は(先日に小川美術館 を訪ねて近くへ行ったこともあって)
東の低地と武蔵野台地を結ぶ大きな坂であるなと改めて思いますし、
やはりスケールの大きさは景観を愛でる場所ともなり、別名月待ち坂とも呼ばれたとか。


しばらく前に文京ふるさと歴史館で見た江戸切絵図には、
江戸市中の坂道でどっち方向が上りか下りかを矢印で示したものがありましたですが、
そんな表示が利便性を高める一助だったのでありますね。


で、今回見た展示によりますと、そうした切絵図の版元に近江屋という店があったそうな。
しかしながら、この近江屋、麹町十丁目にあって元は荒物屋を営んでいたのだといいます。


今の四谷に近く、ちょうどこの間通り抜けた番町文人通り にも程近いところだと思いますが、
あたりには武家屋敷が立ち並び、店に立ち寄る人たちは買い物に来るというより
「○○家の御屋敷はいずこ?」と道案内を求められるばかり。
そんなことならと地図に大名屋敷の場所を書き込んで売り出してしまったそうなのですよ。


九段坂から話が横道に入ってしまいましたけれど、今度は橋の方へ目を向けることに。
江戸時代の橋はもっぱら木造だったわけですが、これは火事ともなると焼け落ちてしまう。
ですから、明治になると石橋にとって代わられていくことになったようで。


されど、その石材の出所やいずく?となれば、江戸城のあちらこちらに設けられた出入り口、
ここに櫓を組んで設けられていた桝形門 を解体する際に出た石材を

再利用したのだそうでありますよ。


その最初期の施工例が明治6年(1873年)に完成した萬世橋。
元々の命名は「よろずよばし」だったそうなんですが、段々と「まんせいばし」との呼び方が広まり、
今では「万世橋(まんせいばし)」としてしか知られなくなっているような。
秋葉原のちと南側で神田川を渡る橋ですね。


この東京の元祖・石橋である萬世橋ですが、
建造に携わったのは何とあの通潤橋 を造った橋本甚五郎であったとは?!
そしてついでですが、すぐそばにあった万世橋駅も辰野金吾 の設計であったとは。


秋葉原で歴史を思うなんつうこともこれまで無かったですけれど、
(もちろん今ある万世橋はとうに代替わりしているとしても)
そんな歴史があったのだねえという見方をすることになりそうでありますよ。


…と、これまたこれからの街歩きに興趣を添える展示なのでありました。