練馬区の石神井公園ふるさと文化館で「富士山」展が開催されていると聞き及び、

ちょうど池袋まで読響の演奏会 を聴きに行く折でもあり、

その前に立ち寄るのにちょうどいいと出掛けてみたのでありました。


「富士山」展@石神井公園ふるさと文化館


ところで石神井と書いて「しゃくじい」と読みますが、

これは全国的に一般的な読み方でありましょうか。
「せきじんい」では読みにくいので訛って「しゃくじい」となったもかもですが。


と余談はともかくとして、何故練馬で「富士山」展なのかと言いますと、
「そりゃあ、人が呼べるからでしょ」と現に釣られた者が言うのはともかくとして
それなりに謂われはあるようす。


この文化館は都立石神井公園に隣接してますけれど、
その石神井公園の北側を東北東から西南西に通る道路がありまして、

この通りが「富士街道」と呼ばれているのですな。


吉祥寺からバスでもってアプローチするときにこの道を通って

「ほお、富士街道?!はて、いわれは?」などと思っていましたら、

展示に早速説明があったというわけです。


江戸期に大賑わいを見せた富士詣のメインストリートとして、

多くの富士講が通り「行者道」とも呼ばれたそうな。


ですが、何せ相手は富士山でいかようにも行きようがありそうなものですから、
そこらじゅうに「富士見」てな地名があるのと同様、

「勝手に富士街道」状態の道は他にもあるんでないの?と。


ですが、後から「富士街道」でネット検索してみますと、
どうもやはりピンポイントでこの練馬の道を指すようで、

そうなると俄かにありがたみが出てきたり。


江戸の時代には「ふじ大山道」(明治以降は富士街道)と呼ばれたそうですけれど、
府中で甲州街道と合流したようでありますね。その後は大月を経て富士吉田へ向かう。
江戸やその近郊からはだいたい徒歩10日間掛かる道のりであったそうですよ。


富士講 のことには以前も少々触れたことがありますですが、
もちろん信仰心でもって登るにしても、娯楽の少ない時代なればこそ富士のお山に参るとは
一大レジャーであったわけですね。


でもって、展示の方にもそのレジャー気分を高めるお楽しみ的なものが見られたのでして、
今で言えばスタンプラリーでありましょう。

富士のお山の一合目、二合目、三合目…といった区切りとなる場所や

お中道入口といった要所ごとでは朱印や焼印を頂戴できるようになったいたという。


朱印の方は布地か何かに押し貯めていったのでしょうか、その一方の焼印の方は
例えば富士講必須アイテムのひとつとも思われる金剛杖に押していったのだとか。
展示にあった金剛杖では何と!一本の杖に65個もの焼印が押してありましたですよ。

正にスタンプラリー状態…ですが、たくさん集めた賞品はひたすらに「自己満足」でしたろうけれど。


富士山の賑わいを別の側面から探るとすると、
嘉永三年(1850年)以前に作られたらしい「大日本名所旧跡数望」というものから知ることもできます。


「数望」は「すもう」の当て字で、要するに名所旧跡の番付表なわけでして、
堂々、東の最高位・大関(まだ横綱が特殊なものだった時代でしょう)に

富士山が座っているのですね。


東照大権現を祀り寺社も煌びやか、風光も明媚な日光が前頭ですから、

富士山の人気は圧倒的、それこそ双葉山か大鵬か…てなところ(古い!)でしょうか。


ところで、富士詣が信仰と同時にレジャーの対象(帰路には江の島に寄ったりするコースも)として
大きくクローズアップされてきたのは、どうやら噴火しないという安心感もあってのことかも。


近頃はまたいつ噴火するか分からないてなことが波状攻撃的に言われたりもしますけれど、
江戸近郊に被害を及ぼすような噴火があったのは宝永四年(1707年)で、
これを最後に富士山はおよそ鳴りを潜めた状態にあるようで。


この時の噴火口は富士山の南東側に大きなえぐれが見られる部分で、
展示解説に曰く「箱根では日中に火を灯さないと周囲が見えなかった…」てな感じであったとか。


万葉集にも「燃える火を雪もてきやし ふる雪を火もて消しつつ」と歌われているくらい

古くより長らく富士山は火を吹く山と怖れられていましたから、

富士に登るとは命がけの「行」でしたろうけれど、
それがどうもあんまり噴火しないとの安心感が漂うにつけ、

レジャー化は加速度的に進んだのかも。


世界文化遺産登録後の様子を考えると、これまた一大ブームの様相を呈しておりますですが、
個人的には富士山の文化遺産的側面に目を向けつつも登るつもりのない者からすると、
そろそろ富士山としても「いいかげん、静かにせいや」と怒りを露わにするやもしれんと思ったり。
もちろん、昨年の御嶽山のような被害は無しでお願いしたいところですけれど。