先に訪ねた小川美術館 は千代田区三番町というところにありまして、

九段坂を上り詰めたちょいと先を左に折れた裏道沿いなんですが、

要するに「番町」でありますね。


番町で思い浮かぶのは怪談「番町皿屋敷」でありましょうか。

幽霊が出てきて、「いちま~い、にま~い」と皿を数えるあれですね。


周辺のどこかには帯坂といわれる坂道があり、かのお話で悲劇のヒロインたるお菊さんが

髪を振り乱して、ほどけかけた帯を引き摺りながら駆け抜けた…との言われがあるのだとか。

怖い話は大の苦手で、かような言われを想像するだけでも夢見が悪くなりそうなので、

そちら方面には近付かず、違う道筋を通り抜けようということで向かいましたのがこちらでありますよ。


番町文人通り


「番町文人通り」。

近くの大通り、靖国通りは九段坂上から市ヶ谷に抜けて外堀を渡り…と進みますが、

その裏道にあたる通りでありまして、こちらの行き着く先は四谷ということになります。

(並行して番町学園通りというのもあるものの、これを行くと先ほどの帯坂に近付いてしまう…)


番町文人通り案内板

まずもって全体像でありますけれど、

こうした案内看板がちょうど中間くらいになって初めて出てくるあたり、

これでもって町おこしみたいな勢いはあまりない…と言ってようさそうですね。


だいたいからして、この道沿いは今では巨大に走ることなく、

それなりにどっしりと、それなりと瀟洒なふうの超高級(おそらく)マンションが立ち並ぶ場所柄。

ひと通りも車通りもほとんど無く、観光気分の人々を呼び込もうなんて

端から思っていませんよ的たたずまいでありますよから。


それだけに、そうなる以前の、「文人通り」の看板に「なるほど」と思えるたたずまいは

望んでも詮無いことでありまして、いわばロンドンでブルー・プラークを見つけて歩くといった、

スタンプラリーの類でもあるかのように臨んだのでありました。

その成果は以下のごとしということで。


川喜多半泥子旧居跡


のっけに登場したのが川喜多半泥子の旧居跡。

都内でもあちらこちらに「文士村」てな言い方のされるところがありますけれど、

ここは「文人通り」であって、いわゆる文士ばかりでなくって文化人のたくさん住まったところ…

ということなのかもしれませんですね。

お次に出くわしたのも、串田孫一旧居跡でありましたし。


串田孫一旧居跡


ここからはちと文士っぽくなっていきますですが、

かつてこの通り沿いの住まい2箇所に住まっていたというのが与謝野鉄幹・晶子夫妻でして、

こちらはそのひとつということになりましょうね。


与謝野鉄幹・晶子旧居跡


ご覧のように看板の形が特徴的ですから目に止まるたびに「あった、あった」と近付いて

写真を撮ったりしたですが、中には「どういう関わりが?」というものも。


明治女学校跡


看板を見れば「明治女学校跡」とあります。

明治女学校は卒業生として、自由学園を創設した羽仁もと子、

中村屋サロン で若い芸術家を支援した相馬黒光、そして作家の野上弥生子らを輩出し、

北村透谷、島崎藤村、津田梅子、内村鑑三といった歴々が教壇に立ったとなると、

文化人の旧居跡よりもむしろ、当時とその後の文化の担い手がこの通りを闊歩したのだなと

想像させてくれるところかと。


とまあ、ひとつひとつの旧居跡というだけでは「そうかあ」だったものが、
俄かにイメージが広がりますと、モノの見え方も変わるといいますか、気分に浸れるといいますか。


そうしたところへもってきて、(こう言ってはなんですが、先程来以上に)有名どころが登場すると、
盛り上がりのほども弥増すところかと。


有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡


看板には「有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡」と三役揃い踏みみたいなふうですが、
3人は兄弟でありますから、要するに父親が買った家に子供として住まっていたわけですな。


1896年(明治29年)のことだそうですから、いちばん上の武郎が18歳くらいですか。

年齢的には、先程の明治女学校で当時の先進的な教育を受ける女学生との交流があったのでは…
てな妄想を膨らませたくなるところですけれど、有島家が越してくる同年に
明治女学校は火災で焼け落ち、やがて巣鴨へ移転してしまいますので、

ニアミス状態であったかどうか。


ただやはり文化的香りを醸し出す雰囲気はあったのでありましょうね。

さて、通りも終わりに近付きつつあるあたりで、ふいっと右手の路地へ入ったところに
今度は島崎藤村の旧居跡がありました。


島崎藤村旧居跡


藤村は明治女学校の教壇に立っていたわけですから随分とまあ職住一致であったようで…

と思ったところが、藤村がこの地に住まっていたのは、

1937年(昭和12年)から6年間だそうですから、もはや最晩年。
もしかすると女学生に囲まれて過ごした教師時代を懐かしく思い、終の棲家にしたのでしょうか。


と、すぐ向こうには新宿通りが見えてこようかという文人通りの終点間近、
これまでの看板とは毛色の異なるものがひとつ目に止まったのでありますよ。


藤田嗣治旧居跡


画家・藤田嗣治の旧居跡ということでしたが、

この看板の扱いの違いはどうしたことなんでしょうね。
「文人通り」にとっては画家は異色なのか…と思っても、しっかり有島生馬の名前はありましたし。


理由のほどは判然としませんですけれど、藤田がここに住まったのは1937年から1944年頃まで。
となりますと島崎藤村が住まったのと同時期となるわけでして、何やら関わりがありましょうや。
藤村と藤田はパリで出会ってはいるようですが、

それ以上のことはこれまた妄想でカバーするしかないのかも。


ということで、尻上がりの盛り上がりとなった「番町文人通り」のぶらり。
最後に、その歩き始め頃に「こんなところにこんなものがあったんだね」と思ったものをひとつ。


バチカン法王庁大使館


見た目、単に大きな邸宅かと思えるこの建物はローマ法王庁大使館なのだそうで。
バチカンは確かに国であったわけですなあ。