夏目漱石小泉八雲 のことばかりになっている熊本話でありますけれど、

ここらでちいとばかし別の方向に。

次にやってきたのは、こちらであります。


徳富蘇峰・蘆花兄弟の旧邸①


案内柱には「徳富蘇峰・蘆花兄弟の旧邸(大江義塾跡)」とありますが、

すぐ右手には鉄筋コンクリート造(相当くたびれてましたですが)の徳富記念館があり、

全体で「徳富記念園」と称しているようであります。


で、旧邸の方ですけれど、明治5年(1872年)に徳富家が水俣から移り住んで以来、
明治19年(1886年)家族じゅうが東京へ出るに至るまで住まっていたそうで、
その間には当然に猪一郎(後の蘇峰)、健次郎(後の蘆花)の徳富兄弟も
この家で過ごしていたわけです(途中、同志社で学ぶために京都に出たりはしますが)。

徳富蘇峰・蘆花兄弟の旧邸②


しかしまあ、確かにそこそこ広い家ではありますけれど、
果たして「邸」というほどかどうか…。


旧制五高 の卒業生で劇作家の木下順二(代表作は「夕鶴」)は
処女作「風浪」に出てくる家のモデルをこの徳富旧邸としていたことが
近年判明したようですが、こんなふうに紹介されているのだとか。

しっかりした木組の農家を…買いとって建て増しした不格好な藁屋

今しがた「邸」というほどかどうかといった矢先ですが、
木下順二はまたずいぶんな言い方で。


ちなみに「建て増しした」というのは本当のことでありまして、
例えば上の写真では一番左側の奥まったところあたり(一番上の写真でも左端)は
由緒ある建て増しと申しましょうか。


なんでも明治5年に明治天皇が熊本に行幸されるにあたり、
行在所に厠を新築したそうなんですが、
これを蘇峰・蘆花の父、徳富一敬が払い下げを受け、
自宅に継ぎ足したのだとか。


この新築された厠は結局使われなかったそうなんですが、
むしろ使われていた方がより有難かったりしたのでしょうか…。


それはともかく、いずれにしても天皇行在所の一部でも払い下げを受けられたのは、
一敬が県の七等出仕(上級役人らしい)だったからということなんだそうです。


そして、一番上の写真で天皇の厠の右隣の棟の二階部分、これも建て増しだそうですが、
後に蘆花が小説「恐ろしき一夜」に書いた思い出話の場所であるそうな。


夜中に突然聞こえてきた騒がしい音、そして町のあちこちにあがる火の手、
幼い蘆花はここの窓からそれを眺め、すっかりおびえてしまったのだと。
まさに神風連の乱(1876年)が起こったときのことなのだそうです。

大江義塾はこんなふうだった?


こちらの様子は部屋の中を教室のように設えてますけれど、
先に熊本城 から細川刑部邸 へと向かう途中で見かけた「時習館跡」のところで触れましたように、
蘇峰は19歳で私塾・大江義塾を開くのでして、その教室として自宅を使っていた。
その再現でありますね。

徳富記念館


というところで記念館の方も覗いてみますと、
蘇峰・蘆花それぞれに詳しい年譜と資料が展示されておりました。
が、少々の違和感も。


以前、足利の織姫神社 前に建てられた碑を見たですが、
徳富蘇峰が書いた碑文からは国粋主義的な印象を受けたものでありました。


また、思い出してみれば昨年の大河ドラマ「八重の桜 」の中でも
雑誌「国民之友」を発刊し、国民新聞も創刊し…と言論人として
時代をリードしていった蘇峰の姿からは「ミスリードでは?」とも思ったりしたのですね。
同志社でに新島襄との子弟関係から築かれた思想は、そういうものだったのだろうかと。


一方で、やはりキリスト教的精神を持って、トルストイとの交流を図るようにもなる徳富蘆花
「国家主義的傾向を強める兄とは次第に不仲となり、1903年(明治36年)に…絶縁状態となる」
とは、Wikipediaにもあるとおり。


第二次大戦期に至るや、蘇峰は

あたかも軍国日本のスポークスマンでもあろうかというようになる。
ですが、記念館の年譜・展示にはこの辺りのことがすっぽり抜け落ちているようで、
活動・事績がすかすかの時期に見えるのですよね。
これが最大の違和感でありました。


ただし、一事が万事の見方ではなく、
戦後はひたすらその完成に取り組んだ「近世日本国民史」(全100巻)にみる

歴史家としての側面にも目を向ける必要はあろうなとは改めて思ったところでありますよ。