先に伊香保
で徳冨蘆花記念文学館
を訪ねたときから、
「東京にあるんだから、やっぱり一度は行ってみないとなぁ」と思っていた蘆花恒春園。
最寄駅としては京王線の八幡山、芦花公園、千歳烏山の
どこから歩いても15分(実際はも少しかかりましょうねえ)という
便利なんだか不便なんだかという場所柄でして、暑いさなかに歩き回るのをちと厭うておりましたら、
今になってしまいましたですよ。
で、取り敢えずは地図で見る限り一番近そうな気のする八幡山駅からアプローチしましたですが、
環八沿いに高井戸の煙突(件のゴミ戦争
に関わる杉並清掃工場です)の方向へ歩いていくと
やがて右手に緑豊かな一角が見えてくる、
これが今では都立の公園となっている蘆花恒春園であります。
蘆花が崇敬するトルストイをロシアに訪ねたのは1906年(明治39年)。
前年に日露戦争が講和に至ったばかりという中でのロシア行きはどんなものだったのか、
想像しにくいところがありますけれど、トルストイと数カ月を過ごして「農への回帰」を示唆されるのですね。
帰国後の翌1907年(明治40年)、蘆花は東京府北多摩郡千歳村粕谷に移り住み、
晴耕雨読の生活を始めることになりますけれど、それが今の蘆花恒春園ということになるようです。
以前触れたように蘆花は伊香保で亡くなりますが、
その没後10年に際して夫人から「蘆花を偲ぶ公園として公開する」との要望とともに、
この場所は東京市に寄贈され、現在に至っているとのこと。
かつては畑であったところが木立ち豊かな公園になっておりまして、
その中の北西部分に蘆花の旧宅が保存されているわけですが、ひと目見たときには「えっ!?」と。
こんなに古めかしいとは思いも寄らずというところでしょうか。
後から考えれば、個人的に時代錯誤を起こしていたなぁと思いますですね。
京王線でも少し先の仙川にある武者小路実篤旧邸(やはり記念館と公園がある)を
去年訪ねたものですから、場所が近いのと文士の住まいというだけで、
実篤邸のモダンさとの余りの違いに戸惑ったわけですが、
実篤がその邸に住んだのは1955年(昭和30年)からで、
蘆花が引っ越した1907年とは時代が違いすぎでした。
ところで、蘆花邸には無料で立ち入ることができるのですけれど、
引き戸の入口のところに「猫が入りますので、必ず閉めてください」とある。
なんだかのんびりした感じだなぁと。誰か常駐している人もいませんし。
ちなみに併設された記念館(資料館)も同様で、
ただで入れて勝手に見てくださいという状況。
そのわりにビデオ解説があったりして、決してチンケなものではありませんので、
やるじゃん!都立公園!といつになく持ち上げたりして。
とまれ、またしても日本家屋の味のあるところを垣間見た気がしてきましたですが、
お風呂はなんと五右衛門風呂!
こうだからこそ、蘆花は何度も伊香保を訪ねたのかなと思ったり。
また、畳敷きの部屋にいくつも寝椅子のようなものが見られたのは、
生前こういうふうに置かれていたというよりも、晩年の闘病生活を何やら偲ばせるものであったような。
伊香保で亡くなった蘆花は客死ということにはなりましょうけれど、
亡骸はこの地に戻ってきて、住まいのすぐ裏手の林が墓所となっています。
資料館の解説にもありましたように
山本久栄(山本覚馬の娘、新島八重の姪)との若き日の恋の苦悩を綴った小説
「黒い目と茶色の目」には心穏やかではいられなかったという蘆花夫人でありますが、
今は蘆花の傍らで共に眠っているのですね。
もはや笑いながらの思い出話に興じているのではないでしょうか。
ということで、久しぶりに「墓まいらー」ぶりも発揮してみた蘆花恒春園探訪でありました。