かつては足利が織物の町
であったと知ってみれば尚のこと、
観光ポイントのひとつに織姫神社が浮上してくるのも道理ということになろうかと。
元々、鑁阿寺から織姫神社に向かうつもりでいたわけでして、
同じ道を歩いている観光客らしき人たちを自転車で追い越したりしたわけですが、
どちらさまも織物伝承館は素通りだったようす。何だか勿体ないところですなぁ。
何しろ古えより伝わる機織りの神様を勧請して祀り、
織物の町・足利の守護神としたのが織姫神社の始まりとのこと。時に1705年。
以来、足利織物の繁栄も(そして没落も)見てきた神様なれば、
やはり足利織物の知識を仕入れてたどり着けて何よりであったと思うところです。
本殿はずいぶんと登ったところにあるようで石段がずうっと続いているのですが、
登り口の脇のところに大きな大きな石碑が建てられておりました。
「織姫神社造営碑」(刻まれた碑文を口語訳した解説板も隣接してあり)として
1941年5月に建てられたとありますが、地元の求めに応じて文章を書いたのは
徳富猪一郎(つまりは徳富蘇峰)とのこと。
1941年、昭和16年は12月の真珠湾攻撃によって戦争が一気に拡大する年であって、
そうした時期に天皇至上のもとの神州日本を筆舌いずれによっても大いに喧伝した蘇峰が
書いたとなれば、「日本の国は昔から神の国といわれています。万世一系の皇室があって
世界に例のない国体です」と始まるこの碑文は、複雑な気持ちにさせるものでありますね。
大河ドラマ「八重の桜
」をご覧になっていた方にとっての徳富猪一郎は
キリスト者である新島襄の教えを十分に受け継いだ人物にも見えていましたけれど、
日清戦争開戦前夜ともなると妙にいきり立ってしまっていた変貌ぶりが窺えたのではないかと。
太平洋戦争に際しての蘇峰の言動というのは、
そうした延長線上にあるのかなとも思ったところでありますよ。
…というところで、横道に逸れた話を元に戻しますと、
名残の紅葉などに目をやりながら石段を登っていく…と言うとすこぶる優雅ですが、
実のところはかなりの段数の急登にひいこら言っていたのが本当のところ。
やっとのことで本殿にたどり着いたと言った方がいいでしょうか。
元来は織物の神様ながら、足利に今やその守られるべき織物もなく、
現在ではもっぱら縁結びの神様として知られているようで。
余談ですが、織姫神社の御利益でもって願う相手との縁が結ばれたとして
後から「失敗した…」と思ってしまったら、何としましょう。
なまじ神頼みで結ばれた縁を徒や疎かにはしにくいところですが、
足利には門田稲荷神社がある!ということになります。
何でも京都・伏見稲荷、東京・榎木稲荷と並んで「日本三大縁切り稲荷」のひとつだそうで。
神頼みの縁は、神頼みで切ってもらう…そのいずれも市内で完了するとは、
足利の侮れなさのひとつかも(笑)。
ところで、ことさら縁結びの願い事もなく(縁切りも関係ないので門田稲荷は行ってない)、
登ってきましたのは高台で眺望よろしというのがどんなものかいねということなんですね。
改めて登ってきた方を顧みますと、これ、このような光景でありました。
渡良瀬川の水面が輝いて、絶景とは言わないまでも良い眺めではありませんか。
ですが、その水にも暗い歴史があるのはご存じのとおり。
織姫神社の下あたりにも用水が引かれていますけれど、
元はといえば渡良瀬川から引いてきた農業用水でありましょうね。
足尾銅山の操業によって汚染水が川に流れ込み、大きな被害を出した足尾鉱毒事件。
流域被害の拡大は渡良瀬川に沿って、そしてそこから引いた用水によってでもあったとのこと。
今も昔も渡良瀬川の水は濁りなく流れているのかもしれませんが、
一見何でもなさそうな水の中に、人体にも環境にも大きな影響を及ぼす成分が含まれていたら。
想像しただけでも、本当に怖いことです。
と、戦争の話やら公害の話やら縁切りの話やら
めぐる思いはあれこれあれこれという、織姫神社詣でありました。