熊本城天守閣 を背にして頬当御門を潜り、西出丸を抜けますと、

ほどなく広い広い芝生の広場に行き当たるでして、ここらがかつての二の丸ということに。


熊本城をさらり廻った後には

この二の丸広場のはずれにある熊本県立美術館を覗いてみようとのが当初の目論見でしたが、

どうにも美術館を見て回っている十分な時間は残っていない…。


さらに、熊本城のどういうものかを知らずに入場券を買うときには、

ついついセット券なんつうのに目が行ってしまい

「熊本城・旧細川刑部邸共通入場券」なんつうものを購入してしまったがために、

県立美術館の前を通り越してさらに先にある刑部邸まで、

せかせかと進むことになってしまったのでありました。


熊本城から旧細川刑部邸への道のり


今ではすっかり「原っぱ」状態の二の丸跡ですけれど、

通り抜けて行く際には、ここもやはりお城の一部という名残が感じられます。

例えば、こうしたものに目がとまるのですね。


時習館跡


時習館、つまりは肥後熊本の藩校ですけれど、

教えていたのは「儒学中心の道徳、社会、人生に対する知識及び武術であった」そうな。


ここで学んだ人たちの中には、大日本帝国憲法の起草に関わった井上毅、

細菌学者として有名な北里柴三郎なんかもいるという。

そして、影響力という点では横井小楠でしょうか。


私塾を開いたときの高弟に徳富蘇峰・蘆花兄弟の父親がいて、

思想家として見識を広く持つ点が父親を通じて蘇峰にも受け継がれたか、

蘇峰は何と19才にして私塾・大江義塾を開くに至るのですが、これは後のお話。


と、またしても脱線しとりますが、熊本城二の丸跡の芝生を横切って、

さらに三の丸を取り囲む周回道路(かつては濠であったのですかね)を越えると、

旧細川刑部邸に到着となります。


旧細川刑部邸への道


といっても、入口の長屋門は木立ちの下に続く長い石畳の先。

特段の期待もありませんでしたですが、

何やら期待を持たされているような気にもなってくるところではないかと。


旧細川刑部邸 長屋門


ところで、細川刑部とはそも何者?ということになりますけれど、

肥後熊本を長らく治めながら、どうも加藤清正の後塵を拝している感のある細川家の一族でして、

加藤家改易を受けて熊本藩主となった細川忠利の弟、刑部少輔興孝のこと。


ちなみに忠利の祖父が細川藤孝(幽斎)、その息子で父が細川忠興ですから、

母親は明智光秀の娘、玉(細川ガラシャ)でありますね。


それはともかく、何せ藩主の弟ですから元々屋敷は城内にありましたですが、

明治4年(1871年)熊本城に鎮西鎮台が置かれると、城内の屋敷は退去を迫られ、

下屋敷に移り、これを本邸の格式とすべく修繕を加えた…というのが、この邸なのだそうな。


それだけに熊本藩主の一族としての面目をかけて、造ったのでしょうね。

ただ、時代はすでに明治になって、あまり豪壮というふうでもなく、また極端に巨大でもなく…。


もちろん、立派なお邸でしたですので、

改めて玄関からお邪魔してちいとばかし中の様子をば。



旧細川刑部邸 玄関


旧細川刑部邸 表書院


旧細川刑部邸 春松閣銀之間



こう言ってはなんですが、今から比べると全体的に暗いですよね。

電気の灯りが無い時代であれば、尚のことであったと思われますが、

それでもより日の差す部屋を何するか、より日当たりの悪いところに何をおくか、

十分に考えられていたのでありましょうね。


旧細川刑部邸見取図

電気で灯りを得られることを前提にすれば、広い敷地の使いようも異なるのでしょうけれど、

それが叶わぬ中での工夫と苦労のあとが偲ばれるところでありましたですよ。

全体的に細長かったり、中庭的なものが設けられているのも、

日当たりを考慮してのことでありましょう。



ひと渡り眺めた後の帰りがけ、

受付の人に「熊本県立美術館は何時まで開いてますか?」と一応尋ねてみたですが、

「もう閉っているかと…」という、何とも申し訳なさそうな返答が。


熊本城でもそうでしたけれど、

熊本の観光施設の人たちは「おもてなし」マインドに溢れている気がしました。

それは、その後に訪ねたあちらこちらでも決して裏切られることはなかったのでして、

そのあちらこちらの話がこれから続くことになるわけでありますよ。