X(旧Twitter)を眺めていると、フォローしている方が合氣道師範のお言葉botなるものリツーイトされていて、その言葉が刺さりました。

 

合気道 多田宏師範のお言葉 bot
@tadahiroshibot 
”自分が常に「集中状態」であることが大切。対象をよく観察しているけれど、それに囚われない状態。つまり、自分で自分をコントロールできる状態であること。”
 
”「集中状態」は考えてなれるのであれば楽だが、考えてもなれない。まず、呼吸法でよく氣を練って、エネルギーを豊富にすることが必要。”
 
”初心の時につく癖で一番注意しなければいけないのは何か。相手に対して恐怖心を持つとか、恐れるとか、相手の状態を測る習慣がつくこと、対象に囚われる習慣がつくことだ。それらがついてしまうと、直すのは非常に難しい。
 

 

ヨーガのメディテーションにも相通じるものがありますね。

瞑想状態になっても、様々な想いが浮かび上がってきます。

それに囚われると集中できない。

とくにネガティブな想いに囚われそうになる。

 

そのためには「集中」が必要。

 

呼吸も大切。

 

エネルギーを感じることも。。

 
鬼滅の刃でも「全集中」って言いますねw
 
 
最後まで読んでいただきありがとうございました。
 

個人メールはGmailを使っていますが、溜まる一方。

フリーで使える量は15GBですけど、すぐに一杯に。

写真のほか、メールも圧迫する原因。

まずは、ジャンクメールの削除を自動化しようと。。

 

まぁ、それこそググってみるといいのがありますね。

(イマドキならChatGTPでさがすのがよいかもw)

 

 

アクセス権限でエラーでればこちらで確認

 

 

これで一安心

 

ゴミ箱を空にしたら、かなりスッキリします。

 

過去の写真の削除は探してみましたけど、、なさそう。。

Google photoで削除するのはほぼ一つ一つ削除する感じなんで面倒。

やはり、Googleサン サブスクにしてほしいからかなw

 

クラウドに預けておくのもいいのですがね。

なんかいやなので削除する方向で考えています。

 

時々、勝手に自動バックアップ機能がオンになるのなんとかならないですかね。。

その度に警告が出てしまいます。

 

まぁ、これが彼らのやり口だと、認識していますがねw

 

とはいいつつ、Googleサンには大変お世話になっておりますwww

 

先週、初めて「能」を観に行きました。

観た演目が初めてとしてよかったのか、悪かったのかはわかりません。

 

ただ、日本の芸術の神髄を垣間見ることができたような気がします。

観る者の解釈の幅は大きく、観る者の価値観を揺さぶるかもしれません。

 

個人的な見解であることを先にお伝えします。

 

どうも、西洋の芸術は、ある程度、価値観を押し付ける帰来があります。

キリスト教的価値観というか、、

人間とはこうあらねばならない的な。。

もしくは、悩みどころを露わにして、そのまま放置。

そして、合わぬものを否定していく。

 

いろいろな演目を観たわけではないので一概にそうとは言い切れないものはありますが、この演目を観て、私が思った感想を述べてみたいと思います。

 

物語は単純。

貴族が旅の途中で遊女に会い、逢瀬を重ねて、遊女は貴族に恋焦がれる。

また会うことを約束する。

会えないことに、狂おうしく、何事にも手を付けられない。(接客もままならないw)

店から追放される。

さらに思いは激しくなり、、ついには狂ってしまう。

それでも形見の扇は手放さす、また会うまでと思い詰める。

そして年月が経ち、会うことができた。

貴族はその成れの果てをみて最初は気づかなかったが、舞う踊りのなかで扇をみて、あの時の遊女とわかる。

そして、お互いにあの逢瀬の人と認識して、改めて扇を交わす。

 

それを1時間半という時間の中で、表現するのです。

 

利害を考えると、いろいろな解釈できますよね。

 

だいたい、一回逢瀬を重ねたぐらいで本気になる?

貴族の戯れを真に受ける?

なんで、そこまで恋焦がれる?

よほど、いい男だったのか?(いろんな意味でw)

遊女としては、これが這い上がるチャンスとみたか?

貴族も、いい顔したいし、扇でもやるか。だけかも?

また戻り道で会えればいいや。と思ったかも?

まぁ、いい女だからキープしておこう!と思ったかも?

といいつつ、氣になるから、遊女の消息を家来に探させてみたんだよねー

 

考えると下世話な考えがもたげてきますね。

 

ほんと、ドライに考えると、ドラマにならないw

結果でないし、再会で終わりなんで。。

 

ただ、その舞はなぜか、素晴らしいと感じました。

 

舞台の遊女と貴族、特に遊女の微妙な感情の揺れ動きを見事に演じたと感じました。

連れないと思っている相手に対して、形見の扇を微妙に震えながら広げて舞う。

そこには様々な感情を読み取ることができるでしょう。

 

舞自体は、静の世界。上下の動きはほとんどありません。ゆっくりと動く。

囃子と唄は、状況にあわせて、ゆっくりだったり、早くなったり。

動きは静。

音楽は動。

このバランスは能ならではと思わせます。

そこに、、なんともいわれぬ、、エネルギーが蓄積される、、

それが、なんという感情なのか。。

どう開放したらいいのか???

開放できぬ、苛立ち、想いの叶わない状況のストレス。

 

 

「能」は、ストーリーを完結せず、その場、その一瞬を、懸命に表現することで、どんな状況であれ、一瞬の状況の大切さを表してるのではないかと思った次第。

 

その一瞬に、人間の美しさ、刹那さ、はかなさを表現することで人間の根本というものを訴えているのかもしれません。

 

人生はドラマかもしれません、時には人から狂って見えるかもしれません。

 

それでもそれぞれの人生において一所懸命に生きている姿は美しいといえるのが、日本の美、人生観なのかもしれません。

また、それを許容してる世界を持っているのが日本なのではないでしょうか?

 

 

イマドキ、すぐにお金に換算することが多く、大きく換算したものが得をしていると思っている世界ですが、、このような世界もまた、容認していける世界を維持していくことが求められているのかもしれません。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

よければ、こちらものぞいてみてください。

 

 

 

昨日、クラシックを聴きにサントリーホールへ。

 

2カ月ぶりぐらいですか、リアルにクラッシック音楽の生演奏。

 

ダイナミックレンジの広さは、部屋では味わえない感覚ですね。

 

今回の演奏は、格別によかったです。

 

 

ブルックナーのロマンティック。

ブルックナーらしく、煌びやかで、弦楽器、金管、太鼓がバランスよく共鳴していきました。

 

 

楽譜、って、音符が書かれています。

音の大きさ、ピッチ、繰り返し、あの一冊の楽譜に、多くの楽器のコードが書かれていて、数十分もかかる音楽をぎゅっと凝縮している訳です。

 

それをマエストロの指揮にあわせて、音符の一つ一つを拾って、楽団員がそれぞれの楽器を紡ぎ、響かせてる。

時間という感覚の中で、一音、一音鳴らす。。

そこに、連続性と共振、共鳴が発生し、美しい音楽となります。

 

楽譜は、単に音符を記述されているだけ。

でも、そこに楽器を奏でる楽団員が連続性を表現する。

一音、一音集中し、その間にある時間と空間をいつのまにか埋めていく。

 

なんだか、、人の人生に通じるものがあるような気がしました。

 

おそらく楽団員にも様々な人生をもっていて、いろんな悩みや喜びも持ち合わせているでしょう。

それが、この場、この空間の中で、一致して音を響かせている。

そこには、さまざまな想いが乗っているかもしれません。

でも、全体として美しく響いているのです。

それが観客を魅了するのです。

 

 

一人の人生の中にも喜怒哀楽はあります。

社会全体としても喜怒哀楽もあります。

そこには、共鳴して美しい世界があります。

 

見方だけかもしれません。でも、

 

世界は美しい。

 

さまざまな想いを混ぜると美しい響きとなるのではないでしょうか?

ネガティブな話題がメディアからバンバン流れてきますが、それは受け流し、全体として美しく共鳴している社会を感じ取ることが必要なのではないかと思います。

 

今回、コンサートを聴きながら、いつの間にか、メディテーション状態になってしまいました。

上質な音楽の中に身をゆだね、その響きを感じながら、ずっと内なる自分へ没入する感じ。。。

アジナーチャクラあたりが、とくに響いて(共鳴している?)いると感じましたね。

 

すべての音が回りを包んでいますが、それさえも、だた美しく周りで鳴り響く。。。だけ。

 

不思議な感覚を味わいました。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

メディテーションクラスでの出来事。

 

最近は夜よく眠れるようになって、メディテーションのクラスで、メディテーション中に眠くなることはなくなっていたが、昨日は、やたらと眠く、、

睡魔との闘い。

身体が前後に揺れる。

 

意識の集中はそれなりにできているが、氣を失いそうになる。

 

そしていると、コツン。

 

”あ、眠そうなのバレてる”

 

先生にもアジナーチャクラ辺りを2回も突かれ。。

 

”やべーぞ。意識を集中しなければ!”

 

どうやったら、睡魔に邪魔されず、意識を集中できるか試行錯誤。。

(これがダメっていうひともいますがw)

 

身体が重い、、

意識として、身体を緩める。

背中、、

首、

蝶形骨、

と緩めてみる。

まだ、眠い。

 

意識を第8チャクラへ持っていき、、身体から一旦意識を外してみる。

一瞬、いい感じかと思えば

また、睡魔。。。

 

あれやこれやとやっている内に、ふと身体がかるくなる。

 

そして、もっと深く集中。

後半は、ずっとメディテーションが深くできる感じとなりました。

 

べつにどこにも意識せず、ただ、あるがまま。

 

チャクラも氣にせず、、、ただ、あるがまま。

 

肉体の感覚より、ただ意識だけ。。

 

メディテーションが終了して、、

 

先生より、、

 

「開いていたよ。はっきりと。ただ、もっと光がほしいな。」

 

「といわれても、自分はまったくチャクラ意識できなかったし、感じてもなかったですけど。」

 

「いいんですよ。。それで。。意識しないほうがいいかもしれません。」

 

その後、いろいろ会話させていただき、、

 

ヤーマ・二ヤーマ

 

を心がけるようにと。

 

 

 

 

こういう会話ができるのは幸せです。

おそらく、自己流でやっていると、わからない感覚ですし、

客観的に自分自身を観ることはなかなか難しい。

 

先達のご指導が、あればこそ。

 

さらに精進しようと思いました。

秋になってきましたが、この秋には一つグレードアップすることを目指します。

 

しばらくもやもやしていることもありましたが、このような先達の言葉は、励みになります。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。