人類の行き着く先はどこなのだろう。
科学はどんどん進歩するし、ギネスは次々に更新されていく。今週は、科学の今後の発展について考えてみる。



コーヒー
チャーハン
肉じゃが



マトリックスという映画がある。有名すぎるので説明は不要であろう。
もちろんフィクションであるが、将来的に世界はあのようになるのではないかと思う。
具体的に、交流はほとんどが仮想空間で行われるようになるだろう。



理由はいくつかある。

地球温暖化の原因と考えられている物の一つに、車の排気ガスがある。これを無くすためには車に乗らなければいい。車に乗らないために、移動が必要なくなればいい。じゃあ仮想空間で生活しよう、というのが一つ。

もう一つは世界中とより繋がることができるからだ。
同時翻訳で言語の壁もなくなるし、物理的な距離もデータの通信でほとんどゼロになるだろう。



しかし、こう言うと必ず反論する者が出てくるだろう。
そんな物は人間らしいコミュニケーションではない。

彼らは彼らの倫理観に敵った物を人間らしいと言っている。
だが、人類は幾度となく倫理的でないことをして、成長してきたのではないだろうか。

人間らしさとは、頭を使うことだ。人間は強くなるために頭を使う。
科学を悪者のように言う人はどうかしている。
科学は幸せを作る手段で結果なのだ。どんなに否定しても、人類は科学によって幸せになったのだ。
その発展を阻害することの方が、よっぽど人間らしくない。



誰が何と言おうが、科学は発展するだろう。
何十年か後には、想像できない未来があると思う。


我を忘れる瞬間がある。
我を思い出す瞬間がある。
隅の方で蔑む自分を見つけては、誰にともなく謝るのだ。




ミートソース
唐揚げ



私に限らず誰もがきっと、自分をコントロールしている。
恥ずかしい所は見られたくないし、優秀すぎる部分も見せたがらないものだ。
そうして誰もが、本当はやればできるのだけど見られたくないからやらないだけなんだ、なんて考えながら生きているかもしれない。

私がそうだ。

面倒くさがって何もやらないでいるうちに、出来ないこととやらないことの区別がつかなくなってしまう。
学問なんかよりも自分自身のことを考えるべきだ。



私は何が好きなのか
私は何が嫌いなのか
私はどうしたいのか
私はどう考えるのか



自分のことが分かるのならば、周りのことなんて考えなくてもわかるはず。関係というものは自己の中にしか作れないからだ。
この考え方であれば、世界は自分の中にある、といえるだろうか。



回りが見えなくなったとき、それはベクトルが大きいときだ。向きはどこだっていい。楽しくても悲しくても我を忘れてしまうものだ。
そうだと気付いたとき、人は急に恥ずかしくなってしまう。なぜか

小さな頃は人前で泣き、喚き、喜ぶ。
どうしてそれを辞めてしまうのか
なぜ素直でなくなろうとするのか



世の中はどんどん便利になる。
それはまるで、どんどん不便になる人間とバランスをとっているかのようだ。


データを知られるのが嫌だ。
氏名、生年月日、性別、血液型、住所、免許、資格
身体、趣向、思考、交友、家族、過去
隠せるものは何でも隠す。
それが私なのでありました。



雑煮
うどん
キムチ鍋



集中したい時に集中できているだろうか。
私は気が散りやすいので、意識して集中するようにしている。
例えば、話しているとテレビに集中できない。テレビを見ていると話に集中できない。
頭が良い人というのは(一握りの天才を除いて)集中ができる人かもしれない。



集中とは、意識のベクトルの殆どを任意に操ることであろう。
つまり余計なことを意識から外した状態だ。



例えば、数学の問題で
何故そうなるかを逐一考えるよりは、ただ機械的に公式に当てはめた方が速い。
そして、公式を導出する時には人間的な飛躍した発想が必要になることもあるだろう。
適材適所ともいうだろうか。必要なときに必要なベクトルを発揮する柔軟な思考が秀才の条件だと思う。



もちろん、テレビと会話の例もそうだ。
さすがに会話を0にしてしまったら人間関係に亀裂が入りかねないが、それぞれの重要度によって4:6だったり7:3だったり割合を変えることに集中するべきなのだ。いや、集中の割合を変えるべき、かな。



限定的な条件の元では集中できる人も多いだろう。私はその部類だ。
私の場合、明確なゴールと一歩分の道があると決まっている場合でなければ集中できないと思う。
つまり、なんらかの問題の解決だ。
道が見えない時、つまり手段が分からないときや、ゴールが無いとき、すなわち目標が分からないときには、集中しようと意気込んでも無駄骨に終わってしまう。



大切なのは使い方
人間が道具を使う動物であることを誇りに思っているのなら、自身の集中力くらい道具として使うことが出来て然るべきだ。
使うというのは、TPOに関わらず必要な時に必要なだけ、という意味

何でも同じ
道具に悪意はないが善意はある。
罪もないが罰する形を持つものもいる。
使い手が望んだら応える、希望の働きをするのが道具

しかし、人を殺せる道具を嫌悪する人はいるものだ。
悪いのは誰か
道具か、作った人々か
そしてそんな時代のせいか
時代を構成する歯車の一つ一つだろうか



集中して考えてみよう