その4 母の最期
入院後主治医から検査結果を聞いた。転移は進み、特に肝臓はCT画像で見てもほとんど真っ黒だった。
「ここ2・3日が山場だと思います。」
山場、それは死期という意味だった。しかし、なぜか山場を乗り越えて容態が安定してきた。安定しているうちだけだからと自宅への外泊を勧められた。母には「仮退院」などと言って喜ばせた。実家は集合住宅の3階。エレベーターなどない。私は母を背負って上がることにした。痩せて軽くなったとはいえ、人一人背負っての階段はきつかった。幸い私の足腰はスポーツによって人並み以上に鍛えてあったので、なんとか上がることができた。最後の一段でよろけそうにはなったが。母を背負ったということで以前悔やんだ「迎えにいってやるべきだった」という思いが少し和らいだ。
その日は母の誕生日だった。ケーキを用意し、夕食は寿司をとった。病院ではほとんど食べ物を口にしなかったようだが、一口ずつ食べた。もちろん周囲を気遣ってのことだった。母が不在の実家は荒れ放題だったので、寝る場所だけをようやく確保してその日を終えた。そして翌日病院へと戻った。
それから約2週間、容態は多少の変動はあるものの安定していた。主治医からはふたたび外泊を勧められた。「弱らそうとしているのでは?」という疑念を持ちつつも、今度は私の家に連れて行った。私の家なら落ち着いて看病ができるからという理由で。2泊を想定して病院から飲み薬や座薬をもらった。
「無理しないでくださいね。」
看護婦さんたちは心配そうに送り出してくれた。情けないことに病人の扱い方がわからないからと、看病は妻にまかせっきりにしてしまった。途中、薬の与え方で病院に電話することはあったが、なんとか2泊過ごすことができ、病院に戻った。
病院の思惑通りってことはないだろうが、その後は容態が悪化した。骨折もした。「何をやっているんだ」と病院の対応に怒りを覚えたが、理由を聞くと骨まで癌が侵攻しているので自然に折れたそうだ。そのときはもう母は眠ったままだった。そしてその日の夜中の2時に電話が鳴った。
「親戚など親しい人を呼んでいただいたほうがよろしいかと・・・」
ついにその時はやってきた。親戚に電話をして、すぐに病院へと向かった。すでに父は来ていた。テレビドラマで見る風景である。親戚が続々と集まってきた。父が何度もベッドのフレームを叩く。昏睡状態の母を起こそうとしているのであろう。あるいは奇跡を起こすつもりだったのか。しかし、奇跡は起こらなかった。夜はすっかり明けていた。最後まで粘り強く生きた。使い方は違うが、この半年、そして今日この数時間、往生際ということばが頭に浮かんだ。そして母は静かに息を引き取った。
そのあとはめまぐるしい展開が待っていた。自分たちで出す初めての葬式。とりあえず、それだけはと調べてあった葬儀屋に電話をし実家へと向かう。あとはすべてが初体験の連続。比較するのはおかしいが、結婚式と似ている気がした。祭壇、棺桶、花輪、等々すべてを選ばなくてはならない。葬儀屋の“普通”、父方親戚の“普通”、母方の“普通”、ご近所さんの“普通”。たいていは食い違っていた。実は、父は長男、母は長女ということで、こんなとき親戚を仕切るのは母の役目だった。その母がいないのだから親戚たちは、みな歯切れが悪い。それでもどうにか決めて葬儀が始まった。父は酔っていた。母の旅支度さえ手伝えなかった。葬儀中何度も「バカヤロウ」を繰り返した。誰も声はかけられなかった。多くの人は泣いていた。63歳という年齢はとうぜん早すぎる。私だけが平然としている気がした。それはそうだ、この一ヶ月そう近くはない病院に通いつめ、この2・3日必死に走り回ったのだ。葬儀の最中がむしろ、やっと落ち着いていられる場だということだ。参列者は多かった。生前の母はいろいろなところで人の面倒を見ていた。ともすれば家庭のことは顧みず的な印象すらあった。そんな生前をしのぶに余りある多数の参列者と涙の数だった。
すべてが終わり実家に祭壇をセットして自分の家へ戻ることにした。父のことは心配ではあったが寝る場所のない実家にいつまでもいるわけにはいかない。母の遺骨を実家においておく以上はそうするしかない。まわりからは薄情に思えただろうが父を残して家へ帰った。その後の2・3日は役所や生命保険、年金などの手続き関係に追われた。人一人がいなくなることの大きさを実感した。
「ここ2・3日が山場だと思います。」
山場、それは死期という意味だった。しかし、なぜか山場を乗り越えて容態が安定してきた。安定しているうちだけだからと自宅への外泊を勧められた。母には「仮退院」などと言って喜ばせた。実家は集合住宅の3階。エレベーターなどない。私は母を背負って上がることにした。痩せて軽くなったとはいえ、人一人背負っての階段はきつかった。幸い私の足腰はスポーツによって人並み以上に鍛えてあったので、なんとか上がることができた。最後の一段でよろけそうにはなったが。母を背負ったということで以前悔やんだ「迎えにいってやるべきだった」という思いが少し和らいだ。
その日は母の誕生日だった。ケーキを用意し、夕食は寿司をとった。病院ではほとんど食べ物を口にしなかったようだが、一口ずつ食べた。もちろん周囲を気遣ってのことだった。母が不在の実家は荒れ放題だったので、寝る場所だけをようやく確保してその日を終えた。そして翌日病院へと戻った。
それから約2週間、容態は多少の変動はあるものの安定していた。主治医からはふたたび外泊を勧められた。「弱らそうとしているのでは?」という疑念を持ちつつも、今度は私の家に連れて行った。私の家なら落ち着いて看病ができるからという理由で。2泊を想定して病院から飲み薬や座薬をもらった。
「無理しないでくださいね。」
看護婦さんたちは心配そうに送り出してくれた。情けないことに病人の扱い方がわからないからと、看病は妻にまかせっきりにしてしまった。途中、薬の与え方で病院に電話することはあったが、なんとか2泊過ごすことができ、病院に戻った。
病院の思惑通りってことはないだろうが、その後は容態が悪化した。骨折もした。「何をやっているんだ」と病院の対応に怒りを覚えたが、理由を聞くと骨まで癌が侵攻しているので自然に折れたそうだ。そのときはもう母は眠ったままだった。そしてその日の夜中の2時に電話が鳴った。
「親戚など親しい人を呼んでいただいたほうがよろしいかと・・・」
ついにその時はやってきた。親戚に電話をして、すぐに病院へと向かった。すでに父は来ていた。テレビドラマで見る風景である。親戚が続々と集まってきた。父が何度もベッドのフレームを叩く。昏睡状態の母を起こそうとしているのであろう。あるいは奇跡を起こすつもりだったのか。しかし、奇跡は起こらなかった。夜はすっかり明けていた。最後まで粘り強く生きた。使い方は違うが、この半年、そして今日この数時間、往生際ということばが頭に浮かんだ。そして母は静かに息を引き取った。
そのあとはめまぐるしい展開が待っていた。自分たちで出す初めての葬式。とりあえず、それだけはと調べてあった葬儀屋に電話をし実家へと向かう。あとはすべてが初体験の連続。比較するのはおかしいが、結婚式と似ている気がした。祭壇、棺桶、花輪、等々すべてを選ばなくてはならない。葬儀屋の“普通”、父方親戚の“普通”、母方の“普通”、ご近所さんの“普通”。たいていは食い違っていた。実は、父は長男、母は長女ということで、こんなとき親戚を仕切るのは母の役目だった。その母がいないのだから親戚たちは、みな歯切れが悪い。それでもどうにか決めて葬儀が始まった。父は酔っていた。母の旅支度さえ手伝えなかった。葬儀中何度も「バカヤロウ」を繰り返した。誰も声はかけられなかった。多くの人は泣いていた。63歳という年齢はとうぜん早すぎる。私だけが平然としている気がした。それはそうだ、この一ヶ月そう近くはない病院に通いつめ、この2・3日必死に走り回ったのだ。葬儀の最中がむしろ、やっと落ち着いていられる場だということだ。参列者は多かった。生前の母はいろいろなところで人の面倒を見ていた。ともすれば家庭のことは顧みず的な印象すらあった。そんな生前をしのぶに余りある多数の参列者と涙の数だった。
すべてが終わり実家に祭壇をセットして自分の家へ戻ることにした。父のことは心配ではあったが寝る場所のない実家にいつまでもいるわけにはいかない。母の遺骨を実家においておく以上はそうするしかない。まわりからは薄情に思えただろうが父を残して家へ帰った。その後の2・3日は役所や生命保険、年金などの手続き関係に追われた。人一人がいなくなることの大きさを実感した。