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その5 父の新しい生活

 母が亡くなったのが11月。それから翌月が四十九日、次が百か日、春の彼岸、新盆と、それまでの生活には無縁だった法要がどんどんやってくる。そのたびに父のところへ行った。法要がなくても月に一度は顔を見に行った。大晦日と正月は我が家で過ごさせた。本当は同居したほうが良いのだろうが、父がそれを望まなかった。
「同居してもいいけど、それならお酒とタバコはやめてもらわないと。」
と私が言った言葉が効いたようだ。私はタバコは吸わない。お酒もほとんど飲まない。せっかくの新居をタバコで汚させる気はない。お酒も程度しだいだが、酔っ払いの相手はしたくない。そんな私との暮らしよりはひとりが気楽と考えたのだろう。今まで家事や身の回りのことすべてを母に押し付けていたので心配ではあったが、「少しはお母さんのありがたみがわかる」と親戚たちは私のやり方を認めてくれていた。
 60歳をとうに過ぎ年金をもらっていた父だったが、父の実家が小さな会社を営んでおり、その当時も従業員として働いていた。祖母が社長、従業員はすべて父の兄弟。みな「もういい年なんだから」と引退を勧めていたが自分勝手な父は「俺は働く」と言って聞かない。母が亡くなったことでさすがに給料は大幅に減額された。約10万円。それでも口座に振り込まれる年金は公共料金の引き落とし分のみ使って、あとは貯めることができた。給料は食費や趣味のパチンコには充分だったようだ。
 そんな父の新しい生活パターンが定まりつつあった8月、父は倒れた。倒れたと言っても自分の足で病院に行き、そのまま入院したという。脳梗塞だった。
 前の日、それまでずっと取引してきた得意先が取引中止を言ってきたそうだ。その晩は納得がいかず酒量がいつもより増した。それで二日酔いだと思っていた。出社はしたものの「具合が悪い」と言ってごろごろしている父を見て、社長である祖母が病院に行くことを勧めた。そのタイミングがリミットだったのかもしれない。叔父から父の入院の知らせを聞いて病院に駆けつけた。父はベッドに座ったいた。状況を説明する父の口調は酔っているかのように、ろれつが回らない。ぞっとした。あと少し遅ければ寝たきりになっていたかもしれない。最悪命がなかったのかもしれない。まあ、そのとき死ぬことと、それからの苦悩の日々を生きること、どちらが幸せかはわからないが。とにかく手足はうまく動かせない状態だった。それから入院生活は約一ヶ月間続いた。
 回復は目覚しかった。手術はせずに血栓を溶かすための投薬治療。その順調な回復振りは、医師も目を見張るほどだった。退院時には、片方の足だけ動きが多少不自然ではあったが、注意してみなければ倒れた人には見えないほどに回復していた。さすがに仕事は引退することを受け入れた。仕事中にまた倒れるわけにはいかないというのが、さすがに本人にも納得できたようだ。となると生活費は年金だけでやりくりする必要がある。母の生前は、貯蓄ができない母をなじるだけで家計はノーチェック。自身のパチンコ用小遣い3万円ですら一ヶ月持たないことがしばしばあったと聞いている。通帳は私が預かることにした。
「年金が月約10万、公共料金が約5万だから、月の生活費は5万円だね。」
と言って、「月に一度我が家に来て一泊し、生活費を持って帰る」というのを基本パターンと定めた。
「たまにはお前のところに行ってお酒を飲まない日にしたいから。」
と本人もそのパターンで納得した。「通帳持ってると使っちゃいそうだから」というのも理由にあげていた。給料は10万円程度だったので、それを生活費に充てていたのに比べれば半減したことになる。だが、なんとなくそれでやっていけると思っていた。目安として一週間1万円。一日千五百円。お酒やタバコにどれだけかかるかは私にはわからなかったが、食べるだけなら充分である。食べたければお酒やタバコ代を節約せよというのが私の主張である。とうぜんパチンコなどやる余裕はない。まあ、やりたければ節約すればいい。我が家だってローンを払いながら一家4人での生活、父に小遣いをあげられる余裕はない。私の小遣いだって月1万円だ。父を遊ばせるために働いているのではない。それでやってもらわなくてはならない。
 しかしそううまくはいかなかった。重大な見落としがあった。いや、気づいていながら無視しようとしていたのだろう、父の趣味はパチンコしかなかったということを・・・