ring.48 エニケイ | 魔人の記

ring.48 エニケイ

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正文は這い上がる。
非常階段を這い上がる。

飾り気のないコンクリート床から続く固い階段を、這いずって上がる。
階段の角は少しばかり丸くなっているが、そこに当たる彼の体をいたわるようなことは一切ない。

上がれば上がるほど、打ち身に似た痛みが前腕やすねを中心に全身へ広がる。

「…俺、が…守る……んだッ…!」

太く大きな体を持つ正文にとって、階段を上がるという行為はただでさえ運動量が多い。
這い上がれば、それが何倍にも増す。

事実、彼の顔は汗にまみれ、全身の筋肉は熱をはらんでいた。
しかしその胸中には、骨まで凍るほどの恐怖がある。

「うっ、ううぅっ」

正文は何度となく震えた。
体は暑さを感じるのに心は寒い。

それでも彼は、階段を這い上がる。

(俺が、俺が…! あの白猫を守るんだ……!)

自分を三度も死の淵から救い出してくれた白猫を守るため、痛みと疲労と恐怖を押して進み続ける。
顔をゆがめ、両手を前へ出しては先の段を自身へと引き寄せる。

正文にとってそれは、世界を引き寄せるのと同義だった。
苦痛が彼の心身をすみずみまで蝕み、多大な覚悟と理由を要求する。

(……俺が、ここへ来たのは……)

彼は苦痛から要求されるまま、そしてそのことに気づかぬまま新たな理由を心に浮かべた。
新たなとはいっても、時間軸としては過去のものである。

(俺がここへ来たのは、α7に脅されたからだ…蛇の力をメギたちにバラすと脅されたから……)

蛇の力についてひとりで抱え込んでいることがバレれば、きっとメギたちに怒られる。
正文はそれをひどく恐れていた。

(メギたちは、俺が『人間としての死』を食い尽くしたことを知らない。人食いのバケモノ・チグサレとして、アンチェインドたちを食ってきたことを知らない…)

彼は歯を食いしばる。

(俺のことは、『ミカガミに迷い込んだケガ人で自分たちが助けてやったヤツ』くらいにしか思ってないんだ。そうじゃなきゃ困る)

唇のすぐ横を、玉のような汗が流れ落ちる。

(俺はメギたちに助けてもらった。長沼さんに刺された脇腹を治してもらった。もしみんなに会えなかったら、俺はもうとっくに死んでた)

汗が流れ落ちた先は、コンクリート床と同じ灰色を持つ階段である。
階段に黒いシミができた。

(多分、普通の治療じゃない。メギたち『七不思議』の中に、医者っぽいのはひとりもいなかった。俺が鎖の力に目覚めたのも、脇腹の傷を埋めた『何か』が作用してる。それだけじゃない…)

正文は汗の行方など見ていない。
ただひたすらに、自身が到達すると決めた上を見ている。

(人間としての死を食い尽くせたのも、その『何か』のおかげなんだ。蛇の力や左目を作り変えられたこと、死に戻りも含めて…今俺が生きてることの何もかもが、その『何か』から始まってる)

そうでなければ説明がつかないと、彼は考えていた。
だからこそ彼は、メギたちに自分の変化を悟られたくなかった。

(メギたちはきっと、俺が今も人間のままだと思っているだろう。治療したから普通の人間ではなくなったけど、それはちょっと毛が生えたようなもので人間社会に戻るのに支障はない…そう思ってるはずだ)

しかし事実は異なる。

(俺は完全に、バケモノになった。人間じゃなくなった)

人間としての死を食い尽くした正文は、8匹の蛇を従える力を得た。
ただし、蛇たちを使役し続けるには莫大かつ特殊なエネルギーが必要となる。

それを確保するために、彼は人間を何度も食った。
直接口で食ったわけではなく蛇たちに食わせたわけだが、それを彼は『自分で直接食ったも同じ』と考えていた。

普通の生活を送ってきた者であれば、人間から化物に変わった自身について大いに悩んだことだろう。
果たして正文はどうであったか。

(俺は別に構わない)

正文には、人間をやめたことに対する負い目など微塵もなかった。
その思い切りは確固たるもので、階段を這い上がる苦痛がほんの少しではあるもののやわらいだほどだった。

生態においても倫理においても、彼は人間ではなくなってしまったのだ。
そこには彼なりの事情がある。

(俺の人生はめちゃくちゃだった。それをどうにかできる力が手に入るのなら、自分が人間かどうかなんて大した問題じゃない。それに俺が食う相手は、俺と同じ人殺しだけだ。共食いなら自然界でもよくある…でも)

逆接の言葉が、正文の中に苦痛を呼び戻す。
その先について彼は考えたくなかったが、考えなければ先に進めないような気がしたため、言葉にして心に浮かべる。

彼は、苦痛が要求する『行動するための理由』を、それと知らずさらに差し出した。

(メギたちは、いやな気持ちになるかもしれない)

正文は食いしばりの力を強める。
聴覚が少し閉じるような感覚と、ほのかな耳鳴りが発生した。

(自分たちが治療したせいで、俺が人間じゃなくなってしまった…メギたちはそう考えるかもしれない。いやな気持ちになったり、つらい思いをするかもしれない。そう考えると俺は……いてもたってもいられなくなる)

重たい気持ちが、彼の胸を満たす。
目には新たな涙がたまる。

この涙は、恐怖とは別の感情に由来するものである。
頬を伝い落ちると、汗と同じく階段に黒いシミを作り出した。

(みんなは何も知らなくていい)

正文は、涙の行方も知ろうとしない。

(俺はずっとひとりだった。そんな俺に、みんなは手を差し伸べてくれた。一緒に遊んでくれたんだ…心から笑える瞬間を何度ももらった。そんな子たちに、いやな思いなんかさせたくない)

その時、前腕の骨が階段の角に当たった。

「うぐ!」

骨から激痛が走る。
激痛は恐怖を増幅し、涙を恐怖に由来するものへ戻す。

それでも正文は進む。
非常階段を這い上がる。

(だからα7にバラされるわけにはいかない…! だから俺は、ここに来たんだ)

彼は、苦痛が要求する『理由』を心で言い終える。
この時にようやく、19階と20階の間にある踊り場にたどり着いた。

「はあ、はあ、はあ……んっ」

正文は荒く呼吸しながら、這い上がるため前へ出していた両手を重ねる。
そうやって高さを出したところへ額を置いた。

両手を重ねたおかげで、突っ伏しても鼻がコンクリートの床に押しつけられることはない。
ただし、コンクリート特有の臭いからは逃れられなかった。

(くさい…)

もちろん彼としても、そんな臭いなど嗅ぎたくはない。

だがあまりの疲労ですぐには動き出せなかった。
とにかく今は、呼吸を整えたかった。

動けない正文をよそに、彼の後ろ、または下で黒いシミがうごめく。
じわじわと階段を流れ落ち、同じように流れ落ちてきた別のシミと結合する。

結合するほどにシミの面積は広がり、19階に下りる頃には黒い川のようになっていた。
黒い川は正文が這いずり始めた地点へと向かい、そこにある鉄球を少しずつ大きくする。

「…っく、はあ、はあ…っ」

踊り場にいる正文には、それがわからない。

瞳が縦長になった彼の左目は、嫌というほど階段のコンクリート臭を感知している。
だというのに、黒いシミの動きどころか鉄球の存在さえわからずにいた。

(い、いつまでも休んでられない……!)

正文は意を決して顔を上げる。
踊り場から20階への上り階段を目指し、左へ動こうとした。

しかし這いずっての方向転換は、前進よりもさらに運動量が多い。
これが彼に決断を促す。

(もう立ってしまおう!)

正文は両手の重ねを解くと、踊り場の床を全力で押した。
上体が床から離れる。

次に右ひざを曲げ、上体と床の間に右足を入れ込んだ。
入れ込んだ右足を支えにして体を起こしつつ、左足を追従させる。

彼はこの時、恐怖の極限体たる赤黒いヒルの存在を忘れていた。

苦痛の要求に応じて『理由』を差し出した時に、重たい気持ちが胸中を満たした。
その余韻がまだ残っているところへ、呼吸による肉体的疲労の回復が重なったためである。

正文はついに立ち上がった。

「おっとと」

立ち上がったはいいものの、体がふらつく。
倒れないよう、彼は右にある壁に手をついた。

(転んだらやり直しだ。気をつけて進もう)

正文はゆっくりと歩き出す。
当然ながら這いずるよりも楽に進める。

だがこの『楽さ』は、『付け入る隙』でもあった。

「ううっ」

赤黒いヒルが、正文の胸中に舞い戻る。
よくも忘れてくれたなとばかりに激しくうごめき、彼の心をえぐった。

(くそっ…俺はまだ、乗り越えられないのか)

自分の心だというのに、思い通りにならない。
正文はいらだち、壁に当てた手を握り込む。

(くそっ!)

彼はいらだちにまかせ、握り拳で殴るかのように壁を押した。

この勢いを利用し、壁際から離れる。
頼りない足取りで踊り場を歩いていく。

さらに体の向きを左に90度変え、階段の内周を走る手すりに取りつこうとする。
その時、左目の視野が下り階段と19階を映した。

「えっ!?」

正文は何かに驚き、声をあげる。
思わず立ち止まってそちらを見た。

「…あれ…?」

19階には何もない。

(おかしいな…)

19階には何もなかった。

(今なんか、一瞬……黒い川と球……みたいなものが見えた、気が…)

正文は軽く首をかしげる。
体の中で最も重い頭が動いたことで、バランスが崩れた。

「うおわっ!?」

彼は下り階段の方へよろける。
転げ落ちるわけにはいかないと、足を無理やりに手すりへ向かって進めた。

うまく両手でつかんで止まれれば、どんなによかっただろう。
しかし、正文の足に踏ん張る力など残ってはいない。

彼は体ごと手すりにぶつかるしかなかった。

「いで!」

正文は、およそ勇ましさの欠片もない悲鳴をあげる。
ただそれでも、下り階段を転げ落ちるのはどうにか防いだ。

「はあ、はあ……」

彼は必死に呼吸し、自身を落ち着かせる。
それからあらためて階下を見てみたが、19階にはやはり何もない。

黒い川と鉄球どころか、正文の汗と涙が作ったシミさえも消えてなくなっていた。


その後、正文は手すりを利用して階段を上り、20階に到達した。
甲03と戦った階へ戻ってきた。

21階への上り階段には、破壊された家具が押し込められている。
状況としては前に来た時と同じだったが、今の正文は別の感想を持った。

(手がでっかくなったのを見てから予想はしてたけど、やっぱりこれ…甲03の仕業だったんだな)

甲03の特別な能力『フィスト』は、殴打の瞬間に手の大きさを変えることで衝撃の伝わり方をコントロールできる。

壁を背にした正文の体をつぶしながらも、壁は傷つけない。
そのような芸当ができるのなら、家具を破壊するなど朝飯前だと正文は感じた。

(壊した家具で俺を誘導して…タブレットの動画を見るように仕向けたのも甲03だ。かなり大がかりな作業だったはずだけど、下野に操られてるから『ご主人さまの役に立った』くらいにしか思ってないんだろうな…)

正文は苦い表情で首を左右に振る。
一度ため息をついてから、非常階段を後にした。

フロア内へ続くドアを開けて中に入る。

(上がってきた時点でなんとなくはわかってるけど、実際どうなんだ…?)

正文は左目で慎重に調査した。
結果はほぼ即座に出た。

(誰も…いない…)

彼の左目は甲03のにおいも熱も感知しなかった。
敵はどうやら別の階へ行ったようだ。

この事実を知った瞬間、赤黒いヒルのうごめきが止まる。
正文の中から恐怖がある程度なくなった。

(甲03は今までにない感じのワープをしてきた。だから油断はできないけど…油断してもしなくてもあれだけやられたからな、とにかく今は……)

彼は別の反応に意識を集中させる。
それは白猫の血痕だった。

血痕はエレベーターホールに続いている。
その場所は、正文が甲03にやられた因縁の場所だった。

(……アイツを追いかけないと!)

正文は残った恐怖を振り払い、20階フロア内を進み始める。
一刻も早く白猫を見つけなければというあせりからか、彼は壁に手をつけなくとも歩けるようになっていた。


→ring.49へ続く

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