ring.47 レワロノ | 魔人の記

ring.47 レワロノ

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正文は、20階への非常階段を見ている。
ひとつの段につきほぼ一滴ずつ、小さな赤い血痕が落ちている。

(そんなはずはない)

三度目の死に戻りを果たしたことで、彼の体は甲03と戦う前の状態に戻った。
縦長の瞳を持つ左目と簡易眼帯で覆われた右目は、同じ方向を見ている。

左目の力が、血痕の元となった血液の持ち主を正文に教えている。

(そんなはずはない…!)

彼は何度も否定した。
心で否定した。

口から声は出なかった。
出せなかった。

(…そんなはずは、ない…だってそうだろ!?)

正文は、上り階段の1段目にある血痕に向かって心で訴えかける。

(この血があの猫のものだとか…そんなはずはないんだ! だってアイツは、アイツは……ケガとかしないタイプの、アレで…)

心で言いながら、彼はおそるおそる顔を上げた。
上り階段の2段目以降にも、血痕が続いている。

(ウソだよ、そんなはずはない)

正文は首を横に振った。

(あの猫はさあ、『そういうの』の外にいるタイプのヤツだろ? なんていうか…)

どう例えるべきか、彼は脳内で言葉を探す。
その答えを見つけると、表情が少しだけ明るくなった。

(…そう! コメディー映画とか、ギャグ漫画に出てくるヤツでさ! 何があったって次の瞬間には元の姿でヘラヘラ笑ってるような…そういうタイプのヤツじゃないか! そうだろ!?)

正文は、言葉の最後にありったけの力を込めて問う。
しかしそれは、声にならない。

声にならないということは、空気すら震わせられなかったということである。

心でどんなに力を込めたところで、この世界には何の影響もない。
階段に落ちた血痕は何も、彼に返答しない。

(そんなはずは…ない……!)

正文はなおも否定する。
上り階段に足をかけることもせず、ただ心で否定し続けている。

彼は前進できずにいた。

その原因は、20階での戦闘である。
階段の先に甲03がいると思うと、胸の中で何かがうごめく。

それは赤黒いヒルのようなもので、蛇ほどの太さを持ちながら蛇よりは短い姿をしている。
胸を切り開いたわけでもないのになぜ姿がわかるのかというと、正文はその正体を知っているからである。

(…そんなはずはない……ッ!)

彼の中でうごめく赤黒いヒルとは、先に克服したはずの恐怖だった。
甲03による圧倒的な暴力が、正文の中に新たな恐怖を植えつけたのだ。

この新たな恐怖と、彼がかつていじめられた記憶が結びつき、赤黒いヒルとなって胸の中でうごめいている。

(なんでだよ! 俺はもう勝ったはずだろ!?)

うごめきの軌道は、左右の肺を含む心臓の周囲である。
何度か体の外へ向かうこともあるが、当然ながら感情が物体として空気中に飛び出すことはない。

ただその代わりとして、正文は言いようのない嫌悪感を覚える。
嫌悪感は叫び出したい衝動に変化するのだが、体が硬直しているため声を出せない。

つまり彼は、恐怖で叫び出したいにも関わらず、恐怖のせいで叫ぶことができずにいる。
その結果として赤黒いヒルはいつまでも胸の中から消えず、うごめく力を強める。

(なんで……思い出すんだ…?)

赤黒いヒルがうごめいたあとに、正文をいじめた者たちの姿が浮かぶ。
残像のように、何人も現れては消える。

男女の別はなく、誰もがいやらしく笑っている。
彼らは、どんなにひどいことをしても正文が仕返しできないことを知っているのだ。

今はもう会う手段すらない面々であり、昔の記憶だというのは正文も認識できる。
だというのに、過去のことだと切り捨てることができない。

(まるで呪いだ……!)

正文は震え上がる。
一度でもいじめられた者は、恐怖に呪われるのだと思い知った。

克服したつもりでいても、それは『つもり』でしかない。
きっかけさえあれば何度でも蘇り、心身を蝕む。

白猫の安否を気づかうなら、正文は今すぐにでも階段を上らなければならない。
彼自身もそれを十分にわかっているにも関わらず、行動に踏み切れない。

(蛇の力を手に入れて、怖いものなんかなくなったと思った…少なくとも、いじめられた時のことは忘れられた。でもそれを取り上げられて、甲03の強さを見せつけられて……俺は今、怖くてしょうがない)

正文は動けない。
前に進むことも、後ろへ戻ることもできない。

(怖くても、行け…!)

潜在的な恐怖を打ち破ったやり方で、正文は自身を鼓舞し進もうとする。
だが、赤黒いヒルがそれを許さない。

(ううぅ)

心臓周りの肉を食い破られるかのような嫌悪感が、じわりと正文の感覚を侵食した。
足から力が抜け、彼はその場でひざを折る。

コンクリート床の上に座り込んだ。
床の固い部分と骨がぶつかり、痛みが発生する。

「ぐうっ」

正文はうめき声をあげつつ、そのまま這いつくばった。
恐怖で心が弱くなったせいで、痛みに耐えながら座るということができなかった。

手や前腕が床にぶつかり、さらなる痛みが加わる。
痛みは恐怖を増幅させ、赤黒いヒルのうごめきをさらに大きくする。

(うぐぅう…! わかってるのに……行かなきゃいけないってわかってるのに……!)

正文は這いつくばった体勢でコンクリート床を見ている。
もはや顔を上げることすらできない。

(俺のせいなんだ)

彼はまぶたを閉じる。

(アイツが…白猫がケガをしたのは、俺のせいなんだ……! 俺が何度もやられたもんだから、受け止めきれなくなって血を流して…!)

歯を食いしばる。

(助けにいかなきゃいけないのに、俺は怖くて怖くて動けない…! 力を手に入れて恐怖なんて忘れたつもりだった。ここで戦って恐怖を乗り越えたつもりだった! でも全然そんなことはなくて……)

脂汗が顔から滴り落ちる。

(なんで…なんで思い通りにいかないんだ! 恐怖なんか感じなくていい! 怖いなんて思わなくていい! そんなもの何の役にも立たないのに…俺はなんでそんなものに支配されて……)

正文は頭を下げ、両手でそれを抱え込む。
赤黒いヒルはますます激しくうごめき、そのあとにいじめた者たちの姿を無数に作り出す。

自分に落ち度がなかったにも関わらず甲03に完敗したというショックが、彼をここまで追い詰めていた。

(もうどうしようもないのか?)

正文は自身に問いかける。
そうしながら、心の中に現れ続ける『いじめた者たち』の姿を見ようとする。

鎖の拳を発現させた時のように、敵が他人を苦しめておきながら自由を満喫していることに強い嫉妬を覚えれば、まだなんとかなるかもしれないと本能的に感じたのだろう。

しかし、今の正文にはもう『いじめた者たち』を正視する余裕すらなかった。

(俺はもうだめなのか?)

彼は否定することも忘れ、さらに問う。

(人間だった頃は、ろくなことがなかった。親に自由を奪われ、周りのヤツらからはいじめられた。人間じゃなくなってからも、恐怖という呪いに縛られて何もできずにいる…)

全身の力が抜ける。
このままコンクリートの床に沈み込んでいくのではないかという感覚に襲われる。

(なんなんだ? 俺は一体なんなんだ? 俺は俺なりに、いい人間でいようと努力した。でも努力した結果何が残った? 何も残らなかった。みんないなくなったし、全部なくなった)

心の中から、全てが消えていく。
正文が家族や友人、恋人だと思っていた者たち全員が、彼に背を向けて去っていく。

誰かのために心を砕いてもそれは報われず、ただ心が砕けただけで終わる。
正文はひとり、闇の中に取り残される。

(みんないなくなった…全部なくなった……)

何もかもが消滅した。
嫌悪感と『いじめた者たち』すらもなくなった。

孤独という名の絶望が、正文を包み込む。
見向きどころか認識する者さえいない。

(…ああ、そうか…)

正文は気づく。
絶望の中に納得を見つけた。

(俺が報われないのは、誰も俺のことを見ようとしないから…じゃない)

それはさながら、ひとひらの葉がどこからか舞い込んできたかのようだった。

(報われたいと思うからだ)

彼は闇を感じる。
誰もいなくなり、全てがなくなった暗黒の虚空を、両目で凝視するかのように感じ取る。

(『これだけ努力したんだから報われるはずだ』と…俺が思うからだ)

正文は、闇の中でひとりうずくまる自分を感じる。

どんなに声をあげても、誰にも届かない。
どんなに手を伸ばしたところで、何にもさわれない。

ただ、自分自身だけがいる。
そういった心象風景を、彼は感じている。

(違うんだ)

正文は否定する。

(報われるために何かをするんじゃない)

さらに否定を重ねる。

(『俺がそうしたいから』そうするんだ)

否定に次ぐ否定が、正文の中に答えを削り出した。

その時である。
赤黒いヒルが絶望に侵入し、うごめいた。

それは正文が出した答えを無遠慮に踏みつけ、そのあとに『いじめた者たち』の姿を再び浮かび上がらせる。

(…怖い)

恐怖は消えない。
呪いがなくなったような実感はない。

答えを出したところで、強くなった気はしない。

「ああ…怖いなあ」

それでも正文は声を出した。
震えるばかりだった唇から、自らの意志で声を出してみせた。

「怖いよ、めちゃくちゃ怖い」

(全然変わりゃしない)

「怖い……」

(他のみんなはとても強くて、恵まれてて…俺が出した答えなんか最初から知ってる)

「…それでも」

正文はまぶたを開けた。
コンクリート床にできた脂汗の跡を見てすぐに、顔を上げる。

(『俺はこうしたいから』、こうする…!)

彼は20階への上り階段に手を伸ばした。
闇の中では何にもさわれなかったその手が、階段の1段目に触れる。

「……守る……」

大きく重い体を引きずって、前に進む。

「…守る…んだ……」

1段目に乗り上げる。

「あの、白猫…を…守る……!」

恐怖のせいで立ち上がることすらできないまま、さらに進む。
少しずつ階段を這い上がる。

(ケガしてるから、アイツはきっとかまってほしくないだろう。ほっといてほしいはず…だから会いに行くわけじゃない)

涙が、正文の頬を伝う。

(甲03みたいなヤツが、血のあとをたどってアイツを見つけたりしないように……)

「……俺が守るんだ」

涙に混じって、汗も流れ落ちた。
それらは同じ水滴として、コンクリート床に黒いシミを作り出す。

(守ったからって何かあるわけじゃない。俺が3回もやられたせいで、アイツはもう死に戻りポイントとしての役目は果たせないだろう。だから血を流してる…でも、だからこそ)

「今度は…俺が、守る……ッ!」

正文は声に力を込めた。
いまだ立ち上がれないにも関わらず、心は恐怖にまみれているにも関わらず、自らの意志で胸の奥に火を入れる。

だが彼は気づかない。

コンクリート床にできた黒いシミが、進行方向とは逆に伸びていく。
それは暮れゆく太陽が作り出す影のようだった。

その黒はやがて、正文が這いずり始めた地点に黒い球体を作り出す。
蛍光灯の光を受けて細かな凹凸が現れた表面は、鉄でできていた。


→ring.48へ続く

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