般若波羅蜜多心経について書いています。

過去ログはこちらから。

般若波羅蜜多心経①【20240605】 | ジルのうつ日記 (ameblo.jp)

般若波羅蜜多心経②【20240606】 | ジルのうつ日記 (ameblo.jp)

般若波羅蜜多心経③【20240608】 | ジルのうつ日記 (ameblo.jp)

般若波羅蜜多心経④【20240609】 | ジルのうつ日記 (ameblo.jp)

 

続きです。ここから少し仏典教義のような趣に変わっていきます。

 

(菩提薩埵)→ぼーだいさった。菩薩さまたちは…。

 

(依般若波羅蜜多故)→えはんにゃはらみったこ。般若波羅蜜多(智慧の修行、悟りの修行)をしているがゆえに。または、智慧の完成に安んじて、と書いている参考書もあります。要は、菩薩さまたちは、悟りを開いているが故に…といった感じでしょうか。

 

(心無罣礙)→しんむけいげ。心にこだわりが無い。心を覆われることが無い。迷いが無い。悩みが無い。そもそも迷ったり悩んだりすることも無いのだと思います。

 

(無罣礙故)→むーけいげこ。心にこだわりが無いから。心を覆うものが無いから。迷いや悩みが無いから。

 

(無有恐怖)→むーゆーくーふー。恐れも無い。恐れることも無い。あーだこーだと心が揺らいだりして心が休まないことが無い。

 

(遠離一切顛倒夢想)→おんりいっさいてんどうむーそー。転倒した認識の世界から遠く離れ。顛倒した心を遠く離れて。物質的な拘りがある認識の世界から遠く離れて。本来、物質的な世界も無く、認識の世界も無く、すべて空である。本来はそう感じ、考えるべきなのに、我々人間は物質的な世界があると考え、認識の世界があると感じる。そんな顛倒した世界からは一切離れている。そう言いたいのだと思います。

 

(究竟涅槃)→くーきょーねーはん。安らぎの境地(涅槃)に達している。永遠の平成に入っている。顛倒した世界からは一切遠く離れて、菩薩さまたちは安らぎの場所にいる。

 

(三世諸仏)→さんぜーしょぶつ。三世(過去、現在、未来)の仏たちは…。

 

(依般若波羅蜜多)→えはんにゃはらみった。般若波羅蜜多(智慧の修行、悟りの修行)により…。智慧の完成に安んじて。我々が現実世界と思っている世界から遠く離れた般若波羅蜜多の世界にいるので…。

 

(得阿耨多羅三藐三菩提)→とくあのくたらさんみゃくさんぼーだい。完全なる悟りに達する。この上ない正しい目覚めを覚り得られた。

 

「阿耨多羅三藐三菩提」は、もう仏教用語で、anuttara samyak saṃbodhiの音写。仏の悟り。一切の真理をあまねく知った最上の智慧。真理を悟った境地。(阿耨多羅三藐三菩提(アノクタラサンミャクサンボダイ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp))。

 

ここまでは菩薩さまたちの悟りの境地の説明。

 

身も蓋も無いですが、菩薩さまたちは悟りの境地(般若波羅蜜多)にいるので、人間世界とはまるで違う世界にいて、我々人間の悩みや迷いから隔絶された世界にいる。

 

二項対立をことごとく否定していたのに、人間界と仏さまたちの世界は違うのかい!とツッコミをいれたくなるのですが、まぁそうなんでしょう。

 

人間であるがゆえに人間の認知の壁は超えられない。目の前のパソコンの質感、画面の感じ、キーボードの感触、扇風機の風、座っている椅子がお尻に当たっている感じ、足を組んでいて左足の腿の上に右足の腿裏が当たっている感じ、首が痛い感じ、少し眠い感じ、夕飯を食べた後、少し胃がもたれる感じ、息をする、心臓が動いていることを感じる…、すべて物質的な世界の感覚。

 

こんなものがすべて無い、ということが悟りの境地だと思うのですが、悲しいかな人間の感覚がある限り、そこの壁はどうしても突破できない。

 

でも、生まれた瞬間の赤ちゃんは、こんなことは思ったり感じたりはしていないと思うんですよね。

 

人間は成長していく毎に、自我と周囲を分けて識別していく。それはある種、人間が生きていくうえで必然の能力で、それが無ければ他者(母親)とのかかわりも無いし、食べ物を識別することもできない。

 

これはある種、人間の業(宿命)のようなもので、そうでもしない限り、死に至るわけです。

 

しかし、般若心経は不生不滅と言っていて、その生き死にも無いと言っているわけなので、まぁ顛倒した世界(人間の感覚とは真逆の世界)の話なんですよね。これは人間の感覚がある限り、やはり分からないのだと思います。

 

そして、般若心経の最終盤を迎えます…。

 

人はその悟りの境地に行けるのでしょうか…。