今日から数回に分けて般若波羅蜜多心経について書いていこうと思います。

 

まずは原文から。

 

般若波羅蜜多心経 唐三蔵法師玄奘訳
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是

舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色

無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界

乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖

遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪

是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚故

説般若波羅蜜多呪
即説呪曰

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若波羅蜜多心経

参考元:wikipedia

 

 

では、ジルの読み方で行きます。

 

(般若波羅蜜多心経)→はんにゃはらみったしんぎょう。ここはそのままのタイトル。本のタイトルみたいなものですかね。

 

(唐三蔵法師玄奘訳)→とうさんぞうほうしーげんじょうやく。かの有名な三蔵法師が訳したんですね。般若心経は、元はサンスクリット語で書かれていて、その音を漢字に当てているのですが、とても良い当て字をしていると思います。

 

ここから本文に入ります。

 

 

(観自在菩薩)→かんじーざいぼーさつ。よく菩薩様とか仏様のことを言いますが、まさにその仏様のことです。菩薩様が~というところでしょうか。

 

(行深般若波羅蜜多時)→ぎょうじんはんにゃはらみったじ。般若波羅蜜多はいわゆる修行のこと。悟りを開くような深い深い修行をしているとき、というところでしょうか。私のイメージとしては、仏様が瞑想している状況で、大きな宇宙と言いますか、無限の空間の中で永遠の平穏の中にいるようなものと捉えています。

 

(照見五蘊皆空)→しょうけんごーおんかいくう。五蘊とはいわゆる五感(見る、聞く、感じる、におう、味わう)で、五蘊はすべて(みんな)実体がない(空)であることを悟った(照見)、という意味だと思います。要は、人間が感じたり、味わったりするものは単に人間だからそういう風に感じるけど、実はそうではないのだよ、ということです。

 

ここは結構根幹で、例えば、自転車は自転車の形はしているけど、分解していくと、ハンドル、車輪、椅子、サドル…と分解されます。

 

それをさらに分解していくと、ハンドルは鉄の筒、車輪はゴムなど…と分解されていきます。

 

そして、それをさらに分解していくと、ハンドルは鉄、ゴムは炭素…と分解されます。

 

そして、さらに、原子、電子、中性子…、今はそのさらに先まで分解できると言われています。

 

では、私たち人間は何を見て、何を感じているのでしょうか。

 

上のように、自転車は自転車の形をしているから、自転車と認識しているだけで、実は細かな原子の集まり(さらに細かなものかもしれない)で、単に細かな原子の集合体なのです。

 

私たち人間は、でも、自転車を自転車と認識してしまう。

 

痛みも感じてしまう。痛みだって、単に神経伝達物質が身体の中を動いているだけなのに。

 

(度一切苦厄)→どいっさいくやく。菩薩さまはその認識の縛り(苦しみ)からは解放されて、悟りの境地にいる。

 

今感じていること、考えていることは実体がないものなんだよ、と本当の意味で理解している。

 

…ということなんだと思います。

 

 

序文にしてこんな感じ。

 

さて、われわれ人間は悟りの境地に至れるのか、至れないのか。

 

般若心経は続きます…。