般若波羅蜜多心経について書いています。

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般若波羅蜜多心経①【20240605】 | ジルのうつ日記 (ameblo.jp)

般若波羅蜜多心経②【20240606】 | ジルのうつ日記 (ameblo.jp)

 

 

続きです。

 

(舎利子)→しゃーりーしー。シャーリープトラよ。

 

(是諸法空相)→ぜしょほーくーそう。これすなわち、この世のすべての存在するものは空(実体がない)ということなのだ。前の「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是」を受けての言葉です。

 

(不生不滅)→ふーしょーふーめつ。生じることも無ければ滅することも無い。ここから、無い無いモードに入ります。ここは、生まれるとか死ぬ(滅する)とかも無いよ。生死の境なんてものもないんだよ、と説いています。人は生/死という二項対立や区別することを知らず知らずのうちに学び、意識し、苦しみます。

 

(不垢不浄)→ふーくーふーじょう。汚れることも無ければ綺麗になることも無い。人は醜い、美しいと分けます。あの人は美しい、あの人は醜い。あの花は綺麗、あの花は何か変。あとは、こころ持ちも綺麗、汚いと言います。そんなものは無いんだ。綺麗、汚いもなく、そんなものは混ざり合っているんだよ、そんなのは人それぞれ違い、基準なんて曖昧じゃないか、とも言っている気もします。

 

(不増不減)→ふーぞーふーげん。増えることも無く減ることも無い。実体がないのですから、増えるとか減るとかもないです。お金が増えた、減った。体重が減った、増えた。無限の拡がりを持つ宇宙の拡がりからすると、全体として増減もない。要は自分の見えている範囲では、増えた減ったと思っても実際は変わっていないんだということなんだと思います。

 

視点が違うと言えばそうなのですが、視点を変えることで見え方が変わる、というのも事実だと思います。

 

(是故空中 無色)→ぜこくうちゅう。むーしき。それゆえにこの世のあらゆる存在が空なのだ(実体がないのだ)。

 

(無受想行識)→むじゅそうぎょうしき。受(感じること)も想(想うこと)も行(判断すること)も識(意識すること)も無い。ここも前の「受想行識亦復如是」の言い換えですね。とにかく、我々人間の精神作用もそんなの無いんだ、と言っています。毎日毎日、我々はあらゆることを感じ、考え、行動をしているのですが。ここは、他の動物や植物の生き様を想像すると少しわかるかもしれません。いちいち考えてないですよね…。

 

(無眼耳鼻舌身意)→むげんじびぜっしんに(い)。見ること、聞くこと、匂うこと、味を感じること、触れること(身体)、意識すること(こころ)も無い。五感の感覚すらも無い。ここは、菩薩さまが「照見五蘊皆空」を悟ったというところの受けかと思います。とにかく、人間の五感は無いんだよ、と言っています。ここまで言われると、自分が感じているものは気のせいなのか?と思ってしまいますが、確かにそう感じている!と自分が思っているだけで、実際はどうなのかも分かりませんし、本当に他者が自分と同じ感覚(視覚、聴覚)で対象を感じていることは原理的には分かりません。視力とか、聴力とか数値的には出ますが、実際にどう見え、どう聞こえているかなんて、自分以外と他者は比べようがないですからね。

 

(無色声香味触法)→むしきしょうこうみしょくほう。形(実体)も無く、声も無く、香りも無く、味も無く、触れられる対象も無く、意識(こころ)の対象も無い。ここは、前段の「無眼耳鼻舌身意」の受けだと思います。人間側の感覚も無いし、対象となるものも無い。そもそも自分の感覚、対象となるものを分けることをしておらず、すべて実体が無く(色不異空 空不異色)、有るとか無いとかもないのですから、すべてが無いと言っています。

 

ここら辺の有るとか無いとかもないの考え方は古代インド哲学の「梵我一如」の思想を受け継いでいると思います。

梵我一如【20200815】 | ジルのうつ日記 (ameblo.jp)

 

般若心経は続きます…。