昨日から般若波羅蜜多心経について書いています。

過去ログはこちらから。

般若波羅蜜多心経①

 

続きです。

 

(舎利子)→しゃーりーしー。ここは、お釈迦様が、シャーリープトラというお弟子さんに語り掛けている、という設定で始まっています。なので、ここは、シャーリープトラよ…、と語りかけている感じかと思います。

 

お釈迦様(ブッダ。仏教の創始者)の頃は、まだきちんとした文書が残されていない時代で、この時代のものはすべて口伝として伝えられていました。その頃の教えは、後世の弟子によって文書化されたと言われています。

 

ギリシアのソクラテスや中国の老子、荘子、孔子などの教えも同じで後世の弟子たちにより文書化されています。ソクラテスは弟子のプラトン。老子たちの文書は、たいてい「子曰く…」で書かれています。

 

(色不異空 空不異色)→しきふーいーくー。くーふーいーしき。色は空に異ならず。空は色に異ならない。色は物質的世界、空は実体がないこと。まさに禅問答なのですが、物質的世界は実体がない。実体がないこともまた物質的世界である。と言っています。

 

ここは人間の感覚からすると、物質的世界はあるでしょ?何でないって言うの?ってなると思います。

 

でも、昨日のブログ(般若波羅蜜多心経①)で書いたように、今我々が見て、感じているものは実は実体がないものだよね、という考えが原点にあります。

 

進みましょう。

 

(色即是空 空即是色)→しきそくぜくう。くうそくぜしき。色はこれ即ち空である。空はこれ即ち色である。似たような表現ですが、物質的世界と実体がないということは表裏一体で、実体がないということもまた物質的世界と表裏一体である、と言っています。

 

要は境界がないのです。我々はある/ないと考えると「ある」と「ない」をどうしても分けて考えてしまいます。しかし、目の前に見えている物質的世界は実は原子の小さな集まりに過ぎないとしたら、空気中には酸素原子、水素原子、窒素原子も敷き詰めらているはずです。それらの原子と机、椅子、自分の腕、足、身体の境界は本当にあるのでしょうか?

 

小さな原子が単に羅列しているだけなら…。単に人間が目の前の物質を分けて認識して、そのように感じて、そう目の前の世界がそう見えているだけなら…。

 

そういうことを想定すると、境界なんて本当はないんじゃないか、そう思えてきて、それを言っているんだと思えてきます。

 

(受想行識亦復如是)→じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ。受(感じること)も想(想うこと)も行(判断すること)も識(意識すること)も、これら精神作用もすべて同じである(空、実体がない)、と言っています。

 

ここは感覚的に何となくわかりますが、頭の中で感じたり、考えたりすることは脳の中での現象なので、実体はないです。

 

しかし、実際は周りの物質的現象と呼ばれるものに左右されています。例えば、辛い物を食べて辛く感じる、机の角に足をぶつけて痛く感じる、つらい体験をして悲しく感じる、など。

 

突き詰めていくと、これらの精神作用は神経伝達物質が脳を駆け巡って生じます。でも、それ(精神作用)は本当にその結果として発生しているのでしょうか。そう人間が感じているに過ぎないのではないでしょうか。これが犬だったら、猫だったら、他の動物だったら。はたまた植物だったら。さらに言うと無機物だったら。そういうレセプターがないと言ってしまえばそうかもしれませんが、例えば、水槽に脳を再現して、伝達物質を流したら、その脳は悲しみを感じるのでしょうか。

 

その精神作用すらも実体がないのであれば、われわれは何を感じ、何に反応しているのでしょうか。

 

般若心経は続きます…。