知恵を求める人のためのブログです。

難民や亡命者をどのように見るべきでしょうか。

彼らには少し酷な内容となっていますので、難民や亡命者に同情している人は読まないでください

ウクライナの人々のように、
他国ロシアからの暴力から逃れるために外国へ避難する場合を除きます

その他の国からの難民や亡命者数異常に増え、アメリカなどへ避難しています。
利己的なトランプはこれを拒否し強制送還しています。
つまり、避難して来た人々を[災難現場に送り返している]のです。
悪魔の存在とはトランプのような人間のことを言います。

EUでは逆に加盟国に難民などを引き受けるようにと言っていますが、どの国でも国民はこの決定に不満を持っていて、反対運動をしています。
自分の国での雇用や経済や治安が脅かされて来たからです。

難民や亡命者を受け入れている国の多くキリスト教を奉じる国です。
キリスト教の信者にとっては「困っている人」に対する支援は「神の、あるいは、イエスの命令」なのです。
それでも自分たちの暮らしが脅かされると反対するのです。

こうしたことは
どの国の政府も適切な政策を実行出来ていないのでこうしたことが起きるのです。

難民や亡命者が出るのは、
自分の国が住みにくくなったからです。
殆どの場合は
政府が圧政的、暴力的である場合です。
例えば、ロシアや中国の場合反政府行為をすれば当局に直ぐに目を付けられます。
南米でも反政府行為をすると中国と同じように直ぐに捕まり強制労働や死刑にさせられたりします。
政府が独裁的で暴力的な他の国でも同じようなことが起きています
つまり、これらの国々では自由にものが言えなかったりやりたいことが出来ないのです。


戦火を逃れる以外の難民の多くは圧政から逃れるというより自由を求めて他国へ行こうとしているのです。
これは間違いです。
ある意味
我儘と言えます。
その国のことは独裁であれ圧政であれ国民が解決しなければならない問題です。
難民や亡命者たちは他国へ逃れ
その国の提供する安全の中で、いわば、ただで自由を手に入れようとしているのです。
そういう意識が無くてもやっていることは同じことなのです。

  
その国のことはその国の国民が解決しなければならないのです。
暴君のような支配者であればクーデターや革命をすべきなのです。

何処の国でも主権は国民にあるのです。
大多数の国民が思うような国にする責任
国民にあるのです。
それが選挙であり民主主義なのです。


自由と民主主義は平和と安全をもたらすことは[不可能です。

しかし、それでも、今の世の中の仕組みでは民主主義を徹底させる以外方法はないのです。

 
トランプのような暴君を国民は排除しなければならないのです。
それでも国民の大多数がトランプを支持しているのであれば大統領の地位に留まるでしょう。

そのツケはアメリカ国民が負うことになるのです。

今の世の中では、
暴君であれ、逆に聖人君子が支配者となっても平和と安全をもたらすことは出来ません
(参考:聖人君子と言われた孔子がその国の宰相になって儒教を実践しても平和と安全な社会を実現出

 来ませんでした。
 理由は、官僚や国民の
悪事を除くことが出来なかったからです。
 孔子自身は官僚からも人々からも国王からも尊敬されていたにも関わらずです。
 人々は孔子の教えや指導に服すことが出来なかったのです。
 孔子が宰相を務める国を攻める他国は当時殆どなかったように記憶しています。
 孔子は他国からも尊敬されていたのです。
 それでも1つの国すら治めることが出来なかったのです。
 これを嘆きつつ、孔子は職を辞し再び弟子たちと共に旅に出てしまいました。)

平和と安全は、
絶対の力を持ち、真理と義で人々を支配することが理想なのです。
人々からの支持(民主主義)ではなく人々を正しく導く(教える)ことを出来る[力ある]人が指導者となるべきなのです。

残念ながらこのような指導者は、
この地球上には一人もいません
それゆえ、何処の国でも混乱を生じさせているのです。

大抵の国の指導者は理想を抱いていますが、それが実現出来ないのは
[力がない]からです。
日本では、自民党が憲法を改正出来る程の勢力(国会議員の3分の2近くの議員数)を保持しても出来なかったのです。
力も能力もなかった]からです。
ただ、いたずらに理想を思い現実と格闘しただけだったのです。

  

難民や亡命者を出す責任はその国の政府にあります。

しかし戦火を逃れる以外国民は自分の国から逃げてはならないのです。

中国やロシアのような国であってもです。

どんなことがあっても、国民は自分の国の政府と協調するか戦うしかないのです。

決して逃げるべきではないのです。

 

ミャンマー軍のせいで政府としては崩壊しています。

反政府勢力は軍と戦っています。

周辺諸国や国連や他の国々は反政府勢力を支援すべきですが、なぜかウクライナのような支援が行われていません

ミャンマーは世界からもアジアからも見捨てられているのです。

 

あなたは難民や亡命者をどのように見ていますか?

他国へ避難することは「当然」だと考えていますか?

 

自分の国の政府と戦わなくて、国民の望む国は出来ません

政府と戦わない国民自分の国を一体どのような国にしたいのでしょうか?

そのために何かをしたのでしょうか?

 

アメリカ大統領だったJ.F.ケネディー就任演説

「アメリカ国民よ。国家が君たちのために何を成し得るかを問うな君たちが国家のために何を成し得るかを問いたまえ世界の人々に言いたい。あなた方のために、アメリカが何をするかを問うなかれ。人類の自由のために、われわれが共に何を成し得るかを問い掛けよう

と言いました。

 

あなたはこのケネディーの言葉をどう思いますか

 

*****************

参考

ケネディーを聖人とするならトランプは悪魔です。

同じアメリカの大統領でありながら国家のトップが悪魔だと国民には苦難が生じます

アメリカには必ず苦難が臨みます

既にその兆候が見えています。

悪魔は人が苦しむのを見て喜ぶのです。

なぜなら、人は苦しむ多くの人は「神を呪う」からです。

悪魔は平和の神の敵対者だからです。

最も、身勝手なアメリカの白人ケネディーの政策に反対し暗殺してしまったのです。

そのため、その後のアメリカは更に「悪く」なったのです。

世界に対し「威圧的で暴力的」になり、身勝手な言い分を大義に戦争を仕掛けて他国を侵害して来たのです。

その結果、9.11の大惨事を産んだのです。

トランプは更に「威圧的な態度」を取っています。

アメリカが良くなる理由はありません

イエスは「すべて剣を取る者は剣によって滅びるのです」と言われました。

-マタイ26:48-56

  

孔子、ケネディー、そして、有名なリンカーのような政治家が政治を行っても、「善い政治」を望まない利己的な国民はいつの世でも存在するのです。

 

また、トランプはアメリカと直接関係のないことに「口出し」し、あたかも世界の警察であるかのように振る舞っています。

アメリカはこうしたことから脱却したはずです

つまり、トランプはアメリカを戦後の冷戦時代に戻したのです。

歴史から学ばない人は、歴史を繰り返すことになります

哀れなのはアメリカ国民です。

日本に住むアメリカ人はラッキーです。

アメリカの苦難を身に受けないからです。

 

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参考

聖書では龍(悪魔)が海から上って来る野獣に権威を与えています。

啓示13章
そして[龍]は海の砂の上に立ち止まった。
また,わたしは一匹の野獣が海から上って行くのを見た。十本の角と七つの頭があり,その角の上には十の王冠があったが,その頭には冒とく的な名があった。

2 さて,わたしの見た野獣はひょうに似ていたが,その足は熊の[足]のようであり,その口はライオンの口のようであった。そして,龍は自分の力と座と大きな権威を[その野獣]に与えた
3 そしてわたしは,
その頭の一つがほふられて死んだかのようになっているのを見た。しかし,その致命的な打ち傷はいえた。それで,全地は感服してその野獣に従った

4 そして彼らは,野獣に権威を与えたことで龍を崇拝し,また,「だれがこの野獣に等しいだろうか。いったいだれがこれと戦いうるだろうか」と言って野獣を崇拝した。

5 そして,大いなることや冒とく的なことを語る口がそれに与えられ,また,四十二か月のあいだ行動する権威が与えられた

6 そして,それは口を開いて神を冒とくした。そのみ名と住まい,さらには天に住む者たちを冒とくするためであった。

7 そして,聖なる者たちと戦って彼らを征服することが許され,あらゆる部族と民と国語と国民に対する権威がそれに与えられた

8 そして,地に住む者は皆それを崇拝するであろう。ほふられた子羊の命の巻き物には,彼らのうちのだれの名も,世の基が置かれて以来書かれていない

  

ここで示されているほふられて死んだかのようになった野獣の頭の一つ(七つの頭の一つ)をトランプ(アメリカ大統領)と仮定すると、致命的な傷が癒え、つまり、大統領として再選したとすれば内容が合致するように思えます

これは新しい見解です(間違っているかも知れません) 

後の説明で七つの頭は世界強国を表していると間接的に示されています。

ですから、ほふられて死んだかのようになった一つの頭アメリカを表していると考えることも出来ます。アメリカの致命的傷とは、1929年からの大恐慌と見なせるかも知れません。(参考:ダニエル書でははっきりと当時の国の名前を出して説明しています。

また、世界的大流行(パンデミック)は、歴史的にも昔からありましたが、化学的に確認されているのは1900年頃からと言われています。

1918年から流行したスペインインフルエンザによる死亡者数は、全世界で2000〜5000万人と言われており、日本でも約38.8万人の死亡者数が推定されています。

これは、アメリカ発祥であり、戦争のため「隠され」世界中に拡散したことは有名な話しです。

 

啓示の書に述べられているこの出来事が何を示しているのかは明確には分かっていません

現在進行している出来事だからです。

現実に致命的な傷を受けた後再建した国敗戦国ドイツや日本やイタリア位のものですが内容から考察するにこれらの国は当てはまりません

 

いずれにしろ、十本の角と七つの頭を持つ野獣火と硫黄で燃える湖に投げ込まれるのです。

当然、プーチンもトランプもです

ですから、すべての人々は「神がこれらを滅ぼしてくれるまで」それまでの間辛抱と忍耐をする必要があるのです。

信者、不信者に関わりなくです

 

更に興味深いのは、パウロが次のように述べている点です。

テサロニケ(一)5章
さて,兄弟たち,時と時期については,あなた方は何も書き送ってもらう必要がありません。

2 エホバの日がまさに夜の盗人のように来ることを,あなた方自身がよく知っているからです。

3 人々が,「平和だ,安全だ」と言っているその時,突然の滅びが,ちょうど妊娠している女に苦しみの劇痛が臨むように,彼らに突如として臨みます。彼らは決して逃れられません

4 しかし,兄弟たち,あなた方は闇にいるのではありませんから,盗人たちに対するように,その日が不意にあなた方を襲うことはありません。

5 あなた方はみな光の子であり,昼の子なのです。わたしたちは夜にも闇にも属していません。
6 ですからわたしたちは,ほかの人々のように眠ったままでいないようにしましょう。むしろ目ざめていて,冷静さを保ちましょう

 

これから推測するに、もしかするとプーチンが戦争を止め、世界から戦争が無くなる日が来るかも知れません

しかし、その時突然の滅びが到来するのです。

これは、聖書からの、すべての人に対する「警告」です。 

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罪を犯す前のアダムは完全な人間だったのでしょうか。
参考 「聖書のコラム-68(完全とは何かを理解する)一部追加しました。」も読んで下さい。

ものみの塔の主張(「永遠に生きる」より)
アダムの命を完全な人間としての命神の完全な人間の子アダムとイエスは同等の人間と述べています。
そして、罪を犯し完全な命を失ったとも述べています。
この考えは正しいのでしょうか?

 

そもそも「完全な命」「完全な人間」という言葉は聖書には出て来ません

完全な人間、完全な命とはどのような意味なのでしょうか。

完全な命とは罪を犯さないことを指しているのでしょうか。

それとも永遠に生きる資格という意味の命でしょうか。

ものみの塔のこの点の説明が曖昧ですし、完全な命、完全な人間という言葉ものみの塔の造語です。

聖書では、アダムとイエスは異なる存在逆の存在として述べられています。
コリント(一)15:22と15:45
ローマ5:14でパウロはアダムとイエスは類似していると述べていますが、対等だとか同等だとは述べていません

死人の復活に関しては、
コリント(一)15:42-49でアダムとイエスを対比させて人間として生まれ、天に霊者として復活することが述べられていますが、これはすべての人に対するものではなく天でイエスと共になる特別な人々に対するものです。

実際、当時は天でイエスと共になる神の王国の一員を集めることが宣教の目的でした。
しかし、イエスの弟子たちの中には婦女子や子供もいたので、初めの頃のイエスのすべての弟子が天の王国に入る訳ではありません
例えば、ペテロは妻帯者でしたが妻は天に行くことはないのです。

「完全」という言葉は聖書には何度も出て来ます

アダムは神により創造されいわゆる「器」としては完全な(とがのない)人間でしたが
「試された」という意味では完全な(とがのない)人間とは言えません。
その証拠として、
イエスは悪魔の誘惑を退け、その後、贖いの犠牲となるまでの間のすべてにおいて神に忠誠を尽くし忠実であることを示しました。
これにより、イエスは「試され合格した」本当の意味での完全(とがのない)な人間となり神はそれを受け入れ預言の通り霊者として復活させ天の神の右に座すことを許されたのです。

それでも犠牲の死を遂げるまではイエスでも罪を犯す[可能性]はあったのです。
この状態は「完全(とがのない)な人間」の候補者という段階だったと言えます。

罪を犯す前までは「完全」であったという言い方もあります。
エゼキエル28:14-19には次のように記されています。
14 あなたは覆うことをする油そそがれたケルブであり,わたしがあなたを置いたのである。神の聖なる山にあなたはいた。あなたは火の燃える石の中を歩き回った。
15 創造された日からあなたのうちに不義が見いだされるまでは,あなたはその道においてとがのない者であった
16 「『「あなたの満ちあふれる商品のゆえに,人々はあなたの中に暴虐を満たし,あなたは罪を犯すようになった。それで,覆うことをするケルブよ,わたしはあなたを汚れた者として神の山から出し,あなたを火の燃える石の中から滅ぼすであろう。
17 「『「あなたの心はあなたの美しさのゆえにごう慢になった。あなたはその輝かしい光輝のゆえに自分の知恵を滅びに陥れた。わたしは地の上にあなたを投げ出す。わたしはあなたを王たちの前に置く。[彼らが]あなたをながめるためである。
18 「『「あなたの満ちあふれるとがのために,あなたの商品の不正のゆえに,あなたは自分の聖なる所を汚した。それで,わたしはあなたの中から火を出すであろう。それが必ずあなたをむさぼり食う。そしてわたしは,あなたを見るすべての者たちの目の前で,あなたを地上の灰とするであろう。
19 もろもろの民の中であなたを知っている者たちは皆,必ず驚いてあなたを見つめるであろう。あなたは必ず突然の恐怖となり,もはや定めのない時に至るまでいなくなるであろう」』」。

同じことをアダムに適用するなら、アダムも罪を犯すまではとがのない者(別の言い方をすると完全な人間)だったということになります。
誘惑」を受けたという記述があるのはエバでした。

(参考:今の人間は蛇が話をしないことを知っていますがエバは疑問にも思わなかったと思います。

 もし、疑問に思ったら「蛇の話し」に耳を傾けることはなかったはずだからです。

 また、神との会話は「声だけ」で行っていましたから蛇が木の陰から話しかけても耳を傾けたと思

 われます。)  

あるいは、もしかするとアダムもエバと同じように誘惑を受けたかも知れません。
パウロのテモテに宛てた手紙の中にそれが示唆されています

 

ですから、アダムはエバがくれたものを食べたに過ぎなかったのです。

この時、エバが与えたとだけ記されていますが、その実が「善悪の知識の木の実」であったことを認識していたかどうかと言えば認識していたのです。
なぜなら、アダムもその木の実は見て知っていたしそれを食べてはならないこと食べたらどうなるかをエバにも告げていたからです。
アダムはなぜその木の実を知りつつ食べたのかという疑問は残ります。
しかし、この出来事は、アダムが「自分で決めて食べた」ということを意味しているのです。
つまり、自らの意思で「神のおきて」に従わなかったということです。
始めから、意図的に食べたのではなくエバに差し出された時に、実際にエバは食べていて「何事もなかった」ことを見ていたので、もしかすると食べても大丈夫かも知れないと思ったかも知れません。
事態が急変したのは、アダムも食べた時でした。
つまり、アダムが差し出されても食べなければ事態は違ったものになっていたのです。
もしかすると、エバだけが年老いて死んだかも知れません。
しかし、二人の子供には当然エバの罪が継承されていたと思われます。

 

違った見方も出来ます。
それは、エバが食べた時には何も生じなくてアダムが食べた時に事態が変わったことから、エバよりもアダムが「神の命令に従うかどうかが重要だった」と言える点です。

  

(参考:おそらく完全な肉体(?)を付けて地上に降りて来たみ使いと人間の女との合いの子ネフィリムは悪い存在でした。

しかし、この時点でみ使いたちは罪を犯しているので地上に降りて来たみ使いが身に付けていた肉体が完全(とがのない)な状態であるとは言えません

神はこの状態に120年という期限を設けノアと家族を除き当時の人々すべてを滅ぼしました。)

実際、聖書の中でもアダムは欺かれませんでしたと記されています。

11 女は全き柔順をもって静かに学びなさい。

12 わたしは,女が教えたり,男の上に権威を振るったりすることを許しません。むしろ,静かにしていなさい。
13 アダムが最初に形造られ,その後にエバが[形造られた]からです。
14 また,アダムは欺かれませんでしたが,女は全く欺かれて違犯に至ったのです。
15 しかし[女]は,健全な思いを持ちつつ信仰と愛と聖化のうちにとどまっているなら,子を産むことによって安全に守られるでしょう。
-テモテ(一)2:11-15
(参考:パウロのこの記述から、アダムも誘惑を受けたことが示唆されます。

 また、女は男より地位が低められていることが分かります。
 それでも、奴隷状態としてではなく人としての安全性は条件付きですが保証されています。)


アダムは罪を犯すこと「美しいもの=完全なもの」が「傷もの=罪人」になったのです。
これに対してイエスは、悪魔の誘惑を受け、数々の試練にも遭遇し死に至るまで忠実であることにより美しさ=完全性を保ったのです。

完全である(とがのない)ことを初めから終わりまで保つならその者は永久に完全な者と言えます。
その意味でイエスは[永久に完全な者]となったのです。

試された者とそうではない者が「同等」あるいは「対等」と言えるでしょうか

試される前、あるいは、罪を犯す前までは「同等」と見なすことが出来るかも知れません

しかし

イエスは人間として誕生する前までは非常に長い間天で神の独り子として神の側にいてすべてを見てしっていました

一方のアダムは神に創造されたとは言っても「初めに神が与えた限られた知識と能力」しか持っていなかったのです。

限られたということは不足、あるいは、制限されたということではなく、これから様々ことを経験し、また、成長し能力を高めて行く上で土台となる必要なものはすべて与えられたと考えられます。

アダムは初めから大人として創造されましたが、

イエスは赤ん坊として誕生し成長過程で聖書を学び、およそ30歳ごろまでには完全に理解していたと思われます。

この頃までにはイエスは天での記憶をすべて取り戻していたと考えられます。

後に宣教している時に「天でのこと」を話しているからです。

実際、イエスは12歳の時神殿で[律法]教師たちの話しを聞いたり質問をしています。-ルカ2:41-47

こういう意味では、イエスとアダムは同等ではありません

 

神により創造され「命を与えられた」という点では同じですが、その存在意義に関しては「真逆」のことが述べられているのです。

 

アダムが失った「永遠に生きる(はずだった)命」をイエスの「命」で贖う「価値」としては「同等の価値」と見なすことが出来ます。

これは、アダムが犯した「罪」イエスの「命」で[神により]塗り消してもらうと言うことです。

それゆえ、パウロはローマ6:23で、

罪の報いは死ですが,神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命だからです。」

と述べているのです。

したがって、
神により創造されたという意味では類似していると言った方が合っています。
地の塵から造るか人間の母体を利用するかの違いはありますが。

   

パウロはローマ5章で次のように述べています。
6 実に,キリストは,わたしたちがまだ弱かった間に,不敬虔な者たちのため,定められた時に死んでくださったのです。
7 義なる[人]のために死ぬ者はまずいません。もっとも,善良な[人]のためなら,あるいはだれかがあえて死ぬこともあるかもしれません。
8 ところが神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです。
9 それゆえ,わたしたちは[キリスト]の血によって今や義と宣せられたのですから,ましてこの方を通して憤りから救われるはずです。
10 わたしたちが敵であった時み子の死を通して神と和解したのであれば,まして和解した今,[み子]の命によって救われるはずだからです。
11 それだけではありません。わたしたちはさらに,わたしたちの主イエス・キリストを通し,神にあって歓喜しています。この[キリスト]を通して,わたしたちは今や和解を授かったのです。
12 それゆえ,一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が[入り],こうして死が,すべて[の人]が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がったのと
同じように―。
13 というのは,律法以前にも罪は世にあったからです。ただ,律法がなければだれも罪の責めを受けないのです。
14 それにもかかわらず,死はアダムからモーセに至るまで,アダムの違犯と同様の罪をおかさなかった者に対しても王として支配しました。
[アダム]は来たるべき方と類似していました。
15 しかし,
賜物の場合は罪過の場合と異なっています。一人の人の罪過によって多くの者が死んだのであれば,神の過分のご親切と,一人の人イエス・キリストの過分のご親切を伴う[神]の無償の賜物とは,いよいよ多くの者に満ちあふれるからです。
16 また,
無償の賜物の場合は,罪をおかした一人[の人]を通して物事が作用した場合と異なっています裁きは一つの罪過から有罪宣告に至りましたが,賜物は多くの罪過から義の宣言に至ったからです。
17 というのは,一人[の人]の罪過により,その人を通して死が王として支配したのであれば,まして,過分のご親切と無償の賜物である義とを満ちあふれるほどに受ける者たちは,一人[の方]イエス・キリストを通し,命にあって王として支配するからです。
18 こうして,一つの罪過を通してあらゆる人に及んだ結果が有罪宣告であったのと
同じように,正しさを立証する一つの行為を通してあらゆる人に及ぶ結果もまた,命のために彼らを義と宣することなのです。
19 一人の人の不従順を通して多くの者が罪人とされたのと
同じように,一人[の方]の従順を通して多くの者が義とされるのです。
20 さて,律法は,罪過が満ちあふれるために入り込んで来ました。しかし,罪が満ちあふれたところでは,過分のご親切がなおいっそう満ちあふれました。
21 何のためですか。罪が死を伴って王として支配したのと
同じように,過分のご親切もまた,わたしたちの主イエス・キリストを通して来る永遠の命の見込みを伴いつつ,義によって王として支配するためでした。
   

アダムやイエスの例完全な人間(とがのない状態)でも後に「罪を犯す」場合があることを示しています。
完全(とがのない状態)に創造されたみ使いたちでさえ「あるべき居所を捨て」、つまり、神に反抗して罪を犯し裁きのために濃密な闇の抗、あるいは、タルタロスという特別な場所に閉じ込められています。 -ペテロ(二)2:4 

 

完全な人間、あるいは、完全な命という言葉は「人を惑わす曖昧な言葉」です。

皆さん、こういう言い方を用いないように注意しましょう。  

   

***********

参考:

三段論法は、簡単には、

A=B B=C ⇒ A=Cというものです。

この説明なら、アダム=イエスということになります。

 

しかし、パウロの説明は、

A=B 同じように C=Dというものです。

その根底にある「共通概念」は、

どちらも、「神によるもの」というものです。

   

別の例えで示せば、
律法下では、人が罪を犯せば大祭司が「動物の犠牲」を神に捧げることにより「その罪は許されることがありました」
では、人=動物と考えるでしょうか、決してそのようなことはないのです。
人を罪に定めるのも、動物の犠牲でその罪を許すことも、すべては「神によるもの」なのです。 

 

ものみの塔の「過ち」は、
アダムの失ったものをイエスが取り戻すことで、二人が「同等」、「対等」であると説明し、かつ、二人が完全な人間、完全な命の[持ち主、あるいは、享受している]と説明している点です。
つまり、
アダム=イエスと述べている点です。

この誤りは上の説明で理解出来ると思います。
加えて、
イエスの生き方により「完全」あるいは「完全な人間」という
概念を作り上げていることです。
罪を犯さないと言うことは理解出来ますが、
完全な人間とは何ぞやということです。
完全と言う言葉には「余りにも多くの事柄が関係している」ので、簡単に用いられる言葉ではないのです

  

「聖書のコラム-68(完全とは何かを理解する)一部追加しました。」を読んで頂けると理解出来ると思いますが、

「完全」という言葉は「全体像」を指して用いる言葉であるのに対し、「完璧」という言葉は「動作」に対する言葉です。

こうした点で言えば、

アダムとイエスも「完全な人間像を備えていた」ということになります。

つまり、

二人とも完全な人間(像を備えていた)だったということです。

このような人間が別の存在として二人いたということになります。

 

しかし、パウロの説明にあるように、[神による]命の価値としては「同等」でも、全体像としては二人は「同等」でも「対等」ではないのです。

 

すこし、分かりにくいですが、こうした考えや説明は「難しい」ものです。

一見すると単純のようですが、その意味は広範多岐に渉るからです。

 

あなたはどう考えますか?   

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人の前には廉直な道であっても,後にその終わりが死の道となるものがある。-箴言14:12
参考 ローマ6:12ー22

廉直な道とは、心が清くまっすぐなことと辞書で説明されています。

一見すると純粋な生き方のように思えますが、必ずしも善い、正しいこととは限らないことも含まれています。

大雑把に言えば、[自分では]正しい、あるいは、善いと思ったことをすることです。

普通人は自分では競争意識も持たずしたいように、また、平穏に過ごしたいと思っています。

ところが状況や環境によって人の心は変化します。
例えば、
酷い環境だとそこを変えようとするかそこから出ようという意識が芽生えるものです。
また、
周囲の誰かが良いものを持っていたり上手くやったりするとねたみや競争意識が芽生えることもあるのです。
野心的な人ほどこうした傾向は強いものです。

誰しもが何度も経験していることです。
人生経験の豊富な人こうしたことの是非については大抵は知っているものです。
しかし、人生経験の少ない若者たちは知らないので、いわば、自然に「こうした状況が端を発し自分の思ったことをして、周囲の人に対抗意識を持ったり様々な行動や振る舞いをすることが多いのです。
最近では、いろんな知識をネットから簡単に手に入れることができ自分がしたいと思うことの「先が見える」ため、「二の足を踏む」若者も少なくありません。
その一方で、果敢にいろんなことに挑戦する人もいます。

例えば、田舎に行って農業をするとか、子供のために自然の中で暮らしたいとかする人が時々ニュースになる時があります。

すべてにおいて、
両極端な方向へと分れたり進むのが「現代の傾向」です。
これは、いろんなことを「知り過ぎた結果」であり、社会が高度に細分化された結果です。
しかし、
こうしたことは文明の終わりにも至る兆候なのです。
歴史が物語っています

人は能力により必然的に差別が生じてさせてしまいます
こうしたことは人間の指導者や誰かが意図的に出来るものではありません

人類は古代から常に知識や思想や科学が進歩・発展する方向を「善い」と考えて突き進んでいます。
しかし、それは

大局的に見て、つまり、人類の歩むべき[善い]方向を考えて計画的に行っているわけではない

のです。
つまり、善いと思うことを「闇雲にしている」だけなのです。

人類を適切に導く力のある指導者がいなかったのです
その結果として、
地球環境を破壊し人体に害を及ぼしたり地球温暖化などを引き起こしているのです。
こうしたことだけではなく
人間の「心の欲望に引かれて」様々な「」が行われ、今や、世界は「犯罪の温床」となってしまったのです。
いわば、世界は「泥の中であるいは激流の中で生きているようなもの」にしてしまったのです。

結論から言えば、

人は[自分では]善いことを願う(行っている)のに、実際には逆のこと(悪い結果をもたらすこと)を「意識しないで行っている

のです。
それでも、多くの人はこうしたことは少し考えれば分かる時代になりました
それだけ、
人類は多くのことを知り過ぎ、それがために「不必要な欲望を抱くようになってしまった」のです。

知識欲は人間の本能です。

人間は制御されない例え善いと思ったことをしても結果とし死に至る(悪い結果になる)こともあるのです。
これは、
単に人間が不完全(過ちを犯す存在)だからと言って済まされる問題ではありません

人は、「完全(常に善を行える)で力ある存在(絶対的存在)」に制御される、つまり、支配される必要があるのです。
これを可能にする存在は、まことの神と神の右に座しているキリストを除いて他にはいません
神は間もなくそのようにして下さることを「予告=預言」して、人類に教えて=警告しています。

聖書の中で「
預言は不信者のためではなく信者のためです」とパウロは述べています。

-コリント(一)14:22

信者のためとは既に信者になっている人のことではなく預言を聞いて信じる者のことです。


不信者預言に対して疑いを持ち引き続き無知のままに留まり行動や振る舞いにおいて「自分が善いと思うことに夢中になっています
嫁いだり娶ったり食べたり飲んだり欲しいものを手に入れようとしたり自分のしたいことをしたり浮かれ騒ぎをしているのです。
これに輪を掛けて助長しているのが政治であり経済でありマスコミなどのメディアです。

神の預言は「必ず成就」します。

しかし、神に信仰を働かせ預言に期待と希望を持つのは「信者」だけなのです。

不信者に待っているのは「突然の滅び」です。

多くの人はこうしたことを知らないで、多くの知識や技術や科学などによる人類の未来の可能性を信じ期待をしてます。
しかし、突然の終わりを迎えることになるのです。
あたかも、ある日ある時突然「心不全」や「脳卒中」で死んでしまうようなものです。
その人はその時までは普通に活動しているのです。

あなたが「信者」なら、信仰に於いて忠実である点で常に注意し警戒を怠らないことです。
これは人間の努力で成し遂げることが出来る」のようなものです。

努力しても必ずしも成功するとは限らないからです
それゆえ「細心の注意と振る舞い」が必要なのです。

一度の失敗=罪で永遠に終わりを迎えることさえあるのです。

信仰は誰でもが「無償で手に入れる」ことが出来るものです。
しかし、
それを維持するためには努力と様々な試練に打ち克つ必要がある」のです。

世界と社会がいくら多くの情報や最新の技術や道具を手にいれてもそれらは、生き残るためには無価値なもの」です。
こうしたもの信仰という点においては邪魔なもの、欲望を芽生えさせる誘惑」なのです。
誘惑により欲望が芽生え、欲望は孕んだ時に罪となりそれを成し遂げた時に死を生み出すと言ったイエスの異父兄弟ヤコブの言葉にある通りです。-ヤコブ1:14-15

知恵を求める人のためのブログです。

あなたはどの聖書を用いるかについて自分の考えを持っているかも知れません。
 

カトリックはカトリックの解釈に基づく聖書を出版し、プロテスタント系の宗派でも各々独自の解釈に基づく聖書を出版し、他の翻訳を批判したりすることがあります。
 

それぞれの解釈に微妙な違いはありますが、そうした違いは全体から見れば1%に満たないのです。
その違いの多くは神のみ名を用いるかどうかやイエスを神としたり十字架という表現であったり三位一体を意味するかのような翻訳になっているなどの違いです。

つまり、聖書の記述を人間が自分たちの考えに基づき意図的に変えているということです。


しかし、どんな翻訳でも、聖書全体を注意深く読めば「真理」はおのずと明らかになるものです。

  

ですから、イエスを神とした翻訳の聖書を出版しても、他の部分と考えが一致しないことは明白です。

そのため、翻訳する時には、明らかな「異訳」をすることは殆どなく微妙な表現」を用い、その聖書を用いて解釈を説明する時に「自分の考え」を述べるということに留める場合が多いのです。
 

聖書の違いは、殆どの場合は「僅かな解釈の違い」だけなのです。

例え、その僅かな違いが「大きな問題」であったとしても全体との調和により自ずと正されるのです。
従って、どの聖書を用いても自国語の聖書を読めば殆どの問題は解決されるのです。

 

ただ、聖書の解釈に関しては、誰にその解釈を教えられるかによって「真理」に到達する「時間」が大きく異なります
例えば、カトリックやプロテスタント、あるいは、ものみの塔の
解釈の誤りに気が付くのには「長い年月」が掛かるのです。
それは、例えそれぞれを教えを信じていても「真理」でない点については「多くの場合必ず疑問」が生じ(真理を理解していない場合も含みますその疑問を深く考えるかどうかで、その人の振る舞いが変わって来ます。

それから、改めて聖書を読み直し、それぞれの教えの解釈が正しいかどうかを「各々検証」することになります。
これをしない人はすべてにおける「真理」には到達できないのです。
 

どの宗派にしても、聖書を用いている以上、その教えに「大きな違い」はありません。
聖書の神は「唯一の神」であること、アブラハムやダビデやソロモンについてもその他の登場人物についても殆ど同じ見解を示します。
アダムが罪を犯し、神による裁きを宣言されたことも皆同じ翻訳をしています。

ただ、個人的な解釈の違いは当然あります。

しかし、
聖書の預言、つまり、神の預言に関しては「人間が手を加える」ことは不可能です。
なぜなら、聖書のどの部分がその成就に関わっているかについて人間は殆ど知らないからです。
例えば、
イエスの時代、バプテストのヨハネに関して、当時のユダヤ人は正しい理解をしていませんでした。
イエスがマラキ書から説明したので、はっきりと理解出来たのです。
イザヤの預言についてもダニエルの預言についても当時の人々は誰も理解していませんでした
なぜなら、その殆どは当時ではなく、遠い将来の出来事に関する預言が含まれていたからです。
復活に関しても書士やパリサイ人ですら理解していませんでした。
イエスが説明し、また、現実に起きたので使徒たちは理解出来たのです。
こうした内容に関する
解釈の違いはどの宗派でも大差はないのです。
 

あなたはどの聖書を用いるかに関して、まだ「こだわり」を持っていますか?

神の名前が出ている聖書を用いていますか、それとも、出ていない聖書を用いていますか。


更には、
聖書の理解や解釈に関して、自分の考えが「絶対正しい」と言える人がいるでしょうか

神の事柄をすべて理解している人間は一人もいないのです。
ですから、例えカトリックのローマ法王でもプロテスタントの牧師でもものみの塔の統治体でも
「絶対正しい」と言える存在は「有り得ない」のです。
人間はすべて「過ち」を犯すのです、そして、死んでいく存在なのです

つまり、神の目から見て、すべての人は「取るに足りない」存在なのです。


何が正しくて、何が間違いかは「神が決める」ことです。

したがって、
聖書の解釈については、その時代の誰かが「そう思えばそれでも良いのです

それが正しいか間違っているかは大した問題ではないのです。

なぜなら、正しい理解をしている人は一人もいないからです。


誰かの解釈他の誰かが信じるも信じないもそれぞれ「その人の自由」なのです。
ものみの塔を批判するのは、聖書に関して「間違って」解釈している点だけです。

 

どの宗派の教えに関しても「正しい」ことは「正しい」のです。
 

誰かが言ったからではなく聖書に「そのように書いてある」ことを「正しいと思う」ように解釈することが重要なのです。
誰かが絶対間違をしないということでもありません。
誰かが間違ってカトリックの解釈が正しいことも「あるかも知れません」
それは、
神にしか分からないことなのです。
ですから、人はおのおの信じるところを行けば良いのです。
 

ただ、誰かが間違いだと言うからには理由があるのです。
その理由を確かめるのに、誰に憚る必要があるでしょうか

自分で確かめて、判断すればそれで良いことなのです。

 

今、地球上で聖書を完璧に理解している人は一人もいないのです。

 

あなたはどう思いますか?

 

最後に、現在どの聖書翻訳が原本と最も近いかということは誰にも分りません。

ある聖書の一部は正しいかも知れませんが、他の部分では他の聖書が正しいかも知れません。

   

しかし、神のご意思は聖書によって真理に至ることであることは明白です。
したがって、どの聖書を用いるにしても、どんな翻訳の聖書を用いるにしても、何度も聖書を読み、洞察力を働かせ一つひとつを丁寧に確かめつつ熟慮すれば自ずと真理に到達出来ると考えています。
もし、そうした過程で矛盾が生じれば、その解釈のどこかが間違っているということになります。

 

全体の解釈の点ですべてが一致した考えで統一されていなければ聖書の価値が失われてしまうばかりか神のご意思からも逸脱することになってしまいます。
 

勿論、すべてを正しく理解している人が存在しない以上、各々の確信に従う以外方法はありません。
神は「聖霊」や「み使いによる手助け」を通して各々に確信を与えて下さるかもしれません
事実に基づくべきであり、各々の理解に於いて「思い込み」があったとしても、もし、過ちを指摘されたり疑念や疑問が生じたら「決して頑なに意地を張らずに、改めて調査し洞察してみる」ことです

 

長い時間考え続けていると必ず「ある部分に関する真理」に到達出来ると確信しています。
イエスの約束があるからです。

マタイ7:7-11
7 「求めつづけなさい。そうすれば与えられます。探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。たたきつづけなさい。そうすれば開かれます

8 だれでも求めている者は受け,探している者は見いだし,まただれでもたたいている者には開かれるのです

9 実際,あなた方のうち自分の子からパンを求められるのはだれでしょうか―その人は石を渡したりはしないではありませんか。

10 あるいは,[子]は魚を求めるかもしれません―その人は蛇を渡したりはしないではありませんか。

11 それで,あなた方が,邪悪な者でありながら,自分の子供たちに良い贈り物を与えることを知っているのであれば,まして天におられるあなた方の父は,ご自分に求めている者に良いものを与えてくださるのです。
あなたはイエスのこの約束を信じますか? 

知恵を求める人のためのブログです。

人の権威についてです。

一般に、

人に権威や権力を与えるのはそれは民衆であり大勢の人々です

そして、権威を与えられた人は集団をより強固なものにするために集団を組織化するようになります。

 

古代イスラエルでも大集団を秩序あるものにするために、十人、五十人、百人、千人ごとにそれぞれ長を置きました。

これらの人々は皆有能な男子の中から選ばれたのです。

部族ごとに分かれており、他にも部族の長、年長者、それぞれの一族の長家族の長が定められていました。

モーセの時代になって、すべての部族をまとめる存在として神によりモーセが選ばれました。

その他に神への崇拝を担うためにレビ人が神により選ばれ、すべてはモーセの指示により動き、崇拝行為はレビ人が担い、軍隊も組織されていました。

 

モーセは神により権力は与えられてはいませんでしたが、神からの指示はすべてモーセを通してなされたので、人々はモーセに従いました。

 

現在、何処の国の軍隊も、これと似たような組織となっています。

十人の長を班長、四十人の長を小隊長、四-五個小隊で一個中隊を、四-五個中隊で一個大隊を、

四-五個大隊で一個連隊を、四-五個連隊で一個師団を、四-五個師団で一個旅団をという具合に組織され統制が取られています。

そして、それぞれの部隊に各々の任務が課せられ攻撃におけるバランスがとられているものです。

すべての指示や命令は上意下達です。

勿論、意見具申や上申を行うことも出来ます。

犯罪行為に関しても、警務隊という内部警察組織が存在して取り締まりを行っています。

善い働きをすれば褒賞を行い、時には表彰されます。

その印として制服着用時に左胸に付けるバッジも付与されます。

テレビで軍人が制服で姿を見せる時がありますが、左胸に付けている様々な色のバーコードのようなものがそれです。

これが多い程優秀な軍人だということです。

ただし、人徳とは全く関係ありません

 

軍隊では他の組織と大きく異なる点は、上司の命令には絶対服従しなければならないというものです。

上司が無能だと部下は大変な思いをすると共に命を落とす危険が非常に高くなってしまいます。

しかし、それでも部下は従わなければならないのが軍隊の規則(規律とも言います)なのです。

  

実際の戦争で、暴力的で意地悪な上司は戦闘状態の時恨みを抱いた部下に後ろから撃たれるということがあったようなことを聞いたことがあります。
 

人に権力を与えるのは立場と規則であることの良い例です。

権力ですが、権威です。
しかし、権威は組織(立場)や規則が与えるものではありません

権威人格によって示されるものです。
例えば、有能な人や賢い人の発言は周囲の人を納得させることがあります。

もし、周囲の人がこの人に従うとすれば、その人は権威を得たことになります。 

能力という力を行使したと言えばそうですが、文字通りの物理的な力でそうした訳ではありません。 


人が権威を持ち大勢の人を従わせるには、周囲や大勢の人を従わせるだけの人望を持っていることが条件なのです。

 

良く権威を失墜した(させた)という言い方を聞くことがあります。  

それは、権威を持った人がスキャンダルを行ったり犯罪などをした時に言われる言葉です。

つまり、人望を失った時に使われる言葉です。
 

権威とは人を納得させる威厳でありイエスのように病気を治したり悪霊を追い出したりする力があることです。
イエスはそれを神から与えられたものでした。
しかし、普通の人間の場合はイエスのようには出来ません
なぜなら、人間はイエスとは異なるからです。
イエスは神により天から遣わされた神の独り子(み使いの一人)だったからでもあります。
また、十二使徒たちがイエスと同じように病気を治したり悪霊を追い出すことが出来たのはイエスから
付与された権威とイエスを通して与えらえた聖霊の力によるものでした。
 

イエスが神から権威を与えられたのは自分が神から遣わされたものであり、神の独り子であることの証のためでした。
そして、それによってイエスの語ったことに
信ぴょう性を持たせるためでした。
弟子たちが
イエスから権威や聖霊を与えられたのイエスが神により遣わされたメシアであり、また、アブラハムの胤の代表者であり、また、今の事物の体制の支配にとって代わる神の王国の王であることの証(証明)のためでした。
そして、このことにより自分たちの言うことの
信ぴょう性を持たせるためだったのです。

現代は、既に神の目的に関しては証明されたので、改めてイエスのような存在も病気を治したり悪霊を追い出す力もその
必要は無くなったのです。
ですから、今日もし奇跡的なことが起きたとしたらそれは
悪霊の仕業に違いないということになります。

人情的には(個人として)イエスによりその「」を付与されて、大勢の人々の苦しみを解放したいという思いはあります。
個人的には非常に歯がゆく思っていますが、しかし、
それは「今」ではないのです。

来るべきイエスの統治になってこそ意味があるからです。
ですから、
今しばらくの辛抱ということになります。

また、人を従わせる権威に関しても基本的には同じ理由で今は
この権威を持つ人はいないのです。
ですが、これはこれとして
自分の能力を高めるという意味では考えて置く必要があるのではないかと考えています。

天からの支配は基本的には神の力、
与えられた権威によるものですが、それでも個人の能力は発揮されるのではないかと考えています。-参考 啓示2:26

神は、幕屋の個々の備品を作るのに当たって有能な人材を登用して物事が上手くいくようにされました。
であれば、
キリストの統治の下で地を支配する神の王国の王たちにも、また地上で生きる人たちにも
有能な人材となるように努力し備えることは必要なことだと考えています。

人間的に考えてどうすれば権威を与えられることが出来るでしょうか
それには、まず、
知識や理解や論理や技術において優れており万事がその通りに出来ることです。

他人に出来ないことが出来ることでもあります。

 

分り易い例えはマジシャン、手品師のような存在です。

彼らは、一見して不可能と思われることを実際に観客の目の前で行うことが出来るのです。

観客は圧倒され不思議に思いつつもそのマジシャンの言うことを信じ敬意さえ払うのです。

勿論、種も仕掛けもあるのですが。

聖書では龍(悪魔)が野獣に自分の権威を与えることが記されています。-啓示13:2-8
イエスも神により天と地におけるすべての権威を与えられています。-マタイ28:18

権威と言うと支配者が持つイメージですが、どちらかと言うと[人の、あるいは、人が与える権威は「人格と能力の象徴」のように思えます。
つまり、実際に誰かが優れたことを行う「能力」を示した結果周囲の人々が感じるものです。

 

イエスの山上の垂訓を聞いた群衆イエスに対してそのように感じました

28 さて,イエスがこれらのことばを[語り]終えられると,群衆はその教え方に驚き入っていた。

29 権威のある人のように教えておられ,彼らの書士たちのようではなかったからである。

-マタイ7:28-29

参考:「権威ある人のように」と記されていますが、おそらく威厳のある話し方、断定的な話し方、人々がそれまで確信していなかったことがら(真理)を話したことでそのように感じたと思われます。)

神は地上のあらゆる生物と子孫を従わせよとアダムに命令を与えました。
しかし、アダムは立場を与えられたに過ぎず、権威を与えられた訳ではありませんでした
つまり、アダムは自分の考え神の命令を実行するということはなかった(許されていなかった)のです。
その自由は与えられてはいなかったのです。

アダムはいわばみ使いのような神の代理もしくは代行という存在だったのです。


実際、アダムは子孫たちに権威を示したという記録は残されてはいません
二人の息子、カインとアベルが神に感謝の犠牲を捧げた時にアダムの存在が出て来ません。

最も、こうしたことは「個人的なこと」です。

ものみの塔はカインとアベルが同じ場所で同時に感謝の犠牲を捧げたように「」で示していますが、

同じ場所で同時に二人が別々のものを捧げるということは考えにくいことです。


アダムが子孫たち大勢を支配したという記録もありません
ただ、地上に人々が増え、各々好きなように活動していたのです。
つまり、支配者は存在していなかったのです。
アダムは権威もなく、また、支配もしていなかったのです。

興味深いのは、神は「地上の人と生き物を従わせよ」という命令をアダムに与えましたがその仕方や律法のようなものは与えていないです。

(参考:モーセの場合口頭により、また、明文化された律法を与えられました。)

このことにより、アダムは知恵や工夫を働かせる必要があったと思われます。

神は、アダムがどのように人や生き物を従わせるかという点で楽しみを持った(ある意味試した)とも思われます。

しかし、これとは別のことで、アダムとエバは神から与えられた「たった一つの禁止」を破り罪を犯し罪人になってしまったのです。
その結果、人の悪が地にあふれ,その心の考えのすべての傾向が終始ただ悪に向かうようになってしまいました

力のない者(能力のない者)権威や権力を具現できるでしょうか
例えば、法律上の自治体の首長などで、その人自身に権威はありません立場上の権力つまり人に命令したり決済をする権限を与えられるなどの場合です。
普通、権威はその人が実際にその立場などに就きその能力を他の誰よりも発揮する時いなくてはならない存在になった時有効となるのです。
そうでなければ、ただの職務上の決済責任者として、いわば、普通の課長などのような存在でしかないのです。
リーダーとして市民を良い方向に導く無くてはならない存在になって初めて権威が生まれるのです。

 

例えば、兵庫県の斎藤知事はまだ若いし経験も少ないです。

長く県庁に勤めていた職員は知事を信頼していなかったことは明白です。

そのため「プライドが高い」斎藤知事は「苛立ち」を覚えたことも明白です。

つまり、斎藤知事は県職員に対して立場上の上司ではありましたが権威を示すことが出来ていなかったのです。

おそらく、人望に関しても同様だったと思われます。

もし、斎藤知事が自らの能力で権威を県職員に示すことが出来ていれば、訴えられることはなかったのです。

それは、話し方であったり、話す内容であったり、振る舞いであったり、議会や県職員との接し方であったり、実際の政策で効果を発揮したり、こうした点で県職員や県民から「尊敬の念」を持たれる必要があったのです。

これらは指導者としては必須の事柄なのです。

ただ、いきなり県政の理想だけを追求しても信頼されていない内は部下は[適切]には動けないものなのです。

そうなる前に、立場上の地位を利用職員を思い通りにさせようとした点で大きな過ちを犯したのです。

しかし、法律上はこうした行為は罪には問えません

職員は立場上知事の指示や命令に従う義務があるからです。

神から与えられた権威では、奇跡的なパフォーマンスを行うことが出来ますが、

人間による権威は人を導く強いリーダーである場合に、人々がそのリーダーに従うことで付与されるものなのです。

世界にはこのようなリーダーは
沢山存在しています
例えば、
ローマ時代のカエサル、悪の存在ですが、スターリンやヒトラーなど、ルーズベルトやチャーチルなどを上げることが出来ます。
人間の強いリーダー
必ずしも「善い存在」ではありません。
しかし、
権威という点では強い存在なのです。

ドイツ国民に熱狂的に支持されたヒトラー程の権威を持つ人間を私は知りません
おそらく、
フランスのナポレオンより強い権威国民が付与したのです。

つまり、
権威と一言で言いますが、実際には、

神から与えられた権威悪魔が与えた権威人々が与えた権威三通りあるということです。

簡単に言うと、
家族の間で、「父親の権威」あるいは「父の威厳」という言葉を使う時があります。
それは父親が家族を従わせる力のことです。


父親の権威は「神が与えたものです。
実際、聖書を読むと父親に従うように、あるいは、父親に家族の全責任があるような意味で記されている箇所が多く出ています。

実際、古代イスラエルでは自分の父母を不敬に扱うと「死刑」にされていました。-出エジプト21:15、17、レビ20:9、申命記27:16など多数記述されています。

   

聖書を知らなくても世界中の家族は、大抵は当然のように「父親に従っています」
  

それでも、父親に(横暴な父親を含めて)反抗する子供たちは大勢います。

しかし、健全な父親の指示や助言に従わず、身に災いを招いている場合も少なくありません。

 

神はいたずらに父親に権威を与えたのではありません

家族を責任をもって治めるために与えたのです。

加えて、古代イスラエルでは家族の「」は父親の振る舞いに依存していました。

  

あなたはどう思いますか?  

知恵を求める人のためのブログです。

あたなは食べ物に関してこだわりを持っていますか。

いろんなダイエット方法が考えられていますが、基本的に、人間は適度に筋肉も脂肪もついている必要があります。
も丈夫である必要があります。
そうしないと、力を出せませんし、空腹にも耐えられません。
血中のコレステロールは悪そのものとして見られてはいますが、これがないと人間は新陳代謝が出来ません。
更には、内臓の機能が正常である必要があります。
ホメオスタシスによる自動調節機能やホルモンによる体内の調節も上手く機能する必要があります。
様々なダイエット法がありますが、人間を健康に保つ機能を低下させる場合が多いことを認識するべきです。

 

あなたは外見を重視しますか、それとも、健康を重視しますか?
例えば、芸能人であれば外見は重要です。

しかし、そのために「命を縮めた」人さえいます。  

  

人間が最もしてはならないのは食べ過ぎることです。
これさえしなければ比較的健康でいられるのです。
今や世界中が飽食の時代であらゆるグルメが関心の的になっています。
つまり、美味しいものを好きなだけ食べたいのです。

 

健康でいるためには運動も必要です。
もし、運動をしないのであれば3日に1度の食事で十分だと思います。
それだけ今の人たちは高カロリーの食事をしているのです。
例えば、肉体労働をしている人であれば1日3000カロリーぐらいは必要かも知れません。
事務所で1日座って仕事をしている女性なら1日1000カロリーで十分かも知れません。

 

健康でいるための私の考えは以下の通りです。
基本的には野菜中心の食事でも肉中心の食事でも偏った食事でも大丈夫だと考えています。
注意するのは食べ過ぎないということだけです。
必要以上に食べ物を摂ると余ったものは主に脂肪となって体内に蓄えられてしまいます。
そうなると、その脂肪を燃焼させるのは容易なことではありません
場合によっては1か月間水と塩だけで過ごさないと脂肪を取り除くことは出来ないでしょう。

 

人間の体は良く出来ていて、足りないものは体内で作れる場合もあるのです。
偏った食事が悪いとも言えないのは、
例えば、草だけを食べていても全く問題なく成長します。
山羊や羊などもそうです。
ライオンやトラや豹などは肉しか食べませんがそれでも健康そうです。
草食動物は比較的皆お腹が出ています
肉食動物は大抵お腹は太ってはいません
もし、太ったら餌を摂れなくなり死んでしまうことになります。
野生の鳥などは主に虫や小魚などを食べています。
昆虫に至っては食べるものがそれぞれ全く異なります。
人間から見れば人間以外は皆偏った食べ物を食べています
ですから、人間も偏った食事をしても、おそらく殆ど問題はないと考えています。

 

余談ですが、あるプロレーサーはチョコレートしか食べないと聞いたことがあります。

勿論、他も食べてはいたとは思いますが、殆どチョコレートで済ませていたということだと思います。

それでも過酷なドライバーを続けていたのです。  

  

一見すると今の栄養学がと正しいように思えますが、間違っているとまでは言いませんが、果たして当を得ているのでしょうか


私は主に野菜中心ですがも多少は食べます。
正し、動物性の脂肪は食べないようにしています。
というか食べられないのです、気持ちが悪いのです。
糖質だけは絶対に食べ過ぎないようにしています。
野菜や肉は多少食べ過ぎても殆ど問題はありませんが、糖質だけは食べ過ぎると内臓脂肪が増え、内臓の機能低下につながるからです。
勿論、甘いものやお菓子も好きですが最近ではなるべく買わないようにしています
あると食べたくなってしまうので
基本的にお米は食べません

食べられないのではなく食べないようにしているのです。
パンや麺などもなるべく食べないようにしています

  

昔、若い時お金がない時には安いパスタを買って食べていました。
お金が余りかからずに比較的お腹が満たされるからです。
そのため一時期お腹が出て来たこともありました。
今は、畑で肉体労働をしていますし野菜中心で時々少し肉を食べる程度ですからお腹は出ていません
比較的健康だと思います。

殆ど1日1食(夕食)だけのことが多いですが体重は余り減りません。

現在、58㎏前後です。
お酒も殆ど飲みません
煙草は吸いません
最近はコーヒーの量も減りました。
私はお茶を飲めない体質なので全く飲みません。紅茶でも同じです。
カテキンで胃の調子が悪くなり気持ちも悪くなるからです。
年を取ってから食べ物アレルギーが出るようになりました。
キーウイフルーツ、カイワレ大根などは酷い症状になります。
更に、造影剤にもアレルギーが出て内臓や血管などのレントゲン撮影が出来ません。
普通のレントゲン撮影は大丈夫です。
最近は視力も記憶も衰えてはいますが比較的健康です。
立ったり座ったり階段を上り下りも問題ありません。
多少のジョギングも出来ます。
自転車に乗って良く出かけます。
車の運転も今のところ問題はありません。
車庫入れも上手く出来ます。
交差点や横断歩道や歩道の横断や踏切の一時停止と安全確認なども問題はありません。
むしろ、若い時より良く注意して運転しています
もう40年以上無事故無違反です。

20代の時に軽い交通違反を2回(それも1回はダンプによる煽りを受けてのもの、もう1回はいわゆるネズミ捕りで、しかも、バイクで仕事帰りの車の通行の殆どない場所で信号待ちをしてそれから50mほど先のお店に立ち寄った時に警察が来て呼ばれたのです。3㎞/hの超過だけだったのです。今でも不思議に思っていますが、近所の人がバイクの騒音で警察に苦情を言ったので警察が取り締まりをしたと思われます。当時、近辺では夜中にバイクで騒音を出して走っている若者がいましたから。)軽い事故を2回(二度とも不注意のうっかりミスでした。保険で解決でき警察沙汰にはなりませんでした。つまり、事故証明が必要なかった程度のものだったのです。)したことがありますが、それだけです。
過ぎたるは及ばざるがごとしと昔の人は言いましたが、食べることに関しては「絶対」です。

  

食べ過ぎさえしなければ人は偏食しても健康でいられるのです。
どの程度が食べ過ぎかは人によって異なりますが、基本的に、
常に多少の「空腹感」状態が最も健康を維持出来るのです。
皆さん、ダイエットなどを考えることなく食べたいものを食べましょう
ただし、決して食べ過ぎないことです。

 

昔の人は腹八分が丁度良いと言いましたが、私は腹五分でも腹三分でも十分だと考えています
むしろ、
腹三分の方が圧倒的に健康になれます。
健康のために断食をする人がいますが、
断食より少食の方が優れています
断食だと長く続けれらませんが、少食だと長く続けられます
加えて、
食べたいとき食べたいものを食べられるのです。
グルメも甘いものも少しなら問題はないのです。
ただし、毎日は食べないことです。

 

この他に注意すべき点は腸の調子を悪くしないことです。
最も簡単な方法は、
こめ油を毎食時小スプーン1杯食べることです。
これだけで便通は快調になります。
おそらく、調子が悪くても便秘はしないと思います。
オリーブ油でも良いですが癖があり食べにくいものです。
その点
こめ油は臭いも味も殆どありませんので食べやすいと思います。
こめ油は健康にも良いんです
それでも、3Aマグネシア(便秘薬)などを毎日少し飲んだ方が更にお腹には良いです。
健康な人でも便秘は辛いものです。
便秘はあらゆることに悪さをしますので細心の注意が必要なのです。
体の調子だけではなく脳の働きにも悪影響を与えます
後、食べることに関しては歯磨きについてです。
私は頻繁にキシリトールガムを噛んでいます。
歯磨きの代わりです。
歯磨きを毎日しなくても良くなりますし、老人に多い「誤嚥」による肺炎も予防にもなります。
誤嚥はさけられないものですが、肺炎に至るのを予防してくれると考えています。
つまり、口の中の雑菌を減らす効果もあるからです。
キシリトールガムは少し高いですが虫歯になるよりはずっと良いと思います。
人前であまりモグモグしなくても済みますし、会話にも不自由はありません。
何かを食べる時に邪魔なくらいです。
コーヒーを飲む時も問題はありません。

  

ダイエットや断食をしなくても、少し我慢するだけで健康になれます。

何をするにも健康であることが重要です。

勿論、精神的にも健康である必要があります、が、まずは身体を健康にすることです。
健康は自ら行うことが出来るのです。

 

少食は健康のための第一歩です。     

知恵を求める人のためのブログです。

結婚は大抵互いに愛情が芽生えた時に考え、互いが同意した時にするものと考えています。
しかし、結婚とはそういうものでしょうか
互いの性に惹かれて結婚し、破綻する人も少なくありません
この場合、愛情とは程遠い関係と言わざるを得ません

結婚している人は、自分の配偶者と友人や仕事仲間とは区別して考えているものです。
友人としては最高でも夫や妻としてはそうでない人はいるものです。
そのもあります。
夫婦はいわば共同経営者のような関係です。
互いを尊重し互いに助け合って家庭を築いていく存在なのです。
夫婦いつまでも友人のような関係だと家庭は上手く行かないものです。

 

どちらかと言うと夫婦は仕事上の関係と思うことの方が上手く行くのです。
夫婦愛情で結ばれるよりも「契約」で結ばれた関係と考えた方が
上手く行くのです。
が仕事をしが家庭の一切を行うか、その逆にするか、あるいは、互いにするべきことを決めて折半するかなどを明確に決め互いにそれをしっかりと守ることで家庭は上手く機能するのです。
愛情(友人としての)は友人関係の方が上手く行きます。
互いに負うべき責任が殆どないからです。

 

仕事や家庭などで切実な問題が絡むと上手く行かないことが多いのです。
夫婦間でも子供について互いが話し合って産むかどうかを決める「契約なのです。
夫婦間でもこれに基づかない性関係誰とでも「一切持つべきではない」のです。
男性も女性も性関係がゼロでも死ぬことはありませんし病気になることもありません
夫婦間の愛情は性関係だけではないはずですし、もし、そのように考え違いをしている夫婦がいればその結婚は初めから破綻しているのです。
夫婦間にも愛情はありますが、それは家族としての愛情で、友人との愛情とは異なるものです。
人はこれを区別して分別ある行動をとる必要があるのです。

しかし、日本人は歴史上このような「愛」について知りませんし認識(区別)もしていません

日本人で、常に「四つの愛」を区別し分別を働かせている人は「皆無」なのです。

四つの愛とは、無私の愛(すべての人に対する愛)、家族への愛、友人への愛、異性への愛のことです。

  

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常々思うことですが、日本の女性は「女」を意識し過ぎなのではないかという点です。
この点、特に欧米の女性「女」よりも人間として
男性と対等であることを意識しているように思います。
これは、それぞれの国の歴史と環境の違いから来るものです。

 

日本では、古来より男尊女卑という考えがあり封建制度も長く続き女性や子供たちが虐げられて来た歴史があります。
加えて、江戸時代に貧しさから女性を身売りする場合があり、その多くはいわゆる売春宿に売られて行ったということもありました。
売春は明治になっても昭和になっても戦後も続き、売春防止法が出来ても風俗店は未だに健在です。
日本人の男性にとって女性は性のはけ口ぐらいにしか考えていないかのようにしか見えない場合も少なくありません。
こうした傾向性暴力などの原因となり犯罪が年々増加しセクハラも法律で禁止されても無くなりません。
 

セクハラ、パワハラが法律で禁止になって困惑しているのは男性です。

それまで、普通にしていたことが出来なくなったからです。

これにより仕事がやりにくくなったり女性との接し方がぎこちないものになりました。

 

如何に日本の男性が女性を蔑視して来たかということです。

勿論、西洋でも同様で長らく女性の参政権も与えられず男性と対等に扱われないことがありました。

 

戦後、アメリカで女性の地位向上が叫ばれ少しずつ改善されてきました。

しかし、こうした運動はあくまでも男性と対等の扱いを要求するものでした。

ウーマンリブやその後のLGBT関連の運動が世界中に拡散して行ったのもこのためだったのです。

 

日本でこうしたことが叫ばれ始めたのは極最近のことです。

日本の政治家の態度を見ても分かる通り、日本では男女平等を法律で定めても精神的には不可能です。

その原因は女性特有の問題があるからです。

加えて、現在でも政治家に「囲われた女性」の存在がいることは事実です。


日本で男女平等を求めている女性は「ほんの僅か」です。

これは何を意味しているのでしょうか。

日本女性の多くは「男性依存」だからです。

西洋の女性ほど男性と対等に活動する人がいないのです。

男女平等を快く思わない男性と戦う女性がいないのです。

 

日本女性の傾向は「無思慮に女を主張すること」です。

こうした傾向が男性の女性に対する「意識」を「」に向かわせていると言えます。

 

日本人に限らず、これほど性に貪欲な生物は他に類を見ません
なぜなんでしょうか?
おそらく、人間だけが持っている「思考」「欲」「感情」が原因です。

こうしたことはさておき、日本の女性「女」を過度に意識していることは明白です。
それは、性的な話題を「いやらしい」と考え避けたり騒いだりして、冷静に対応しない、出来ない振る舞いに見て取れます。

偶然ちょっと体に触れただけで大騒ぎをする場合さえあるのです。


その反面、女性は自分を奇麗にかわいく見せたいという思いもあり、性を誘発するような服装を「無思慮に、無分別に」行っているという「矛盾」があることも事実です。
つまり、言葉や態度とは裏腹に「女」を意識しているということです。

別の言い方をすると「女を売り物」にしているということです。

これを「女の武器」として「活用すべきだ」と考える女性も大勢いるのです。

もし、女性が「女」を意識しなければ服装や行いや振る舞いが男性的になるはずです。
日本女性には、そうした傾向が殆ど見られません
企業の事務職以外の女性でもそうです。

もし、
女性も男性のような人生を望むなら「女」を意識しないことです。
もし、結婚して子供を産みたいと思うようになった時に、初めて「」を意識し、それ以後は「女性として」生きることです。
女性として生きるとは、一般的にではなく、一人の夫の妻として生きるということです。
つまり、家事と子育てに専念することです。

もし、結婚した後も女性が仕事を続けると「生活が一層困難」になります。

育児や家事も加わるからです。

現行法では、育児休暇が認められていたり公的手当てがなされています。

しかし、これで問題が解決するわけではありません

他に手段がないのです。

裕福なら家政婦やベビーシッターなどを雇うことも出来ます。

また、育児や子供の教育を専門家に委託することも出来ます。

普通の人には出来ません

結婚したら家庭に入るという考えは今の時代にそぐわないと考える人がいるのも事実です。
男女平等などを声高に叫んでいるのです。
しかし、女性が仕事をしながら育児や家事をすること社会に与える影響は非常に大きいものがあり、また、大きな問題を引き起こす原因ともなっていることは周知の事実です。

つまり、あーすれば良い悪いという問題ではないのです。


日本女性はもっと「思慮深く」「賢く」あるべきです。
そのために「女」を意識することは限定的にすべきなのです。
日本女性は、24時間「女」を意識しています
こうした思い社会を歪にし女性の立場を悪くしているのです。

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トランプ恐るべし。
トランプの捨て身とも思える無謀な取引が、プーチンに何らかの影響を与えています。
というより、プーチンも何らかの対応をせざるを得なかったというところが本音だと思います。
つまり、プーチンもアメリカを「恐れて」いるのです。
唯一、ロシアに対抗出来る相手だからです。
一方の、トランプは「怖いもの知らず」思慮の掛けた無謀な)な振る舞いをしているのです。

ところが、相互関税の発動を90日間延長したりしてトランプ政権は混乱していることから、ウクライナに対する関心が薄れて4月18日には、停戦合意になる可能性がなければ手を引くとまで言い出す始末です。

すると、プーチンは、20日のキリスト教の復活祭にあわせて30時間の停戦を一方的に宣言しました。

これには、様々な憶測がされています。

全く、トランプの脅し効果が出たのかも知れません。

しかし、嘘をつくプーチンのこと、こうした間にも、着々とウクライナの領土の侵害を拡大しているのです。

おそらく、後数年でプーチンは終わりを迎えると考えられています(病気のためです)

そのため、時間が長引けばウクライナに優位となる可能性はあります。

失敗や非難を恐れるバイデンでは出来なかったことです。
トランプのような、いわば、ヤクザのような人間だから出来るのです。
つまり、
以前にも書きましたが、トランプとプーチンは同じ穴のムジナなのです。

トランプやバンスのような存在が、アメリカ離れの要因となっていることは「善い」ことです。
バンスは以前のペンス副大統領とは「悪さの点」では雲泥の差です。
トランプもそうですが、バンスも「まともな政治家」とは100%言えません

 

それでも、ここに来て日本が相互関税に関してアメリカとの交渉をしたことでトランプへの助け船となって少し様子が変わって来ました。

トランプの思惑通りアメリカとの交渉する国が出て来て、中国が浮いた形になっています。

世界はアメリカとロシアからのあらゆる影響を排除した方が「平和で安全」を保てるのです。
世界の覇権を争い、特に自由と民主主義を建前にして経済で自国を優位にするために混乱を招いているのがアメリカであり強権国家ロシアなのです。

正に、聖書に記されているように「龍(悪魔)が野獣に権威を与え、大仰に語る」ようにさせたのです。
啓示13-14章には次のように記されています。
13章
そして[]は海の砂の上に立ち止まった。(龍とは悪魔のこと)


また,わたしは一匹の野獣が海から上って行くのを見た。十本の角と七つの頭があり,その角の上には十の王冠があったが,その頭には冒とく的な名があった。(神を冒涜するような名のこと)


2 さて,わたしの見た野獣ひょうに似ていたが,その足は熊の[足]のようであり,その口はライオンの口のようであった。そして,龍は自分の力と座と大きな権威を[その野獣]に与えた
3 そしてわたしは,
その頭の一つがほふられて死んだかのようになっているのを見た。しかし,その致命的な打ち傷はいえた。それで,全地は感服してその野獣に従った
4 そして
彼らは,野獣に権威を与えたことで龍を崇拝し,また,「だれがこの野獣に等しいだろうか。いったいだれがこれと戦いうるだろうか」と言って野獣を崇拝した。
5 そして,
大いなることや冒とく的なことを語る口がそれに与えられ,また,四十二か月のあいだ行動する権威が与えられた。
6 そして,それは口を開いて神を冒とくした。そのみ名と住まい,さらには天に住む者たちを冒とくするためであった。(これは、全地が龍を崇拝したことで、これから神が行うことを冒涜したということです。)


7 そして,聖なる者たちと戦って彼らを征服することが許され,あらゆる部族と民と国語と国民に対する権威がそれに与えられた。(それとは野獣のことです。)


8 そして,地に住む者は皆それを崇拝するであろう。ほふられた子羊の命の巻き物には,彼らのうちのだれの名も,世の基が置かれて以来書かれていない。

地に住む者たちすべて野獣を崇拝する訳ではありません

 野獣を崇拝しない聖なる者たちがいるからです。)


9 耳のある者がいるなら,聞きなさい。
10 捕らわれの身となる[はずの]者がいるなら,その者は捕らわれの身となる。剣で殺す者がいるなら,その者は剣で殺されなければならない。ここが
聖なる者たちの忍耐と信仰を意味するところである。
11 また,わたしは別の野獣が地から上って行くのを見た。それには子羊のような二本の角があった。それは龍のように話しはじめた。
(この二本の角は、イギリスとアメリカを指しているかも知れません。)

12 そして,第一の野獣のすべての権威
その前で行使する。また,地とそこに住む者たちに,致命的な打ち傷のいえた第一の野獣を崇拝させる
13 また,
大いなるしるしを行なって,人類の前で火を天から地に下らせることさえする
(原爆の理論をイギリスがアメリカに提供し、アメリカが科学者の粋を結集し原爆を開発製造しそれを日本に対して実際に使用したことを指していると思われます。)

14 そして,
野獣の前で行なうことを許されたしるしによって地に住む者たちを惑わし,一方では,剣の一撃を受けながら生き返った野獣のために像を作るようにと地に住む者たちに言う。
(像を作るということは、野獣を崇拝させるために一致した組織を地に住む者たちに作るようにと提

 案したということです。
 そして、戦後新たに作られた国連というその組織に加盟するように仕向けたということです。)

15 またそれには,野獣の像に息を与えることが許された。それによって野獣の像は話すようになり,また,野獣の像をどうしても崇拝しない者たちをみな殺させるようにするのである。
(像に息を与えるとは組織が機能することであり、それにより国連として世界に発信するようになっ

 たということです。
 
16 また
それは,すべての人,すなわち,小なる者と大なる者,富んだ者と貧しい者,自由な者と奴隷を強制して,その右手や額に印を受けさせ,
17 また,その印,つまり野獣の名もしくはその名の数字を持つ者以外にはだれも売り買いできないようにする。

(それとは二本の角のある野獣のことです。)


18 ここが知恵の関係してくるところである。そう明な者は野獣の数字を計算しなさい。それは人間の数字なのである。そして,その数字は六百六十六である。
この印を受けた者たちは野獣と共に永遠の滅びを身に受けることになっています。)

これに対抗するように、続けて別の存在についても記されています。

14章
またわたしが見ると,見よ,子羊がシオンの山に立っており,彼と共に,十四万四千人の者が,彼の名と彼の父の名をその額に書かれて[立っていた]。
2 またわたしは,多くの水の音のような,そして大きな雷鳴のような音が天から出るのを聞いた。わたしが聞いた音は,自分で弾くたて琴に合わせて歌う歌い手たちの[声]のようであった。
3 そして彼らは,み座の前および四つの生き物と長老たちの前で,新しい歌であるかのような[歌]を歌っている。地から買い取られた十四万四千人の者でなければ,だれもその歌を学び取ることができなかった。
4 これらは女によって自分を汚さなかった者である。事実,彼らは童貞である。これらは,子羊の行くところにはどこへでも従って行く者たちである。これらは,神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られたのであり,
5 その口に偽りは見いだされなかった。彼らはきずのない者たちである。

13章の龍と二匹の野獣と14章の子羊と十四万四千人の者は
明らかに異なる存在で、
一方は地に災いをもたらす存在であり、他方は地に平和をもたらす存在です。

正に、アメリカとロシア悪魔から「力と座と権威」を与えられ全世界はこの野獣に従っています。
だれがこの野獣に等しいだろうか。いったいだれがこれと戦いうるだろうか」と言ってこの野獣[たち]に従っているのです。
野獣たちには、「大いなることや冒とく的なことを語る口がそれに与えられ,また,四十二か月のあいだ行動する権威」も与えられているのです。

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参考
この象徴的な四十二か月は実際にはどのくらいの期間かは今は分かりません。
文字通りなら3年半です。

第二次世界大戦の、いわゆるドイツ・イタリア・日本などの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国とイギリス・フランス・中華民国・アメリカ・ソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦)などを中心とする連合国との戦いは、1942年に成立した連合国共同宣言から始まり、1945年5月のドイツの降伏で終わったと見なすことが出来るかも知れません。(ほぼ、3年半です。)
中立国も存在しています。最終的には連合国陣営の勝利に終わりましたが、第一次世界大戦以来の世界大戦となり、人類史上最大の死傷者を出した戦いでした。

もしくは、
1945年2月4日から11日にかけてのヤルタ会談、あるいは、1945年(昭和20年)7月26日のポツダム宣言(正式名称は、日本への降伏要求の最終宣言)と1945年8月14日に日本政府がこの宣言を受諾し、9月2日に連合国への降伏文書調印した期間の[およそ3年半]を指すかも知れません。

第一次世界大戦は、1914年7月28日から1918年11月11日にかけて、連合国と中央同盟国間で行われた世界規模の戦争で、連合国(ロシア帝国、フランス第三共和政、大英帝国の三国協商に基づく)と中央同盟国(主にドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国)の両陣営に二分したものです。

イタリア王国は、ドイツ帝国およびオーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を締結していましたが、イタリア(一部分)を巡ってオーストリアと対立していたため、英仏とロンドン密約を結んで連合国側で参戦しています。

諸国が参戦するにつれて、両陣営の同盟関係は拡大されていった。例えばイギリスと日英同盟を結んでいた大日本帝国は連合国側として、ドイツと同盟を結んでいたオスマン帝国は中央同盟国側として参戦しました。

参戦国や戦争に巻き込まれた地域は、2018年時点の国家に当てはめると約50カ国に達するといわれています。

ちなみに、第一次世界大戦ではアメリカは1917年に連合国に加入し、ロシアでは1917年3月に2月革命によって帝政が崩壊し、代わって成立したロシア臨時政府も十月革命で打倒され、軍事上でも敗北が続くと、ロシアは中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結して大戦から離脱しています。

こうしたことを考慮すると、期間を含めて
第一次世界大戦「四十二か月」には該当しないと考えられます。

また、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は啓示17章に記されている六番目王ローマ帝国の末裔と見なすことが出来るかも知れません。

啓示17章には次のように記されています。
17章
また,七つの鉢を持つ七人のみ使いの一人が来て,わたしと話してこう言った。「さあ,多くの水の上に座る大娼婦に対する裁きをあなたに見せよう。
2 地の王たちは彼女と淫行を犯し,地に住む者たちは彼女の淫行のぶどう酒に酔わされた」。
3 そして彼は,霊[の力]のうちにわたしを荒野に運んで行った。そこでわたしは,冒とく的な名で満ちた,七つの頭と十本の角を持つ緋色の野獣の上に,ひとりの女が座っているのを目にした。
4 また,その女は紫と緋で装い,金と宝石と真珠で身を飾り,手には,嫌悪すべきものと彼女の淫行の汚れたものとで満ちた黄金の杯を持っていた。
5 そして,額にはひとつの名が書いてあった。それは秘義であって,「大いなるバビロン,娼婦たちと地の嫌悪すべきものとの母」というものであった。

(秘儀ということは、その意味は神が明かさない限り誰にも分らないということです。)


6 またわたしは,その女が聖なる者たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。
さて,彼女を目にした時,わたしは非常に不思議に思った。
7 すると,み使いがわたしに言った,「なぜ不思議に思ったのか。わたしは,女と,その[女]を運んでいる,七つの頭と十本の角を持つ野獣の秘義をあなたに告げよう。
8 あなたの見た野獣はかつていたが,今はいない。しかし底知れぬ深みからまさに上ろうとしており,そして去って滅びに至ることになっている。こうして,その野獣がかつてはいたが,今はおらず,後に現われるようになるのを見る時,地に住む者たちは驚いて感心するであろう。しかし彼らの名は世の基が置かれて以来命の巻き物に書かれていない。(啓示13章の繰り返し

9 「ここが知恵の伴うそう明さの関係してくるところである。七つの頭七つの山を表わしており,その上にこの女が座っている。
10 そして七人の王がいる。五人はすでに倒れ,一人は今おり

六番目の王のこと、当時の帝国はローマでした。

 七つの山には七人の王がいると示されています。

 山は帝国のような大きな支配を示しており、王はその支配者です。

 したがって、七つの山同時に存在しているのではなく時代を受け継ぐ形で存在するということ

 です。)

 

,他の一人はまだ到来していない。しかし到来したなら,少しの間とどまらなければならない。
11 そして,かつていたが今はいない野獣,それ自身は八人目[の王]でもあるが,その七つから出,去って滅びに至る
七番目の王は、ローマ帝国の末裔を倒した王であり、八番目の王=野獣の創設者と思われます。)

12 「また,あなたが見た十本の角十人の王を表わしている。彼らはまだ王国を受けていないが,一時のあいだ野獣と共に王としての権威を受けるのである。
13 これらの者は一つの考えを抱き,それゆえに自分たちの力と権威を野獣に与える
龍[悪魔]とは別に十人の王たち野獣に自分たちの力と権威を与えています
 つまり、
自分たちの代表者と認めるということです。
 世界中の各国の権力者たちが、自分たちの代表者として認める存在は、今の国連と言えるかも知れ

 ません。
 しかし、国連には[実質的な力も権威もないことはニュースで明らかになっています。)

14 これらの者は
子羊と戦うであろう。しかし子羊は,主の主,王の王であるので,彼らを征服する。また,召され,選ばれた忠実な者たちも彼と共に[征服する]」。
(子羊は平和の君と呼ばれています。-イザヤ9:7
 したがって、子羊と戦うということは地に争いをもたらす存在だといことです。

 十人の王で示されている王たちは山の支配者ではありません。

 これらは地上の、より小さい支配者たちのことです。

 平和を求める市民権力者との戦いを示しているかも知れません。)

15 また彼はわたしに言う,「あなたの見た水,娼婦が座っているところは,[もろもろの]民と群衆と国民と国語を表わしている。
16 そして,あなたの見た十本の角,また野獣,これらは娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸にし,その肉を食いつくし,彼女を火で焼き尽くすであろう。
17 神は,ご自分の考えを遂行することを彼らの心の中に入れたからである。すなわち,彼らの王国を野獣に与えて[彼らの]一つの考えを遂行し,神の言葉の成し遂げられるに至ることである。
18 そして,あなたの見た女は,地の王たちの上に王国を持つ大いなる都市を表わしている」。
(十本の角、また野獣の上に座っている存在、つまり、権力者たちの上の存在であるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教や神道などの宗教指導者たちは自分たち=十本の角、また野獣のための「平和」を実現させることができないため彼らを憎み、火で焼き尽くすと示されており、神が野獣にご自分の考えを入れそれを遂行するようにさせると記されているのです。)

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アメリカは「大いなるしるしを行なって,人類の前で火を天から地に下らせることさえ」したのです。
2度の原爆投下はポツダム宣言、つまり、日本に対する降伏要求をした直後に行われました。
日本に対して降伏を促がしておきながら
その返答を待たずトルーマンは原爆を投下を命じたのです。
明らかに、
戦争犯罪です。)

(参考:聖書ではこのような記述は1回しか出て来ませんから、
核ミサイル攻撃は今後も起きないと考えられます。)

そして,彼ら=野獣は(戦争や経済を口実に)「口を開いて(地に平和をもたらそうとしている)神を冒とく」しているのです。
彼ら=野獣には「聖なる者たちと戦って彼らを征服することが許され,あらゆる部族と民と国語と国民に対する権威がそれに与えられ」ています。
世界中の人々は皆、彼らに従っています。
しかし、野獣たちと野獣を崇拝する者たちは「子羊の命の巻き物には,彼らのうちのだれの名も,世の基が置かれて以来書かれていない」のです。

(つまり、だれが野獣を崇拝する者であるかは、初めから分かっているということです。

 ある意味、初めからこのような者が出現するようになることが分かっていたということです。)

聖書の記述と現実とを照らし合わせて考えてみましたが、皆さんはどのように思いますか?
聖書の解釈は難しいのです。
出来事をそのまま記していないからです。

聖書を読む人洞察力や識別力を要求しているからでもあります。
つまり、

不義なる者が聖書を正しく理解出来ないようにするためなのです。
不義なる者たちを益々頑なにするためであり、滅びを(裁きを)身に受けさせるためなのです。  

知恵を求める人のためのブログです。

手話はとても良いコミュニケーションツールです。

人は話すのが当たり前と誰しもが考えています。
聾唖者などの病気の人を除いてですが

個人的には手話はとても良いコミュニケーションツールだと考えています。
つまり、自分が言いたいこと手や表情を使って表現するので、思ったことや考えたことを表現する間に間があるので、その間に今自分が思っていることを伝えて良いかどうか考える時間が出来るので、思慮分別が働くので良いと思う訳です。
また、
手話の良い所は、怒っても大声を出さないことです。
勿論、手を叩いたり机などを叩いたり、相手に暴力を振るったりすることはあるかも知れません。
聾唖者が暴れることは聞きますが誰かに暴力を振るったというのは余り聞いたことがありません
これにはそれなりの理由があるのだと思います。
そうさせない、あるいは、そうできない理由があるのかも知れません。

健常者から見ればまどろっこしく見えますが、実際に自分が手話などをしてみればとても良い方法だと思うはずです。

話を健常者に戻しますと、
普通は、自分の考えや思ったことを話すものです。
もっと深く考えれば、
初めから「ことば」が頭の中に出て来る訳ではないことは誰でも知っていることです。
つまり、
頭や心や感じた事思ったことを、あたかも自動翻訳機のように「即座に言葉」として「口から出てくる」ということです。

この点、作家や脚本家やニュースソースを書く人などは、頭の中で「言葉で考えている」場合もあります。
あるいは、頭でイメージが湧くそれを如何に言葉にして表現するかなどを考えるものです。

従って、普通人は思ったことを殆ど考えることなしに言葉として発しているのです。
それでも時には「言った方が良いか」あるいは「話しても良いだろうか」などと考えたりするものです。

殆どの人は日常的にこうしたことを自然に行っている訳です。
そうでないという人がいたら、そのような人はどのようにして会話をしているのかと聞いてみたいと思います。

年を取ったり、いわゆる頭の回転の遅い人は、話すことが苦手になってしまいます。
話せない訳ではありません
上手く表現できないだけ、言葉が出て来ないだけである場合が多いのです。

会話その人の知的レベルを表すとも言えます。
口から出まかせでも、次々を言葉が出て来るのは、ある意味「特技」の一つと言えます。
だからと言って、物事がすべて上手く行くという訳ではありません。
時には、恥をかくこともあれば相手を怒らせてしまう場合もあるからです。
口は災いの元と言います。
何を話し何を行うかは常に思慮分別が求められるのです。
話すことは単に意思疎通のツールであるばかりではなく、自分の考えや感情の表現でもあります。

人間はこの能力を高めるため幼い時から話す能力、読み書きの能力の向上のため学校で学んでいるのです。
知的能力を年齢と共に向上させるのは人間だけです。

また、人間は相手が話す言葉を先読みし、それに対して何を言うか、おそらく感情や気持ちで予知し相手の言うことが終わるや否や即座に自分の考えなどを言うことも出来るのです。
大抵、人は相手の言うことを聞きながら考えているものです。
そうでなければ、次々と言葉が出て来ないのです。
何かを言われてから反応が遅いと「鈍い」とか「とろい」などと言われ、あたかも「バカ」であるかのように見られたこともあったのです。
幼い子供たちのグループ活動などを見ていると、今でもこういうことが起きているのです。
つまり、
これは自然な反応なのです。
そのようにして、人間は言葉の反応の速さ頭が良いとか賢いなどと言い、自然に対抗意識を持つようになっているのです。
こうした傾向は必ずしも良いこととは言えません人間はそのような性質に作られているのです。

そのため、
人間はこうしたことについても成長した大人になる必要があるのです。
そうしないと人は常に誰かと争うことになってしまうからです。
特に今の若者たち自分自身を制御せずに思うがままに振る舞うので、ある意味、全く成長しない子供のようなものと言えるのです。

 

ですから、皆さん手話を学び、手話で話しをしてみましょう

会話や思考の傾向が変わるかもしれません。