知恵を求める人のためのブログです。
聖書と仏教の違いは、結論から言えば、
ある大きな箱とその中のものを作った者から見た考えと、
その箱の中から、箱の中だけを見た考えの違いだと言えます。
更に別の例えを示しますと、
ある人がある目的のための製品を作ったとします。
その製品を買った人は、その製品の使い方についてあらゆる手段や方法を考え用いることがあります。
その製品を作った本来の目的とは異なる使い方をすることは良くあることです。
聖書にはすべてのものを作られた神の考えが記されていますが、
仏教には神によって創造された人間の生き方に関するありとあらゆる知恵と能力の結晶が記されているのです。
どちらも、現実の世界については「同じような」ことを述べていますが、
決定的な違いは、その解決方法と物事を解決する「力」の差です。
聖書の神には根本的に解決する方法と解決する「力」がありますが、
仏教では論じる「能力」はありますが、解決する「力」はありません。
聖書の記述の多くは人間と神との関わり合いの歴史です。
その中に神の預言と神のおきてが示されており、おきてを守ることが真の幸福と命を守ることに通じると繰り返し述べられています。
聖書には仏教のような生まれ変わる輪廻転生という教えはありませんが、復活と永遠の命という教えがあります。
聖書には天地人の創造の記録が記されています。
聖書には自然についても正しく記されています。
聖書では「強欲=偶像礼拝」を禁じています。
聖書では神の見地から何が正しいことで何が悪いことかを示しています。
聖書では悪魔と悪霊の存在について示しています。
聖書では病気や死などの原因が示されており、最終的には神により苦しみ、悲しみ、病気、死から解放されることが示されています。
聖書では目には見えない神の居場所である天についての詳細が述べられています。
これは空想ではありません。
聖書には、人間が存在する理由と未来について述べられています
聖書には人間だけに理知が与えられた理由が述べられています。
聖書には将来のことが正確(例えや比喩的ではありますが)に記されています。
神から与えられたのは書物は聖書だけです。
見えない神の存在は確かなものです、なぜなら、理知ある人間が今も生きて活動しているからです。
一方、仏教では人間の気持ちや感情や思いに関することが中心です。
聖書のような人間の活動を超えた事柄は願望や想像以外一切含まれていません。
仏教では諸悪の根源は煩悩であるとし、この煩悩を克服することで幸せになれると説いています。
仏教はいわば人間学(現象論)であり、心理学(方法論)であり、人間の様々な感情、精神状態、欲とその克服方法などが述べられています。
これらは、人間が人間を研究し確立したものです。
仏教では輪廻転生を繰り返し、煩悩を克服することで精神状態を高め、最終的にはこれから解脱して涅槃に至ることを目標としています。
(参考:涅槃に至るとは、分り易く言えば、人間ではない仏のような霊的な存在として永遠に生きら
れるようになるということです。
これは、自力で到達しなければならないことです。
この点聖書では、神が義人と認めた者だけが永遠の命に与(あずか)れるというものです。)
聖書では、神のおきてを守りイエス・キリストに信仰を働かせることで最終的に永遠の命に与(あずか)れると述べられています。
聖書では悪の始まり、別の言い方をしますと「罪」の始まり(原因)が記されており、悪い考え、悪い行いを捨て神のおきてに従うようにと記されているのに対し、
仏教ではなぜ悪い考え(欲望など)、悪い行いをするのかという「心の内」まで立ち入って、それを克服する方法について述べられています。
これらについて、仏教では体系的に示していますが、克服するには厳しい修行が必要とされています。
仏教では悪を行ったことに対する「罰」については「因果応報」という考えに基づき、その報いを受けるとされていますが、聖書のように「具体的な罰」が与えられるとは示されはいません。
つまり、仏教では悪いことをすれば悪いことが起き善いことをすれば良いことが起きるという考えです。
つまり、善いことを行い、悪いことをしないようにということであり、結果がいわば報いであり罰なのです。
聖書では悪に関しては「罪」として述べられており、その「罪」を悔い改め克服することと、イエス・キリストの贖いの犠牲に対する信仰により「許される」と示されています。
また「罪」を犯すと「罰」を与えられることも示されています。
つまり、悪(「罪」)に関してはいわば刑法として述べられています。
仏教による「悪」についての説明は人の悩みや苦しみと言った煩悩によるものとして示され、それを克服するよう「自力で努力」するようにとしています。
聖書における悪に関しては、道徳に関しても犯罪に関しても、その罪と罰と許しに関して明確に記されています。
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以下に仏教について、幾つかの点を抜粋して見たいと思います。
仏教でいう煩悩については、その内容が詳細に示されています。
また、煩悩を抱える原因についても言及されています。
108の煩悩があると言われていますが、これは「沢山ある」という意味で、実際にはもっとあり84000もあるとさえ言われています。
また、その人自身の過去現在未来つまり輪廻転生とその因果関係についても述べられています。
煩悩を捨て苦しみから解放されるための方法も述べられています。
煩悩が生じる根本原因は「執着心」と「思い込み」であると言われています。
また、
人間のあらゆる事柄に対する「欲」が「苦しみ」の原因であると教えています。
仏教の超人的な存在(仏像など)は「人間が考え出した偶像」です。
釈迦は実在の人物ですが、他の様々な像は人間が作り出したものです。
(釈迦は自らが書き残したものも像も作ってはいません。
すべて弟子たちがしたことです。)
人間は見えないものより、見えるものを「頼り」にする傾向にあります。
それゆえ、
仏教や神道やいわゆるキリスト教では「見える存在」を崇拝の対象としています。
これ以外の原住民の宗教も、人間の性質と自然との関係から、人間が考え出したものです。
例えば、
文字を持たなかったアイヌやアメリカインデアンなどの宗教的考えなどもそうです。
「不可思議な出来事」については、いわゆる「シャーマン」という存在の「霊能」によって説明がされています。
日本の「いたこ」もシャーマンの一種であると言われています。
聖書ではこれらは「悪霊の仕業」としています。
ただし、聖書でも神の霊感を受け、預言をしたり「力」を示したりする場合が記述されています。
しかし、聖書を実際に読む限り、これらを混同することはありません。
人間には、悪霊によるものか、単に人間によるものかの区別が「難しい」ですが、
見分け方は、「善い事柄はすべて神から出ている」という点です。
「悪霊の霊感の表現はすべて悪い事柄」です。
例えば、悪いことを祓うため(人間の)犠牲を捧げるなど。
真の神の崇拝者を迫害したり、地位や名誉や欲も用いたり、敵対する相手を攻撃したり呪ったりこれに類する事柄を行うように仕向けるのは「悪霊の仕業もしくはその影響」です。
(参考:聖書では、悪魔が「自分をいつも光の使いに変容」させているとしています。
つまり、表向きは「善いこと」を話し、そのように思わせるということです。
しかし、それが偽りであることは「その終わりは業、つまり、行いに応じたものとなる」というこ
とから、結果で明らかなものとなります。-コリント(二)11:14-15
また、神に祈っても聞かれないと思う場合があることも事実です。
したがって、
人間には神も悪魔も区別がつかないこともしばしば起きるのです。
神に祈ってもその通りにならないのは、人間の祈りが間違っているか、神がその祈りを聞き届けら
れないかのいずれかです。
なぜなら、神は決して「間違ったことをしない」からです。
神は、「時」をも考慮に入るのです。
イエスですら、苦しみから逃れられたいと思ったことがありましたがその願いは聞かれませんでし
た。-マタイ26:39、27:46)
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仏教の教えに関して、具体的には、「三毒」というものがあります。
煩悩を象徴的に示す代表例として、「貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)」の三毒が挙げられています。
三毒:貪・瞋・痴(とん・じん・ち)とも言われています。
その意味は、
貪(むさぼり):必要以上に欲する心 ⇒貪欲
瞋(いかり):憎悪や怒りを抱く心 ⇒怒りと憎しみ
痴(おろかさ):正しい道理を理解せず、誤った認識に囚われる心 ⇒愚かさ
これらが絡み合うことで、人は混乱し、自分自身や他者を苦しめる行為に向かいやすくなると言われています。
聖書でもこれらを「悪」としています。
仏教では煩悩克服へのアプローチ(内面を克服する方法)が示されています。
聖書ではここまでは立ち入ってはいません。
一歩目:自分の心を観察し、客観的に認識すること。
煩悩克服の出発点は、「いま自分は欲望や怒りに駆られていないか?」と心を客観的に見つめることと言われています。自分の内面に生じた感情に気づくことで、それがただの心の動きであると理解でき、煩悩に振り回されにくくなるとされています。
二歩目:瞑想や呼吸法により心の安定を図ること。
呼吸に集中する瞑想や、座禅による内観は、雑念を手放し、今この瞬間へと意識を向けやすくすると言われています。心を静めるこのプロセスが、煩悩による動揺を和らげ、安定した精神状態へと導いてくれるとされています。
三歩目:執着を手放し、八正道や中道の実践へと進むこと。
仏教には、正しい理解と行為を身につける「八正道」や、極端を避ける「中道」という教えがあります。これらは、過剰な欲望や激しい怒りを抑え、バランスの取れた生き方を育むための指針とされています。欲しいものが手に入らない場合でも、それを嘆くのではなく、その状況を受け入れる柔軟さが煩悩を和らげる鍵とされています。
八正道とは何か?
八正道とは、仏教の教えの核心をなす道徳的、精神的な指針のことです。
その名の通り、八つの「正しい」または「適切な」道(方法)を示しているとされています。
これらは「正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定」であり、それぞれが人間の行動、言葉、心の三つの側面を規定しています。
(つまり、人間の内面を分析したものです。)
八正道の意味は、
真実に向かって正しく見る(正見)
正しい思考を持つ(正思惟)
正しく言葉を使う(正語)
正しい行動をする(正業)
正しい生業を選ぶ(正命)
正しい努力をする(正精進)
正しいマインドフルネスを持つ(正念)
正しい集中力を持つ(正定)
これらは連続したステップではなく、相互に関連し合っているとも言われています。
八正道は、つまり、自分の内面をこのように保つことで、苦悩からの解放と、より平和で充足感のある生活を追求するための道筋を維持しようとすることです。
「道」の諦め(明らかにすること、真理)とは八正道そのものであり、苦悩の原因から解放するための実践的な方法を示したものとなっていると言われています。
八正道を詳しく説明しますと、
1 正見(しょうけん)
正見とは、世界と自己を正確に理解することとしています。
それは事実を認識し、生命、苦悩、そしてその原因を深く理解することを意味します。
これは自己認識の始まりであり、四諦の理解(苦(くつ)、集(しゅう)、滅(めつ)、道(どう)の四つの真理(諦)のこと)(後述)を含むとされています。
正見は、物事が連続的に変化する本質を理解し、全てが互いに関連し影響しあっているという視点を開くことを促すとされています。
2 正思惟(しょうしい)
正思惟は、健全な思考と意識的な認識を指すとしています。
それは自分自身の思考や感情を自覚し、それらが行動や結果にどのように影響を及ぼすかを理解することを意味します。
正思惟は、優しさ、慈悲、そして他者への共感の感情を育むことで、ポジティブな行動と結果を生み出すと言われています。
3 正語(しょうご)
正語は、真実で建設的な言葉を話すことを強調しているとしています。
これは、優しさと誠実さで言葉を選び、他人を傷つける言葉や無意味な会話を避けることを含みます。
正語は、言葉が私たち自身と他人に与える影響を理解し、それを積極的に利用することを奨励しているとされています。
4 正業(しょうごう)
正業は、有益で誠実な行動を指すとしています。
それは、他人に害を与える行動を避け、寛容、理解、そして慈悲に基づいて行動することを意味します。
正業は、自分の行動が他人や環境に与える影響を考慮し、自己の行動とその結果を調和させることを重視するとされています。
5 正命(しょうみょう)
正命は、自分の生計を立てる方法を指すとしています。
これは、他人や社会、環境を尊重する形で、誠実に生活を営むことを強調しています。
正命は、自分の行動が他人や世界に与える影響を認識し、それに基づいて責任ある選択を行うことを奨励しているとされています。
6 正精進(しょうしょうじん)
正精進は、持続的な努力と自己改善を指すとしています。
それは、物事を改善し、自己を発展させるための持続的な努力と、自己の成長と進化を適応する意欲を含みます。
正精進は、自己改善の旅を続け、人生の目標に向かって一歩一歩進むことを奨励しているとされています。
7 正念(しょうねん)
正念とは、現在の瞬間に完全に意識を集中させることとしています。
これは、自分自身の思考、感情、感覚を認識し、現在の瞬間を完全に生きることを強調します。
正念は、マインドフルネスの実践を通じて、自己認識を深め、現実をより深く理解することを促すとされています。
8 正定(しょうじょう)
正定は、心の平静と集中を指すとしています。
それは、深い瞑想と内的な平和を通じて、心の混乱を落ち着かせ、心を一点に集中させることを意味します。
正定は、内面の平和を育むことで、外部の困難や苦悩に対処する力を強化すると言われています。
仏教では「中道」という言葉も良く用いられています。
「中道」とは 、 極端を避け、調和を大切にする生き方のことだとされています。
「中道」とは、仏教の根本的な教えの一つで、極端な行動や思考に偏ることなく、中庸を心がける生
き方を指しています。
参考:【中庸】 とは、仏教用語ではありません。儒教の言葉です。
中国、戦国時代の思想書。1巻。子思の著と伝えられています。「礼記 (らいき) 」中の一編であったが、朱熹 (しゅき) が「中庸章句」を作ったことから、四書の一として儒教の根本書となりました。
天人合一の真理を説き、中庸の誠の域に達する修養法を述べたものです。
言葉の意味は、
かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさまのことです。
仏陀は、苦行や贅沢三昧といった両極端な生活を経験した後、「中道」こそが真の幸福に繋がる道だと気づき、悟りを開いたと言われています。
現代社会で例えるならば、仕事に熱中するあまり、プライベートを犠牲にしてしまう、あるいは、健康的な食事を心がけるあまり、極端な食事制限に走ってしまう、といった行動が挙げられますが、
「中道」とは、これらの極端な状態に陥ることなく、自分にとってちょうど良いバランスを見つけることだとされています。
この八正道と中道という考え方が煩悩を克服し人を幸せにするというものです。
八正道と四諦の関係
八正道は、仏教の「四諦」の一部として位置づけられています。
四諦とは、苦(くつ)、集(しゅう)、滅(めつ)、道(どう)の四つの真理で、人生の苦悩の本質と、その克服の方法を説明しています。
四諦
苦諦(くたい:人生は苦である)
集諦(しゅうたい:苦の原因は無知と欲望)
滅諦(めったい:苦を絶つ方法)
道諦(どうたい:苦から解放される道)
般若心経に「苦 集 滅 道」という言葉が登場しますが、それは四諦の事だと言われています。
『般若心経』は正しくは『般若波羅蜜多心経』と言われています。
「般若波羅蜜多」について説く経典は多くあり、それらを総称して般若経典と呼び、般若経典は紀元前後から作られ始め12世紀頃までに作られたとされています。
『般若心経』はその中のひとつで、般若経典の神髄を短くまとめた経典だとされています。
釈迦は、四諦の法門を説いて、生・老・ 病・死の四苦をはじめとする、さまざまな人生苦から救い、現象へのとらわれから解脱した境地を示したと言われています。
法門とは仏の教えのことで、「真理に到るための入り口」という意味のことです。
ちなみに、
親鸞の示す教義体系を表す「六三法門」という語があります。
これは浄土門における真実の教えと方便の教えについて六種の名目をもって示されたものであり、
親鸞は真実と方便の教えを分けることにより、方便を捨てて真実の教えに帰すべきことを勧めたとされています。
四(聖)諦とは、「4つの聖なる真理」という意味です。
この4つの真理は、苦諦と集諦、滅諦と道諦、2つずつの組み合わせとなって、それぞれが原因と結果の関係を結んでいます。
集諦が原因となって苦諦という結果をもたらし、
道諦が原因となって滅諦という結果をもたらすとされています。
この因果関係によって真理のありようが説かれているのです
四諦とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦の事で、真実の姿を認識する事だとも言われています。
1 苦諦とは、人間は老いや死等に対する苦しみがあり、人生は苦であることを見極めさせ、人生の現実の相を明らかにしたものだと説明されています。「色に於いて知らず、明らかならず、断ぜず、欲を離れず、心解脱せざる者は生老病死の怖れを越ゆること能わず。 されど、若しくは知り、若しくは明らかに、若しくは断じ、若しくは欲を離るれば、生老病死の怖れを超ゆ」(『雑阿含経』)としめされています。
誰もが持っている苦しみは八つあります。それを四苦八苦と呼んでいます。
一 生は、この世に命を授かったこと自体苦の始まりのこと。
もし生まれる事がなかったなら、暑さ寒さ・天災地変・飢饉・疫病・貧困・不仲・不安等日常生活を送る中で発生する苦しみを受けなくてもいい筈だとのべています。
二 老は、不老長寿の妙薬を飲んでも一日一日老いを重ねること。
三 病は、病を得た事がない人は何処にもいないこと。
四 死は、肉体はいつかは壊れ死を迎えること。
この四苦と
五 愛別離苦は、異性間の恋愛のみに拘わらず、親子・兄弟・朋友・知己等いつかは別れ別れになってしまうこと。
六 怨憎会苦は、全ての人と一生仲良く暮らすことはできないということ。
七 求不得苦は、金銀財宝地位名誉等求めても得られない苦しみのこと。
八 五蘊盛苦は、気分のいい時もあればそうでない時もあり、自分の意志で心や体調を整える事が出来ないということ。
先の四苦と合わせて八苦です。
人間は、「移り変わるもの」を「永久に不変のもの」と錯覚し、たえず執着をつくり出しているといわれています。釈迦は、ことさら人生を苦の一面だけを指摘したのではなく、人生のありのままの相である「苦」を正直に示し、一時の喜びや楽しみは、いつかは消え失せ、その影には必ず「苦しみ」が続くと述べています。酒や遊びなどで一時逃れをせず、しっかりと「現実」を見すえて「苦」を正面から受け止め、その原因を見つめる態度が大事だとのべている訳です。
「諸行無常」の真理を悟り、今の苦しみは永遠のものではなく、また今の楽しみや喜びも永遠ではなく一時的なもので、これらの現象にとらわれない生活習慣をつけることが修行であると考えています。
2 集諦の集とは集起の略で諸縁が集まって起こる原因の事とされています。 諦は真理・真実という事で、明らかに物事を眺める事です。真実にして少しの誤りもない真理の事で、釈迦の教えの基本だとも言われています。
四諦の法門(つまり、教え)は、実に正当な真であって、何ものを以てしても変化する事のない尊い教えのことだとされています。仏教を一貫する中心思想です。
人生の苦にも必ず原因があり、その原因を探求し、反省しそれをはっきり認識する事が大切で、
「諸苦の所因は貪欲これ本なり」 と『法華経 譬喩品第三』にあるように、この人生の相を眺めてみても、一切の現象や事柄に何一つとして「苦」でないものはなく一時的に「楽」だと認識する事もありますが、それはただ表面上だけの事で、実際は決して「楽」ではなく最終的には必ず「苦」に陥ってしまうとしています。
釈迦は、殊更に人生の「苦」の一面だけを指摘したのではなく、その如実相である人生のありのままの相を正直に示したとされています。
種々の「苦」は何によって起こるかというと、過去に於いて犯した悪業とその業を起させる妄想、即ち「惑」とによって招いたものだと説いています。現世の境涯を招いた原因に付いて、例えば創造者が決めたものであって、 どうする事も出来ない運命として決められた事とする説がありますが釈迦は、そうした創造者が立てる説を完全否定して、人生の如何なるものも各自の業とその基となる「惑」によって起きると述べたとされています。
「業」とは善悪の行為です。行為や言葉や心によって現れ、名誉の為、利得の為と、さもしい目的が潜んでいて、 動機と結果が一致せず折角の善業が悪果を招く事になりかねません。自分自身では気が付かない汚れた心が、行為の基となっているからだとしています。この汚れた心を「惑」といい、「惑」とは、相手の事柄に惑わされて、正しい見解を起す事が出来ないという事で、 この「惑」が貪欲という形の煩悩だと言われています。惜しい、欲しい、憎い、可愛い等いろいろな感情が汚れた心であり、貪欲の中で最も力強い働きをするのが「渇愛」だと示されています。
喉が渇いた時、水が飲みたくなるように、欲望に対して満足を求める心の状態で、限りなく物事を貪り求める事だと言われています。
欲望をあるがままに増大させ、人の迷惑などおかまいなしの身勝手な思いや行為が、不幸を呼び起こす根本だとも述べています。
3 滅諦とは、
苦の原因は人間の心の持ち方です。心の持ち方を変えることによって活かし方が変わり、あらゆる苦悩は消滅し、 渇愛をあっさりと切り捨て、執着を断ち切り解脱することができるのかが問われているとされています。ただ捨て去って執着を断ち切り解脱しようとすると、更に拘りが増幅され、心の偏りや拘りから苦しみを増大させる結果となりかねないとも言われています。
「苦」の原因は「業」にあり、「業」の原因は「惑」にあり、そこで「苦」から逃れようとする為には、「業」を起さないようにしなければなりません。「業」を起さないようにする為には、「惑」を断ち切らねばなりません。 従って「惑」なければ「業」起こらず、「業」が起きなければ「苦」を招くことがないことになります。この「惑業苦」が全く無くなることを「滅諦」と言います。苦悩の束縛から解き放たれた理想の境地です。 滅諦とは物の滅した状態ですから「滅度」とか「円寂」と訳されることもあります。様々な考えが盛んに表れて心を乱す迷いの煩悩を超えた、彼岸の境地だとも言われています。円寂とは煩悩の喧騒が全く取り除かれた圓満寂静の境地のことで、やはり彼岸の理想を表しているとされています。 理想の境地とは、空寂の境地、苦境を超越した無上の楽土で、決して現世から逃避する事ではなく、現世における苦悩の熱気を滅却する事だと言われています。愛欲にまつわる忌まわしい迷妄生活を否定する事によって浄化された菩提心にいそしむことが本義とされています。
苦をもたらす原因である煩悩を滅したらどうなるか? その結果が「涅槃(ねはん)の境地に至る」ということで、この真理を「苦滅聖諦」、略して滅諦と言うことだとされています。
現世を否定するのではなく浄化して、 たゆまぬ正しい実践が真実で理想の世界を作り出すとされています。
ちなみに、彼岸に至るとは涅槃(煩悩を滅し尽くした精神状態、境地 あるいは 仏教で阿弥陀仏がいるという、苦しみのない安楽な世界(極楽浄土)のこと。西方の十万億土おくどの彼方にあるとされる理想の世界とされています。)に至ることの例えとされています。
この彼岸という考えは日本独特のものと言われています。
4 道諦とは、
釈迦は苦しみをなくす方法について、「苦から逃れようと努力することではなく、苦を受け入れ正しく判断する事です」と説いています。
道諦とは、苦しみを止滅させ、安らかなさとりの境地に至るための真理とされ、その具体的な実践方法として、初めに示した八正道という、八つの実践方法によって、が説かれています。
実際の教えはまだまだ続きます。
以上が仏教の教えの「一部分」です。
以上の説明でも分かるように、言葉の定義は理解出来ますが、その教えを実践するとなると実に「難解」です。
皆、それが出来なくて「悩んで」いるのです。
こうした点で、仏教の教えは一見して「善いこと」のように思えますが「矛盾」があると言えます。
また、このために「厳しい修行」をしなければならないのであれば、実行できる人は極限られた人だけだということになります。
僧侶として修業に励んでも涅槃に達することの出来る人がいるとは思えません。
理屈的には「なるほど」と思わせる点もありますが、この教えをそのまま実行することはおそらく出来ない、あるいは、不可能だと思われますが、
皆さんはどう思いますか?
仏教の教えについて「垣間見た」のが初めてだという人もいるかも知れません。
ある意味、聖書より難解です。
仏教の教えは「哲学」なのです。
哲学とは「人生の根本原理を追求する学問」です。
そのため、一つひとつ丁寧に熟慮することで、正論、現実的、非現実的な点、また、真理と相容れない教えなどが少しずつ理解出来るのではないかと思います。
難しい点は、一見して善いことのように見えるという点です。
真理を深く理解していないと「反論」出来ないかも知れません。
ただ、肯定もしくは否定するだけでしょう。
聖書は哲学ではありません。
人間の考えで人生を根本原理を追求も探究もしていないからです。
すべては神からの、上から下って来た「知恵」「知識」です。
次は主に聖書と仏教の思考の比較に関して述べたいと思います。