知恵を求める人のためのブログです。

頭と心と体の不一致誰でもあるものです。

誰もが認めるように、人間は常に内面の、つまり、心の働きや、体の感覚も働いている非常に繊細な生き物です。
そこに、自分の意思が加わって複雑さを示しているのです。

今問題になっているトランスジェンダーの話ではありません
頭で考えていることと心や体が一致しないということは誰にでもあることなのです

例えば、頭では善い人であろうとし、心では欲を抑えてはいますが、体が要求する時もあります。

結果(行動など)は表面上のことですから、その人の内面までは分かりません。
分り易い例えは、
頭では健康のために少食や断食をしたいと思いダイエットをしますが、体は食べ物を求めているのです。
頭では勉強しなければと思い、夜中まで勉強しますが、体は休息や寝ることを求める時もあります。

悪意のある人は、表面上は優しい親切な人を装い、心では悪意を持って人に近づくことさえあるのです。


頭と心と体どれが優先されるかは、その時の自分が決めるのです。
決めるのは頭です。

は自然な反応、人間の意思には関わらず反応するセンサーのような働きです。
更に、体にはホメオスタシスという自動調節機能もあります。
いわば、生命維持装置です。
つまり、命を支配しています。
は良心があり善悪を識別する働きをし、思いや感情を支配しています。
これらは、心のホメオスタシスとも言えるものです。
人の行動の動機を支配しています。
は、知識と思考と理性(真偽の判断と善悪をコントロールする意思)を支配しており、人間の行動の決定機関です。
つまり、人間の行動を支配しているのです。

おそらく、他の誰とも交わらず一人で生きていれば、頭と心と体の不一致は最小限となり、最も健康的な生活が出来るのではないかと思います。

しかし、それでもすべての生き物がそうであるように、受精、誕生、成長、老化、そして死というサイクルから逃れられるものはいません。
更には、病気やケガという、いわば外傷が加えられます。

これらの内、自分の事柄に関し最も権威があるのは人の行動を支配している頭です。

人の価値は頭で決まるといっても過言ではありません。

例えば、トランスジェンダーを含めたLGBT(性的マイノリティー)であっても、頭で決定し行動しているのです。

日本の武道では「心技体」ということが良く言われます。
これは、
は気持ち、考え、振る舞い、行動の持ち方をつまり、精神全体を示しています。
は業つまり技量のこと、物事を上手く出来るかどうかの知識とその能力を示しています。
は肉体そのものの力、身体的能力つまり、体を動かす能力を示しています。
これらに優れた者をいわゆる達人などと言ったりします。

武道における心技体は、人を支配している頭と心と体の
限定した用い方と言えます。
武道の場合は、大抵は相手を倒すということが目的ですから、自分のすることの善悪ということは、ルール以外考えないものです

人間としては、良心がすべての善悪を決定し、その行いに対する報い(仏教でいう徳や罰、因果応報とも言う)を受ける仕組みは、人間を創造した神によりすべての人間に組み込まれています

ですから、例えLGBTたちが何を言い何を行うにしても、神が作った人間に組み込まれている仕組み、いわゆる自然の仕組みに逆らうことは出来ないのです。

LGBTはいわば心と体の一致を求め、体の外見上とは異なる振る舞いや行動をしているのであり、その決定は頭でしているのです。

神は人間を創造した時、人を男と女に造ったと記されているように、肉体的にも精神的にも男と女は別なものなのです。
従って、男が女のようでありたい、あるいは、その逆の場合は、外見上の、本来の心と体の在り方の「異常」であり「精神的病気」であると言えます。

おそらく、精神的病気なら治す」ことは可能だと思います。
例えば、催眠術によってLBGTも普通に振る舞うことが可能となります。

あるいは、こうしたこととは全くかけ離れて生じる場合もあります。
例えば、近親相姦などでは良く現れると言われていることですが、
生まれた時は女の子なのに、成長するにしたがって男に「変化」するということが現実に起きているのです。
ある意味昆虫のような変態人間に生じることもあるのです。
これも、「異常」であり「身体的病気(遺伝子レベルの)」なのです。
ただし、
自然に治ります
この場合、LGBTのようにはなりません
全く、奇妙な現象(病気?)です。

しかしながら、LGBTのような極端な例を除き、大抵は
誰でも頭と心と体の不一致は多少なりでもあるものです。
例えば、
人は悪いことと判断すれば大抵はしないものですが、それでもその気持ちに逆らって悪いことをすることもあります。
つまり、
心の働きに逆らって頭が逆の決定をする場合もあるということです。

そのため、
人間は
時には自制しますが大抵は自分の思ったことをするものです。
それは、自分の頭で考えたこと思ったことに加えて体が要求する感覚によるものです。
つまり、
頭と心と体のどれかを優先させるという決定をしているということです。

以上は、人間の内面の出来事ですが、外面の出来事でも起こることがあります。

人間は身体的な構造上の作りにより「他の生き物が出来ないこと」をすることが出来ます。
人間は空を飛ぶことは出来ませんが、道具を用いると飛ぶことが出来るように、変化や応用が利き知恵も知識もあり、記憶は曖昧でも文字などにより記録することが出来、また、アイデアを書き出しそれから考えを更に発展させることさえ出来るのです。

人間はこうした点で、つまり、進歩・発展を目指してきましたが自分自身の内面や外面をコントロールするという点では殆ど「進歩」「改善」して来なかったのです。
また、こうしたことを教える人もいなかったのです。
いわば、
人類親に子育てを放棄されたようなものなのです。
その結果として現代の犯罪や争いや戦争などの「悪」が蔓延った世界となったのです。
勿論、悪いことだけではなく、自然に「善い」ことをする「良心」をも内在しているのも事実です。

 

こうした点で人生について深く考えた人が、いわゆる道徳の基となる考えを確立させたものが世界の至るところに存在する様々な宗教であり、自分自身の内面や外面をコントロールする存在です。

しかし、

その宗教のすべてが、必要以上に制限を加えたり、厳しい修練などが必要だったりするものです。

普通の人日常生活で実行できるものもありますが、それは「単に、道徳的に善いと思うことを求めている」だけであり、それによって「救いをもたらす」ものではありません

ある意味、単なる自己満足の域を出ないものです。

 

加えて、宗教の教理の核心部分「真理」からは「ほど遠い教え」が殆どであり、

イエスが言われたように、「盲目の案内人による導きで共に穴に落ちる」ことになるようなものです。

-マタイ15:14

人類長い歴史があり多くを学んでいるはずなのに、未だに戦争をしており犯罪も多発しており病気も増え続け、更には人々の間の関係も悪くなり親子の間も悪くなっています。

幼い子供でも、いろんなことを経験しながら成長すると、分別のある大人になっていくものですが、
人類はいつまでも野蛮な状態のままです。
ある意味、全く成長してこなかったと言っても過言ではありません

このまま放置すると人類は何をしでかすか分かったものではありません
暴走してついには自滅するだけだと言えます。

人類とは異なり、個々の人間はいろんなことを経験し、また、学び成長していることは間違いありません。
なぜ、人類は個々の人のようではないのでしょうか?

勿論、すべての人間が成長し聖人君子になる訳ではありません
それでも少しは学んで成長するものです。

人類文明という点では確かに成長して来ました。
しかし、それは分別ある大人としてではなく、いわば利己的な人間として大きく成長しただけなのです。

人類一人の人間に例えるなら精神的には本能のままに生きている原始人そのものです。

人類を正しく教え導く圧倒的な力の存在が「不在」だったのです
正しくは、そのような者は確かに存在しているのですが考えることがあって、まだ人類を正しく教え導いていないだけなのです。

人類が自滅する直前人類がもはやどうにもならなくなるまで「
待機」しているのです。
そうしないとあと少しで人類に平和をもたらすことが出来たのにと言い訳させてしまうからです。
つまり、人類が(今の世の神である悪魔が)自分の過ちを認めないからであり、その者の正しさを立証するためなのです。

その者とは天地人を創造した神のことであり、神がすべての物事を正す「時」は「近い」ことは分かっています。

(参考:立証が必要なのは「神」ご自身のためではなく、天にいて神に仕えているみ使いたちのためなのです。)

こうしたことは、外見上のことですが、人間は常に内面が、つまり、心の働きや、体の感覚も働いている非常に繊細な生き物です。

なぜ神が地球上の生き物の中人間にだけ「理知」を付与されたのかを考えてみるべきです。

単に、地球の管理をし子孫を従わせるためだけではないのです。

 

は、[]人を義人と悪人に分けています。

人は神の目から見て義人となることを目標とすべきなのです。

神は人の心と腎を調べそれによって義人かどうかを判断するのです。

 

あなたはどう思いますか?    

知恵を求める人のためのブログです。

人は「一心不乱になる」時が善悪を別にして最も人間らしいと言えます。

人間は一心不乱になるということがあります。
普段はすべからく周囲に気を配り粗相がないように注意をしているので、何かに集中するということが疎かになっているものです。
それでも、生徒であれば試験が近づく勉強に集中し暗記したり解き方を復習したり考えをまとめたりするものです。
仕事でも集中をしてはいますが大抵は生徒や学生ほどではありません。
何かのプロジェクトを達成しなければならない時や何かを研究している時は集中をしてはいますが、生徒や学生と違って、ものを作るなど何かを成し遂げることに知恵や工夫や改善に意識を集中させるというものです。

どちらも、大変という意味では同じですが、前者は時間的には短く、自動車免許のようなもので「パス」すればそれで万事が終わりです。
後者完成させるまでの時間と労力が相当掛かる上に、完成させた後もいろいろやることがあり、例えば、自動車製造であれば販売後にリコールなどが生じる場合もあります
製薬では処方後の効果や副作用などに対する注意喚起も必要となります。

何かに一心不乱になると言っても状況が異なれば時間も成し遂げた後のことも全く異なるものです。
他方いろんなことを考えるのも人間です。

一心不乱になる時が最も人間らしいというのは、
雑念がなく目標に向かって知識や知恵や工夫している姿のことを言っています。
この雑念がないという点がポイントなのです。

他方いろんなことを考えるのも人間ですが、それはある意味雑念でもあります。
仏教的に言えば煩悩と言えるかも知れません。

人間以外の動物は、主に二つの事柄にだけ集中しています。
一つは食べることです。
二つは子孫を残すことです。
いわゆる縄張りはこの二つの保全に他なりません。

つまり、人間以外の動物ただ生きることに一心不乱なのです。
ところが人間はただ生きるためだけに生きているということは殆どありません
生きる以外に、別の何かの目的のために生きているのです。
そのため様々な問題が生じたり悩んだり深く考えたりすることになるのです。

誰かに生き方を示され、その通りに生きることに集中するなら人間としてこれ程精神的に楽なことはありません
人間はある意味「生き方」を模索、あるいは、探究するために「生きている」と言えます。

ところが、そういうことを自覚する前に人生に落胆して自殺する人もいます
特に若者に。
これは、余りにも人生に対する
誤った期待や願望が強過ぎる場合に生じることです。
その期待や願望が強ければ強い程、挫折した時の精神的なショックは大きいのです。

年寄りからみれば、余りにも人生を短絡的に考え過ぎているように見えます。
上手くいかない時もあるなどと気楽に考える人は、挫折してもすぐに別のことに期待を掛けるものです。

生き方の探究」は一生涯かかっても見い出せない人もいます
その一方で若くして見い出す人もいます

人の生き方は一つではありません
一万人入れば一万通りの生き方があるのです。
例えば、
同じ仕事をしていても、家庭内の夫婦や子供でも皆違うのです。
時間や場所や考え方、道徳や法、社会環境などを共有していても皆違うのです。

人間だけなのです、このような多様性があるのは。
人間以外の動物もう少しシンプルです。

人間もシンプルに一心不乱になる時があっても良いのではないでしょうか
例えば、
雲水(修行する禅僧)のように、殆ど何も考えずにひたすら指示通りのことを行う修行に励むとか。

(いわゆる煩悩をすべて払い除けるという意味余計なことを一切排除するように努力しているので

 す。)
もしかすると、精神的病気や悩みを持っている普通の人もこれで精神の健康を取り戻せるかも知れません
ある人は、別の方法で同じようなことをするかも知れません。
例えば、座禅や瞑想やヨガなどをするかも知れません。
大人でもプラモデルの制作に集中する人もいます。
カラオケで歌を思いっきり歌うのも良いかも知れません。
更には、安全なトレッキング、マシン相手のバッテング、少しハードなジョギング、軽いマラソン、など。
一人で完遂するものなら、大抵は何でも良いと思います。
例えば、
ゲームや将棋や囲碁など相手がある場合は、集中することはするのですが勝負事なので雑念が生まれるので勧められません
また、数学の問題を解くことパズルと解くことなどに集中すると、多くの時間を必要とし「心身が共に疲れます」

多くの場合問題となるのは、
時間とお金と将来に関してです。
仕事を持っていれば出来ないし。
お金がなければ生きていけないし。
将来のための備えもしなければならないし。
などです。

そのため、ある人は一時的に短期間だけこうした世界に没頭することがあります。
生活にある程度ゆとりのある人です。
生活にゆとりがあるとは、時間やお金があるという問題ではなく精神的な点について言っています。
しかしながらこのような人は修行に励む必要を感じませんし、一心不乱になる理由もないことが多いものです。

一心不乱になると言えば、キリスト教や仏教の修行を思い浮かべるかも知れません。
仏教の教え言葉の定義がはっきりしているので、行いは難しいですが考えやすいものです。
聖書の教え言葉の定義が分かりにくいので理解は難しいですが行いは比較的簡単なもので明確です。

一心不乱になると言うと、何かを忘れるというイメージですが、
何かを忘れると言うことでは
お酒を飲んだり、レクレーションをしたり、スポーツをしたり、ゲームをしたり、本を読んだり、映画を見たり、
他にも沢山あると思います。
これらは一心不乱になると言うこととは掛け離れています

一心不乱になるというのは、いわば熱中するというイメージです。
確かに、スポーツ、ゲーム、読書などにも熱中することはしますが、雑念がなく目標に向かって知識や知恵や工夫している姿や何かを達成するという点では乏しいものがあります

一心不乱になるための条件は、
1 集中出来ないほどの悩みや思い煩いがないこと

2 雑念を一時的に忘れることが出来ること
2 集中してするべきことが明確であること

  出来れば、掃除など体を動かす単純な作業などが良い

  周囲に気を配らなくても良い安全な作業であること
3 目標があること

  例えば、1時間か2時間集中して続けるというのでも良い

  必ずしも、その時間に達成しなければならないということはない、断続的でも良い

  例えば、3時間集中して絵を描くでも良い、これを何日も、何か月も続けて絵を完成させること
4 仕事や日常生活に影響を与える程時間を使ったり多額のお金を使わないこと

時々このような「状況を作ってリフレッシュしてみる」のはどうですか?
日常生活や人生の気分転換になるかも知れません

 

++++++++++++++++++++++++++++++++++

参考いきなりですがボーカロイドに熱中する若者の「心は壊れている」ように思います。
ボーカロイドとはVOCALOIDのことで、ヤマハが開発した歌声合成技術と、その応用ソフトウェアのことを表しています。

通称ボカロと言います。

作詞作曲をすると言う点では生産的ですが、そうしたものは、ただ「空想」や「快楽」を追求しているだけに見えます

  

差別的ですが、

こうしたことに一心不乱になっても[見せ掛け]の敬虔な専心という形を取りながら(一生懸命になっても)、その力において実質のない者(健全な益を生み出さない)となるだけだと考えています。

-テモテ(二)3:5

ボーカロイドは、ある種の「カルト」と見なせる「危険」なことのようにさえ思えます

本来歌や曲などは、人情や情景や出来事などを表現したり人の心を慰めたり鼓舞したり郷愁を誘ったりするものです。

ボーカロイドこれを逸脱し単に曲に快楽だけを追求したもののように見えます

例えば、
そのものは健全なものですが、姦淫や淫行、または、同性愛などはこれを逸脱したものです。

ボーカロイド性における姦淫や淫行の類同類と考えることが出来ます。
つまり、「行き過ぎた行い」なのです。

極論を言えば、人類はこの「行き過ぎた事」を行い、科学を進歩発展させることに熱中し地球を破壊して来たことを思いに止めるべきです。

誰も、その「行き過ぎた事」を悪いことだと言って止めようとはしなかった」のです。

銃やダイナマイト(火薬)誰も悪いものとは言わなかったのです。
その果てが、殺人であり原爆でありミサイルでありドローン兵器なのです。

は麻薬以上に「必要のないもの」です。
麻薬も適切に用いれば「痛み止め」になりますが、「行き過ぎる」と中毒になり心身を共に破壊してしまうものです。

カルト」という語は、「主流派を批判する急進的な宗教」や「主流文化から逸脱した宗教」といった学術的な用法だけではなく
反社会的な、危険で人権侵害を繰り返す集団」という社会的用法として用いることもあります。
また、「宗教カルト」の他、セミナーや研究会などの名目でお金をだまし取る「経済・商業カルト」、戦争反対や平和を訴える団体を騙(かた)る「政治カルト」、人の弱みや不安に付け込む「心理カルト」などと言うものもあります。

更に、カルトは、特定の信念体系、思想、またはリーダーに対して過度な信奉を示すグループのことを指す場合もあります。
これらのグループには、リーダーの絶対的な権威に対する閉鎖性、排他性、そして信者の強い献身性という特徴があります。

カルトは、宗教的、政治的、自己啓発的など多様な形態をとることがあり、その活動はしばしば社会的な規範や法律に反する行動を伴うこと
あります。
これらの集団は、信者に対して強い影響力を持ち、時に社会問題を引き起こすこと
あります。

カルトの例としては、
特定の神秘的な力や人物を絶対視する宗教的なカルト、特定の政治的理念を絶対視する政治的なカルトだけではなく
自己の成長や成功を追求する自己啓発的なカルトなどが挙げられ、ボーカロイドはこの類に入るのです。
繰り返しますが、
VOCALOID(ボーカロイド)とは、ヤマハが開発した音声合成技術、及びその応用製品の総称と言われています。略称は「ボカロ」。

メロディーと歌詞を入力することでサンプリングされた人の声を元にした歌声を合成することができると言うものです。

対応音源は、主にヤマハとライセンス契約を締結した各社がサンプリングされた音声を収録した歌手ライブラリとして独自に製作し、ヤマハ製のソフトウェア部分と組み合わせて製品として販売されています。

 

狭義にはヤマハの登録商標ですが、

広義には他社製の「UTAU」「CeVIO」「初音ミク NT」「Synthesizer V」「NEUTRINO」などの音声合成技術を使用したソフトボカロと総称され、商標の普通名称化、つまり、流行語のように用いられています。

なお、VOCALOIDを使用した楽曲はボカロ曲、VOCALOIDを使用して楽曲を作る作曲家はボカロPと呼ばれています。

  

ボーカロイドはバーチャル音楽なのです。

バーチャルと言えば、バーチャル空間(仮想空間)で良く用いられます。

これは、空間の疑似体験です。

見るだけです。

しかし、

ボーカロイド音楽という性質上人に与える影響がバーチャル空間より大きく「危険」なものです。

銃や麻薬のような存在なのです。

皆さん、注意しましょう。 

 

創世記6章  

5 そのためエホバは,人の悪が地にあふれ,その心の考えのすべての傾向が終始ただ悪に向かうのをご覧になった。(ノアの大洪水の前の世について)

 

マタイ24章

38 洪水前のそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。

39 そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでした。 

 

ペテロ(二)3:6-7

6 そして,それによってその時の世は,大洪水に覆われた時に滅びを被ったのです。

7 しかし,その同じみ言葉によって,今ある天と地火のために蓄え置かれており,不敬虔な人々の裁きと滅びの日まで留め置かれているのです。

 

この滅びを生き残るには「悪を行わず」神の目から見て「義人」と見なされることです。

  

知恵を求める人のためのブログです。

戦争の異常さとその背後にあるもの。

普通人を殺せば殺人罪であり逮捕され懲役刑か最悪死刑となります。
強姦もそうです。
つまり、
日常では犯罪になることも戦争では罪に問われれることは殆どないのです。
実際、その犯罪を立証することは殆ど出来ません

その裏で、
太平洋戦争でもベトナム戦争でも、人を殺したくないと思ったアメリカ兵は少なからずいたことは事実です。
また、上官の命令でアメリカ人捕虜を殺せと命じられ、それに従わなかったため同胞に殺された日本兵もいたことも事実です。
上官の命令でアメリカ人捕虜を殺した日本兵も戦後進駐軍の軍事裁判で死刑にされたことも事実です。

戦争は人殺しなのに、捕虜を殺したことが罪に問われるなんて矛盾しています。
極東裁判で、日本の指導者だけが裁判にかけられ多くの人が絞首刑にさせられました。
これも矛盾しています。

そもそも、戦争を始めた双方の国の指導者が最も悪いことは明白です。
日本では昭和天皇は戦争をさせないことも出来たし、アメリカではルーズベルトも戦争をしないことも出来たからです。
戦勝国が敗戦国を裁くなんて矛盾です。
公平な裁きなど出来るはずがないからです。

正に今行われているロシアのウクライナ侵攻も、プーチンはいつでも戦争を止めることが出来るのです。
そういう意味で、プーチンは何十万人もの殺人者です。
イスラエルを攻撃したハマスを同じです。
ゼレンスキーもネタニエフも自国民を守るために彼らに反撃しただけです。
いわば、正当防衛(過剰防衛とも)と言えます。

国と国との戦争は、個人のケンカと同じです。
ただ、普通個人のケンカで相手を殺せば罪に問われます
戦争での殺人は罪に問われません

国のためなら良くて個人のためなら許されないというのは矛盾した考えです。
つまり、
人類は皆兄弟」という考えは「絵に描いた餅」ナンセンスだということを世界に突き付けていることになります。

人類の歴史を見ると何処に国でもいつの時代でも人と人との戦いの歴史です。
つまり、
人殺しの歴史だと言えます。

イエスはこの点に関して次のように言いました。
ヨハネ8章
42 イエスは彼らに言われた,「もし神があなた方の父であるならば,あなた方はわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから出てここにいるからです。そしてわたしは決して自分の考えで来ているのではありません。その方がわたしを遣わされたのです。
43 わたしの話している事柄があなた方に分からないのはなぜでしょうか。それは,あなた方がわたしの言葉を聴くことができないからです。
44 あなた方は,あなた方の父,悪魔からの者であって,自分たちの父の欲望を遂げようと願っているのです。その者は,その始まりにおいて人殺しであり,真理の内に堅く立ちませんでした。真実さが彼の内にないからです。彼が偽りを語るときには,自分の性向のままに語ります。彼は偽り者であって,[偽り]の父だからです。
45 他方,
わたしは真理を告げるので,あなた方はわたし[のことば]を信じません
46 あなた方のうちのだれが,わたしに罪があると証明するのですか。わたしが真実を話しているなら,あなた方がわたし[のことば]を信じないのはどうしてですか。
47 神からの者は神の言われることを聴きます
あなた方が聴かないのはこのため,つまり,神からの者ではないからです」。

つまり、人類の人殺しの歴史はイエスの言う通り「
悪魔の歴史」なのです。
それゆえ、現代においても戦争や犯罪で人を殺し続けているのです。
人類、つまり、
事物の体制(人間世界)の「神」は「悪魔」だからなのです。

すべての人の心の中の良心はこれを分かっています
しかし、心の中の別の考え欲と頭の中の思考はこれを凌駕しているのです。

あなたはこれを理解出来ますか
人は誰でも殺人をするなら、「自分を悪魔からの者、自分を神の敵としているのです。
殺人だけではありません
姦淫、盗みをする者、嘘や偽りを話す者も同じなのです。

 

自分を悪魔からの者、自分を神の敵としている者たちについて、パウロは明確に次のように語っています。
テモテ(二)3章
しかし,このことを知っておきなさい。すなわち,終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。
2 というのは,人々は自分を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる者,ごう慢な者,冒とくする者,親に不従順な者,感謝しない者,忠節でない者,
3 自然の情愛を持たない者,容易に合意しない者,中傷する者,自制心のない者,粗暴な者,善良さを愛さない者,
4 裏切る者,片意地な者,[誇りのために]思い上がる者,神を愛するより快楽を愛する者,
5 敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。こうした人々からは離れなさい
6 こうした人々の中から,[あちこちの]家族の中にそれとなく入り込み,
罪の荷を負った弱い女たちをとりこにして連れ去る者が出るのです。[その女たちは,]さまざまな欲望に引かれ,
7
常に学びながら,決して真理の正確な知識に達することができないのです。

(家にいて、ものみの塔の信者から書籍から知識を学んで信者になった人々彷彿させます。

 真理の正確な知識に達することが出来ないでいるのです。)

家族の中にそれとなく入り込み,罪の荷を負った弱い女たちをとりこにして連れ去る者」とは、
テトス1:7-16
7 監督は,神の家令としてとがめのない人で,我意を張らず,すぐに憤らず,酔って騒いだりせず,人を殴らず,不正な利得に貪欲でなく,
8 むしろ,人をよくもてなし,善良さを愛し,健全な思いを持ち,義にかない,忠節で,自制心があり,
9
自分の教え[の術]に関して信ずべき言葉を堅く守る人でなければならないのです。それは,健全な教えによって説き勧めることも,また,言い逆らう者を戒めることもできるためです。
10 というのは,無規律な者,無益なことを語る者,そして[人の]思いを欺く者,特に,割礼を堅く守る者たちが多くいるからです。
11
こうした者たちの口を封じることが必要です。まさにこうした者たちが,不正な利得のために[教える]べきでないことを教えて,家族全体を覆してゆくからです。
12 彼らのうちのある者,彼ら自身の預言者が言いました,「クレタ人は常に偽り者,害をもたらす野獣,無為に過ごす大食家」と。
13 この証しは真実です。それゆえにこそ,絶えず彼らを厳しく戒めなさい。彼らが信仰の点で健全になり,
14 ユダヤ人の説話や,
真理から離れてゆく人々のおきて気を奪われることのないためです。
15 清い[人たち]にとってはすべてのものが清いのです。しかし,汚れた不信仰な[人たち]にとって清いものは何一つありません。
彼らは思いも良心も汚れているのです
16 彼らは神を知っていると公言しますが,
その業では[神]を否認しています。彼らは忌むべき者,不従順な者であり,どんな良い業に対しても是認を受けていないのです。

ペテロも同じように述べています。
ペテロ(二)2:1-13
しかしながら,民の間には偽預言者も現われました。あなた方の間に
偽教師が現われるのもそれと同じです。実にこれらの人々は,破壊的な分派をひそかに持ち込み,自分たちを買い取ってくださった所有者のことをさえ否認し,自らに速やかな滅びをもたらすのです。
2 さらに,
多くの者が彼らのみだらな行ないに従い,そうした者たちのために真理の道があしざまに言われるでしょう。
ものみの塔の信者の振る舞いが適用されます。

3 また,彼らは強欲にも
まやかしの言葉であなた方を利用するでしょう。しかし彼らに対して,昔からの裁きは手間どっているのではなく,その滅びはまどろんでいるのでもありません。
4 まさに神が,罪をおかしたみ使いたちを罰することを差し控えず,彼らをタルタロスに投げ込んで,裁きのために留め置かれた者として濃密な闇の坑に引き渡されたのであれば,
5 また,古代の世を罰することを差し控えず,不敬虔な人々の世に大洪水をもたらした時に義の伝道者ノアをほかの七人と共に安全に守られた[のであれば],
6 また,ソドムとゴモラの都市を灰に帰させて罪に定め,来たるべき事の型を不敬虔な者たちに示された[のであれば],
7 また,無法な人々の放縦でみだらな行ないに大いに苦しんでいた義人ロトを救い出された[のであれば]― 
8 この義人は日々彼らの間に住んで見聞きする事柄により,その不法な行ないのゆえに,自分の義なる魂に堪えがたい苦痛を味わっていたのですが― 
9 当然エホバは,
敬虔な専心を保つ人々をどのように試練から救い出すか,一方,不義の人々,
10 わけても,肉を汚そうとの欲望を抱いてそれに従い,主たる者の地位を見下す者を,
切り断つ目的で裁きの日のためにどのように留め置くか知っておられるのです。
向こう見ずで片意地な彼らは,栄光ある者たちにおののかず,かえってあしざまに言います。
11 しかしみ使いたちは,強さと力において勝っていながら,彼らをあしざまに訴えたりはしません。[そうしないのは]エホバに対する敬意からです

(参考:ヨブ記を読むと、悪魔は神に忠誠を保っているヨブについてあしざまに訴えています。)


12 しかしこれらの[人々]は,もともと捕らえられて滅ぼされるために生まれた理性のない動物のように,自分が無知でありながらあしざまに言う事がらのゆえに,まさに自らの滅び[の道]において滅びを被り,
13
悪行に対する報いとして自らを損なうことになります

イエスの異父兄弟ユダも同じように述べています。
ユダ3-13
3 愛する者たちよ,わたしたちが共にあずかる救いについてあなた方に書き送るため,わたしはあらゆる努力をしていましたが,聖なる者たちに
一度かぎり伝えられた信仰のために厳しい戦いをするよう,あなた方に書き送って説き勧める必要のあることを知りました
4 その理由は,聖書によりずっと以前からこの裁きに定められていたある人々が忍び込み,
[その]不敬虔な者たちが,わたしたちの神の過分のご親切をみだらな行ないの口実に変え,わたしたちの唯一の所有者また主であるイエス・キリストに不実な者となっているからです。
5 あなた方は一度すべてのことを知りましたが,それでもわたしは,あなた方に次のことを思い出させたいのです。それは,エホバが,民をエジプトの地から救い出したにもかかわらず,後に,信仰を示さない者たちを滅ぼされたことです。
6 また,自分本来の立場を保たず,そのあるべき居所を捨てたみ使いたちを,大いなる日の裁きのために,とこしえのなわめをもって濃密な闇のもとに留め置いておられます。
7 同様に,ソドムとゴモラおよびその周りの都市も,ここに述べた者たちと同じように甚だしい淫行を犯し,不自然な用のために飽くことなく肉を追い求めたのち,永遠の火による司法上の処罰を受け,[警告の]例として[わたしたちの]前に置かれています。
8 それにもかかわらず,夢にふけるこれらの者も同じように肉を汚し,主たる者の地位を無視し,栄光ある者たちをあしざまに言います
9 しかし,み使いの頭ミカエルは,悪魔と意見を異にし,モーセの体について論じ合った時,彼に対しあえてあしざまな言い方で裁きをもたらそうとはせず,ただ,「エホバがあなたを叱責されるように」と言いました。
10 ところが,これらの者たちは,自分が実際には知らない事柄をことごとくあしざまに言います。一方,
理性のない動物同様生まれながらに理解している事柄については,そのすべてにおいて自らを堕落させてゆくのです。
11 惨めなことです! 彼らはカインの道に入り,報いを求めてバラムの誤った歩みに陥り,コラの反逆のことばによって滅びてしまったからです
12 これらの者たちは,宴席を共にするとはいえ,あなた方の愛餐における水の下の隠れた岩であり,恐れもなく自らを肥やす羊飼い,風によってあちらこちらと運ばれる水のない雲,晩秋になっても実がなく,二度死んで根こぎにされた木,
13 自らの恥のもとを泡立てる海の荒い波,進路の定まらない星であって,そのためには,
闇の暗黒が永久に留め置かれています

 

さて、これらを読んであなたはどのように思いますか?

戦争は単なる人間の争いということだけを意味しているのではありません

堕落した人間が引き起こすものなのです。

その者は「悪魔からの者」であることを意味し、やがて滅びを身に受けるのです。    

知恵を求める人のためのブログです。

地球の出来事は目まぐるしく変化し、また、激動しています。
戦争があり、地球環境破壊があり、山林火災があり、地震や噴火があり、犯罪が多発しており、フェイクが蔓延しており、為政者の暴力が至るところで起きており、世界のどの国の政府にも反発する国民があり、どこの国でもいろんな考えが主張され混沌としており、都会で平和で落ち着ける場所を探すのは困難となっています。

ところが、一歩地球を外から眺めて観ると全く異なる景色が展開しています。
第一に地球は宙に浮いているのです。-参考ヨブ記26:7
しかも、すべての天体が宙に浮いていながらすべては規則正しく秩序だって運行しています
これを不思議に思わない人がいるでしょうか
いわゆる重力圏というものが存在し、ニュートン力学による引力でバランスが保たれているのです。
恒星や惑星の重力圏内でも地表に近い部分での重力はその天体の大きさと関係があり、地球の重力は月の重力の6倍です。
これは、月面に人が実際に行って既に体験し、それを、衛星放送で何億人もの人々が観ています。

宇宙は太古の昔から全く変わってはいません。
いや、変わっていないように見えるだけです。
宇宙は余りにも広いため、人間の時間では余りにも遠すぎて変化していないように見えるだけなのです。
実際は、もの凄い勢いで活動しているのですが、余りにも距離が遠いので動いていないように見えるだけなのです。
太陽系の惑星や衛星は地球から近いのでその動きははっきりと目に見えます。
しかし、太陽系の外の世界の動きは動いていないように見えるのです。
丁度、新幹線に乗って空の雲を眺めた時でさえ、雲が殆ど動いていないように見えるのと同じです。
宇宙の星は余りにも遠くあるので静止しているように見えるだけなのです。

ただし、地球自体が自転しているので、相対的に宇宙の天体が動いて見えます。
宇宙が活動していることは、例えば、新星爆発のようかことが起きた時それが観測できることで分かります。
少なくとも、ここ数千年の間には似たような出来事があり地球上から観測されています。
その記録も残っています。

太陽系に限って言えば
地球から見れば24時間で規則的に動いているように見えますが、これは地球が自転しているからです。
太陽の変化も地球が太陽の周りを公転しているからです。
ただ、月だけは地球の周りを回っているように「見かけ上」見えます。
実際には、地球の軌道を平均とすると月はこの軌道に沿って、いわば蛇行してるだけなのです。
つまり、月も太陽の周りを公転しているように見える[地球の衛星]なのです。
ただ、その軌道は地球という惑星の引力を強く受けているので「蛇行」しているのですが、地球から見ると、月が地球の周りを回っているように見えるだけなのです。
木星や土星の衛星も基本的には殆ど同じだと言えます。

しかし、月の軌道の計算は、地球の周りを回転している状態として出来るのです。

不思議だと思いませんか?

宇宙が全く変化していない(ように見える)ので、人間は正確な時や暦を利用できるのです。
自然の法則に関しても同じです。
もし、時に応じて自然の法則が変化したら人間は混乱しどうして良いか分からなくなってしまいます。
一日の時間も毎日変化したり、一年の長さも毎年変化したら、サラリーマン、学生、農作業や漁業をしているなどの日常はメチャクチャになります。
作物の収穫もままならず、人は飢え死にするでしょう。

多くの人々は進化論だけに注目し物事を見ていますが、自然の法則の普遍性とその理由とそれからの恩恵についてもっと深く考え、また、感謝すべきなのです。
つまり、命の継続と維持はこれに掛かっているからです。
人間はロケットを打ち上げ衛星を宇宙の放出し計画通り目標を達成できるのも自然の法則や宇宙の動きが普遍だからです。

人間は自然の法則から知識や知恵を学び科学し成長してきました。
なのに、この点を余り深く考えずに、自分のしたいことをして、そして、ついに、人間の住処である地球を破壊し尽くそうとしているのです。
なぜ、人間は高い知能を持っていながらこうも愚かなのでしょうか
欲がすべての悪の根源であることは誰でも分かっていますし自覚もしています
では、その欲は何処から生じるのでしょうか?
それは、人間の心から生じているのです。
なぜ、どうしてと言われてもその理由を正確に答えることの出来る人は殆どいません
(参考:人間が自分の心に生じる「欲」を自制することで、神に対して自分がどんなものであるかを

 示すことが出来るということです。
 人はこれによって善人と悪人の区別がされるのです。
 そして、人間には欲を自制し善を行う責任があるということです。
 なぜなら、神は人間に対して自分の行いに責任を求められるからです。
 神による裁きとはこういうことなのです。)

聖書を読むと悪の始まりと何が悪いことで何が善いことかは分かります。
しかし、なぜ人間に欲が存在するのかは明確には示されていないし分かっていないのです。
ある人は善人ですがある人は悪人なのです。
人間の創造者は神ですから、善人悪人を作ったのも神だと言う言い分も理解出来ます。
しかし、こういう考えは道理から言っても理屈から言っても矛盾があります。
あなたはこれを理解していますか

先ず、道理に合わないというのは、
1 天と地を創造したのは神であり、その普遍性は既に分かっています。
 そして、その運行により人間が安心して活動出来ているという事実です。
2 地を形作り、地球上にあらゆる生物と人を創造した時、神はそれを「良い」と見たことです。
 つまり、そこに悪も悪い事柄も存在していなかったという事実です。
 もし、そこにふさわしくないものや悪いものが存在していればそれは取り除かれていたからです。

神が良いと見たということはそこに悪も悪人も存在していなかったことは明らかです。
なぜなら、神は人間をいわゆる不幸にするために創造したのではないからです。
人間が病気になったり人間同士が争ったり人間の趣味で野生の生き物を殺したり人が死んだり苦しんだり悲しんだりするようには創造していないのです。

地球上のそれも人間だけに悪と悪人が存在しているのではありません
これには人間には見えない「天(霊的)」にいる存在を理解する必要があります
つまり、
人間が神を見ることが出来ないのはの存在が、そのエネルギーが余りにも強烈なので、丁度太陽すら肉眼で見ることが出来ないようにを見ることは出来ないのです。
普通に考えてみて下さい。
太陽を作ったのもなのです。
更に、は人間のような肉体で存在しているのではありません
物質ではない、目には見えないいわゆる霊的な存在なのです。

そのが、
「次いでは言われた,「わたしたちの像に,わたしたちと似た様に人を造り,彼らに海の魚と天の飛ぶ生き物と家畜と全地と地の上を動くあらゆる動く生き物を服従させよう」。-創世記1:26
と言ったように、似た様とは「霊的な要素」であって霊者として創造されたのではないことも明らかです。
実際、人間はそのようには創造されていないことは明らかです。
誰も霊者となった人間を見ていませんし、また、人間は霊者を見ることは出来ないからです。
もし、人間が霊者になれるとしたら人間が霊者を見ることが出来ないというのは理屈に合いません
また、「霊的な要素」とは、簡単に言うと理知ということです。
人間だけにこの理知を付与したのです。
わたしたちと述べているのは、天(霊的)いる神の使いたち、つまり、いわゆるみ使いたちのことです。
ですから、神のみならずこのみ使いたちも理知を持っているということです。
天(霊的)では定期的に神の前に集合する時があって、み使いたちは自分の活動(神から命じられた仕事)に関して神に報告する義務があったと思われます。-ヨブ記を参照

天地人の創造に関して、初めは悪も悪人も存在していなかったのです。
では、なぜ地球上に悪と悪人が存在しているのかという疑問が残ります。
その発端は、が人間を創造した時の出来事と関連があります。
天(霊的)では絶対者であり支配者です。
人間を地球の支配者にさせるために創造したのです。
つまり、人間を地球上ではのような存在」となるために創造したのです。
天(霊的)ではのような存在はの他には一人もいません
(参考:神の子が神に最も近い存在となるのは後のことです。)
そのため、一人のみ使いがいわば「疑問」投げかけたのです。
これが、宇宙における「悪」の始まりです。
その疑問とは、地球上の支配者である人間に対して「善悪」ついてだけは神自らのものであるという 点に関する疑問だったのです。
この一人のみ使い人間に神のようになって善悪を知るようになる」と誘惑をしたのです。
創世記3章
さて,エホバ神が造られた野のすべての野獣のうち蛇が最も用心深かった。それで[蛇]が女にこう言いはじめた。「あなた方は園のすべての木からは食べてはならない,と神が言われたのは本当ですか」。
2 それに対して女は蛇に言った,「園の木の実をわたしたちは食べてよいのです。
3 でも,園の真ん中にある木の実を[食べること]について,神は,『あなた方はそれから食べてはならない。いや,それに触れてもならない。あなた方が死ぬことのないためだ』と言われました」。
4 それに対して蛇は女に言った,「あなた方は決して死ぬようなことはありません
5 その[木]から食べる日には,あなた方の目が必ず開け,あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです」。

この誘惑の矛盾点の一つは、
がみ使いたちにすら与えていない「善悪」の判断人間だけに与えるというのは不自然であり、
むしろ、天(霊的)おいても地球上においても「善悪」つまり何が正しくて何が悪いかに関する「基準」はだけのものであるということの方が自然であり道理に合っています
すべてのものの創造者であり宇宙の支配者だからです。
英語で支配者のことを「ruler」と言います。つまり、善悪の法を決める存在という意味です。
天地人における「完全な支配者」はただお一人だけなのです。
ですから、地球の支配を任された人間も例外ではないのです。

この一人のみ使いが「人間を誘惑」することで「」を行い「悪人」となったのです。
こうした権限をみ使いたちの誰にも与えてはいないからです。
そして、誘惑された人間「心を動かされた」時点ではまだ「悪人」とはなっていませんでした
誘惑を退けることも出来たからです。
もし、誘惑を退ければ、誘惑したそのみ使いは、もしかすると創造以来初めての「滅亡者」となったかも知れません。
しかし、人間は誘惑に負けて「善悪の知識の木の実」を食べた時点で「悪人」となってしまったのです。

つまり、別の言い方をすると人間は「罪人」となり、それを子孫にも伝えることになってしまったのです。
勿論、誘惑したみ使いも「悪人」となりました。
別の言い方をすると、悪魔またサタンとなったのです。
悪魔とは神を中傷する者サタンとは神に敵対する者という意味です。

即座に、このみ使いと人間を「滅亡」させることが出来ました
しかし、直ぐには「殺しませんでした」
これは死刑執行の猶予を与えたのではなく、一人のみ使いや人間が「悪」を行い「悪人」とはなっても、それは、神のレベルだけだったからです。
つまり、その時点では以外そのみ使いや人間のしたことが「悪」であるということを誰も理解していなかったのです。
それで、すべてのもが天のみ使いたちをも含めて神が正しいことを証明させる期間を設けられたということです。-ローマ5:18-19

参考:
創世記3章
14 それからエホバ神は蛇に言われた,・・・
15 そしてわたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」。
(参考:このの宣言は、神を除いて、神の側と蛇(悪魔)の側との戦いをさせるというものです。
 そのための期間を設けるということでもあります。
 
 参考:イエスは内部分裂している王国はすべて荒廃に帰すとも述べています。
 マタイ12章
 22 そのとき人々は,悪霊に取りつかれた,盲目で口のきけない人を彼のもとに連れて来た。そして,

 [イエス]はその人を治されたので,口のきけなかった人はものを言い,また見えるようになった。
 23 そこで,群衆は皆ただあっけにとられ,「もしかしたらこれがダビデの子ではなかろうか」と言い

 だした。
 24 これを聞いてパリサイ人たちは言った,「この男が悪霊を追い出すのは,悪霊どもの支配者ベエル

 ゼブブによる以外にはない」。
 25 その考えを知って,[イエス]は彼らにこう言われた。「内部で分裂している王国はすべて荒廃に帰

 し,また内部で分裂している都市や家はすべて立ち行かないでしょう。
 26 同じように,サタンがサタンを追い出すなら,[サタン]は内部で分裂していることになります。そ

 うしたら,彼の王国はどのようにして立ち行くでしょうか。
 

 これは、いわば、事物の体制の終わりの日の今日、神との戦い以外(信仰の戦い)地球上の戦い

 すべては、いわば内部分裂であり、イエスが言われたように「立ち行かなくなる」のです。

 つまり、滅びると言っているのです。)

16 女に対してはこう言われた。「わたしはあなたの妊娠の苦痛を大いに増す。あなたは産みの苦しみをもって子を産む。あなたが慕い求めるのはあなたの夫であり,彼はあなたを支配するであろう」。
17 また,アダムに対してこう言われた。「あなたが妻の声に従い,わたしが命じて,『それから食べてはならない』と言っておいたその木から食べるようになったため,地面はあなたのゆえにのろわれた。あなたは,命の日のかぎり,その産物を苦痛のうちに食べるであろう。
18 そして,それはいばらとあざみをあなたのために生えさせ,あなたは野の草木を食べなければならない。
19 あなたは顔に汗してパンを食べ,ついには地面に帰る。あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る」。

それで、
この時以来人間には辛い出来事が生じるようになったのです。

、いわゆる善人も悪人も、誰一人「創造」してはいないのです。
み使いにしろ人間にしろ善人になるも悪人になるもすべてその人自身によるものだということです。

はご自分の正しさが立証された後、地を回復することも「初めから」考えていました。
つまり、
地球の支配に関して新たな存在を設けることと、それまでの、いわゆる事物の体制を滅ぼし全地を新しくするというものです。
そこに住む人の「人選」も行われます。

幸か不幸か今生きている人間はそれを目撃する機会となったのです。
生き残る人にとっては「幸い」であり、滅びる人にとっては「不幸」となるのです。

啓示21章
それからわたしは,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去っており,海はもはやない。
2 また,聖なる都市,新しいエルサレムが,天から,神のもとから下って来るのを,そして自分の夫のために飾った花嫁のように支度を整えたのを見た。
3 それと共に,わたしはみ座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ! 神の天幕が人と共にあり,[神]は彼らと共に住み,彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らと共におられるであろう。
4 また[神]は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。
5 そして,み座に座っておられる方がこう言われた。「見よ! わたしはすべてのものを新しくする」。また,こう言われる。「書きなさい。これらの言葉は信頼できる真実なものだからである」。
6 そして,その方はわたしに言われた,「事は成った! わたしはアルファでありオメガであり,初めであり終わりである。だれでも渇いている者に,わたしは命の水の泉から価なしに与える。
7 だれでも征服する者はこれらのものを受け継ぎ,わたしはその神となり,彼はわたしの子となるであろう。
8 しかし,憶病な者,信仰のない者,不潔で嫌悪すべき者,殺人をする者,淫行の者,心霊術を行なう者,偶像を礼拝する者,またすべての偽り者については,その分は火と硫黄で燃える湖の中にあるであろう。これは第二の死を表わしている」。
・・・
啓示22章
また彼は,水晶のように澄みきった,命の水の川をわたしに見せてくれた。それは神と子羊とのみ座から出て,
2 その大通りの中央を流れていた。そして,川のこちら側と向こう側には,月ごとに実を生じ,実を十二回生み出す,命の木が[あった]。そして,その木の葉は諸国民をいやすためのもの[であった]。
3 そして,もはや何ののろいもない。神と子羊とのみ座が[その都市]の中にあり,その奴隷たちは[神]に神聖な奉仕をささげるのである。
4 彼らは[神]の顔を見,そのみ名が彼らの額にあるであろう。

参考:これが文字通りなら、神聖な奉仕をささげているのは地から買い取られた144000人の特別な

 人間のことです。

 それらの人は死んだ後イエスのように霊者とされ天で神とイエスに使える者たちだからです。 

 それゆえ、神の顔を見ることが出来るからです。)


5 また,夜はもうない。それで彼らはともしびの光を必要とせず,太陽の光も[持た]ない。エホバ神が彼らに光を与えるからである。そして彼らは限りなく永久に王として支配するであろう。
6 また彼はわたしに言った,「これらの言葉は信頼できる真実なものである。すなわち,預言者たちの霊感の表現の神であるエホバが,ほどなくして必ず起きる事柄をご自分の奴隷たちに示すため,そのみ使いを遣わされたのである。

7 そして,見よ,わたしは速やかに来る。この巻き物の預言の言葉を守り行なう者は幸いである」。
8 さて,わたしヨハネは,これらのことを聞き,また見た者である。そしてわたしは,聞いたり見たりすることを[終えた]時,これらのことをわたしに示してくれていたみ使いの足もとにひれ伏して崇拝しようとした。
9 しかし,彼はわたしに言う,「気をつけなさい! そうしてはなりません! わたしは,あなた,また預言者であるあなたの兄弟たち,そしてこの巻き物の言葉を守り行なっている者たちの仲間の奴隷にすぎません。神を崇拝しなさい」。
10 彼はまたわたしにこう言う。「この巻き物の預言の言葉を封じてはならない定められた時が近いからである。

11 不義を行なっている者,その者はいよいよ不義を行なうように。不潔な者はいよいよ不潔になるように。しかし,義なる者はいよいよ義を行ない,聖なる者はいよいよ聖なる[者]となるように。
12 「『見よ,わたしは速やかに来る。そして,わたしが与える報いはわたしと共にある。各々にその業のままに報いるためである。
13 わたしはアルファでありオメガであり,最初であり最後であり,初めであり終わりである。
14 自分の長い衣を洗って,命の木に[行く]権限を自分のものとし,その門から都市の中に入れるようになる者たちは幸いである。
15 その外にいるのは,犬,心霊術を行なう者,淫行の者,殺人をする者,偶像を礼拝する者,また,すべて偽りを好んでそれを行ないつづける者である』。

知識を求める人のためのブログです。

最近のニュースでロシア人の「内なる移住」ということを聞きます。
ロシア国内では言論が厳しく統制され、政権の締め付けが強まっています。
こうした状況に置かれたロシア人の心情を表すことばとして使われ始めているのが「内なる移住」。
現状に対し、自分はどうすることもできないという無力感を感じ、自分の殻に閉じこもるという意味で使われています。

あるいは、心だけでも別の世界で生きているということです。
見ないふりをしていないと生きて行けない状態なのです。

まさしく
現実逃避です。
ただ、異なるのは表面上は政権に従っているように振る舞っているので外見上では分からないこということです。


実際の現実逃避の場合は「心だけではなく振る舞いや行動」にも表れるものです。

人間は辛いことがあると現実逃避を試みることがあります。
それは、ある人はお酒であったり、ある人はギャンブルであったり、ある人は異性に対する性であったり、ある人は浪費であったり、ある人は暴力であったり、ある人はいじめであったり、ある人はゲームであったり、ある人は引きこもりであったり、ある人は暴走行為だったりをするようになるものです。
こうした行為は「現実から逃れたいと言う気持ち、感情、欲求」が生み出すものです。

いわゆる「やるせない気持ち」になることは誰にでも起きることです。

その究極の逃避行為が、過度の飲酒であり、麻薬などの薬物です。
お酒も中毒性が強いですが、たばこや麻薬はもっと強いのです。
特に、麻薬は人間を破壊する程強いのです。
しかし、一度体験するとその「恍惚感」が「快感、快楽」となり、比較的容易に虜になってしまうのです。

ある意味、人間らしい生き方を捨てたとさえ断言出来ることです。

つまり、自制心や平常心を失い正常」「健常」ではなくなってしまうのです。
行き着くところは、いわゆる廃人同様になってしまうのです。

ですから、
自尊心のある人は、このようになりたくないため、麻薬などには絶対手を出さないと決めているのです。

ところが麻薬を得るために、お金が必要となり自分の身を売る人さえ出て来ているのです。

売春とは限りません。
また、
麻薬の密輸は跡を絶ちません。
それどころが年々その規模が増加さえしているのです。
それは、麻薬の需要が増えているからであり、麻薬は莫大な利益をもたらすからです。

こうしたことの「餌食」になっている若者は増え続けています。 

 

現実逃避の最たるものは、麻薬や薬物に対する依存です。
麻薬に逃避する人間嫌なことから逃れたいとの願望であり、[個人的世界]への没入です。

おそらく、
何時の時代にもこうした人間は存在していたと思われます。
時代によっては、そうした「心の弱い」人々は「狂人」「精神病」「廃人」などと烙印を押され、時には隔離されたり差別されたり暴力を受けて来たのです。

近年麻薬と言えば以下の通りとなっています。

アヘンや大麻などの薬草から作られたものや合成麻薬などがあり、主に、鎮痛剤や向精神薬や精神刺激剤などにも分類されます。

他にもMDMAやLSDなどもあります。

医療用医薬品の中の合成麻薬が96件あり、これらは医師の処方により服用するものです。

 

麻薬に指定されるのは成分によります。

厚生労働省による物質や原料などは思った以上に多く、医療用以外は注意が必要です。

また、海外から個人的に輸入している場合もあります。

 

この他に、いわゆる脱法ドラッグというものもあります。

脱法ドラッグに関しては皆さんが独自に調べて頂きたいと思います

ここに、URLを張り付けると問題が起きることが分かりました

 

参考までに、良く知られた違法麻薬の一部を示します。
アヘン⇒モルヒネ⇒ヘロインの製造に至る。

コデイン
大麻(マリファナ)⇒薬用としても使用される。
ペルリチン⇒眠気を覚まし気分を高揚させる。
ベンゼドリン
ヒロポン⇒ペルリチンと同じ。
LSD=パープル・ヘイズ。
コカイン⇒コカの葉⇒疲労回復、高山病の薬⇒葉から抽出される(バラの精製液のようなもの)
フェンタニル⇒がん患者の鎮痛剤に使用⇒2㎎で死に至る。
フェンタニル+コカイン
カプタゴン(シリアで作られた麻薬)
などなど。


多くの場合、麻薬は暴力団の資金源となっています。

刑罰に関して、

日本国内における薬物規制に関する法律は、薬物四法(あへん法、大麻取締法、麻薬及び向精神薬取締法、覚醒剤取締法)、麻薬特例法、医薬品医療機器等法などがあります。


多くの国では麻薬での最高刑終身刑か死刑となっています。

日本では無期懲役刑です。

 

他にも麻薬は宗教やシャーマニズムなどでも使用されている場合があります。


アメリカでは2年前には薬物による過剰摂取で2万人以上が死んでいます。
これを防ぐためのトランプの考えも分からないではないですが、やり方は過激で多くの人の反発を受けています。

特に、アメリカでは麻薬はカナダやメキシコから入って来ているようです。

そのため、トランプは両国に高い関税を課すと言って警告していますが、二度延長されています。

4月3日に発動すると言っていますが、どうなるか。

既に、自動車部品に関しては撤回しています。

アメリカの製造業が困るからです。

こうしてみると、トランプは言っては見たものの現実を知らない政治家ということは否めないのです。

このような人が大統領なのですからこれからのアメリカは酷いものになることは必定です。

加えて、トランプは自分が分からなくなり「辞任」する可能性も見えてきました。(個人的見解)  

 

日本でも毎年大麻で捕まる人は増えています
大麻で検挙される人の内、若者がおそよ70%だと言われています。

誰しも現実逃避をしたくなる時があると思います。
さて、その時あなたならどうしますか?

楽しいことや快楽などに熱中することは現実逃避をさせてくれるでしょうか
ある人は座禅で瞑想状態となり気持ちを落ち着け、ある人は宗教の教えに救いを求めるかも知れません。

普通の人は、大抵はその時の状態、状況を辛抱するものです。
これを乗り越えられないと病気になったりリタイアしなければならなくなってしまうからです。

人は、辛いことに打ち勝たなければならないのです。
強くなければ生きてはいけないのです。

ところが現代はこうした点で「弱い人間」が非常に多くなっています。
その原因はいろいろあります。

政府も自治体も民間支援団体も殆ど約には立ちません
年々若者の自殺者が増えています
何となく、絶望する理由が分かるような気がします

しかし、手助けは出来たとしても、本当に助けることは出来ません。
本人が力強く生きる努力をしない限り。

この点、それまで自分がして来たことが災いとなることがあります。
いくら努力しても過去に自分がしたことのために周囲が信用してくれないこともあるのです。
ですから、人間はどんな時も「悪」を行ってはならないのです。
困った時に誰も助けてくれなくなるからです。
もし、周囲が助けてくれなくても「言い訳」には出来ません。
かつての自分がそうだったからです。

人は誰でも悪の報い、あるいは、善の報いを受けるものです。
何事も自分勝手に振る舞うこと自業自得に陥ることになるのです。
それがいわば
人生の方程式だからです。
必ずそうなるようになっているのです。

仏教的に考えれば因果応報ということですが、人間の良心にも「悪に対する応報」の原則が働くのです。

例えば、小中高校などでいじめた人将来その報いを受けることになります。
会社で誰かをいじめても同じです。
最悪、恨みを買えば殺されることさえあるのです。

欲のために人を殺す(自分の犯罪を隠すために)ことはあっても、恨みで人を殺すことは少ないものです。

恨みだと犯人が誰か分かってしまうからです。
しかしそれでも、思い余って人を殺すこともあるのです。

あなたは誰かをいじめたことや嫌がらせをしたことはありませんか
人の良心は何のためにあるのでしょうか
それは、自分に悪の報いをもたらすためにあるのです。
つまり、悪いことをさせないためにあるのです。
しかし、悪を行えば必ずその報いを受けるのです。
悪を行った人良心がその人をそのように導くのです。
こうしたことは理屈ではありません。
実際に、長い間生きて来て人を良く観察して初めて分かることなのです。

こうした仕組みは、人間の創造者である神がそのように人を造ったのです。

年寄りの助言には意味があるのです。
その助言を無視する人は愚か者となり自分に悪いことをもたらすのです。

また、いわゆる小説家など物書きは、
ある種の現実逃避の「仮の姿と言えるかもしれません。
物語のストーリー自分の思いの中の「想像や推測」であり、あるいは、「意図的な場面設定」は「空想」です。
こうした心境は、引きこもりや現実逃避した人たちの「心境」とさほどの変わりはないのです。
違いは、それでも普通の日常を送れるというものです。

つまり、分別があるか無いかの違いです。
ですが、社会に出て歩くと「つい批判的に世の中を見ている」のです。

生活に懸命になっている人は、普通社会を批判的には見ないものです。

ですから、小説家などは現実逃避の「心の在り様」を表現したものと言えるのです。

最近は、ゲームに没頭する人が非常の増えています。
加えて、ギャンブルにのめり込む人も増えています。
こうした傾向も、いわば、現実逃避の実体だと言えます。

 

+++++++++++++++++++++++++++

現実逃避と言えば思い出すのは「オーム真理教」の存在です。

不思議だったのは、非常に優秀な人やまじめな人入信し教祖に対して自己犠牲の精神を貫いていたことです。

 

カルトではありますが、宗教の名を語る組織団体だったのです。

 

この問題の根底にあるのは、

こうした優秀な人まじめだが社会で上手くやっていけない人々政府も自治体も福祉や病院なども助けてやれなかったことだと考えています。

 

勧誘があったにせよ、オーム真理教に「精神的救い」を求めなければならなかったこと自体に問題があったのです。

彼らは「精神的に弱かった」のです。

それゆえ、

教祖の教えに「救われる思い」をしたことは事実であり、加えて、集団生活の在り方は矛盾を感じさせるものであっても精神的迷いを払拭させるには効果的でした。

ひたすら念仏(?)を唱え、同時に「空中浮遊」をするために一心不乱に頑張らせることで彼らの心の迷いを消し去りその目標の実現を目指させたのです。
空中浮遊」さえ出来れば教祖と同じ精神レベルに到達出来ると考えさせられたのです。
現実に「空中浮遊」など決して出来ない不可能なことです。
教祖自ら「空中浮遊」をしたと言っていることも「自身を誇張」したことに違いありません。

加えて、自分たちしか知らない事柄に言及し社会の批判を退けたことも挙げられます。

宗教などでは良くある事柄です。

 

ものみの塔でも自分たちしか知らない説明社会の批判を退けています

ものみの塔の信者は現実逃避をしている訳ではありませんがものみの塔の教えにのめり込み(のめり込まされ)ある意味オーム真理教の信者に近いのです。

 

個人的にはものみの塔の信者現実逃避をしているのと変わらない「理性を失った」人々と見なしています。

ものみの塔が、「人に親切にしなさい、嘘を付いたり盗んだり、淫行を犯してはなりません」などに関して理性ではなく人に指示されて行っているということです。

正に、カルトとはこうしたものです。

 

旧統一教会もオーム真理教もそうです

ある意味、宗教と言うものはすべからくこのようなものですが、真の宗教はこのようなものではありません。

理性で自分の理解と考えで「正しいと思うことを行う」ものです。

ですから、いわゆる「義人」と神に見られる人は「少ない」のです。

 

+++++++++++++++++++++++++++

大抵困っている人がいれば助けてあげたいと思うのは人情です。

  

ところが、最近の若者の身勝手な態度はそれを許さないと思わせることもあるのです。

ある若者たちは、
すべては自己中心的で身勝手でわがままで自分の思うようにならないとイライラしまるで人間の理性などないように感じられます

こうした若者は1960年代から1970年代にもいましたが、今ほどではなかったように思います。

ヒッピーなどが出現しロックやフォーク、反戦歌歌手などが流行り、

日本でも○○族などと言われる若者が登場したり、奇抜な服装をする若者が出て来たものです。

当時は、社会から落ちこぼれた人々社会に反発した人々だと思っていました。

しかし、

現代は違います

自分のしたいことが出来ないという思いでは同じですが、昔と今では、求めているものが違うのです。

昔は反社会的でしたが、現代は自分勝手な自己満足の追求なのです。

そのため、今の世の中は何もかもが狂っているようにさえ感じています

現実逃避をしたくなる状況も気持ちも
理解しようとは思いますが、私には自業自得に見えます

確かに、人間であり自分のしたいことをしているのですが、そこに他人を思いやる人間性が殆ど感じられないのです。

従って、すべてではありませんが一部の若者たちには憐みや同情などは感じません

むしろ、哀れだと思っています

 

なぜこうした世の中になってしまったのでしょうか?

一重に政治が悪いからです。

つまり、こういうことを批判し正し正常にするという理念を持った政治家が一人もいなかったということです。

パソコン、スマホ、そしてネット社会が生み出した「人間の醜さ軽薄さの露呈」ではないかと思います。

皆さんにはどのように見えますか?  

    

知恵を求める人のためのブログです。

文明が新しい社会を作って来たことは確かです。

では文明とはどういうことでしょうか。

思想、文化、風俗、社会、政治、学術、経済などの様子つまり状態の総称です。

これらに関する進歩・発展が文明の進歩・発展なのです。

新しい思想・考え、新しい生活様式、新しい服装、政治の形態の変遷、科学技術の進歩、経済の在り方の変化などのことです。

 

人類は文明という新しい扉を開けてその中に入ってしまうと後戻り出来ないことを知らなければなりません。
これは、甘くて美味しいアイスクリームを食べてしまうとその味が忘れられないのと、ある意味同じなのです。
そのため、その新しい扉を開く前慎重に、また、良く考えるべきなのです。

 

まもなく、大阪万博が始まり、各国が自国の新しい技術や開発したものを展示することになります。

こうして、人類は発展を競い合っています


しかし、人類は新しい文明の扉を開いた後のことを全く考えて来ませんでした

やみくもの前進することだけを考えて来たのです。
その結果、今日の環境破壊が生じ、人間の生活に普通以上の苦難を与えています。
環境を破壊する要因となっているものは、人間をも破壊し多くの障害者を生み出しています。

開かれた文明の中に入ってしまえば、そこから出られなくなってしまいます。

例えば、
自動車のない日常を考えられるでしょうか。
パソコンやスマホのない生活から離れられるでしょうか。
電気やガスや水道や下水道(トイレ)がない生活は災害で強いられることはあっても普段は必要不可欠のものです。
これらが供給されない時代の生活は大変な労力が必要だったのです。
今では、こうしたものがあるため、幼い子供でも食べ物さえ用意出来れば生活することが出来ます。
他にも同様なことが沢山あります。

AIが世に出始めたのはごく最近のことです。
勿論、開発には長い年月が掛かっています。
しかし、一端世に出て、それが有効だと分かると、あっという間に世界中に広まってしまい、今ではあらゆる分野にAI技術が活用され、今のところ人々の暮らしや効率や安全に寄与していると思われます。
特に、AIによるディープラーニングはネット上のあらゆる事柄から情報を入手しそれを即座に活用しています。
そのためAIを用いたフェイク(おそらく意図しない)は既に出ており、この対策に技術者たちは必死に頑張っています。つまり、AIの情報の収集や使用に制限を設けることによってフェイクを防ごうとするものです。
これはプログラミングで出来ますので、AI技術を利用する個人や企業が独自に作成することが出来ます。
これからは、AI技術を利用した独自のプログラムが乱立することになります。

その中でこれを悪用する人が必ず出て来るものです。
最も重要な点として、
AIは善悪の判断をしないという点です。
そのため、人間がAIに善悪の基準を教える必要があるのです。
また、
AIはその情報が正しいものかどうかの判断もできません
この点は人間でも
AIに教えることは不可能です。
すでに、間違いであることが判明している事柄に関して人間がその都度教えて置く必要があるのです。
日々これを更新する必要があるのです。
人間は有り得ないこと、不可能なことと判断すると、その情報は間違いだと考えます。
即座に分かることもあれば良く調べないと分からないこともあります。
人間ですら難しいことをAIに教え込むことができるでしょうか

AIの良い点は一度教えると決して忘れないこと、間違わないことです。
従って、人間はAIに正しい情報を教え込むことを忍耐強く続けて行く必要があるのです。

便利なものを便利なだけで終わらせないのが人間の悪知恵と言えます。
こうした人間を排除する方法を発見しない限り、世界に安心、安全を決してもたらすことは出来ません。

今世界の犯罪に注目すると、殆どにお金が関係しています。
世の中からお金が無くなれば犯罪の大半は無くなることは必然です
更には、生きるのに必要な欲求以外の欲望を無くすことが出来れば更に犯罪は無くなります。
性に関しては他の動物と同じにし、子供を産む時以外はしない、させないようにすることです。

良い子供を育てることは家族にとっても社会にとっても国にとっても人類にとっても極めて重要であることをすべての人に幼い時から認識させることです。
こうしたことを実現させるだけで、例え、病気や死があっても人類は平和に暮らせるのです。

人類は良いものを求めることは良いことですが、便利なもの効果的なものを求めること必ずしも良い結果をもたらさないことを学んでいます
良いものとは人間に害を与えることなく役に立つものです。
便利なものや効果的なものであっても少しでも人間に害を与えるものは作るべきではないのです。

例えば自動車がなければ、人間の活動は大幅に制限されることになります。
しかし、自動車は排気ガスで大気を汚染しCO2を大量に放出し地球環境を破壊しています。
これらに加えて、暴走、迷惑運転、操作ミス、不注意、信号無視などによる事故が多発しています。
交通事故では死亡に至ることも多く、また、障害が残り後の生涯に支障を来すことが多々あります。
自動車は走る凶器とも言われている位です。
更には交通渋滞を招き、大雪で立ち往生することもあり、災害時車を運転していたために命を失う場合もあります。
自動車の故障で人里離れたところに取り残されることや夏の炎天下や冬の極寒の時にエアコンが効かなくなり大変な思いをすることもあります。

エアコンは快適にしてはくれますが、例えば、夏に涼しいところに長時間いると外の暑さに耐えられなくなって今います。
初めからエアコンを使わず暑さに慣れていれば外の暑さにも耐えられることが多いのです。
また、エアコンに当たり過ぎで、人間の体温調節が狂い夏でも寒く感じてしまうこともあります。
さすがにこの逆は聞いたことはありません。
人間は寒さにはある程度我慢できますが暑さには我慢できないのです。
例えば、人間にとって快適な温度を25度としますと、裸でも0度以下の水に数分間入ることが出来ます。
長時間そうした水に入らなければ死ぬようなことはありません。
しかし、逆に50度になると人間は耐えられなくなり死ぬ人が続出します。
サウナでさえ長くて数分しか耐えられないものです。

自然には熱による対流を利用して涼しさを保つ方法もあります。
例えば、洞窟などではこれを経験することが出来ます。
実際、洞窟などに入ると夏でも涼しく冬でも暖かいものです。
これが自然のエアコンです。
人体に無害なのです。

人類はなぜこうした安全な社会を、国を、作ることが出来なかったのでしょうか
最大の疑問です。

こうした考えを持つ指導者が現れても不思議はないのに、聞いたことがありません。
もしかすると、いたかも知れませんが、欲を持った他の人に潰されたのかも知れません。

やはり、どう考えても人類に悪をもたらした「悪魔とその使いたちによる仕業としか考えられません。

地球の再生に関して、聖書を読むと、
初めに「悪魔とその使いたち」を天から放逐します。
その次にすることは悪魔の影響を受けた人間が作った宗教と事物の体制を無くすことです。
つまり、悪と悪人を、別の言い方をすると神に対しての不義と不義を行う人すべてをこの地球上から一掃することです。
その次が「悪魔」を捉え縛り底知れぬ深みに投げ込むことです。
もし、
2番目と3番目を入れ替えるとどうなるでしょうか
もしかすると、
病気や死があっても、人類が自ら平和で安全な世界を構築出来るかも知れません

「悪魔」がいなければ、人間の心の中から「悪に通じる欲望」を無くすことが出来るのではないかと考えるのは、人間の身勝手な考えなのでしょうか

世界の悪の根源は「悪魔」だとしても、すべての人間が行う罪は「今のままでは消し去ることは出来ない」ので、人間の心から悪も無くすことが出来ないのです。
人間は過ちだけではなく、意図的に悪を行うこともあります。
こうしたことを人間から取り除くことは人間には不可能なのです。

そうでなければ、神は人類の罪のための贖いの犠牲という手段を設ける理由がないことになってしまいます。

つまり、世界の悪は、「悪魔とその使い」だけではなく、すべての人間が受け継いで来た「罪」によるものだということは真実だということです。

この二つを取り除くことが出来るのは神だけなのです。

は完全ですから、過ちを犯すことはありません
従って、神の行うことはいつでもすべて正しいのです。
それを人間が理解出来なくてもです。
実際、神の事柄をすべて理解している者、み使いも人間も、一人もいないことは明らかです。
神は人間よりすべての点において「偉大なのです。

  

神は間もなく人類が新たな再出発が出来るようにするための準備段階に入るための備えをして下さいます。

その準備期間だけでも人類は平和と幸せを享受できるのです。

しかし、

その準備が終わるとこの世界のすべてのものを新しくするのです。

その時生きていられる者は本当の幸せを手に入れるのです。

神は、

「見よ! 神の天幕が人と共にあり,[神]は彼らと共に住み,彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らと共におられるであろう。

また[神]は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。-啓示21:3-4 

約束しているからです。

 

あなたはこの神の約束をどう思いますか。

現在の世界の有様を見ると、今すぐにでもそうして貰いたいと思うことでしょう。

しかし、

神は人間のことを考えて予定通りに行動するのです。

すべては人間のためなのです。

 

すべての人が神の気持ちを理解することを願っています

    

知恵を求める人のためのブログです。

仏教の教えの一部に関しては前回の投稿で示しました。

聖書の教えに関しては今までの私のブログ詳細に述べています

それで、今回は聖書と仏教の思考の比較をしてみたいと思います。

仏教の教え言葉の定義がはっきりしているので、行いは難しいですが考えやすいものです。
聖書の教え言葉の定義が分かりにくいので理解は難しいですが行いは比較的簡単なもので明確です。  

 

長年聖書を読んでいて感じるのは、聖書の記述は非常に論理的だという点です。
空想や抽象ではありません
すべて現実のことなのです。
誤謬がなく、すべてがつじつまがあい、初めから最後まで一貫しています。

あたかも数学の方程式のようなものです。
従って、
正しく理解している限り、安心してどの書からも論じることが出来ます
もし、
正しく理解しないまま論じるとすれば、必ず考えや説明の点不一致や誤りが顕在化します。
こうして、

聖書が神の言葉であることが「守られている」のです。

ものみの塔はこの点で
大きな失敗をし、正しく理解していないことを世に示しました

ものみの塔の信者はこの点を理解しているでしょうか

ただ、仏教の教えと同じよう善い教え」に心を奪われているだけではありませんか。

 
ものみの塔の世界本部は自分たちの過ち自覚」しているはずです。
しかし、
間違いでした」と言って、
教理の変更信仰の不信につながるので認めたくないのです。
実に愚かな一面です。

それとは別に、聖書が論理的であると言う点は、欧米人のものの考え方反映されていることにも表れています。
欧米人の考え方は、殆どが論理的です。

勿論、時には激高する時もありますが、ほどんどの場合動機が明確です。

この点、日本人は動機をはっきりさせないで物事を行うことがありますが欧米人にはそのような人は殆どいないのです。
幼い時からそのような社会の風潮に慣らされているからです。

 

基本的に何か悪いことをすると、

日本人は結果を叱りますが、

欧米人はまず動機を確かめようとするのです。

 

日本人の変なところは、悪いことをすると「どうしてそんなことをしたの」と言いながら動機をしっかりと確かめようとせずに叱ることです。

つまり、そういうことは「悪いと分かっているでしょう」と一方的に決めつけて叱っているのです。

子供でも悪いことをするには「理由」があるのです。

それを日本人は理解しようとしないのです。

日本人はその理由を確かめずに叱るという「愚かな」ことをするのです。


ですから、欧米人は、自分のすることで理由を問われる非常に論理的に返答します
こうした傾向はすべて聖書やギリシャ哲学の影響だと考えられます。
ヨーロッパでは紀元前からこうした考えが
当然だったのです。
の初めはギリシャ哲学かも知れませんが、イエスの時代以降キリスト教が広まるにつれてこうした考えが定着していったのです。

 

実際、イエス(神から派遣された者)は真理を「断定的」に語っていますが、これは真理を深く考えさせるためでもあります。そして、時にその理由を説明しています。

これは、[上からの知恵=真理]なので論理的である必要はないのです。

真理は、上意下達(神からの)なのです。

一方、ペテロやパウロ(イエスの使徒たち)の発言どれも論理的です。

その理由についても論理的に述べており、ただ「信じなさい」とは一言も言っていません

信者を納得させているのです

これは、信者の信仰を強めるためであり、新しい信者を正しく導くためでした。

日本で
思想が発展し始めたのは6世紀に仏教が伝来した以降のことで、それ以前は、伝承による神話が中心でした。
その仏教現世の点では非常に細かく研究されていますが、煩悩を無くす方法は非現実的で実現不可能なものが少なくないと言わざるを得ません。

仏教の教えは哲学なのです。

こうした教えの影響を受けたため、理屈よりもただそうすれば良いという傾向日本人の遺伝子に染み込んだとも言えます。
そのため、日本ではヨーロッパのような論理的な思考が定着しなかったのです。

日本にキリスト教が伝来したのは仏教から遅れること1000年後の16世紀になってからです。
この新しい斬新的な考え方に興味を示したのが、織田信長だったと言えます。
おそらく、信長の思考周囲には理解されませんでしたが頭の中では西洋式の論理的な思考をしていたと思われるのです。
そうした影響を受けたのが秀吉であり家康だったのです。
しかし、共に、キリスト教の考えや力に脅威を感じ禁止令迄出しています。
日本では
こうした支配者の動き100年も経たず17世紀には既に起きています
この点は、ヨーロッパの植民地となった中南米や東南アジア諸国とは
全く異なります
その後の歴史を見て見ると、植民地化された中南米や東南アジアの諸国は実に中途半端な思想と発展に留まっています。
アジアの中での強大な国の一つであるインドや中国でさえそうです。
イランイスラム教が支配するようになってから貧しい国になってしまいました。
現在、イスラム教を奉じている国で、最も発展している国はトルコやUAE位のものです。
世界の主流キリスト教を奉じている国々です。
この始まりはコンスタンチヌスが4世紀にキリスト教をローマに取り入れてからのことです。
それ以前の思想の中心はギリシャ哲学だったのです。
今でも、世界の大半はこの二つの影響ギリシャ哲学とキリスト教の思考土台として成り立っているのです。

しかし、アジアでは
キリスト教を退けた日本だけが西洋と対等に対峙するに至っているのです。
日本はこうしたキリスト教の影響を殆ど受けず発展して来た
希な国なのです。

キリスト教の影響を強く受け始めたのは、江戸末期から明治に入ってからです。

富国強兵の一環として西洋のものの考えやり方を学んでからです。
そのため、
日本は仏教思想の影響が強く、また、理由も確かな根拠もなしに神仏を頼るようになったため、
日本人は論理的ではなく感情的であり物事を理屈(利己的な考え)で考えるようになり、自分のすることで理由を問われても論理的に返答することが出来なくなってしまったのです。

仏教の教え一見すると体系形的で論理的のように見えますが、その根本感情的、人情的、感傷的なものの考えです。
こうした教えは、人に対する親切さ善意(功徳)という点では優れていますが、人に対する愛情と言う点では冷めたものがあります。
つまり、論理的に考えて行うのではなく因果応報という考えに基づくものなのです。

いわゆる「思いやり」も愛情で行っている訳ではないのです。

  
この点キリスト教の影響を土台としている欧米では「愛」が行動の基になっています。

キリスト教では、人に対する「親切」は「愛情」から出たものなのです。

 
西洋のものの考えでは、愛を四つに区分して考えています。
いわゆる「無私の愛(アガペー)」「家族愛(ストルゲー)」「友人としての愛(フィリア)」「異性としての愛(エロス)」です。
これは、
ギリシャ哲学から生まれた考えです。
こうした考えは
キリスト教にも取り入れられています
 

ものみの塔も愛について同じように教えています
哲学を禁じるものみの塔ギリシャ哲学の考えを取り入れているのです。

元来、日本人には
愛に関してこうした考えは全くありません
日本映画やドラマそして小説などで「」について語られる場面がありますが、間違いだらけの「ナンセンス」です。

愛情と人情の区別がつかないのです。


日本人は、人に対する親切も愛情から行っている訳ではないのです。

聖書では、イエスもイエスの弟子たちも「仲間への兄弟愛」と「隣人愛」そして何よりも「神への愛」を強調しています。
「愛」はキリスト教の「代名詞」と言っても過言ではないのです。
申命記6:4-5、マタイ19:19、22:36-40、ルカ10:26-27、ローマ13:8-10などを参照してください。

世界中のキリスト教を信じる人々イエス・キリストに抱いている最大のものが「キリストへの愛」であり、また、もっとも期待していることも「キリストからの愛」なのです。

日本人が聖書を読む時人情や感傷などの感情というものが殆ど感じられない場合が多いのは、聖書では仏教のような人の内面に言及していないからです。

 

聖書を読んで思うことは、道理と言うより論理がすべてだという点です。
日本人が
感情的なのは歴史上論理的な思考の土台で生きて来てはいないので、ある意味止むを得ないことなのです。

例えば、
昔は
子は宝とか、子は鎹(かすがい)とか、子は天からの授かりものなどといって重宝したものです。
しかし、これは愛情から出たものではなく、ただ、「お家の安泰」のためだったのです。
そして、現代では
日本人は子供に対する愛情が小さく時には平気で暴力を振るったり殺したりしています
子供を厄介者扱いする親さえいる程です。
望まない妊娠も(淫行による妊娠)多いのです。
この逆、つまり、親に対しても同じ傾向にあります。

こうしたことは、いわば、
日本人の遺伝子なのです。
個々が悪いだけではないのです。

と同じように学校教育などでは決して直ることがない事柄なのです。
家庭でしか直せないことなのです。

論理的な話しから愛情の話しになってしまいましたが、
聖書やギリシャ哲学を土台として成り立って来たキリスト教の社会神道や仏教を土台として成り立って来た社会の違いから来るものだということなのです。

聖書は日本人が苦手な論理的な書物です。

その論理の中で「思慮深さ、物事を深く考えること」を求めているのです。

 

日本人が論理を理解しないということではありません

日本人には論理は「分かり切ったこと」として扱われているということです。

そのため、更に深く考え、人の内面にまで立ち入って考える傾向にあるのです。

日本人が外国人の考えに接した時「単純」と思い、蔑む傾向にあるのはこうした理由によるものです。

繰り返しになりますが、映画やドラマを観てもそうです。
日本の映画やドラマは非常に感情的であり人情的ですが、欧米の映画やドラマ非常に論理的で、理屈や善悪がはっきりしています。

 

日本の映画やドラマの悪人には同情すべき点が含まれていることが多いものです。
欧米では、悪人に同情すべき点があればその悪人は「許される」場合があるのですが、
日本では同情しても罪は決して許しません
日本人と欧米人との決定的な違いです。

こうした傾向は、日本の裁判の判決にも見られます。

政治の世界でも同じです。
ですから、
日本の政治家欧米人と同じ土俵で競い合ってはならないのです。
欧米人のものの考え方を理解し、その上で日本の立場を守る政治的対応をしなければならないのです。

欧米人に合わせた政治を決してしてはならないのです。

仏教の教えの中の、いわゆる煩悩は生きている時のあらゆる悩みと苦しみ、迷い、悲しみ、欲などの総称で「百八」または「八万四千」もあると指摘しています。
こうしたいわば精神的感情的な事柄(悩み)聖書には殆ど出て来ません

 

聖書では親族やイエスが死んだ時の悲しみやイエスとイエスの弟子たちに非難された書士やパリサイ人の感情が少し記述されている程度です。

時には、や王たちの怒りが示されていることもあります。

しかし、それ以上のことは記されていません
善悪に関して中心的に出て来るのは、律法に従うか否かであり、いわゆる肉の業と言われる、悪行などについての場合でも、その精神状態やそれを克服するための内面については全く記されてはいません

悪いことは悔い改めよ、ということだけなのです。


人間に生じる問題の原因の多くは精神的感情的なもの(悩み、怒り、憎しみ、悲しみ、欲など)から生じるものです。
しかし、聖書ではそうした事柄に対する内面は殆ど考慮されず現実に行った事柄(結果)に対してのみ裁かれます。
聖書の記述を読んで、登場人物の内面を推し量ることは出来ますがそうした内面は殆ど記述されていません
神は心を調べると記されていますし、イエスも心にあるものが口から出てくると言っていますが、
その心の内についての具体的なことは殆ど触れてはいないのです。-箴言21:2、エレミヤ17:10、マタイ12:34

 

欲、傲慢、怒り、驕り、欺き、姦淫など様々な悪の原因心にあり心を正しく持つようにとは記されてはいますが、その原因や克服するための方法は「悔い改めなさい、とか、捨て去りなさい」などという言葉だけなのです。
その理由は、
神の言葉(聖書を良く読み)をよく考え、思慮深くあり、洞察して行えということなのです。

つまり、個々の人間に責任を持たせる形で「考え」させているのです。


ある意味、
人(アダム)が罪を犯し「善悪を知るようになった」時点で、神は人間をこのように「突き放した」と言っても良いと思います。

 

人の個人的な事柄に関する善悪の責任は自分にあるということです。
神はすべての人にこの責任を「問われるのです。

 

人間の内面という点で、

いわゆる「救い」のためにすべきことのようなことは「全く示されていない」のです。

人間は正しいことを行いによって神に示す以外方法はないのです。

イエスが言ったように、発言や行い(行動の結果)がその人の「心の現れ」なのです。

仏教
人間が考えたものですから、人間に分かり易い具体的な事柄が多く含まれています
しかし、現実には実行出来ない、あるいは、修行を積まなければ出来ないような方法解決しようとしているのです。

日本人が内面や感情に敏感だからと言って、それは「愛情」から出たものではないのです。
どちらかと言えば、「利己的な考え」から出たものです。

あなたも思い当たる節があるのではありませんか?

しかし、これを改めろと言われても「簡単には出来な」のです。
日本人の遺伝子がそうなっているからです。

日本人にとって、聖書を、キリスト教を「本当に理解」することは「難しい」ことなのです。
では理解しても「心が思うようにはならない」からです。

日本の
ものみの塔の信者たちに、いくら間違っていると言ってもそれを受け入れないのは、仏教の教えを盲目的に堅く信じている人々と何ら変わりはないのです。
日本人のものみの塔の信者の
大半本当に理解している訳ではないからです。
仏教の仏像や輪廻転生や涅槃という空想を盲目的に信じていることと、
ものみの塔の言う事柄を盲目的に信じていることと、

何ら変わりはないのです。

誰が救われる者なのかは「
既に決まっている」と考えられます。

しかし、それでも、人間は何を考えて何を行っているかということは重要なことです。
それによって、
天のみ使いたちが人を見分けるからです。
心と腎(むらと)を調べる「真の神」すべての人の心の中を見定めているので、誰が事物の体制を生き残るかは
神の見地では既に決まっている」のです。
直接人類に手を下すイエス・キリストと天のみ使いたちはその「神のご意思」を忠実に行うだけなのです。

繰り返しますが(過去の投稿を含めて)、
組織に属しているから「救われる(事物の体制を、今の世の滅びを生き残る)」ということは
ないのです。
救いは個人的なことだからです。

また、「救われた(生き延びた)」その後のことは、どうなるのかは人間の関知することではない」のです。
誰が支配し、どのように支配されるのか、生活がどうなるのかなどに関して人間が関知することではないのです。
人間はただ神とイエスの従うだけなのです。
しかし、それでも、律法のようなおきて以外自分のすることはおそらくすべて自分で決定しなければなりません
それによって、キリストの1000年統治後に再び裁かれることになるからです。
この1000年間の行いによって「命の書」に名前が記されるか否かが決定することはすでに分かっています

」の心を知る西洋人それを知らない日本人とでは
救いに関して大きな違いが生じるのです。
この点で、ある意味、日本人が救われることは「難しい」ことなのです。

聖書は律法」と同じで、単純におきてを守るか否かで「善人か悪人」かが決定します。
そこに、同情や緩み(ある種の寛容さ)などは存在しないのです。
論理的であり、単純明快なのです。
罪は許されることはあっても、罰は必ず実行されるのです。

今は人は必ず罪のため[罰]を受け死ぬようになっているのです。

あなたはこれを理解出来ますか?
ただし、理解しても「救われる」訳ではありません
理解し「実行」出来て初めて「神に認められるのです。

   

知恵を求める人のためのブログです。

聖書と仏教の違いは、結論から言えば、
ある大きな箱とその中のものを作った者から見た考えと、
その箱の中から、箱の中だけを見た考え違いだと言えます。

更に別の例えを示しますと、
ある人がある目的のための製品を作ったとします。
その製品を買った人は、その製品の使い方についてあらゆる手段や方法を考え用いることがあります。
その製品を作った本来の目的とは異なる使い方をすることは良くあることです。

聖書にはすべてのものを作られた神の考えが記されていますが、
仏教には神によって創造された人間の生き方に関するありとあらゆる知恵と能力の結晶が記されているのです。

どちらも、現実の世界については「同じような」ことを述べていますが、
決定的な違いは、その解決方法と物事を解決する「力」の差です。
聖書の神には根本的に解決する方法と解決する「力」がありますが、
仏教では論じる「能力」はありますが、解決する「力」はありません

聖書の記述の多くは人間と神との関わり合いの歴史です。
その中に神の預言と神のおきてが示されており、おきてを守ることが真の幸福と命を守ることに通じると繰り返し述べられています。
聖書には仏教のような生まれ変わる輪廻転生という教えはありませんが、復活と永遠の命という教えがあります。

聖書には天地人の創造の記録が記されています。

聖書には自然についても正しく記されています
聖書では「強欲=偶像礼拝」を禁じています
聖書では神の見地から何が正しいことで何が悪いことかを示しています

聖書では悪魔と悪霊の存在について示しています
聖書では病気や死などの原因が示されており、最終的には神により苦しみ、悲しみ、病気、死から解放されることが示されています。
聖書では目には見えない神の居場所である天についての詳細が述べられています。

  これは空想ではありません。

聖書には、人間が存在する理由と未来について述べられています

聖書には人間だけに理知が与えられた理由が述べられています。

聖書には将来のことが正確(例えや比喩的ではありますが)に記されています
神から与えられたのは書物は聖書だけです。

見えない神の存在は確かなものです、なぜなら、理知ある人間が今も生きて活動しているからです。

一方、仏教では人間の気持ちや感情や思いに関することが中心です。

聖書のような人間の活動を超えた事柄願望や想像以外一切含まれていません

  
仏教では諸悪の根源は煩悩であるとし、この煩悩を克服することで幸せになれると説いています。
仏教はいわば
人間学(現象論)であり、心理学(方法論)であり、人間の様々な感情、精神状態、欲とその克服方法などが述べられています
これらは、
人間が人間を研究し確立したものです。

仏教では輪廻転生を繰り返し、煩悩を克服することで精神状態を高め、最終的にはこれから解脱して涅槃に至ることを目標としています。

(参考:涅槃に至るとは、分り易く言えば、人間ではない仏のような霊的な存在として永遠に生きら

 れるようになるということです。

 これは、自力で到達しなければならないことです。

 この点聖書では、神が義人と認めた者だけが永遠の命に与(あずか)れるというものです。)

 

聖書では、神のおきてを守りイエス・キリストに信仰を働かせることで最終的に永遠の命に与(あずか)れると述べられています。
聖書では悪の始まり、別の言い方をしますと「罪」の始まり(原因)が記されており、悪い考え、悪い行いを捨て神のおきてに従うようにと記されているのに対し、

仏教ではなぜ悪い考え(欲望など)、悪い行いをするのかという「心の内」まで立ち入って、それを克服する方法について述べられています。

これらについて、仏教では体系的に示していますが、克服するには厳しい修行が必要とされています。

仏教では悪を行ったことに対する「」については「因果応報」という考えに基づき、その報いを受けるとされていますが、聖書のように「具体的な罰」が与えられるとは示されはいません

つまり、仏教では悪いことをすれば悪いことが起き善いことをすれば良いことが起きるという考えです。

つまり、善いことを行い、悪いことをしないようにということであり、結果がいわば報いであり罰なのです。

 

聖書では悪に関しては「」として述べられており、その「罪」を悔い改め克服することと、イエス・キリストの贖いの犠牲に対する信仰により「許される」と示されています。

また「」を犯すと「」を与えられることも示されています。

つまり、悪(「罪」)に関してはいわば刑法として述べられています。

仏教による「悪」についての説明は人の悩みや苦しみと言った煩悩によるものとして示され、それを克服するよう「自力で努力」するようにとしています。

聖書における悪に関しては、道徳に関しても犯罪に関しても、その罪と罰と許しに関して明確に記されています

 

+++++++++++++++++++++++++++++++++

以下に仏教について幾つかの点を抜粋して見たいと思います。

 

仏教でいう煩悩については、その内容が詳細に示されています。

また、煩悩を抱える原因についても言及されています。
108の煩悩があると言われていますが、これは「沢山ある」という意味で、実際にはもっとあり84000もあるとさえ言われています。
また、その人自身の過去現在未来つまり輪廻転生とその因果関係についても述べられています。
煩悩を捨て苦しみから解放されるための方法も述べられています。
煩悩が生じる根本原因は「執着心」と「思い込み」であると言われています。
また、
人間のあらゆる事柄に対する「」が「苦しみ」の原因であると教えています

仏教の超人的な存在(仏像など)は「人間が考え出した偶像」です。
釈迦は実在の人物ですが、他の様々な像は人間が作り出したものです。

(釈迦は自らが書き残したものも像も作ってはいません。

 すべて弟子たちがしたことです。)

人間は見えないものより、見えるものを「頼り」にする傾向にあります。
それゆえ、
仏教や神道やいわゆるキリスト教では「見える存在」を崇拝の対象としています。

これ以外の原住民の宗教も、人間の性質と自然との関係から、人間が考え出したものです。
例えば、
文字を持たなかったアイヌやアメリカインデアンなどの宗教的考えなどもそうです。
「不可思議な出来事」については、いわゆる「シャーマン」という存在の「霊能」によって説明がされています。
日本の「いたこ」もシャーマンの一種であると言われています。
聖書ではこれらは「悪霊の仕業」としています。
ただし、聖書でも神の霊感を受け、預言をしたり「力」を示したりする場合が記述されています。

しかし、聖書を実際に読む限り、これらを混同することはありません

人間には悪霊によるものか、単に人間によるものかの区別が「難しいですが、
見分け方は、「善い事柄はすべて神から出ている」という点です。
悪霊の霊感の表現
すべて悪い事柄」です。


例えば、悪いことを祓うため(人間の)犠牲を捧げるなど。
真の神の崇拝者を迫害したり、地位や名誉や欲も用いたり、敵対する相手を攻撃したり呪ったりこれに類する事柄を行うように仕向けるのは「悪霊の仕業もしくはその影響」です。
  

参考:聖書では、悪魔が「自分をいつも光の使いに変容」させているとしています。
 つまり、表向きは「善いこと」を話し、そのように思わせるということです。
 しかし、それが偽りであることその終わりは業、つまり、行いに応じたものとなる」というこ
 とから、結果で明らかなものとなります。-コリント(二)11:14-15

 また、神に祈っても聞かれないと思う場合があることも事実です。
 したがって、
 人間には
神も悪魔も区別がつかないこともしばしば起きるのです。
 神に祈ってもその通りにならないのは人間の祈りが間違っているか、神がその祈りを聞き届けら
 れない
かのいずれか
です。
 なぜなら、神は決して「間違ったことをしない」からです。

 神は、「」をも考慮に入るのです。
 イエスですら、苦しみから逃れられたいと思ったことがありましたがその願いは聞かれませんでし
 た。-マタイ26:39、27:46) 

  
++++++++++++++++++++++++++++++
仏教の教えに関して、具体的には、「三毒」というものがあります。
煩悩を象徴的に示す代表例として、「貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)」の三毒が挙げられています。
三毒:貪・瞋・痴(とん・じん・ち)とも言われています。
その意味は、
    貪(むさぼり):必要以上に欲する心 ⇒貪欲
    瞋(いかり):憎悪や怒りを抱く心 ⇒怒りと憎しみ
    痴(おろかさ):正しい道理を理解せず、誤った認識に囚われる心 ⇒愚かさ
これらが絡み合うことで、人は混乱し、自分自身や他者を苦しめる行為に向かいやすくなると言われています。

 

聖書でもこれらを「」としています。


仏教では煩悩克服へのアプローチ内面を克服する方法)が示されています。

聖書ではここまでは立ち入ってはいません


一歩目自分の心を観察し、客観的に認識すること
煩悩克服の出発点は、「いま自分は欲望や怒りに駆られていないか?」と心を客観的に見つめることと言われています。自分の内面に生じた感情に気づくことで、それがただの心の動きであると理解でき、煩悩に振り回されにくくなるとされています。

二歩目瞑想や呼吸法により心の安定を図ること
呼吸に集中する瞑想や、座禅による内観は、雑念を手放し、今この瞬間へと意識を向けやすくすると言われています。心を静めるこのプロセスが、煩悩による動揺を和らげ、安定した精神状態へと導いてくれるとされています。

三歩目執着を手放し、八正道や中道の実践へと進むこと
仏教には、正しい理解と行為を身につける「八正道」や、極端を避ける「中道」という教えがあります。これらは、過剰な欲望や激しい怒りを抑え、バランスの取れた生き方を育むための指針とされています。欲しいものが手に入らない場合でも、それを嘆くのではなく、その状況を受け入れる柔軟さが煩悩を和らげる鍵とされています。

八正道とは何か?
八正道とは、仏教の教えの核心をなす道徳的、精神的な指針のことです。
その名の通り、八つの「正しい」または「適切な」道(方法)を示しているとされています。
これらは「正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定」であり、それぞれが人間の行動、言葉、心の三つの側面を
規定しています。

(つまり、人間の内面を分析したものです。)
八正道の意味は、

  真実に向かって正しく見る(正見)
    正しい思考を持つ(正思惟)
    正しく言葉を使う(正語)
    正しい行動をする(正業)
    正しい生業を選ぶ(正命)
    正しい努力をする(正精進)
    正しいマインドフルネスを持つ(正念)
    正しい集中力を持つ(正定)
これらは連続したステップではなく相互に関連し合っているとも言われています。

八正道は、つまり、自分の内面をこのように保つことで、苦悩からの解放と、より平和で充足感のある生活を追求するための道筋を維持しようとすることです。
」の諦め(明らかにすること、真理とは八正道そのものであり、苦悩の原因から解放するための実践的な方法を示したものとなっていると言われています。

八正道を詳しく説明しますと、
1 正見(しょうけん)
正見とは、世界と自己を正確に理解することとしています。
それは事実を認識し、生命、苦悩、そしてその原因を深く理解することを意味します。
これは自己認識の始まりであり、四諦の理解(苦(くつ)、集(しゅう)、滅(めつ)、道(どう)の四つの真理(諦)のこと)(後述)を含むとされています。
正見は、物事が連続的に変化する本質を理解し、全てが互いに関連し影響しあっているという視点を開くことを促すとされています。

2 正思惟(しょうしい)
正思惟は、健全な思考と意識的な認識を指すとしています。
それは自分自身の思考や感情を自覚し、それらが行動や結果にどのように影響を及ぼすかを理解することを意味します。
正思惟は、優しさ、慈悲、そして他者への共感の感情を育むことで、ポジティブな行動と結果を生み出すと言われています。

3 正語(しょうご)
正語は、真実で建設的な言葉を話すことを強調しているとしています。
これは、優しさと誠実さで言葉を選び、他人を傷つける言葉や無意味な会話を避けることを含みます。
正語は、言葉が私たち自身と他人に与える影響を理解し、それを積極的に利用することを奨励しているとされています。

4 正業(しょうごう)
正業は、有益で誠実な行動を指すとしています。
それは、他人に害を与える行動を避け、寛容、理解、そして慈悲に基づいて行動することを意味します。
正業は、自分の行動が他人や環境に与える影響を考慮し、自己の行動とその結果を調和させることを重視するとされています。

  

5 正命(しょうみょう)
正命は、自分の生計を立てる方法を指すとしています。
これは、他人や社会、環境を尊重する形で、誠実に生活を営むことを強調しています。
正命は、自分の行動が他人や世界に与える影響を認識し、それに基づいて責任ある選択を行うことを奨励しているとされています。

 

6 正精進(しょうしょうじん)
正精進は、持続的な努力と自己改善を指すとしています。
それは、物事を改善し、自己を発展させるための持続的な努力と、自己の成長と進化を適応する意欲を含みます。
正精進は、自己改善の旅を続け、人生の目標に向かって一歩一歩進むことを奨励しているとされています。

 

7 正念(しょうねん)
正念とは、現在の瞬間に完全に意識を集中させることとしています。
これは、自分自身の思考、感情、感覚を認識し、現在の瞬間を完全に生きることを強調します。
正念は、マインドフルネスの実践を通じて、自己認識を深め、現実をより深く理解することを促すとされています。

 

8 正定(しょうじょう)
正定は、心の平静と集中を指すとしています。
それは、深い瞑想と内的な平和を通じて、心の混乱を落ち着かせ、心を一点に集中させることを意味します。
正定は、内面の平和を育むことで、外部の困難や苦悩に対処する力を強化すると言われています。

仏教では「中道」という言葉も良く用いられています。
「中道」とは 、 極端を避け、調和を大切にする生き方のことだとされています。
「中道」とは、仏教の根本的な教えの一つで、極端な行動や思考に偏ることなく、中庸を心がける生

 き方を指しています。

 
参考:【中庸】 とは、仏教用語ではありません儒教の言葉です。
中国、戦国時代の思想書。1巻。子思の著と伝えられています。「礼記 (らいき) 」中の一編であったが、朱熹 (しゅき) が「中庸章句」を作ったことから、四書の一として儒教の根本書となりました。

天人合一の真理を説き、中庸の誠の域に達する修養法を述べたものです。
言葉の意味は、
かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさまのことです。

  

仏陀は、苦行や贅沢三昧といった両極端な生活を経験した後中道」こそが真の幸福に繋がる道だと気づき、悟りを開いたと言われています。

現代社会で例えるならば、仕事に熱中するあまり、プライベートを犠牲にしてしまう、あるいは、健康的な食事を心がけるあまり、極端な食事制限に走ってしまう、といった行動が挙げられますが、
「中道」とは、これらの極端な状態に陥ることなく自分にとってちょうど良いバランスを見つけることだとされています。

この八正道と中道という考え方煩悩を克服し人を幸せにするというものです。


八正道と四諦の関係
八正道は、仏教の「四諦」の一部として位置づけられています。

四諦とは苦(くつ)、集(しゅう)、滅(めつ)、道(どう)の四つの真理で、人生の苦悩の本質と、その克服の方法を説明しています。
四諦
    苦諦(くたい:人生は苦である)
    集諦(しゅうたい:苦の原因は無知と欲望)
    滅諦(めったい:苦を絶つ方法)
    道諦(どうたい:苦から解放される道)

   

般若心経に「苦 集 滅 道」という言葉が登場しますが、それは四諦の事だと言われています。

般若心経』は正しくは『般若波羅蜜多心経』と言われています。
「般若波羅蜜多」について説く経典は多くあり、それらを総称して般若経典と呼び、般若経典は紀元前後から作られ始め12世紀頃までに作られたとされています。

『般若心経』はその中のひとつで、般若経典の神髄を短くまとめた経典だとされています。


釈迦は、四諦の法門を説いて生・老・ 病・死の四苦をはじめとする、さまざまな人生苦から救い、現象へのとらわれから解脱した境地を示したと言われています。

法門とは仏の教えのことで、「真理に到るための入り口」という意味のことです。

 

ちなみに

親鸞の示す教義体系を表す「六三法門」という語があります。

これは浄土門における真実の教えと方便の教えについて六種の名目をもって示されたものであり、

親鸞は真実と方便の教えを分けることにより、方便を捨てて真実の教えに帰すべきことを勧めたとされています。

 

四(聖)諦とは、「4つの聖なる真理」という意味です。

この4つの真理は、苦諦と集諦滅諦と道諦2つずつの組み合わせとなって、それぞれが原因と結果の関係を結んでいます。
集諦が原因となって苦諦という結果をもたらし、

道諦が原因となって滅諦という結果をもたらすとされています。

この因果関係によって真理のありようが説かれているのです
 

四諦とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦の事で、真実の姿を認識する事だとも言われています。
1 苦諦とは、人間は老いや死等に対する苦しみがあり、人生は苦であることを見極めさせ、人生の現実の相を明らかにしたものだと説明されています。「色に於いて知らず、明らかならず、断ぜず、欲を離れず、心解脱せざる者は生老病死の怖れを越ゆること能わず。 されど、若しくは知り、若しくは明らかに、若しくは断じ、若しくは欲を離るれば、生老病死の怖れを超ゆ」(『雑阿含経』)としめされています。

誰もが持っている苦しみは八つあります。それを四苦八苦と呼んでいます。
一 は、この世に命を授かったこと自体苦の始まりのこと。

もし生まれる事がなかったなら、暑さ寒さ・天災地変・飢饉・疫病・貧困・不仲・不安等日常生活を送る中で発生する苦しみを受けなくてもいい筈だとのべています。
二 は、不老長寿の妙薬を飲んでも一日一日老いを重ねること。
三 は、病を得た事がない人は何処にもいないこと。
四 は、肉体はいつかは壊れ死を迎えること。
この四苦と
五 愛別離苦は、異性間の恋愛のみに拘わらず、親子・兄弟・朋友・知己等いつかは別れ別れになってしまうこと。
六 怨憎会苦は、全ての人と一生仲良く暮らすことはできないということ。
七 求不得苦は、金銀財宝地位名誉等求めても得られない苦しみのこと。
八 五蘊盛苦は、気分のいい時もあればそうでない時もあり、自分の意志で心や体調を整える事が出来ないということ。
先の四苦と合わせて八苦です。

人間は、「移り変わるもの」を「永久に不変のもの」と錯覚し、たえず執着をつくり出しているといわれています。釈迦は、ことさら人生を苦の一面だけを指摘したのではなく、人生のありのままの相である「苦」を正直に示し、一時の喜びや楽しみは、いつかは消え失せ、その影には必ず「苦しみ」が続くと述べています。酒や遊びなどで一時逃れをせず、しっかりと「現実」を見すえて「苦」を正面から受け止め、その原因を見つめる態度が大事だとのべている訳です。
諸行無常」の真理を悟り、今の苦しみは永遠のものではなく、また今の楽しみや喜びも永遠ではなく一時的なもので、これらの現象にとらわれない生活習慣をつけることが修行であると考えています。

2 集諦の集とは集起の略で諸縁が集まって起こる原因の事とされています。 諦は真理・真実という事で、明らかに物事を眺める事です。真実にして少しの誤りもない真理の事で、釈迦の教えの基本だとも言われています。

 四諦の法門(つまり、教え)は、実に正当な真であって、何ものを以てしても変化する事のない尊い教えのことだとされています。仏教を一貫する中心思想です。
人生の苦にも必ず原因があり、その原因を探求し、反省しそれをはっきり認識する事が大切で、
「諸苦の所因は貪欲これ本なり」 と『法華経 譬喩品第三』にあるように、この人生の相を眺めてみても、一切の現象や事柄に何一つとして「苦」でないものはなく一時的に「楽」だと認識する事もありますが、それはただ表面上だけの事で、実際は決して「楽」ではなく最終的には必ず「苦」に陥ってしまうとしています。
釈迦は、殊更に人生の「苦」の一面だけを指摘したのではなく、その如実相である人生のありのままの相を正直に示したとされています。
種々の「苦」は何によって起こるかというと、過去に於いて犯した悪業とその業を起させる妄想、即ち「惑」とによって招いたものだと説いています。現世の境涯を招いた原因に付いて、例えば創造者が決めたものであって、 どうする事も出来ない運命として決められた事とする説がありますが釈迦は、そうした
創造者が立てる説を完全否定して、人生の如何なるものも各自の業とその基となる「惑」によって起きると述べたとされています。
「業」とは善悪の行為です。行為や言葉や心によって現れ、名誉の為、利得の為と、さもしい目的が潜んでいて、 動機と結果が一致せず折角の善業が悪果を招く事になりかねません。自分自身では気が付かない汚れた心が、行為の基となっているからだとしています。この汚れた心「惑」といい、とは、相手の事柄に惑わされて、正しい見解を起す事が出来ないという事で、 この「惑」が貪欲という形の煩悩だと言われています。惜しい、欲しい、憎い、可愛い等いろいろな感情汚れた心であり、貪欲の中で最も力強い働きをするのが「渇愛」だと示されています。
喉が渇いた時、水が飲みたくなるように、欲望に対して満足を求める心の状態で、限りなく物事を貪り求める事だと言われています。
欲望をあるがままに増大させ、人の迷惑などおかまいなしの身勝手な思いや行為が、不幸を呼び起こす根本だとも述べています

3 滅諦とは、
苦の原因人間の心の持ち方です。心の持ち方を変えることによって活かし方が変わり、あらゆる苦悩は消滅し、 渇愛をあっさりと切り捨て、執着を断ち切り解脱することができるのかが問われているとされています。ただ捨て去って執着を断ち切り解脱しようとすると、更に拘りが増幅され、心の偏りや拘りから苦しみを増大させる結果となりかねないとも言われています。
「苦」の原因「業」にあり「業」の原因は「惑」にあり、そこで「苦」から逃れようとする為には、「業」を起さないようにしなければなりません。「業」を起さないようにする為には、「惑」を断ち切らねばなりません。 従って「惑」なければ「業」起こらず、「業」が起きなければ「苦」を招くことがないことになりますこの「惑業苦」が全く無くなること滅諦と言います。苦悩の束縛から解き放たれた理想の境地です。 滅諦とは物の滅した状態ですから「滅度」とか「円寂」と訳されることもあります。様々な考えが盛んに表れて心を乱す迷いの煩悩を超えた彼岸の境地だとも言われています。円寂とは煩悩の喧騒が全く取り除かれた圓満寂静の境地のことで、やはり彼岸の理想を表しているとされています。 理想の境地とは、空寂の境地、苦境を超越した無上の楽土で、決して現世から逃避する事ではなく現世における苦悩の熱気を滅却する事と言われています。愛欲にまつわる忌まわしい迷妄生活を否定する事によって浄化された菩提心にいそしむことが本義とされています。

苦をもたらす原因である煩悩を滅したらどうなるか? その結果が「涅槃(ねはん)の境地に至る」ということで、この真理を「苦滅聖諦」、略して滅諦と言うことだとされています。
現世を否定するのではなく浄化してたゆまぬ正しい実践が真実で理想の世界を作り出すとされています。

ちなみに、彼岸に至るとは涅槃(煩悩を滅し尽くした精神状態、境地 あるいは 仏教で阿弥陀仏がいるという、苦しみのない安楽な世界(極楽浄土)のこと。西方の十万億土おくどの彼方にあるとされる理想の世界とされています。)に至ることの例えとされています。

この彼岸という考え日本独特のものと言われています。


4 道諦とは
釈迦は苦しみをなくす方法について、「苦から逃れようと努力することではなく、苦を受け入れ正しく判断する事です」と説いています。

道諦とは、苦しみを止滅させ、安らかなさとりの境地に至るための真理とされ、その具体的な実践方法として、初めに示した八正道という、八つの実践方法によって、が説かれています。

 

実際の教えはまだまだ続きます

 

以上が仏教の教えの「一部分です。
以上の説明でも分かるように、言葉の定義は理解出来ますが、その教えを実践するとなると実に「難解」です。
皆、それが出来なくて「悩んで」いるのです。
こうした点で、仏教の教えは一見して「善いこと」のように思えますが「矛盾」があると言えます。
また、このために「厳しい修行」をしなければならないのであれば、実行できる人は極限られた人だけだということになります。
僧侶として修業に励んでも涅槃に達することの出来る人がいるとは思えません

理屈的には「なるほど」と思わせる点もありますがこの教えをそのまま実行することはおそらく出来ない、あるいは、不可能だと思われますが、
皆さんはどう思いますか?

仏教の教えについて「垣間見た」のが初めてだという人もいるかも知れません。
ある意味、
聖書より難解です。

 

仏教の教えは「哲学」なのです。

哲学とは人生の根本原理を追求する学問」です。

そのため、一つひとつ丁寧に熟慮することで、正論、現実的、非現実的な点、また、真理と相容れない教えなどが少しずつ理解出来るのではないかと思います。


難しい点は一見して善いことのように見えるという点です。
真理を深く理解していない「反論」出来ないかも知れません。

ただ、肯定もしくは否定するだけでしょう。

 

聖書は哲学ではありません

人間の考えで人生を根本原理を追求も探究もしていないからです。

すべては神からの、上から下って来た「知恵」「知識」です。

次は主に聖書と仏教の
思考の比較に関して述べたいと思います。

   

知恵を求める人のためのブログです。

聖書と仏教その1=見ることの出来ない神よりも見える偶像の方が拝みやすいものです。

日本では仏教や神道が好まれるのは、神社や寺社やお墓や仏像や曼荼羅などが「見える」からであり、対象がはっきりしているので拝みやすいからです。
外国のキリスト教イスラム教ヒンズー教など他のどんな宗教でも同じで、キリスト像、マリア像などの対象物の存在祈りやすいもの崇拝しやすいものにしています。

そうした対象物を拝むこと、すなわち、祈ることで「ご利益(りやく)がある」と信じているのです。

しかし、こうしたことは実質を伴わないこと、つまり、そうした祈りは実現することは決してありません。

聖書では、こうしたことをする人のことを「実質のない者」と呼んでいます。-テモテ(二)3:5

もし、祈りが聞かれたと思っている人は、思い違いをしているのであり、祈りの通りになったとしたら「偶然」か「自分の力」がそうさせたのです。

聖書の神は、そうした偶像礼拝を禁じており、人は神を見ることが出来ないのでそのような形あるものに例えてはならないと述べています。-申命記5:7-11、使徒17:29、出エジプト20:4-6
見えない神を信じるには「強い信仰」が必要なのです。

安易な崇拝「真の救い」は存在しません

真の崇拝単純明快です。
従うか否かだけです。

しかし、間違った教えに従うことは「共に穴にに落ちる」危険があります。

真の崇拝を理解し行うには、見えない事柄を理解し納得させるだけの思慮深さが求められているのです。

 

次回は更に聖書と仏教の違いに述べたいと思います。 

 

知恵を求める人のためのブログです。

偽善が暴露されるアメリカ。
私は決してアメリカには行かないと決めています。
例え、旅行であっても絶対に行きません。

表面ではアメリカは素晴らしい国だと思われています。
娯楽、スポーツ、芸能などの面だけではなく、貿易の相手として、移民大国として、民主主義と自由の際たる国として、様々な文化の面で、さらには、ロシアに対抗できる唯一の国としてなどなど様々です。
しかし、
その一方で犯罪が多く、警官による暴力や殺人も多く、気に入らないと難癖をつけ暴力を振るったり逮捕させたり、麻薬が横行しており、すべては白人、アメリカ第一主義で他の人種をすべて差別し、いわば、自分たちより劣った人間と見下す国であり、アメリカの思惑で他の国に戦争を仕掛ける国であり、例えば、第一次、第二次世界大戦、ベトナム、湾岸、イラク、アフリカの民族紛争、ISとの戦い、イスラム過激派との戦い、すべてはアメリカの利権のために、他人事に口出しして世界を牛耳ろうとしているのです。
ウクライナとガザでの戦いに関しても同じです。
ウクライナの資源をロシアとの交渉の取り引きとし、トランプの思惑通りにならないと見るや、ウクライナ抜きでロシアと勝手に交渉し、本来交渉する権利もないのに口出しし、ウクライナやEUを困惑させているのです。

どうして、世界はこうした身勝手なアメリカを抑えつけられないのでしょうか
確かに、アメリカにはがあります。
しかし、
世界が相手にしなければ他国のことに手出しは出来ないはずです。
アメリカとロシアは国内だけに「封じ込めて置く」ことが人類にとってベストな選択なのです。
アメリカやロシアがどんなに善いことを言って来ても、その腹黒い思惑に乗せられてはならないのです。

アメリカはその初めから偽善に満ちた国なのです。
表は善人のように振る舞い、裏ではマフィア以上のことをしているのです。
FBIやCIAなどは他国にまで手を出してアメリカの利権を確保しようとしていて、今でも、アメリカ国内だけではなく世界中の通信を傍受し、メールを検閲しているのです。

日本の横田基地がアジアにおけるそうした情報の最前線なのです。
ですから、
日本というよりアメリカの基地横田をあらゆる手段を講じて破壊すべきなのです。

沖縄もそうです。
アメリカは基地の移転に伴い裏での活動の暴露を恐れ、活動の拠点をグアムに移転しました。

吉田茂を始め日本の歴代首相はなぜ独立自尊を貫かなかったのか。
すべての始まりは、真珠湾攻撃でアメリカと戦争を始めたことです。
戦前の軍の「狂動」今の狂った日本に至らしめているのです。
戦勝国はそうした軍人などを戦後の極東裁判で皆死刑にしました。
しかし、
そうする権限は戦勝国にあるのでしょうか
答えは、「」です。
彼らは戦争で多くの人を殺し、戦後も人を殺し続けているのです
あたかも「正義」を行ったかのように「見せかけて

日本がアジアへの進出の考えに至ったのは、
ヨーロッパ人によるアジアの植民地化があったことは事実です。
それに対抗して日本は、
明治の富国強兵、日露戦争、日清戦争、朝鮮併合、満州国設立などの日本の勢力の拡大を図ったことにあります。
当然の成り行きと思いますが、日本人に「知恵が足りなかった」のです。
そうなった原因は長い江戸時代のいわゆる鎖国により、外国との交渉を断ったことでした。
日本だけを見れば鎖国は有益でした。
しかし、
その間に特にイギリス、オランダ、スペイン、フランスなどが世界に出てあちこちを植民地化し自分たちの勢力を拡大して行ったのです。
ヨーロッパが思想でも科学でも政治でも法律でも進歩発展をしている間の日本はこうした動きに全くついて行かなかったのです。
そのようないわゆるグローバルな思考を持った人間が日本には殆どいなかったのです。
いたとしても、その当時の日本の支配者、権力者はこれを全く理解していなかったのです。
確かに家康の考えは平和な日本を築きましたが、世界的には狭い考えだったのです。
キリスト教は脅威でしたが、それを上手く封じ込めヨーロッパの出来事、アメリカの西部開拓や南北戦争や黒人奴隷などに対する考えや進んだ科学に対してもっと敏感になるべきだったのです。

勿論、こうした考えは結果論、後だしであることは誰でも分かることです。
しかし、
歴史を検証するのはいつも後の時代になってからです。
あの時あーしていればなどと言う考えは、現実的ではないのです。
私がこうして述べていることも歴史的には現実的ではありません
しかし、
過去の反省から現在を見た場合の対処方法の参考にはなります。
その結果は、
近代から現代までのすべての悪の根源ヨーロッパの植民地政策アメリカの独立と台頭異常なロシア人であることは歴史が証明しています。
こうした状態からの脱却はもはや不可能です。
そのため、
神はこうした状態を見越してその期限を区切り、今の事物の体制を滅ぼすと預言しているのです
神による預言は、全くその通りにするという「予告」なので、必ずその通りになります
ですから、
今のアメリカのやり方で世界が混乱させられるのは、まだまだ続くことになりますが、それも後僅かな間のことです。
今はじっと辛抱、忍耐する時期なのです。
今後、トランプの介入によりウクライナがどうなっても、ガザがどうなっても、アサドがいなくなったシリアがどうなっても、タリバンが支配するアフガニスタンがどうなっても
アメリカもロシアも事物の体制の滅びと共に滅びるのです。
日本もその例外ではありません

あなたはこうした考えを理解出来ますか、それとも人類はこの事態に賢く対処できると考えますか。
もはや、
神の介入なしには世界を変えることは出来ないのです。

大洪水前もこれから臨む終わりの日の前も、人々は普通の生活に勤しんでいることも預言されています。
つまり、
人々はこうした世界情勢無力であり無関心なのです。
加えて、今の強大な力に対抗する力を持つ存在が現れていません。
実際、現れては、皆、政府や誰かに暗殺されて来たのです。
人類はこうして自らの首を絞め続けているのです。
更に悪いことに、
プーチンやトランプのような支配者が、スターリンやヒトラーや様々な国の独裁者が出現しその国だけではなく世界を悪い方向へと向かわせているのです。

世界中の人々がこれを認めています

しかし、二人は、自分たちの「力」を誇示することで、世界を混乱させ、衰退させていることに気が付いていません

争いの「火種プーチンとトランプに明日はないのです。

ヨハネへの啓示の書には、
地上の災いに関して繰り返し記されています。
そして
最後、天から悪魔とその使いたちが放逐された後、地上には大きな災いが生じると示されています。
-啓示12:7-12

つまり、
1800年代の後半から現在に至るまで、地球に住む人類に災いは続き
この災いは終わりまで続くと預言されているのです。
そういう時代に我々は生きているのです。

しかし、聖書の預言に寄れば、また、イエスの預言に寄れば、
この終わりを生き残る者がいるという点が、
人類の最後の望みなのです。


死んでも構わないという人は論外です。
そういう人は死ぬまで好き勝手なことを続けるでしょう。
そして、永遠に滅びることになるのです。

生き残る人には永遠に生きる可能性が残されています

あなたはこうした「聖書の考え」をどう思いますか?
聖書は「真実」の書です。
読んだことのない人は、私の以前のブログの中に聖書の読み方を書いてありますので、それを参考にして読んで下さい、
そうすれば、最短」で聖書をより深く理解出来るでしょう。

しかし、ものみの塔へは決して行かないでください

彼らがどんなに良いことを言っても、彼らの組織取り込まれないこと命」のためには重要なことなのです。

 

ものみの塔の信者が、本などを用いて説明しても聖書から引用しても、その説明に「疑い」を持って下さい。

彼らはもっともらしいことを言って「人を騙す」からです。