知恵を求める人のためのブログです。

偽善が暴露されるアメリカ。
私は決してアメリカには行かないと決めています。
例え、旅行であっても絶対に行きません。

表面ではアメリカは素晴らしい国だと思われています。
娯楽、スポーツ、芸能などの面だけではなく、貿易の相手として、移民大国として、民主主義と自由の際たる国として、様々な文化の面で、さらには、ロシアに対抗できる唯一の国としてなどなど様々です。
しかし、
その一方で犯罪が多く、警官による暴力や殺人も多く、気に入らないと難癖をつけ暴力を振るったり逮捕させたり、麻薬が横行しており、すべては白人、アメリカ第一主義で他の人種をすべて差別し、いわば、自分たちより劣った人間と見下す国であり、アメリカの思惑で他の国に戦争を仕掛ける国であり、例えば、第一次、第二次世界大戦、ベトナム、湾岸、イラク、アフリカの民族紛争、ISとの戦い、イスラム過激派との戦い、すべてはアメリカの利権のために、他人事に口出しして世界を牛耳ろうとしているのです。
ウクライナとガザでの戦いに関しても同じです。
ウクライナの資源をロシアとの交渉の取り引きとし、トランプの思惑通りにならないと見るや、ウクライナ抜きでロシアと勝手に交渉し、本来交渉する権利もないのに口出しし、ウクライナやEUを困惑させているのです。

どうして、世界はこうした身勝手なアメリカを抑えつけられないのでしょうか
確かに、アメリカにはがあります。
しかし、
世界が相手にしなければ他国のことに手出しは出来ないはずです。
アメリカとロシアは国内だけに「封じ込めて置く」ことが人類にとってベストな選択なのです。
アメリカやロシアがどんなに善いことを言って来ても、その腹黒い思惑に乗せられてはならないのです。

アメリカはその初めから偽善に満ちた国なのです。
表は善人のように振る舞い、裏ではマフィア以上のことをしているのです。
FBIやCIAなどは他国にまで手を出してアメリカの利権を確保しようとしていて、今でも、アメリカ国内だけではなく世界中の通信を傍受し、メールを検閲しているのです。

日本の横田基地がアジアにおけるそうした情報の最前線なのです。
ですから、
日本というよりアメリカの基地横田をあらゆる手段を講じて破壊すべきなのです。

沖縄もそうです。
アメリカは基地の移転に伴い裏での活動の暴露を恐れ、活動の拠点をグアムに移転しました。

吉田茂を始め日本の歴代首相はなぜ独立自尊を貫かなかったのか。
すべての始まりは、真珠湾攻撃でアメリカと戦争を始めたことです。
戦前の軍の「狂動」今の狂った日本に至らしめているのです。
戦勝国はそうした軍人などを戦後の極東裁判で皆死刑にしました。
しかし、
そうする権限は戦勝国にあるのでしょうか
答えは、「」です。
彼らは戦争で多くの人を殺し、戦後も人を殺し続けているのです
あたかも「正義」を行ったかのように「見せかけて

日本がアジアへの進出の考えに至ったのは、
ヨーロッパ人によるアジアの植民地化があったことは事実です。
それに対抗して日本は、
明治の富国強兵、日露戦争、日清戦争、朝鮮併合、満州国設立などの日本の勢力の拡大を図ったことにあります。
当然の成り行きと思いますが、日本人に「知恵が足りなかった」のです。
そうなった原因は長い江戸時代のいわゆる鎖国により、外国との交渉を断ったことでした。
日本だけを見れば鎖国は有益でした。
しかし、
その間に特にイギリス、オランダ、スペイン、フランスなどが世界に出てあちこちを植民地化し自分たちの勢力を拡大して行ったのです。
ヨーロッパが思想でも科学でも政治でも法律でも進歩発展をしている間の日本はこうした動きに全くついて行かなかったのです。
そのようないわゆるグローバルな思考を持った人間が日本には殆どいなかったのです。
いたとしても、その当時の日本の支配者、権力者はこれを全く理解していなかったのです。
確かに家康の考えは平和な日本を築きましたが、世界的には狭い考えだったのです。
キリスト教は脅威でしたが、それを上手く封じ込めヨーロッパの出来事、アメリカの西部開拓や南北戦争や黒人奴隷などに対する考えや進んだ科学に対してもっと敏感になるべきだったのです。

勿論、こうした考えは結果論、後だしであることは誰でも分かることです。
しかし、
歴史を検証するのはいつも後の時代になってからです。
あの時あーしていればなどと言う考えは、現実的ではないのです。
私がこうして述べていることも歴史的には現実的ではありません
しかし、
過去の反省から現在を見た場合の対処方法の参考にはなります。
その結果は、
近代から現代までのすべての悪の根源ヨーロッパの植民地政策アメリカの独立と台頭異常なロシア人であることは歴史が証明しています。
こうした状態からの脱却はもはや不可能です。
そのため、
神はこうした状態を見越してその期限を区切り、今の事物の体制を滅ぼすと預言しているのです
神による預言は、全くその通りにするという「予告」なので、必ずその通りになります
ですから、
今のアメリカのやり方で世界が混乱させられるのは、まだまだ続くことになりますが、それも後僅かな間のことです。
今はじっと辛抱、忍耐する時期なのです。
今後、トランプの介入によりウクライナがどうなっても、ガザがどうなっても、アサドがいなくなったシリアがどうなっても、タリバンが支配するアフガニスタンがどうなっても
アメリカもロシアも事物の体制の滅びと共に滅びるのです。
日本もその例外ではありません

あなたはこうした考えを理解出来ますか、それとも人類はこの事態に賢く対処できると考えますか。
もはや、
神の介入なしには世界を変えることは出来ないのです。

大洪水前もこれから臨む終わりの日の前も、人々は普通の生活に勤しんでいることも預言されています。
つまり、
人々はこうした世界情勢無力であり無関心なのです。
加えて、今の強大な力に対抗する力を持つ存在が現れていません。
実際、現れては、皆、政府や誰かに暗殺されて来たのです。
人類はこうして自らの首を絞め続けているのです。
更に悪いことに、
プーチンやトランプのような支配者が、スターリンやヒトラーや様々な国の独裁者が出現しその国だけではなく世界を悪い方向へと向かわせているのです。

世界中の人々がこれを認めています

しかし、二人は、自分たちの「力」を誇示することで、世界を混乱させ、衰退させていることに気が付いていません

争いの「火種プーチンとトランプに明日はないのです。

ヨハネへの啓示の書には、
地上の災いに関して繰り返し記されています。
そして
最後、天から悪魔とその使いたちが放逐された後、地上には大きな災いが生じると示されています。
-啓示12:7-12

つまり、
1800年代の後半から現在に至るまで、地球に住む人類に災いは続き
この災いは終わりまで続くと預言されているのです。
そういう時代に我々は生きているのです。

しかし、聖書の預言に寄れば、また、イエスの預言に寄れば、
この終わりを生き残る者がいるという点が、
人類の最後の望みなのです。


死んでも構わないという人は論外です。
そういう人は死ぬまで好き勝手なことを続けるでしょう。
そして、永遠に滅びることになるのです。

生き残る人には永遠に生きる可能性が残されています

あなたはこうした「聖書の考え」をどう思いますか?
聖書は「真実」の書です。
読んだことのない人は、私の以前のブログの中に聖書の読み方を書いてありますので、それを参考にして読んで下さい、
そうすれば、最短」で聖書をより深く理解出来るでしょう。

しかし、ものみの塔へは決して行かないでください

彼らがどんなに良いことを言っても、彼らの組織取り込まれないこと命」のためには重要なことなのです。

 

ものみの塔の信者が、本などを用いて説明しても聖書から引用しても、その説明に「疑い」を持って下さい。

彼らはもっともらしいことを言って「人を騙す」からです。

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自由と民主主義の「崩壊」

これは必然的な時代の流れとも言える出来事です。
既に、ある人々は気が付いています。
それは極右政党を多数の国民が支持をしていること。
プーチンやトランプなどいわゆる選挙で選ばれた人の「独裁」に対して国民が反発していることです。

この対立は今後どの国でも激化していきます。

 

最近、聞いた事柄ですが、

トランプや共和党の議員からは「民主主義」という言葉が「消えた」ということです。

自由と民主主義を掲げて来たアメリカからそれが「消えた」のです。

トランプとトランプ支持者が求めた「アメリカの横暴、身勝手」がそうさせているのです。


もしかすると、
プーチンが仕掛けた戦争、ハマスが仕掛けた戦い、これらに付随する様々な出来事、更には、トランプのような今までの価値観を逆なでするかのような振る舞い
こうした世界情勢は、
悪魔が天から放逐され(-啓示12:7-9)、地上の宗教が神に捨てられ、事物の体制の最終段階のしるしである神の怒りの七つの鉢が地に注ぎ出され(-啓示16章)、

その六番目の出来事として、

啓示16章
13 かえるのように[見える]三つの汚れた霊感の表現が,龍の口から,野獣の口から,偽預言者の口から出るのを見た。

14 それらは実は悪霊の霊感による表現であってしるしを行ない,また人の住む全地の王たちのもとに出て行く全能者なる神の大いなる日の戦争に彼らを集めるためである。
15 「見よ,わたしは盗人のように来る。目ざめていて自分の外衣を守り,裸で歩いて自分の恥を人に見られることがないようにする者は幸いである」。
16 そして,それらは[王たち]を,ヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる場所に集めた。

-啓示16:13-16
で記されているこの出来事の「見える結果」を示しているのではないかと思われます。

三つの汚れた霊感の表現全世界に影響を与えるのです。

今は、この段階にあると思われます。
つまり、世の終わりは近いということです。

そして、ついに、最後の七番目の鉢が地に注がれ、事物の体制が終わりに至るのです。
その手始めとして大いなるバビロンが滅ぼされ、その後地に対する神の裁きが始まり、それが終わると悪魔が捕えれ、底知れぬ深みに投げ込み,[それを]閉じて彼の上から封印し,千年が終わるまでもはや諸国民を惑わすことができないようにされるのです。
-啓示20:2-3

この段階に進むまで、少なくとも
あと10年はかかると考えています。
皆さん、世界情勢に注意を払いましょう

今世界では、政党、民主主義に変化が生じていることは周知の事実です。

一般的な傾向として、
人々が抑圧されている時には、民主主義と自由が声高に叫ばれ、そうした社会が浸透してくると、今度は極端な思想が台頭してくるものです。
つまり、いわゆる右翼的な思考の人々が増えてくるということです。
なぜなら、民主主義ではいわば弱者救済的な思考が強いのですが、そうした弱者救済に疑問を持つ人々が次第に増えて来るからです。

民主主義という形ではありませんが、権力者の目が弱者に向かったり優柔不断になる国民の不満が角を出すのです。

国民に甘い汁を吸わせると付け上がるのです。

その不満が極右という形で現れるのです。

(参考:下世話の話ですが、

 国民を虐げれば少しの楽しみでも喜ぶものです。

 逆に、

 国民を甘やかすといくら良いことをしても有り難らないものです。
 こうしたことは個人でも同じです。
 読んでいる人の中に思い当たる節があるかも知れません。
 これは、世の習いです。
 今の、○○無償化、減税、○○支援などは国民の甘やかしと見るか、皆さんはどう思いますか。
 弱肉強食は自然の習いなのです。)  

 

民主主義では「自由と平等、公平」が叫ばれますが、弱者救済は「不公平」そのものなのです。

自然界を見ても弱いものを助けるものはありません

弱者救済は「人間の感情」からくるものです。

実際、聖書の中には「貧しい者」という言葉が多く出て来ます。

そうした者たちに対する接し方がその大部分です。

キリスト教などでは「隣人に対する憐み」の施し実現として「貧しい者」に対する支援などを行っています。

世界はこれを善いこととして評価しています。

  

また「貧しい者」の中には、健康で十分働ける人たちがいるのも事実です。

ただ「貧しい」というだけで「手を差し伸べる」ことは間違っていると思いませんか

人は「自分の荷を負わなければならない」のです。

  

日本ではまだこのような極右的な傾向が現れてはいませんが、その内に必ず出て来ます。

実際、こうした流れは「自然」なことなのです。
いつの世でもこのような変化は生じているからです。
難民の受け入れ、国民に対する様々な政府の支援や援助について疑問に思うる人は少なくないのです。

支援自体は「善いこと」と考えているので、敢えて公言していないだけです。

特に、自分の力で何事も行っている「強い人々」そのように思うものです。
例えば、
年金生活で自立出来ている人に対して、非課税世帯だからと言って政府の支援金が必要でしょうか
無くても生活は困らないのです。
生活保護受給者についても、健康であるのに受給している人が少なくないのです。
実際、生活保護者より年収が少ない人も大勢いてその人たちは自力で生きているのです。
個人的には、生活保護はなくしても良いと思います。
憲法で最低限の生活を保障していると言ってもきちんと自分の義務を果たしている場合に限るのです。
自分の義務や責任を果たしていない人生活保護費を与える必要なないと考えますが皆さんはどう思いますか。
健康保険もそうです。
本当に病気で困っている人が病院に掛かることは当然ですが、比較的軽い症状で病院に掛かったり、健康を維持する点でおろそかにしている人まで保険を適用すること自体間違っています
どうやって人々を判断するのかという点で様々な意見があると思います。
審査をより厳しくすることです。
何重にも確認することと
手続きを面倒にさせることです。

手続きは面倒なものにすることで不正受給を防ぐのです。
ただし、役所の人窓口に来る人には親切に対応しなければなりません。
突き放すようなことはしてはならないのです。
しかし、

丁寧に説明しつつも審査を厳格にしなければなりません。

中には、怒ったり暴言を吐いたり暴れるなどをする人も出るかも知れません。

そのために、

元自衛官や元警察官や元消防員だった体のがっしりした人警備員として雇い、そういう身勝手で分別のない人を取り締まり、時には警察に突き出すことです。

このようにして、市役所の窓口は守られなければなりません

窓口の職員が途方に暮れるようなことにならないようにしなければならないのです。

そうしないと、不正が行われることになるのです。

  

これは日本でのことですが、外国では当然のようにどこでも警備員の配置は行われてわれているのです。小さなお店を除いて

 

イギリスで生活していた時、スーパーにも銀行にもショッピングセンターにも至るところ体のがっしりした保安員や警護員などを見かけました。

実際、逮捕の瞬間を目撃したこともあります。

 

外国では右翼などが数年前から活発化多くの国民の支持を得ています

これに過激なグループが加わって治安が悪くなってきています。

 

日本では「極右政党」が出現していません。

敢えて言うなら「自民党」が極右政党です。

共産党」はその反対側の政党です。

その他は、中途半端な中間の政党です。

 

今の日本の政治を見ていますと、

やれ減税だやれ無償化などと「理不尽な要求」ばかりしています。

国民も馬鹿ではありませんから、もしこれが実現されると不公平」だと思う人が必ず出て来ます。

更には、

必要以上に税金を使い、無償化を進めれば必ず歪な社会になります。

そうなってからでは遅いのです。

 

右翼や過激なグループが暴れ出したらもはや手の打ちどころが無くなり社会が崩壊するからです。

 

こうしたことの責任は今の野党にあると言って過言ではないのです。

 

政府自民党は実際に政治を行っているので無分別なことは出来ないししません

国民はもっと思慮深くあるべきです。

 

今の国民の政治に対する考えを正すべきです。

政府は国民の保護者ではないのです。

国民の責任は国民自身にあるのです。

この点を忘れてはなりません。

 

あなたはどう思いますか?

 

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ちなみに、自由と民主主義の社会では「平和」は決して実現しません

平和」はそれを維持出来る「権力」の存在があって初めて実現できるからです。

 

ロシアのウクライナ侵攻にしても、ハマス壊滅を目的としているイスラエルにしても、トランプのような「独裁」にしても、

これらを「力でねじ伏せる力」があって初めて「平和」が実現するのです。

 

市民などの立場の弱い、力のない存在がいくら声高に叫んでも「決して実現」しないのです。

ただ、むなしく叫んでいるだけなのです。

ですから、

社会や世界に訴えるのではなく「力ある理想的な存在」を育てることの方が効果的なのです。
プーチンやトランプの「逆の存在」を育成することなのです。

もし、あなたが「平和と安全」「公平・平等」を望むなら、そのような人材を育てる「組織」を作り多くの人の賛同を得ることです。

そして、そのような人材国家権力を持てば「国内では平和と安全」を確保できるのです。

あなたはどう思いますか?   

   

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人生は苦しいものです。
人は一体何のために生まれて来たのだろうか疑問を抱く人も少なくありません。
特に、障害を持って生まれた人や差別やいじめや暴力で苦しんでいる人や戦争や犯罪や事故などで亡くなった人の遺族などでは痛感するものです。
更に、思い通りにならなくて日々イライラして生きている人もいます。

しかし、人間はその中でも幸せを見つけようと(上手くやろうと)日夜努力しています

比較的順調に生きて来た人突然事故や災難や困難が生じ、それまでの人生が台無しになるということもあります。
人生は思い通りにはならないことは誰でも分かっていることです。
それでも、こうしたことはとても辛い思いをすることになります。
これを避ける方法はあるのでしょうか

1 自分の振る舞いが関係している場合。
2 周囲の誰かが関係している場合。
3 事故や天災を含め災害などの突然の出来事が生じた場合。
4 戦争など政治的な出来事の場合。

など不幸の要因となる事柄は様々あります。

人は欲を持たず穏やかに暮らしていれば大抵は殆ど問題は起きないものです。
それでも、例えば、農家であれば、
大雨、洪水、干ばつ、病害虫、獣の被害などにより作物が順調に育たなかったり収穫が少なかったりする場合もあります。

人生はままならないものです。

人はなぜこうも苦しい人生を送らなければならないのか
と、誰しもが思うかもしれません。

実際、苦しい人生は当たり前のことなので、余り深く考えずに自覚もしないものです。

 

また、生きていれば良いこともあるものです。
人はその良いことを求めるために生きているようなものです。

その良いこととは、自分の思いや願いが叶う時などです。
欲しいものが手に入ったり、やりたいことが出来たり、美味しいものを食べることが出来たり、好きな人と結婚できたり、裕福になったり、有名になったり、社会的地位が高くなったり、立派な家を持てたり、などなどいろいろあります。
これらを良いと思うかどうかはその人によりますが、大抵は良いと思うものです。

苦しい、辛い、などから逃れるかのように自由や解放を求め人の迷惑も顧みず好き勝手なことをすることで、いわば社会に反抗することで鬱憤を晴らすような人さえ出て来るものです。

  

カウンターカルチャ-やアヴァンギャルドに向かう人もいます。

カウンターカルチャーとは、既存の社会の根幹に関わる制度や規範、文化に対して、反発する価値をその存在意義として掲げる集団によって形成される文化と定義されています。

アヴァンギャルドは「前衛、先駆け、革新的」の意。特に第1次世界大戦の頃起こった自然主義否定のアブストラクト(抽象主義)、シュール・レアリズム(超現実主義)などの芸術運動に見られた発想の自由を根底とするとされています。ファッションでは大胆且つ独創的なデザインを指して使用していることが多いです。

時々、テレビで社会の様々な出来事、娯楽などを見ていると「滑稽」に思える時もあります。
あたかも何も知らずに生きている動物や懸命に働いている蟻や蜂のように見えます。

キリストの追随者としてパウロが言ったように「劇場の見せ物」のように、周囲に関心を持って見られているならまだしも
何も知らずに苦しい人生を送っている人間滑稽なのです。-コリント(一)4:9

あなたはどう思いますか?

一生を穏やかな生活、生き方が出来た人は、この上もない幸せ者だと言えます。
苦労して、敵と戦って、時には挫折し、世界の栄光と富を手に入れるより「価値」があります

人間が自分の能力、力、権威、富と財産、地位と名誉、更には健康などを誇っても死ねば自分にとってはすべては無に帰してしまうのです。
富や財産残った者のものとなりますが、それ以外には有益とはならないのです。
何を成し遂げても、ある意味、無駄に力を使ったようなものです。

聖書の筆者のある者は人生の結論として次のように言いました。
8 「何とむなしいことか!」と召集者は言った,「すべてのものはむなしい」と。
9 召集者は自分が賢い者となったばかりでなく,さらに絶えず民に知識を教え,また,熟考し,徹底的に調べたのである。それは,多くの箴言をまとめるためであった。
10 召集者は喜ばしい言葉を見いだし,真実の正確な言葉を書き記そうと努めた。
11 賢い者たちの言葉は牛追い棒のようだ。[格言を]集めることに専心する者たちは,打ち込まれたくぎのようだ。それらは一人の羊飼いから与えられたのである。
12 これら以外のことについては,わが子よ,[次の]警告を受け入れよ。多くの書物を作ることには終わりがなく,[それに]余りに専念すると体が疲れる。
13 すべてのことが聞かれたいま,事の結論はこうである。[まことの]神を恐れ,そのおきてを守れそれが人の[務めの]すべてだからである。
14 [まことの]神はあらゆる業をすべての隠された事柄に関連して,それが善いか悪いかを裁かれるからである。
-伝道の書12:8-14

結論は、栄光を手に入れることでも、富や財産を手に入れることでも、社会的地位や名誉を得ることでも、権威を手に入れることでもなく、
ただ、まことの神を恐れ、そのおきてを守ることであると。

  

人生の苦しみから逃れる唯一の方法」です。

 

最後に、

教育(言葉や体罰的な教えや躾など)で人の行動を変えることは出来ますが、その人の考えや思いを変えることは出来ません

その人の考えや思いを変えるのは経験と感動的な、あるいは、悲劇的な出来事です。

例えば、

人は失敗から多くを学ぶと言います。

失敗して考えを改め成功に至ることが多いものです。

もし、失敗をしても考えを改めなければ、いつか、同じ失敗をすることになります。

実際、そのような人もいます。

その人は、失敗の原因自分の考えや思いにあるとは考えていない場合です。

  

また、人は誰かの指示に従っている時、つまり、その行いに責任がない時には「余り負担にはならない」ものです。

ただ、言われたことをすれば良いだけだからです。

個人的なことであっても仕事上のことであってもそうです。

こうしたことも、辛い生き方から逃れるための一つの方法です。

こうした場合の肉体的な重労働精神的な辛さよりは、さほど苦にならないことが多いものです。

    

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これは、社会風刺をした[創作格言]です。

人は全く自由だと、初めはいろんなことをやって見たいと思いやってみますが、出来ることが限られており、その内やることがなくなるものです。

仕事など、義務や必要性がメインでその余暇が自由であること丁度良いのです。

その方が人生を有意義に過ごせます。

若者についての風刺
1 自由、求める先は不自由。

  求める自由は幻想、完璧な自由はなし。

  身勝手な振る舞い事故の元。


2 お金があれば何でも買えると思う気持ちが悪の始まり。
3 やりたいことをしたいと思う気持ちがケガの元。
4 お金は欲しいが働くのはいやだ。

  お金が欲しいかそらやるぞ、トー横女子。


5 お金は欲しいが仕事がない。

  人も会社も育てた高度成長期、人を使い捨てるAI時代。


6 バカな奴に分別はなし。
7 気に入らないと言う自分が嫌われ者
8 気が付けば貧乏暮らし若者が夢の跡
9 夢は枯野をかけ廻った昔、今ははかなさがかけ廻る。

(松尾芭蕉が夢の中で思いのままに自然を俳句にして詠んでいたいという気持ちに掛けています。

 夢は枯野を駆け巡るとは、いろんな希望や夢を追い掛けるということを示しました。)
10 夢は枯野をかけ廻った昔、今は溜め息だけがかけ廻る。
11 昔のブリッ子、今は王道。
12 強欲は悪の根源。
13 欲しいと思う気持ちがケガの元。

14 好きな女の子、欲しいと思う気持ちが落とし穴。

15 好きな男の子、憧れがケガの元。

16 働く気がない生活保護費受給者たち。

  政府の支援、使えるものは何でも使う浅ましさ。

 

政治家や官僚などについての風刺 

1 民主主義の破壊者、プーチンとトランプ。

  人を貪り食う野獣、プーチンとトランプ。

  悪魔の申し子、プーチンとトランプ。

  使い捨て、ロシア兵。

  戦うロシア兵、どう思うモスクワの快楽

  黙して語らずプーチン批判、口を開けば死が待っている。

  ウクライナと戦うロシア兵、蟻地獄

  何と戦うのかロシア兵、病気が蝕むプーチン。

  偉大な国、何を求める世界のガン

  醜いトランプの顔、年のせい?

  自分では銃も打てない交渉人トランプ。

  命拾いしたトランプ、恐いものなし。

  国を野獣から商人に変えたトランプ。

  人々にしるしを付けたがるトランプ。

  しるしがなければ売り買いをさせないトランプ。

  かつていたスターリンとヒトラー、今はプーチンとトランプ。

  (復活した野獣)

  ヒトラーと戦ったルーズベルト、プーチンと握手するトランプ。

  (悪魔と悪魔が手を結んだ)

  日本に原爆投下の指令出したトルーマン、国民の代表にあらず。

  ベトナム戦争を終わらせたフォード、国民の代表にあらず。

  悪魔に見えるトルーマンの写真。

  一度は負けたマッカーサー、日本を支配する。(復活した野獣)

  

2 政治家、表は名士裏は亡者。

  金が命、政治家と企業。

  売春婦(議員)、裸を隠す娼婦たち(議員)。

  娼婦の裸を隠す取り巻き人(官僚

 

3 節約も緻密な計算出来ない野党

  生活苦、甘える国民、付け込む野党

 

4 あれが欲しいこれが欲しいと駄々を捏(こ)ねる野党。
5 政治家、声は国民のため、心は自分のため

6 官僚、心は国民目は大臣

  国家のため、逆らえぬ上からの命令。

  

7 政府と県民の板挟み、自治体

  国会の野党かと思う自治体

  投票したいが思い人現れず。

  飴かムチか、投票結果。

エホバの証人に対する風刺
1 エホバの証人、夢かまことか永遠の命
2 伝道、口では救済(他人の命)、心は自分の命
3 祈りが叶わない、訳が分からないエホバの証人。
4 永遠の命を求めた結果が滅びの道
5 狭い門入ったつもりが、広い道
6 愚かさが心につながれたエホバの証人。
7 懲らしめのむち棒がエホバの証人を引き離す。

8 統治体、忠実で思慮深い奴隷、その実体は認知症

9 生活費、死ぬまで無償化統治体

10 統治体、自尊心を捨てたボケ老人

11 エホバの証人、黙して語れず組織の批判

12 ものみの塔、間違った指示で奈落の底。

13 本当は何も分かっていない楽園の生活。

14 権威に従う悪霊、権威に逆らうエホバの証人。

15 口で敬い、行いで逆らうエホバの証人。

16 「ボーっと生きてんじゃねーよ」エホバの証人。
 ( ~チコちゃんに叱られる~「ボーとして生きてんじゃねーよ」より。)

 

また、思いついたら投稿します。

   

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社会の出来事は[雑草]の成長のようだと考えています。

戦後直後に生まれた世代としては、めまぐるしく変化する時代に成長して来たと言えます。
いわば、戦争と言う「」ですべてが焼かれ、その後に雑草がものすごい勢いで生えて来るのに似ていました。
その当時を生きて来た者の一人としては、一生懸命と言うよりは将来の心配を何もせずただ普通に生きているだけで社会はどんどん進歩して行き、社会が提供する「新しいもの」を手に入れさえすればそれで満足していたような気がします
こうした気持ちが変化し始めたのは、いわゆるバブル崩壊だったように思います。

その時には、まだ若く働き始めた頃でしたので殆ど実感はありませんでした。


バブルの絶頂期までは、雑草も野原一面に広く、まるで小麦のように奇麗に成長していたのです。
いわばバブルが崩壊しその大きく成長した奇麗な草が「なぎ倒され」たのです。
それでも、雑草は再び大きく奇麗に成長しました。
この時は、なぎ倒され枯れた草の間から新しい草が大きく成長し以前のような奇麗な草原になりました。
しかし、再びバブルが崩壊し、その再生した雑草が以前と同じように「なぎ倒された」のです。
こうしたことを二度経験する内に社会は以前とは異なり強くなければ生きて行けなくなって来たのです。
昔のようにのんびりとはしてはいられなくなってしまったのです。
社会は以前にも増してものすごい勢いで活発に活動して街にも大勢の人が行き交って、人と人がぶつかる程でした。
次々と新しいものが出て、それを人々は求め知識も情報も以前より更に増え、人々は「先を争う」ように「競争」する時代に突入して行ったのです。
その「競争」は更にエスカレートし、能力や技術力の高さが求められるようになって来るにしたがって、
もはや、以前のように頑張れば、努力すれば何とかなる時代ではなくなってしまったのです。

 

雑草も今では、優れた化学肥料により更に強く大きく逞しくなったのです。
この肥料が手に入らない草は、その強くて大きい草の根元で枯れて埋もれていったのです。
いわば、強くて大きい草の「肥し」になってしまったのです。
こうした事柄は、更に勢いを増しますが、やがて社会はこうした勢いに少し疲れて来ました
その結果、街ではいわゆるシャッター通りが増え、人々は閑散となってしまったのです。
一挙に社会不安、人生に対する不安が増大し始めて来た時期です。
障害者が目立つようになり自殺する若者が少しずつ増加して来たのです。
今では、こうした人々がかなり増え、異常とも思える社会となってしまいました。

 

社会は両極端となり、富んでいる人は益々富貧しい人は益々貧しくなってしまったのです。
それでも、能力のある人たちは次々と新しいものを提供し続けています
これに加えて、権力者の独断と横暴が平然と行われるようになって来ました
そのため荒れた野原は元へは戻りません。
今は、太くて逞しい雑草まるで木のように太くなり、そのの根元に新しい小さな雑草の芽が少しずつ出て来ている状態です。

こうした状態を戦後のような状態に戻すには、すべてを一度焼き尽くす以外方法はありません
あるいは、すべての雑草を刈り込み、刈った草などを腐葉土にすることと、草を刈った土地を耕しそこに新しい作物を植えることも出来ます。
先ずは土作りのために掘り起こし、そこにもみ殻、牛糞、培養土、腐葉土、赤玉土、糠を入れ混ぜ、更にそこにダイアジノンやオルトランなどを加え掘った土を混ぜ込みこんもりした畝状態にし、そこに軽く「菌力アップ」と「にがり」を加えた水を散布し、可能ならマルチをし温め発酵を促がします。
こうして出来た土では、作物がとてもよく育ち、病害虫も減少することが出来ます。

今の社会もこのように出来たら良いのですが

今の社会を焼き尽くすことは世界戦争でも引き起こさない限り不可能です。
ロシアによるウクライナ侵攻は、丁度第一次世界大戦の時のような、東西に分裂した状態を作り出しています。
1914年当時は世界戦争に拡大しましたが、現代もその危険がないわけではありません
問題は、
プーチンが頑なになり、これにEUが反発しウクライナへ兵と武器と弾薬を供給し全面戦争にならないとも限りません。
その時トランプがどういう態度をとるかですが、おそらく、アメリカはこれに参戦はしません
トランプは争い、戦争が嫌いだからです。

見返りがあれば参戦する可能性はあります。
おそらく、見返りとなるものをウクライナもEUも持ち合わせてはいないのです。

++++++++++++++++++++++++++

聖書では
このように地球上で争っている間にある日突然、天から「白い馬に乗って」来る者が出現し、すべてをロシアもEUもウクライナもそしてアメリカもすべて、この者に「滅ぼされてしまう」と記されています。


これは、
ほどなくして必ず起こる出来事として、神がイエスに、イエスは自分の使いに、その使いがパトモス島に幽閉されていた最後の使徒ヨハネに告げられた内容の「最終部分」です。

神から見れば千年は一日のようだと言われていることから、
神から見れば、ヨハネに告げてからまだ二日しか経っていません
イエスが言われたように、今は「夏が近い」時なのです。
この日から夏だという日を誰も分からないように戦争を引き起こしている人々とすべての人が終わるその日と時刻」については誰も知らないのです。

しかも、その日まで人々は普通の生活をしているのです。

しかし、しるしとしては夏が近い」のです。

幸いなことに、その大患難から大群衆が出てくるとも告げられています
つまり、「その日」を生き残る人々が大勢いるとも示されているので、その日」は必ずしも「絶望」の日ではなく
むしろ、生き残る人々にとっては「救いと希望」の日となるのです。

現代の出来事の展開雑草を例えにし、そこに聖書の預言の出来事「分かり易く」加えて見ました。

こうした世界の展開をあなたはどう思いますか?
「その日」を生き残るには「条件」が示されています。
偶然生き残る訳ではありません
生き残るすべての人々は既に分けられているのです。
ちなみに、
プーチンもトランプも生き残ることはありません
断言します

   

イエスは終わりの日の例え話しで、収穫前に雑草は刈り取られて火で焼かれると語っています。
マタイ13章
13章
その日,イエスは家を出て,海のそばに座っておられた。

2 すると,大群衆がそのもとに集まったので,舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな浜辺に立っていた

3 それから,多くのことを例えで話してこう言われた。「ご覧なさい,種まき人が[種を]まきに出かけました。

4 彼がまいていると,幾つか[の種]は道路のわきに落ち,鳥が来てそれを食べてしまいました。

5 ほか[の種]は土のあまりない岩地に落ち,土が深くないのですぐに生え出ました。

6 しかし太陽が昇ると,それは焼かれ,根がないので枯れてしまいました。

7 また,ほか[の種]はいばらの間に落ち,いばらが伸びて来てそれをふさぎました。

8 さらにほか[の種]はりっぱな土の上に落ちて実を生じるようになり,あるものは百倍,あるものは六十倍,あるものは三十倍[の実をならせました]。

9 耳のある人は聴きなさい」。
10 そこで弟子たちが寄って来て,彼に言った,「例えを使って彼らにお話しになるのはどうしてですか」。

11 [イエス]は答えて言われた,「あなた方は,天の王国の神聖な奥義を理解することを聞き入れられていますが,あの人々は聞き入れられていません。

12 だれでも持っている人,その人はさらに与えられて満ちあふれるほどにされます。しかし,だれでも持っていない人,その人は持っているものさえ取り去られるのです。

13 わたしが例えを使って彼らに話すのはこのためです。すなわち,彼らは見ていてもむだに見,聞いていてもむだに聞き,その意味を悟ることもないからです。

14 イザヤの預言は彼らに成就しています。それはこう述べています。『あなた方は聞くには聞くが,決してその意味を悟らず,見るには見るが,決して見えないであろう

15 この民の心は受け入れる力がなくなり,彼らは耳で聞いたが反応がなく,その目を閉じてしまったからである。これは,彼らが自分の目で見,自分の耳で聞き,自分の心でその意味を悟って立ち返り,わたしが彼らをいやす,ということが決してないためである』。
16 「しかし,あなた方の目は見るゆえに,またあなた方の耳は聞くゆえに幸いです。

17 あなた方に真実に言いますが,多くの預言者や義人たちは,あなた方が見ているものを見たいと願いながらそれを見ず,あなた方が聞いている事柄を聞きたいと願いながらそれを聞かなかったのです。
18 「では,あなた方は,[種を]まいた人の例えを聴きなさい

19 人が王国の言葉を聞きながらその意味を悟らない場合,邪悪な者がやって来て,その心にまかれたものをさらって行きます。これが道路のわきにまかれたものです。

20 岩地にまかれたもの,これはみ言葉を聞き,喜んですぐにそれを受け入れる人のことです。

21 けれども,自分に根がなく,一時は続きますが,み言葉のために患難や迫害が生じると,すぐにつまずいてしまいます

22 いばらの間にまかれたもの,これはみ言葉を聞きますが,この事物の体制の思い煩いや富の欺きの力がみ言葉をふさぐ人のことであり,その人は実らなくなります。

23 りっぱな土の上にまかれたもの,これはみ言葉を聞いて,その意味を悟る人のことです。その人はほんとうに実を結び,ある者は百倍,ある者は六十倍,ある者は三十倍を生み出すのです」。
24 [イエス]は彼らに別の例えを示してこう言われた。「天の王国は,自分の畑にりっぱな種をまいたのようになりました。

25 人々が眠っている間に,その人のがやって来て,小麦の間に雑草をまき足して去りました。

26 葉が生え出て実を生み出すと,その際に雑草も現われました。

27 それで,その家あるじの奴隷たちがやって来て言いました,『ご主人様,畑にはりっぱな種をおまきになったのではありませんでしたか。それなのに,どうしてそこに雑草が生えてくるのでしょうか』。

28 彼は言いました,『敵である人がそれをしたのだ』。彼らは言いました,『では,わたしどもが行ってそれを集めることをお望みですか』。

29 彼は言いました,『いや。雑草を集めるさい,小麦も一緒に根こぎにすることがあってはいけない。30 収穫まで両方とも一緒に成長させておきなさい収穫の季節になったら,わたしは刈り取る者たちに,まず雑草を集め,焼いてしまうためにそれを縛って束にし,それから,小麦をわたしの倉に集めることに掛かりなさい,と言おう』」。
31 [イエス]は彼らに別の例えを示してこう言われた。「天の王国はからしの種粒のようです。人がそれを取って自分の畑に植えました。

32 実際それはあらゆる種の中で一番小さなものですが,成長したときには野菜のうちで一番大きくて木のようになり,天の鳥たちが来て,その枝の間に宿り場を見つけます」。
33 [イエス]は彼らに別の例えを話された,「天の王国はパン種のようです。女がそれを取って大升三ばいの麦粉の中に隠したところ,やがて塊全体が発酵しました」。
34 イエスはこれらのすべてを例えで群衆に話された。実際,例えを用いないでは話そうとされなかった。

35 それは預言者を通して,「わたしは例えをもって口を開き,[世の]基が置かれて以来隠されてきた事柄を言い広める」と語られたことが成就するためであった。
36 それから,群衆を解散させた後,[イエス]は家の中に入られた。すると弟子たちがそのもとに来て,「畑の雑草の例えをわたしたちに説明してください」と言った。

37 [イエス]は応じて言われた,「りっぱな種をまく者は人の子です。

38 畑は世界です。りっぱな種,それは王国の子たちです。それに対し,雑草は邪悪な者の子たちであり,

39 それをまいた敵は悪魔です。収穫は事物の体制の終結であり,刈り取る者はみ使いたちです。

40 それゆえ,雑草が集められて火で焼かれるのと同じように,事物の体制の終結のときにもそのようになります。

41 人の子は自分の使いたちを遣わし,彼らは,すべてつまずきのもとになるものや不法を行なっている者自分の王国から集め出し,

42 それを火の燃える炉の中に投げ込みます。そこで[彼らは]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう。

43 その時,義人たちはその父の王国で太陽のように明るく輝くのです。耳のある人は聴きなさい。
44 「天の王国は畑に隠されたのようです。人はそれを見つけてから隠しました。そして,喜びのあまり,出かけて行って自分の持つものすべてを売り,それからその畑を買うのです。
45 「また,天の王国はりっぱな真珠を探し求める旅商人のようです。

46 価の高い真珠一つを見つけると,去って行って自分の持つすべてのものを即座に売り,それからそれを買いました
47 「また,天の王国は,海に下ろされてあらゆる種類の[魚]を寄せ集める引き網のようです。

48 それがいっぱいになったとき,人々は浜辺にたぐり上げ,腰を下ろして,良いものを器に集め,ふさわしくないものは投げ捨てました

49 事物の体制の終結のときにもそのようになるでしょう。み使いたちは出かけて行って,義人の中から邪悪な者をより分け,

50 彼らを火の燃える炉にほうり込むのです。そこで[彼らは]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう。
51 「あなた方はこれらすべてのことの意味を悟りましたか」。彼らは,「はい」と言った。

52 そこで[イエス]は彼らにこう言われた。「そういうわけで,公に教え諭す者はみな,天の王国について教えられると,自分の宝の蔵から新しい物や古い物を取り出す人,[つまりそのような]家あるじのようになります」。

(参考:これはイエス自身と使徒たちのことを言っています。)


53 さて,これらの例えを[話し]終えると,イエスはそこから移って行かれた。

54 そして自分の郷里に入ってから,そこの会堂で人々を教えはじめられた。その結果,人々は驚き入って,こう言った。「この人は,これほどの知恵とこうした強力な業をどこで得たのだろうか。

55 これはあの大工の息子ではないか。彼の母はマリアと呼ばれ,兄弟たちはヤコブ,ヨセフ,シモン,ユダではないか。

56 そして彼の姉妹たちも,みんなわたしたちと共にいるではないか。では,この人はどこでこれらのすべてのことを得たのだろうか」。

57 こうして彼らはイエスにつまずくようになった。しかしイエスは彼らにこう言われた。「預言者は自分の郷里や自分の家以外なら敬われないことはありません」。

58 そして,彼らの信仰の欠如のゆえに,そこでは強力な業を多くはなさらなかった

イエスの人間的な一面です。)

 

イエスのこの言葉を読んで、あなたは何を感じますか

イエスの弟子となることには「思慮と理解力」が求められているのです。
収穫の時期小麦と雑草ははっきりと区別がつきます
小麦は、熟していわゆる黄金色に変色していますが、雑草実を付けることなく草色のままです。
これは、人間としての地位や名誉や富裕や名士や有名人などのことではありません。

とイエスに対する知識、理解、信仰、忠実などに関して「熟して」、とイエスから見て黄金色に輝いていることを示しています。

天の王国の神聖な奥義の理解に関して十分理解している必要があるのです。

 

理解し忠実な人は、大患難を生き残る大群衆の一人に数えられるかも知れません

       

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事物の体制の滅びを生き残るのに、必要なことは何か?信仰それとも・・・


予告されている事物の体制の滅びは、生きていさえすれば誰でも目撃者になることは出来ます。
しかし、
その滅びを生き残るかどうかはどうすれば良いのでしょうか?
死んでも良いと思っている人にとってはどうでも良いことです。
それでも、生き残る方法が分かれば、もしかすると生き残りたいと思うのではないでしょうか?

+++++++++++++++++++++++++++++
これは、単なるサバイバルではありません。
予告は聖書に記されているので、つまりは宗教に依存しているということです。
宗教に依存しているということは、
聖書のとイエス・キリストに対する信仰と深く関係しているということです。

宗教に関心があるということは、
一般的にはと将来の希望及び日常の災いから逃れ日々の安寧を実現したいということだと考えられます。
と将来の希望を除けば、それは、すなわち人間そのものに関わることであるということです。
宗教を持っている人、宗教に入っている人、信仰心を持って実践している人などは、常に、人間ということを意識しているものです。

人間はどうあるべきか、どのように生きるべきか、他人に対しどのようの接するべきかなどなど。

他方、宗教に関心を持たない人は、
人間そのものというよりは、自分自身と周囲の人との関係に関心を持っているものです。

どちらも、
人間ということを意識しているのですが、思考対象が異なります

前者は、一般的な概念としての人間そのものに対する関心ですが、
後者は、自分との利害関係に於ける人間に対する関心です。

ですから、
宗教では老若男女や性格などの違いは、問題を解決するときには考慮しますが、それ以外はいわゆる区別をしませんので、誰でも持つことが出来、また、行うことが出来ます。

他方、宗教心を持たない人は、肉食動物的で自分の利害に関係ある人だけを意識し、その他の人とは区別して考えているものです。

世の中の人々は、大別するとこの二種類に分類されると考えることが出来ます。

つまり、

宗教を持っている人、実践している人の意識の対象は神ですが、

宗教を持たない人の意識の対象は自分自身だということです。

実際にはどちらも多少は入り混じった意識を持っているものです。

宗教を持っていても、利害関係のある人を意識することもありますし、むしろその方が自然なのかも知れません。

宗教を持っていないすべての人は、自分の利害に関係のある人だけを意識していることは間違いないありません。

おそらく、
が地を、すなわち、すべての人々を裁く時には、こうした点を考慮すると考えられます。
人の心の中を調べるのです。
そうでなければ、区別の付けようがないからです。

が地を裁く時、義なる者を救われることが示されています
人間的に考えた時、すべての人の内、聖書に通じそれ理解し忠実に守ったので義なる者と見なされるということではないような気がします。
というのは、
そのような人は現実には殆どいないからです。
もっとも、
ノアの大洪水の時には、8人だけが救われましたから、少ないと言うだけの理由でふさわしくない人まで滅びを生き残されるとも考えにくいものです。

は、人の心が分かります
ですから、

人間的に観察して
宗教をしているしていない、聖書に通じて理解して忠実に守っているいないに関わらず
誰が義なる者かが既に判明していると考えた方が理にかなっています
つまり、
既に、事物の体制の終結の際、滅ぼされる人と生き残る人は判別されているということです。
ただ、人間にはそれが見えない分からないだけなのです。
クリスチャンであっても滅ぼされる人もいるでしょうし、世の人々であっても生き残る人もいると考えられます。

イエスの弟子たちの間に、能力に応じて様々な賜物が与えられたように、
生き残る人々の中には、様々な人が存在することは明らかです。

は人間を「十把一絡げ」に見ている訳ではありません
は、人を一人ひとり見ているのです。

事物の体制の滅びを生き残る人は、神の目から見て義なる人々であることには違いありません。

確かに、聖書には、
イエスに信仰を持った人がバプテスマを受け、大勢の人が、男も女もクリスチャンとなりました。
この中の、144000人の男子のある者たちだけが、神の王国に招待され、天でイエスと共に地を支配すると考えられます。
更に、啓示7:14-15で、
大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。
それゆえにのみ座の前にいるのである。
そして,その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげている
と記されていますが、
この大群衆大患難を生き残る人々の内の一部の、それも男子だけではないかと思います。
つまり、
大患難を生き残る人々は他にもいるということです。

なぜなら、
モーセの時代の幕屋で奉仕した人やソロモンが作った神殿で奉仕した人の中には女性や子供はいないからです。

しかし、
神の王国や大群衆男子だけに適用されるとしても、生き残る人々の中には女性も子供も含まれていることは明らかです。
では、こうした女性たちや子供たちについてはどうなのかという疑問が当然生じることになります。
しかし、聖書の中にはそれは記されてはいないのです。

ただ、もし学びたいと思うなら自分の夫に質問しなさい、また、従いなさいとだけ述べられているのです。

あなたはどう考えますか?

  

こうしたこととは別に、神は秩序の神とも言われています。

特に、キリストの信者となった人々に関してパウロは次のように述べています。

コリント(一)12章-14章

12章
さて,兄弟たち,霊の賜物について,あなた方に知らずにいて欲しくありません。

2 あなた方も知るとおり,諸国民の者であった時,あなた方はただ導かれるままに,声のない偶像のもとへと導かれていました。

3 それで,あなた方に知らせておきたいと思うのは,神の霊によって話しているなら,だれも,「イエスはのろわれている!」とは言わず,聖霊によるのでなければ,だれも,「イエスは主である!」とは言えない,という点です。
4 さて,賜物はさまざまですが,霊は同じです。

5 奉仕の務めはさまざまでも,主は同じです。

6 働きはさまざまでも,すべての人の中であらゆる働きをされる神は同じです。

7 しかし,霊の顕現は,有益な事柄を目的として各々に与えられます。

8 たとえば,ある人には霊によって知恵のことば,ある人には同じ霊にしたがって知識のことば,

9 ある人には同じ霊によって信仰,ある人にはその一つの霊によっていやしの賜物,

10 さらにある人には強力な業の働き,ある人には預言すること,ある人には霊感のことばを識別する力,ある人には種々の異言,そしてある人には異言を解釈する力が与えられています。

11 しかし,これらのすべての働きを同一の霊が行なうのであり,その欲するとおりに各々に分配するのです。
12 体は一つであっても多くの肢体に分かれており,また体の肢体は多くあっても,その全部が一つの体を成しますが,キリストもそれと同じなのです。

13 まさしくわたしたちは,ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと,奴隷であろうと自由であろうと,みな一つの霊によって一つの体へのバプテスマを受け,みな一つの霊を飲むようにされたからです。

(参考:この一つの霊を飲むのはキリストと共に天に召された144000人の限られた人だけです。)


14 実際,体は一つの肢体ではなく,多くの[肢体]です。

15 たとえ足が,「わたしは手ではないから,体の一部ではない」と言ったとしても,そのためにそれが体の一部でないというわけではありません。

16 また,たとえ耳が,「わたしは目ではないから,体の一部ではない」と言ったとしても,そのためにそれが体の一部でないというわけではありません。

17 もし全身が目であったなら,聴覚はどこなのですか。それが聴くことばかりであったなら,においをかぐことはどこなのですか。

18 しかし今,神は体に肢体を,その各々を,ご自分の望むままに置かれたのです。
19 もしそのすべてが一つの肢体であったなら,体はどこにあるのでしょうか。

20 しかし今,それは多くの肢体であり,それでもなお一つの体です。

21 目は手に向かって,「わたしにあなたは必要でない」とは言えず,頭も足に向かって,「わたしにあなた方は必要でない」とは[言えません]。

22 それどころか,実際には,体の中で[ほか]より弱く見える肢体がかえって必要なのであり,

23 また,体の中で[ほか]より誉れが少ないと思える部分,これをわたしたちはより豊かな誉れをもって包みます。こうしてわたしたちの見栄えのしない部分に[他]より豊かな麗しさが添えられ,

24 一方,麗しい部分は何も必要としません。しかしそうではあっても,神が体を組み立てたのであり,欠けたところのある部分に誉れをより豊かに与えて,

25 体に分裂がないように,その肢体が互いに対して同じ気づかいを示すようにされました。

26 それで,一つの肢体が苦しめば,ほかのすべての肢体が共に苦しみ,ひとつの肢体が栄光を受ければ,ほかのすべての肢体が共に歓ぶのです。
27 さて,あなた方はキリストの体であって,それぞれが肢体です。

28 そして神は会衆内にそれぞれの人を置かれました。第一に使徒,第二に預言者,第三に教える者,次いで強力な業,次いでいやしの賜物,助けになる奉仕,指揮する能力,種々の異言です。

29 すべてが使徒ではないでしょう。すべてが預言者ではないでしょう。すべてが教える者ではないでしょう。すべてが強力な業をするわけではないでしょう。

30 すべてがいやしの賜物を持つわけではないでしょう。すべてが異言を話すわけではないでしょう。すべてが翻訳者ではないでしょう。

31 それでも,より大きな賜物を熱心に求めてゆきなさい。ですが,わたしはさらに勝った道をあなた方に示します。
 
13章
たとえわたしが人間やみ使いの[いろいろな]ことばを話しても,愛がなければ,音を立てる[一片の]しんちゅうか,ただ鳴り響くシンバルとなっています。

2 そして,たとえ預言[の賜物]を持ち,すべての神聖な奥義とすべての知識に通じていても,また,たとえ山を移すほどの全き信仰を持っていても,愛がなければ,何の価値もありません。

3 そして,ほかの人たちに食物を与えるために自分のすべての持ち物を施しても,また,自分の体を渡して自分を誇れるようにしたとしても,愛がなければ,わたしには何の益にもなりません。
4 愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,

5 みだりな振る舞いをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず,

6 不義を歓ばないで,真実なことと共に歓びます

7 すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を希望し,すべての事を忍耐します
8 愛は決して絶えません。それに対し,預言[の賜物]があっても,それは廃され,異言があっても,それはやみ,知識があっても,それは廃されます

9 わたしたちの知識は部分的なものであり,預言も部分的なものだからです。

10 全きものが到来すると,部分的なものは廃されるのです。

11 わたしがみどりごであった時には,みどりごのように話し,みどりごのように考え,みどりごのように論じていました。しかし,大人となった今,みどりごの[時の]ことをやめたのです。

12 現在わたしたちは金属の鏡でぼんやりした輪郭を見ていますが,その時には顔と顔を向かい合わせて[見るの]です。現在わたしが知っているのは部分的なことですが,その時には,自分が正確に知られているのと同じように,正確に知ることになります。

13 しかし今,信仰,希望,愛,これら三つは残ります。しかし,このうち最大のものは愛です。
 
14章
愛を追い求めなさい。その上に,霊の賜物を,それも,できるなら,預言することを熱心に求めてゆきなさい。

(これは、聖書の音信[預言]を人々に知らせるべきであることを言っています。

 自発的にです。

 ものみの塔のように要求されて行うことではありません。)

 

2 異言を話す人は,人に対してではなく,神に対して話すからです。だれも聴いていないのに,その人は霊によって神聖な奥義を話しているのです。

3 しかし,預言する人は,その話す事柄によって人を築き上げ,励まし,慰めます

4 異言を話す人は自分を築き上げますが,預言する人会衆を築き上げるのです。

5 そこで,わたしは,あなた方のすべてが異言を話すことを欲しますが,それよりは,あなた方が預言することのほうを望みます。実際,異言を話す人が[それを]翻訳して,会衆が築き上げられるようにするのでないかぎり,預言する人のほうが優れています。

6 また,兄弟たち,わたしが今あなた方のところに行って異言を話すとしても,啓示,あるいは知識,預言,教えをもって話すのでなければ,あなた方に何の益となるでしょう。
7 実際のところ,フルートにしろたて琴にしろ,無生の物も音を出しますが,音程がはっきりしなければ,そのフルートやたて琴で何を演奏しているかどうして分かるでしょうか。

8 また,ラッパの出す音が不明りょうであれば,いったいだれが戦闘の用意をするでしょうか。

9 これと同じように,あなた方も,舌で,容易に理解できることばを出さないなら,何を話しているのかどうして[人に]分かるでしょうか。あなた方は,実際には空気に話していることになるのです。

10 世界には非常に多くの種類の音声があることでしょう。それでも,意味を持たないものはありません。

(参考:世界中に様々な言語があることを言っています。)

 

11 そこで,もしわたしが音声の真意を理解していないなら,[それを]話している人にとってわたしは異国人であり,話している人もわたしにとっては異国人であることになります。

12 それで,あなた方自身も,霊[の賜物]を熱心に求めているからには,会衆を築き上げるという目標でそれに満ちあふれるよう努めなさい。
13 ですから,異言を話す人,自分が[それを]翻訳できるように祈りなさい。

(参考:異言というのは、つまりは外国語のことです。

 しかし、この賜物は、話している本人がその外国語を理解していないことを示しています。

 それで、パウロはこのように話したのです。

 そうしないと、自分自身には益がない、役には立たないものだということを言っているのです。)

 

14 というのは,わたしが異言で祈っている場合,祈っているのはわたしの霊[の賜物]であって,わたしの思いは実を結んでいないからです。

(つまり、自分では理解していないと言っているのです。)

 

15 では,どうすべきでしょうか。わたしは霊[の賜物]をもって祈りますが,同時に[自分の]思いをもって祈ります。わたしは霊[の賜物]をもって賛美を歌いますが,同時に[自分の]思いをもって賛美を歌うのです。

16 そうでなければ,たとえあなたが霊[の賜物]をもって賛美をささげても,普通の人の座席に着いている人は,あなたが何を言っているのか分からないのですから,あなたのささげる感謝にどうして「アーメン」と言えるでしょうか

17 確かに,あなたはりっぱに感謝をささげていることでしょう。それでも,相手の人は築き上げられてはいないのです。

18 わたしは,自分があなた方のすべてより多くの異言を話すことを神に感謝しています。

19 しかしそうではあっても,会衆の中では,異言で一万の言葉[を話す]より,むしろ自分の思いをもって五つの言葉を話し,こうして他の人たちを口頭で教え諭すこともできるようにと願うのです。
20 兄弟たち,理解力の点で幼子となってはなりません。しかし,悪に関してはみどりごでありなさい。そして,理解力の点では十分に成長した者となりなさい

21 律法にこう書いてあります。「『異国人の舌をもって,またよそから来た者の唇をもって,わたしはこの民に話すが,彼らはなおもわたし[のことば]に注意を向けないであろう』と,エホバは言われる」。

22 それゆえ,異言はしるしのためです。それも,信者に対してではなく,不信者に対してです。一方,預言は不信者のためではなく,信者のためです。

23 そこで,会衆全体が一つの場所に集まってみんなが異言を話しているところへ,普通の人もしくは不信者が入って来た場合,その人は,あなた方は気が狂っていると言わないでしょうか。

24 しかし,あなた方がみな預言しているところへだれか不信者または普通の人が入って来れば,その人はみんなから戒めを受け,みんなからつぶさに調べられます。

25 その心の秘密は明らかにされ,そのため彼はひれ伏して神を崇拝し,「神はほんとうにあなた方の中におられる」とはっきり言うようになります。
26 兄弟たち,では,どうすべきでしょうか。あなた方が集まるとき,ある人には詩があり,ある人には教えがあり,ある人には啓示があり,ある人には異言があり,ある人には解釈があります。すべては築き上げることを目ざして行ないなさい

27 そして,だれかが異言を話すのであれば,多くても二人か三人に限り,順番に[話し]なさい。そして,だれかが翻訳しなさい

28 しかし,もし翻訳者がいないなら,その人は会衆内では黙っており,自分自身と神に話しなさい

29 さらに,二人か三人の預言者が話し,他の人たちはその意味を識別するようにしなさい。

30 しかし,そこに座っている別の人に啓示があるなら,初めの人は黙っていなさい。

31 あなた方は皆ひとりずつ預言することができ,こうしてすべての人が学び,またすべての人が励まされるのです。

32 それで,預言者の霊[の賜物]は預言者によって制御されるべきです。

33 神は無秩序の[神]ではなく,平和の[神]だからです。
聖なる者たちのすべての会衆におけると同じく,

34 女は会衆の中では黙っていなさい話すことは許可されていないからです。むしろ,律法が言うとおり,[女]は服していなさい

(参考:パウロのこの手紙はAD55年頃に書かれていますから、この時には既に律法は廃された後のこ

 とです。

 ですが、パウロは律法を適用しこのように述べているのです。

 それゆえ、これは現代でも、また、将来においても適用されると考えることが出来ます。)

 

35 それで,何かを学びたいと思うなら,家でそれぞれ自分の夫に質問しなさい女が会衆の中で話すのは恥ずべきことだからです。
36 神の言葉はあなた方から出たとでもいうのでしょうか。あるいは,それはただあなた方のところにだけ達したとでもいうのでしょうか。
37 自分は預言者である,あるいは霊を授かっていると考える人がいるなら,その人は
わたしがあなた方に書いている事柄を認めるべきです。それは主のおきてだからです。

38 しかし,知らずにいる人がいるなら,その人は知らないままでいます

39 そのようなわけで,わたしの兄弟たち,預言することを熱心に求めてゆきなさいけれども,異言を話すことを禁じてはなりません

40 しかし,すべての事を適正に,また取り決めのもとに行ないなさい

 

これが、神とイエス・キリストの考えです。

 

あなたはどう思いますか?

 

神とイエスに信仰があり、その教えを忠実に守っているか、いないかに関わらず神は人の心を調べられ、既に大患難(事物の体制の滅び)を生き残るかは決まっていると思われます。

しかし、既に信仰を持っている人たちにはパウロは上記のように述べているのです。
義なる者は益々義を行う者となり、不義なる者は益々不義を行う者となるのです。-啓示22:10-11

また、信仰を持っていない人(知らない人)でも
聖書に無知であってもあなたが本当の善人、心の純粋な人であれば救われる可能性」が残されています。

神は人の心を調べられるからです。 

         

知恵を求める人のためのブログです。

聖書の最後の書であるヨハネへの啓示(黙示録とも言われている)はなぜヨハネに与えられたのでしょうか?
1 ヨハネはイエスに最も愛された弟子の一人であったこと。
2 生きている使徒はヨハネ一人であったこと。
3 ユダヤ人の体制がAD36年に終わり、AD70年にエルサレムがローマ軍に滅ぼされユダヤ人が国を

  失い世界中に散らされた後に、世界中の人々に向けられた音信であったこと。

特に3番目が重要で、ユダヤ人の体制が終わった後にヨハネに幻が与えられたのは、その幻で示されている「ほどなくして必ず起こること」がAD2世紀以後の出来事のことだからです。

つまり、この音信は、
今日の私たちを含めた、全世界中の人々に対する音信であったので、AD70年までにヨハネ以外の使徒たちすべてが迫害で亡くなった後に伝えられたということです。

イエスがAD33年の春に犠牲の死を遂げてからAD96年までのおよそ63年間は依然として律法に基づいた生き方をしていたユダヤ人たち(ユダヤ教徒など)を中心として伝えられていました。

実際、

パウロの宣教の記録を読むと、

パウロの活動の始まりは、ユダヤ人の会堂に行き、そこでユダヤ人たちにイエスに関する証言をすることから始まっています。

当時、ユダヤ、サマリア、シリアなどにはユダヤ人の会堂が都市ごとにありました。

安息日ごとにパウロは会堂に行きそこでユダヤ人たちを説得し続けています。

それを聞いたユダ人やサマリア人だけでなく、ギリシャ人などもパウロの言うことを信じて大勢の人がバプテスマを受けています。

    

当時、いわゆる迫害が生じていますが、
初めは、イエスと同じように、
すべてが言いがかりと妬みと策略とペテロやパウロの言うことで身を切られるように感じさせられた同胞であるユダヤ人によるものでした。

実際、パウロは大祭司や書士やパリサイ人、あるいはサドカイ人などにより、ユダヤの総督に何度も訴えられています。
いわゆる、サンヘドリン(ユダヤ人の最高法廷)ではペテロやパウロなどに石打の刑を科すことが出来ませんでした。
しかし、ステファノの場合は、市の外に連れ出し石を投げつけて殺害しました。

その他に、ユダヤの王ヘロデイエスの弟子たちを虐待することで、他のユダヤ人に気に入られるのを見て使徒たちまで捕縛し、剣によってヨハネの兄弟ヤコブを殺しました。

 

つまり、
イエスの時からパウロに至るまで、ユダヤ人がイエスの弟子たちの迫害の元だったのです。

 

その後ユダヤ人たちAD66年にローマに反逆したのでAD70年についにユダヤ人の体制が滅んだのです。

そのきっかけは、その当時のローマ皇帝ネロがAD64年に起きた、いわゆるローマの大火の原因をクリスチャンたちになすりつけ弾圧したことにあります。

この時以降、クリスチャンたちはユダヤ人たちからの迫害から、ローマによる政治的な弾圧に変わっていったとされています。

ちなみに、このネロによってパウロが処刑(AD65年頃)されたとされています。

ネロはAD68年に死んでいます。

 

その後、ローマによるクリスチャンに対する迫害はAD4世紀まで続くことになります。

      

AD70年以降は、つまり、エルサレムの神殿がローマ軍に破壊され各地に散らばされた以降は、もはや律法に従っていた大祭司や祭司たち、そして、書士やパリサイ人もいなくなったので、律法に変わる「拠り所」となるものが必要になったと考えられます。

当然、この時にはクリスチャン・ギリシャ語聖書(いわゆる新約聖書)はまだ完成(編纂)されてはいませんでした。


使徒たちの活動を読んでも分かる通り、アブラハム契約や約束の胤など神の約束やイエスに関することなどを旧約聖書、特に律法などを根拠に伝えることで弟子たちを増やしていきました
イエスが、生きている間は「神の王国」が、つまり、メシアが一つのテーマでしたが、
イエスが亡くなられてからは、イエスが神の子であり、死んで三日目に復活したこと、また、神が約束したアブラハムの胤の主要な方であり、イエスの弟子たちも同じアブラハムの胤であること、自分たちも復活を通して天で再びイエスと共になり神の子として養子にされ神の王国の一人となることなどが音信のテーマになっていたことが分かります。

こうした説明はユダヤ人なら理解出来ますがユダヤ人以外には聖書も律法もなじみがないので、いわゆる諸国民には別の内容で音信を伝える必要が出て来たのです。

それがヨハネに与えられた「み使いを通しての幻」だったのです。

しかし、内容が難しく分かりにくかったので、その後弟子たちを作る業は停滞していったと考えられます。
そして、
大雑把に言えば
早くも、AD2世紀には「独自の考え」が出現し、AD4-5世紀ごろまでにはローマカトリック、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会などや、その後の、プロテスタントなどのいわゆる様々な宗派が誕生し今日に至っているのです。

そして、19世紀の後半になりラッセルが登場し、聖書に、つまり、神に「より厳格に、あるいは、忠実に従がう」小さなグループ、いわゆる聖書朗読会なるものを作り、そこから拡大してものみの塔という組織を、いわば、新しい宗派を拡大していったのです。

彼らに言わせれば新しい宗派ではなく本来の崇拝方式に戻ったということです。

しかし、
以前としてヨハネへの啓示の書は「難解」であり、まだ、その預言が実現されていない部分もあって、
イエスの事物の体制の滅びのしるしなどだけでは十分な理解を得られませんでした

そのため、ものみの塔は預言の解釈を誤り、また、先走った考えを世界中に公表し、いわば「」をかいたのです。
あろうことか聖書に忠実、厳格であろうとするあまりものみの塔の教え」に従ったことで、エホバの証人の活動や振る舞いが社会問題化しました。

そうしたことは、既に皆さんがニュースで知っていることです。

更には、
会衆内での淫行などの不道徳、排斥なども問題となっています。

今日のものみの塔の状態は、ラッセルが目指した組織の在り方ではないことは明らかです。

つまり、
ものみの塔は当初の目的とクリスチャンとしての在り方に関して「逸脱」してしまったのです。

ものみの塔以外のカトリックやプロテスタントは、その初めから「逸脱」していますから論外です。

ものみの塔は、良いものを悪いものに変えてしまったのです。
この罪に対する責任は天において非常に大きいと言えます。

こうしたものみの塔のことは「放って置いて」も
イエスが神から与えられて、それをみ使いを通してイエスの奴隷ヨハネに啓示したことがらは、
着々として進展している事実には変わりはありません
そして、
この音信は、世界中のすべての人のための音信なのです。

++++++++++++++++++++++++++++++
ヨハネへの啓示の書の冒頭を読むと分かりますが、
神がイエスに与え、イエスはそれを自分の奴隷であったヨハネに示したと述べられています。
そして、ヨハネは、まず神とイエスについて語っています。
そしてそれは、(今のトルコ西部にある)アジア地区にある七つの会衆に書き送るようにとの指示を受けています。

他に、イエスに繋がる、使徒に通じる、会衆がなかったとも言えます。

ヨハネへの啓示(使徒ヨハネ パトモス島 AD96年ごろ
1章
イエス・キリストによる啓示,これは,ほどなくして必ず起きる事柄をご自分の奴隷たちに示すため,が彼にお与えになったものである。そして,[イエス]は自分のみ使いを送り,その[み使い]を通して,しるしにより[それを]自分の奴隷ヨハネに示したのである。
2 [ヨハネ]は,神の語られた言葉と,イエス・キリストの行なった証し,すなわち自分の見たことすべてについて証しした。
3 この預言の言葉を朗読する者,またそれを聞き,その中に書かれている事柄を守り行なう者たちは幸いである。定められた時が近いからである。
4 ヨハネから,アジア[地区]にある七つの会衆へ:
あなた方に,「今おられ,かつておられ,これから来られる方」からの,またそのみ座の前にある七つの霊からの,
5 そして,「忠実な証人」,「死人の中からの初子」,「地の王たちの支配者」であるイエス・キリストからの過分のご親切と平和がありますように。

(参考:ここで地の王たちの支配者と示されているのは、神の王国のことです。

 -啓示5:10、11:15)


わたしたちを愛しておられ,ご自身の血によってわたしたちを罪から解いてくださった方に― 
6 そしてこの方はわたしたちを,ご自分の神また父に対して王国とし,祭司としてくださったのである―実にこの方にこそ,栄光と偉力が永久にありますように。アーメン。
7 見よ,彼は雲と共に来る。そして,すべての目は彼を見るであろう。彼を刺し通した者たちも[見る]。また,地のすべての部族は彼のゆえに悲嘆して身を打ちたたくであろう。しかり,アーメン。
8 エホバはこう言われる。「わたしはアルファであり,オメガである。今おり,かつており,これから来る者,全能者である」。
9 あなた方の兄弟であり,イエスと共になって患難と王国と忍耐をあなた方と分け合う者であるわたしヨハネは,神について語り,イエスについて証ししたために,パトモスと呼ばれる島に来ることになった
10 わたしは霊感によって主の日に来ており,ラッパの[音]のような強い声がわたしの後ろでこう言うのを聞いた。
11 「あなたが見ることを巻き物に書き,それを,エフェソス,スミルナ,ペルガモン,テアテラ,サルデス,フィラデルフィア,ラオデキアにある,七つの会衆に送りなさい」。

パウロは様々な地域にある会衆に手紙を書いていますが、その大半はAD70年までには消滅させられた可能性があります。
しかし、AD96年には、ユダヤ人たちはエルサレムいわゆるイスラエルの地域にはおらず、各地に散らされていましたが、パウロなどによって作られた弟子たちの集まりである会衆がアジア地区今のトルコのガラテアの西方にある、いわゆる小アジアに存在し続けたいたことを示しています。

今では、トルコはAD5世紀ごろに作られたイスラム教の国ですが、当時はイスラム教は存在していませんでした
おそらく当時は、ユダヤ教とギリシャ神話やギリシャ哲学に基づく考えの人が多かったと推測されます。
ジプトやシリアやバビロンなどの偶像崇拝の影響があったかどうかは分かりません。

七つの手紙の内容から、幻を与えられた当時
迫害、背教、偽預言者、世の影響、宣教活動の生ぬるい人などが存在していたことを示しています。

その後もコンスタンチヌスの時代まで迫害や背教などの状態が続くことになります。

ヨハネはギリシャとトルコの間にある小さな島(トルコよりの比較的小さな島であり、最も近い会衆がエフェソス会衆でした)に(ローマの執政官などによって捕まえられ)に送られ、洞窟の中で生活していたと言われています。

江戸時代、日本の流刑島であった大島や八丈島のように、おそらく、いわゆる投獄されていたのではないと考えられます。
それゆえ、手紙を書くことも外部との連絡も取ることが出来たと思われます。
伝承によると
ヨハネは啓示の書を記したAD96年に「解放」されたとされています。
その後、
解放された後ヨハネは当然アジア地区にある七つの会衆の一つであったエフェソスに行ったと言われています。
実際、ヨハネはその後エフェソスからイエスの弟子たちに対する手紙を3通書いて送っています。

しかし、ヨハネはこの啓示の書をパトモス島で記したとされています。

ローマ帝国の流刑島であったパトモス島はその後11世紀まで人が住まない無人島だったと言われています。
パトモス島はいわば岩山のような地形の島だったので、ヨハネは洞窟で生活したのです。

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参考:言語に関して。

エルサレムがローマ軍によって滅ぼされたので、各地に散らばっていたユダヤ人たちはヘブライ語を公には用いることが出来ず、主にギリシャ語を用いたと思われます。
それで、
いわゆる新約聖書はギリシャ語で書かれたので、クリスチャン・ギリシャ語聖書と言われてます。
これはAD70年のエルサレムの滅びの前からそのようであったと思われます
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、パウロ、ペテロ、ヤコブ、ユダの聖書筆者たちはその殆どをギリシャ語で記していました。
つまり、
ローマの支配に置かれた後は、イエスの時代を含めて、公用語はラテン語とギリシャ語だったと思われます。
-参考 使徒14:1、19:10、ローマ3:9、ガラテア3:28

イエスが杭に付けられた時ヘブライ語とラテン語とギリシャ語で「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書かれたことからも分かります。-ヨハネ19:19-20

ちなみにラテン語はローマ帝国の言語でした。

コンスタンチヌスにより、キリスト教がローマに取り入れられた時聖書はローマの言語であったラテン語で写本されたのであり、そして、長い間ラテン語の聖書がカトリックやプロテスタントの教会で用いられていたのです。
その後学校教育が普及するにつれて、ラテン語を用いなくなってからもラテン語を学ばされていたか学ぶ機会があったのです。
それは、聖書を読むためだったのです。
今でも
ヨーロッパの大学ではラテン語を学ぶことが出来ます

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以上のことから、ヨハネへの啓示の書後の世のすべての人に対して書かれたものであることは明白です。
そうであれば、
すべての人はこの書に無関心であってはならないと言えます。
こうしたことを知っている人は知らない人に話す必要がありますし、そうすべきです

そして、実際に読んでどうするかは自分で決めることです。
この点で人のせいにすることは出来ません

読んで更に理解したいと思う人は、知っている人に尋ねることは出来ますが、鵜呑みにしてはなりません
その人の言うことが正しいとは限らないからです。

自分で調べたり誰かに聴いて、更に、自分自身で吟味する必要があるのです。
この点思慮深さが必要です。
速く理解する必要はありません
自分で納得するまで考えることです。
大事なことは、こうして自分で確信をして行くことです。

こうしたことは子供でも不可能ではありませんが子供は生活に於いて自立していないため、親の保護の下にありますから、信仰の道に入るには「早すぎる」と言えます。

生活に於いて自立して、何事も自分で判断できる状態になってから信仰の道に入っても遅くはありません
是非ともそうすべきです
そうでないと
後々親との確執が生じることになることもあります。
こうしたことは細心の注意が必要なことです。
肉親と分裂することは「身を切られるより辛い」からです。

例え親と信仰が異なっても親子が仲たがいしてはなりません
信仰は別として、親は親、子は子として生きれば良いのです。

パウロがあいさつなどの言葉を掛けたり交わりを避けるようにと言ったのは

主に他人に対してであり背教者に対してのことです。

ただ、信仰に疑いを持ったり弱くなった人に対してのことではないのです。

人は各々自分の荷を負うのです。

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そして最後に、イエスに遣わされたみ使いはヨハネに、次のように語っています。
啓示22章
22章
6 また彼はわたしに言った,「これらの言葉は信頼できる真実なものである。すなわち,預言者たちの霊感の表現のであるエホバが,ほどなくして必ず起きる事柄をご自分の奴隷たちに示すため,そのみ使いを遣わされたのである。
7 そして,見よ,わたしは速やかに来る。この巻き物の預言の言葉を守り行なう者は幸いである」。

理解出来るかどうかは別として
理解するように努め、かつ、書かれている事柄を守り行うことは、すべての人にとって極めて重要かつ有益なことなのです。
それによって、あなたの「将来の命」が決定するからです。

啓示22章
10 彼はまたわたしにこう言う。「この巻き物の預言の言葉を封じてはならない。定められた時が近いからである。

11 不義を行なっている者,その者はいよいよ不義を行なうように。不潔な者はいよいよ不潔になるように。しかし,義なる者はいよいよ義を行ない,聖なる者はいよいよ聖なる[者]となるように

(参考:これにより義者と不義者の区別がはっきりすることになります。)


12 「『見よ,わたしは速やかに来る。そして,わたしが与える報いはわたしと共にある各々にその業のままに報いるためである。

(参考:この言葉から分かるように、一人ひとりの行いに責任があることが分かります)


13 わたしはアルファでありオメガであり,最初であり最後であり,初めであり終わりである。
14 自分の長い衣を洗って,命の木に[行く]権限を自分のものとし,その門から都市の中に入れるようになる者たちは幸いである。

(これは、最終的な状況のことです。)


15 その外にいるのは,犬,心霊術を行なう者,淫行の者,殺人をする者,偶像を礼拝する者,また,すべて偽りを好んでそれを行ないつづける者である』。

(参考:これには2通りの考えが含まれています。

 一つは、14節の出来事が大患難の前のことを意味するのであれば、15節で示されている人々の存在 

 は理解出来るということ。

 二つは、14節の表現が最終的なことを意味するのであれば、15節で示されている人々の存在が疑問 

 に残ります。

 どちらにしろ、神が不義なる者に永遠に存在させるとは考えにくいことです。

 

 新しい天と新しい地を創造した後、聖なる都市エルサレムが天から下って来て、その都市に出入り

 できる者は幸いであると言っていることから、

 出入り出来ない者もいるかも知れないということであり、もしかすると、15節で表現されている不

 義なる者の存在がいても不思議はないのかも知れません。

 

 この点、

 ものみの塔の説明は、15節で表現されている者たちは皆滅ぼされていなくなっているということで 

 す。

 これが正しいとは言い切れません

 

 聖なる都市エルサレムの中に暮らす人々だけが「命の書」に名前が記され永遠の命を与えられる、

 あるいは、永遠に生きられる備えを活用できるようにされるということは間違いありません

 

 この都市の外のことは、その時にならないと分かりません。)

 
16 「『わたしイエスは自分の使いを遣わし,諸会衆のためにこれらのことについてあなた方に証しした。わたしはダビデの根また子孫であり,輝く明けの星である』」。
17 そして,霊と花嫁は,「来なさい!」と言いつづける。そして,だれでも聞く者は,「来なさい!」と言いなさい。そして,だれでも渇いている者は来なさい。だれでも望む者命の水を価なくして受けなさい
18 「わたしは,すべてこの巻き物の預言の言葉を聞く者に証しする。これらのことに付け加える者がいれば,神はこの巻き物に書かれている災厄をその者に加えるであろう。
19 また,この預言の巻き物の言葉から何かを取り去る者がいれば,神は,命の木から,また聖なる都市の中から,すなわち,この巻き物に書かれているものから彼の分を取り去られるであろう。
20 「これらのことについて証しされる方が言われる,『しかり,わたしは速やかに来る』」。
「アーメン! 主イエスよ,来てください」。
21 イエス・キリストの過分のご親切聖なる者たちと共に[ありますように]。

    

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エホバの証人という名称について。

エホバという名前に関して聖書には次のように記されています。
「あなたのエホバの名をいたずらに取り上げてはならない。その名をいたずらに取り上げる者をエホバは処罰せずにはおかないからである。」-出エジプト20:7
と聖書には記されています。

ものみの塔は、エホバの証人という名称を用いることはこれに該当するとは考えないのでしょうか?

この点を考えて見たいと思います。

はアブラハムにも、イサクにも、ヤコブにもご自分の名前を明かしませんでした
モーセに対して初めて明かしましたが、いたずらに取り上げてはならないと命じました。

イエス自身も聖書からの引用以外の名前を用いませんでした

 

エホバの証人という名称をイエスはどう思っているのでしょうか?

イエスも十二使徒たちも他のユダヤ人たち区別するための名称は用いませんでした
ただ、ユダヤ人たちは「ナザレ人一派」と呼んでいたことが記されています。-使徒24:5


イザヤ書で「わたしの証人」という場合の「わたし」とはエホバのことです。

あなた方はわたしの証人である」と,エホバはお告げになる,「すなわち,わたしが選んだわたしの僕である。」-イザヤ43:10、12、44:8
イザヤ書には三度出て来ます。
これは「あなた方」つまりイスラエル国民に対して言われたことです。

つまり、
がイスラエルに行った数々の出来事の証人、実際に体験しまた見聞きした唯一の民であったことを言っています。

何か、について「証し」をするようにと言う意味ではないことは明白です。

なぜなら、そうしたことは「神ご自身」が行うからです。

 

ものみの塔は現代の人々にについて証する」という意味で「神の名」を用いています。

自分たちの名称にの名前を用いること許されるのでしょうか
もっとも、モーセを通して与えられたおきてはイスラエルの人々に対してであり、律法も既にその役目を終えていますから、問題がないと考えられるのでしょうか?

つまり、出エジプト記20:7はもはや「有効」ではないと考えられるということでしょうか?

イエス昇天の直前にクリスチャンたちに「わたしの証人となる」と言われました。-使徒1:8
また、ヨハネへの啓示の書のベルガモンにある会衆に対する手紙の中でも同様の意味で「わたしの証人」と書いています。-啓示2:13
これは、イエスに関して「証しする」という意味で言われたということです。
当時の宣教の土台はこの点だったのであり、それはまた迫害の原因でもありました。

ここから始めて、アブラハムの胤やの王国という点に結び付けていったのです。
そして、信じた者は自ら進んでバプテスマを受けたのです。

クリスチャンたちには、人々を弟子とし、「イエスの名によってバプテスマを施し」イエスが命じたことがらを守り行うように教える権威も与えています

「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。
それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,
わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。」-マタイ28:18-20

実際、バプテスマを施すことが出来ましたが、聖霊を与えることペテロとヨハネとパウロなど限られた人だけでした。
聖霊の役割いやしを含めた神の賜物を現し示すことです。
その働きは使徒たちが亡くなった時点でもはや必要ではなくなったのです。

従って、最後の使徒ヨハネが死んだ後聖霊を含めてイエスに[直接]繋がる弟子たちは存在しなくなったのです。

後のクリスチャンたちすべては、いわば、このイエスの系統に属さない人々だと言うことです。

カトリックであれ、プロテスタントであれ、他の宗派であれ、そして、ものみの塔のエホバの証人であれ、
すべてはイエスに直接繋がった人は一人もいないということです。

啓示の書には次のように記されています。
9 これらのことの後,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。
10 そして大声でこう叫びつづける。「救いは,み座に座っておられるわたしたちのと,子羊とに[よります]」。

(参考:ここで、この大群衆は「わたしたちの神」と述べて「神の名」を用いていないことに注目し

 て下さい。)
・・・
13 すると,長老の一人がこれに応じてわたしに言った,「白くて長い衣を着たこれらの者,これはだれか,またどこから来たのか」。
14 それでわたしはすぐ彼に言った,「わたしの主よ,あなたが知っておられます」。すると彼はわたしに言った,「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした
15 それゆえにのみ座の前にいるのである。そして,その神殿昼も夜も[]に神聖な奉仕をささげている。また,み座に座っておられる方は彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう。

(参考:ここで大患難から出て来ると述べていることは、いわゆる事物の体制の滅びを生き残る[

 能性のある]人々であると考えることは明かです。

 実際、イエスも大患難について言及しています。-マタイ24:21、啓示2:22

 また、

 その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげていると述べていますが、

 これは、大患難より前の、つまり、今の出来事であるという点も明白です。

 しかし、続く記述は神の新しい創造の後の出来事に飛躍しています。

 そして、

 この神殿は啓示21:22-27を彷彿(ほうふつ)させます。

 大患難の前の今、地上には神の神殿は存在していません

 ヨハネ2:21では「イエス自身の体」を神殿と述べています。

 啓示21:22でも「神がその神殿であり」と述べられています。

 したがって、その神殿とは「神」そのものを示していると考えることは理にかなっています。)

  

16 彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に[冒されること]もない。
17 み座の真ん中におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そしては彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」。

子羊の血で洗って白くした」というのは文字通りではないことは明白です。
血で洗って白くしたとはイエスの贖いの犠牲によって成し遂げられることに信仰を働かせることで罪の許しを得たということを示しています。
簡単に言えばイエスに信仰を働かせた」ということです。

水ならバプテスマですが、血なのでバプテスマではなく「贖罪」の意味が含まれているのです。

すべての人の命は大雑把に言えば「イエス」に掛かっています。
イエス信仰を働かせる者に「」の保証を与えました。-ヨハネ14:6

そのイエスについて「証しする者」がすなわち「イエスの証人」です。-使徒1:8、

 

啓示2:13

13 『わたしはあなたが住んでいる所を知っている。それはサタンの座のある所である。それでもあなたはわたしの名をしっかり守りつづけており,あなた方の傍ら,サタンの住むところで殺された,わたしの証人,また忠実な者であるアンテパスの日にも,わたしに対する信仰を否定しなかった。-啓示2:13
これは、グループに対して言ったことではなく個人に対して述べたことです。

しかし、イザヤ書の場合イスラエルの人々全体に対して述べたことです。
ですから、
エホバの証人という言葉は、エホバが直接関わった民に対してのみ有効な言葉だと解釈出来ます。

一方、イエスの証人という言葉は、
イエスについて証するすべての人に対して有効な言葉です。
従って、
現代でもイエスについて証する者がいれば、その人は「イエスの証人」です。

ですから、
ものみの塔がエホバの証人という名称を用いているのは、聖書とは異なる意味で用いているということになります。

繰り返しますが、
ものみの塔はエホバの証人と言う名称を、「について証する」という意味で用いています。
について証する」という行為そのものについては全く問題ありません
しかし、そこにのみ名を用いることは許されるのかということに対しては問題があるのです。
エホバの証人という名称を用いることは、が「いたずら」にと言われたことがらに含まれると考えることは妥当なのです。

その理由は少し後で示します。

1931年7月二代会長ザフォードは大会の講演で「わたしたちはエホバの僕であり、イエス・キリストに関して証言し、エホバが真の、全能のであられることを人々に知らせる任務を委ねられている。それゆえ、エホバの証人という名称で呼ばれることを欲する」と述べたことがその初めです。

この時のラザフォードの気持ちに「傲慢」さがあるように感じています

なぜなら、イエスに命じられたのではないのに「任務を委ねられている」と語っているからです。

ものみの塔の指導者として、信者を「鼓舞」するために、いわゆる、パフォーマンスをしたのです。

こうした振る舞いは、

「偽善」とまでは言えないかも知れませんが、「偽善」に近い振る舞いであると断言出来ます。

 

こうした振る舞いは「偶像礼拝者」です。

ラザフォードの態度には「強欲」が見て取れるからです。

初代会長ラッセルは、初めは聖書の朗読と理解のための研究会を始めましたが、次第に理解が深まると、いわゆる「真理」を人々に知らせるべきだと考え活動を始めました。

この時、ラッセルは「エホバの証人」という言葉を用いていません

ラッセルは「キリストの見えない臨在が既に始まっている」ことを知らせる活動、いわゆる宣教活動を始めたのです。

そのため、自分たちのことを「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」と呼び、

そのための手段として「ものみの塔」という冊子を1879年7月に創刊したのです。このものみの塔誌や他の書籍(本)を通して、他の宗派の過ちを主張し、こうして聖書の「真理」を世界中に広めることを決意したのです。

つまり、
エホバの証人という名称は、ラッセルの頭には全くなく、宣教の中心は「イエスについて証し」することだったのです。

つまり、「イエスの証人」となることだったのです。
更に、三位一体という思想を退けと聖霊とイエスの関係を明らかにしました

活動の幅が広くなり、また「教会の僧職者など」からの訴えなどが増えるにつれて、組織として活動することを強く意識するようになり他のキリスト教と区別するためにエホバの証人」という名称で呼ばれることを欲しそれが仲間に受け入れられたということです。

 

しかし、
ラザフォードがこの名称を採用したことから、ものみの塔(ラッセルが用いた名称)とエホバというのみ名が直結した集団となり、こうして、のみ名エホバという名前が世界中に拡散したのです。

 

この名称を用いることにより

宣教の中心が「イエスの臨在から神について証しすることに変わった」のです。

それは、

神のご意思の中にイエスという存在があると考えたからです。

ラザフォードがエホバの証人という名称を採用したために、エホバに汚名が着せられたこともあります。
これは神が最も避けたかったことです。
ご自分の名前が他の神と同等に扱われたり侮蔑されたりすることは、唯一真の神としてはあってはならないことなのです。-参考 列王記(一)18:18-40

1914年にものみの塔が予告していたこと起きなかった時には、この名称を用いてはいませんでした
しかし、
1975年には既にこの名称を用いていました
そして、この年に起きると予言して来たことが起きませんでした
人間の予言だったからです。
その後、エホバの証人振る舞いが社会問題となりました。
輸血の問題、児童虐待(ムチ)、教育を受ける権利の阻害、会衆内で長老による性的犯罪、淫行と姦淫、会衆内での盗難、寄付などの不適切な使い方、近年の寄付を募ること、伝道活動の強要などなどに関して、
ものみの塔とエホバの証人は、エホバという名前に汚名」を着せて来たのです。

こうして、

のみ名が、世の人々から侮られ、時には「侮蔑」されているのです。
今も、続いています

このような組織が神の是認を受け、自分たちだけが事物の体制の滅びを生き残る唯一の存在だと言い続けているのです。

有り得ないことです。

(私が神の立場だったら、彼らを偽善者として断罪します。)

 

エホバという名前は、

宣教活動に於いても、を崇拝し賛美し栄光を帰す時にのみ用いられるべきで、それ以外の時には用いるべきではないのです。

実際、モーセ以前には神のみ名を、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてノアにすら「知らせなかった」のです。

-参考 出エジプト3:15-4:5、6:2-3

そのモーセに冒頭の言葉を話されたのです。-出エジプト20:7

 

例えば、

神からの啓示があり、預言が確実に成就するという時に用いることにより、他の神々とは異なる唯一真の神であることを証しするのです。

-参考 列王記(一)18:17-40


エホバの証人という名称はものみの塔が採用したものですが、
これからは彼らのことを「ものみの塔の信者」「ものみの塔に加担する者」と呼ぶことに変更したいと考えています。
彼らのことを「クリスチャン」とも呼びません
この名称は神慮によって命名されたものです。-使徒11:26
もはや真のイエスの弟子という意味のクリスチャンは存在しないので、この名称も用いません
どのキリスト教の信者に対しても用いません
(ただ、説明の行きがかり上用いることがあるかも知れません。)

 

だからと言って、

啓示7章の「大群衆」の存在を否定するものではありません。

大群衆とは、イエス・キリストとイエス・キリストの贖いの犠牲により成し遂げられることに信仰を働かせることで、イエス・キリストの父なるに日夜[神聖な崇拝]を捧げている人々のことです。

ものみの塔とその信者ではないことは明らかです。

 

かつて、ラッセルは当時のカトリックやプロテスタントの教えや行いを断罪していました。

そのものみの塔後代の信者によって教理や教えが「捻じ曲げられ」同じように断罪されているのです。

では、今日の真の神の崇拝者、いわゆる大群衆は一体だれでどこにいるのでしょうか?

おそらく、自分の罪を自覚し認識している人々であるに違いありませんが、そうした人々は他の人々の前に姿を現すとは考えにくいことです。-参考 マタイ24:36-42

こうした点で、神に対して、イエスが言われた幼子のような純粋な気持ちを抱いて神を崇拝している人です。-マタイ5:8

彼らを集めている天のみ使いたちには「はっきりと見える」のです。

-マタイ13:39、啓示14:6-15、

  

あなたはどう思いますか?
あなたはものみの塔の信者をどのように呼びますか?

知恵を求める人のためのブログです。

エホバの証人はものみの塔が忌避すべきだと言っていることやするべきだと言っていることに、
いわゆる謝罪などは出来ないのです。
その理由は、
1 教理を曲げることになるから。
2 組織の指示や決定に対して自分の意思を持たないから。(そのように言う権限がない)
ものみの塔は「上意下達」つまり、上からの指示や命令といった一方通行による指示だからです。
会衆の長老にしろ、協会の支部のいわゆる幹部でも同じなのです。
つまり、
ものみの塔に「献身」した時点で、ものみの塔に従うと自らの意志で決めたことであり、
そうすることが信仰の歩む道だと思い込んでいるからです。
従って、
教理や組織に対しては、自分の意思を持たずただ言われた通りに言う、するだけなのです。
例えば、
企業の社長命令に社員が逆らえないのと同じです。
逆らう人は立場を失うか会社を辞めさせられるのです。

教理やものみの塔の教えに関して謝罪することは、
自分の意思では決められないのです。
自分の意思で行っていないからです。
もし、この点で自分の意思で謝罪をするとすればそれは組織に対する反抗・背教となってしまうのです。

勿論、個人的には自分の見解を持っていますがそれを公には口に出して言うことは出来ないのです。

簡単に言えば、
組織の教えや提案に疑問を呈すると、
1 不信仰と見なされる
2 背教と見なされる
3 忠実ではないと見なされる
4 組織を信頼していないと見なされる
などが生じます。
場合によっては、ふさわしくないと言って立場を降ろされたり排斥させられる場合もあります。

こうした点は末端の信者でも同じです。

むち棒を控える者はその子を憎んでいるのであり,[子]を愛する者は懲らしめをもって[子]を捜し求める。-箴言13:24
愚かさが少年の心につながれている。懲らしめのむち棒がそれを彼から遠くに引き離す。-箴言22:15
と聖書に記されているので、
この教えを「否定」出来ないのです。
「否定」することは信仰そのものを否定することになるからです。

この点、
今は社会問題(児童虐待)になったのでムチを控える親は増えていると思います。
しかし、思いの中では「変わっていない」つまり信じているのです。

しかし、記されていることをもっと深く考えれば、必ずしも文字通りムチをしなければならないという訳ではないという分別が求められてもいるのです。
この点ものみの塔は正しく教えていないのです。
教えを受けたエホバの証人も深く考えずに聖書に記されているから「それが正しい」と思い従っているのです。
これは、盲目の信仰なのです。

イエスは次のように言われました。
12 その時,弟子たちがやって来て彼に言った,「あなたの言われたことを聞いてパリサイ人たちがつまずいたのをご存じですか」。
13 [イエス]は答えて言われた,「わたしの天の父がお植えになったのでない植物はみな根こぎにされます。
14 彼らのことはほっておきなさい。彼らは盲目の案内人なのです。それで,盲人が盲人を案内するなら,二人とも穴に落ち込むのです」。
15 ペテロはそれにこたえて言った,「その例えをわたしたちに分かりやすくしてください」。
16 すると[イエス]は言われた,「あなた方もまだ理解していないのですか。
17 口の中に入るものはみな腸に進んで行き,下水に排出されることに気づいていないのですか。
18 しかし,口から出るものは心から出て来るのであり,それが人を汚します
19 たとえば,心から,邪悪な推論,殺人,姦淫,淫行,盗み,偽証,冒とくが出て来ます。
20 これらは人を汚すものです。しかし,洗ってない手で食事を取ることは人を汚しません」。
-マタイ15:12-20

パリサイ人がつまずいたのはなぜだったでしょうか。
この前の記述には次のように記されています。
15章
その時,エルサレムからパリサイ人と書士たちがイエスのところに来て,こう言った。
2 「あなたの弟子が昔の人々からの伝統を踏み越えているのはどうしてですか。たとえば,食事をしようとするときに,彼らは手を洗いません」。
3 [イエス]は答えて言われた,「あなた方も自分たちの伝統のゆえに神のおきてを踏み越えているのはどうしてですか。
4 たとえば,神は,『あなたの父と母を敬いなさい』,そして,『父や母をののしる者は死に至らせなさい』と言われました。
5 ところがあなた方は,『自分の父や母に向かって,「わたしの持つものであなたがわたしから益をお受けになるものがあるかもしれませんが,それはみな神に献納された供え物なのです」と言うのがだれであっても,
6 その者は自分の父を少しも敬ってはならない』と言います。こうしてあなた方は,自分たちの伝統のゆえに神の言葉を無にしています
7 偽善者よ,イザヤはあなた方について適切に預言して言いました,
8 『この民は唇でわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている。
9 彼らがわたしを崇拝しつづけるのは無駄なことである。人間の命令を教理として教えるからである』」。
10 そうして,群衆を近くに呼んでこう言われた。「聴いて,その意味を悟りなさい
11 口の中に入るものが人を汚すのではありません。口から出るものが人を汚すのです」。


パリサイ人たちはイエスに自分たちの信仰[正しいと思っている行い]を否定されたので「つまずいた」のです。
パリサイ人たちはイエスに信仰を持ちたい、イエスを信じたいと思いやって来たと思われます
それで、手を洗うことに関するイエスの見解を聞きたかったのです。
イエスの語ることや病人の癒しや悪霊を追い出すのを見て密かに信仰心を持ち始めていた」からです。
しかし、イエスに上記のように言われ、自分たちの「信仰を否定」されたので「がっかり」した[真の信仰という点ではつまづいた]ということなのです。
(参考:書士やパリサイ人でイエスの弟子になった人もいたという点を見過ごしてはなりません)

聖書に記されている点は正しいです。
しかし、ものみの塔やエホバの証人は、それを実行するに当たって思慮深さが求められているという点を無視しています

「ムチ」は時代に即した形ですべきなのです。
「ムチ」は痛みの伴う懲らしめであり、文字通り「叩く」ことではないのです。

ある人は「叩く」かも知れませんが、ある人は「物事を制限」したり「罰」を与えることで間接的に「叩く」ことをします。
どちらの場合でも、聖書の教えに沿ったものと言えます。
そうであれば、「ムチ」つまり「叩くこと」は必要不可欠のものではないということです。

集会で別室に連れて行って「ムチ」をしたり「小言」を言うのは、親がその場を凌ぎたいからです。
つまり、集会場で子供が騒いだり言うことを聞かなかったりすることで親は恥ずかしい思いから逃れたい一心で子供を叩くのです。
こうしたことは誰の目から見ても間違いです。
ところが長老たちでさえこの親を「戒める」ことを誰一人しないのです。
また、
人に聞こえるところで、見えるところ子供を叱ったり「ムチ」をしたりすることは「間違い」です。
子供は「更に傷付く」ことになるからです。
単に、親のエゴのために子供が犠牲にされていたのです。
実に、愚かなことです。

 

更に、親たちが「言うことを聞かない」「悪行を行った」などの理由で、家庭で子供に対して「ムチ」をすることがあります。

前者は親のエゴであり、後者は「親も罪を犯している」という点を無視しています。

実に、愚かなことです。

こうした行いは、イエスが「偽善者」と呼んだパリサイ人と同じだということです。

こうした親は、自分の子供に対しては謝る」ことは出来ます。
ものみの塔に従ったこととはいえ、自分の判断で行ったことだからです。
公にも会衆にも組織にも謝る必要はありませんし、謝ることは信仰を否定することになります。
しかし自分の子供に対してはそうではありません。
子供に暴力を振るったことは間違いだったと謝ることは出来るのです。
むしろ、すべきです
そうすることで、むしろ信仰心は強められるのです。

殆どの親はこうした点で逆行して、いわば、真の信仰を否定し続けているのです。

あなたはどう思いますか?
ムチを打つ親、また、打った親にこうした説明が出来ますか?
是非、説明をして欲しいと思います。
    

知恵を求める人のためにブログです。

クリスチャンと政治に関しては、
イエスは弟子たちに次のように言われたことと関連があります。
ヨハネ15:19
あなた方が世のものであったなら,世は自らのものを好むことでしょう。ところが,あなた方は世のものではなく,わたしが世から選び出したので,そのために世はあなた方を憎むのです。

ヨハネ17:11-16
11 「そしてまた,わたしはもう世におりませんが,彼らは世におり,わたしはみもとに参ります。聖なる父よ,わたしに与えてくださったご自身のみ名のために彼らを見守ってください。わたしたちと同じように,彼らも一つとなるためです。
(参考:ここでイエスは「一つとなる」と述べていますが、
 これは文字通り「一体」となることではなく、「同じ考え、同じ思いを持つ」さらには「真理にお

 いて一致している」という意味です。
 いわゆる、三位一体を述べている訳ではないことは明白です。)

12 わたしは,彼らと共におりました時,わたしに与えてくださったあなたご自身のみ名のために,いつも彼らを見守りました。そしてわたしは彼らを守り,滅びの子のほかには,そのうちだれも滅びていません。それは聖句が成就するためでした。
(参考:詩編41:9、109:8、使徒1:20
 イエスが言われた「彼ら」とは十一人の使徒たちのことです。
 滅びの子とは、イエスを裏切ったユダ・イスカリオテのことです。
 イエスは、ご自分が招いた十二使徒たちにいつも気を配っていたことは確かです。
 教えのすべてはこの十二使徒たちに語ったと言っても過言ではありません。
 彼らがイエスが亡くなった後の「イエスの弟子たちの礎」となるためだったのです。
 しかし、その十二使徒たちもAD100年頃にヨハネが亡くなって皆いなくなってしまったのです。
 これ以降、クリスチャンたちには「思慮と忍耐」が求められたことは言うまでもありません。)

13 しかし今,わたしはみもとに参ります。そして,彼らがわたしの喜びを自分のうちに存分に持つために,わたしは世にあってこれらのことを話しています。
14 わたしはあなたのみ言葉を彼らに与えましたが,世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないのと同じように,彼らも世のものではないからです。
15 「わたしは,彼らを世から取り去ることではなく,邪悪な者のゆえに彼らを見守ってくださるようにお願いいたします。
16 わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません
(世、つまり、事物の体制は「悪魔の世」です。-マタイ4:8、9
 イエスは、この世のもの、つまり、その世に属していないということを述べています。
 悪魔ではなく、神に属していると断言しているのです。)

ヨハネ1818:28-40
28 そこで彼らはイエスをカヤファのところから総督の官邸に引いて行った。それはもう早朝であった。しかし彼ら自身は総督の官邸内に入らなかった身を汚さずに過ぎ越しの食事をしようとしてであった。
(興味深いのは、イエスを迫害しているユダヤ人ですら「世の政治」に関わることを「汚れ」と考え

 ていたことです。

 しかし、イエスを殺害するために「世の政治」を利用したのです。)

29 それで,ピラトは彼らのいる外に出て来て,こう言った。「あなた方はこの人に対してどんな告訴をするのか」。

30 それに答えて彼らは言った,「この男が悪を行なう者でなかったなら,わたしたちはあなたに引き渡したりはしなかったでしょう」。

(ユダヤ人たちは偽りの告訴をしたのです。)


31 そこでピラトは彼らに言った,「あなた方が自分で彼を連れて行き,自分たちの律法にしたがって裁くがよい」。ユダヤ人たちは彼に言った,「わたしたちが人を殺すことは許されていません」。
32 これは,イエスがどんな死を遂げることになっているかを示して言われた言葉が成就するためであった。

(確かに、モーセの十戒の6番目に「殺人をしてはならない」と記されています。

 これは、相手に対する怒りの感情にまかせて殺したり、恨みや自分の利のために殺したり、

 強盗殺人などのことです。

 しかし、

 律法では罪を犯した者のある者は死刑と定められています

 イエスの発言や行うことで酷く傷付けられ「殺したいほどの憎しみ」を抱いたユダヤ人たちは、

 「殺人」の罪を免れようとしたのです。

 これは律法に反することでした。

 ユダヤ人たちはイエスを殺害することで神に対して罪を犯す」ことを恐れたのです。

 そのために、このような「」(イエスを悪人として)を言って告訴したのです。

 

 ユダヤ人たちは、後に、実際にステファノを自分たちの手で殺害しています。

 こうした点でもユダヤ人たちには、特に書士やパリサイ人を含むサンヘドリンに属する者たちに 

 はに対して大きな罪を犯したのです。)


33 それで,ピラトは再び総督の官邸内に入り,イエスを呼んで,こう言った。「あなたはユダヤ人の王なのか」。
34 イエスは答えられた,「あなたがそう言うのは,あなた自身の考えからですか。それとも,ほかの者がわたしについて告げたからですか」。
35 ピラトは答えた,「わたしはユダヤ人ではないではないか。あなた自身の国民と祭司長たちが,あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは何をしたのか」。
36 イエスは答えられた,「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」。
37 それでピラトは彼に言った,「それでは,あなたは王なのだな」。イエスは答えられた,「あなた自身が,わたしが王であると言っています。真理について証しすること,このためにわたしは生まれ,このためにわたしは世に来ました。真理の側にいる者はみなわたしの声を聴きます」。
38 ピラトは彼に言った,「真理とは何か」。
そして,こう言ってから,彼は再びユダヤ人たちのところに出て行って,こう言った。「わたしは彼に何の過失も見いださない
39 それに,あなた方には,過ぎ越しの際わたしが一人の者を釈放する習慣がある。それであなた方は,わたしがユダヤ人の王を釈放するように願うのか」。
40 すると彼らは再び叫びたてて言った,「この男ではない,バラバを!」 バラバというのは強盗であった。
(ユダヤ人たちがイエスを殺害しようとした動機は二つです。

 イエスが自分たちを批判したことに加えて、

 一つは自分を神の子だと言ったこと、神の王国の王(ユダヤ人たちはユダヤ人の王と間違って考え

 た)だと言ったことです。

 実際、この二つの点については律法には記されていません。

 ですから、彼らは政治を利用したのです。)


以上のことから、
イエスと弟子たちが世から憎まれる理由とユダヤ人たちがイエスの殺害に政治を利用したことと支配者に対して「自分の王国は世のものではない」と言ったことなどから、
クリスチャンが政治を含め「世のもの」を避ける理由が分かります。

イエスは専ら「人々の生き方」に関して教えています。
そこに政治的な事柄は「神の王国」に関する以外何も話してはいません。

税金を納めることに関しても、「人々を躓かせない」ために支払うよう弟子たちに指示しました。
マタイ17:24-27
24 彼らがカペルナウムに着いたのち,二ドラクマ[税]を徴収する人たちがペテロに近づいて,「あなた方の教師は二ドラクマ[税]を払わないのですか」と言った。
25 彼は,「払います」と言った。しかし,彼が家に入ると,イエスは彼より先にこう言われた。「シモンよ,あなたはどう考えますか。地の王たち租税や人頭税をだれから受け取っていますか。自分の子たちからですか,それともよその人たちからですか」。
26 彼が,「よその人たちからです」と言うと,イエスはこう言われた。「そうであれば,子たちは税を課されていないのです。
27 しかし,彼らをつまずかせないために,あなたは海に行き,釣り針を投じて,最初に上がる魚を取りなさい。その口を開けば,あなたはスタテル硬貨一つを見つけるでしょう。それを取って,わたしとあなたのために彼らに与えなさい」。

+++++++++++++++++++++++++++
ところが、今の政治の世界を見て見ると、
いわゆる「キリスト教」を名乗った政党が様々な国に存在しています。
これは、
明らかにイエスの考えに反することです。

また、

いわゆる、国教としてキリスト教を奉じていながら、つまり、国民としてキリスト教徒でありながら

犯罪で殺人を犯し、戦争で人を殺し「続けて」います。

こうした人々が「神の大いなる日の裁き」を免れることはありません。

ものみの塔は、自分たちは「政治的には中立」の立場であると言っています。
この意味は、どの政党にも「属さない」という意味と政治とは一切かかわりを持たないという意味で用いられています。
そのためものみの塔の信者(エホバの証人たち)は選挙には行きませんし、どの党も支持しません。
ある国ではこのために迫害に遭っています。

ものみの塔の言う「政治的な中立」というのは「間違って」います。
中立」ではなく、「神の王国」を支持する者として「世の政治には加担しない、支持しない」といういわば「断絶」の「意思表示」をしなければならないのです。
この点、パウロは次のように言いました。
エフェソス6:11-12
11 悪魔の策略にしっかり立ち向かえるように,完全にそろった,神からの武具を身に着けなさい。
12 わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく,もろもろの政府と権威,またこの闇の世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するものだからです。

しかし、
これは文字通り武器を取って戦うというものでもありません

むしろパウロは真逆なことを言っています。
ローマ13:1-10
13章
すべての魂は上位の権威に服しなさいによらない権威はないからです。存在する権威は神によってその相対的な地位に据えられているのです。
2 したがって,権威に敵対する者は,の取り決めに逆らう立場を取っていることになります。それに逆らう立場を取っている者たちは,身に裁きを受けます。
3 支配者たちは,善行にではなく,悪行にとって,恐れるべきものとなるのです。それで,あなたは権威に対する恐れを持たないでいたいと思うのですか。善を行なってゆきなさい。そうすれば,あなたはそれから称賛を受けるでしょう。
4 それはあなたの益のための神の奉仕者だからです。しかし,もしあなたが悪を行なっているのであれば,恐れなさい。それはいたずらにを帯びているのではないからです。それはの奉仕者であり,悪を習わしにする者に憤りを表明する復しゅう者なのです。
(世のものではないクリスチャンであっても、いわゆる犯罪に対する罰を受けることを示していま

 す。
 「」つまり、この世の「法による処罰」は神の憤りの復しゅう者だと述べています。
 これは悪に対してであって、信仰の戦いでこの世の法の裁きを受けることとは別のことです。
 いわば、
 法による「悪に対する処罰」は、いわば、の代理なのであり、こうしてクリスチャンたちが悪を

 行う点で抑制(益)となると言っているのです。

 これは、クリスチャンたちが、いわゆる「世に対して犯罪」を犯すことで、神とイエスに汚名を着

 せることがないようにとの警告でもあるのです。)

5 したがって,あなた方がどうしても服従するべき理由があります。その憤りのためだけではなく,[あなた方の]良心のためでもあります。
6 それゆえに,あなた方は税を納めてもいるのです。彼らは,まさにこのために絶えず奉仕する神の公僕だからです。
(繰り返しますが、
 これは、事物の体制の神である悪魔の下にある政治支配者に対することであるという点に注目して

 下さい。)

+++++++++++++++++++++++++++
興味深いのは、ここで政治支配者を「神の公僕」と述べていることです。
これはとても意味深いものがあります。
なぜなら、
世、つまり、事物の体制は悪魔のものです。
世の政治とそれに属する者もそうです。
しかし、
その権威を与えたのは神であるという点です。
悪魔にそうした「権威」を与えたということになります。
なぜなら、
天にいるすべてのみ使いたちに、悪魔の言ったことが「間違いである」ことを証明するためです。

は悪魔にその証明をさせるためにおよそ6000年という長い時を与えたのです。

なぜそういうことが起きたのでしょうか

創世記3:1-5
さて,エホバが造られた野のすべての野獣のうち蛇が最も用心深かった。それで[蛇]が女にこう言いはじめた。「あなた方は園のすべての木からは食べてはならない,とが言われたのは本当ですか」。
2 それに対して女は蛇に言った,「園の木の実をわたしたちは食べてよいのです。
3 でも,園の真ん中にある木の実を[食べること]について,は,『あなた方はそれから食べてはならない。いや,それに触れてもならない。あなた方が死ぬことのないためだ』と言われました」。
4 それに対して蛇は女に言った,「あなた方は決して死ぬようなことはありません
5 その[木]から食べる日には,あなた方の目が必ず開け,あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになることを,は知っているのです」。

蛇に唆されてアダムとエバが善悪の知識の木の実を食べて、に対して罪を犯した後、
創世記3:22
22 次いでエホバはこう言われた。「さあ,人は善悪を知る点でわたしたちのひとりのようになった

ここで、は「神のように」ではなく「わたしたちのひとりのように」つまりみ使いたちのようになったと言われたのです。
(参考:使いたちは善悪を知っていたということです。
 その善悪を知るみ使いの一人である悪魔は「人に対して嘘を言って欺いた」のです。)

 

従って、
エデンでの出来事は、神か自分(悪魔となったみ使い)のどちらに服するのが「善い」ことなのか「選択」をするように人間に「けしかけたといういうことを意味しているのです。

 

-参考ヨブ記1章(この記述は、悪魔が人を神から引き離すために、地(地球、全世界)をあちこち行き巡っていたことが記されています。)

6 さて,[まことの]の子らが入って来てエホバの前に立つ日となった。サタンも彼らのただ中に入った。

まことの神の子らとは、天にいるみ使いたちです。

 おそらく、人間的に[1年に1度]毎年かあるいは定期的に、神の前に集合する日が定められて

 て、

 その日に、み使いたちは各々自分のして来たことを報告することが求められていたと思われます。

 神の子らと言っても、[子供]ではないのです。

 ある宗教画では[子供]として描かれていますが、あれは「間違い」です。)


7 そこで,エホバはサタンに言われた,「あなたはどこから来たのか」。するとサタンはエホバに答えて言った,「地を行き巡り,そこを歩き回ってきました」。

8 すると,エホバはまたサタンに言われた,「あなたはわたしの僕ヨブに心を留めたか。地上には彼のような人,とがめがなく,廉直で,神を恐れ,悪から離れている人はひとりもいないのだが」。

9 するとサタンはエホバに答えて言った,「ヨブはただいたずらにを恐れたのでしょうか。

10 あなたが,彼とその家と彼の持っているすべてのものとの周りにくまなく垣を巡らされたではありませんか。彼の手の業をあなたは祝福されたので,その畜類は地にふえ広がりました。

11 しかし逆に,どうか,あなたの手を出して,彼の持っているすべてのものに触れて,果たして彼が,それもあなたの顔に向かってあなたをのろわないかどうかを[見てください]」。

 

2章
その後,[まことの]の子らが入って来てエホバの前に立つ日となり,サタンもまた彼らのただ中に入ってエホバの前に立った。
2 そこでエホバはサタンに言った,「一体,あなたはどこから来たのか」。すると,サタンはエホバに答えて言った,「地を行き巡り,そこを歩き回ってきました」。

3 するとエホバはさらにサタンに言われた,「あなたはわたしの僕ヨブに心を留めたか。地上には彼のような者,とがめがなく,廉直で,を恐れ,悪から離れている人はひとりもいないのだが。その上なおも彼は自分の忠誠を堅く保っている。あなたはわたしを駆り立てて彼に向かわせ,理由もなく彼を呑み尽くさせようとするのだが」。

4 しかしサタンはエホバに答えて言った,「皮のためには皮をもってしますので,人は自分の魂のためなら,持っているすべてのものを与えます

5 逆に,どうか,あなたの手を出して,彼の骨と肉にまで触れて,果たして彼が,それもあなたの顔に向かってあなたをのろわないかどうか[を見てください]」。

 

***************

参考:

に対して、このように言ったみ使いは、他には記されていません

み子、イエスですら神に対してこのような「挑戦的な発言」はしていません。

サタン(悪魔)は特別な存在だということが分かります。

  

実際、このみ使い(サタン、悪魔)は、「の周囲にいるケルブ」と同じケルブ特別な存在だったのです。

  

***************

  

こうしたことのためには悪魔に「一時的に権威」を与えたのです。
 
これに関連して、
イエスは昇天の直前に、マタイ28:16-18で次のように述べています。
16 しかしながら,十一人の弟子はガリラヤに赴き,イエスが彼らのために取り決めた山に行った。
17 そして,[イエス]を見ると,彼らは敬意をささげた。しかし,ある者たちは疑った。
18 すると,イエスは近づいて来て,彼らにこう話された。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています

これらから分かることは権威」は神からの与えられるものだということです。
悪魔の権威は一時的なものでしたが、後に付与されたイエスの権威は永久なものです。
-啓示11:15、12:7-10

+++++++++++++++++++++++++++ 

前節からの続き

ローマ13:7-10
7 すべての者に,その当然受けるべきものを返しなさい。税を[要求する]者には税を,貢ぎを[要求する]者には貢ぎを,恐れを[要求する]者にはしかるべき恐れを,誉れを[要求する]者にはしかるべき誉れを。
(これは、政治支配者を恐れるために従うということではなく相対的に据えられている「神の権

 威」に服するという意味で従ういうことを意味しています。)

8 あなた方は,互いに愛し合うことのほかは,だれにも何も負ってはなりません。仲間の人間を愛する者は律法を全うしているのです。
9 「あなたは姦淫を犯してはならない,殺人をしてはならない,盗んではならない,貪ってはならない」,そしてほかにどんなおきてがあるにしても,その[法典]は,この言葉,すなわち,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」に要約されるからです。
10 愛は自分の隣人に対して悪を行ないません。ですから,愛は律法を全うするものなのです。

神がその存在を許している間は「上位の権威」として政治と支配者従う理由があるのです。
(参考:イエスの死後、ユダヤ人たちはローマの支配に反抗し、つまり、相対的に据えられていた権

 威であるローマの支配に敵対したため、ついにAD70年に滅ぼされてしまい、国を失ったのです。)

イエスが言われた「世のものではない」ことには、政治に関与しないということも含まれています。
しかし、関与しないということ政治に全く無関心で良いということを意味してはいません
世のものではない」という言葉には「政治支配者に警戒をする」」ということよりは政治に注意を払う、注意を向ける」ということも含まれているのです。
その例が、通行税を求められた時に語られたイエスの言葉です。

クリスチャンは政治的には外国人のように振る舞うべきであるとペテロは述べています。
ペテロ(一)2:11-25
11 愛する者たちよ,外国人また一時的居留者であるあなた方に勧めますが,つねに肉の欲望を避けなさい。そうした[欲望]こそ,魂に対して闘いつづけるものなのです。
12 諸国民の中にあっていつもりっぱに行動しなさい。それは,彼らが,あなた方を悪行者として悪く言っているその事柄に関してあなた方のりっぱな業を実際に見,その[業の]ゆえに検分の日に神の栄光をたたえるようになるためです。
13 人間の創造したものすべてに,主のために服しなさい上位者としての王に対してであろうと,
14 あるいは,悪行者を処罰し,善行者をほめるために[王]から遣わされた総督に対してであろうと[そのようにしなさい]。
15 というのは,道理をわきまえない人たちの無知な話を,あなた方が善を行なうことによって封じるのは,神のご意志だからです。
16 自由の民らしくありなさい。ですが,あなた方の自由を,悪の覆いとしてではなく,神の奴隷として保ちなさい。

17 あらゆる[人]を敬い,仲間の兄弟全体を愛し,神を恐れ,王を敬いなさい

兄弟全体と言うことで、仲間の信者の誰一人に対しても差別したり批判することなく「愛を持っ

 て」接しなさいと言っているのです。

 この点で、仲間の信者を批判するものみの塔の信者(エホバの証人)は、このペテロの言葉を無視

 しています。)


18 家僕は[しかるべき]恐れをつくして自分の所有者に服しなさい。善良で道理をわきまえた者に対してだけでなく,気むずかしい[所有者]に対しても[そのようにしなさい]。
19 なぜなら,神に対する良心のゆえに悲痛な事柄に耐え,不当な苦しみを忍ぶなら,それは喜ばしいことだからです。

20 罪をおかして打たれているときに,あなた方がそれを耐え忍ぶからといって,そのことにいったいどんなほめるべき点があるでしょうか。しかし,善を行なって苦しみに遭っているとき,あなた方がそれを耐え忍ぶなら,それは神にとって喜ばしいことなのです。
21 事実,あなた方はこうした[道]に召されたのです。キリストでさえあなた方のために苦しみを受け,あなた方がその歩みにしっかり付いて来るよう手本を残されたからです。
22 彼は罪を犯さず,またその口に欺きは見いだされませんでした
23 彼は,ののしられても,ののしり返したりしませんでした。苦しみを受けても,脅かしたりせず,むしろ,義にそって裁く方に終始ご自分をゆだねました
24 杭の上でわたしたちの罪をご自身の体に負い,わたしたちが罪を断ち,義に対して生きるようにしてくださったのです。そして,「彼の打ち傷によってあなた方はいやされました」。
25 あなた方はさまよっていて,羊のようであったからです。しかし今は,あなた方の魂の牧者また監督のもとに帰って来ました。

結論を言えば、
クリスチャンは、政治的にはどの国に住んでいても「外国人」なのです。
外国人」には市民権も参政権もありませんが法には従わなければなりません
道徳や礼儀なども守る必要があり、また、善行を行うことを勧められているのです。
こうしたことに従うためには国の政治や社会に無関心であることは出来ないのです。
政治に参加しなくても政治が何を行うかには「十分関心を払い、見守る必要があるのです。

ものみの塔の信者(エホバの証人)はこの点「誤解」して政治に無関心を示していませんか
それは「間違い」なのです。
ものみの塔はこの点「正しく教えてはいないのです。

   

イエスが存命の時には、イエスに追随すれば良かったのですが、イエスが地上にいない今は、地上のあらゆる事柄に「無関心」であってはならないのです。

 

人の子の臨在と神の裁きの日に関して「ずっと見張っていなさい」と述べています。

かつてノアの大洪水前にはこうした事柄に人々は注意していなかったと述べています。

しるしや世の出来事の中には政治的な事柄も含まれているのです。

マタイ24:29-42

29 「それらの日の患難のすぐ後に,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天のもろもろの力は揺り動かされるでしょう。

太陽、月、星は「支配者とそれに追随する者たちを象徴また比喩的表現」です。

 したがって、このしるしには、政治や支配者のことも含まれているのです。)

 

30 またその時,人の子のしるしが天に現われます。そしてその時,地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき,彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。

31 そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風から,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう。
32 「では,いちじくの木から例えとしてこの点を学びなさい。その若枝が柔らかくなり,それが葉を出すと,あなた方はすぐに,夏の近いことを知ります。

33 同じようにあなた方は,これらのすべてのことを見たなら,彼が近づいて戸口にいることを知りなさい。

34 あなた方に真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません。

35 天と地は過ぎ去るでしょう。しかしわたしの言葉は決して過ぎ去らないのです。

この天と地とは、その時の世、つまり、事物の体制のことです。)


36 「その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も[知らず],ただだけが[知っておられます]。

37 人の子の臨在はちょうどノアの日のようだからです。

38 洪水前のそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。

39 そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在[の時]もそのようになるのです。

40 その時二人の男が野にいるでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。

41 二人の女が手臼をひいているでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。

42 それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなた方は,自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです。

二人の男女は、普段の仕事をしているのですが、連れて行かれるのは一人だけです。

 あなたはこれをどのように考えますか?)