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事物の体制の滅びを生き残るのに、必要なことは何か?信仰それとも・・・
予告されている事物の体制の滅びは、生きていさえすれば誰でも目撃者になることは出来ます。
しかし、
その滅びを生き残るかどうかはどうすれば良いのでしょうか?
死んでも良いと思っている人にとってはどうでも良いことです。
それでも、生き残る方法が分かれば、もしかすると生き残りたいと思うのではないでしょうか?
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これは、単なるサバイバルではありません。
予告は聖書に記されているので、つまりは宗教に依存しているということです。
宗教に依存しているということは、
聖書の神とイエス・キリストに対する信仰と深く関係しているということです。
宗教に関心があるということは、
一般的には、神と将来の希望及び日常の災いから逃れ日々の安寧を実現したいということだと考えられます。
神と将来の希望を除けば、それは、すなわち人間そのものに関わることであるということです。
宗教を持っている人、宗教に入っている人、信仰心を持って実践している人などは、常に、人間ということを意識しているものです。
人間はどうあるべきか、どのように生きるべきか、他人に対しどのようの接するべきかなどなど。
他方、宗教に関心を持たない人は、
人間そのものというよりは、自分自身と周囲の人との関係に関心を持っているものです。
どちらも、
人間ということを意識しているのですが、思考対象が異なります。
前者は、一般的な概念としての人間そのものに対する関心ですが、
後者は、自分との利害関係に於ける人間に対する関心です。
ですから、
宗教では、老若男女や性格などの違いは、問題を解決するときには考慮しますが、それ以外はいわゆる区別をしませんので、誰でも持つことが出来、また、行うことが出来ます。
他方、宗教心を持たない人は、肉食動物的で自分の利害に関係ある人だけを意識し、その他の人とは区別して考えているものです。
世の中の人々は、大別するとこの二種類に分類されると考えることが出来ます。
つまり、
宗教を持っている人、実践している人の意識の対象は神ですが、
宗教を持たない人の意識の対象は自分自身だということです。
実際には、どちらも多少は入り混じった意識を持っているものです。
宗教を持っていても、利害関係のある人を意識することもありますし、むしろその方が自然なのかも知れません。
宗教を持っていないすべての人は、自分の利害に関係のある人だけを意識していることは間違いないありません。
おそらく、
神が地を、すなわち、すべての人々を裁く時には、こうした点を考慮すると考えられます。
神は人の心の中を調べるのです。
そうでなければ、区別の付けようがないからです。
神が地を裁く時、義なる者を救われることが示されていますが、
人間的に考えた時、すべての人の内、聖書に通じそれ理解し忠実に守ったので義なる者と見なされるということではないような気がします。
というのは、
そのような人は現実には殆どいないからです。
もっとも、
ノアの大洪水の時には、8人だけが救われましたから、少ないと言うだけの理由でふさわしくない人まで滅びを生き残されるとも考えにくいものです。
神は、人の心が分かります。
ですから、
人間的に観察して、
宗教をしているしていない、聖書に通じて理解して忠実に守っているいないに関わらず、
誰が義なる者かが既に判明していると考えた方が理にかなっています。
つまり、
既に、事物の体制の終結の際、滅ぼされる人と生き残る人は判別されているということです。
ただ、人間にはそれが見えない分からないだけなのです。
クリスチャンであっても滅ぼされる人もいるでしょうし、世の人々であっても生き残る人もいると考えられます。
イエスの弟子たちの間に、能力に応じて様々な賜物が与えられたように、
生き残る人々の中には、様々な人が存在することは明らかです。
神は人間を「十把一絡げ」に見ている訳ではありません。
神は、人を一人ひとり見ているのです。
事物の体制の滅びを生き残る人は、神の目から見て義なる人々であることには違いありません。
確かに、聖書には、
イエスに信仰を持った人がバプテスマを受け、大勢の人が、男も女もクリスチャンとなりました。
この中の、144000人の男子のある者たちだけが、神の王国に招待され、天でイエスと共に地を支配すると考えられます。
更に、啓示7:14-15で、
大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。
それゆえに神のみ座の前にいるのである。
そして,その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげている。
と記されていますが、
この大群衆は大患難を生き残る人々の内の一部の、それも男子だけではないかと思います。
つまり、
大患難を生き残る人々は他にもいるということです。
なぜなら、
モーセの時代の幕屋で奉仕した人やソロモンが作った神殿で奉仕した人の中には女性や子供はいないからです。
しかし、
神の王国や大群衆は男子だけに適用されるとしても、生き残る人々の中には女性も子供も含まれていることは明らかです。
では、こうした女性たちや子供たちについてはどうなのかという疑問が当然生じることになります。
しかし、聖書の中にはそれは記されてはいないのです。
ただ、もし学びたいと思うなら自分の夫に質問しなさい、また、従いなさいとだけ述べられているのです。
あなたはどう考えますか?
こうしたこととは別に、神は秩序の神とも言われています。
特に、キリストの信者となった人々に関してパウロは次のように述べています。
コリント(一)12章-14章
12章
さて,兄弟たち,霊の賜物について,あなた方に知らずにいて欲しくありません。
2 あなた方も知るとおり,諸国民の者であった時,あなた方はただ導かれるままに,声のない偶像のもとへと導かれていました。
3 それで,あなた方に知らせておきたいと思うのは,神の霊によって話しているなら,だれも,「イエスはのろわれている!」とは言わず,聖霊によるのでなければ,だれも,「イエスは主である!」とは言えない,という点です。
4 さて,賜物はさまざまですが,霊は同じです。
5 奉仕の務めはさまざまでも,主は同じです。
6 働きはさまざまでも,すべての人の中であらゆる働きをされる神は同じです。
7 しかし,霊の顕現は,有益な事柄を目的として各々に与えられます。
8 たとえば,ある人には霊によって知恵のことば,ある人には同じ霊にしたがって知識のことば,
9 ある人には同じ霊によって信仰,ある人にはその一つの霊によっていやしの賜物,
10 さらにある人には強力な業の働き,ある人には預言すること,ある人には霊感のことばを識別する力,ある人には種々の異言,そしてある人には異言を解釈する力が与えられています。
11 しかし,これらのすべての働きを同一の霊が行なうのであり,その欲するとおりに各々に分配するのです。
12 体は一つであっても多くの肢体に分かれており,また体の肢体は多くあっても,その全部が一つの体を成しますが,キリストもそれと同じなのです。
13 まさしくわたしたちは,ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと,奴隷であろうと自由であろうと,みな一つの霊によって一つの体へのバプテスマを受け,みな一つの霊を飲むようにされたからです。
(参考:この一つの霊を飲むのは、キリストと共に天に召された144000人の限られた人だけです。)
14 実際,体は一つの肢体ではなく,多くの[肢体]です。
15 たとえ足が,「わたしは手ではないから,体の一部ではない」と言ったとしても,そのためにそれが体の一部でないというわけではありません。
16 また,たとえ耳が,「わたしは目ではないから,体の一部ではない」と言ったとしても,そのためにそれが体の一部でないというわけではありません。
17 もし全身が目であったなら,聴覚はどこなのですか。それが聴くことばかりであったなら,においをかぐことはどこなのですか。
18 しかし今,神は体に肢体を,その各々を,ご自分の望むままに置かれたのです。
19 もしそのすべてが一つの肢体であったなら,体はどこにあるのでしょうか。
20 しかし今,それは多くの肢体であり,それでもなお一つの体です。
21 目は手に向かって,「わたしにあなたは必要でない」とは言えず,頭も足に向かって,「わたしにあなた方は必要でない」とは[言えません]。
22 それどころか,実際には,体の中で[ほか]より弱く見える肢体がかえって必要なのであり,
23 また,体の中で[ほか]より誉れが少ないと思える部分,これをわたしたちはより豊かな誉れをもって包みます。こうしてわたしたちの見栄えのしない部分に[他]より豊かな麗しさが添えられ,
24 一方,麗しい部分は何も必要としません。しかしそうではあっても,神が体を組み立てたのであり,欠けたところのある部分に誉れをより豊かに与えて,
25 体に分裂がないように,その肢体が互いに対して同じ気づかいを示すようにされました。
26 それで,一つの肢体が苦しめば,ほかのすべての肢体が共に苦しみ,ひとつの肢体が栄光を受ければ,ほかのすべての肢体が共に歓ぶのです。
27 さて,あなた方はキリストの体であって,それぞれが肢体です。
28 そして神は会衆内にそれぞれの人を置かれました。第一に使徒,第二に預言者,第三に教える者,次いで強力な業,次いでいやしの賜物,助けになる奉仕,指揮する能力,種々の異言です。
29 すべてが使徒ではないでしょう。すべてが預言者ではないでしょう。すべてが教える者ではないでしょう。すべてが強力な業をするわけではないでしょう。
30 すべてがいやしの賜物を持つわけではないでしょう。すべてが異言を話すわけではないでしょう。すべてが翻訳者ではないでしょう。
31 それでも,より大きな賜物を熱心に求めてゆきなさい。ですが,わたしはさらに勝った道をあなた方に示します。
13章
たとえわたしが人間やみ使いの[いろいろな]ことばを話しても,愛がなければ,音を立てる[一片の]しんちゅうか,ただ鳴り響くシンバルとなっています。
2 そして,たとえ預言[の賜物]を持ち,すべての神聖な奥義とすべての知識に通じていても,また,たとえ山を移すほどの全き信仰を持っていても,愛がなければ,何の価値もありません。
3 そして,ほかの人たちに食物を与えるために自分のすべての持ち物を施しても,また,自分の体を渡して自分を誇れるようにしたとしても,愛がなければ,わたしには何の益にもなりません。
4 愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,
5 みだりな振る舞いをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず,
6 不義を歓ばないで,真実なことと共に歓びます。
7 すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を希望し,すべての事を忍耐します。
8 愛は決して絶えません。それに対し,預言[の賜物]があっても,それは廃され,異言があっても,それはやみ,知識があっても,それは廃されます。
9 わたしたちの知識は部分的なものであり,預言も部分的なものだからです。
10 全きものが到来すると,部分的なものは廃されるのです。
11 わたしがみどりごであった時には,みどりごのように話し,みどりごのように考え,みどりごのように論じていました。しかし,大人となった今,みどりごの[時の]ことをやめたのです。
12 現在わたしたちは金属の鏡でぼんやりした輪郭を見ていますが,その時には顔と顔を向かい合わせて[見るの]です。現在わたしが知っているのは部分的なことですが,その時には,自分が正確に知られているのと同じように,正確に知ることになります。
13 しかし今,信仰,希望,愛,これら三つは残ります。しかし,このうち最大のものは愛です。
14章
愛を追い求めなさい。その上に,霊の賜物を,それも,できるなら,預言することを熱心に求めてゆきなさい。
(これは、聖書の音信[預言]を人々に知らせるべきであることを言っています。
自発的にです。
ものみの塔のように要求されて行うことではありません。)
2 異言を話す人は,人に対してではなく,神に対して話すからです。だれも聴いていないのに,その人は霊によって神聖な奥義を話しているのです。
3 しかし,預言する人は,その話す事柄によって人を築き上げ,励まし,慰めます。
4 異言を話す人は自分を築き上げますが,預言する人は会衆を築き上げるのです。
5 そこで,わたしは,あなた方のすべてが異言を話すことを欲しますが,それよりは,あなた方が預言することのほうを望みます。実際,異言を話す人が[それを]翻訳して,会衆が築き上げられるようにするのでないかぎり,預言する人のほうが優れています。
6 また,兄弟たち,わたしが今あなた方のところに行って異言を話すとしても,啓示,あるいは知識,預言,教えをもって話すのでなければ,あなた方に何の益となるでしょう。
7 実際のところ,フルートにしろたて琴にしろ,無生の物も音を出しますが,音程がはっきりしなければ,そのフルートやたて琴で何を演奏しているかどうして分かるでしょうか。
8 また,ラッパの出す音が不明りょうであれば,いったいだれが戦闘の用意をするでしょうか。
9 これと同じように,あなた方も,舌で,容易に理解できることばを出さないなら,何を話しているのかどうして[人に]分かるでしょうか。あなた方は,実際には空気に話していることになるのです。
10 世界には非常に多くの種類の音声があることでしょう。それでも,意味を持たないものはありません。
(参考:世界中に様々な言語があることを言っています。)
11 そこで,もしわたしが音声の真意を理解していないなら,[それを]話している人にとってわたしは異国人であり,話している人もわたしにとっては異国人であることになります。
12 それで,あなた方自身も,霊[の賜物]を熱心に求めているからには,会衆を築き上げるという目標でそれに満ちあふれるよう努めなさい。
13 ですから,異言を話す人は,自分が[それを]翻訳できるように祈りなさい。
(参考:異言というのは、つまりは外国語のことです。
しかし、この賜物は、話している本人がその外国語を理解していないことを示しています。
それで、パウロはこのように話したのです。
そうしないと、自分自身には益がない、役には立たないものだということを言っているのです。)
14 というのは,わたしが異言で祈っている場合,祈っているのはわたしの霊[の賜物]であって,わたしの思いは実を結んでいないからです。
(つまり、自分では理解していないと言っているのです。)
15 では,どうすべきでしょうか。わたしは霊[の賜物]をもって祈りますが,同時に[自分の]思いをもって祈ります。わたしは霊[の賜物]をもって賛美を歌いますが,同時に[自分の]思いをもって賛美を歌うのです。
16 そうでなければ,たとえあなたが霊[の賜物]をもって賛美をささげても,普通の人の座席に着いている人は,あなたが何を言っているのか分からないのですから,あなたのささげる感謝にどうして「アーメン」と言えるでしょうか。
17 確かに,あなたはりっぱに感謝をささげていることでしょう。それでも,相手の人は築き上げられてはいないのです。
18 わたしは,自分があなた方のすべてより多くの異言を話すことを神に感謝しています。
19 しかしそうではあっても,会衆の中では,異言で一万の言葉[を話す]より,むしろ自分の思いをもって五つの言葉を話し,こうして他の人たちを口頭で教え諭すこともできるようにと願うのです。
20 兄弟たち,理解力の点で幼子となってはなりません。しかし,悪に関してはみどりごでありなさい。そして,理解力の点では十分に成長した者となりなさい。
21 律法にこう書いてあります。「『異国人の舌をもって,またよそから来た者の唇をもって,わたしはこの民に話すが,彼らはなおもわたし[のことば]に注意を向けないであろう』と,エホバは言われる」。
22 それゆえ,異言はしるしのためです。それも,信者に対してではなく,不信者に対してです。一方,預言は不信者のためではなく,信者のためです。
23 そこで,会衆全体が一つの場所に集まってみんなが異言を話しているところへ,普通の人もしくは不信者が入って来た場合,その人は,あなた方は気が狂っていると言わないでしょうか。
24 しかし,あなた方がみな預言しているところへだれか不信者または普通の人が入って来れば,その人はみんなから戒めを受け,みんなからつぶさに調べられます。
25 その心の秘密は明らかにされ,そのため彼はひれ伏して神を崇拝し,「神はほんとうにあなた方の中におられる」とはっきり言うようになります。
26 兄弟たち,では,どうすべきでしょうか。あなた方が集まるとき,ある人には詩があり,ある人には教えがあり,ある人には啓示があり,ある人には異言があり,ある人には解釈があります。すべては築き上げることを目ざして行ないなさい。
27 そして,だれかが異言を話すのであれば,多くても二人か三人に限り,順番に[話し]なさい。そして,だれかが翻訳しなさい。
28 しかし,もし翻訳者がいないなら,その人は会衆内では黙っており,自分自身と神に話しなさい。
29 さらに,二人か三人の預言者が話し,他の人たちはその意味を識別するようにしなさい。
30 しかし,そこに座っている別の人に啓示があるなら,初めの人は黙っていなさい。
31 あなた方は皆ひとりずつ預言することができ,こうしてすべての人が学び,またすべての人が励まされるのです。
32 それで,預言者の霊[の賜物]は預言者によって制御されるべきです。
33 神は無秩序の[神]ではなく,平和の[神]だからです。
聖なる者たちのすべての会衆におけると同じく,
34 女は会衆の中では黙っていなさい。話すことは許可されていないからです。むしろ,律法が言うとおり,[女]は服していなさい。
(参考:パウロのこの手紙はAD55年頃に書かれていますから、この時には既に律法は廃された後のこ
とです。
ですが、パウロは律法を適用しこのように述べているのです。
それゆえ、これは現代でも、また、将来においても適用されると考えることが出来ます。)
35 それで,何かを学びたいと思うなら,家でそれぞれ自分の夫に質問しなさい。女が会衆の中で話すのは恥ずべきことだからです。
36 神の言葉はあなた方から出たとでもいうのでしょうか。あるいは,それはただあなた方のところにだけ達したとでもいうのでしょうか。
37 自分は預言者である,あるいは霊を授かっていると考える人がいるなら,その人はわたしがあなた方に書いている事柄を認めるべきです。それは主のおきてだからです。
38 しかし,知らずにいる人がいるなら,その人は知らないままでいます。
39 そのようなわけで,わたしの兄弟たち,預言することを熱心に求めてゆきなさい。けれども,異言を話すことを禁じてはなりません。
40 しかし,すべての事を適正に,また取り決めのもとに行ないなさい。
これが、神とイエス・キリストの考えです。
あなたはどう思いますか?
神とイエスに信仰があり、その教えを忠実に守っているか、いないかに関わらず、神は人の心を調べられ、既に大患難(事物の体制の滅び)を生き残るかは決まっていると思われます。
しかし、既に信仰を持っている人たちにはパウロは上記のように述べているのです。
義なる者は益々義を行う者となり、不義なる者は益々不義を行う者となるのです。-啓示22:10-11
また、信仰を持っていない人(知らない人)でも、
聖書に無知であっても、あなたが本当の善人、心の純粋な人であれば「救われる可能性」が残されています。
神は人の心を調べられるからです。