知恵を求める人のためのブログです。
人の前には廉直な道であっても,後にその終わりが死の道となるものがある。-箴言14:12
参考 ローマ6:12ー22
廉直な道とは、心が清くまっすぐなことと辞書で説明されています。
一見すると純粋な生き方のように思えますが、必ずしも善い、正しいこととは限らないことも含まれています。
大雑把に言えば、[自分では]正しい、あるいは、善いと思ったことをすることです。
普通人は自分では競争意識も持たずしたいように、また、平穏に過ごしたいと思っています。
ところが状況や環境によって人の心は変化します。
例えば、
酷い環境だとそこを変えようとするかそこから出ようという意識が芽生えるものです。
また、
周囲の誰かが良いものを持っていたり上手くやったりするとねたみや競争意識が芽生えることもあるのです。
野心的な人ほどこうした傾向は強いものです。
誰しもが何度も経験していることです。
人生経験の豊富な人はこうしたことの是非については大抵は知っているものです。
しかし、人生経験の少ない若者たちは知らないので、いわば、自然に「こうした状況が端を発し」自分の思ったことをして、周囲の人に対抗意識を持ったり様々な行動や振る舞いをすることが多いのです。
最近では、いろんな知識をネットから簡単に手に入れることができ自分がしたいと思うことの「先が見える」ため、「二の足を踏む」若者も少なくありません。
その一方で、果敢にいろんなことに挑戦する人もいます。
例えば、田舎に行って農業をするとか、子供のために自然の中で暮らしたいとかする人が時々ニュースになる時があります。
すべてにおいて、両極端な方向へと分れたり進むのが「現代の傾向」です。
これは、いろんなことを「知り過ぎた結果」であり、社会が高度に細分化された結果です。
しかし、こうしたことは文明の終わりにも至る兆候なのです。
歴史が物語っています。
人は能力により必然的に差別が生じてさせてしまいます。
こうしたことは人間の指導者や誰かが意図的に出来るものではありません。
人類は古代から常に知識や思想や科学が進歩・発展する方向を「善い」と考えて突き進んでいます。
しかし、それは
「大局的に見て、つまり、人類の歩むべき[善い]方向を考えて計画的に行っているわけではない」
のです。
つまり、善いと思うことを「闇雲にしている」だけなのです。
人類を適切に導く力のある指導者がいなかったのです。
その結果として、
地球環境を破壊し人体に害を及ぼしたり地球温暖化などを引き起こしているのです。
こうしたことだけではなく、
人間の「心の欲望に引かれて」様々な「悪」が行われ、今や、世界は「犯罪の温床」となってしまったのです。
いわば、世界は「泥の中であるいは激流の中で生きているようなもの」にしてしまったのです。
結論から言えば、
人は[自分では]善いことを願う(行っている)のに、実際には逆のこと(悪い結果をもたらすこと)を「意識しないで行っている」
のです。
それでも、多くの人はこうしたことは少し考えれば分かる時代になりました。
それだけ、人類は多くのことを知り過ぎ、それがために「不必要な欲望を抱くようになってしまった」のです。
知識欲は人間の本能です。
人間は制御されないと例え善いと思ったことをしても結果とし死に至る(悪い結果になる)こともあるのです。
これは、単に人間が不完全(過ちを犯す存在)だからと言って済まされる問題ではありません。
人は、「完全(常に善を行える)で力ある存在(絶対的存在)」に制御される、つまり、支配される必要があるのです。
これを可能にする存在は、まことの神と神の右に座しているキリストを除いて他にはいません。
神は間もなくそのようにして下さることを「予告=預言」して、人類に教えて=警告しています。
聖書の中で「預言は不信者のためではなく信者のためです」とパウロは述べています。
-コリント(一)14:22
信者のためとは、既に信者になっている人のことではなく、預言を聞いて信じる者のことです。
不信者は預言に対して疑いを持ち引き続き無知のままに留まり行動や振る舞いにおいて「自分が善いと思うことに夢中になっています」
嫁いだり娶ったり食べたり飲んだり欲しいものを手に入れようとしたり自分のしたいことをしたり浮かれ騒ぎをしているのです。
これに輪を掛けて助長しているのが政治であり経済でありマスコミなどのメディアです。
神の預言は「必ず成就」します。
しかし、神に信仰を働かせ預言に期待と希望を持つのは「信者」だけなのです。
不信者に待っているのは「突然の滅び」です。
多くの人はこうしたことを知らないで、多くの知識や技術や科学などによる人類の未来の可能性を信じ期待をしてます。
しかし、突然の終わりを迎えることになるのです。
あたかも、ある日ある時突然「心不全」や「脳卒中」で死んでしまうようなものです。
その人はその時までは普通に活動しているのです。
あなたが「信者」なら、信仰に於いて忠実である点で常に注意し警戒を怠らないことです。
これは人間の努力で成し遂げることが出来る「運」のようなものです。
努力しても必ずしも成功するとは限らないからです。
それゆえ「細心の注意と振る舞い」が必要なのです。
一度の失敗=罪で永遠に終わりを迎えることさえあるのです。
信仰は誰でもが「無償で手に入れる」ことが出来るものです。
しかし、
それを維持するためには「努力と様々な試練に打ち克つ必要がある」のです。
世界と社会がいくら多くの情報や最新の技術や道具を手にいれても「それらは、生き残るためには無価値なもの」です。
こうしたものは信仰という点においては「邪魔なもの、欲望を芽生えさせる誘惑」なのです。
誘惑により欲望が芽生え、欲望は孕んだ時に罪となりそれを成し遂げた時に死を生み出すと言ったイエスの異父兄弟ヤコブの言葉にある通りです。-ヤコブ1:14-15