知恵を求める人のためのブログです。
未成年の時のバプテスマは有効となるのでしょうか。
はじめに、この記事は長いです。
なぜなら、考察すべき事柄が多いからです。
「バプテスマ」というテーマにはいろんな意味が含まれており、加えて、現代の人々にもそれが求められているか否かに対する明確な根拠はあるもののその意味は単純ではないのです。
辛抱して最後まで読んで頂けると「あなたの益」になります。
バプテスマに関しては、今は滞っていますが、「聖書の見解-第33回(バプテスマ)」のところで詳しく述べることにしています。
ですから、今回は必要な点だけに留めたいと思います。
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バプテスマというと、
「献身の公の表明」とか「悔い改めの象徴」とか「罪からの清め」などと関連して用いられる言葉です。
そもそもにおいて、
普通の人、犯罪を犯していない人は「罪の意識」がありません。
聖書を学んで、「すべての人は罪人だ」と言われても実感はないものです。
いわゆる「不完全」は、「物事が上手く行かない」ことや「失敗」「誤ち」などを総合して使っている言葉です。
これらに加えて「身体的な容姿」などが「理想(人間が決めた基準)」でないことについても言う場合があります。
キーボードの入力の誤り、誤字脱字、言い間違いなどでも使います。
しかし、誰もこうした事柄に関して「罪」があるなどとは考えません。
また、誰も病気や事故やけがなどについても、それが「罪」のせいだと考える人はいません。
聖書では「病気や死の原因や律法に完全に従えないこと」を「罪=不完全」などとしていますが、クリスチャン以外でこうしたことを認識している人はいません。
カトリックやプロテスタントの信者でも、自分の過ち(犯罪や他人に対する罪の意識が強い場合を除いて)を罪だと考えません。
また、ものみの塔のエホバの証人のように、
聖書を学びこうしたことを「知識としては知っていても実感はない」ものです。
(頭で理解していると思っているだけなのです。)
もし、こうしたことを日々認識していたら、おそらく、「スムースな日常生活や人生」を送ることは出来なくなってしまいます。
このように、人は犯罪者などでもない限り「罪を、自覚も認識もしていない」のが実情なのです。
仮に自覚も認識もしていたとしても「自分ではどうしようもない」ので、それ以上考えることをしないものです。
ですから、「罪の清めのためのバプテスマ」を受けることは、一般的には有り得ないことです。
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確かに、完全な人はいませんので、いわゆる過ちを犯さない人は一人もいません。
これは、誰しもが認識している周知の事実です。
そういう意味で「罪人(つみびと)」ですが、一般的に「過ちは罪とは考えないもの」です。
過ち=失敗を罪としたらな、人は日々、あるいは、時々刻々逮捕されることになります。
しかも、誰がその人の罪を立証し逮捕するかという問題も残ります。
従って、「罪人(つみびと)」と言われてもその実感は誰にもないのです。
そういう人が「罪の許しのためのバプテスマ」を受けるでしょうか?
一般的には「否」です。
ですから、
当然、罪から清められるため、罪を赦されるためにバプテスマを受けることも一般的にはないのです。
一般的に「罪人」とは、法を犯した者「犯罪者」のことを指して用います。
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「以前の生き方」において、あるいは、犯罪などを犯した人が「悔い改めの象徴」としてバプテスマを受けることはあります。
こうしたことは「クリスチャン」になろうとする人に見られる行為です。
これに先立って、そのクリスチャンは「告白」がなされるのが一般的です。
(カトリックなどの信者)
エホバの証人がバプテスマを受ける時、こうした「告白がなされることはありません」。
以前の犯した罪は「イエス・キリストに信仰を働かせ、バプテスマを受ける」ことで「許される」あるいは「罪に問われない」と教えているからです。
つまり、いわゆる真理を知らなかった時の罪は、自動的に許されると言う考えです。
実際、世間でも「知らなかったことは許される」場合が多いものです。
聖書の中でも、サウロはイエス・キリストの弟子たちを捕まえては投獄していましたし、ステファノの殺害の現場にもいました。
しかし、イエスが幻でサウロの前に現れた後「改宗」したサウロ、後のパウロも以前の罪は問われませんでした。
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更に、世の、いわば、事物の体制での「考え方」「自由で利己的な考え」などを改め、真の神の考え、教えに従った生き方をすることの表明としてのバプテスマは、いわば、「神への献身」と言う意味でバプテスマを受けることはあります。
これは、いわゆる「悔い改め」ということですが、「罪の悔い改め」とは異なるものです。
人生の於いて、「生き方を改める」ということの表明です。
ものみの塔のエホバの証人たちが受けるバプテスマはすべてこのバプテスマです。
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では、未成年の男女は、以前の生き方に関して「罪の悔い改め」や「(生き方を)悔い改める」ことはあるでしょうか。
普通、罪の意識がありませんし、人生の何たるかも分かっていないので有り得ないことです。
未成年の子供たちは、いわゆる「親の脛(すね)をかじって」「親の保護の下」に、ある意味無責任で生きています。
それゆえ、それまでの人生は、何も考えずに自由に振る舞い、また、「大事なこと」は親に言われてやって来ただけのことです。
幼い時(小、中、高校生などの時)に、信仰心を抱き「献身の表明」としてのバプテスマを受けることはあります。
そのために、
ものみの塔の、いわゆる「バプテスマの討議」は「知識の確認」であり、それらの質問に対して正しく答えることは、幼くても可能です。
質問の意味を正しく理解していなくてもです。
仮に、理解していたとしても、それは「頭」「理屈」「知識」「推論」によるものです。
この場合は、正確な知識というより「気持ち」で受けていると言わざるを得ません。
なぜなら、人生経験の殆どない未成年が「献身の意味」を本当に理解しているかは「疑問」だからです。
「責任ある献身の振る舞いを自らの意思で行う」というより「言われるからする」ことが殆どです。
ただ、未成年でもバプテスマを受けたということに対する、いわゆる「責任感」を強く感じる人はいるものです。
これを、本人は「神への献身」と考えている訳です。
しかし、それは、
聖書に、あるいは、神のおきてに従って生きていると思っていても、現実には、ものみの塔に従っているのです。
いわば、ものみの塔に献身したようなものです。
(ものみの塔は、神の霊的経路でありません。)
これで、本当の意味での献身と言えるでしょうか、答えは「否」です。
そういう意味では、未成年のバプテスマは「無効」だと言わざるを得ません。
いわゆる宗教2世たちのある者たちは「バプテスマを軽んじた振る舞い」をし、親に「反抗(幼い時や若い時にありがちな自己の欲求などによる)」し、より「自由」に生きようとし、世の影響を大きく受け、遂には、ものみの塔に対して「疑問」を抱き離れて行くのです。
(これは批判としてではなく、一般的な傾向としてのことです。気分を害したら謝ります。)
繰り返しますが、
宗教2世たちは「親たちほど」バプテスマや献身ということを理解していないのです。
ただ、「形式的」にバプテスマを受けたのです。
(そうでないと言う人もいると思いますが、自分の献身を正直に吟味しても否定出来ますか?)
ここで読者は注意して下さい。
ものみの塔が実施している、バプテスマを受けるための条件である「バプテスマの討議」は、
聖書による根拠はありません。
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聖書の中でも度々バプテスマに言及しているのは、新しく信者になった人々(大人でさえ)は「バプテスマの意味もクリスチャンとしての生き方、振る舞い、考え」などについて正確に理解していなかったので、
パウロやペテロやヨハネやヤコブなどが会衆に当てて手紙を書いてその人たちを教え諭す必要があり、それが記録として残っているのです。
クリスチャン・ギリシャ語聖書(新約聖書)の中の、使徒たちの活動からユダの手紙を読むと、クリスチャンとしての歩み、生き方及び信仰を持って生きることの難しさが良く示されています。
実際、バプテスマを受けても、各々自分の考えで行動し振る舞っていた人々がいたのです。
真理を正しく理解しないこのような人々はバプテスマを受けても「救い」に至らないことも示しています。
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では、バプテスマとは一体何なのでしょうか?
それは「神への献身の表明(信仰の生き方)」「悔い改めの象徴(以前の世の考えでの生き方を悔い改めたことの表明)」あるいは「罪から清めること(アダムから受け継いだ罪、自覚のない罪の許し)」「イエス・キリストの贖いの犠牲(アダムから受け継いだ罪を贖うこと)に信仰を働かせたことの表明」なのでしょうか?
いずれにしろ、「自分の意思表示」の行為であることには違いはありません。
では、現代の人々がバプテスマを受けるべきなのでしょうか、その必要があるのでしょうか?
こうしたことを考えてみたいと思います。
実際、聖書の中ではバプテスマに関して「様々なバプテスマ」の考えがあることが記されていますが、これを、一言で説明することは困難です。
それでも、いろんな場面で出て来る「バプテスマ」という言葉は、「救い」に関連したことばであることには違いはありません。
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聖書に記されているバプテスマに関しては、
1 ユダヤ人がイエス・キリストを迎えるに当たり、律法はイスラエル人たちに対する「養育係」の
役目をしていたので、その律法を守り行うことが出来なかったことに対する「悔い改めのための
バプテスマ」を受けさせるよう神がヨハネを遣わしました。
-マラキ3:1、ルカ1章、3章、7章、ヨハネ1:6、23
これが、バプテストのヨハネのバプテスマです。
ユダヤ人のためのバプテスマなので、現代の人々に対するものではないことは明白です。
律法下にあったユダヤ人に対しては悔い改めのバプテスマです。
律法はキリストに導く養育係(ガラテア3:24)と言われているように、ユダヤ人は律法を守り行うことでキリストを迎える備えが出来ていなければなりませんでしたが、ユダヤ人の意識の中にそれがなく備えが出来ていなかったので、そうした生き方を改めるようにと警告し、それを受け入れた証としてヨハネにバプテスマを施すように神が命じたのです。
「律法を守り行う」ことが律法の意味するところの預言に対する「信仰」であり、それによってユダヤ人(イスラエル人たち)は神により「義」と見なされたということです。-ガラテア3:24
2 当時は、神の王国の14万4000人を集め、彼らを「神の養子」として天で霊者として復活しイエス
と共に地に対して王とならせることが「弟子たちを集める目的」でした。
そのため、聖書で記されているバプテスマの内、バプテストのヨハネによるバプテスマを除けば、
すべて「神の王国の人々」に対するものです。
また、彼らが受けるバプテスマには「いろいろなバプテスマ」がありましたが「死と復活」が関係
していました。
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従って、
その他の人々に関するバプテスマに関しては「直接、受ける必要」を述べた個所は1か所しかありません。
イエスは次のように述べています。
「18 すると,イエスは近づいて来て,彼らにこう話された。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。
19 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,
20 わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。
-マタイ28:18-20
これに関連して、更にイエスはマタイ24章で、
3 [イエス]がオリーブ山の上で座っておられたところ,弟子たちが自分たちだけで近づいて来て,こう言った。「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。
4 そこでイエスは答えて言われた,「だれにも惑わされないように気を付けなさい。
5 多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがキリストだ』と言って多くの者を惑わすからです。
6 あなた方は戦争のこと,また戦争の知らせを聞きます。恐れおののかないようにしなさい。これらは必ず起きる事だからです。しかし終わりはまだなのです。
7 「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震があるからです。
8 これらすべては苦しみの劇痛の始まりです。
9 「その時,人々はあなた方を患難に渡し,あなた方を殺すでしょう。またあなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう。
10 またその時,多くの者がつまずき,互いに裏切り,互いに憎み合うでしょう。
11 そして多くの偽預言者が起こって,多くの者を惑わすでしょう。
12 また不法が増すために,大半の者の愛が冷えるでしょう。
13 しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。
14 そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです。
-マタイ24:3-14
と述べています。
「王国の良いたより」には、ユダヤ人体制の滅びる点も含まれると考えられます。
そうした点を含めた「王国の良いたより」はクリスチャンの苦難と共に人の住む全地で宣べ伝えられると預言されたのです。
これは、現代の人々にも関係のある事柄です。
加えて、
ヨハネへの啓示7章に出て来る「大群衆」は14万4000人(囲いの中の羊)に証印を押された後の出来事として、「大患難から出て来る者たち」(囲いの外の羊)で、彼らは「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」と述べられている意味を考慮しなければなりません。
「大群衆」は「生きたまま大患難」を通過する人々であると考えられます。
(来たではなく、来るという表現になっている点に注意して下さい。)
この「大群衆とは一体だれのこと」でしょうか?
こうした点について考える必要があります。
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では、神の王国の人々以外の人々がバプテスマを受ける聖書の根拠は何なのでしょうか。
実際、カトリックでもプロテスタントでも他の宗派でも「バプテスマ」を施しています。
正確な意味を理解していなくても「行っている」ことは事実です。
いわば、「形式的」に受けているのです。
ものみの塔は「献身の表明」としてのバプテスマを施していますが、そのための聖書の明確な根拠を示してはいません。
献身、贖いの犠牲、罪など幾つかの点に関連して言及してはいますが明確な根拠は示してはいないのです。
ただ、神の王国の人々の受けるバプテスマに倣う者としてバプテスマを受け、神に対する献身の表明をすべきだと言っているのです。
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イエスの言われた「囲いの中の羊」に関する【様々なバプテスマ】には数多く言及されていますが、「囲いの外の羊」についてのバプテスマに関しては、【その詳細】は殆ど言及されてはいません。
唯一示されているのが、
マタイ28:18-20です。
「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。
19 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,
20 わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。」
このイエスの言葉から分かるように、
1 ユダヤ人だけではなく、すべての国の人々にバプテスマを施すようにと命令しています。
これは、宣教活動がイスラエル近辺だけではなく世界中の拡大することも意味しています。
2 父と子と聖霊の名においてバプテスマを施すようにと言われました。
「名において」とは権威を示しており、父と子と聖霊との名においてバプテスマを施すということ
は、これらの権威によってバプテスマを施すことを意味しています。
従って、バプテスマを受ける人は「この権威」に従うということの表明となるということです。
3 その後、イエスが弟子たちに命令した事柄すべてを守り行うように教えなさいと言われていま
す。
ここで注目すべき点は、バプテスマによって救われるとは言っていないことです。
つまり、救いはその後の信仰の歩みに掛かっているからです。
ある人は、バプテスマを受けたので「救われる」と考えていますが、それは「間違い」なのです。
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では、誰がこのバプテスマを受けるのでしょうか?
「囲いの中の羊」は囲いが示しているように、その数は限定されたものでした。
一方、「囲いの外の羊」は囲いがありませんから、その数は限定されてはいません。
これと符合するのがヨハネへの啓示7章に出て来る「大群衆」です。
啓示7:9-17
9 これらのことの後,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。
10 そして大声でこう叫びつづける。「救いは,み座に座っておられるわたしたちの神と,子羊とに[よります]」。
11 そして,すべてのみ使いたちは,み座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが,彼らはみ座の前にひれ伏し,神を崇拝して
12 こう言った。「アーメン! 祝福と栄光と知恵と感謝と誉れと力と強さが,わたしたちの神に限りなく永久に[ありますように]。アーメン」。
13 すると,長老の一人がこれに応じてわたしに言った,「白くて長い衣を着たこれらの者,これはだれか,またどこから来たのか」。
14 それでわたしはすぐ彼に言った,「わたしの主よ,あなたが知っておられます」。すると彼はわたしに言った,「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。
15 それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげている。また,み座に座っておられる方は彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう。
16 彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に[冒されること]もない。
17 み座の真ん中におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」。
これは、いわゆる14万4000人に証印を押された後の出来事です。
そして、大患難から出て来る者たちと言っていることから、これから臨む事物の体制の滅びを生き残る人々であることを示しています。
大群衆という言葉の通り、その数は限定されたものではありません。
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大群衆に関する上記の記述が手掛かりとなります。
1 白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた
2 彼らの手には,やしの枝があった
3 大声でこう叫びつづける。「救いは,み座に座っておられるわたしたちの神と,子羊とに[よりま
す]」。
4 彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。
それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげ
ている。
5 また,み座に座っておられる方は彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう。
彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に[冒
されること]もない。
み座の真ん中におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は
彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう。
5項については、まだ将来の出来事であることは明白です。
これらを考察することで、「囲いの外の羊」「大群衆」がどのような存在なのかを吟味してみたいと思います。
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第一の視点は、やしの木(の枝)を手に持っていることです。
この意味を考えて見ましょう。
12 義なる者が,やしの木のように咲きいて,レバノンの杉のように大きく育つのです。-詩編92:12
27 そののち彼らはエリムに来た。そこには十二の水の泉と七十本のやしの木があった。それで彼らはそこの水のそばに宿営を張ることにした。-出エジプト15:27
37 「『これらは,あなた方が聖なる大会としてふれ告げるべきエホバの季節ごとの祭りである。それはエホバへの火による捧げ物をささげるときである。すなわち,犠牲としての焼燔の捧げ物と穀物の捧げ物および飲み物の捧げ物を日ごとの予定にしたがって[ささげるの]であり,
38 それはエホバの安息日とは別,またあなた方の供え物,すべての誓約の捧げ物,すべての自発的な捧げ物,すなわちあなた方がエホバに供えるべきものとは別のものである。
39 しかし,第七の月の十五日,その地の産物を集め入れた時には,あなた方は七日の間エホバの祭りを祝うべきである。その最初の日は全き休みであり,八日目も全き休みである。
40 そしてあなた方は,自分たちのため,最初の日に,壮麗な樹木の実,やしの木の葉,茂った木の大枝,奔流の谷のポプラを取るように。あなた方の神エホバの前で七日のあいだ歓び楽しむのである。
41 こうしてあなた方はエホバに対する祭りとしてそれを年に七日祝うのである。代々定めのない時に至る法令として,あなた方はそれを第七の月に祝うべきである。-レビ23:37-41
エゼキエル40-42章でエゼキエルに示された城壁と神殿に「ヤシの木」が数多く出て来ます。
7 そして[神]はわたしにさらに言われた,
「人の子よ,[これは]わたしの王座のある場所,わたしの足の裏を置く場所[である]。わたしはここに,イスラエルの子らの中に,定めのない時に至るまで住むであろう。-エゼキエル43:7
「人の子よ,あなたとしては,この家についてイスラエルの家に知らせよ。彼らがそのとがのゆえに辱めを受けるためである。彼らはそのひな型を測らなければならない。
11 そして,もし彼らが自分のしたすべてのことのゆえに実際に辱めを受けるなら,家の平面図,その配置と出口と入り道,そのすべての平面図とそのすべての明細,そのすべての平面図とそのすべての律法をあなたは彼らに知らせ,彼らの目の前で書け。それは,彼らがそのすべての平面図とそのすべての明細を守り,それらを実際に行なうためである。
12 これが家の律法である。山の頂の周囲の領地全体は極めて聖なるものである。見よ,これが家の律法である。
-エゼキエル43:10-12
この後、幻は、十二部族の土地の分配とエホバへの祭りと祭壇についても示しています。
これらを考察すると、
「ヤシの木」「ヤシの木の枝や葉」は、
神殿の中の壁や門や扉などのヤシの木の間のケルブの彫り物、
「ヤシの木」の立ち姿は「真の崇拝者の毅然とした立ち姿」の象徴、
荒涼とした砂漠の中の「オアシス」「癒しの場」「休み場」、
エホバへの祭りの時の「喜び」を表すもの、
を示していることが分かります。
また、
イエスがエルサレムへ入城した時、人々はやしの木の枝を取って「歓喜」を表しています。
ヨハネ12:12-13
12 次の日,祭りに来ていた大群衆は,イエスがエルサレムに来られることを聞くと,
13 やしの木の枝を取って彼を迎えに出て行った。そして,大声でこう叫びはじめた。「救いたまえ! エホバのみ名によって来たる者,イスラエルの王こそ祝福された者!」
これらの事柄の故に、
大群衆が神と子羊の前に立っている時、エホバの崇拝者としての毅然とした立ち姿を表しており、その手に「ヤシの木の枝」を持っているのは崇拝と癒しと歓喜としてふさわしいことだったと言えます。
「ヤシの木の枝」の意味が分かったとして、大群衆がそれを手に持って(もしかすると、高く掲げているのかも知れません)いることの「象徴」は何なのでしょうか?
「ヤシの木の枝」を手に持つことは、「喜び」「癒し」の象徴ですから、
現代でそれを可能のするのは「聖書」だけと考えられます。
つまり、
大群衆が「ヤシの木の枝」を手に持っているということは、文字通りには聖書を手に持っていることを示しており、
霊的にはその著者である神に信仰を働かせていることを示していると考えられます。
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第二の視点は、「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」点について考察してみたいと思います。
これが、大患難から出て来る、つまり、大患難を生き残るため「条件」でもあるということが分かります。
まず、「長い衣」に関して。
出エジプト28章
「またあなたは,あなたの兄弟アロンを,そしてその子らをも共にイスラエルの子らの中からあなたの近くに来させて,彼がわたしに対して祭司の務めを行なうようにしなさい。アロン,アロンの子らのナダブとアビフ,エレアザルとイタマルである。
2 そして,あなたの兄弟アロンのため,栄光と美のために,あなたは聖なる衣を作らねばならない。
3 それであなたは,わたしが知恵の霊を満たした賢い心の者すべてに話し,その者たちが,アロンを神聖なものとするためのその衣を作るように。彼がわたしに対して祭司の務めを行なうためである。
4 「そして,これらは彼らが作る衣である。すなわち,胸掛け,そしてエフォドとそでなしの上着と格子じまの長い衣,ターバンと飾り帯。彼らはあなたの兄弟アロンとその子らのためにこの聖なる衣を作らねばならない。彼がわたしに対して祭司の務めを行なうためである。
-出エジプト28:1-4、39、29:8、40:14、レビ8:7、13
(神は祭司に長い衣を着るように指示しています)
マルコ12章
38 また,その教えの中で続けてこう言われた。「書士たちに気を付けなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることを望み
-マルコ12:38
(長い衣は聖職者を示すものであり、書士たちはそのように見られることを好んだことを示していま
す)
マルコ16章
さて,安息日が過ぎた時,マリア・マグダレネと,ヤコブの母マリア,それにサロメは,そこに来て彼に油を塗ろうとして香料を買った。
2 そして,週の最初の日の朝とても早く,記念の墓に来た。その時,太陽はすでに昇っていた。
3 そして彼女たちは,「記念の墓の戸口から,だれがわたしたちのために石を転がしのけてくれるでしょうか」と言い合っていた。
4 ところが,見上げると,その石は,非常に大きなものであったのに,すでに転がしのけてあったのである。
5 記念の墓の中に入ると,ひとりの若者が白の長い衣をまとって右側に座っているのが見え,彼女たちはぼう然とした。
6 その者は彼女たちに言った,「ぼう然とすることはありません。あなた方は,杭につけられたナザレ人のイエスを捜しています。彼はよみがえらされました。ここにはいません。見なさい,彼を横たえた場所です。
-マルコ16:1-6
(み使いは白くて長い衣を着ています)
(参考:アブラハムの前に現れた三人のみ使いとロトの前に現れた二人のみ使いは「白くて長い衣」
を着ていたと思われます。
それゆえ、アブラハムとロトはこれらの人たちが神の使いであると判断したと思われます。
-創世記18、19章)
啓示3章
4 「『とはいえ,サルデスのあなたのところには,自分の外衣を汚さなかった少数の名があるにはある。彼らは白い[外衣]を着てわたしと共に歩くであろう。[それに]ふさわしい者だからである。
5 征服する者はこのようにして白い外衣で身を装うのである。そしてわたしは彼の名を命の書から決して塗り消さず,わたしの父の前またそのみ使いたちの前で彼の名を認める。-啓示3:4-5
(征服する者=神の王国の14万4000人は天に霊者として復活した時「白い外衣=白くて長い衣」で身を装っています)
啓示4章
4 そして,み座の周りには二十四の座が[あり],それらの座には,二十四人の長老が,白い外衣をまとい,頭に黄金の冠を頂いて座っているのが[見えた]。
-啓示4:4
(み座の周りにいる二十四人の長老たちは「白い外衣」をまとっています)
啓示22章
14 自分の長い衣を洗って,命の木に[行く]権限を自分のものとし,その門から都市の中に入れるようになる者たちは幸いである。
-啓示22:14
(長い衣は洗って「白く」する必要があることを示唆しています。)
啓示7章
9 これらのことの後,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。
-啓示7:9
(大群衆=囲いの外の羊は白くて長い衣を着ています)
次に、「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。
15 それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげて
いる。」-啓示7:14-15
に関して。
ヨハネ(一)1章
み子イエスの血がわたしたちをすべての罪から清めるのです。
-ヨハネ(一)1:7
ヨハネによる書
29 次の日,彼は,イエスが自分のほうに来るのに目を留めて,こう言った。「見なさい,世の罪を取り去る,神の子羊です!
-ヨハネ1:29
これらの聖句を総合して考えると、
長い衣は神に仕える者の立場を表しているということが分かります。
白いという表現は清い、あるいは、罪がない状態(罪を取り去って貰った状態、罪から清められた状態)を表しています。
洗うということは清めるという意味です。
血で洗うとは、その血によって清めることであり、それは、罪から清めることを意味しています。
従って、
白くて長い衣を着ているということは、
神に仕える立場の者がイエス・キリストの犠牲の血によって清められた状態を示しています。
それゆえ神のみ座の前に立っているということは、神がそれを認めたということを意味しています。
「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」ということは、
大群衆は自らの意思でそうしたという表現になっていることから、
「自分の意思でイエス・キリストの贖いの犠牲に信仰を持った人々」であるということです。
誰かに洗って貰って白くしたのではないのです。
また、モーセの時代からイエスの時代まで「長い衣を着る」ことは神の指示によるものでした。
しかし、現代は律法下にはありませんから、「長い衣を着る」ことは、「自分の意思」によるものです。
祭司ではありませんが、神に仕える者となることの「意思表示」をしたことを意味しています。
これは、ヨハネに与えられた「幻」ですから、文字通り「長い衣」を着ているとは限りません。
この「意思表示」とバプテスマは関連があると考えることは道理です。
ペテロは「バプテスマ(肉の汚れを除くことではなく,神に対して正しい良心を願い求めること)」と述べて、罪を取り去ることではないと言っています。-ペテロ(一)3:21
したがって、
自分の長い衣を子羊の血で洗って白くしたとは、
「バプテスマ」を受けることで、イエス・キリストの贖いの犠牲によって罪による汚れから清められると信仰を働かせたことを自分の意思で表明したことを示しています。
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第三の視点は、大声で「救いは,み座に座っておられるわたしたちの神と,子羊とに[よります]」と叫んでいるという点です。
ただ信じていて心に秘めているのではなく「叫んでいる」ということです。
つまり、
神のみ前で叫んでいるということです。
世の巷(ちまた)で叫んでいる訳ではありません。
誰に向かって叫んでいるのでしょうか?
それは、神と子羊に対してです。
つまり、この叫びは救いに対する信仰の表明でもあるということです。
ですから、
神に対して自分の信仰を声を出し大声で示している人々であるということです。
歌っている訳ではありません。
また、叫びとは「心からの願い」をも表しています。
更に、救われましたではなく、「よります」と言って未来形で記されていることから、
救いはまだ実現していないことも示しています。
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第四の視点は、「大患難から出て来る者たち」という点です。
このことから、まだ、大患難から出て来た訳ではないことも分かります。
従って、この大群衆は、まだ大患難を生きて通過する前の人々のことであり、その人々は「救いは神と子羊による」と大声で叫んでいるということです。
つまり、この大群衆は事物の体制の滅びの前にこのように叫んでいる人々であるということです。
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第五の視点は、「その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげている」点です。
白くて長い衣を来たこれらの人々は、いわば、祭司もしくは「僧職者」を表しています。
その祭司の立場の人々が神聖な奉仕を捧げているということです。
そして、「大群衆」は、今現在、地上で奉仕をしている人々であるということです。
神聖な奉仕とはエホバ神への「崇拝および仕えること神のおきてを守ること」を意味しています。
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このように考えて見ますと、
大群衆は、
事物の体制の滅びの前の今、
自分の長い衣を子羊の血で洗って白くし救いは神と子羊によると大声で叫んでいる人々であり、
神と子羊とのみ座の前にいることを許された人々でもあるということです。
やしの木の枝を持っていることから、こうしたことを霊的な癒しと共に神の神殿で神への神聖な奉仕を喜んでいる様を示しています。
この意味は、
自分の長い衣を子羊の血で洗って白くしたとは、
自分の意思で神への奉仕の立場(長い衣)を、「父と子と聖霊との名によってバプテスマ」を受けることで、イエス・キリストの贖いの犠牲によって罪による汚れから清められると信仰を働かせたことを表明した(子羊の血で洗って白くした)ことを示しています。
そして、彼らが神と子羊のみ座の前に立っていることから、それが神により受け入れられたことを示しています。
それゆえ、神の神殿(霊的神殿で、もしくは、天と地を包含した神の神殿)で、日夜神聖な奉仕(崇拝)を捧げることを許されているということです。
繰り返しますが、
これは、事物の体制の滅びの前の今の出来事のことです。
これらは、天ではなく地上で、今行われている事柄ということです。
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以上のことから、バプテスマを受けるべき根拠を示しました。
聖書を読むと分かりますが、バプテスマは「自ら望んで受けるもの」です。
-使徒たちの活動2:41、8:12、8:34-38
バプテスマとは、ペテロ(一)3:21により、
「神に対して正しい良心を願い求めること」であり、「これに相当するもの(八つの魂が無事に水=大洪水を切り抜けたこと、つまり、生き残ったこと。これは、一度死んで復活したことを象徴している)バプテスマが・・・イエス・キリストの復活を通して・・・救っている」と示されています。
文脈上これは、いわゆる天に行く人々のことです。
この意味は、
神に対する神聖な奉仕=正しい良心の面で完全にすること-ヘブライ9:9
良心を死んだ業から清めて、生ける神に神聖な奉仕を捧げられること-ヘブライ9:14
ただ一度だけで清められ(バプテスマを受けたこと)もはや罪の自覚を持たないこと-ヘブライ10:2
信仰の全き確信、真実の心を抱くこと-ヘブライ10:22
自分の良心を邪悪な良心から清められ(=正しい良心を抱くこと-ヘブライ13:18)わたしたちの体は清い水に浴した(み言葉による水の洗いをもって・・清める-エフェソス5:26)-ヘブライ10:22
であると聖書は示しています。
つまり、
バプテスマとは「良心を清めること、罪の自覚を持たないこと、信仰の全き確信、真実の心を抱くこと」によって神に神聖な奉仕を捧げることの「表明」でもあると述べているということです。
これを可能にするのが、イエス・キリスト命令による、父と子と聖霊との名によって受ける水のバプテスマです。
罪の悔い改めのためのバプテスマではありません。
それは、バプテストのヨハネがユダヤ人に施したバプテスマです。
実際、バプテストのヨハネのバプテスマを受けた人が、改めてイエスの名においてバプテスマを受けています。
使徒18:24-19:7
信者となって献身を示す場合、
キリストの死のバプテスマなど「意味の異なるバプテスマ」もありますので、
読者はこの点思慮深くあって下さい。
(参考:
パウロは自分は「キリストがわたしを派遣されたのは、バプテスマを施すためではなく、良いたよりを、ことばの知恵によらないで宣明するためであった」と述べています。-コリント(一)1:17)
それでも、パウロがバプテスマを受けた人の上に手を置くと聖霊が臨んだことが記されています。
-使徒29:1-7)
繰り返しますが、イエスがマタイ28:19、20でバプテスマを施しなさいとは言っていますが、「それで救われる」とは言っていないということです。
その次に、イエスが命令した事柄を守り行うように教えなさいと言われたこから、バプテスマを受けた後イエスの命令を守り行う必要があるということです。
バプテスマは「信仰の終わり」ではなく「信仰の始まり」なのです。
それゆえ、「終わりまで耐え忍んだ者が救われる者です」と言われたのです。-マタイ24:3‐14
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しかし、
例えば、カトリックなどでは生まれて間もない子供に洗礼(幼児洗礼)を施しています。
一方、プロテスタントは「自己決定能力が確立してから入信させるべき」との考えから幼児洗礼を認めていません。
ものみの塔のエホバの証人は、
幼い時に親に連れられて集会に行き、親と一緒に伝道活動をし、集会で注解などをし会衆や大会で手伝いなどをし、
バプテスマを受けるのが当然であるかのように見なし、仲間の信者から「バプテスマはまだか」などと良く言われたりするものです。
そのようにして、ついにバプテスマを受けたエホバの証人になるケースが多いことは周知の事実です。
そのため、思春期を迎えた頃や進学や就職時期になり「人生」を考えるようになった時、大抵の2世たちは「悩む」ものです。
その殆どがものみの塔の「指導」と異なる選択を望む場合です。
本当は大学へ行きたいのに「行かせて貰えない」
本当は異性や学友と友達になりたいのに「そうさせて貰えない」
本当は世の中で流行っている「音楽」などを聴きたいのに「そうさせて貰えない」
本当は自由に旅行などをしたいのに「そうさせて貰えない」
本当は観光地やディズニーランドのような所へ行って「思う存分遊びたい」のに「そうさせて貰えない」
本当は就職して収入を得たいのに「開拓奉仕を勧められた」
親が仕事で十分な収入を得ていないので、その子供たちも不便や不自由をさせられている、
などということはエホバの証人の中では日常茶飯事です。
人生経験が殆どない子供がバプテスマを受けたからと言って、すべてがテモテのようになる訳ではありません。
将来別の道に進むことは出来ないのでしょうか。
いわゆる宗教2世と言われる人たちが「悩む」所です。
信仰の歩みにしても、別に道もあることは明白です。
ものみの塔はそれを認めていません。
むしろ、学校を卒業したら「直ちに開拓奉仕に入るよう勧められる」ことが多いのです。
そうすることが、エホバとイエスに献身した者として最もふさわしい歩みであると「まことしやか」に勧めるのです。
良いことだけを話すのです。
「エホバが共にいて下さる」「エホバの助けが得られる」「生き残れる」「永遠の命が得られる」などと。
これは、ものみの塔の「思惑」です。
そうしなければならないという「聖書の根拠」はありません。
このようなものみの塔に乗せられて受けたバプテスマにそれ程重要な「意義」があるでしょうか。
そのバプテスマを本当に「意義」のあるものにするのは、その後の信仰の歩みです。
もし、未成年の信者は信仰の歩みを望まないのであれば、いつでも、普通の生活(自分では知らない世の生活)に進むことは出来るのです。
未成年者のバプテスマは「幼児洗礼」と同じことだからです。
未成年者のバプテスマにはそれ程の重大な責任が科せられている訳ではないのです。
バプテスマを受けることは誰かに促されてするものではなく、その意味を十分に理解した上で「自発的に受ける」ものです。
ものみの塔による「バプテスマの討議の質問」に「はい」と答えることと、その意味を十分理解していることとは別のことです。
「質問」に「はい」と答えることは誰にでも可能です。
信仰のない人でも可能なのです。
「バプテスマの討議の質問」は、聖書の根拠のないことがらです。
(内容ではなく、討議をすること自体についてです。)
あなたは知っていましたか?
エホバの証人であれば、それが「当然」と思っていませんでしたか?
ものみの塔は、バプテスマに「勝手に人間の基準」を付加したのです。
ですから、真の崇拝においては、幼児洗礼や未成年者のバプテスマは「無効」なのです。
ところが、ものみの塔と周囲のエホバの証人たちはそれを有効なものと見なし、会衆から離れること即ちエホバの証人としての歩みを止めることを「非難」するのです。
更に、
ものみの塔に属したエホバの証人でなければ「滅ぼされる」というのは「誤った教義」です。
狂言とさえ言えるかも知れません。
確かに、滅ぼされるという言葉の響きは「脅し」になり「恐怖心」を抱かせるものとなります。
しかし、人間はいつかは死ぬのです。
エホバの証人にとっては「滅ぼされる=復活のない死」を意味しますので「恐怖」でしかないと思います。
確かに聖書では不老不死、永遠の命の希望が記されています。
しかし、現実にそうした人を見た人は一人もいません。
それは、まだ「その時」が来ていないからです。
以前にも書きましたが、いわゆるハルマゲドンを生き残るのに、【偽預言者である】ものみの塔に属したエホバの証人でなければならなないなどとは考えられないことです。
むしろ、属さないで「信仰を保つ人」や神とイエスから見て「義なる者」が生き残るのです。
はっきりしていることは、
終わりの日、イエスが裁きの座に座った時、人々は右か左に分けられるということです。
その基準の一つが「イエスに信仰を働く者たちに【する】」ことです。-マタイ25:31-46
ものみの塔はこれをエホバの証人たちだけ、つまり、統治体や仲間の人々だけに適用し「互いに助け合うように」と指導しています。
ここが論点です。
イエスが「義なる者」と見なす人が誰かという点です。
イエスの兄弟のうちの最も小さな者とは一体だれのことでしょうか?
小さい者とは「幼子」という意味ではありません。
立場のことを言っています。
天の王国へ招かれている144000人は既に完了しています。
ということは、これら最も小さい者たちは「地上」には存在していないということです。
であれば、イエスのこの裁きの時に左右に分けられる基準はどこにあるのでしょうか?
生き残るのは明らかに、
イエスの兄弟たちとそれらの人たちに善を行う者「義なる者」たちだけということになります。
しかも、それはイエスが裁きの座に付く「終わりの日」のことです。
天の王国へ招かれている144000人は既に復活して天にいると考えられますので、理屈から言えば、これらの者たちは「共に存在しない」ということになります。
しかし、その少し前のイエスの言葉に注目する必要があります。
マタイ24章
3 [イエス]がオリーブ山の上で座っておられたところ,弟子たちが自分たちだけで近づいて来て,こう言った。「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。
4 そこでイエスは答えて言われた,「だれにも惑わされないように気を付けなさい。
5 多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがキリストだ』と言って多くの者を惑わすからです。
略
21 その時,世の初めから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難があるからです。
22 実際,その日が短くされないとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです。
23 「その時,『見よ,ここにキリストがいる』とか,『あそこに!』とか言う者がいても,それを信じてはなりません。
24 偽キリストや偽預言者が起こり,できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとして,大きなしるしや不思議を行なうからです。
25 ご覧なさい,わたしはあなた方にあらかじめ警告しました。
26 それゆえ,人々が,『見よ,彼は荒野にいる』と言っても,出て行ってはなりません。『見よ,奥の間にいる』[と言っても],それを信じてはなりません。
27 稲妻が東の方から出て西の方に輝き渡るように,人の子の臨在もそのようだからです。
28 どこでも死がいのある所,そこには鷲が集まっているでしょう。
(参考:これは、イエス・キリストの臨在が「誰の目にもはっきりと識別出来る」ことを示しています。)
29 「それらの日の患難のすぐ後に,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天のもろもろの力は揺り動かされるでしょう。
(参考:これは、イエス・キリストの臨在と共に、事物の体制に「大きな事変」が生じることを示しています。)
30 またその時,人の子のしるしが天に現われます。そしてその時,地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき,彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。
(参考:雲に乗って来るということは、文字通りには「人の子」を目の当たりには出来ないことを示
しています。
「しるし」でしかそれは分からないということですが、
すべての人はその意味は知らなくても「しるし」が生じたことは分かることを示しています。)
31 そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風から,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう。
(参考:「選ばれた者たち」とは啓示7章の「証印を押された者たち」と「大群衆」のことです。)
32 「では,いちじくの木から例えとしてこの点を学びなさい。その若枝が柔らかくなり,それが葉を出すと,あなた方はすぐに,夏の近いことを知ります。
33 同じようにあなた方は,これらのすべてのことを見たなら,彼が近づいて戸口にいることを知りなさい。
34 あなた方に真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません。
(参考:この世代を、ものみの塔は一世代(1914年当時生きていた人々)、つまり、一人の目撃証人
としていますが、
世代とは一人の人間ではなく、一つの「時代」を示したものです。
ですから、
今、1914年当時生きていた人々だけではなく、今生きている人々も含まれるのです。
この点でも、ものみの塔は【偽預言者】であることを暴露しました。)
35 天と地は過ぎ去るでしょう。しかしわたしの言葉は決して過ぎ去らないのです。
36 「その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も[知らず],ただ父だけが[知っておられます]。
37 人の子の臨在はちょうどノアの日のようだからです。
38 洪水前のそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。
39 そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在[の時]もそのようになるのです。
40 その時二人の男が野にいるでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。
41 二人の女が手臼をひいているでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。
42 それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなた方は,自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです。
マタイ24:3-42
これも弟子たちに言われた言葉の一つです。
この中で二人の男と二人の女のうち、各々一人は連れて行かれ他方は捨てられると述べ、ついで、弟子たちには「それゆえ、ずっと見張っていなさい」とご自分の臨在に注意を払い続けているようにと述べています。
この男女は普通の日常生活をしている人たちであり、その内の一人が連れて行かれると述べていますが、この男女がイエスの弟子ではないことは明白です。
もし、イエスの弟子なら「王国の良いたより」を宣べ伝えて、弟子としバプテスマを施しイエスの命令を守り行うよう教えているはずだからです。
連れて行かれる方の男女は、いわば「救われる男女」と考えられます。
つまり、
イエスの弟子でない人々【も】救われるということを示唆しています。
ものみの塔に属することは、カトリックやプロテスタントに属することと同じことです。
共に滅ぼされる定めにあるのです。
信仰は個人的なことです。
上のイエスの言葉にあるように、集団に属しているから救われるという考えは間違っています。
「囲いの中の羊」は集団に属していますが、「囲いの外の羊」は集団に属してはいないのです。
それゆえ、囲いがないのです。
未成年の時のバプテスマはカトリックの「幼児洗礼」と同じで、それは「無効」です。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
最後に。
では、バプテスマを受けるのに「誰のところに行くべき」なのでしょうかという疑問が残ります。
それは、真の崇拝を行っている人のところです。
その人が見つからなければ「心でバプテスマ」を受けていても、実際のバプテスマを受けたのと「同じ」価値があると「考える」ことが出来ます。
つまり、心で「自分の意思表示」をすることです。
神もイエスもこれを「認める」ことは、神の「ご意思にも叶う」ことだからです。
それでも、その後の生き方を「信仰」の生き方にしている必要はあります。
追伸
父と子と聖霊との名によってバプテスマを受けることに関して。
「幼い子」に聖霊が注がれた例や聖霊が関与した「記録」は聖書にありますが、それは、特別な場合です。
参考となるのは、
サムエルとバプテストのヨハネとイエスは幼い時から神の霊とみ使いが関与しましたが、
これらの人は「特別」な人で、普通の人ではこのようなことは現実にないのです。
また、
ゴリアテと対峙した少年ダビデはおそらく20-30代であったと思われます。
その時、ダビデはまだ父の下で暮らしていました。
他にも特別な幾つかの場合が記録されています。
バプテスマのような「一般的」な事柄に関したはありません。
また、
聖書では「幼子」と言っても必ずしも「子供」とは限りませんが、一般的には子供のことです。
ですから、
「幼い子」が「長い衣」を着て、それを「子羊の血で洗って白く」することは出来ません。
なぜなら、祭司、あるいは、僧職者を表す「長い衣」を自らの意思で着ていないからです。
現代でも、霊的な意味でその立場にふさわしい「幼い子」は存在していません。
ただ、カトリックなどでは幼い子供に白くて長い衣を着せて「聖歌」を歌わせていることはありますが、聖書にその根拠はありません。