知恵を求める人のためのブログです。

ものみの塔では、いわゆるベテルで暮らしている人たちは、収入を得るための仕事をしていません
つまり、信者の寄付で生活しているのです。
こうしたことは、ものみの塔の世界本部で働く人や統治体の成員たちも同じです。

ものみの塔の組織の下の人々、末端の会衆の人々には、
寄付を求め、伝道活動を優先するように話し、生活のためにいわゆる全時間働く人を「霊性の低い人」と見なし、宣教に熱心な人たちを「誉め讃えて」います。

 

例えば、高校を卒業して就職をせずに「開拓奉仕」に入ることを「推奨」します。

そうすることが、エホバのご意思であり喜ばせることだと。

会衆ではそうした人たちを「称えて」時には会衆でインタビューしたり大会での実演などに用いられたりするものです。

こうした人たちの多くは生活資金はアルバイトで得ています。

 

大会などで講演などをする人たちは、皆「長老」と呼ばれる人たちです。

巡回監督や地域監督などを除けば、大抵は「開拓奉仕」をしていません

巡回監督や地域監督は、旅行しながらパウロのような奉仕=仕事をしている人たちです。

彼らは、一切生活のための仕事=世の中での仕事をしていません

 

ところが、開拓奉仕を勧める会衆の長老たちの中には全時間働いている人さえいることもあります。

 

こうしたことに反して、指導の任に当たってる巡回監督たち、地域監督たちに加えてベテルで暮らしている協会支部の奉仕者や責任ある立場の人たちは、収入を得るための仕事を全くしないで、

いわゆる寄付で生活をしてるのです。


イエスは次のように言われました。
マタイ23章
それからイエスは群衆と弟子たちに話して,こう言われた。
2 「書士とパリサイ人たちはモーセの座に座っています。
3 それゆえ,彼らがあなた方に告げることはみな行ない,また守りなさい。しかし,その行ないに倣ってはなりません彼らは言いはしますが,実行しないからです。
4 重い荷をくくって人の肩に載せますが,自分ではそれを指で動かそうともしません。
5 すべてその行なう業は人に見せようとしてするのです。彼らは,お守りとして身に着ける[聖句]入れの幅を広げ,[衣の]房べりを大きくしているからです。
6 また彼らは晩さんにおいては最も目立つ場所を,そして会堂では正面の座席を好み,
7 また市の立つ広場でのあいさつや,人にラビと呼ばれることを[好み]ます。
8 しかしあなた方は,ラビと呼ばれてはなりません。あなた方の教師はただ一人であり,あなた方はみな兄弟だからです。
9 また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなた方の父はただ一人,天におられる方だからです。
10 また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなた方の指導者はキリスト一人だからです。
11 あなた方の間で一番偉い者は,あなた方の奉仕者でなければなりません。
12 だれでも自分を高める者は低くされ,だれでも自分を低くする者は高められるのです。
-マタイ23:1-12

巡回する監督たちやベテルで暮らしている人たち、そして、世界本部で働いている人たちや統治体の人々は、彼らが「思っている」【霊性の低い人たち】が働いた人々の寄付で生活していながら、信者には伝道活動に熱心になるようにと言っているのです。

矛盾というより「異常」です。

背教」と言っても良いくらいです。

彼らはパウロの次の言葉をどのように受け止めているのでしょうか。
コリント(一)9:4-18
4 わたしたちには飲食する権限があるのではありませんか。
5 わたしたちには,ほかの使徒や主の兄弟たち,またケファと同じように,姉妹を妻として連れて歩く権限があるのではありませんか。
6 また,[世俗の]仕事をやめる権限がないのは,バルナバとわたしだけなのですか。
7 自費で兵士として仕えたりするのはいったいだれでしょうか。だれがぶどう園を設けてその実を食べないでしょうか。また,だれが[羊の]群れを牧してその群れの乳にあずからないでしょうか。
8 わたしはこれらのことを人間的な標準で話しているのでしょうか。律法もそう言っているのではありませんか。
9 モーセの律法の中に,「脱穀している牛にくつこを掛けてはならない」と書かれているのです。神が気にかけておられるのは牛のことですか。それとも,専らわたしたちのためにそう言われるのですか。
10 まさにわたしたちのためにそれは書かれたのです。すき返す者は希望をもってすき返し,脱穀する者はそれにあずかる希望をもってそうすべきだからです。
11 わたしたちが霊的なものをあなた方にまいたのであれば,肉体のためのものをあなた方から刈り取ったとしても,それが何か大それたことになるのでしょうか
12 他の人たちがあなた方に対するこの権限にあずかっているのであれば,ましてわたしたちはそうしてよいのではありませんか。しかしそうではあっても,わたしたちはこの権限を利用しませんでした。かえって,わたしたちはすべての事を忍び,キリストについての良いたよりに何の妨げも来たさないようにしています。
13 あなた方は,神聖な務めを行なう人たちが神殿のものを食べ,絶えず祭壇のことに仕える者たちが祭壇と分け合う分を持つことを知らないのですか。
14 これと同じように,主はまた,良いたよりをふれ告げる者が良いたよりによって生活することを定められたのです。
15 しかしわたしは,こうした[備え]を何一つ利用したことがありません。事実,わたしはこれらのことを,自分の場合にそうなるようにと思って書いたのではありません。[そうする]くらいなら,むしろ死んだほうがわたしにとっては良いからです―わたしの誇る理由をだれもむなしくすることはできません! 
16 わたしが良いたよりを宣明しているとしても,それがわたしの誇る理由ではないのです。わたしにはその必要が課せられているからです。実際,もし良いたよりを宣明しなかったとすれば,わたしにとっては災いとなるのです! 

17 もしこれを進んで行なえば,わたしには報いがあります。しかしそれを自分の意志に逆らってするとしても,わたしにはやはり家令の仕事が託されています。
18 では,わたしの報いとは何ですか。それは,良いたよりを宣明するに際し,良いたよりを価なしに提供し,良いたよりにおける自分の権限を乱用しないことです。

(参考:家令とは、イエスの弟子たちを指導、管理する人のことです)

 (補足)コロサイ1:25
 25 わたしは,神から受けた家令職にしたがってこの[会衆の]奉仕者となりました。それは,あなた方

 のため,神の言葉を十分に宣べ伝えるために,わたしに与えられたものです。

テサロニケ(一)2:9
9 兄弟たち,あなた方は,わたしたちの労と刻苦とを覚えているはずです。わたしたちは神の良いたよりをあなた方に宣べ伝えましたが,それは,あなた方のだれにも費用の面で重荷を負わせないようにするために,夜昼働きながらのことでした

テサロニケ(二)3:7-10
7 わたしたちにどのように見倣えばよいかは,あなた方自身が知っているのです。わたしたちは,あなた方の間で無秩序な振る舞いをせず,
8 まただれからもただで食物を受けたりはしなかったからです。むしろ,労と刻苦とを重ねて夜昼働き,あなた方のだれにも費用の面で重荷を課さないようにしたのです。
9 わたしたちに権限がないというのではありません。わたしたち自身を,見倣うべき手本としてあなた方に示すためだったのです。
10 事実,あなた方と共にいた時,わたしたちは常々こうも命じました。「働こうとしない者は食べてはならない」と。

11 ところが聞くところによると,あなた方の間で,ある者たち無秩序な歩み方をし,少しも働かないで,自分に関係のないことに手出ししているとのことです。
12 そのような人たちに,主イエス・キリストにあって命じまた勧めます。静かに働いて,自分の労によって得る食物を食べなさい

更に、
使徒18:3
3 職が同じだったのでその家に滞在し,こうして彼らは[共に]働いた。天幕作りをその職としていたのである。

使徒20:34
34 この手が,わたしの,そしてわたしと共にいる者たちの必要のために働いたことを,あなた方自身が知っています。

 

コリント(一)4:11、12
11 今この時に至るまで,わたしたちはずっと飢え,また渇き,着る物に乏しく,こづき回され,家もなく,
12 手ずから働いて労しています

テサロニケ(二)3:8
8 まただれからもただで食物を受けたりはしなかったからです。むしろ,労と刻苦とを重ねて夜昼働き,あなた方のだれにも費用の面で重荷を課さないようにしたのです。

コリント(二)11:8-10
8 わたしは,備えられるものを受け入れることによってほかの会衆からは奪い取り,こうしてあなた方に奉仕しました。
9 そして,あなた方のもとにいて窮乏したときでも,わたしはだれに対しても重荷とはなりませんでした。マケドニアから来た兄弟たちがわたしの欠乏を満ちあふれるほどに補ってくれたからです。そうです,わたしは何事においてもあなた方の重荷にならないようにしましたし,[これからも]そうします。
10 アカイア地方におけるわたしのこの誇りを何ものも阻みえないということは,わたしの場合,キリストの真実なのです

ものみの塔のいわゆるベテルで生活している人たちや巡回監督たち、特別開拓者たちなど寄付で生活している人たちは、
ものみみの塔がそのようにしたのであり、これは「背教」の一つです。

「だれからもただで食物を受けたりはしなかった
「労と刻苦とを重ねて夜昼働き,あなた方のだれにも費用の面で重荷を課さないようにした」

「窮乏したときでも,わたしはだれに対しても重荷とはなりませんでした

「わたしは何事においてもあなた方の重荷にならないようにしました」

わたしのこの誇りを何ものも阻みえない」
というパウロに見倣うべきなのです。

 

イエスはマタイ23章で言われました。

8 しかしあなた方は,ラビと呼ばれてはなりませんあなた方の教師はただ一人であり,あなた方はみな兄弟だからです。
9 また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなた方の父はただ一人,天におられる方だからです。
10 また,『指導者』と呼ばれてもなりませんあなた方の指導者はキリスト一人だからです。
11 あなた方の間で一番偉い者は,あなた方の奉仕者でなければなりません。
12 だれでも自分を高める者は低くされ,だれでも自分を低くする者は高められるのです。

 

ものみの塔の「長老たち」は、いわば「教える者」=教師であり、

旅行する巡回監督、地域監督、協会支部の上位の立場の人たち、世界本部の責任ある立場の人たち、

そして、ものみの塔の「要」である「統治体の人々」信者を「指導」する立場にいます。

彼らは、キリストの時代の「書士やパリサイ人」であり、「背教者」であることは「明白」です。

 

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ものみの塔の組織で「長老」「監督」あるいは「支部の調整者」「統治体」と呼ばれる人々は、

イエスが禁じたラビ」また「指導者」です。
 

ものみの塔の「教え」を受けたエホバの証人たちは彼らに従っているのです。

エホバの証人であれば、誰でもこうしたことを知っています

 

しかし、中には聖書の教えと違うではないかと「思っている」「疑念を抱いている」エホバの証人は大勢いるのです。

 

もしかすると、これを読んでいるあなたも疑念を抱いているその一人かも知れません。

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パウロは自分に倣うよう、イエスの弟子たちに命令しています。


ヘブライ13:7
7 あなた方の間で指導の任に当たっている人々,あなた方に神の言葉を語った人々のことを覚えていなさい。そして,[その]行ないがどのような結果になるかをよく見て,[その]信仰に倣いなさい
 

 (補足)コリント(一)11:1
 わたしがキリストに[見倣う者]であるように,わたしに見倣う者となりなさい
 (補足)テサロニケ(二)3:7
 7 わたしたちにどのように見倣えばよいかは,あなた方自身が知っているのです。わたしたちは,あな

 た方の間で無秩序な振る舞いをせず,

 

ここでパウロが言った「指導の任に当たっている人々」とは、

イエスに「直接」任命された「使徒たち」とパウロやバルナバのことです。

 

現代のものみの塔で「指導の任」に当たっている人々は、

イエスに退けられた書士やパリサイ人」と「同類」なのです。

イエスは、彼らの行いに倣ってはなりませんと言いました。

 

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ものみの塔やエホバの証人に対する批判の多くは事実としても個人的なことが多すぎます。
教理などで批判する人を殆ど見たことがありません。
私から見ればエホバの証人も彼らを批判する人も、どちらも五十歩百歩に見えます。

教理に関して、ものみの塔の公式HP以外、エホバの証人の発言が全く聞こえて来ません。

個人的な見解を述べることは禁止されており、時にはその発言が背教などと捉えられる可能性もあるからです。

真理を理解していないのに、疑問も許されないし、質問をすることさえしないのです。
これは異常なことです。

 

たまに、巡回監督が訪問して来た時に「質問」しても、既に明らかにされていること以外納得いく返答が返って来ることはありません。

知らないことは答えられないからです。

言うに事欠いて、必要なら「神が(答えを)与えて下さるでしょう」などと言ってごまかすのです。

エホバの証人の中には疑問に思っていることは沢山あるはずです。
なのに誰もコメントしない。

疑問や質問を投げかけ、また、組織を批判する方がむしろ健全な組織と言えるのではないですか。
ものみの塔は「人間の組織」ですから、疑問や批判によって「より健全な組織」に改善されていくことは道理です。
今のままでは決して「健全な組織」にはなりません。

より健全な組織」とは、
より「真理」に基づいた組織という意味です。

ものみの塔は「信者」の教理に対する疑問だけではなく組織への疑問や批判も許しません

ただ、社会問題化した時のみ、自分たちの考えを一方的に公表するだけです。

信条を曲げることも当然しません。

 

話し合いや議論そのものも全くしないのです。

こうして、ものみの塔は自分たちの教理や活動の「正当化」を「拒み続けている」のです。

 

教理に関しては、いわば「上意下達」の一方通行です。

しかし、

彼らは、神でもイエスでも使徒でもないのです。

間違いを犯す人間の集まりなのです。

 

これでは、「真理」を世界に徹底して広めていくことは出来ません

聞く人々の疑問や質問に答えて、そうした人々を納得させる「努力」をしていないのです。

 

今は、ただ時々関心を示す人たちや既にエホバの証人になった人たちに「一方的に、自分たちの教理を【受け売り】している」だけなのです。

 

これでは布教活動とは言えません。

単なる伝道活動でしかないのです。


イエスは書士やパリサイ人の「悪意ある質問」にも返答しています。
それは、真理を明らかにするためであり「神の栄光」のためだったからです。

ものみの塔では、
疑問があれば「質問」という形で協会に手紙を書くか雑誌や書籍の発行元へ手紙を書くしかありません。

電話では決して応答しません。
なぜなら、正しい返答を出来る人、あるいは、責任者がその場にいないからです。
つまり、日本支部には誰も返答出来る人が「存在」していないのです。
いわば、責任者のいない組織でもあるのです。
自分では何も決められないのです。
すべて、協会の世界本部(統治体など)に「お伺い」を立てなければならないのです。

もし、勝手に返答し、それが、教理と少しでも違ったり疑問であるというような発言をすると、
即、審理委員会が開かれ「排斥」(今は、排斥とは言わないようですが)となります。
元統治体の成員の一人であったフランズ(息子)のように。
異常な組織です。
しかも、その排斥の仕方が「いかにも手が込んでいた」ことは周知の事実です。
つまり、排斥に相当する「根拠」を探し、そのために周囲を、いわば、固めてから最後に当人に対する審理委員会を開き排斥に至らしめたのです。
如何にもアメリカ的です。

日本の組織ならこうしたことにはなりません。
アメリカの組織だからこうなるのです。

良い面もありますが、悪い面でもあるのです。

おそらく、ものみの塔は一般の人に対してメールでの質問や疑問を受け付けていません。
もし、メールで受け付けたらサーバーがパンクしてしまうでしょう。

仮に受け付けたとしても、返答にはかなり時間がかかります。


ものみの塔は独善的、独裁的な組織です。

現在組織に属している人たちは、「騙されている」のです。
洗脳されていると言っても過言ではありません。

 

ものみの塔は、信仰より組織を守る団体です。

ものみの塔は「善い」ことを「悪の口実」に使っているのです。
イエスに指摘された書士やパリサイ人と同じです。
彼らはイエスに退けられ、そして、誰一人救われませんでした。

今のエホバの証人たちは、なぜ、聖書を片手に組織から離れないのでしょうか。
なぜ、何時までも「沈む船」にしがみ付いているのでしょうか。

それは、真理に対する「確信がない」からです。
聖書より、ものみの塔の言うことに「頼るしかない」からであり、それゆえ彼らに従っているのです。

ものみの塔は正しい組織だと思い込まされているだけです。
 

それでも、彼らの多くはものみの塔を、おそらく、「完全には信じてはいません」。

ただ、他に行きようがないので集会に行っているだけとも言えます。
それは、彼らの発言や行状を見れば分かります。

ものみの塔の言うことのすべては「真理」ではないのです。
ですから、間違ったことを多くするのです。

信仰は個人の自由ですが、彼らに救いはありません
哀れみを掛ける必要もありません。

ものみの塔を「一時的に利用」すべきですが「いつまでも利用される」べきではありません。

 

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教えるということは知識を与えることです。
知識を受ける方は学ぶとい言います。

また、誰かを指導するということがあります。
これは、指導される人の行動や意識や考え方などを「変える」ことを意味しています。
つまり、
指導とは人を変える」ことなのです。

 

しかし、それが何時も正しいとは限らないものでもあります。
指導者の思い込み、独善などに加え悪意が含まれることもあるからです。

また、ある人は誰かの指導に従わないこともあります。
こうした人は少なくありません。
なぜなら、
人は自分が思っていることや考えていることと違うことは大抵の場合「したいとは思わない」からです。
誰かに指図されたり命令されたりすることは「嫌なのです

良く聞く言葉は、「言うことを聞け」というものです。
親は子供に、先生は生徒に、上司や部下に対して、時にこういうことを言うものです。

それは、子供や生徒や部下を従わせようとする場合であり考えなどを変えさせようとする場合です。

自己主張による意見の対立などというものもあります。
意見の対立とは、各々正しいと思っていることの「ぶつかり合い」でもあります。
自分の正しさを証明出来なければ、相手は納得しません。

しかし、納得すれば相手は「変わる」こともあります。
それでも、時には理解しても、感情的に「拒む」時もあります。

これは、その人の「誇り」「頑なさ」「容易に受け入れない気持ち」「単なる反発」「自分の考えに対する思い込みや独善」などが関わっているからです。

 

指導する場合でもこうした事柄に直面することもあるものです。

 

一般的に指導が受け入れられるには、

指導者が信頼されたり敬意を受けている必要があります。

これがないと、どんなに良いことを言っても受け入れられないものです。

 

指導に限らず友人などとの何気ない会話でも同様です。

 

あなたは普段何を心がけて話をしていますか?

単に、自分の思いを話しているだけですか?

それとも「思惑」があって話をしていますか?

 

+++++++++++++++++++++++++++++++++++

エホバの証人の会衆では、仲間としての思いや長老などの立場を尊重していますが、

信頼するには程遠いように感じます。

むしろ、陰では「批判」をしている場合が少なくないものです。

 

エホバの証人の特徴の一つに「義に過ぎる」というものがあります。

これは、ものみの塔がエホバの証人たちに、常に信仰において「義」を行うように求めているからです。

 

人間は失敗や過ちを犯すものでありながら、それらに対して「寛容さを示す」べきことを「ないがしろ」にしているからです。

勿論、表立って誰かを批判することはありませんが、「陰」では、誰かの振る舞いや言動や行いなどを噂をし、時に批判をしているのです。

 

義に過ぎる」ことは、エホバの証人の「悪い一面」です。

エホバの証人たちは、仲間のエホバの証人に対してでさえ「悪い一面」を「陰でつぶやく」のです。

 

これに対して、イエスはマタイ7章で次のように語っています。

7章
自分が裁かれないために,[人を]裁くのをやめなさい

2 あなた方が裁いているその裁きであなた方も裁かれることになるからです。そして,あなた方が量り出しているその量りで人はあなた方に量り出すでしょう。

3 では,なぜ兄弟の目の中にあるわらを見ながら,自分の目の中にある垂木のことを考えないのですか。4 また,どうして兄弟に,『あなたの目からわらを抜き取らせてください』と言えるのですか。しかも,ご覧なさい,自分の目の中には垂木があるのです。

5 偽善者よ! まず自分の目から垂木を抜き取りなさい。そうすれば,兄弟の目からわらを抜き取る方法がはっきり分かるでしょう。

(山上の垂訓の一部です)

 

会衆内には、

有能な人は何人もいますが、その能力が会衆のために発揮されることは殆どありません。

ものみの塔は、エホバの証人を画一的皆同じことをさせようとしているからです

会衆内での「多様性」は認められていないし、受け入れられていないからです。

それが明確に禁止されていないことでも、エホバの証人としての「常識」から外れることをすると、たちまち批判の的になったり、時には長老が「助言」を与えたりします。

明確な根拠が無いにも関わらずです。

こうしたことは昔から会衆内で行われて来たことです。

 

イエスは「だれでもわたしに仕えようとするなら、その人はわたしの後に従いなさい」と言われました。-ヨハネ12:26

つまり、付いて来るようにと言ったのです。

イエスは、「私から学びなさい」「私の追随者になりさない」「私は道であり真理であり命です」と述べていますが、-マタイ11:29、ヨハネ1:43、14:6

自分に「倣うように」「自分と同じようになれ」とは言っていないのです。

イエスは一人ひとりの人格を認めていたのです。

 

パウロは自分に「倣う」ようにと述べています。

コリント(一)11:1

パウロの人格ではなく、信仰の歩みについて述べていたのです。

 

現実には、

エホバの証人の長老たちの「指導=助言」も受け入れられていないことは多いものです。

中には長老を「心で批判したり侮っている」人も少なくありません。

ただ、表立って言わないだけなのです。

 

特に、若い長老たちその行状などから敬意も信頼も得られていないのが実情です。

そのための十分な資格を身に付けたので、その立場を与えられたのではないからです。

彼らの多くは、ただ、立場を与えられ「喜んでいる」のです。

ものみの塔に、長老という立場に任命されたからと言って「霊的に、進歩し偉くなった訳ではない」のです。

彼らは「思い違い」をしているのです。

 

経験の長い年配の【姉妹たち】からは、

知識も不足し人格も指導力も十分でない若い長老たちは「見下されている」のです。

彼らは、いわば「会場の案内人」に過ぎないように見られているのです。

 

ペテロとパウロは、イエスからはっきりと「任命」されたので

イエスの弟子たちを「指導」したのです。

 

イエスは次のようにも言われました。

マタイ23章

10 また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなた方の指導者はキリスト一人だからです。

11 あなた方の間で一番偉い者は,あなた方の奉仕者でなければなりません。

12 だれでも自分を高める者は低くされ,だれでも自分を低くする者は高められるのです。

 

追記

だからと言って、

ものみの塔や長老たちに従うべきだと言っているのではありません。

むしろ、彼らを批判すべきだと言っているのです。

ただし、聖書を根拠に批判するべきです。

それが出来なければ「黙っている」べきです。

 

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人はなぜ時に悩むのでしょうか?
それは、大抵物事を決められなかったり上手く行かない時があるからです。
自分一人の事でも、また、周囲の人との関係の事でも生じます。

 

そんなこと「当たり前じゃないか」と言うかも知れません。

しかし、

悩まない人もいることをあなたは知っていますか?

悩むことの裏返しは「自分の思うようにしたい」「失敗したくない=上手くやりたい」という気持ちの表れです。

動物は悩むでしょうか?
悩むことはありません。その時々の状況に反応するだけだからです。

状況に対する反応は「素早い」です。

それでも、すべてが上手く行く訳ではありません。
 

ライオンが何かに狙いを定め仲間と共に襲うことがあります。
成功すれば、食べ物にありつけ、上手く行かなけれ次の機会の伺います。
なぜ失敗したかとか食べるものがないどうしようなどとは考えません。

仲間の失敗を咎めたりしません。

空腹になれば、ただひたすら獲物を狙う機会を窺うだけなのです。
運悪く長い間餌にありつけなければ死ぬだけです。
悩むことは何もないのです。

人間はどうして、このライオンのように出来ないのでしょうか?
どうして、あれこれ考えるのでしょうか?

それは人間に理知が付与されているからです。

その理知は、自分の思い、考えを達成するように働きます。

欲しいものを手に入れること、やりたいことをすることに加えて、

相手に勝つこと、相手より大きいこと、速いこと、能力があること、試験に合格すること、好きな相手と結ばれることなどを追求するのです。

 

ある意味、これらには限界はありません。

こうしたことに対する「欲」「固執」に限りがないからです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++
感情について少し考えて見ますと。
動物にも感情はありますが、人間ほど複雑ではありません。
おそらく、動物は感情を抑えることはありません。
ただ、感情が収まるということはあります。

人間は大抵感情を抑えます。
それは、感情を顕わにすることは戦いなどの時には勇気、勇ましさや決意などを表すことでもありますが、

それ以外では、大抵、恥ずかしいことであり品性がないこととされています。

加えて周囲の人に動揺を与えたり蔑まれたりすることもあります。
更に、感情を顕わにすることで自尊心が傷付くこともあります。
怒りを爆発させ、後で恥ずかしい思いをしたことのある人も少なくないと思います。

 

大抵、他人の前での「怒り」はパフォーマンスであることが多いものです。

つまり、人に「見せている」「見られている」を意識して行っているものです。

 

また、「怒り」は相手に対する「威嚇」でもあります。

つまり、力の誇示なのです。

こうした「感情」を表すか否かに関して「悩む」人は殆どいません

その時の「衝動」で出るからです。

 

++++++++++++++++++++++++++++++++++

悩む時について考えて見ますと。
特に、自分がしたことで大きな損害を出したとか、大事件になったとか、誰かを傷付けたとか、誰かを死なせてしまったとか、入学試験や公務員試験や資格試験や入社試験などで不合格になった時などでは、動揺し感情が乱れ、人は悔い、また、悩むものです。

 

つまり、上手く行かなかったので「悩む」のです。

 

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私の場合を話します。
必定、必然を行う私は畑で野菜を作っていて上手く行かなくても悩むことはありません
ただ、するべきことをするだけで、上手く収穫が出来ればそれを家族や兄弟に分けて上げるだけのことです。

 

自分一人だからそう言えると言う人もいるかも知れません。

畑を貸してくれている人や畑の周囲の人との関係もあります。

通りすがりの人ですら、時に声を掛けて来ます。

無下には出来ないものです。


自分で野菜を作れば食費は助かると思う人もいるかも知れません。
しかし、野菜を作るにはお金が掛かるのです。
専業農家で生計を立てていても黒字は難しいものです。
まして、素人では食費が助かるどころではありません。
じゃ、なんで野菜を作るのか、買った方が楽で経済的ではないかという人もいるでしょう。

自分で野菜を作るのは、
自分で作った野菜の方が売っている野菜より安心出来るという点にあります。
また、野菜を作ることは重労働です。
体は疲れるしあちこち痛いし、時にはケガもするし、畑の細菌に感染するかも知れないし、獣による被害もありますし、虫にやられることもありますし、時に育てた野菜が病気になることもありますし、天候不順で作物が上手く育たないという時もあります。
それでも畑仕事をするのは、体を動かしたり次はこうしようなどと考えることが健康に良いからです。

畑仕事は一見すると単純に見えますが、結構頭を使うのです。
作物を上手く育てる方法を、土づくり、肥料の与え方や時期、栄養のバランス、水の管理などを覚えたり、雑草対策、獣対策、虫対策、病気対策、水不足対策、雨対策、寒冷対策なども考える必要があります。

それは、それなりの収穫をしたいからです。

このようにいろいろ考えることはどんな仕事をしていても同じです。

1年目は主に雑草対策に追われ、
2年目は作物を上手く作る方法を学び、
3年目は獣、虫、病気対策を学び、
4年目は畑の環境対策を学ぶ、

5年目になって、初めてすべてを考慮した計画的な農作業が出来るようになる、
という段階を着実に歩んでいます。

現段階は、まだ3年目ですが4年目の来年は畑の環境整備に当て野菜作りは一時お休みとなります。

こうした一連の出来事の中で「悩む」ということは一度もありません

家族間でも友人間でも同様です。

時に、不愉快な他人に遭遇する時もありますが、それでも、悩むことはありません

それは、必定、必然を行うからです。

こうして「悩まないように」しているからです。

 

つまりは、殆どすべてにおいて【動物のように】「なすべきことを知っている、理解している」のです。

私がこうした心境になれるまで長い年月を要しました。
何が必定、必然かを理解し得心するのにも時間が掛かりました。
多くの知識や経験が必要だったからです。
しかし、既に、人生も終わりに近づいています。

兎角、人間とはこうしたものです。
人生が終わりに近づいて初めて悟るのです。

 

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参考

伝道の書の筆者は人の行いすべてを調べ、「すべては、あるいは、すべてのものは、むなしい」と述べました。

伝道の書 1章
エルサレムの王ダビデの子,召集者の言葉。
2 「何とむなしいことか!」と召集者は言った,「何とむなしいことか! すべてはむなしい」。
3 人が日の下で骨折って働くそのすべての骨折りに何の益があろう。

12章

8 「何とむなしいことか!」と召集者は言った,「すべてのものはむなしい」と。
9 召集者は自分が賢い者となったばかりでなく,さらに絶えず民に知識を教え,また,熟考し,徹底的に調べたのである。それは,多くの箴言をまとめるためであった。

10 召集者は喜ばしい言葉を見いだし,真実の正確な言葉を書き記そうと努めた。

と述べ、人生がむなしいものであることを述べています。

 

人は何をしても何を成し遂げても結局は老いて死んで行くだけではないかということを「嘆いた」ように捉えられます。

「むなしい」からと言って「人の行いのすべてに価値がない」という訳ではありませんし、そのようにも言ってもいません。

 

無価値なものではなく、真に価値のあるものを見出すようにとも結論しています。

 

関心のある人は、

ダビデの息子であるソロモン、神により知恵を授けられた者が記した「伝道の書」を読んで、そして、考えて見て下さい。

 

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私の経験は、どんな仕事をしても様々な問題に対処する点で「参考」になると思います。

仕事をしていて、最大の問題点は「人間関係」です。

これに対処する「一つの方法」として、

感情を抜きにして「するべきこと」「しなければならないこと」を行うことで、

つまり、必然、必定を行うことで殆どの物事を悩むことなく済ませることが出来ます。

参考にして見て下さい。

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動物は決して悩むことも悟ることもありません

おそらく、天のみ使いたち霊者は、理知を付与されていますが悩むことも悟ることもないと思います。
初めから「完全な者」として造られているからです。

人間のように誕生、成長という過程はありません
初めから「完成した大人」として創造されているのです。

アダムとエバも同じです。

ただ、彼らの子孫だけが動物と同じように子供から成長するという過程を踏むようにされたのです。

では、神のよって創造されは最初の人間は悩んだでしょうか?
アダムは悩みませんでした。
エバが他の食べ物と同じように、善悪の知識の木の実を食べ物として自分も食べそれをアダムに差し出したからです。

疑うことすらありませんでした。
エバは蛇に唆されてから食べるまで時間が掛かっています
それはエバはその木の実を食べてはならないとアダムを通じて言われていたからです。
それゆえ、食べることを「ためらった」のです。
つまり、躊躇したのです。
悩んだのではありません

悩むとは、苦しむ、困る、思い煩うなどと定義されています。
エバは、苦しんでも困っても思い煩ってもいません。
ただ、躊躇しただけなのです。

しかし、誘惑に負けて食べて取り返しの付かないことをしてしまいました。

昔、「皆悩んで大きくなる」と言った人がいます。
「ソ・ソ・ソクラテス」(野坂昭如)の歌詞の中に出て来たフレーズです。

悩むことは人間の専売特許なのです。

悩むとは気を病むことです。

悩まない人は「人間卒業」です。

悩まない人の「心はいつも平穏」です。

そういう意味では、私は人間を卒業したことになります。
まだ、人生は続いていますが。

あなたはどうですか?

 

参考:完全とは自分の行いに関して「悩まない」ことであるとも言えるかも知れません。

ただし、事の是非は別です。

また、

完全とは常に「良いことを行う」ということを意味してはいません

この点に関しては、

おそらく、1か月以内に「完全とは何かを理解する」について投稿する予定です。

既に原稿は出来ています。

​​​​​​知恵を求める人のためのブログです。

人は成長するに従って肉体及び精神は変わっていくものです。

幼少期-無邪気
少年・少女期-自我の芽生え、異性を意識する、夢を抱く(反抗期、思春期とも言います)
青年期-現実を実感する(人間、大人としての自覚の芽生え)
壮年期-働き盛り(誇りと自尊心を意識する)
老年期-人生を悟る
大雑把に述べれは以上のように人の思いは成長に従って変化していくものです。

幼少期には義務も負担もなく精神的には自由です。
そのため、精神的抑圧が無ければ、大抵は「天才的な能力」を発揮するものです。
ところが、成長するにしたがって、知識も経験も増え「考える範囲が拡大」することで物事の善悪を理解するようになり、これに義務(大抵、親の躾など)が加わって来ると、それが原因で能力が低下してきます。
つまり、脳がいろんなことに対処するようになると普通の人になっていくのです。


こうした変化は誰にでも起こっていることです。

 

一般的に、

左脳は、言語、計算、理論など論理的、概念的な思考を行い、

右脳は音楽、幾何学、発想など芸術的な分野に関連していると言われています。

 

ですから、幼少期には左脳が未発達なので右脳が優位に働くので「天才的な能力」が現れ易いと言えます。

 

つまり、成長するにしたがって、右脳優位から左脳優位へと変化するのです。

子供は、こうしたことを自覚しませんが(おそらく、大人になってもこれを自覚出来る人はいないと思います)感覚的に「体や脳が感じて」いるものです。

 

参考:殆どの大人は右目(左脳)で見ますが、芸術家などは左目(右脳)で見ると思われます。

殆どの人はこれを自覚しませんし、実際、片目をつぶって確かめようとしても出来ません。

しかし、

パソコンなどを長い時間使っていると、大抵右目(左脳)の方がより疲れているものです。

年を取り目が悪くなると大抵は右目の視力が少し早く悪くなり物が見えにくくなるものです。

こうしたことのエビデンスはないとは思いますが「直感的」にそう考えています。

 

もし、自分の能力をサイコパス的に、あるいは、サバン症候群的に発達させたければ、

右目を覆い左目で見るようにすれば良いかも知れません。(個人的な見解です)

 

逆に、文章や計算や理論など思考能力を発揮させたければ、

左目を覆い右目で見るようにすれば良いかも知れません。(個人的な見解です)

 

いわゆる、ギフテッドはこれが極端に現れた子供だと思います。

しかし、

モーツアルトのように、希に幼い時の天才的能力が大人になっても継続する場合もあります。

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次に、結婚すると女性は変わります。
性的な交わり-気持ちに変化をもたらす(男性は殆ど気持ちに変化は起こりません)
妊娠・出産・子育て-子供中心の生活に変わる。

 

精神的および肉体的変化と環境の変化により、いわば「心」「感情」に変化が生じるのです。

女性は子供が産まれると、ある意味子供が「命」つまり自分の生活、考えが子供中心になって行くものです。

大抵は、

母親は子供と「一体感」を抱いているものです。

ですから、子供の成長における問題を自分のことのように思うのです。

ある意味、これを母性本能などと言ったりします。
子供が成長し家を出ても結婚するまでは気持ちに変化はないものです。

 

現代では、性を快楽の一つとして行い、望まない妊娠・出産をする人が少なくありません。

そのため、子供を邪険に扱い、時には、殺すことさえ行われています。

個人的には、このような人は「人でなし」であり、人間として生きる資格がないとさえ思います。

つまり、

極刑が最もふさわしいと考えます。

 

それでも、子供が結婚し子育てから解放されると再び夫や自分に目が行くようになります。
ここからが、本当の夫婦二人の人生の始まり、あるいは、自分の「自由な人生」の始まりと言っても過言ではありません。
つまり、夫婦としての役目が一段落ついて、これからは自分たち夫婦の時間となるのです。

 

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こうした流れと気持ちの変化について行けない、あるいは自意識や自我が強くこうした流れを受け入れない人は、
いわば、アウトサイダーとなり、社会で生きて行く上で様々な問題を抱えることになります。

どちらが善いか悪いかということではなく、人生とはこうしたものであり、人はこうしたことを幼い時に教えられる必要があるのです。

既成概念に従って生きるべきだと言っている訳ではありません。
自分で考え、信念を持って生きるべきだと言いたいのです。

責任ある(を取れる)大人に成長する必要があるのです。
そのためには、何も知らない幼少期に人生とはどういうものかという基本的なことを教えるべきなのです。

これを両親が担うには、その時の両親の年齢や人生経験では、また、仕事で忙しかったり生きるのに必死だったりするので、物事を知らな過ぎるのです。

この点最もふさわしいのは学校と言えます。

「三つ子の魂百まで」という言い習わしがあるように、

幼い時から、大学生になってからも、自立するまで「一貫して」教え込むべきだと考えます。

幼い時に教えられることは、そのまま「心のルール」のようになり、生涯抱き続けるものです。

ですから、この時「正しいこと」を教える必要があるのです。

事細かく教える必要はありません。

格言のように短い言葉を「繰り返す」だけでも良いのです。

 

皆さんの中にも記憶があると思いますが、

小学校や中学校では余り見かけませんが、高校や大学では、例えば「質実剛健」「慈愛」「博愛」などのような言葉を「校風」のように指導しているところもあります。

こうした言葉の本当の意味を実感していなくても、心に残っておりそれがその人を「導く」時もあるのです。

社会で暮らしている中で実感して初めて本当に理解する時が来るものです。

 

更に、昔の偉人たちの中には、寺子屋や自宅や尋常小学校などで、幼い時に「論語」を暗唱させられた人も多いものです。

幼い時には理解出来なくても、大人になって理解し、それば知らず知らずの内に「心のルール」になっているものです。

明治の初期に海外留学したある人物は「論語の暗唱」は記憶力を身に付けさせたとも言っています。

幼い時の記憶は左脳ではなく右脳に「蓄積」されると思われます。

これは、理屈ではなく感覚で覚えたものです。


しかし、何処の学校でもこうした人生の成り立ち、経過を教えているところは皆無です。
自然に分かって来るだろうと「勝手に決めつけている」のです。
ミッション系の学校でも教えていません。

今の世の中で、「人生をどう生きるべきかの基本を教えるところがない」のです。
人はこうしたことを家庭や学校生活や社会から「自然に学んでいる」のです。
そのため、常識とした概念では理解しても意識することなく「自分の思い思いに生きて」しまうのです。
その中の、いわゆるアウトサイダーが生活において「失敗」したり、中には生活に行き詰まり「犯罪」に走る人もいるのです。

独り善がりの人生を改め「宗教の道に足を踏み入れた人」だけがこうしたことを考えているかも知れませんが、そういう人とこういう話し合いをしたことはありません。

 

成長過程で経験しながら自然に分かって行くものだと考えていたら「遅い」のです。

なぜなら、その時点でどうすれば良いのか分らないからです。

生きて行く上で悩みや問題を抱えた時に、改めて人生というものを深く考えることが多いものです。

私は、ブログタイトルにあるように、誰でも抱える問題を克服し幸せな人生を送って欲しいと思って「様々な人生の教訓」を書いています。
何かの折に読んで頂き参考にして頂ければ幸いです。

エホバの証人の子供たちのように、有無を言わせず宗教の道を歩まされた、2世3世たちは、ある意味「哀れ」と言えます。
自分で自分の人生を決めていない」からです。
自分で決めたと「思い込んでいる」のかも知れません。
すべてはものみの塔の「思惑」でエホバの証人になっていることを「全く自覚」していないのです。

ある意味「洗脳」されているとも言えます。

ものみの塔はエホバの証人の親に「子供も同じ信仰の歩みをするように育てる」ことを繰り返し述べます。
それによって、家族が「分裂」しないで、親と同じ「命の道」を歩ませることが親の責務であるとも言っています。

こうしたことは「子供の人権を無視した行い」です。
例え、その宗教の歩みが「命の道」だとしても、決めるのは本人なのです。

親は越権行為をしているのであり、ものみの塔は聖書を悪用し、こうしたことを誘導しているのです。

明らかに人権侵害です。
冒頭に述べた、「人生の過程を踏むことを奪い取られている」のです。

 

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エホバの証人に限らず、宗教心を殆ど持たない普通の家庭でも、「親の言いなりになる子供」は多いものです。

聖書では子供は親に従順であるようにと教えています。
それは物事が上手く行くためだとも記されています。
しかし、ものみの塔の指導に従った親のエホバの証人の子供たちは「物事を上手く」やっているでしょうか?
答えは「」です。
会衆内でも外、つまり、世の中でも「上手く出来ていない」のです。

これは、聖書に記されていることが「間違い」だということでしょうか?

そうではありません。

一つには、当時と現代では「社会の状況」が全く異なるということです。

聖書が記された当時は、いや、聖書そのものは「神の目的に沿って」記されているので、
古代に於いてはイスラエルの律法に従う必要がありましたし、その中(律法に基づいて)で神は子供には親に従いなさいと命じているのです。

キリストが亡くなった後の使徒たちの時代に於いては、もはや律法の下にはありませんでしたがパウロは以前に記された聖書の中の言葉を引用し、新しくクリスチャンになった若者たちにも同様に進めています。
勿論、親たちにも「主と結ばれる」ことと「子供に対する指導の仕方」も教えています。

 

二つには、ものみの塔の、聖書の助言の適用の仕方が間違っているのです。

つまり、ものみの塔の教え、指導が間違っているということです。


エフェソス6:1-4には、
「子供たちよ,主と結ばれたあなた方の親に従順でありなさい。これは義にかなったことなのです。
2 「あなたの父と母を敬いなさい」とあり,これは約束を伴った最初の命令です。
3 すなわち,「それはあなたにとって物事が良く運び,あなたが地上で生き永らえるためである」。
4 また,父たちよ,あなた方の子供をいら立たせることなく,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい。」
と記されています。
(参考:この聖句適用に関しては、この一つ前のブログの最後の部分で少し説明していますので、そちらも参考にして見て下さい。)


ものみの塔はこれを自分たちに適用し、「単純」に同じようにするよう勧めています。

これが「間違い」なのです。

 

物事が上手く行く」とは、

何でも自分の思い通りになるということでしょうか。

そう「思い違い」をしている「親」や「若者」は多いかも知れません。

 

何でも自分の思い通りになる人、出来る人は「一人もいない」ことは誰でも知っています。

主と結ばれた親にとあるように、

パウロは「信仰の歩み」について話したのです。

しかし、信仰の歩みには様々な困難があることも聖書の中に記されています。

「物事が上手く行く」と言っても、すべてのことが「順調」という訳ではないのです。


終わりの日の今日、あらゆることが困難な時代になっています。
子供たちも単純にこの教えを「守る」だけでは「物事は上手く」行きません。

なぜなら、「親」の言うことがすべて正しく理に適っている訳でもないからです。

その点を理解せず、ただ、このパウロの教えに従うことは間違っているのです。

 

従順とは従うことを意味していますが、軍隊のように「絶対服従」を意味している訳ではありません

従順によって「家族の秩序」を保つことで、親の信仰の歩みの「負担」を減らすことを意図したものでもあるのです。

 

更に悪いことに、

最近では、2世3世が【身勝手な】親に反抗して「会衆を離れていく人」が多く、また、ムチなどに対する「社会の批判」を受けて、

ものみの塔は親に従順でない子供たちに対して「行き過ぎた指導」をしないようにと「注意」をしているかも知れません。

 

これも「間違い」です。

単に、社会の反応に対する「対処」しただけ(人間の考え)なのです。

 

不従順な子供に「ムチ」をするべきだと言っている訳ではありません。

親は常に子供の人権を尊重しつつ「正しく」導く「責任」があるのです。

 

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すべての人は「世」で生き、生活しています。
いわゆる「信仰の世界」は、この「世」とは別の次元にあります。
その「信仰の世界」の中では、パウロの言葉は有効です。

しかし、聖書を、これを「匠」に、つまり、職人のような知識と理解を持ち適用出来る親は「殆どいない」ことは明白です。

ものみの塔はエホバの証人がそのようになるようには教えていないからです。

自分で考え、判断できるように、また、いろんなことを話し合ったり議論出来るようには「教えていない」のです。

一方的に、ものみの塔の考えを「押し付けている」だけなのです。

加えて、ものみの塔自体も「正しい指導をしている訳ではありません」。
その指導者たちも「多くの過ちを犯している」のです。

 

ものみの塔は「自分の理解」に頼っているのです。

これは、背教です。

ものみの塔の「預言の解釈」は間違っていたことは証明されています。

 

参考:マタイ16:23

イエスはペテロに「あなたは、神の考えではなく、人間の考えを抱いている」と叱責したことがあります。

また、箴言3:5

「心をつくしてエホバに依り頼め。自分の理解に頼ってはならない。」

とも記されています。

この言葉をものみの塔にそのまま「当てはまる」と断言出来ます。

 

ものみの塔に頼るのではなく、神、すなわち、エホバにより頼む必要があるのです。


聖書に忠実である必要はありますが、ものみの塔に忠実である必要はないのです。

あなたはどう思いますか?

 

知恵を求める人のためのブログです。

本当の意味での人生の始まりはいつのことでしょうか?

受胎した時、誕生した時、成人した時、学校を卒業した時、それとも、親元を離れて独立した時?

あなたはいつだと思いますか?

 

考えによっては、すべて当てはまるように思いますが、基本的にはすべてを自分の責任で行えるようになった時と考えることが出来ます。

つまり、

他人に依存しないで生きることを始めた時と言えるのではないでしょうか。


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今の世の中では、身体的精神的及び学習(教育)などの成長の段階を過ぎると、皆就職し働かなければならない仕組みとなっています。
つまり、すべての人は親元から離れて独立することが「大人」と見なされる事柄の一つとなっています。
大人」の定義は様々ありますが、ここでは自分で責任を負えることとします。


従って、本当の意味での人生の始まりは、親から独立し自分のすることに責任を持てるようになった時であると言って過言ではありません。
 

大抵、その時は独身です。
その後、早く結婚する人もいれば、晩婚あるいは生涯結婚しない人もいます。

若いうちに結婚することは、特に、金銭的に楽ではないことは事実です。
子供が産まれれば猶更です。
(大抵、性欲が盛んな時期に結婚しますので、結婚後子供が誕生するの普通ですが、今では、妊娠あ

 るいは子供が誕生してから結婚することが多くなっています。
 そのため、結婚後直ぐに子供を設けないのは、夫婦どちらかに生殖の問題があるか意図的に子供を

 設けないようにしている場合が多いものです。)

若い時は、人生経験が少ない上に、若さの至りで、やりたいことや欲しいものなどが沢山あります。

ですから、若い時は難しい時を過ごさなければならないのです。

こうした中で、上手くやっている家族は少なくないものです。
おそらく、上手くやっている夫婦は、その夫婦の親や育った家庭と環境が良かったと思われます。

今の世代は親との同居をしない人の多くは、生活を難しいものにしています。
その反面、自由に生活しています。
最も、親との同居で上手く行かない人は、親の言うことを聞かない場合が多いものです。

自由に生きることは「満足」に繋がりますが、この自由が生活の質を下げている場合があるのです。
人はやりたいことのために何かを犠牲にすることも少なくないものです。

親との同居は「自分の生活や行動」をある程度「制限する」ものですが、それが「身の守りになっている」ことは多いのです。

不自由さよりこの身の守りの方が、遥かに勝っています
ところが、今の人たちは、自由な生活を求め好ましくない人生を送っている人が実に多いのです。

諸外国に目を向けて見ますと、
インド社会やイスラム社会のように「社会の固定した観念」に縛られるのは良い面もありますが悪い面も少なくありません。
彼らの社会では結婚しても親との同居は「当然」であり、家族が非常に多いのが普通です。
また、
家族愛が非常に強い国でもあります。

「親ロシア人」がプーチンやロシア政府に安寧の生活を求めるように、

イスラム社会ではイスラム教の教えで縛られますが女性や子供たちは従うことで安寧を享受しているのです。
(ただし、是非とは別のことです。)

一方で、アメリカなどは自由を求め、世の中ので成功を求める生活をしています。
アメリカでは成人した大人が親と同居するのは珍しいです。
(参考:アメリカやヨーロッパでは、生まれた子供ですら親と一緒に寝ることはありません。
 子供を尊重すると共に、子供に自立を促しているとも言えます。
 つまり、
 親の人生とは関わりなく、子供は独立して自分の人生を歩むべきだという考えが一般的なので

 す。)

しかし、アメリカ社会は世界で最も問題が多い社会です。

日本はアメリカ社会に益々近づいて家庭や社会での問題が増加しています。
日本人はアメリカとは考えも習慣も異なるのに、アメリカの真似をすることに大きな問題があるのです。

韓国などは親との同居が普通ですが、親の言うことが強すぎて「歪な家庭、社会」を形成しています。
異常と言っても良いくらいです。

中国は政府に問題がありますが、家庭は比較的健全だと言えます。
それでも最近は北京に住んでいてもすべてお金中心の生活で、お金がないと日本以上に苦しい生活を強いられます。
お金持ちも自分の資産や利益を維持するために精力的に活動をし続けています。
そこに緩みが全く無いようにさえ感じます。
国の政策のため、田舎で自給自足の、のんびりした生活も出来なくなって、労働による賃金が生活のために重要になってしまい、資格も技術もないそうした人々の生活を政府が苦しめているのです。
外面を繕うため内情を虐げている封建国家そのものが今の中国の姿です。

聖書によると、子供は親から離れて自立すべきであるとしています。
創世記2章
20 それで人は,すべての家畜と天の飛ぶ生き物と野のあらゆる野獣に名を付けていたが,人のためには,これを補うものとなる助け手は見いだされなかった。
21 そこでエホバ神は深い眠りを人に臨ませ,彼が眠っている間に,そのあばら骨の一つを取り,次いでそこの肉をふさがれた。
22 それからエホバ神は,人から取ったあばら骨を女に造り上げ,それを人のところに連れて来られた。
23 すると人は言った,
「これこそついにわたしの骨の骨,
 わたしの肉の肉。
 これは“女”と呼ばれよう。
 男から取られたのだから」。
24 それゆえに,男はその父と母を離れて自分の妻に堅く付き,ふたりは一体となるのである。
-創世記2:20-24

あなたはどうしたいですか?
親との同居を選ぶ、あるいは、選ばざるを得ない人ですか、それとも、親からの独立を選ぶ人ですか。
親と別居生活をするにもお金が掛かることです。
自立できるだけの収入があれば出来ますが、なければ、我慢して同居せざるを得ません。

おそらく、何処の国でも、自立することには困難が伴います。
それゆえ、借金を抱えたり、時には犯罪に巻き込まれたり、犯罪に手を染めたりすることがあることもあります。

普通、そうならないために必死に頑張るものです。

結婚は互いの行動などをある程度の制約しますが、互いの身の守りになっている場合が多いものです。
しかし、そのことを自覚している人は少ないものです。
むしろ、不満に感じ、ケンカになったり別居したり離婚に発展することも多くなって来ました。

神から男性への最高の贈り物女性だと思います。
女性にとっても男性は最高の助け手です。

昔から、「一人口は食えぬが(食べられないが)二人口は食える(食べて行ける)」と言ったものです。
夫婦二人で協力すると「貧しくても」生活は出来るものです。
互いの不足を補うことが出来るからです。

しかし、より自由な生活を求める人は「結婚」をしない方が身のためです。
このような人が結婚しても上手く生活が出来ないからです。
これは、お金のあるなしではありません。
お互い支え合い助け合うことが殆どないからです。
むしろ、互いに張り合っていることさえあります。

今の世の中、自立することには様々な困難が伴います。

しかし、殆どの人はこの困難に立ち向かい、自立した「新たな人生」の船出をしなければならないのです。

では、何がこの困難に立ち向かう助けとなるでしょうか。
それは、
人間の行動を規制する「法」です。
物事が上手く行くための「法」です。
これは個人の欲望などの自由をかなり制限するものです。
しかし、
幼い時からそれで物事が上手く行き平和に暮らすことが身に付いていれば全く問題はありません。
そうするのが普通、当然とする「道徳感」が出来ているからです。

ただ、今突然このような生活をしようとしてもそれには無理があります。
まず、がその「法」を理解し、子供が生まれたら「幼い時」からその「法」を徹底することで可能となります。

では、その「」とはどのようなものでしょうか。
大雑把に言えば、
「神の基準」を物事の善悪の基準としそれを守ることです。
子供にもそれを徹底させ、それが最善の方法であることを日夜教えることです。
加えて、
世の中の善い点悪い点に付いても教え、関わっても良いこととしてはいけないことを徹底させることです。
更に、
自我が芽生え思春期に入り、更には反抗期に入った時は「内から出る欲望が最も強い」時ですから、
「頭ごなし」に抑えつけるならば、必ず「失敗」することになります。
(参考:ものみの塔のエホバの証人は、こうしたことを書籍から親子共々学ぶことになりますが、
 親の子に対する教え方や実践の仕方は「形式」的なものです。
 そのため親は十分考えもせずに、ただ書籍に書いてある「ものみの塔の考え=人間の理解(考

 え)」に従おうとして、おそらく、殆どの親子は「失敗」をしています。
 この書籍【あなたの家族生活を幸福なものにする】や【若い人は尋ねる】に従って成功した親子は

 存在していないのではないかと思います。)

また、この時期になると「親に隠し事」をするようになります。
それは、自分のやりたいことが「悪いこと」もしくは「親に反対される」ことを分かっているからです。

誰でも、時には、親にも言えない「秘密」を抱えたりすることさえあります。

それが、「悪いこと」だと、その当人自身に「悪いことが起こる」ことは必定です。

若いとこうしたことが分かりません。
隠し通せると思っているのです。
しかし、悪いことは必ず表に出るものです。

これは自分自身がそうしてしまうのです。
自分の良心がそのようにさせるのです。

最も、良心が鈍くなっている「あくどい」人はそうとは限らないかも知れませんが。

また、周囲の人がそのことに気が付くかどうかも分かりません。
しかし、当人には分かっているのです。
大抵、その時には普段と違うことをするものです。

いずれにしろ、子供を育てることは難しいものです。
親の思い通りにはいかないものです。

無理やり「法」を教え込んでもそれが上手く行くとは限りません。
特に、社会がそれを当然と見なしていない場合には


++++++++++++++++++++++++++++++++++++
参考
古代イスラエルでは、親は子供に絶えず律法を教えなければなりませんでした。
それは神の命令でもありました。
殆どのイスラエル人はこれを守ったと思います。
しかし、上手く行きませんでした
結局、【他の神】を崇拝するようになり、ついには、滅ぼされてしまいました。
その原因は、主に異国の民との交わりであり異国の女性の誘惑でした。
これは、神の律法に反することでした。

あのダビデの息子のソロモン王でさえ妻を700人、そばめを300人も持ちそれが原因で【偶像崇拝】をするようになってしまったのです。
ソロモンの後、南のユダ王国と北のイスラエル王国の分裂の原因ともなったのです。
-列王(一)11:1-13

ダビデもヤコブ、後のイスラエルと同じく妻とそばめを持っていました。
ヤコブは罪を犯しませんでしたがダビデは罪を犯したため、その後生涯に渡って家族の問題を抱えることになってしまったのです。

しかし、興味深いのは、
それでも、神はダビデを見捨てたりはしなかったことです。
ソロモンは見捨てられましたが父ダビデの故に生前は罰を加えられませんでした。

ソロモンはダビデの遺言に従ってエルサレムに「神の神殿」を建てた人でもあります。
この神殿は二度破壊されています。
最初の破壊の時に、モーセの時に作られ受け継がれて来た「契約の箱」も失われてしまいました。
いつどのようにして「契約の箱」が失われたのかの記述はありません。
もしかすると、神が「契約の箱」の上の二つのケルブと共に取り去ったのかもしません。
当然、中に入れられていた「十戒」を記した石板も無くなったのです。

それは、イスラエル人が神に対して罪を犯したからです。
その罪は、異国の女との交わりと偶像崇拝でした。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++
今、世界中の犯罪の多くは、お金に関わることとに関することです。
この二つの要約されると言っても過言ではありません。

まことに、男にとって女は「魔物」でもあるのです。
女性蔑視ではありません。
それだけ、男にとって女性は「魅力的」だということです。
お金と女を天秤にかけてもその価値を判断出来ないとさえ言われます。

それでも、極端な考え、思いを抱かなければ、人生は大抵上手く始められるものです。
これに「神の法」が加われば、悪いことは最小限に抑えらえるのです。

 

特に、男は女の立場を超えた見方をしないことです。
どういうことかと言いますと、女を性の対象、性的欲望のはけ口とは見ないことです。
男女の性的交わりは、結婚した後子供を設けるための「一時的な手段」なのです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++
参考
女を最初に自らの性的欲望のはけ口にしたのは「あるべき居所を捨てた」天のみ使いたちです。
彼らが地上にこの「」を持ち込んだのです。-創世記6:2

 

そして、ノアの大洪水後にも、天に戻ったその「悪霊たち」はその「」と「偶像崇拝」を「地」にもたらしたのです。
天に戻ったみ使いたち元の場所には戻れず、神から見放された状態に置かれ、しばらくの間、ある意味、自由に活動したと思われます。
ただし、肉体を着けて地上に現れることは「許されませんでした」。
それゆえ、時には「人に取り憑いて」狂人にしたのです。

イエスの使徒たちの時代以後、これらの「悪霊たち」が「人に取り憑いた」ということがあったかどうかははっきりしていません

「悪霊たち」が「人に取り憑いた」のは、イエスが神の子であることの証のために、その時までは許されたのかも知れません。
加えて、イエスが悪魔の誘惑を退けたことで、悪魔が人を誘惑する「根拠」「理由」を失ったのです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++
結婚は恋愛ではなく「お見合い」にすべきです。
その方が双方共いわゆる「お墨付き」だからです。

恋愛は男女間を歪なものにしてしまいます。
それは「心の欲望の塊」のようなものです。
各々の立場を【ないがしろ】にするものでもあります。

各々の立場をしっかり守れば夫婦は大抵上手く行きます

こうしたことも、幼い時から人間の行動を規制する「法」「神の法」として教え込むことです。

もし、あなたがまだ親になっていなければ、この人間の行動を規制する「法」をまず学ぶべきです。

に教われば良いのでしょうか?
それは、
1 子育てを【上手くやった人】から学ぶ(倣うことではなく、知識として)ことです。
そうした親は「神の法」を知らなくても、それに近い「明確な基準や規則」を持っているものです。
【上手くやった人】とは、
 子供の能力を育てることで成功した人のことではありません。
 いわゆる「品行方正」で「清廉潔白」で「優れた道徳観」を持ち「礼儀正しく秩序を保つ」子供に

 育てた人のことです。
 

そういう人がいるのかと思うかもしれませんが、世界は広いのです。
必ずこれに該当するか近い人はいるものです。
加えて、特定の宗教に入っていない人であるべきです。

 

2 その上で「聖書」から正しい「神の法」を学ぶことです。
聖書の読み方は私のブログに中に示してありますので、それを参考にして見て下さい。

それから「結婚」をし「子供」を幼い時から、いわば「訓練」することです。

この二つは、欠かせません。
それも順番通りにすることです。
そうでないと、形ばかり聖書に合わせようとして「失敗」することになるからです。

もしかすると、【若い】あなたには理解出来ないかも知れませんが、この通りにやれば、子供の人生のスタートを上手く始められるように助けることが出来ます

自分の失敗を子供にもさせたくないのは「親の子に対する愛情であり、人情」でもあります。
もしかすると、親は自分の人生の始まりを「後悔」することはあっても「失敗」だったとは考えていないかも知れません。

誰でも、人は「生まれた時」には遺伝的要素を除けば「白紙」です。
この「白紙」にどのような色を付け、また、どのような「形」にするかは「一重に親」に依存しています。

もし、親がこの点で「無知のまま」子育てをするなら、その子供も親と同じ「無知」のまま生きて行くことになるのです。

こうした点で、
「人」は「人類」は進歩と改善をしなければならないのです。
人類はそうして来なかったので、
今のような世界になってしまったのです。

今の世はノアの大洪水前に神が地(地球)を見た時の状態のようです。
創世記6章
さて,人が地の表に増え始め,彼らに娘たちが生まれると,
2 そのとき[まことの]神の子らは人の娘たちを見,その器量の良いことに気づくようになった。そして彼らは自分たちのために妻を,すべて自分の選ぶところの者をめとっていった。

5 そのためエホバは,人の悪が地にあふれ,その心の考えのすべての傾向が終始ただ悪に向かうのをご覧になった。

7 それでエホバはこう言われた。「わたしは,自分が創造した人を地の表からぬぐい去ろう。略」。
8 しかし,ノアはエホバの目に恵みを得た
-創世記6:1-8

このような状態の世界でも、ノアのような「義人」もいたことに注目して下さい。

(参考:
全文ではなく「」を入れたのは、聖書を十分理解していない人が「誤解」を招く表現となっているからです。
神や聖書を十分理解してから「改めて考えるべき」内容です。

聖書を理解する点で「難しい点」は数多くあります。
聖書を読む人は【誤解しないために】この点に留意すべきですが、初めて読む人はこうした点が分かりません。
分からない点は「後で、聖書全体を読み終わった後に改めて考えてみる」ことです。)

今の世界のような「混沌」とした世でも「義人」は存在するのです。
ただし、それが「誰か」は人には分からないものです。

当時、ノアとその家族は他の人々(皆滅ぼされた)から「嘲笑」されていました

あなたはこうした考えをどう思いますか?
人生の始まりにおいて、自由を選択しますか、それとも、神の法を選択しますか?
もし、神の法を選択するなら、あなたは「神に義人」と見なされるための「第一歩」を踏み出したことになります。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++
参考
パウロはローマにいるクリスチャンたちに次のように語っています。
18 神の憤りは,不義な方法で真理を覆い隠している人々のあらゆる不敬虔と不義とに対して,天から表わし示されているのです。
19 神について知りうる事柄は彼らの間で明らかだからであり,神がそれを明らかにされたのです。
20 というのは,[神]の見えない[特質],すなわち,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言い訳ができません。
21 彼らは,神を知りながら,それに神としての栄光を付さず,また感謝せず,その推論するところにおいて無能な者となり,その悟りの悪い心は暗くなったのです。
22 自分は賢いと唱えながら,彼らは愚かとなり,
23 不朽の神の栄光を,朽ちる人間の,また鳥や四つ足の生き物やはうものの像のようなものに変えました。
24 そのため神は,彼らをその心の欲望に合わせて汚れに渡し,彼らの体が彼ら自身の間で辱められるようにされました。
25 すなわちそれは,神の真理を偽りと換え,創造した方より創造物をあがめてそれに神聖な奉仕をささげた者たちです。[創造した]方こそ永久にほめたたえられるのです。アーメン。
26 このゆえに神は,彼らを恥ずべき性欲に渡されました。その女性は自らの自然の用を自然に反するものに変え,
27 同じく男性までが女性の自然の用を去り,互いに対し,男性が男性に対して欲情を激しく燃やし,卑わいな事柄を行なって十分な返報を身に受けました。それは彼らの誤りに対して当然なものです。
28 そして,ちょうど彼らが正確な知識をもって神を奉ずることをよしとはしなかったように,神も彼らを非とされた精神状態に渡して,不適当な事柄を行なうにまかされました
29 彼らがあらゆる不義・邪悪・強欲・悪に満たされ,ねたみ・殺人・闘争・欺まん・悪念に満ち,ささやく者,
30 陰口をきく者,神を憎む者で,不遜,ごう慢,またうぬぼれが強く,有害な事柄を考え出す者,親に不従順な者であり,
31 理解力がなく,合意したことに不誠実で,自然の情愛を持たず,憐れみのない者であったからです。
32 こうした事を習わしにする者は死に価するという,神の義なる定めを十分に知りながら,彼らはそれを行ないつづけるだけでなく,それを習わしにする者たちに同意を与えてもいるのです。

パウロのこの言葉をどう思いますか?
これはクリスチャンたちに言われたことなのです。
クリスチャンでない人々は、こうしたことを自分たちの間で「悪の知恵」として用いているのです。

 

追加

パウロは、クリスチャンたちに「親に不従順な者」は「死に値する」と述べていますが、

誤解をしないことを願います。

 

親が間違っていても「親に従う」ことが求められています。

これは、親の決定に従うべきことを示していますが、親子で話し合いがないということではありません。

その話し合いで親には冷静さと分別が求められ「正しい決定を下す責任」があるということです。

親には何が何でも絶対服従をしなければならないということではありません。

 

 

 

エフェソス6章
子供たちよ,主と結ばれたあなた方の親に従順でありなさい。これは義にかなったことなのです。

2 「あなたの父と母を敬いなさい」とあり,これは約束を伴った最初の命令です。

3 すなわち,「それはあなたにとって物事が良く運び,あなたが地上で生き永らえるためである」。

4 また,父たちよ,あなた方の子供をいら立たせることなく,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい。-エフェソス6:1-4

 

赤字に注目して下さい。

1 主と結ばれたとあります。

これは単にクリスチャンというだけのことではありません。

主と結ばれたとは、主つまりイエス・キリストと「同じ考え、振る舞い」をしているということを示しています。

ですから、もしこれと異なることを親が要求しても、命令しても「拒否」しても良いのです。

正しいことをする、あるいは、求める子供は「義」と見なされるのです。

2 父母を敬いなさいとあります。

これは父母に敬意を払うべきであるということで服従しなさいということではありせん

父母に対して感情的になったり暴言を吐いたり暴力を振るったり反抗的な態度を取るべきではないと命令しているのです。

従わないことと反抗することは「別」のことです。

誰かに敬意を払ってもその人の言うことを聞かないことは良くあることです。

基本的に誰も人に命令する権限はないのです。

親であっても同じです。

自分の責任は自分で負うからです。

3 物事が上手く運び生き長らえるためとあります。

父母に従う理由は物事が上手く運ぶためであり、無知や不注意や制御しない欲望などで「命を危険に曝さない」ためなのです。

4 父たちよあなた方の子供苛立たせることなくとあります。

親には子供が苛ついて「あらぬ振る舞い」をしないように十分注意を払わなければならないということです。

親が子供が言うことを聞かないからと言って感情的になったり暴力などをしてはならないことを示しています。

5 エホバの懲らしめと精神の規制とをもって育ててゆきなさいとあります。

聖書では懲らしめとむちが関連して出て来ますが、文字通り棒で叩く必要はないのです。

懲らしめ、つまり、何らかの制限を加えたり正しいことを諭すことでもあります。

精神の規制とは、子供の気持ちや考えを制御するということです。

これは子供が間違ったことや欲望を抱かないように心や気持ちなどを制御するということです。

親は子供を苛立たせることなくそうするよう求められているのです。

これは、命令です。

そのために親はエホバのご意思や律法に精通している必要があります。

「主と結ばれた」とあるように親はイエス・キリストと同じ精神を抱いている必要があるのです。

子供を懲らしめるのに、イエスが子供にムチをしたり小言を言ったり暴言を吐いたり暴力をすることを想像出来ますか?

イエスは決してそのようなことはしないのです。

自分を殺そうとしていた書士やバリサイ人たちにすら「真理」で正しく返答されたのです。

 

あなたの親は「キリストと同じ精神」を抱いていますか?

そうであれば子供は自分の親に従順であるべきです。

それは「正しい」ことだとパウロは言っているのです。

 

あなたはどう考えますか?

知恵を求める人のためのブログです。

未成年の時のバプテスマは有効となるのでしょうか。

はじめに、この記事は長いです。
なぜなら、考察すべき事柄が多いからです。

「バプテスマ」というテーマにはいろんな意味が含まれており、加えて、現代の人々にもそれが求められているか否かに対する明確な根拠はあるもののその意味は単純ではないのです。
辛抱して最後まで読んで頂けると「あなたの益」になります。

バプテスマに関しては、今は滞っていますが、「聖書の見解-第33回(バプテスマ)」のところで詳しく述べることにしています。
ですから、今回は必要な点だけに留めたいと思います。

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バプテスマというと、
「献身の公の表明」とか「悔い改めの象徴」とか「罪からの清め」などと関連して用いられる言葉です。

そもそもにおいて、
普通の人、犯罪を犯していない人は「罪の意識」がありません。
聖書を学んで、「すべての人は罪人だ」と言われても実感はないものです。

いわゆる「不完全」は、「物事が上手く行かない」ことや「失敗」「誤ち」などを総合して使っている言葉です。
これらに加えて「身体的な容姿」などが「理想(人間が決めた基準)」でないことについても言う場合があります。
キーボードの入力の誤り、誤字脱字、言い間違いなどでも使います。
しかし、誰もこうした事柄に関して「罪」があるなどとは考えません。

また、誰も病気や事故やけがなどについても、それが「罪」のせいだと考える人はいません。

聖書では「病気や死の原因や律法に完全に従えないこと」を「罪=不完全」などとしていますが、クリスチャン以外でこうしたことを認識している人はいません。
カトリックやプロテスタントの信者でも、自分の過ち(犯罪や他人に対する罪の意識が強い場合を除いて)を罪だと考えません。

また、ものみの塔のエホバの証人のように、
聖書を学びこうしたことを「知識としては知っていても実感はない」ものです。
(頭で理解していると思っているだけなのです。)

もし、こうしたことを日々認識していたら、おそらく、「スムースな日常生活や人生」を送ることは出来なくなってしまいます。

このように、人は犯罪者などでもない限り「罪を、自覚も認識もしていない」のが実情なのです。
仮に自覚も認識もしていたとしても「自分ではどうしようもない」ので、それ以上考えることをしないものです。

ですから、「罪の清めのためのバプテスマ」を受けることは、一般的には有り得ないことです。

******************
確かに、完全な人はいませんので、いわゆる過ちを犯さない人は一人もいません。
これは、誰しもが認識している周知の事実です。
そういう意味で「罪人(つみびと)」ですが、一般的に「過ちは罪とは考えないもの」です。

過ち=失敗を罪としたらな、人は日々、あるいは、時々刻々逮捕されることになります。
しかも、誰がその人の罪を立証し逮捕するかという問題も残ります。
従って、「罪人(つみびと)」と言われてもその実感は誰にもないのです。

そういう人が「罪の許しのためのバプテスマ」を受けるでしょうか?
一般的には「」です。

ですから、
当然、罪から清められるため、罪を赦されるためにバプテスマを受けることも一般的にはないのです。

一般的に「罪人」とは、法を犯した者「犯罪者」のことを指して用います。

******************
「以前の生き方」において、あるいは、犯罪などを犯した人が「悔い改めの象徴」としてバプテスマを受けることはあります。

こうしたことは「クリスチャン」になろうとする人に見られる行為です。
これに先立って、そのクリスチャンは「告白」がなされるのが一般的です。
(カトリックなどの信者)

エホバの証人がバプテスマを受ける時、こうした「告白がなされることはありません」。
以前の犯した罪は「イエス・キリストに信仰を働かせ、バプテスマを受ける」ことで「許される」あるいは「罪に問われない」と教えているからです。

つまり、いわゆる真理を知らなかった時の罪は、自動的に許されると言う考えです。

実際、世間でも「知らなかったことは許される」場合が多いものです。
 

聖書の中でも、サウロはイエス・キリストの弟子たちを捕まえては投獄していましたし、ステファノの殺害の現場にもいました。
しかし、イエスが幻でサウロの前に現れた後「改宗」したサウロ、後のパウロも以前の罪は問われませんでした。

******************
更に、世の、いわば、事物の体制での「考え方」「自由で利己的な考え」などを改め、真の神の考え、教えに従った生き方をすることの表明としてのバプテスマは、いわば、「神への献身」と言う意味でバプテスマを受けることはあります。

これは、いわゆる「悔い改め」ということですが、「罪の悔い改め」とは異なるものです。
人生の於いて、「生き方を改める」ということの表明です。

ものみの塔のエホバの証人たちが受けるバプテスマはすべてこのバプテスマです。

******************
では、未成年の男女は、以前の生き方に関して「罪の悔い改め」や「(生き方を)悔い改める」ことはあるでしょうか。
普通、罪の意識がありませんし、人生の何たるかも分かっていないので有り得ないことです。

 

未成年の子供たちは、いわゆる「親の脛(すね)をかじって」「親の保護の下」に、ある意味無責任で生きています。
それゆえ、それまでの人生は、何も考えずに自由に振る舞い、また、「大事なこと」は親に言われてやって来ただけのことです。

幼い時(小、中、高校生などの時)に、信仰心を抱き「献身の表明」としてのバプテスマを受けることはあります。

そのために、
ものみの塔の、いわゆる「バプテスマの討議」は「知識の確認」であり、それらの質問に対して正しく答えることは、幼くても可能です。

質問の意味を正しく理解していなくてもです。
仮に、理解していたとしても、それは「頭」「理屈」「知識」「推論」によるものです。

この場合は、正確な知識というより「気持ち」で受けていると言わざるを得ません。
なぜなら、人生経験の殆どない未成年が「献身の意味」を本当に理解しているかは「疑問」だからです。

「責任ある献身の振る舞いを自らの意思で行う」というより「言われるからする」ことが殆どです。
ただ、未成年でもバプテスマを受けたということに対する、いわゆる「責任感」を強く感じる人はいるものです。
これを、本人は「神への献身」と考えている訳です。

しかし、それは、

聖書に、あるいは、神のおきてに従って生きていると思っていても、現実には、ものみの塔に従っているのです。

いわば、ものみの塔に献身したようなものです。
(ものみの塔は、神の霊的経路でありません。)

これで、本当の意味での献身と言えるでしょうか、答えは「」です。
そういう意味では、未成年のバプテスマは「無効」だと言わざるを得ません。

いわゆる宗教2世たちのある者たちは「バプテスマを軽んじた振る舞い」をし、親に「反抗(幼い時や若い時にありがちな自己の欲求などによる)」し、より「自由」に生きようとし、世の影響を大きく受け、遂には、ものみの塔に対して「疑問」を抱き離れて行くのです。
(これは批判としてではなく、一般的な傾向としてのことです。気分を害したら謝ります。)

繰り返しますが、
宗教2世たちは「親たちほど」バプテスマや献身ということを理解していないのです。
ただ、「形式的」にバプテスマを受けたのです。

(そうでないと言う人もいると思いますが、自分の献身を正直に吟味しても否定出来ますか?)

ここで読者は注意して下さい。

ものみの塔が実施している、バプテスマを受けるための条件である「バプテスマの討議」は、

聖書による根拠はありません


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聖書の中でも度々バプテスマに言及しているのは、新しく信者になった人々(大人でさえ)は「バプテスマの意味もクリスチャンとしての生き方、振る舞い、考え」などについて正確に理解していなかったので、
パウロやペテロやヨハネやヤコブなどが会衆に当てて手紙を書いてその人たちを教え諭す必要があり、それが記録として残っているのです。

クリスチャン・ギリシャ語聖書(新約聖書)の中の、使徒たちの活動からユダの手紙を読むと、クリスチャンとしての歩み、生き方及び信仰を持って生きることの難しさが良く示されています。

実際、バプテスマを受けても、各々自分の考えで行動し振る舞っていた人々がいたのです。

真理を正しく理解しないこのような人々はバプテスマを受けても「救い」に至らないことも示しています。

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では、バプテスマとは一体何なのでしょうか?

それは「神への献身の表明(信仰の生き方)」「悔い改めの象徴(以前の世の考えでの生き方を悔い改めたことの表明)」あるいは「罪から清めること(アダムから受け継いだ罪、自覚のない罪の許し)」「イエス・キリストの贖いの犠牲(アダムから受け継いだ罪を贖うこと)に信仰を働かせたことの表明」なのでしょうか?

いずれにしろ、「自分の意思表示」の行為であることには違いはありません。

では、現代の人々がバプテスマを受けるべきなのでしょうか、その必要があるのでしょうか?
こうしたことを考えてみたいと思います。

実際、聖書の中ではバプテスマに関して「様々なバプテスマ」の考えがあることが記されていますが、これを、一言で説明することは困難です。

それでも、いろんな場面で出て来る「バプテスマ」という言葉は、「救い」に関連したことばであることには違いはありません。

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聖書に記されているバプテスマに関しては、
1 ユダヤ人がイエス・キリストを迎えるに当たり、律法はイスラエル人たちに対する「養育係」の
  役目をしていたので、その律法を守り行うことが出来なかったことに対する「悔い改めのための
  バプテスマ」を受けさせるよう神がヨハネを遣わしました。
  -マラキ3:1、ルカ1章、3章、7章、ヨハネ1:6、23
  これが、バプテストのヨハネのバプテスマです。
  ユダヤ人のためのバプテスマなので、現代の人々に対するものではないことは明白です。

律法下にあったユダヤ人に対しては悔い改めのバプテスマです。
律法はキリストに導く養育係(ガラテア3:24)と言われているように、ユダヤ人は律法を守り行うことでキリストを迎える備えが出来ていなければなりませんでしたが、ユダヤ人の意識の中にそれがなく備えが出来ていなかったので、そうした生き方を改めるようにと警告し、それを受け入れた証としてヨハネにバプテスマを施すように神が命じたのです。

律法を守り行う」ことが律法の意味するところの預言に対する「信仰」であり、それによってユダヤ人(イスラエル人たち)は神により「義」と見なされたということです。-ガラテア3:24

2 当時は、神の王国の14万4000人を集め、彼らを「神の養子」として天で霊者として復活しイエス
 と共に地に対して王とならせることが「弟子たちを集める目的」でした。
 そのため、聖書で記されているバプテスマの内、バプテストのヨハネによるバプテスマを除けば、
 すべて「神の王国の人々」に対するものです。
 また、彼らが受けるバプテスマには「いろいろなバプテスマ」がありましたが「死と復活」が関係
 していました。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
従って、
その他の人々に関するバプテスマに関しては「直接、受ける必要」を述べた個所は1か所しかありません。

 

イエスは次のように述べています。
「18 すると,イエスは近づいて来て,彼らにこう話された。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。
19 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,
20 わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。
-マタイ28:18-20

これに関連して、更にイエスはマタイ24章で、
3 [イエス]がオリーブ山の上で座っておられたところ,弟子たちが自分たちだけで近づいて来て,こう言った。「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。
4 そこでイエスは答えて言われた,「だれにも惑わされないように気を付けなさい。
5 多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがキリストだ』と言って多くの者を惑わすからです。
6 あなた方は戦争のこと,また戦争の知らせを聞きます。恐れおののかないようにしなさい。これらは必ず起きる事だからです。しかし終わりはまだなのです。
7 「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震があるからです。
8 これらすべては苦しみの劇痛の始まりです。
9 「その時,人々はあなた方を患難に渡し,あなた方を殺すでしょう。またあなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう。
10 またその時,多くの者がつまずき,互いに裏切り,互いに憎み合うでしょう。
11 そして多くの偽預言者が起こって,多くの者を惑わすでしょう。
12 また不法が増すために,大半の者の愛が冷えるでしょう。
13 しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。
14 そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです。
-マタイ24:3-14
と述べています。


「王国の良いたより」には、ユダヤ人体制の滅びる点も含まれると考えられます。
そうした点を含めた「王国の良いたより」はクリスチャンの苦難と共に人の住む全地で宣べ伝えられると預言されたのです。
これは、現代の人々にも関係のある事柄です。

加えて、
ヨハネへの啓示7章に出て来る「大群衆」は14万4000人(囲いの中の羊)に証印を押された後の出来事として、「大患難から出て来る者たち」(囲いの外の羊)で、彼らは「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」と述べられている意味を考慮しなければなりません。

「大群衆」は「生きたまま大患難」を通過する人々であると考えられます。
来たではなく、来るという表現になっている点に注意して下さい。)

 

この「大群衆とは一体だれのこと」でしょうか?

こうした点について考える必要があります。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
では、神の王国の人々以外の人々がバプテスマを受ける聖書の根拠は何なのでしょうか。

実際、カトリックでもプロテスタントでも他の宗派でも「バプテスマ」を施しています。
正確な意味を理解していなくても「行っている」ことは事実です。

いわば、「形式的」に受けているのです。

ものみの塔は「献身の表明」としてのバプテスマを施していますが、そのための聖書の明確な根拠を示してはいません。

献身、贖いの犠牲、罪など幾つかの点に関連して言及してはいますが明確な根拠は示してはいないのです。
ただ、神の王国の人々の受けるバプテスマに倣う者としてバプテスマを受け、神に対する献身の表明をすべきだと言っているのです。

***********************
イエスの言われた「囲いの中の羊」に関する【様々なバプテスマ】には数多く言及されていますが、「囲いの外の羊」についてのバプテスマに関しては、【その詳細】は殆ど言及されてはいません。

唯一示されているのが、
マタイ28:18-20です。
「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。
19 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,
20 わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。」

このイエスの言葉から分かるように、
1 ユダヤ人だけではなく、すべての国の人々にバプテスマを施すようにと命令しています。
 これは、宣教活動がイスラエル近辺だけではなく世界中の拡大することも意味しています。
2 父と子と聖霊の名においてバプテスマを施すようにと言われました。
 「名において」とは権威を示しており、父と子と聖霊との名においてバプテスマを施すということ
 は、これらの権威によってバプテスマを施すことを意味しています。
 従って、バプテスマを受ける人「この権威」に従うということの表明となるということです。
3 その後、イエスが弟子たちに命令した事柄すべてを守り行うように教えなさいと言われていま
 す。

ここで注目すべき点は、バプテスマによって救われるとは言っていないことです。
つまり、救いはその後の信仰の歩みに掛かっているからです。
ある人は、バプテスマを受けたので「救われる」と考えていますが、それは「間違い」なのです。

***********************
では、誰がこのバプテスマを受けるのでしょうか?
「囲いの中の羊」は囲いが示しているように、その数は限定されたものでした。
一方、「囲いの外の羊」は囲いがありませんから、その数は限定されてはいません。

これと符合するのがヨハネへの啓示7章に出て来る「大群衆」です。

啓示7:9-17
9 これらのことの後,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。
10 そして大声でこう叫びつづける。「救いは,み座に座っておられるわたしたちの神と,子羊とに[よります]」。
11 そして,すべてのみ使いたちは,み座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが,彼らはみ座の前にひれ伏し,神を崇拝して 
12 こう言った。「アーメン! 祝福と栄光と知恵と感謝と誉れと力と強さが,わたしたちの神に限りなく永久に[ありますように]。アーメン」。
13 すると,長老の一人がこれに応じてわたしに言った,「白くて長い衣を着たこれらの者,これはだれか,またどこから来たのか」。
14 それでわたしはすぐ彼に言った,「わたしの主よ,あなたが知っておられます」。すると彼はわたしに言った,「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。
15 それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげている。また,み座に座っておられる方は彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう。
16 彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に[冒されること]もない。
17 み座の真ん中におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」。

これは、いわゆる14万4000人に証印を押された後の出来事です。
そして、大患難から出て来る者たちと言っていることから、これから臨む事物の体制の滅びを生き残る人々であることを示しています。
大群衆という言葉の通り、その数は限定されたものではありません。

***********************
大群衆に関する上記の記述が手掛かりとなります。
1 白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた
2 彼らの手には,やしの枝があった
3 大声でこう叫びつづける。「救いは,み座に座っておられるわたしたちの神と,子羊とに[よりま
  す]」。
4 彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。
  それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげ
  ている。
5 また,み座に座っておられる方は彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう。
  彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に[冒
  されること]もない。
  み座の真ん中におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は
  彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう。

5項については、まだ将来の出来事であることは明白です。

これらを考察することで、「囲いの外の羊」「大群衆」がどのような存在なのかを吟味してみたいと思います。

***********************
第一の視点は、やしの木(の枝)を手に持っていることです。
この意味を考えて見ましょう。

12 義なる者が,やしの木のように咲きいて,レバノンの杉のように大きく育つのです。-詩編92:12

27 そののち彼らはエリムに来た。そこには十二の水の泉と七十本のやしの木があった。それで彼らはそこの水のそばに宿営を張ることにした。-出エジプト15:27

37 「『これらは,あなた方が聖なる大会としてふれ告げるべきエホバの季節ごとの祭りである。それはエホバへの火による捧げ物をささげるときである。すなわち,犠牲としての焼燔の捧げ物と穀物の捧げ物および飲み物の捧げ物を日ごとの予定にしたがって[ささげるの]であり,
38 それはエホバの安息日とは別,またあなた方の供え物,すべての誓約の捧げ物,すべての自発的な捧げ物,すなわちあなた方がエホバに供えるべきものとは別のものである。
39 しかし,第七の月の十五日,その地の産物を集め入れた時には,あなた方は七日の間エホバの祭りを祝うべきである。その最初の日は全き休みであり,八日目も全き休みである。
40 そしてあなた方は,自分たちのため,最初の日に,壮麗な樹木の実,やしの木の葉,茂った木の大枝,奔流の谷のポプラを取るように。あなた方の神エホバの前で七日のあいだ歓び楽しむのである。
41 こうしてあなた方はエホバに対する祭りとしてそれを年に七日祝うのである。代々定めのない時に至る法令として,あなた方はそれを第七の月に祝うべきである。-レビ23:37-41

エゼキエル40-42章でエゼキエルに示された城壁と神殿に「ヤシの木」が数多く出て来ます。

7 そして[神]はわたしにさらに言われた,
「人の子よ,[これは]わたしの王座のある場所,わたしの足の裏を置く場所[である]。わたしはここに,イスラエルの子らの中に,定めのない時に至るまで住むであろう。-エゼキエル43:7
「人の子よ,あなたとしては,この家についてイスラエルの家に知らせよ。彼らがそのとがのゆえに辱めを受けるためである。彼らはそのひな型を測らなければならない。
11 そして,もし彼らが自分のしたすべてのことのゆえに実際に辱めを受けるなら,家の平面図,その配置と出口と入り道,そのすべての平面図とそのすべての明細,そのすべての平面図とそのすべての律法をあなたは彼らに知らせ,彼らの目の前で書け。それは,彼らがそのすべての平面図とそのすべての明細を守り,それらを実際に行なうためである。
12 これが家の律法である。山の頂の周囲の領地全体は極めて聖なるものである。見よ,これが家の律法である。
-エゼキエル43:10-12
この後、幻は、十二部族の土地の分配とエホバへの祭りと祭壇についても示しています。

これらを考察すると、
「ヤシの木」「ヤシの木の枝や葉」は、
神殿の中の壁や門や扉などのヤシの木の間のケルブの彫り物、
「ヤシの木」の立ち姿は「真の崇拝者の毅然とした立ち姿」の象徴、
荒涼とした砂漠の中の「オアシス」「癒しの場」「休み場」、
エホバへの祭りの時の「喜び」を表すもの、
を示していることが分かります。

また、
イエスがエルサレムへ入城した時、人々はやしの木の枝を取って「歓喜」を表しています。
ヨハネ12:12-13
12 次の日,祭りに来ていた大群衆は,イエスがエルサレムに来られることを聞くと,
13 やしの木の枝を取って彼を迎えに出て行った。そして,大声でこう叫びはじめた。「救いたまえ! エホバのみ名によって来たる者,イスラエルの王こそ祝福された者!」

これらの事柄の故に、
大群衆が神と子羊の前に立っている時、エホバの崇拝者としての毅然とした立ち姿を表しており、その手に「ヤシの木の枝」を持っているのは崇拝と癒しと歓喜としてふさわしいことだったと言えます。

「ヤシの木の枝」の意味が分かったとして、大群衆がそれを手に持って(もしかすると、高く掲げているのかも知れません)いることの「象徴」は何なのでしょうか?

「ヤシの木の枝」を手に持つことは、「喜び」「癒し」の象徴ですから、
現代でそれを可能のするのは「聖書」だけと考えられます。
つまり、
大群衆が「ヤシの木の枝」を手に持っているということは、文字通りには聖書を手に持っていることを示しており、
霊的にはその著者である神に信仰を働かせていることを示していると考えられます。

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第二の視点は、「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」点について考察してみたいと思います。
これが、大患難から出て来る、つまり、大患難を生き残るため「条件」でもあるということが分かります。

まず、「長い衣」に関して。
出エジプト28章
「またあなたは,あなたの兄弟アロンを,そしてその子らをも共にイスラエルの子らの中からあなたの近くに来させて,彼がわたしに対して祭司の務めを行なうようにしなさい。アロン,アロンの子らのナダブとアビフ,エレアザルとイタマルである。

2 そして,あなたの兄弟アロンのため,栄光と美のために,あなたは聖なる衣を作らねばならない。

3 それであなたは,わたしが知恵の霊を満たした賢い心の者すべてに話し,その者たちが,アロンを神聖なものとするためのその衣を作るように。彼がわたしに対して祭司の務めを行なうためである。
4 「そして,これらは彼らが作る衣である。すなわち,胸掛け,そしてエフォドとそでなしの上着と格子じまの長い衣,ターバンと飾り帯。彼らはあなたの兄弟アロンとその子らのためにこの聖なる衣を作らねばならない。彼がわたしに対して祭司の務めを行なうためである。
-出エジプト28:1-4、39、29:8、40:14、レビ8:7、13
(神は祭司に長い衣を着るように指示しています)

マルコ12章
38 また,その教えの中で続けてこう言われた。「書士たちに気を付けなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることを望み
-マルコ12:38
(長い衣は聖職者を示すものであり、書士たちはそのように見られることを好んだことを示していま
 す)

マルコ16章
さて,安息日が過ぎた時,マリア・マグダレネと,ヤコブの母マリア,それにサロメは,そこに来て彼に油を塗ろうとして香料を買った。
2 そして,週の最初の日の朝とても早く,記念の墓に来た。その時,太陽はすでに昇っていた。
3 そして彼女たちは,「記念の墓の戸口から,だれがわたしたちのために石を転がしのけてくれるでしょうか」と言い合っていた。
4 ところが,見上げると,その石は,非常に大きなものであったのに,すでに転がしのけてあったのである。
5 記念の墓の中に入ると,ひとりの若者が白の長い衣をまとって右側に座っているのが見え,彼女たちはぼう然とした。
6 その者は彼女たちに言った,「ぼう然とすることはありません。あなた方は,杭につけられたナザレ人のイエスを捜しています。彼はよみがえらされました。ここにはいません。見なさい,彼を横たえた場所です。
-マルコ16:1-6
(み使いは白くて長い衣を着ています)
(参考:アブラハムの前に現れた三人のみ使いとロトの前に現れた二人のみ使いは「白くて長い衣」
 を着ていたと思われます。
 それゆえ、アブラハムとロトはこれらの人たちが神の使いであると判断したと思われます。
 -創世記18、19章)

啓示3章
4 「『とはいえ,サルデスのあなたのところには,自分の外衣を汚さなかった少数の名があるにはある。彼らは白い[外衣]を着てわたしと共に歩くであろう。[それに]ふさわしい者だからである。
5 征服する者はこのようにして白い外衣で身を装うのである。そしてわたしは彼の名を命の書から決して塗り消さず,わたしの父の前またそのみ使いたちの前で彼の名を認める。-啓示3:4-5
(征服する者=神の王国の14万4000人は天に霊者として復活した時「白い外衣=白くて長い衣」で身を装っています)

啓示4章
4 そして,み座の周りには二十四の座が[あり],それらの座には,二十四人の長老が,白い外衣をまとい,頭に黄金の冠を頂いて座っているのが[見えた]。
-啓示4:4
(み座の周りにいる二十四人の長老たちは「白い外衣」をまとっています)

啓示22章
14 自分の長い衣を洗って,命の木に[行く]権限を自分のものとし,その門から都市の中に入れるようになる者たちは幸いである。
-啓示22:14
長い衣は洗って「白く」する必要があることを示唆しています。)

啓示7章
9 これらのことの後,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。
-啓示7:9
(大群衆=囲いの外の羊は白くて長い衣を着ています)

次に、「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。
15 それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげて
 いる。」-啓示7:14-15
に関して。

ヨハネ(一)1章
み子イエスの血がわたしたちをすべての罪から清めるのです。
-ヨハネ(一)1:7

ヨハネによる書
29 次の日,彼は,イエスが自分のほうに来るのに目を留めて,こう言った。「見なさい,世の罪を取り去る,神の子羊です!
-ヨハネ1:29

これらの聖句を総合して考えると
長い衣は神に仕える者の立場を表しているということが分かります。
白いという表現は清い、あるいは、罪がない状態(罪を取り去って貰った状態、罪から清められた状態)を表しています。
洗うということは清めるという意味です。
血で洗うとは、その血によって清めることであり、それは、罪から清めることを意味しています。

従って、
白くて長い衣を着ているということは、
神に仕える立場の者がイエス・キリストの犠牲の血によって清められた状態を示しています。
それゆえ神のみ座の前に立っているということは、神がそれを認めたということを意味しています。

「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」ということは、
大群衆は自らの意思でそうしたという表現になっていることから、
「自分の意思でイエス・キリストの贖いの犠牲に信仰を持った人々」であるということです。
誰かに洗って貰って白くしたのではないのです。

また、モーセの時代からイエスの時代まで「長い衣を着る」ことは神の指示によるものでした。
しかし、現代は律法下にはありませんから、「長い衣を着る」ことは、「自分の意思」によるものです。
祭司ではありませんが、神に仕える者となることの「意思表示」をしたことを意味しています。
これは、ヨハネに与えられた「幻」ですから、文字通り「長い衣」を着ているとは限りません。

この「意思表示」とバプテスマは関連があると考えることは道理です。

 

ペテロは「バプテスマ(肉の汚れを除くことではなく,神に対して正しい良心を願い求めること)」と述べて、罪を取り去ることではないと言っています。-ペテロ(一)3:21

したがって、
自分の長い衣を子羊の血で洗って白くしたとは、
「バプテスマ」を受けることで、イエス・キリストの贖いの犠牲によって罪による汚れから清められると信仰を働かせたことを自分の意思で表明したことを示しています。

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第三の視点は、大声で「救いは,み座に座っておられるわたしたちの神と,子羊とに[よります]」と叫んでいるという点です。

ただ信じていて心に秘めているのではなく「叫んでいる」ということです。
つまり、
神のみ前で叫んでいるということです。
世の巷(ちまた)で叫んでいる訳ではありません。

誰に向かって叫んでいるのでしょうか?
それは、神と子羊に対してです。
つまり、この叫びは救いに対する信仰の表明でもあるということです。
ですから、
神に対して自分の信仰を声を出し大声で示している人々であるということです。
歌っている訳ではありません。

また、叫びとは「心からの願い」をも表しています。

更に、救われましたではなく、「よります」と言って未来形で記されていることから、
救いはまだ実現していないことも示しています。

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第四の視点は、「大患難から出て来る者たち」という点です。

 

このことから、まだ、大患難から出て来た訳ではないことも分かります。

従って、この大群衆は、まだ大患難を生きて通過する前の人々のことであり、その人々は「救いは神と子羊による」と大声で叫んでいるということです。

つまり、この大群衆は事物の体制の滅びの前にこのように叫んでいる人々であるということです。

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第五の視点は、「その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげている」点です。

白くて長い衣を来たこれらの人々は、いわば、祭司もしくは「僧職者」を表しています。
その祭司の立場の人々が神聖な奉仕を捧げているということです。

そして、「大群衆」は、今現在、地上で奉仕をしている人々であるということです。

神聖な奉仕とはエホバ神への「崇拝および仕えること神のおきてを守ること」を意味しています。

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このように考えて見ますと、
大群衆は、
事物の体制の滅びの前の今、
自分の長い衣を子羊の血で洗って白くし救いは神と子羊によると大声で叫んでいる人々であり、
神と子羊とのみ座の前にいることを許された人々でもあるということです。
やしの木の枝を持っていることから、こうしたことを霊的な癒しと共に神の神殿で神への神聖な奉仕を喜んでいる様を示しています。

この意味は、
自分の長い衣を子羊の血で洗って白くしたとは、
自分の意思で神への奉仕の立場(長い衣)を、「父と子と聖霊との名によってバプテスマ」を受けることで、イエス・キリストの贖いの犠牲によって罪による汚れから清められると信仰を働かせたことを表明した(子羊の血で洗って白くした)ことを示しています。

そして、彼らが神と子羊のみ座の前に立っていることから、それが神により受け入れられたことを示しています。

それゆえ、神の神殿(霊的神殿で、もしくは、天と地を包含した神の神殿)で、日夜神聖な奉仕(崇拝)を捧げることを許されているということです。

繰り返しますが、
これは、事物の体制の滅びの前の今の出来事のことです。
これらは、天ではなく地上で、今行われている事柄ということです。

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以上のことから、バプテスマを受けるべき根拠を示しました。


聖書を読むと分かりますが、バプテスマは「自ら望んで受けるもの」です。
-使徒たちの活動2:41、8:12、8:34-38

バプテスマとは、ペテロ(一)3:21により、
「神に対して正しい良心を願い求めること」であり、「これに相当するもの(八つの魂が無事に水=大洪水を切り抜けたこと、つまり、生き残ったこと。これは、一度死んで復活したことを象徴している)バプテスマが・・・イエス・キリストの復活を通して・・・救っている」と示されています。
文脈上これは、いわゆる天に行く人々のことです。

この意味は、
神に対する神聖な奉仕=正しい良心の面で完全にすること-ヘブライ9:9
良心を死んだ業から清めて、生ける神に神聖な奉仕を捧げられること-ヘブライ9:14
ただ一度だけで清められ(バプテスマを受けたこと)もはや罪の自覚を持たないこと-ヘブライ10:2
信仰の全き確信、真実の心を抱くこと-ヘブライ10:22
自分の良心を邪悪な良心から清められ(=正しい良心を抱くこと-ヘブライ13:18)わたしたちの体は清い水に浴した(み言葉による水の洗いをもって・・清める-エフェソス5:26)-ヘブライ10:22
であると聖書は示しています。
つまり、
バプテスマとは「良心を清めること、罪の自覚を持たないこと、信仰の全き確信、真実の心を抱くこと」によって神に神聖な奉仕を捧げることの「表明」でもあると述べているということです。

これを可能にするのが、イエス・キリスト命令による、父と子と聖霊との名によって受ける水のバプテスマです。

罪の悔い改めのためのバプテスマではありません。
それは、バプテストのヨハネがユダヤ人に施したバプテスマです。
実際、バプテストのヨハネのバプテスマを受けた人が、改めてイエスの名においてバプテスマを受けています。
使徒18:24-19:7

信者となって献身を示す場合、
キリストの死のバプテスマなど「意味の異なるバプテスマ」もありますので、
読者はこの点思慮深くあって下さい

参考

パウロは自分は「キリストがわたしを派遣されたのは、バプテスマを施すためではなく、良いたよりを、ことばの知恵によらないで宣明するためであった」と述べています。-コリント(一)1:17)
それでも、パウロがバプテスマを受けた人の上に手を置くと聖霊が臨んだことが記されています。
-使徒29:1-7)

繰り返しますが、イエスがマタイ28:19、20でバプテスマを施しなさいとは言っていますが、「それで救われる」とは言っていないということです。
その次に、イエスが命令した事柄を守り行うように教えなさいと言われたこから、バプテスマを受けた後イエスの命令を守り行う必要があるということです。

バプテスマは「信仰の終わり」ではなく「信仰の始まり」なのです。
それゆえ、「終わりまで耐え忍んだ者が救われる者です」と言われたのです。-マタイ24:3‐14

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しかし、
例えば、カトリックなどでは生まれて間もない子供に洗礼(幼児洗礼)を施しています。
一方、プロテスタントは「自己決定能力が確立してから入信させるべき」との考えから幼児洗礼を認めていません。

ものみの塔のエホバの証人は、
幼い時に親に連れられて集会に行き、親と一緒に伝道活動をし、集会で注解などをし会衆や大会で手伝いなどをし、
バプテスマを受けるのが当然であるかのように見なし、仲間の信者から「バプテスマはまだか」などと良く言われたりするものです。
そのようにして、ついにバプテスマを受けたエホバの証人になるケースが多いことは周知の事実です。

そのため思春期を迎えた頃や進学や就職時期になり「人生」を考えるようになった時、大抵の2世たちは「悩む」ものです。

その殆どがものみの塔の「指導」と異なる選択を望む場合です。
本当は大学へ行きたいのに「行かせて貰えない」
本当は異性や学友と友達になりたいのに「そうさせて貰えない」
本当は世の中で流行っている「音楽」などを聴きたいのに「そうさせて貰えない」
本当は自由に旅行などをしたいのに「そうさせて貰えない」
本当は観光地やディズニーランドのような所へ行って「思う存分遊びたい」のに「そうさせて貰えない」
本当は就職して収入を得たいのに「開拓奉仕を勧められた」
親が仕事で十分な収入を得ていないので、その子供たちも不便や不自由をさせられている、
などということはエホバの証人の中では日常茶飯事です。

人生経験が殆どない子供がバプテスマを受けたからと言って、すべてがテモテのようになる訳ではありません

将来別の道に進むことは出来ないのでしょうか。
いわゆる宗教2世と言われる人たちが「悩む」所です。

信仰の歩みにしても、別に道もあることは明白です。

ものみの塔はそれを認めていません
むしろ、学校を卒業したら「直ちに開拓奉仕に入るよう勧められる」ことが多いのです。
そうすることが、エホバとイエスに献身した者として最もふさわしい歩みであると「まことしやか」に勧めるのです。
良いことだけを話すのです。
「エホバが共にいて下さる」「エホバの助けが得られる」「生き残れる」「永遠の命が得られる」などと。

これは、ものみの塔の「思惑」です。

そうしなければならないという「聖書の根拠」はありません

 

このようなものみの塔に乗せられて受けたバプテスマにそれ程重要な「意義」があるでしょうか。
そのバプテスマを本当に「意義」のあるものにするのは、その後の信仰の歩みです。

もし、未成年の信者は信仰の歩みを望まないのであれば、いつでも、普通の生活(自分では知らない世の生活)に進むことは出来るのです。

 

未成年者のバプテスマは「幼児洗礼」と同じことだからです。
未成年者のバプテスマにはそれ程の重大な責任が科せられている訳ではないのです。

バプテスマを受けることは誰かに促されてするものではなく、その意味を十分に理解した上で「自発的に受ける」ものです。

ものみの塔による「バプテスマの討議の質問」に「はい」と答えることと、その意味を十分理解していることとは別のことです。
「質問」に「はい」と答えることは誰にでも可能です。
信仰のない人でも可能なのです。

「バプテスマの討議の質問」は、聖書の根拠のないことがらです。

(内容ではなく、討議をすること自体についてです。)
あなたは知っていましたか?

エホバの証人であれば、それが「当然」と思っていませんでしたか?

 

ものみの塔は、バプテスマに「勝手に人間の基準」を付加したのです。

ですから、真の崇拝においては、幼児洗礼や未成年者のバプテスマは「無効」なのです。

ところが、ものみの塔と周囲のエホバの証人たちはそれを有効なものと見なし、会衆から離れること即ちエホバの証人としての歩みを止めることを「非難」するのです。

更に、
ものみの塔に属したエホバの証人でなければ「滅ぼされる」というのは「誤った教義」です。
狂言とさえ言えるかも知れません。

確かに、滅ぼされるという言葉の響きは「脅し」になり「恐怖心」を抱かせるものとなります。
しかし、人間はいつかは死ぬのです。

エホバの証人にとっては「滅ぼされる=復活のない死」を意味しますので「恐怖」でしかないと思います。

確かに聖書では不老不死、永遠の命の希望が記されています。
しかし、現実にそうした人を見た人は一人もいません。
それは、まだ「その時」が来ていないからです。

以前にも書きましたが、いわゆるハルマゲドンを生き残るのに、【偽預言者である】ものみの塔に属したエホバの証人でなければならなないなどとは考えられないことです。
むしろ、属さないで「信仰を保つ人」や神とイエスから見て「義なる者」が生き残るのです。

はっきりしていることは、
終わりの日、イエスが裁きの座に座った時、人々は右か左に分けられるということです。
その基準の一つが「イエスに信仰を働く者たちに【する】」ことです。-マタイ25:31-46

ものみの塔はこれをエホバの証人たちだけ、つまり、統治体や仲間の人々だけに適用し「互いに助け合うように」と指導しています。

ここが論点です。
イエスが「義なる者」と見なす人が誰かという点です。
イエスの兄弟のうちの最も小さな者とは一体だれのことでしょうか?

小さい者とは「幼子」という意味ではありません

立場のことを言っています。

天の王国へ招かれている144000人は既に完了しています。
ということは、これら最も小さい者たちは「地上」には存在していないということです。

であれば、イエスのこの裁きの時に左右に分けられる基準はどこにあるのでしょうか?

生き残るのは明らかに、
イエスの兄弟たちとそれらの人たちに善を行う者「義なる者」たちだけということになります。
しかも、それはイエスが裁きの座に付く「終わりの日」のことです。

天の王国へ招かれている144000人は既に復活して天にいると考えられますので、理屈から言えば、これらの者たちは「共に存在しない」ということになります。

しかし、その少し前のイエスの言葉に注目する必要があります。
マタイ24章
3 [イエス]がオリーブ山の上で座っておられたところ,弟子たちが自分たちだけで近づいて来て,こう言った。「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。
4 そこでイエスは答えて言われた,「だれにも惑わされないように気を付けなさい。
5 多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがキリストだ』と言って多くの者を惑わすからです。

21 その時,世の初めから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難があるからです。
22 実際,その日が短くされないとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです。
23 「その時,『見よ,ここにキリストがいる』とか,『あそこに!』とか言う者がいても,それを信じてはなりません。

24 偽キリストや偽預言者が起こり,できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとして,大きなしるしや不思議を行なうからです。
25 ご覧なさい,わたしはあなた方にあらかじめ警告しました。
26 それゆえ,人々が,『見よ,彼は荒野にいる』と言っても,出て行ってはなりません。『見よ,奥の間にいる』[と言っても],それを信じてはなりません。
27 稲妻が東の方から出て西の方に輝き渡るように,人の子の臨在もそのようだからです。

28 どこでも死がいのある所,そこには鷲が集まっているでしょう。
参考:これは、イエス・キリストの臨在が「誰の目にもはっきりと識別出来る」ことを示しています。)
29 「それらの日の患難のすぐ後に,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天のもろもろの力は揺り動かされるでしょう。
参考:これは、イエス・キリストの臨在と共に、事物の体制に「大きな事変」が生じることを示しています。)
30 またその時,人の子のしるしが天に現われます。そしてその時,地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき,彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。

参考:雲に乗って来るということは、文字通りには「人の子」を目の当たりには出来ないことを示

 しています。

 「しるし」でしかそれは分からないということですが、

 すべての人はその意味は知らなくても「しるし」が生じたことは分かることを示しています。)
31 そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風から,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう。

参考:「選ばれた者たち」とは啓示7章の「証印を押された者たち」と「大群衆」のことです。)
32 「では,いちじくの木から例えとしてこの点を学びなさい。その若枝が柔らかくなり,それが葉を出すと,あなた方はすぐに,夏の近いことを知ります。
33 同じようにあなた方は,これらのすべてのことを見たなら,彼が近づいて戸口にいることを知りなさい。
34 あなた方に真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません。

参考:この世代を、ものみの塔は一世代(1914年当時生きていた人々)、つまり、一人の目撃証人

 としていますが、

 世代とは一人の人間ではなく、一つの「時代」を示したものです。

 ですから、

 今、1914年当時生きていた人々だけではなく、今生きている人々も含まれるのです。

 この点でも、ものみの塔は【偽預言者】であることを暴露しました。)
35 天と地は過ぎ去るでしょう。しかしわたしの言葉は決して過ぎ去らないのです。
36 「その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も[知らず],ただ父だけが[知っておられます]。
37 人の子の臨在はちょうどノアの日のようだからです。
38 洪水前のそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。
39 そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在[の時]もそのようになるのです。
40 その時二人の男が野にいるでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。
41 二人の女が手臼をひいているでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。
42 それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなた方は,自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです。
マタイ24:3-42

これも弟子たちに言われた言葉の一つです。
この中で二人の男と二人の女のうち、各々一人は連れて行かれ他方は捨てられると述べ、ついで、弟子たちには「それゆえ、ずっと見張っていなさい」とご自分の臨在に注意を払い続けているようにと述べています。
この男女は普通の日常生活をしている人たちであり、その内の一人が連れて行かれると述べていますが、この男女がイエスの弟子ではないことは明白です。
もし、イエスの弟子なら「王国の良いたより」を宣べ伝えて、弟子としバプテスマを施しイエスの命令を守り行うよう教えているはずだからです。

連れて行かれる方の男女は、いわば「救われる男女」と考えられます。
つまり、
イエスの弟子でない人々【も】救われるということを示唆しています。

ものみの塔に属することは、カトリックやプロテスタントに属することと同じことです。
共に滅ぼされる定めにあるのです。

信仰は個人的なことです。
上のイエスの言葉にあるように、集団に属しているから救われるという考えは間違っています。

「囲いの中の羊」は集団に属していますが、「囲いの外の羊」は集団に属してはいないのです。
それゆえ、囲いがないのです。

未成年の時のバプテスマはカトリックの「幼児洗礼」と同じで、それは「無効」です。

 

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最後に。

では、バプテスマを受けるのに「誰のところに行くべき」なのでしょうかという疑問が残ります。

それは、真の崇拝を行っている人のところです。

その人が見つからなければ「心でバプテスマ」を受けていても、実際のバプテスマを受けたのと「同じ」価値があると「考える」ことが出来ます。

 

つまり、心で「自分の意思表示」をすることです。

神もイエスもこれを「認める」ことは、神の「ご意思にも叶う」ことだからです。

それでも、その後の生き方を「信仰」の生き方にしている必要はあります。

 

追伸

父と子と聖霊との名によってバプテスマを受けることに関して。

「幼い子」に聖霊が注がれた例や聖霊が関与した「記録」は聖書にありますが、それは、特別な場合です。

参考となるのは、

サムエルとバプテストのヨハネとイエスは幼い時から神の霊とみ使いが関与しましたが、

これらの人は「特別」な人で、普通の人ではこのようなことは現実にないのです。

また、

ゴリアテと対峙した少年ダビデはおそらく20-30代であったと思われます。

その時、ダビデはまだ父の下で暮らしていました。

他にも特別な幾つかの場合が記録されています。

 

バプテスマのような「一般的」な事柄に関したはありません

 

また、

聖書では「幼子」と言っても必ずしも「子供」とは限りませんが、一般的には子供のことです。

ですから、

幼い子」が「長い衣」を着て、それを「子羊の血で洗って白く」することは出来ません

なぜなら、祭司、あるいは、僧職者を表す「長い衣」を自らの意思で着ていないからです。

現代でも、霊的な意味でその立場にふさわしい「幼い子」は存在していません。

 

ただ、カトリックなどでは幼い子供に白くて長い衣を着せて「聖歌」を歌わせていることはありますが、聖書にその根拠はありません。

 

知恵を求める人のためのブログです。

初めに、このブログの内容に同意しない人がいることを承知で投稿しています。

そのような人は不快感を抱くと思います。

夫婦別姓に賛成の人は読まないでください

 

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国連による夫婦別姓に関する日本政府に対する勧告は「内政干渉」です。

国連は時に、あたかも世界政府の機関であるかのような発言をすることがあります。

国連は世界政府ではありません


なぜ、国連が日本にこうした勧告をするのかは分かりません。

確かに、日本は国連の加盟国ですが、だからと言って「内政干渉」される理由はないのです。

国連は単なる話し合いの場であって、協定などを国が批准しない限り勧告には従う義務はないのです。

各国が協議に参加しその話し合いの結果に同意する時その国はその結果を受け入れ実行し、

同意しない時にはその結果を実行する責任はないのです。

夫婦別姓は、日本社会の問題であって、国連は部外者です。

これを個人に当てはめると、
犯罪でもない事柄に、他人が自分のすることに「口出し」するようなものです。
個人が自由であるように、国家も他国や国連などの機関に対しても自由であるべきです。
これが自然なことです。

国連がこうしたことをするには「裏に隠れた意図」があるのです。
不満を持つ日本の誰かが国連に働きかけたことは明白です。

 

過去にも、国連は日本に対して、

人身売買をしているとか、性奴隷を行っているとか、女性を差別しているとかなど「誰かに吹き込まれたことを真に受けて」現実を良く確かめもせずに、日本に対して勧告などをしたことがあります。

 

何処の国にでもある「一面」を取り上げ、それが日本中で行われているかのように「問題発言」を国連は繰り返しているのです。

 

つまり、日本のことを十分知らないのに「誰かに言われた」ことを真に受けているのです。

どうして、国連でこのようなことが起きるかと言えば、国連の職員が「無知で思慮深くない」からです。

 

このように国連のすることは全く「ナンセンス」です。

ロシアやハマスの攻撃を止めることも出来ません

イスラム過激派やタリバンの女性の扱いを正すことも出来ないのです。

それは、より強い権限である拒否権を持つ「常任理事国」という「不公平な存在」があるからです。

 

日本よりISやタリバンの方が余程「深刻」なのに、日本の夫婦別姓に「口に出す」ことは

国連が無能であることの証明でもあります。

 

国連を利用する者も同じです。

現実に
ある国では、結婚しても名前の姓が変わりません

だからと言って、日本もそれに倣うべきだとは「片腹痛い」ことです。


現代では、結婚と名前の姓は結び付いてはいますが、これを重要なことと認識することが薄れてきています。
しかし
名前の姓はその家を代表するもの、かつ、識別するものですから、ある意味その家族は自分の名前の姓に関して「誇り」を持っているのが普通です。

夫婦別姓を求める人たちは、自分の名前の姓に誇りを持っていると言えます。
しかし
結婚して嫁いだ後は、嫁いだ先の名前の姓誇りに思うべきであり、れが結婚を意義あるものにしていることも事実です。

 

夫婦別姓は、単に二人が同居するような結婚をする人たちの思いです。
すなわち、その家(親族)に嫁ぐという考え、意思がないことの表れです。

こういう考えの人は結婚すべきではありません
良く言われることは「仕事がしずらい」とか、それまで築き上げて来たいわゆる「名声」が名前の姓が変わることで、失われると考えていることです。

そういう人は結婚する資格がないと言えます。
いわゆる本当に「嫁いではいない」からです。

嫁ぐとは夫に対するより夫の家に嫁ぐことの意味合いが強いのです。

つまり、家族(親族)の一員となるということです。

夫に従うというより義理の父母に従うということの意味合いが強いのです。
それは親との同居あるいは別居とは別の問題です。

 

それゆえ、日本の法律や慣習で夫婦は同性であるべきとなっているのです。

実際、私は妻の実家に嫁いだという考えも気持ちもありません

だからと言って、妻の実家をないがしろにしてはいません。
一方、妻は私というより私の家に嫁いだという意識が強いです。
そのため、自分の実家と同じように私の実家も大事にしています
古い考えだと言うかも知れませんが、親族としては重要なことなのです)


夫婦別姓を求める人たちはこれを「ないがしろ」にするものです。
いやそうではないと反論する人もいるでしょう。

しかし、名前の姓にはそれ程の重みがあるのです。
一族の誰かが良いことをすれば、それは「一族の誉れ」となり、一族の誰かが悪いことをすれば、それは「一族の恥」となるのです。

 

その良い例が、

オリンピックで金メダルを取った。

ノーベル賞を受賞した。

日本一になった。

こうした人が親族からでれば「」となります。

親族だけでなく、その地域の誇りともなるのです。

 

悪い例が、

人を殺した。

強盗をした。

不倫をした。

セクハラ、パワハラなどをした。

こうした人が親族から出れば「」となります。

その地域の人でさえ、そのことに触れたくないものです。

家族の絆はそれ程強いものなのです。

家族を一つに結び付けているものは姓名なのです。
名前はそれ程重要なことなのです。

 

もし、こうした事柄が夫婦別姓や同性婚などによって失われれば、家族制度の崩壊、もしくは、喪失となってしまいます。

 

実際、通称として「以前の姓」を用いている人がいますが、

姓の異なる夫婦を見ると「違和感」を覚えるものです。

 

人類は、子孫繁栄と家族の安寧と社会の安定と人類の発展のために結婚を制度化」しました。

それを各国の事情に合わせてその国の法律が制定されています。

日本では、

夫婦別姓や同性婚なのどは明らかにこれを「破壊」する行為です。


夫婦同姓、あるいは、夫婦別姓は、その国の慣習でもあるのです。

ある国では良くても別の国では許されないことなのです。
それを他国、あるいは、国連などから改正せよと勧告することは不当なこと」です。

 

同じようなことをイスラム教国に勧告すれば、国連は「袋叩き」に遭うでしょう。

日本人の誰かが国連に働きかけたことは明白です。

その日本人日本人を止めるべきです。

 

日本人と結婚した外国人でさえ、日本の法律や慣習に従っているのです。


日本の法も慣習も古いと考え、アメリカなどの考えを日本に持ち込もうとすることは、

ある意味、日本人の「誇り」を捨てたようなものです。

 

あなたはどう思いますか?

 

追伸

少し過激な投稿をしました。

気分を害された人には謝ります。

しかし、男女間の交わりと名前は重要なのです。

日本において、夫婦別姓は日本民族の伝統や慣習を踏みにじるものです。

夫婦別姓は日本社会を変えてしまうことなのです。

 

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次回11月10日06:30の投稿は少し衝撃的な内容となっています。

次回のタイトルは、

聖書のコラム-65(未成年の時のバプテスマは有効となるのでしょうか)

です。

関心のある人は読んで見て下さい。

知恵を求める人のためのブログです。

以前にもこの問題について触れたと思いますが、改めて投稿します。

 

結婚の目的は通常子孫を設けることです。

普通はそのために異性と結婚をします。
古来より、子孫が多いことは様々な面で助けとなりました。
そのため、特に支配者、権力者たちは権力の維持のため「直系の男子」を必要としました。

江戸時代、藩主に直系の子供(男子)がいないと親族から「養子」を迎え「跡継ぎ」にしました。
現代でもこうしたことは行われています。

養子という制度を利用すれば同性結婚も在りかと思いますが、
自然の成り立ちからすると、同性婚は有り得ないことです。
現実に、動物の世界では絶対にありません

ある種の動物では、雄1匹(頭)に対して雌が大勢というのも少なくありません。
それは、強い雄が1匹(頭)でも多く子孫を残すためです。

それでも、生涯1対1の夫婦を貫く生き物もいます。
顕著なのが「鳥」の類です。

人間を造られた神の考えにも同性婚は有り得ません
1 神が人間を造られたその初めに、「男はその父と母を離れて自分の妻に堅く付き,ふたりは一体と

  なるのである」
  と言っています。
2 神が人間に与えた律法の中では同性愛者は「死刑」となっています。

つまり、異性婚が普通であり自然なことなのです。

ところが、現代では「自分の気持ちと体が一致しない」という人が多くなってきています。
また、
異性に愛情を感じない人も増えています。

最も、昔はこういうことを口にしただけでも「異常者扱い」されたため、自分の本心を話すことが出来なかったことも事実です。

歴史上の有名人の中にも同性愛者はいたと言われています。
ただ、表向きには出来なかっただけなのです。
それは、
非難、差別、暴力、迫害などを受けるからです。

現代は人権を優先させる時代ですから、同性愛、同性婚を望む人たちは「人権」を主張し「社会に自分たちを認めさせようとしています。

しかし、
人権人間の法律であり、人間の法律と神の法とは別のものです。
神の法人間の法律より「優先」されるべきものです。

 

あなたはどう思いますか?

 

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参考

同性愛や同性婚を希望する人は、結婚という人類普遍の法則を「冒涜」しているという意見もあります

あるいは、人間の創造者に対する敵対でもあるとも言われます。

 

もし、神の世になれば同性愛者や同性婚をする人たちは間違いなく滅ぼされます

最も、このような人々は「神の世」には存在しません(それ以前に滅ぼされているからです)

 

ノアの大洪水前の世では、神のみ使いたちや人々による「淫行」が蔓延(はびこ)っていました。

-創世記6:11-12、ペテロ(二)2:10

ソドムとゴモラは「甚だしい淫行」が行われていました。

-創世記19:4-5、ユダ7、(参考:レビ記18:22)

これらの人々の中には同性愛者も含まれていました。

 

共に、神により滅ぼされています

 

また、パウロはローマにいるクリスチャンたちに対してローマ1章で、

ローマ1章
イエス・キリストの奴隷であり,使徒となるために召され,神の良いたよりのために分けられたパウロから― 

7 聖なる者となるために召され,神に愛される者としてローマにいるすべての人たちへ:


15 それで,わたしには,ローマにいるあなた方にも良いたよりを宣明したいという意欲があるのです。16 わたしは良いたよりを恥じてはいないからです。実際それは,信仰を持つすべての人にとって,すなわちユダヤ人を初めギリシャ人にとっても,救いのための神の力なのです。

17 信仰のゆえに,また信仰のために,神の義がその中に啓示されているのです。「しかし義なる者―その者は信仰によって生きる」と書かれているとおりです。
18 神の憤りは,不義な方法で真理を覆い隠している人々のあらゆる不敬虔と不義とに対して,天から表わし示されているのです。

19 神について知りうる事柄は彼らの間で明らかだからであり,神がそれを明らかにされたのです。

20 というのは,[神]の見えない[特質],すなわち,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言い訳ができません。

21 彼らは,神を知りながら,それに神としての栄光を付さず,また感謝せず,その推論するところにおいて無能な者となり,その悟りの悪い心は暗くなったのです。

22 自分は賢いと唱えながら,彼らは愚かとなり,

23 不朽の神の栄光を,朽ちる人間の,また鳥や四つ足の生き物やはうものの像のようなものに変えました。
24 そのため神は,彼らをその心の欲望に合わせて汚れに渡し,彼らの体が彼ら自身の間で辱められるようにされました。

25 すなわちそれは,神の真理を偽りと換え,創造した方より創造物をあがめてそれに神聖な奉仕をささげた者たちです。[創造した]方こそ永久にほめたたえられるのです。アーメン。

26 このゆえに神は,彼らを恥ずべき性欲に渡されました。その女性は自らの自然の用を自然に反するものに変え,

27 同じく男性までが女性の自然の用を去り,互いに対し,男性が男性に対して欲情を激しく燃やし,卑わいな事柄を行なって十分な返報を身に受けました。それは彼らの誤りに対して当然なものです。
28 そして,ちょうど彼らが正確な知識をもって神を奉ずることをよしとはしなかったように,神も彼らを非とされた精神状態に渡して,不適当な事柄を行なうにまかされました

29 彼らがあらゆる不義・邪悪・強欲・悪に満たされ,ねたみ・殺人・闘争・欺まん・悪念に満ち,ささやく者,

30 陰口をきく者,神を憎む者で,不遜,ごう慢,またうぬぼれが強く,有害な事柄を考え出す者,親に不従順な者であり,

31 理解力がなく,合意したことに不誠実で,自然の情愛を持たず,憐れみのない者であったからです。

32 こうした事を習わしにする者は死に価するという,神の義なる定めを十分に知りながら,彼らはそれを行ないつづけるだけでなく,それを習わしにする者たちに同意を与えてもいるのです。

ローマ1:1-32
 

同性愛や同性婚は「真理を逸脱」するものです。

知恵を求める人のためのブログです。

ロゴセラピーとは、
人が自らの「生の意味」を見出すことを援助することで心の病を癒す心理療法のこと。
創始者は、神経科医で心理学者のヴィクトール・フランクル。
彼はユダヤ人でありホロコーストの生還者です。

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ロゴセラピーは、人は実存的に自らの生の意味を追い求めており、その人生の意味が充たされないということが、メンタルな障害や心の病に関係してくる、という見解を基にしています。(心的な疾患は、当事者に人生の意味に関して非常に限定的な制約を課していると言える。)

ロゴセラピーを施す人は、人にその生活状況の中で「生きる意味」を充実させることが出来るように、あるいはその価値の評価の仕方を変えることが出来るように援助しようとする人です。

そのためロゴセラピーは手法として、実存主義的アプローチをとり、下記の3点を基本仮説とします。

1  意志の自由 - 人間は様々な条件、状況の中で自らの意志で態度を決める自由を持っている。

決定論の否定

(参考:決定論とは

 人間の意志は、自然法則・神・運命などによって必然的に規定されている

 そのため、意思の自由や歴史の形成を主張するのは、その決定原因を十分に知らないことが原因だ

 とする立場、考えのことです。⇒いわば、運命論です。

 これに対する反対論 ⇒ 自由意志論です。)

2  意味への意志 - 人間は生きる意味を強く求める。
3  人生の意味 - それぞれの人間の人生には独自の意味が存在している。
(2、3項は、いわば、人生の「意義」を明確にしようとする試みです。)

 

フランクルは、人の主要な関心事は快楽を探すことでも苦痛を軽減することでもなく、「人生の意味を見出すこと」であるとしています。

 

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

ロゴセラピーの3つの基本仮説は、私の推し進める点と一致しています。

すべての人は「物事を自分で決めるべきである」という点です。

しかし、それには「自己責任」も伴う点を付け加えます。

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この点、ものみの塔は、それまで世の中の常識に沿った生き方をしている人新たな生き方に、いわば、引きずり込んでいると言えます。

 

つまり、自発的にエホバの証人の世界に入るのではなく

勧誘によって信者にならせているということです。

エホバの証人になる多くの人は、人生に悩んでいる訳でも、貧しい人々でも、知識も教養もない人々ではありません
つまり、相手の人の良さに付け込んで、「蛇=悪魔」がエバを「たぶらかした」ように人々を「騙して」いるのです。

 

どのようになされているかと言えば、

世の中の「悪」を列挙し、これらが間もなく滅ぼされ新しい世、キリストの世で平和で安全に暮らせる希望があると伝えることによってです。

しかも、信者になれば「永遠の命」が保証されているとも話すのです。

 

そして、これらをあたかも「学校で学ぶ」ように教科書=ものみの塔の書籍を使って、それを読ませ質問に答える形で「知識=ものみの塔の教理」を次々と「頭に入れて=洗脳して」行くのです。

 

学ぶ方は、信じる信じないを別にしてただ文章の中から正しいと思える点を答えて行く」のです。

 

そして、ある時期になると集会への出席を勧め、定期的に集会へ出席するようになると「注解」することを勧めたり「伝道活動に参加」することを勧めて行くのです。

 

こうした行いや振る舞いが既にエホバの証人となっている人たちと「同等」と見なされると

バプテスマを受けることを勧められ、ついに、バプテスマを受けエホバの証人となって行くのです。

 

その過程で「家族」にも話すよう勧め、「家族」も将来エホバの証人になることで、「信仰の不一致」を避けられると「主張」するのです。

 

こうしてエホバの証人になった、いわゆる「宗教2世」は非常に沢山います

 

こうした形式を通じて、多くの人がエホバの証人となり、ものみの塔の指示に従って来たのです。

今現在も同じです。

 

信者になると、ものみの塔は信者に対して「従順」いわば「絶対服従」を求めるのです。

ものみの塔の雑誌や書籍の内容には、主な教理に加えて、繰り返し示されているのは従順」と「不従順」とその結果についてです。

加えて、もし会衆から離れ「世に戻る」ことは、「悪魔の側」に戻ることになり、それは「滅び」を意味するということを「繰り返し話す」ことで「洗脳」し続けているのです。

(この点は、旧統一教会も同じです。)

 

ところが、「宗教2世」たちの多くは、成長するにつれて「多くの葛藤や疑問」が生じ、離れて行く人が少なくないのです。

 

当人である親は「勧誘」によって信者になったのに対して、「宗教2世たち」は、ある意味親からの【強制】」によって信者になったという違いがあります。

(参考:「強制」に関して、

「子供たちよ、主と結ばれたあなた方の親に従順でありなさい」と記されていることを親子で実践し

 ているからです。-エフェソス6:1、コロサイ3:18-25

 これは勧めでありながら「命令」に近いものだからです。

 子供は親に逆らえないのです。

 というより、許されていないのです。)

 

実際、会衆内での「様々な【教えと違う】点を見聞きし、実際「悪と思える」事柄にも接し」、

そのため「葛藤や疑問」を感じ「離れていくるのです。

 

「宗教2世たち」は「自分に正直」なので「繕ったり」することは殆どありません

そのため、親に「反発」するようになるのです。

 

こうして、ものみの塔の「思惑」とは異なりエホバの証人の家族間で信仰の不一致」が形成されているのです。

 

勿論、当の本人(親など)は「洗脳」されているので「信じ切っている」訳です。
ものみの塔の指示に従うことが正しいことだと
事物の体制の滅びを生き残るには「他に方法はない」と思い込まされている訳です。

 

ものみの塔やエホバの証人に対して「疑問」を感じた「宗教2世」と信じ切っている親との対立は、親が信じ切っている限り「解決することは絶対にありません

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一般的に、
殆どの人は、初めから人生の意味や人生の意義や自分の人生の目的などを意識して成長してきた訳ではありません
何も知らない所から人生をスタートさせ、言葉を覚え、歩くことが出来るようなり、自分の思いや感情を表すようになり、様々なことを学習しながら成長し、学校で知識を学び、就職をし会社で技術を覚え、結婚し生活を楽しんだり悩んだり子育てをしながら「人生という時」を過ごしているのです。
こうした時の中で、何かに悩んだ時初めて「人生の意義、目的」などを考えるものです。

そして、その答えに関して、人は各々「自由」であり、誰かに教えられることはあっても、その決定は誰からも指図を受けたり強制されたりするものではありません

 

ものみの塔は「真の神への真の崇拝」よりも「永遠の命」という言葉を用いて、いわば、人生の目的を誘導、もしくは、強制しているのです。
 

繰り返しになりますが

聖書研究と言って、書籍を用いることで「聞く人に受け入れやすい」ようにしているのです。

これにより、教えている人の「個人の考えではない」という点も「受け入れやすい」ものにしています。
書籍を用いることで、「書籍の内容は正しい」と、教える人と教えられる人が「共通の認識」のもとに、いわば、学校で学ぶかのように、殆ど疑問の余地を残さないように、「質問と答え」という形をとることで、「理解や確信」がなくてもただ「文章の中のそれらしい答え」を答えさせることで相手にものみの塔の考え」を植え付けて、つまり、洗脳しているのです。

(参考:以前文章という形にすると「信じ易くなる」という内容のブログを書きました。)
 

ものみの塔の考え」と言ったのは彼らの聖書の見解が正しいとは限らないからです。
彼らの行いや振る舞いは「真の崇拝者」としては正しいものではないことは明白です。

 

ロゴセラピーという考えからすれば、

ものみの塔は「個人の自由」を逸脱していることは「明白」です。

 

なせなら、

聖書を読むと分かりますが、

「イエス・キリストについての良いたより」を「聞いて信じた」人が自発的にバプテスマを受けたからです。

エホバの証人のように「勧められて」受けたのではありません

エホバの証人の場合は、信じたと言うより「永遠の命」を得たいという希望で受けているからでもあります。

 

あなたはどう思いますか?