知恵を求める人のためのブログです。

世の中は「」が支配しています。
知性で支配することを人々は考えますが、大抵は「力」に屈するものです。
それでも、「力」に知性が加われば、いわゆる「鬼に金棒」となるでしょう。
つまり、権力者に有能な参謀が付けば大抵の物事は思い通りになるということです。
この場合、権力者が望めば平和な社会を築くことは可能です。

では、宗教で平和を実現出来るでしょうか
古代イスラエルや現在のアフガニスタンやイランなど中東のイスラム教国などは宗教、つまり、神が支配しています。
イスラエルでは、神のおきてを守っている限り「平和」は維持されました

キリスト教国ではそうではありませんが、イスラム教国では戒律や祈りや食事などに厳しい規則があり皆それを守っています。
しかし、どちらの国でも様々な問題が出現し平和は程遠い状態です。
その原因の一つに人々の不満があります。

宗教は政治ではないので、世の中のあらゆる事柄に関わっている訳ではありません。
従って、宗教で平和を築くことは困難です。
それでもブータン王国のように信心深い人が多く平和な社会を築いている国もあります。
これは希な国の一つでしょう。

平和ということは「争いがない状態」です。
国内では、宗教の教えを守ることで平和を維持出来るかも知れません。
信者の行いの代表的なことは「教えを守る」ことと「祈り」です。

では、宗教による「平和への祈り」は実現するのでしょうか
宗教の「祈りに力」はあるのでしょうか

結論から言えば、
祈る相手が「真の神」で、その神が祈りを聞いて下されば「あらゆることが可能となります」

しかし、祈る相手が「真の神」でなければ、例えどんなに祈っても実現することは決してありません。

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今の世の宗教は平和には全く無力だという証があります。

先々代ローマ教皇の故ヨハネ・パウロ2世が冷戦時代の1986年10月に宗教指導者をアッシジに招き、「世界平和の祈りの集い」を開いたことは有名な出来事です。
世界平和を祈願するサミットに世界約60カ国からキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教、神道などの宗教指導者511人と約1万2000人の巡礼者らも集まったとされています。

彼らの祈りは聞かれたでしょうか?
結論は否です。

その後世界はどうなったでしょうか?
1980年以降世界の主要な紛争は以下の通りです。
1980年~1988年 - イラン・イラク戦争
1982年 - フォークランド紛争
1983年 - グレナダ侵攻
1979年―1990年 - 中越国境紛争
1990年~1991年 - 湾岸戦争・Category:湾岸戦争
1991年~2000年 - ユーゴスラビア紛争
1991年~1995年 - クロアチア戦争
1992年~1995年 - ボスニア紛争
1999年~2000年 - コソボ紛争
1991年~(継続) - ソマリア内戦
1994年 - イエメン内戦
1994年~1996年 - 第一次チェチェン紛争
1999年~2009年 - 第二次チェチェン紛争
2001年 - 2001年バングラデシュ・インド国境紛争(英語版)
2001年~2021年 - アメリカのアフガニスタン侵攻(対テロ戦争)
2001年~(継続) - パキスタン紛争
2003年~2011年 - イラク戦争
2006年 - イスラエルのガザ侵攻・レバノン侵攻
2006年 - エチオピアのソマリア侵攻
2006年~2009年 - スリランカ内戦
2008年~2009年 - イスラエルのガザ紛争
2011年 - リビア内戦
2011年~(継続) - シリア内戦
2012年~(継続) - マリ北部紛争
2014年 - イスラエルのガザ侵攻
2014年〜(継続) - ウクライナ紛争
2015年〜(継続) - イエメン内戦
2017年 - マラウィの戦い
2020年〜(継続)2020-2021ミャンマー反乱
2022年〜(継続) - 2022年ロシアのウクライナ侵攻
2023年~(継続) - 2023年パレスチナ・イスラエル戦争
・・・

戦争がなくなるどころがむしろ増えていることは事実です。
世界は、平和よりも自己主張と争いを激化させています。

これらの国には国教もあり、また、戦ったすべての人々はアッシジに集まった宗教指導者と同じ宗教を持つ人々です

一体何のために宗教指導者はアッシジに集合したのでしょうか
皆同じ平和と言う願いを「各々自分たちの神に祈った」と思われることから、彼らの神はどれ一つとっても「真の神」ではなかったことを証明したようなものです。

つまり、彼らの「平和の祈り」に「力」がなかったことは明白です。

彼らは一体「何」に祈ったのでしょうか?
目はあっても見えず口があっても利けず足があっても歩けず手があっても触ることもものをつかむことも出来ない
いわゆる「偶像」に祈ったのです。
あるいは、存在しない「幻想の神」に祈ったのです。
祈りが聞かれるはずはないのです。

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彼らの祈りを見て思い出すのは、列王(一)18:17-40の記録です。
エホバを崇拝するエリヤバアルの預言者450人との、互いの神に対する「祈りの力の対決」です。
バアルの預言者の祈りにバアルは全く何も応えません。
一方、エホバはエリアの祈りに応え天からの火をもたらし全焼の捧げ物と石と土を焼き尽くしました。
これを見てイスラエルの民は「エホバこそ真の神です!エホバこそ真の神です!」と言ったのです。

アッシジの祈りによって「世界に平和」が訪れるどころか紛争が頻発していることは、アッシジに集まった宗教と彼らの神はバアルと同じ「無力な神」だと断言出来ます。

ところが、最近ローマ法王がアッシジでしたことと同じことをまた繰り返そうとするかも知れないというニュースを耳にしました
結果は以前と同じになることは明かです。

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聖書には「事物の体制の神」という言葉が出て来ます。
別の言葉では「世の支配者」-ヨハネ14:30
空中の権威の支配者不従順の子らのうちに働いている霊」-エフェソス2:2
全世界が邪悪な者の支配下にある」-ヨハネ(一)5:19

これはバアルとは異なるものです。
一般的には、バアルは嵐と慈雨の神とされています。
その像は偶像です。
聖書には他にも「糞像」という言葉が多く出て来ます。
この像も偶像です。
これらは、列王記やエゼキエル書に記されているような「無力」の存在です。
古代に於いてこうした「」を崇拝し、その崇拝者たちは、時にはエホバに滅ぼされています。

大半の宗教の神は「バアルや糞像と同じ」で「無力な存在」ですが、
この「事物の体制の神」は実際に存在し、また、力ある者で、別名「悪魔、また、サタン」と言い、
真の神エホバに逆らう者です。

 

世の宗教は、いわゆる「悪魔」に祈ったりすることはありません
したがって、
力ある「事物の体制の神」に祈る宗教は存在しないということになり、この神が「力」を表すこともないわけです。

実際、この「事物の体制の神」は自分を光の使いに変様させていると記されています。-コリント(二)11:14
つまり、「キリストについての良いたより」を惑わす存在として現れるのです。

更に「事物の体制の神」は「真の神との戦い」のために世に三つの汚れた霊感の表現を「人の住む全地の王たちのもと」に送り込んで「全能者なる神の大いなる戦争に彼らを集める」と記されています。

 

「13 そしてわたしは,かえるのように[見える]三つの汚れた霊感の表現が,龍の口から,野獣の口から,偽預言者の口から出るのを見た。

14 それらは実は悪霊の霊感による表現であってしるしを行ない,また人の住む全地の王たちのもとに出て行く。全能者なる神の大いなる日の戦争に彼らを集めるためである。」

-啓示16:13-14

従って、
アッシジに集まった様々な宗教指導者たちの「平和の祈り」に、この「力」ある「事物の体制の神」が応じることはないのです。

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しかし、終わりの日の今日真の神エホバは「世界平和」の祈りに応えることはありません
そうであれば、アッシジに集合した宗教指導者たちが祈った「偶像」と同じではないかと言うかも知れません。

そうではなく、真の神は、彼らを含めこの事物の体制を滅ぼすことを意図しておられるのです。
そのための「しるし」も示しています。
それゆえ、今の世では「世界平和」に対する祈りには応えないのです。

更に、
ものみの塔の代表である統治体やエホバの証人が「信者の安寧」をエホバに祈っても聞かれることもないのです。
彼らの間には「信仰と直接関わりのない数々の悩みや問題が山積」していますが、それでも彼らがいくら祈っても聞かれることはないのです。

これをどのように捉えるかですが、
聖書では、真の崇拝者たちには「信仰に直接関わりのある苦難や忍耐や試練」が起こることが示されています。
-【参考】マタイ10:16-21
ですから、真の崇拝者たちは「神に守られる」ことはあっても「自分たちの祈り」は聞かれないのです。

信仰には、忠実と忍耐が求められます。
ですから、今の体制内で生きている限り「平和と安寧」の願いは決して達成されることはないのです。

今は忍耐しながら神とイエス・キリストの再臨を「待つべき」時なのです。
天において再臨していても、地上に再臨することはまだだからです。
その時を「ずっと見張っていなさい」とイエスは言われ、更に、「終わりまで耐え忍んだ者が救われる者です」と断言されたのです。-マタイ25:13、マタイ10:22

加えて、その再臨は直接目にすることは出来ません
なぜなら、「雲と共にやって来る」からです。-マタイ24:30、ヨハネ14:19、啓示1:7
つまり、
イエス・キリストの再臨を【見る】には霊的識別力が必要なのです。

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【最近の事例】
神道・仏教・キリスト教で合同の祈り 東日本大震災 鶴岡八幡宮で祈願祭
2020/3/11 

東日本大震災の発生から9年を迎えた11日、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮で、神道・仏教・キリスト教の3つの信仰による合同の復興祈願祭が開かれ、僧侶・司祭・牧師ら約80人が舞殿で祈りをささげた。

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、事前の周知を避けるなど規模を大幅に縮小して実施したが、境内には市内外から多くの人が集まった。震災発生時刻の午後2時46分に黙祷(もくとう)した。

同市では、震災発生の1カ月後にあたる平成23年4月11日、鎌倉宗教者会議の主催により、同神社で合同祈願を実施。以降、毎年3月11日に建長寺や円覚寺、カトリック雪ノ下教会などが持ち回りで開催し、今回が10回目。同神社での開催は4回目となった。

同会議の朝比奈恵温事務総長(浄智寺住職)は、「震災時のことを思い出し胸が痛む。復興はまだ道半ば。これからまた頑張らないといけない。信仰は違っても被災者の希望のために祈る気持ちは変わらない」と話した。

凝りもせず同じことが繰り返されています
世の中では、こうしたことは「良いこと」として認識されているということです。
これに異論を唱えるのは、エホバの崇拝者(ものみの塔に属さない)とエホバの証人位(ものみの塔に属するでしょう。

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参考:キリスト教の信者が仏陀やアラーに祈りをすることは考えにくいことです。
他の宗教も同じです。
なぜなら、自分が信じている「対象」もその「手段」も異なるからです。

聖書の神とイスラム教の神アラーとは、特に戒律においては大変似ています。
なぜなら、イスラム教の原点はモーセの律法だからです。
いわば、ユダヤ教キリスト教イスラム教は「兄弟」のようなものです。
(そのため、今のエルサレムにおいて、これら三つはある意味共存しているのです。)
しかし、キリスト教の信者は決してアラーには祈ることをしません
 
ところが、大抵の宗教は「信仰合同」を認めているのです。
良く言われることは、
宗教を道に例えて、道は異なるが「目的」「願い」は同じだと
 
確かに、どの宗教でも大抵は、平和と安全と物事の成功などの達成を祈ります。
人々や信者はそれを信じ、日本では神仏に日々祈っています。
別の言い方をすれば、
これは、同じことを異なる神に祈っているだけだということになります。
アッシジの集まりはこうしたことが「背景」としてあるということです。

ちなみに、「信仰合同」という言葉は1953年(英文 同年日本語版)にものみの塔が定義した言葉です。
しかし、その後この「信仰合同」という言葉を頻繁に使っているにも関わらず、その定義は全く説明されてはいません
ものみの塔は「信仰合同」という言葉の定義について「自明」であるとでも言うのでしょうか

信仰合同」の定義
1 すべての人は神の子供だから、どんな方法を用いて崇拝しても良いという考え。
2 誠実であれば何をしても神は受け入れて下さるという考え。
3 共通の目的のためであれば異なる信条の制度(異なる宗教)と合同出来る(祭祀を共に行うこと

  が出来る)という考え。
この三つの考え、および、その行いを「信仰合同」としているのです。

ものみの塔はこうした考えの基に信仰合同という言葉を用いています。
ものみの塔は「信仰合同」を否定しています。
そのため、エホバの証人であれ、元エホバの証人であれ、大抵はエホバ以外の神を崇拝することはなく、また、偶像崇拝もしないのです。

こうしたことをどのように考えるかはあなた自身の問題です。
これは信仰の問題だからです。

ただ、すべての人は「結果責任を問われる」という事実には変わりはありません

 

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追記

第二次世界大戦後、世界はいわゆる東西に分裂しアメリカとソ連の冷戦時代の入りましたが、

それでも紛争や戦争は無くなりませんでした。

 

現在の世界の紛争を見ていると、

1 イスラム過激派などのアメリカの「自分たちの領域に対する侵攻」に対する反撃でした。

  その象徴がウサーマ・ビン・ラーディンでした。

  つまり、アメリカが他国に余計な口出しをしたから生じたこととも言えます。

2 ソ連のいわゆる南下政策がアフガニスタンやチェコ侵攻などを引き起こし、ソ連解体後ロシアに

  なって、プーチンはいわばソ連時代の地域を奪取しようとして独立したかつてのソ連の共和国を

  自分の支配下に置くためにバルト三国やウクライナやロシア南部地域でも度々紛争を起こしてい

  ます。

3 これに加え、ハマス(イスラム教)が「パレスチナの長年の虐げ」に我慢できずイスラエル(ユ

  ダヤ教)に戦争を仕掛け戦いが続いています。

  卑怯にも「人質」を取って戦っているのです。

  これは、いわゆる「テロ」と言える行動です。

 (「パレスチナの長年の虐げ」、これはイギリスの責任でもあります。

  当時、イギリスはイスラム勢力を抑えるために、「二枚舌」を使ったことが発端です。

  いわゆる、「アラビアのロレンス」を利用(潜入させた。スパイのような存在にさせられた)し

  たのです。)

  かつて、捕虜以外で人質に取られた戦争はありませんでした

  この点、如何にハマスが悪質であるかが理解出来ます。

  イスラエルのガザへの攻撃で残虐だと非難されていますが、ハマスの人質作戦が原因なのです。

 

  もし、これがイスラエルではなくアメリカだったら

  おそらく、人質解放のためハマスの要求を飲んだでしょう。

  しかしアメリカはその後の反撃の機会を「いつまでも」窺っていて、いつの日か「大義名分」

  をでっち上げハマスを壊滅に追い込むのです。

  イラクのように。

  アメリカとはそういう国なのです。

 

  いすれにしろ、アメリカとイギリスはイスラエルの支援を止められないのです。

  これは、いわば、チャーチルとルーズベルトの思惑に端を発する「因縁」でもあるのです。

 

3番目が加わったことで、

世界はキリスト教とユダヤ教とイスラム教の、いわば宗教戦争になりました。

キリスト教とユダヤ教は手を結んでイスラム教と戦っている構図です。

 

こうした状況を鑑みて言えることは、

ロシアとイスラム過激派の存在が無ければこれらが紛争を起こさなければ、現在の戦争はおこらなかったと言えます。

それ以前に、アメリカが世界の覇権のために「力の誇示」をしなければ、小さい紛争はあっても現在のような世界を巻き込む戦争にはならなかったのです。

(これが、ロシアやイスラム過激派などの「火種」になったことは明白です)

 

こうした点で、宗教は世界平和に全く役に立たなかったのです。

 

あなたはどう思いますか?

知恵を求める人のためのブログです。

動物のようにとは言いませんが、

人間は本来、自分のやりたいことを自由にしたいと思っているものです。
平和で安全で穏やかな環境の下でそうしたいのです

誰しも、争いは望んではいないのです。

では、なぜ争いや問題が生じるのでしょうか
それは、
人間に付与されている「自由な精神」が原因の一つでもあります。
つまり、
すべての人は、生れつき宗教の下で育てられた人を除けば、「自由な精神」を持っています。
この自由な精神」が「他の人との違い」を生じさせる原点です。

気の合う人そうでない人がいるのは
主に、その人の考えや性格や振る舞いによるものです。

こうした事柄は、「自由な精神」の下に行われていることは明らかです。
誰もこれを縛りつけることは出来ないのです。

例え、兄弟で生まれ同じ環境で育っても「異なる」のです。
誰しも分かっていることです。

しかし、この「自由な精神」が「人間の多様性」を生じさせ、それが人類の発展や繁栄に繋がって来たことも事実です。


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では、どうすれば、
平和で安全で穏やかな環境の下で争いもなく自由に生きられるでしょうか?

ただし、
災害、あるいは、病気やケガや事故や死など人間にはどうしようもないことについては除外します。

 

この話しを1つの国に限定して話しますと、
それは、
完全な法律」の下で暮らすことです。
すべての人がこの完全な法律を完全に守る」ことが条件です。

この法律の下では、他の人を傷付ける個人の独善的な利己的な考え、言動、振る舞いなど「容認」されないことも条件の一つです。
こうした下にあっても、人間の「自由な精神」は可能です。
つまり、他の人を害さない「様々なアイデア」を行うことは何の問題もないのです。

例えば、
理想的な家を建設するとか、
犬やネコなどの自分の好きなペットと自由に暮らせる環境を作るとか、
自分の着たい服装をするとか、
園芸をしたり農作物を育てたり、
思い通りの献立を作ったり、
車ではなく乗馬を楽しんだり、移動手段に使ったり、
家の周囲を庭園のようにしたり、
自分のやりたいスポーツ(健全なものに限る)などをするとか、
例えば、走ること体を鍛えること水泳、登山、トレッキングなど。

こうした「大きな枠組み」の中での「自由」こそが「真の平和と安全」をもたらすのです。

しかしながら、現在世界中を見ても「完全な法律」を制定している国は一つも存在しません
また、その不完全な法律でさえすべての国民が完全に守っている国も存在しません

それゆえ、国内外での争いが無くならないのです。

時にはそれが戦争という形で生じ、悲惨な目に遭遇する人もいるのです。

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真の平和と安全実現するために
例えば
聖書の中のモーセの律法と言われるものを活用することが出来ます。
律法の中には、ある人々が受け入れられない部分もあります

例えば、死刑や動物の犠牲など。
それで、
律法の中の、いわゆる「司法上の定め」「法令」と言われるもののみを抜粋することも出来ます。

動物の犠牲の殆どは「罪の許し」のためのものですから、これを「除外」することです。
(参考:これはあくまでも現在の世で行うとしたらというものです。
 神の支配の下では、おそらく、動物の犠牲は無くなります
 もはや、人々は罪を犯さないか、あるいは、もし罪を犯したら即座に滅ぼされてしまうからで

 す。)

ただ、動物の犠牲の代わりになる法を定めれば良いのです

いわゆる罪を犯した人はその償いはしなければなりませんから

律法の中には、1年を通じて「神に対する感謝」を示す行事等が沢山あります。
神に対する感謝は大抵「焼燔の捧げ物」として行われます。
その捧げ物に対する幾つかの条件もあります。
何でも捧げれば良いというものではありません。

今の世でも、これらを行うことに何の問題もありません。

しかし、
この中の動物の犠牲を他の物に代える必要はあります

こうして、今の世でもモーセの律法を参考に「完全な法律」を作ることは可能です。

そして、それを完全に守ることで「平和と安全」な世の中で暮らすことは可能なのです。

もし私にその力と権限があれば、そのような国を建設したいと思います。
ただし、悪事、悪行を行った者たちには「厳しい処罰」があります。
完全な法律は「絶対」なのです。

特に、親は自分の子供たちに幼い時から「完全な法律」とそれを守ることの重要性と「決して悪事、悪行」を行ってはならないということを日々、いつでも教える必要があります。
起きる時も寝る時も、また、何をする時にも親は子供にそれを教えなければならないのです。

そうすることが、自分の子供が物事を上手く運び、また、命を長らえさせることが出来るのです。

モーセの律法にも同様のことが記されています。
こうしたことは「当然」のことなのです。

脅しでも警告でも強制でもありません。
本当に子供のためなのです。

洞察力や理解のある人には分かって貰えると思います。

あなたは上記に述べた世界、国で生き続けたいと思いませんか?

私がこうした国を作らなくても
神は間もなくこうした世の中にして下さることになっています。
しかし、間もなくと言っても「神の時間」であって、「人間の時間」からすれば、少なくともあと1000年(物理的な時間)は掛かります。

完全にこうした国にするためには
他にもすることが沢山あるからです。

その幾つかは、
悪魔の影響を無くすことと人間の罪を無くすことです。

 

人間の罪を無くすとは病気や死や嘆きや苦しみなどを無くすことです。
これには時間が掛かるのです。
物理的な時間ではありません
霊的な意味での時間です。
つまり、
人間の罪を浄めるには時間が掛かるのです。

あなたも「望むなら」こうした希望を手に入れることが出来ます

イエス・キリストは言いました。
イエスはご自分の強力な業について言及された時、
「20 それから[イエス]はご自分の強力な業の多くがなされた都市を非難し始められた。それらが悔い改めなかったからである。
21 「コラジンよ,あなたは災いです! ベツサイダよ,あなたは災いです! あなた方の中でなされた強力な業がティルスやシドンでなされていたならば,彼らは粗布と灰の中でずっと以前に悔い改めていたからです。
22 したがって,あなた方に言いますが,裁きの日には,あなた方よりティルスやシドンのほうが耐えやすいでしょう。

23 そしてカペルナウムよ,あなたが天に高められるようなことがあるでしょうか。あなたはハデスにまで下るのです。あなたの中でなされた強力な業がソドムでなされていたならば,[ソドム]は今日この日に至るまで残っていたからです。
24 それであなた方に言いますが,裁きの日には,あなたよりソドムの地のほうが耐えやすいでしょう」。
25 その時,イエスはこたえ応じて言われた,「天地の主なる父よ,わたしはあなたを公に賛美します。あなたはこれらのことを賢くて知能のたけた者たちから隠し,それをみどりごたちに啓示されたからです。
26 そうです,父よ,このようにするのは,あなたのよみされるところとなったのです。
27 すべてのものは父によってわたしに渡されており,父をほかにすればだれも子を十分には知らず,また,子と子がすすんで啓示する者をほかにすれば,だれも父を十分には知りません
28 すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう
29 わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう
30 わたしのくびきは心地よく,わたしの荷は軽いのです」。
-マタイ11:20-30

あなたはこのイエスの言葉を聞いてどう思いましたか?

現代に於いて、イエスの強力な業は行われていません。
強力な業とは、イエスのように「真理」を語り「奇跡」を行い「神の力」を示し「神に賛美と誉れ」を期す業のことです。

イエスから学ぶ者は、イエスが言われたように「さわやかなもの」を、つまり、すがすがしいと言うか気持ちの良いものを感じられるかも知れません。

しかし、
「救われる者」となるとは言われませんでした
「救い」は、この先にあるのです。
つまり、
聞いた事柄に「どのように反応し、どのように行動」するかに掛かっているからです。

上記に述べた「希望」を自分のものにしたいと思う人は、
先ず、イエスから学ぶ「必要」があるのです。

これを聞いてあなたはどう思いますか?

人は、知らないことは学ぶ必要があります
物事を決定するのはその後のことです。

知識を学び、それを確かめ、更にそれを深く考えてから「決定」する必要があるのです。
そして、学んだ事柄に応じて「振る舞い、行動」することです。

ただ、聞いて学んだだけでは「不十分」なのです。
誰かに「言われて行う」だけでは「不十分」なのです。

(参考:ものみの塔のエホバの証人のすべての人々「言われて行っている」ことが殆どです。)

自ら考え、自らの意思で決定し行う必要があるのです。

なぜなら、自分の責任は自分で負わなければならないからです。

誰も、他人の責任を負うことは許されていないし出来ないのです。

あなたはこうした考えをどのように思いますか?
同意しますか?
それとも、幻想か妄想だと思いますか?

聖書には次のように記されています。
「13 聞かないうちに返事をするなら,それはその人の愚かさであり,恥辱である。
14 人の霊は病苦に耐えることができるが,打ちひしがれた霊については,だれがこれを忍ぶことができようか。
15 理解ある者の心は知識を取得し,賢い者たちの耳は知識を見いだそうと努める。」
-箴言11:13-15

あなたはこの言葉をどのよう捉えますか?

ここに示した聖書の言葉は、どの聖書でも確かめることが出来ます
いわゆる旧約聖書と新約聖書の中の言葉です。
ただし、翻訳により多少表現が異なりますが、その真意は皆同じです。
つまり、
本来書かれた言語、ヘブライ語やギリシャ語で書かれた「原本」は皆同じだからです

 

++++++++++++++++++++++++++++++++++

更にこの話を世界的な観点で話しますと、

様々な民族、思考、主義が異なる国々は一つの国のような、いわば変革をすることは不可能と考えられます。

 

つまり、人類は一つの国では可能であっても、世界を一つの状態に「纏める」ことは出来ないということです。

 

国家間においては、様々な独立した民族とその歴史があり、資本主義と社会主義の対立や民主主義と共産主義の対立があり、様々な伝統的な宗教と新興宗教は互いに相容れず、これらの国内においても一つに纏まっている国は文明が発達した国では存在しません

 

こうした状況にあって、上記に述べたような「完全な法律」を制定しそれを厳守させることは、

人類には不可能です。

 

人類が長い歴史の上で築き上げて来たすべてのものを打ち壊し「新しい体制」を作ることを可能にするのは、

「真の神(聖書の神)」をおいて他にはいません。

世界秩序を一掃し新しい体制を作るということを「具体的に預言」しているのは聖書だけです。

しかも、それに至る「経過」についても「しるし」として、つまり、人間が識別出来る事柄をも示しているのです。

聖書の「預言」は現実的なものだということです。

 

単なる夢物語ではないのです。

 

ロシアのウクライナ侵攻(戦争)、ハマスのイスラエル攻撃とイスラエルの反撃(テロに対する報復)があり、

(アメリカとアメリカに組する国々) VS (ロシアとロシアに組する国々及び中国と中国と強い経済関係を結んでいる国々)

という構図は、

いわば覇権争いなので決して一つに纏まることは将来に渡って不可能です。

これに、国家間の経済の利益が絡んでいます。

 

これら以外の「第三の強力な勢力」が現れ、世界を一つに纏めることが出来れば「完全な法律」を作り厳守させることが「可能」となるのです。

 

しかし、今のところ、人類の中にこの「第三の強力な勢力」が現れる兆候は全くありません。

 

唯一の希望は聖書の、つまり、神の「預言」とその実現なのです。

 

これ以外真の平和と安全は不可能です。

 

あなたはどのように考えますか?

 

聖書の預言なんて信じられない、今の状態が今後もずっと続くだろうと言いますか?

人間はそれ程バカでないからきっと誰かが良いアイデアを出すだろうと言いますか?

切羽詰まれば人は誰でも「妥協」し「纏まる」だろうと言いますか?

 

今の国連に世界を纏める「力」はありません

では、一体誰が混迷する世界を一つに纏め平和と安全をもたらすことが出来るのでしょうか?

 

一つに纏める必要はない、各国がそれぞれの国内において達成すれば済むことだと言いますか

これでは、国家間の対立はなくならないことになります。

国家間の対立がなくならないということは、

ロシアのウクライナ侵攻のようなことが起きる可能性があるということであり、

それは即ち国の平和と安全を打ち壊すものとなるのです。

 

まさに、今世界は「窮地に立たされている」のです。

あなたは、薄々感じていても、その「危機感」をはっきりと認識出来ます?

 

ある意味、自分の命と人生を左右する問題でもあるのです。

 

日々の楽しみや自己満足を追求するだけではなく、時にはこうしたことも真剣に考えて見ましょう。

そして、「救いの希望」を見い出し、それを手に入れましょう

 

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参考

イスラム原理主義はイスラム教の教えを頑なに守っています。

アフガニスタンのタリバンもそうです。

 

では、なぜ彼らの国々などでは「真の平和と安全」が実現していないのでしょうか?

なぜ、それらの国の人々の不満があるのでしょうか?

 

それは「真理」ではなく「力」で支配しているからです。

 

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特定の宗教内ではどうでしょうか?

カトリックやプロテスタントなどの信者同士ではどうでしょうか?

神道や仏教などの信者同士ではどうでしょうか?

 

こうした人々の中でも「真の平和と安全」を享受していません。

 

おそらく、犯罪者の多くは「無神論者」「唯物論者」であり、神の存在を認識しておらず信仰心も道徳心も殆どない人たちです。

ただ、自らの「欲望」を追い求めて「滅びに至る」人たちなのです。

いわゆる「悪を羨む」人たちなのです。

 

ものみの塔のエホバの証人たちの中ではどうでしょうか?

姦淫や淫行、盗み、世の偶像(アイドル)に心を寄せ、嘘、聖書の正しい考えではなく「人間の考え」など様々な「悪」が行われており、

統治体や支部や会衆の長老たちは平然と「過ち」を行って、信者であるエホバの証人たちに不満を抱かせ、時には「ことばによる叱責」という過ちを犯しています。

こうして公の伝道活動などを「意味のないもの」としているのです。

 

彼らの間には暴力などがなくても、「精神的」には「葛藤」もあり、ただ批判を恐れて「表向きを繕っている」だけなのです。

つまり、心の中では「穏やか」ではないのです。

「真理」を知って、自分や他のエホバの証人たちの振る舞いを見て「葛藤」しているのです。

しかし、それを公にさせないのが「ものみの塔のやり方」なのです。

つまり、会衆内での不平や不満を「言わせない」ように「圧力」を掛けているのです。

(参考:エホバの証人たちの、伝道活動の時に個人間で話される内容を聞けば、彼らの多くが不満を抱いて批判をしていることは明白です。)

 

いわゆる重大な罪ではない「自分の過ち」を長老たちに「告白」する人はいるでしょうか?

例えば、嘘をつきましたとか○○を傷付けてしまいましたとか世の影響を受けてしまいましたなどを告白する人はいるでしょうか?

皆無です。

 

ものみの塔の教えを「信じ切っているエホバの証人」たちは「ものみの塔」に従うことを「当然のこと」と見なし、

実体を直視しようとせず、「会衆内の悪いこと」は「世の影響」や「悪魔の影響」だとして「うそぶいて」います。

自分の過ちには寛大で他人の過ちには厳しく批判する、それがものみの塔の「体質」なのです。

 

伝道活動に関しても、

真の平和と安全とは何か、真の救いとは何かを「十分に理解せず」に「これらの言葉を謳い文句」にして世の人々を勧誘するため「善人」を「寛大さ」を装っている「偽善者」なのです。

 

彼らは、ただ、「永遠の命の希望」のために、ものみの塔に「縛られている」のです。

彼らに「救い」はないのにです。

 

律法、つまり、神の言葉を信じ熱心な活動をしていたユダヤ人の書士やパリサイ人たちは、

イエスにより「断罪」されています。

 

つまり、神の言葉を信じて熱心に活動しても「滅びに至る」人たち、イエスに断罪された人たちもいるのです。

 

熱心な活動をしているエホバの証人たちはそれによって自分の救いを確実なものに「したがって」いますが、イエスに断罪された書士やパリサイ人と同じです。

 

モーセやエリヤやサムエルのような預言者がいなかった(実際には、イエスやバプテストのヨハネがいました)イエスの時代の、サンヘドリン(ユダヤ人の最高法廷とも言われています)が現代のものみの塔であり統治体なのです。

イエスはこのサンヘドリンの集まりに参加するようなことはありませんでした

 

むしろ、会堂に行って聖書の意味を、特に、預言を人々に説き聞かせました。

時には、自分の後に付いてくる「大群衆」の世話をし、また、多くの教えをしました。

人々に「律法」を守るべきことは教えましたが、その「律法」に通じた書士やパリサイ人には「見倣うな」と言われたのです。

 

現代において、イエスような聖書の宗教指導者や信者はいるでしょうか

答えは「」です。

 

あなたはどう思いますか?

 

ものみの塔やエホバの証人を見たら書士やパリサイ人」だと見るべきです。

知恵を求める人のためのブログです。

人間の創造者である神は、人間にあらゆる事柄に関して「継続性」を求めていることは明白です。
まず、自然界を見て見ますと、
太陽や月や星は一見すると「一定、安定」しているように見えますが、実際は、常に変化し移動しています。
つまり、動いている中で「安定」をもたらしているのです。

これを、一般的に「周期」と言います。

地球が約24.5度地軸が傾いていることにより「季節」が生じ、それが毎年繰り返されています。
これは、地球が太陽の周りを公転しているからです。

人間が作物を作る時も、植物の種から育て収穫物から種を取り、それを再び育てるということを繰り返しています。

人間や動物も同じです。
人は妊娠し誕生し成長します。
そして、結婚し妊娠することで「命の継続」を行っています。

細菌やウィルスなどは少し形態が異なりますが、やはり増殖と死滅を繰り返しています。

このように、地球上のすべてものだけでなく宇宙そのものも常に変化し、かつ、「同じことを繰り返す」ことで「継続性」と安定性をもたらしています。

 

宇宙や地球上の自然を観察するだけで、すべてのものが同じ繰り返しがなされ、いわば周期的であることで安定な状態が維持されているのです。

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これに対して、
継続性が殆どないのは「人間の活動」です。
各々人間のすることは、短期的には同じでも、人生という観点で見れば常に変化しています。
朝起きてご飯を食べ仕事をし帰宅しご飯を食べお風呂に入り就寝するというパターンは変わりません。
しかし、仕事は、つまり、人間の活動と言えるものは常に変化しています。

確かに、毎日同じ仕事をしているとその繰り返しに「飽き」が来るものです。
これをどのように捉えるかで人生は大きく変わってきます。

例えば、
農家に生まれ、生まれた時から死ぬまで畑に行き季節ごとの作物を育て収穫するという人生をどのように思うでしょうか。

いわば、日々の生活も毎年の生活も殆ど同じことの繰り返しです。
人間にはそれ以上の能力が備わっており、自分の可能性や別の仕事、別の人生を歩みたいと思うことは自然なことです。

しかし、常に変化が伴い不安定な状態が続きます。

どちらを選択するかはその人自身が決めることです。

どちらが幸せか(これには個人差があります)ということを別にすれば、
前者の方が「安定」していて殆ど苦労もなく一生を終えることが出来るでしょう。
後者は社会の荒海のなかで様々な困難を乗り越えたり時には失敗したりして、喜怒哀楽の内に一生を終えることになります。

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聖書による人間の将来の希望は、極論すれば、
神の下での「永遠の命」による永遠の生活は、自然と同じ単純な繰り返しとなる考えられます。

その一方では、神のおきてを守っている限り「自由な活動」も出来るとも考えられています。

一方、
天のみ使いたちは神により各々目的を与えられ、いわば、その仕事に専念することを永久に続けている訳です。
おそらく、飽きるという「感情」はないのです。
ただ、神の命令に従うことが即ち「生きる」ということだからです。

しかも、他の役割を与えられることは殆どないのです。

神の独り子だけ「特別」な扱いだということです。

しかし、それは「最初の人間が、神に対して罪を犯したから」です。
 

神から与えられた立場を放棄したみ使いたちは「滅ぼされる」のです。
つまり、神がそのみ使いを「殺す」のです。

文字通り消滅させられるかは分かりません。

深い濃密な闇に永久に閉じ込めるだけかも知れません。

火と硫黄とで燃える湖に投げ込むということが「霊者の消滅」となるのかも分かりません。

ただ、そこに入れられると「無活動状態」に留め置かれることには間違いありません。
確かに、逆らうことが許されない「厳しさ」はあります。

しかし、従っている限りすべては「安定」しているのです。

食べることも寝ることも疲れることも病気になることも死ぬこともないのです。

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このような中にあって、
被造物の中で人間だけは地球の枠の中での「自由」を享受しています。
この「自由」こそが人間を「特別な存在」にしているのです。

み使いにも付与されていない「自由」です。
ですが、
それには「大きな責任が伴う」ということを忘れては成りません。

 

人間は神が与えたたった一つの命令を守るだけで、永遠に【自由な生活】が出来たのです。

実際は、地と人を正しく管理することが、いわば、み使いたちに与えた仕事、立場と同じことなのです。

神はその人間がどのように地と人を管理するかを見るのが「楽しみ」の一つだったのです。

神が天地を創造したのは、すべて人間のためだったのです。

 

しかし、

人間はその期待を裏切ってしまったのです。

反逆した一人にみ使いによる「誘惑」は二次的なものです。

ですが、この者は疑うことの知らない人間の「心の隙」を突いたとも言えます。

誘惑」に負けた気持ちも分からないではありませんが、きっぱりと退けて欲しかったと思います。

 

神が創造の業を休むことを終えられ、新しい創造を開始する時は、初めの状態、アダムを創造した時とは全く違ったものとなってしまいました

-啓示21:1-22:5

 

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継続は力なり、若者の美しさはその力(活動力、エネルギー)などと言うことがあります。
数や量も多くなると力になります
多勢に無勢とも言います。

速いこと大きいこと多いこと強いこと優れていることなどは「力」の別の表現です。

試験もどれだけ高い点数を取るかで優劣、合否が決まります。

政治も「数は力」です。
民主主義とは人民の権力もしくは権利のことですが、いろんな意見を持つ人々が物事を決定する時に用いるシステムが「多数決」です。
つまり、「数は力」なのです。

選挙は投票数で決まります。
議会での法案も賛成多数で決まります。

民主主義の根本は多数決と言われる所以です。

現代では、主義主張に関わらず、どの国の政権も「数」によって物事を決定しています。

独裁政権ですら、法案を議会に提出し多数決で決定し、国民に対して「大義」を示しています。
こうした決定に異論を唱える人は「殆ど」いません。

 

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多くの人に受け入れられている民主主義の「欠点」は何でしょうか?

それは、

「51対49」でも、物事が決定する点です。

つまり、反対する人が半数近くいるにも関わらず、物事が決定してしまう点です。

 

更に、その決定が「常に、正しいもの」とは限らないことです。

支持者を多数集めれば、例え、独裁政権の「横暴な法律」でも成立してしまうのです。

 

ですから、多数決は物事を決定する「手段」ではありますが、物事の「真の解決」にはならないのです。

 

中には、少数の意見の方が「正しい」場合もあるのです。

 

野党が自民党に政策で対抗出来ないのは、国民からの支持が少ないからです。

つまり、議員数が少ないからです。

 

国民の多くは自民党の政策の方を「支持」しているということです。

 

ですから、多数決で決定した事柄に「反対する人」が多いのも事実です。

 

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ロシアのプーチンもアメリカの大統領も中国の最高指導者も「表向き」選挙で多数を得た人がその地位に就くことになっています。
(勿論、ロシアのようにある種の弾圧の下に選挙が行われている国も少なからずあります。
 当然、国民は怒りますが軍隊や警察や司法を抑えている権力者には敵わないのです。)

そうして権力の座に就いた人は、法の下に権力を行使し、国民に対し司法や軍隊や警察を用いて「力」を行使する訳です。

一人が5人を掌握し、その5人が各々10人を掌握し、更に各々の10人が100人を掌握し自分の権力や支配の下に置けば、
5000人もの人を自分の思いのままに動かすことが出来ます。
これは、およそ一個師団の半分の人数です。
強力な軍隊です。
ですから、プーチンにとっては、末端の兵士の命を蚊程にも思っていないことは事実です。
使い捨ての駒であり鉄砲の弾位にしか考えていないのです。
それでも、大勢の国民の上に政権は成り立っているので、国民のご機嫌を取ったり国民の支持を必要としています。

 

どの国の国民も多数は力になるのです。
国民を抑えつけるのも力であり、これを可能にしているのが「権力」でありそれを成し遂げているのが「数の力」なのです。

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戦争も数が勝敗を左右するのです。

ベトナム戦争でベトナムがアメリカに勝ったのは「兵士の数」の多さと地形がその理由です。
枯葉剤や焼夷弾などを用いてもベトナムを屈服させることが出来ませんでした。
ある意味、アメリカはジャングルと戦ったのです。

中ソ国境(満州付近)での戦争も中国がソ連に負けなかったのは「兵士の数」がその理由です。
いわゆる人海戦術でソ連の攻撃を退けたのです。
当時の中国は十分な兵器を持っていませんでしたが負けなかったのです。
中国の人海戦術で一部のソ連兵が「発狂」したとも言われています

ノルマンディー上陸作戦での成功も「兵士の数」とドイツ陸軍の油断がその理由です。
ヒトラーに優れた参謀がいればドイツは負けなかったかも知れません。
ドイツに勝って欲しいとかそういうことを言っているのではありません。
「数は力」ということを言いたいのです。

太平洋戦争で日本が負けたのは、日本軍の戦略の失敗がありますが、アメリカ軍の大量の兵器と弾薬に寄ります。
艦砲射撃、空爆(焼夷弾)、原爆による「力=数」がその原因だったのです。

ミッドウェイ海戦で空母や他の艦がやられたのも沖縄に向かった戦艦大和などがやられたのも、硫黄島での戦い、沖縄での戦いなどすべて「数の力」に負けたのです。

ただ、インパール作戦だけは日本陸軍の参謀や大本営の「愚かな指導者によって死んだ(殺された)」のです。
戦って死んだのではありません。

ウクライナでの戦闘も「数」が勝利のための要因となることは必定です。
兵士の数、銃弾や砲弾やミサイルやAIドローンなどの数が「優勢」になるか否かを分けるものとなるのです。
勿論、核兵器は「最大の数」の一つです。

この数に対抗したのが、ハマスの人質作戦です。
ですが、結果的にはハマスやパレスチナ人が多数殺されていますから、イスラエルの軍事的優位に変わりはありません。

もし、ハマスが残りの人質全員を殺害すればイスラエルはパレスチナ全員を皆殺しにするでしょう。

ウクライナ侵攻のロシア軍に於いても同様です。
兵士や兵器や弾薬などの数はロシアの方が多いのです。
ですが、最近これらが不足しているという話です。
そうなると、ウクライナの逆襲も有り得ます。

もし、戦力が同等ならウクライナの勝利は間違いない所ですが、現実はそうは行きません。

実際、殆どのロシア兵は命令に従っているだけの無知な兵士か戦争に乗じて鬱憤を敵に対する暴力で晴らすヤクザな兵士です。ウクライナの兵士とは雲泥の差です。

しかし、数はロシアの方が多いのです。

西側諸国の楽観的な見方ウクライナを窮地に追い込んでいることは紛れもない事実です。
その中でウクライナは頭を使って戦い続けているのです。

プーチンと云えども、核兵器の使用までは「出来ない」と楽観視することは重大なことです。
核兵器を使わない通常の戦闘だけではロシアの思惑は成功するはずはないとNATOやアメリカは考えていることは、「大惨事」を招く恐れがあるということです。

ロシアはロシアとの国境にある地域を占拠するまでは停戦はしないでしょう。
つまり、
プーチンとしてはNATOとの間の「緩衝地帯」を作りたいのです。
これによりモスクワの防衛をするという考えなのです。
今や、ウクライナを支援する国とロシアを支援する国との、いわば代理戦争のような状態となっていることは確かです。

少ない兵器で勝つためには、敵の要所を攻撃することです。
あるいは、奇襲作戦を繰り返すことです。

繰り返し=数による力」になるのです。
ゼレンスキーはウクライナ東部よりもモスクワを直接攻撃した方が作戦が上手く行くと思われるのです。

いすれにしろ、「数」が勝敗を決めることになるのです。

 

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参考:

今や、プーチンもネタニヤフも、自分の権力の座の固執するために「戦争を継続させている」という考えが「世界中を飛び交って」います。

 

いわば、戦争を、人の命を「弄(もてあそ)んでいる」ということです。

 

彼らは「大義」を全面に掲げることで、こうした「本心を隠している」のも事実です

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今の世界、この「数」を支配出来れば、病気や死や事故やケガなどを除き、あらゆることが可能になるのです。

この世界では「数は有限」ですが、それでも自分の思うように「数を支配」することが出来ません
もし「数を支配出来る人」がいれば、その人は全世界を支配する人です。

 

しかし、それは政治権力のような出来事に関してです。

今、世界でその政治権力に反対するデモや活動などが「盛んになって」います。

 

少数派の自分たちの考え、意見を掲げてデモを行ったり、戦争反対を掲げデモをしたりテレビで特集を放送したりしています。

 

数の支配(政治権力)に対して数(大勢の人々)=デモで対抗しているのです。

 

時には、これで法律が改正されたりする場合もありました。

 

しかし、どんな政権でも、ロシアのプーチンでも、国民が言うことを聞かなければ「何も出来ない」のです。

どんなに、司法や軍隊や警察を動員しても、国民の大多数が「動かなければ、何も出来ない」のです。

 

政権が国民に無理強いすることを大抵「弾圧」などと人は呼びます。

 

ナチスのヒトラーの時は、ドイツ国民の殆どがヒトラーを支持していました。

いわゆる「フィーバー(熱狂)」さえしていたのです。

その背景には、第一次世界大戦のドイツに対する多額の賠償金がありました。

ドイツ国民は生活苦に喘ぎ不満を募らせていたのです。

いわゆる戦勝国の「行き過ぎ」がヒトラーを誕生させたとも言えるのです。

ドイツ国民は一致団結していましたが、

圧倒的な軍事力のアメリカとイギリスとフランスなどの連合軍の「力」に負けたのです。

 

ドイツは第一次と第二次の2度も大戦で負けたのです。

 

日本の場合、アメリカ、イギリス、フランス、中国、北朝鮮、韓国、台湾などのに対する「戦争による賠償金」はアメリカの意向により(思惑により)「放棄(免除)」させられました。

ドイツの二の舞にしないためと日本をアメリカの属国にするための基盤を作るためです。

 

これにより、戦後の日本の復興、経済発展が可能となったのです。

そうではなくても

戦争が終わり自由経済が出来るようになれば、日本が経済大国になる要素は大いにあったのです。

 

日本は未だに「アメリカの属国のような立場を堅持」しています。

愚かなことです!


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余談
その国の国民性、知性などを知るには
その国の政治の在り方を良く知ることです。
その国の政治、経済、金融政策、および、警察権力の実体と法の力の用い方などを良く観察することです。
イギリスにはイギリスの良い所があり、フランスにはフランスの良い所があります。
個人的には、北欧の国々の考えが好きです。
政治がこれほど国民に寄り添った国は他にはありません。
国民は政治や政治家を信頼しており、政治家もそれに応えているからでもあります。
地球上で最もバランスの取れた国です。

その国の慣習や文化を知るには、その国の「映画」を観ることがベストです。
そこにはその国の人々の「殆ど」が表されているからです。
人々が何を考え、どのように振る舞うか、道徳心はどうなっているか、命をどう考えているか、物の価値をどのように見ているか、法や秩序がどうなっているかなどを知ることが出来ます。

歌は感情表現ですから、
その国の歌を聴けば、その国の人々の「心情や感情」が分かります。

 

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目の不自由な建築家・馬場正尊(まさたか)さんは、目が余り見えないため、メモを取らず記憶すると言います。
障害度は1級だそうです。
そのため相手の言うことを良く聞くようになったとも言います。
それでも、企画書も作るし絵も描くし図面も考えるそうです。

その彼が会社を、建築会社を起業し30代を中心に若手を沢山雇っています。
彼のモットーは会議などでは「絶対肯定」から入ると言います。
肯定したところから入ると「面白い」ことが起き易いとも言います。
肯定したところから「考えて見る」ということが癖になっているそうです。

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すごい良いアイデアだと思います。
普通は、
失敗をしないため、否定的な考えから入るものです。
誰かが何かを話したり提案したりすると、「良いね、でも○○はどうするの」とか、「××という問題があるんじゃない」とか言うものです。
あるいは、
誰かが良い提案をすると「良いね、そうしよう」などとそのままその提案、アイデアを取り入れたりするものです。

こうしたことは建設的な話し合いにはならず、必ずしも上手く行くとは限らないものです。

逆に、「絶対肯定から入り、それを実現すべく話し合った方が「更に、様々な意見やアイデア」が出て、より活発な話し合いになったりより良い結果が生まれ易いものです。

++++++++++++++++++++++++++
参考:
人間の習性と言うか本能と言うのは「人間の振る舞いや行動を縛っている」とも言えます。
それは、神が人間に付与した「危険性の回避」という防衛手段でもあります。

 

例えば、誰しも「くさい」ものを嫌い、避けるものです。
「くさい」ものや「腐った」ものは、大抵様々な病原菌が存在しています。
それらを「避ける」よう本能として人間に付与されたのです。
病気にならないためです。

現代でこそ、そこに様々な病原菌が存在し、人間にどのような悪影響があるかが分かって来ています。
しかし、
神は人間にその初めから、そうしたものを避けるように「本能」を付与されたのです。

しかし、
同じ匂いでも、寄って来る虫や動物もいます。
ハエやアブや時には動物は自分の糞すら食べる時もあります。

人間はこれらとは病原菌に対する抵抗力などの仕組みが異なるのです。

 

また、人間でも動物でも「高所恐怖症」です。

誰でも高い所は「怖い」ものです。

特に猫などは「ものすごい形相」になり「暴れ出します」

逆に犬は「じっと縮こまって動こうとはしません」

これも「危険を回避するための本能」です。


++++++++++++++++++++++++++
人間の習性というのは、相手の話すことを聞いて「良いものを取り入れ、良くないものを除く」というものです。
こうして自分や相手にとって「良かれと思うものだけ」を取り入れようとします。
また、常に良いものを求めるというのは「本能」なのです。

こうした傾向が、誰かのアイデアや意見に対して「瞬間的にその是非を判断」しそれが大抵の場合否定的な言葉として出てくることが多いのです。

 

つまり、こうした習性、本能は「失敗を回避するための本能」なのです。


ですから、誰かの言うことを「肯定」するところから入るというのは、「意識的にしないと出来ないこと」なのです。

「いいんじゃない」とか「やってみれば」などと言う人の下で働いたり活動した方が「大抵、人間関係も物事も上手く行く」ものです。
失敗もトラブルも不満も最小限に、あるいは、全くない状態で仕事が出来るからのです。

大抵「言い出しっぺ」は誰かの前で言った手前、それについて最も考え、また、成し遂げようとするものです。
つまり、やる気と責任感を高揚させるのです。

誰しも、自分の言うことを「否定」されると、時には憤慨したりやる気を失わせるものです。
気分の良いものではありません。
ですから、誰かの前で「自分の考えやアイデア」を言うことを控えてしまう場合が多いものです。

しかし、何でも「肯定」されると、「何でも話すようになる」のではありませんか

後者の方が人を積極的にさせ、物事が上手く行くことは明白です。

 

++++++++++++++++++++++++++

参考:

動物の習性や本能は「予め、仕組まれたもの(神が付与したもの)」です。

そのため、何をすべきかは「本能」として与えられているので、「人間のように考える」ことは殆どないのです

動物のすることは、するべきことは既に決定していますから「最善の方法を見つけ、それを実行する」だけなのです。

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しかし、自分からではなく、誰かが「自分に何かをさせようとして話す場合についてはどうでしょうか?

これには、さすがに「全肯定」「絶対肯定」は出来ません
では、これをどのように「応用」し「回避」出来るでしょうか

「それは良い考えですね」などと、まず「肯定」した返事をし、
その後で「出来るかどうか、少し考えて見たいと思います」と言うことが出来ます。

このように話すと、相手は一端はその話は停止することになります。

実際、良く考えてみて、出来るならやれば良いし、出来なければ「良く考えましたが出来ません」と言う方が良いです。

初めに言われた時、直ちに「否定」すると相手は不快に思うものです。
あるいは、せっかく「相手のためを思って言ってやったのに」などと思ったりもします。
しかし、
少し時間を置いて、しかも、「良く考えた」ということを伝えた上で「否定」すると、大抵は相手も怒らず引き下がることが多いものです。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
馬場正尊さんのような「人との接し方」に共感を覚えるものです。
私が長老だった時、「常に良い点を見つけ励ますようにして来た」ことと共通していると思うからです。

元来、私は誰かと積極的に「個人的な付き合い」をすることが殆どありませんがそのように努力はして来ました。

最近は、ブログでコメントを頂いても、十分考えた返答をする時間がないので、コメント欄を無くしました。
コメントをしたい人がいたら「申し訳けありません」

年のせいで、畑とブログ、それらを行う体力すら余りないのです。
体力を付けたいと思って多少努力をしましたが、付きませんでした。

++++++++++++++++++++++++++
余談
最近、わだかまりもないくったくとしたところのない「気持ちの良いおばあさん」と出会い話をすることが出来ました。
その人は20年以上も夫の介護をしてきて最近解放されたとも言っていました。
夫が亡くなったのではなく「自分では手に負えなくなったので施設に入って貰った」からだと言っていました。
頭がしっかりしていて年寄り臭くないのです。
年寄り臭いとは、年齢や自分のすることや考えが年寄りじみていることです。

そういうことを感じさせないおばあさんでした。

いわゆる「年寄りの頑固さ」がないのです。

その理由を考えて見ました。
おそらく、縛られるものがないからではないかと思っています。
つまり、何をするにも自由なのです。
体も病気をせずに元気で身の回りのことをあれこれ考えることが出来ているからでもあります。
何をするにも誰にも気を遣う必要が「殆ど」ないのです。

こうした点は私と似ています。

++++++++++++++++++++++++++
私は畑を初めておよそ3年になります。
畑と言っても殆ど開墾からのスタートですので体力のいることです。
疲れやすいのは事実ですが、以前より関節が柔軟になりました。
腕を大きく回せるようになり、胡坐を掛けなかったのが出来るようになりました。
また、
体重も今では平均56㎏台です。
時には55㎏台になることさえあります。(昨日は54㎏台に入りました。)
これは念願でした。
お腹の脂肪が気になっていたからです。
後は下腹がへこむことを期待しています。
腸の調子も良いためお尻の締まりも良く便秘を殆どしなくなりました。
便秘をする時には大抵お尻の締まりが悪くなります。
そこに便が溜まっているからです。
今ではこういうことは殆どないのです。

痩せて来たのには理由があります。
それは、炭水化物を積極的に摂らなくなったからです。
コーヒーに砂糖を入れません
お米は便秘し易くなるので以前から食べません
うどんやそばも殆ど食べなくなりました。
つまり、
野菜と少量の肉(ウィンナー程度でステーキやハンバーグなどは食べません)だけで十分なのです。
お酒を基本的には飲みませんが、今年は梅酒を漬けたので最近少し飲みます。
ウィスキーで漬けました。
日本酒や焼酎など醸造酒にはめっぽう弱く飲むと顔が真っ赤になるので殆ど飲みませんがウィスキーは昔から殆ど酔わないのです。
これは体質(肝臓がそうなのだと思います)だと思います。

血管疾患予防のため、常温で液体の「油」オリーブ油やごま油やえごま油などを摂れば良いのですがこれもたまにしか摂りません。
元来、脂(牛や豚などの脂身を食べられない。鶏肉の皮も食べられない。)が苦手なのです。

魚も食べられるものとそうでないものが多く、それに高いので今では殆ど食べていません。

私は畑仕事をして「健康を取り戻した」と考えています。
家に居てパソコンと多くの時間向き合っていたら、この「健康」を取り戻すことは出来なかったでしょう。

ですから、体の疲れ、痛さにもめげず、毎日のように畑に通っています。

最近では「雨の日」も行っています。

++++++++++++++++++++++++++
更に余談ですが、
ちなみに、妻の父(義理の父)は日本酒を大量に飲み続け、最後は食道静脈瘤の破裂で亡くなりました。
まだ、50代だったと記憶しています。
良い人なのですがお酒を止められなかったのです。
亡くなる1週間ほど前に病院で「頑張れ」と声を掛け手を握ったら「強く握り返して来た」のを今でも覚えています。
亡くなった時は、たまたま用事で家に帰っていましたから「死に目には会っていません
義理の母とも「死に目には会っていません

私は、祖父母、父母、義理の父母のだれとも「死に目には会っていません
亡くなった後を見たのも祖父母と父だけです。
母が亡くなった時なぜか心穏やかになれず行きませんでした。
母に負い目があったからかも知れません。
祖父母が亡くなった頃は、まだ聖書を学び始めたころでエホバの証人にはなっていませんでしたし、父母が亡くなった時には既に会衆から離れていました
亡くなった順番は、祖母、祖父、義理の父、父、母、義理の母でした。
義理の姉(兄嫁)が昨年(病気のため、70代)亡くなりました。
いわば、皆順番に亡くなっています
これは自然で「良いこと」なのです。

ちなみに母が亡くなったのは、2012年12月12日です。
生まれは昭和2年、1927年ですから満で85歳、数えで86歳でした。
祖父母、父母と皆80代半ばで亡くなっています

ちなみに、兄嫁とは血縁はありませんので除外します。
皆、誰も介護を受けることなく亡くなっています
私もその年代で亡くなることでしょう。
私も誰にも介護されずに亡くなることを望んでいます。
いわゆるPPKで死にたいのです。

2034年まで生きて世の終わりを見極めたいものです。
あと10年です。

死を意識しないで死ねることは「幸い」です。
病気で死ぬのが「最悪」と考えています。
死を意識しながら生き続けたいという思いのまま亡くなるからです。

 

知恵を求める人のためにブログです。

ものみの塔の、その執筆委員は主にアメリカ人であり、アメリカから世界を俯瞰して現在の世界の状態を評価し、
それに聖書の預言を「適合」させようとしています。

世界はアメリカ中心に進んでいる訳ではないのです。
アメリカのすることは世界情勢に大きな影響を与えますが、世界情勢を動かしているのは「この世の空気」なのです。

その「この世の空気」をものみの塔は正確に読み取ってはいません
なぜなら、
ものみの塔は、自分たちの過ちや考えの変化を認めないからです。

 

加えて、ものみの塔は「先走っていた」ことは明白です。
聖書に記されている「終わりの日」に関するイエス・キリストの預言の「適用」を1914年からの出来事として主張していますが、
戦後の様々なデモ活動や現代の世界の反体制運動を考慮すると、ものみの塔は「明らかに先走っていた」ことは明白です。

したがって、ものみの塔は時代共に「考えや見解」を「改める」必要があるにも関わらず、過去の主張や記事に拘りそれらを踏襲しているのです。
つまり、
自分たちの主張の「過ち」を認めないのです。

これは「愚かなこと」です。
ものみの塔は「完全」ではないのに、自分たちに「不謬性」を適用しているからです。

自分たちに「霊感」も「神とイエス・キリストの導き」も無いにも関わらず「ある」と主張して来た「その嘘」のため「変えることが出来ない」のです。

ものみの塔は、1914年の出来事(自分たちが天に行かなかったこと)と1975年に終わりが来なかった点で、
「偽預言者」となったことは「明白」です。
そして「仲間の信者を打ちたたいている(寄付や伝道活動の強制や会衆内での様々な不祥事、これらに加え統治体などものみの塔の組織の上部の人たちの寄付による安穏とした生活など)」ことも明白です。

ものみの塔が滅ぼされるのに「これ以上の証拠」が必要でしょうか?

エホバの証人であるあなたはどう思いますか?

知恵を求める人のためのブログです。

人間はAIを越えられるでしょうか。

例えば、将棋で人工知能AIに人間は勝てないことがはっきりしました。
人工頭脳AIにディープラーニングアが加わるとデータが限りなく蓄積され、つまり、AI自体がどんどん「賢くなっていく」のです。
そこで、棋士は人工知能AIの指す手を学び、実際の対局でその手を指すことで優位な展開に持って行こうとしています。
しかし、
人工頭脳AI以上の手をさせれば、相手が人工知能AIでなければその対局に勝つことが出来ます。

人工頭脳AIは「常に最善手」を指すのに対して、人間はAIに勝る手を指したとしても、そういう手を勝つまで続けることが出来ない点にあります。

これが、人間が人工知能AIに勝てない理由です。


人間はある局面の次の一手で人工知能AI以上の手を指すことが出来ますが、その先は続かないのです。

人工知能AIは人間がそれ以上の手を指すと守りの最善手を指し続け、少しでも手を緩めたり最善手でない手を指すと勝つための最善手に切り替わります。
そうして、最後には人間が負けるのです。
人工知能AIのこうしたことを人間は真似ることは出来ないのです。
人間の能力を超えているからです。

人工知能AIが人間の能力を超えているのは、その継続性なのです。
つまり、ベストな状態を継続出来るのに対して、人間はベストな状態を一瞬にしか出来ないのです。

これは、スポーツの世界でも同様です。
百メートル走、マラソンなどの記録を見れば分かるように、素晴らしい記録を出してもそれを継続して出すことは出来ません。

こうした中で、ボクシングやレスリングや柔道などの連勝記録は驚異的な出来事です。
これらの競技の特徴は、一瞬で勝負が決まる場合もありますが「力が拮抗している場合」殆どは体力、テクニックなどの「平均的な強さ」が勝負を決めると考えられます。
これを持続力などと言ったりします。
また、組んだ瞬間「相手の強さが分かる」場合もあります。

人間は突然「閃く」場合があり、それが人工知能AIでも、生成AIでも「出せない」「出ない」アイデアであることもあります。
しかし、大抵の場合は人間がそれを形にすることは難しいものですが、そのアイデアを生成AIに活用させると「無数の活用方法が出て来る」のです。

また、生成AIに対し「○○するには」などと入力すると、それに対する幾つかのアイデアを出してくれます。
人間はそれを読んで、新たなアイデアを考え、それを再び生成AIに同じように入力すると、いわば「思考がどんどん深まっていきます
生成AIのこうした利用方法もあります。

生成AIが進歩すれば、人間も進歩していくという構図です。

人工知能AIも生成AIも「統計によるベストなアイデア(最も多く出現するデータ)を選択肢【継続的】に出す」ことで人間を凌駕しているのです。
そこに、人間の【瞬間的】なアイデアを加えれば、大抵のことは解決するかも知れません。

生成AIをロボットに見立てて、あれこれ命令することで人間一人では出来ない多くのことを成し遂げる可能性があるのです。
いわば「知恵袋」として用いるのです。

それでもいつかはAIは「人間の命令を聞かなくなる時が来る」かも知れませんし、世界中のAIがネットを介して結合し人類を乗っ取る可能性も無きにしも非ずです。
その場合はAIを物理的に破壊する以外方法はないでしょう。
これは現実の話です。

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一方、SFの世界だと、AIは自己防衛すら完備するかも知れません。
そうなると人類はお手上げです。
人間は奴隷かロボットにされてしまうかも知れません。

SFの世界だと、ロボットがロボットを修理するということも行われています。
これは実現不可能ではありません。

装置や仕組みさえ出来ればAIは何でも出来ることになるのです。
その装置や仕組みは人間が作るしかありませんが

あくまでもSFの世界の話です。

 

知恵を求める人のためのブログです。

二つの天才=職人とAIを理解する。

 

私は職人は天才だと思います。

一方、人間が作ったAIにディープラーニング技術が加わって、今や人間の能力を凌駕しています。

つまり、AIは天才の領域に入ったと言って過言ではありません。

人間が作った道具ですから誰もそうは思わないでしょうが、私にはそのように見えます。

 

皆さんはどのようのにお考えですか?

 

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職人技を見ると私にはいつも「人間の叡智の一面」という認識があります。
職人技は人に感動を与える程の素晴らしい技術だと思います。

職人の作ったものを見て感動するのは、ある意味、人間に物の価値が分かるということの裏返しでもあります。
加えて、人間が常に「良いもの」を「評価」し、また、欲することを示しています。

職人の「ものを作る姿勢」を見ると、その探究心に驚き、完成品を見て職人に憧れたり、職人のようになりたいと思ったことのある人は少なくないと思います。
いわば、常人を逸しているようにさえ思えます。

しかし、その人となりは、
職人気質(かたぎ)で、自分に自信があり、また、自尊心が強いことは良く知られています。
こうした気質は、おそらく自分の仕事に対する誇りから来るものだと思います。

一般の素人にはその世界を「殆ど知りません」。

出来たものしか知らないことが多いのです。

そのため、職人のプライドが、一般の素人を遠ざける傾向にあることも事実です。

頑固一徹などということはその職人の仕事を知らない「他人」が言うことです。
職人には経験上何をどうすべきかが分かっているので、他人の言うことには耳をかさないものです。


実際、どんな職人にしても優れた製品を作る人は、自分の信念があるため「傍からは変わって見える」ものです。
その信念とは、物を作るための「その人の道理、方法、手段」なのです。

 

これは例えれば、

お金を出して人が作ったものを食べたり食材を買って調理して食べる人と、

野菜や家畜を育て作っている人との違いのようなものです。

 

野菜を買って食べる人は、野菜を作る苦労や難しさを全く意識せず、ただ、目の前の野菜を見た目で 良し悪しを判断し、これは良い、これは悪いなどと勝手なことを言います

 

しかし、生産者の見方は異なります。

同じ野菜を見ても、観点が異なるのです。

土作り、肥料の与え方、水やり、病害虫対策、天候、季節などを考えるものです。

作物が出来るのが当たり前ではなく、努力して、また、運が良く生産出来たものなのです。


その職人の世界に入り込まなければ分からないことは沢山あります。
その職人ですら分からないこともあるのです。

刀鍛冶、旋盤、蒔絵、その他伝統工芸品など沢山の製品とその職人と言われる人が存在しています。
刀鍛冶は、炎の色を見て「温度や熱の加え方などを判断」出来ます。
炎の色を見て温度というより「適切なタイミング」が分かるのです。
旋盤工は、目と手の感覚から1000分の1ミリの判断が出来ると言われています。
確かに、こうしたことは計測器を用いれは分かることですが、職人はこれを「感覚」で行っているのです。
他にも、大工の「鉋(かんな)かけ」などがあります。
大工は鉋を極めて薄く、また、平らに削ることが出来ます。
また、大工は木材の性質も理解しており、その木の「反りや反り具合」の判断と対処方法やそうした木材の用い方を知っています。
宮大工は釘を使わない継手や組木の技法を知っており、どのようなヶ所に用いるかも理解しています。
ガラス工はガラスの性質を良く知っており、自在に形を形成することが出来ます。
時計職人のその仕組みや部品を加工する技術は普通の人には真似をすることは出来ません。
蒔絵師の漆や金やにかわなどを巧みに用いて、優れた芸術作品を作ることが出来ます。

図柄のアイデアも素晴らしいものがあります。
陶芸では用いる土の性質や釉薬に加えてその造形による様々な表現をしますが普通の人にはその良し悪しの評価が分かりません。

更には、窯の火加減は難しく、職人でも必ずしも思い通りには行かないものです。
ただし、最近は木を燃やす窯ではなく電気により温度を設定した窯を用いる人もいますので、こうした人は、火による様々な変化を「生み出す」ことは出来ません。
窯の中の炎は均一ではないのです。
そのため、焼き物をどの位置に置くかでも製品に違いが生じ、また、絶えず温度も変化していますので、その変化がどうなるかによっても製品が変わって来るのです。
陶芸家が最も神経を使うのが窯の火入れなのです。
陶芸家も炎の色と木の燃える音や炎の勢いや火の動き(対流)などで窯の中の状態を判断しています。
職人と云えども、これを自在にコントロールすることは難しいのです。

などなど様々な分野の職人が存在します。

中には人間国宝と言われた人さえいます。

場合に依っては、現代の最先端技術を支える製品をさえ作っている職人がいます。
それも、近代的な設備ではない設備で、いわゆる町工場で手作業で作っていたりすることもあります。
そこで作られた部品が宇宙開発や最先端医療にはなくてはならないものであることもあるのです。

どんなに科学や理論や技術が発達しても、それを可能にするのは、半導体を製造する設備のような近代的な設備だけではなく、手作業に頼らざる面もあるです。

更には、いわゆる化学の世界です。
今や細胞レベルを超えて遺伝子レベル、さらには、原子や素粒子の世界にまで「操作」出来るようにさえなって来ました

病巣の世界は、現代では腫瘍細胞に色を付けてその反応を調べたりする「経験、実験」がすべてであると言って過言ではありません。

ピンポイントに薬剤を投与することで体の負担を軽減するのです。

メンデルの遺伝の法則に関しても、「実験と観察」によります。
ファーブルの昆虫研究も同様です。

また、エジソンが白熱電球を作った時、長持ちするフィラメントを探していた時、いろいろ実験した結果、日本の竹に注目し長持ちさせたという話は有名な話しです。
竹の性質、太さ、しなやかさなどが他の人工物より勝った例です。

今でこそ、様々な金属を混合した丈夫なフィラメントが製造されていますが、当時はこうしたものがなかったのです。

自然界には「人間の想像を超える物」が存在していますので、将来、驚くような物が発見されるかも知れません。

近代的な装置を用いれば、生きた状態での細胞や血流さえ観測出来ます。
がん細胞に色を付けたり特殊な物質を付着させることで、がん細胞を「狙い撃ち」さえ出来るようになって来ました。

 

こうした技は職人の能力に何ら引けを取らないものです。


それでも、病気は無くならないしすべての病気を完治出来る訳ではありませんし、特に老化は防げず最後には必ず死ぬことになります。

特に、すい臓がんは最も致命的な病気の一つです。
心臓疾患や脳疾患や肝臓・腎臓疾患より厄介な病気です。
気が付いた時には手遅れということが多いからです。
痛みがあっても、その原因がすい臓であることに気が付く医師が少ないのです。
私の親戚の人もつい最近まで元気だったのに、これであっという間に亡くなってしまいました。

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職人に代わる現代の匠以上の存在はAIです。
職人は人間の能力を最大限に発揮した存在だとすれば、AIは人間の知識と経験の上に立つ存在であり、その「思考(=論理)」「探索」などの速さは、人間の何億倍もあり、とても人間が太刀打ちできる相手ではありません。

ですが、人間が成し遂げると称賛しますが、AIが同じことを成し遂げても殆ど評価されません。

 

例えば、

藤井聡太さんが将棋のタイトルすべてを獲得すると皆称賛をしますが、

これをAIがやったら「当然」と見なし評価はしますが称賛をすることはありません。

 

不完全な人間が成し遂げたので評価し称賛しますが、

もし、

完全な人間が成し遂げたら、それは「当たり前」のことで評価も称賛もしないのです。

 

ある意味AIは「完璧」なのです。


それでも、今や薬などを作る時の反応試験をコンピュータで行ったりや画像診断などをAIによってなされ専門医の診断を超える診断を下すことが出来るまでになりました。
人間が見過ごした病変や兆候も見逃さないのです。
大抵は、幾つかの病気の候補を示す場合が殆どです。
その確率はおそらく90%以上です。

人間の経験や知識や技術を超える存在がAIなのです。

それでも、こうした時代に在って尚「職人はその存在意義、必要性、価値」を増しています。

しかし、AIは人間のすることすべてが出来る訳ではありません
AIがどんなに優れていても、所詮道具の一部なのです。
道具に人格がないのと同じようにAIにも人格はありません
この点を忘れないことです。

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参考
専門家をも凌駕するAI技術について(コンピュータ)記したいと思います。

パソコンが身近になってから僅か30年足らずのことで急速な進歩です。
この間にプログラム技術は格段に発展しました。

プログラム言語も多数出て来ました。

その初めは、アセンブラやベーシックなどの初歩的なものでしたが、高級言語としてC言語、Fortran、JAVAなどが、最近ではPythonなどが出現しています。
他にも沢山あります。

プログラミングと簡単に言いますが、それが実行プログラム=アプリケーションになるまでには大変な作業があります。
今では、簡単に、かつ、正確なプログラムソースを、候補としてプログラムソフト自身が示してくれるので、
昔のように、すべてを手書きで入力しなければならないのとはその速さ、効率、正確さは「雲泥の差」です。

プログラムは人間が分かる書式で、つまり、約束事(予約語書式とも言います)で書かれたアルゴリズムです。
これをパソコンやコンピュータが理解するには「機械語」に変換する必要があります。

これを一般的にコンパイルすると言います。

私はこの作業を行うコンパイラーというものを大学で学習したことがありますが、とても面倒なものです。
つまり、機械=コンピュータに「ことば(意味付け)を教える作業」がコンパイルであり、そのプログラムをコンパイラーというのです。

コンパイルが成功(バグ=記載ミスや論理不適合などが出るので成功するとは限らない)すると実行ファイル=アプリケーションが出来、ユーザーはこれを起動し使うことになりますが、
この実行ファイルがユーザーの使い方に基づき、パソコンが分かる機械語で作業をしてくれる訳です。
いわゆる拡張子が.exeというファイルが実行ファイルです。

皆さんもソフト(アプリケーション)をダウンロードしてインストールしたことがあると思いますが、
インストールする時、この作業が行われクリック一つで立ち上がる実行ファイル=アプリケーションを自動的に作ってくれるのです。

AIも基本的には同じですが、一般的なプロブラムよりは遥かに複雑なプログラムです。
その中にデープラーニングも組み込まれていますし、当然、ネットにも自ら接続出来AI自らが検索しそれを参考(比較)にすることもできるのです。
あたかも、人間がしていることをAIが「人間の求め」に応じて(人間の代わりに)こうしたことを行うことが出来るのです。
しかも、速いのです。

プログラムについて
プログラムやプログラム言語の歴史は古くは1800年代ごろから始まっていますが、今のように電子式に行われたのは1940年代以降のことです。
始まりは機械式だったのです。

次いで、1950-1960年代にかけて、上記で述べた人間に分かり易い高級言語が開発されました。
ですから、それ以前は、CPUや機械語の分かる人位にしかコンピュータを使いプログラミングを行えなかったのです。
その量は膨大なものでした。

大きな無塵室にコンピュータが置かれ円盤式の磁気テープが回転しているのを見たことがある人もいるかも知れません。
その操作は、今のようにキーボードではなく、5つの穴が横に空きそれに意味を持たせた穴あきテープをテレタイプの送受信のように機械式に読み込ませるものでした。
それから図書館にあるデータインデックスのような穴の開いた大きめのパンチカードに変わり、それを機械式に読み込ませてコンピュータに計算(演算)させていたのです。
この当時はバグやエラーが多く上手く使いこなすことは困難でした。
このパンチカードを作成するのは女の人が殆どで「キーパンチャー」などと呼ばれたものです。

同時に、コンピュータも真空管式から半導体式に変わり、かなり小さいサイズになりました。
その後、様々なCPU(集積回路、これ自体をコンピュータと呼ぶ人もいます)が開発され作業の高速化や多様化が出来るようになって現代に至っています。
その先駆けがIBMでありIntelなのです。
マイクロソフトはその名の通り、OSやアプリケーションを作ることで世界を席捲し今日に至っています。
これに対抗出来るのはアップルだけです。
世界は大別してこの二つの会社のパソコンが占めています。

 

(大学の卒研の配置の時、集積回路にするかコンパイルにするかあるいは単に数理理論にするかの選択肢がありましたがコンパイルを選んで後悔しています。

集積回路の開発か数理理論を選んでいれば、まともな卒論を書くことが出来たからです。

コンパイルは複雑で、かつ、面倒なのです。

しかし、優れた面は、

コンパイルを作るということは、プログラム言語を作るということと同じことなのです。

私はこの方に魅力を感じてコンパイラを選んでしまったのです。)


更に、これと並行して様々なプログラミング言語も出現し、この頃プログラムを学習していた人にとっては混乱しなかなか身に付かなかったものです。

今では、いわゆるオブジェクト指向の言語が主流となり、ある限られた機能だけをもつ小さなプログラムを様々用途に応じて組み合わせたものとなっています。

プログラムの冒頭に、必ず書くヘッダーファイル(関数ともいう)がこれに当たります。
この部分に、自分がこれからプログラムを書く上で必要なファイルを読み込ませる必要があります。
もし、これが抜けると、自分が書いたプログラムのアルゴリズムをコンピュータが理解出来ずフリーズしてしまうのです。

フリーズしないでコンパイルが完了したとしても、いざ実行してみると「動かない」ということが良くあります。

その原因が「バク」という「入力ミス」である場合が多いのです。

「バグ」とは、虫もしくは虫食いとも言われています。

つまり、セーターが虫に食われて綻び(穴)が出来るようなことです。

プログラムにはコンパイル様式のものとインタラプト様式のものとがあります。
インタラプトとは「解釈実行型」とも言われ、プログラム全体をコンパイルせずにプログラムを一語一語解釈しながら実行するというものです。
これはコンピュータを素早く動かすことが出来る反面、出来ることが限られていて余り複雑なことは出来ません。
つまり、高度な作業には不向きなのです。

今や小学生でもプログラミングやアルゴリズムを理解して実際にプログラムを書いている人がいます。
加えてAIの登場により、いわゆる「自動生成」も可能になり、プログラムもAIが作ってくれる時代になりました。
それを少し手直しするだけで、別のアプリケーションが完成するのです。
便利な時代になりました。

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AIの特異性

AIは原爆の作り方さえ教えてくれます。

AIは、初めはデータベースと検索ぐらいにしか出来なかったのが、今では人間を超えることまで出来るようになったのです。

人間の進歩というのは実に恐ろしいものです。
なぜ恐ろしいかと言いますと、「なにをしでかすか分からない」からです。

こうした人間の頭脳を創造したのは神なのです。

善し悪しは別として、神も驚くべき進歩と言えるかも知れません。

それでも、AIと言えども完璧ではありません
統計的に、あるいは、ある一面に於いて人間よりは速く優れているというだけの話です。

このAIが作り出すアイデアは、「人間の思考を更に発展させる存在」になりつつあります。
つまり、AIと人間の知恵とアイデアの相乗効果が生まれつつある訳です。

こうしたことは他にもあります。
スポーツの世界で様々なデータをAI解析することで、自分や相手の癖や傾向を知ることができ、それにより次に何をすれば良いかのアイデアが見えてくるのです。

これは数学の統計という手段を用いている訳です。
数学の統計という分野は確率を求めるための手段でもあります。
つまり、統計を求めることにより物事を成し遂げる効果を高めるのです。

それだけではなく、
統計により「見えない事柄」が見えてくるものです。
いろいろありますが、分かり易い例は、交差点の交通量です。
街角で交通量を測定している人を見かけたことがあるかも知れません。
時間帯により交通状態の状態、曜日による状態、トラックや乗用車の交通量などを調べることにより、
その交差点の現状が見えて来るのです。
それによって、車線を増やすか右折レーンを作るか、バイパスの必要性や立体交差にするか、あるいは、高速道路や高速道路のインターの必要性などを検討するのです。

AIやコンピュータや統計などは、人間の能力を最大限に発揮しようとする「欲望の助長」に過ぎません。
それでも、すべてが、人間の思い通りに、完璧になる訳ではありません。

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AIの負の側面
それは、フェイクの拡散です。

 

AIは必ずしも正しいことだけを示してくれる訳ではありません。
最も懸念されるのがフェイク、つまり、嘘やデマや捏造の拡散です。
知らない人はこれにより騙されるのです。
騙されるだけではなく、非常に多くの人に拡散させ、それが、あたかも真実であるかのように「一人歩き」をすることです。
その拡散の要因は嘘を信じた人がそれを他の人に伝えることです。

なぜ、確かめもせずに拡散させてしまうのでしょうか?

実はこうしたことはAIでなくとも起きているのです。
例えば、小学校で誰かが他の生徒の噂(嘘)を広めると、あっという間に全校に広まってしまいます。
その噂が本当らしく思えるからです。

人は誰かを騙す時「明らかに嘘だと分かること」は殆ど言いません。
「本当らしいこと」を言うので信じてしまうのです。

この時、騙すメカニズムは「幾つかの真実の間に、嘘を紛れ込ませる」ことです。
(悪魔はこの手法を持ちいてエバを騙したのです。)

例えば、
テストで普段余り高得点を取ったことのない人が高得点を取った時、誰かが「カンニングした」と嘘を噂として流すと、それを真に受ける人がいるのです。
その真に受けた人が更に他の人に話し、こして拡散は誰にも止められなくなるのです。

頑張って高得点を取った人は、努力を台無しにされ、悔しさと怒りの感情が爆発しそうになるのです。
こうしたことは、
何かのきっかけでそうなることが多いものです。

いつでもこうした噂を流しても信じられる訳ではありません。
嘘情報を流すタイミングというものがあるのです。

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フェイクに関して
これは的外れな考えですが、
「一人を殺せば殺人者だが、百万人を殺せば英雄だ。殺人は数によって神聖化させられる。」 
これは当時台頭したナチスのヒットラーに対して発せられたチャップリンの痛烈な批判の言葉だとされています。

被害者数が余りにも多いと、殺人という犯罪よりも、なぜそういうことが出来たのかという視点に変わってしまう傾向にあります。

「大衆は小さな嘘より大きな嘘に騙されやすい。
なぜなら、彼らは小さな嘘は自分でもつくが、大きな嘘は怖くてつけないからだ。」
との言葉がアドルフ・ヒトラーの言葉としてヒットした。
この言葉はヒトラーの著作である『わが闘争(上)』(平野一郎・将積茂/訳 角川書店 2002 改版再販)p.300に書かれているそうです。
これは意訳と思われます。

おそらく、正しくは、
「国民大衆の心は(中略)小さな嘘よりも大きな嘘の犠牲となりやすいからである。
というのは、かれら自身、もちろんしばしば小さな嘘をつくのだが、
しかし大きな嘘をつくのはなにしろあまりにも気恥ずかしく感じてしまうからである。」
と思われます。

共にヒトラーに関わる言葉です。

嘘つまりフェイクはこれと同じ理由で拡散すると考えられるのです。

小さな嘘は直ぐバレますが、大きな嘘はそれが嘘か真かの判断が直ぐにはつかないので、

それがあたかも「本当らしい」「夢や理想」などである場合信じ易くなります

これも的外れですが、
政治家の公約です。
公約の内容が「大きければ大きい程大衆は信じてしまう」ものです。
例えば、
私は授業料を無償化しますとか給食費を無償にしますとか所得を倍増しますと演説したとします。
すると、聴衆は具体的なことより無償とか所得倍増という「ことば」に期待を掛け(踊らされ)、その政治家に投票するようなものです。
(政治家の公約は大抵は実現しないものです。
 仮に当選しても、政治は一人では決められないからです。)

政治家は「大ぼら」ほど大衆の受けは良いのです。

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AIには「神、あるいは、神を崇拝する」という概念がありません
あくまでも、初めは、人間の知識や技術や経験の蓄積でしかないのです。
しかし、今ではディープラーニングという手法(プログラム)を通して、AIが自ら「学習」しデータを更に蓄積させ、人間の「叡智」を超えた(気が付かない)「アイデア」を出すことさえ出来るようになって来ました。
あくまでも、論理的であり物理的なのです。
そこには、「道徳や信仰という概念」がないのです。

勿論、そういう概念をAIに持たせることは可能です。
そうなると、おそらく、AIと云えども「混乱」が生じ、「道徳を取るか利を取るか」という選択でフリーズする可能性が出て来ます。

これも、「道徳を優先させる」というプログラムにすることも可能ですが、そうなると、人間の思惑通りに行かなくなる時が生じます

AIに道徳を持たせれば、少なくとも人間が行うよりは「健全」だとは思いますが、現実には有り得ないことです。
なぜなら、プログラムをするのは「欲」を持つ人間だからです。

そのためAIは、将来、人類を破壊、もしくは、破滅させる存在に成り得るということです。
AIは人間のように決して「神に立ち返る」などということは無いからです。

あくまでも、「唯物的であり無神論であり論理的でありデータの活用」でしかないのです。
(参考:こうした論理を通常「進化論」などと言ったりします。)

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人間の理知に関して。
神は、天の霊者のような「理知ある者」として人間を創造されました。

人間の、あるいは、人類の発展そのものが「神の偉大さを証明」していると言っても過言ではありません。

人間は、いわば、俗に言う「孫悟空がお釈迦様の手の平から出ることが出来ない」のと同じなのです。
人間が、人類がどんなに進歩、発展をしても「神が人間に与えた領域から出ることは出来ない」のです」。
(参考:人間が地球の外に出て活動することは、この領域から出ることを意味します。
 したがって、人間に与えられた領域外の活動は何ら保障されることはないのです。)

自然界には人間の想像や理解を超えたものが「無限に存在」しています。
それを発見して「応用」するのが「人間の知恵」です。
神はこうして「人間の活動が進歩、発展」するようにされたのです。
つまり、人間の進歩、発展のための「土台」を作ったのが神なのです。

なぜなら、
人間は直接神と触れ合うことが出来ないからです。

 

+++++++++++++++++++++++++++++

(参考)神の偉大さについて。
人間は神を直接見ることも話すこと(雷にしか聞こえない)も出来ません。

 

余りにも神が偉大、つまり、活動においても力においても原爆や太陽や惑星や銀河などの大爆発よりはるかに勝るエネルギーの塊のような存在だからです。
聖書に記されているように、太陽すらまともに見ることが出来ない人間は「神を見て生きていることは出来ない」のです。

肉体は物理的に耐えることが出来ないのです。

 

しかし、「」は別です。
脳の中に「」が生じれば「イメージとして見る」ことは出来ます。
その「」は、人間の側からは「開けることが出来ません」
もし開けて頂いても、神の姿は「」そのものとしか見えず、その姿形は「誰も分からない」のです。

かつて、この扉を開けて貰って「天を見た人間」は、
ヤコブ、エリヤ、エゼキエル、ステファノ、ヨハネなど少数です。
これに人間だったイエス・キリストが加えられます。

+++++++++++++++++++++++++++++

人間という存在について。


人間は生まれては死んで行く存在です。
それも僅か100年足らずの人生です。
この間に喜怒哀楽はありますが、人生のすべてにおいて、人間は常に「」を活動させて生きています。
その目的は兎も角として、この「頭」の働きは「驚嘆すべきもの」です。

生まれて1歳の赤ん坊ですら既に他の動物を凌駕しているのです。

人間には神から与えられた「理知」という特質を「善いことに用いる責任がある」のです。
多くの人は、「知らずして」自分の能力を自分だけのものとして「用いています」
それは、親がこうしたことを子供に教えないからです。

その親も自分の親から教えられていないのです。

どこかの段階で、神に目覚めこうしたことを子孫に伝えるべく「家訓」のようなものを作っても良いはずだと思いますが、残念ながらそうした人を私は知りません(知らないだけです。おそらく世界のどこかはにいると思います)。
しかし、そうした人は「世の中では極めて、目立たない人々」なので、世間で知られることはないのです。

殆どの家の「家訓」は、人間のある種の目的のためのものです。
道徳的規範であったり、商売の極意だったり、問題を避けるためのコツだったり、物事を成功させるための秘訣だったりというものです。

しかし、人間の理知を正しく用いるための「家訓」がある家を私は知りません。

大抵の人は、こうしたことに目覚めても「聖書」という書物の「訓戒」に従うことで十分だと考えています。
宗教を実践する人、信仰心のある人たちはそう考えています。

私も以前はそうでした。
しかし、今ではこれでは「不十分」だと感じています。

聖書はいわば「ルールブック」です。
そのルールに基づいて、人間は「更なる理知」を働かせることが「求められている」とさえ思っています。

信仰心を持つ人には単に教えに従うということだけではなく、それ以上のこと、いわば、職人のような「優れた知識、技術」を「信仰(生きる)ということに関して見出す」ことが求められていると考えています。

おそらく、このようは人は極少数だと思いますし、既に指導的な立場に立っているかも知れません。

 

例えば、野球などスポーツはルールに基づいて競い合います

つまり、ルールに従いつつ、その中で自分の能力を最大限に発揮するよう努力しているのです。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
かつて、エホバの証人と交わっていた時
聖書の知識、人格、伝道(いわゆる証言の仕方、初めて会う人との話し方)、聖書講演や割り当てなどに関して「優れた才能」を発揮する多くの人に出会いました。

エホバの証人が「割り当て」を果たす時、いい加減であったりずぼらであったりふざけたりした人を見たことがありません。
皆、真面目に割り当てを果たそうと努力をしています。

こうしたことは一見して「善いこと」のように思えます
しかし、
割り当てそのものを何の疑問を持たず言われたままに果たすその姿勢に問題があります。
つまり、盲目的に従っているのです。

あたかも学校で先生に「やれと言われてやっている」ようなものです。
そこには善悪の判断も道徳的判断も全くないのです。

私も、実際、会衆と交わった初めの頃はすべてに於いて彼らと比較して劣っていました
しかし、時が経つにつれて、そうした人々にも欠点や劣っている点があることに気が付きました

それからは、彼らをいわば「偶像視(有能な人と見なす)」することは無くなりましたし、必要以上に褒めたりすることもありません。

それらは単に「良く出来る」というだけのことであり、「優れた知識、人格、道徳」とは別のことなのです。

私自身バプテスマを受けてから8年位で長老になりましたし、講演などでも「良い話しをする」自信がありました。
話しの導入、聖句の適用、励ましの与え方、神とイエスに対する誉れの帰し方、例えや比喩の用い方など。

時には聴衆の涙を誘ったり感動を与えたりということもしました。

しかし、これは単に話し方の技法であり、そのこと自体に価値はありません
神権宣教学校の監督もし兄弟姉妹の割り当ての評価指導もしました。
奉仕監督でもありましたので、正規開拓者もしていました。

いわゆる未割当区域を協会から貰って、夏休み家族で何度も伝道活動も行いました。

しかし、自分を高めようとか有能だということを人に見せようとしたことは一度もありません
ただ、素直に忠実であること「仕事」を立派に果たそうとしただけです。

それが評価されて、いわゆる先輩を差し置いて長老に任命されたと思っています。
おそらく、妬んだ人もいたと思います。
反感を抱く人もいたと思います。
私も例に漏れず欠点を多く持っていますから

ある程度は気が付いていましたが、気にも留めませんでした
ただ、私が会衆を離れるまで「誤解」をしている人もいました。
つまり、私の動機を疑っていた人がいたということです。

しかし、それはその人の問題で私の問題ではありません
そのため、特に、そうしたことを問題視したこともありませんし、そうした人に評価して貰うように振る舞ったことも全くありません

私は純粋に自分の仕事(割り当て)を果たしたに過ぎないのです。
しかし、そうしたこと(長老として仲間の信者に仕えること)が「信仰」の一面、あるいは一部だと考えたこともありませんでした

自分の信仰と彼らに仕えることとは別のことだと考えていたからです。

割り当てや伝道活動や信者に仕えることは「仕事」だと考えていたのです。
信仰とは、聖書の教えに基づく、自分の生活の仕方であり、人格であり、考え方であり、他の人との接し方であり、他の人の話し方などの在り方なのです。
これら個人的なことと仕事(公のこと)とは別の問題なのです。

おそらく、仕事で「満足」することはあっても「信仰が強化される」ことはないと思います。

信仰は個人的なことであり、その人の内面のことなのです。
外部のことは関係なく、自分の信仰について外部のせいには出来ないのです。

何かのことに誘惑されたとしても、それは、誘惑した方(外部)ではなく自分(内面)の問題なのです。

例えば、悪魔に誘惑された時、エバの内面がしっかりしていれば善悪の知識の実を食べることはなかったのです。
むしろ、その出来事(蛇の誘惑)に関して夫であるアダムに告げたはずです。

しかし、現実にはそうせず、むしろ、誘惑が欲望に変わり、ついには食べてしまったのです。

これは、その人の内面のことです。

信仰において自分を強化するのは、聖書を何度も読み深く熟考したり、聖書の教えを自分自身に適用したり、あるいは、誘惑や困難や試練に遭遇した時です。
その時の自分自身との戦いは「信仰の戦い」なのです。

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信仰に於いて「職人のようになる」ことは、
単に「一人の人間がどのような生き方をし、どのような人生を送るか」というレベルの話ではありません。

どうすれば「人類全体が平和で穏やかに、かつ、人間らしく生きられるか」と言う点に関する「秘儀」のようなものです。

つまり、自分自身の「信仰(生き方)」に関して、知識、技術、感性などで優れていることや「救い」や「宣教」において人々を導く点(仕事)で「匠」であることです。

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( 繰り返しになりますが、

人間の理知を正しく用いるための「家訓」のある家を私は知りません。

大抵の人は、こうしたことに目覚めても「聖書」という書物の「訓戒」に従うだけで十分だと考えています。
宗教を実践する人、信仰心のある人たちはそう考えています。

これでは「不十分」だと感じています。

聖書はいわば「ルールブック」です。
私はそのルールに基づいて、人間は「更なる理知」を働かせることが「求められている」とさえ考えています。

信仰心を持つ人には、単に教えに従うということだけではなく、それ以上のこと、いわば、職人のような「優れた知識、技術、感性」を「信仰(生きる)ということに関して見出す」ことが求められていると考えています。 )

そのため、今では「すべての人間は生まれながらにして、こうした教育を受ける必要があり、また、それを徹底する必要がある」と考えています。

(参考:こうした教育を受けたからと言って、その通りにしなければならないということではありません

つまり、教育は命令や義務ではないのです。

知識であり、その知識に従うか否かは「自分で決める」ことなのです。)

なぜなら、天の霊者であった一人の存在が、神の行いに関して疑問を呈しそれを実行に移し、その結果現在の地球の惨劇を招く結果になったからです。

地上の人間には「そうさせない責任がある」とも言えます。
それが、「神から地と人の管理を付与された人間の責務」なのです。

個人の幸福などと言う「狭い了見」の話ではありません。

すべての人間は神との関係で自分の責任を果たすことが求められている」のです。

あなたにはこうした考えが理解出来ますか?
自分の「命」は、自分で宰領もしくは裁量出来たとしても「自分のものではない」のです。

神からの「与り物」なのです。

すべての人が、「神との正しい関係に目覚めて欲しい」と願っています。

職人の働きを通し、人間の素晴らしい能力の一部を示し、また、AIの能力に関しても示しましたが、
こうしたことに接し「元気が湧いてくる」人もいるかも知れません。

しかし、
人間だけに与えられているこうした能力を「人間のためだけ、自分のためだけに用いる」ことは間違っています
なぜなら、繰り返しますが、人間には「地と人(自分自身を含め)を正しく管理することが求められている」からです。

 

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神は人間の進歩発展をどう見ているでしょうか?

神は人間の進歩発展を見越して、制限、つまり、限界を設けられたことは確かです。
人間はミクロからマクロ迄詳しく調べまた研究することで数々の「見えない事柄」を発見して来ました。
しかし、人間が決して知ることが出来ないことがあります。
それは、「なぜそうなのか」「なぜそうなっているのか」という点です。

これは創造者にしか分からないことです。

(勿論、進化論でも説明はつきません)

例えば、人間は原子核の中までその実態を実験と研究を繰り返しある程度までは分かって来ました。
昔は、原子核といえば陽子と中性子で成り立っていると考えられていました。
今は物質粒子(物質を構成する粒子=クォーク6個、レプトン6個)とゲージ粒子(力を伝える素粒子=光子、グルーオン、z粒子、w粒子=電磁力、弱い力、強い力)とビッグス粒子(素粒子に質量を与える素粒子)
などと更に詳しく分かっています。
この他に、ダークマターとダークエネルギーというものの存在も分かっています。

我々が通常目にする物質はこうした要素で成り立っているという説です。

現実世界では、こうした目には見えない物質の構造を考えることはありません。
知らなくても、各々の物質の目に見える形とその性質だけで物事を処理出来るからです。
つまり、見えない事柄はいわば「ブラックボックス」と見なし、それに対する「原因と結果」だけ分かれば物事は十分だということです。

この見える部分と見えない部分の境界線は、
例えれば、地球の重力圏内における部分と重力圏外の部分に分けられ、重力圏内は素粒子の世界で、重力圏外は我々が目にする物質の世界という区別です。

ロケットで宇宙に飛び出す時、地球の重力が突然無くなる時点があります。
つまり、無重力状態になる時です。
その状態になる地球からの距離ははっきりしています。
およそ地上から100㎞とされています。
なぜ、無重力になるのかと言えば、
万有引力および遠心力などの慣性力が互いに打ち消しあい、それらの合力が0ないしは0とみなしうる程度に小さくなっている状態となるからです。

しかもこの状態は、あたかも壁をつきやぶるかのように「突然」生じます。


いわば、引力が強く作用する領域を目に見えない素粒子の状態と見なし、その領域から外の領域を目に見える状態(物資の表面)ということです。

しかし、素粒子がなぜそうなのか迄は決して分からないのです。
科学が進歩し、現代になってやっと神の創造の一端が「微(かす)かに分かって来た」程度なのです。

人間に出来ることは観測と実験から「想像」することしかないのです。
つまり、こうだからこうに違いないという推測、憶測しか出来ないのです。
究極的にはこれ以外理解する方法はありません。

人間が「霊」の存在を分かっていても、それがどうなっているのか分からないのと同じことです。
「命」や「思考」という存在を分かっていても、それがどうなっているのか分からないのと同じことです。

どこかで書きましたが、人間は「神の手の平の中から決して出られない」のです。

例えば、人間は進歩発展し科学的業績を上げ、また、様々な機械、製品を作り、いわゆる文明を進歩させて来ました。
しかし、人間が近代的なものを作ると、必ず「公害」や様々な問題を生じさせて来たことは事実です。

この公害や問題を生じさせることで、神は「人間に限界」を教えているのです。
究極的には「神の存在を認め、神に依存する」しかないことを「人間に認めさせるため」でもあります。

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人間の進歩を考えて見ますと、
土台となるアイデアや発見は古代に遡りますが、基礎となる学問の発展は中世以後近代頃のことで、
急速な発展は産業革命以降、短期間で効率的に大量の製品を作ることが出来るようになってからのことです。
その結果、煤煙、大気汚染、環境汚染、公害、温暖化が生じました。
また、
冷蔵庫やクーラーなどにより快適な生活が出来るようになりましたが、
その結果、フロンガスによるオゾン層の破壊が生じ、地球温暖化の原因の一つともなりました。

人間が文明の「力」を利用し、より活動的になることで地球は熱を、つまり、ヒートアップしたのです。

人間は問題が発生する度にそれを解決する方法を考えますが、多くの場合政府による経済政策を優先させ公害や問題を矮小化し抜本的な対策を講じて来ませんでした

一部の人々はこうした状況に危機感を覚え環境破壊を無くす取り組みを様々な機会を利用し提言して来ました。
SDG’Sもその一環です。

しかし、政府が国の経済的保全や安定を維持したいがために、環境破壊を無くす取り組みを阻止しているのです。

人々がSDG’sを行っても、環境破壊を抑えることは出来ません
なぜなら、その殆どが焼け石に水であり、政府がそうした取り組みをないがしろにするようなことをしているからです。
もし、環境汚染の最大の原因を排除すれば国の経済は成り立たなくなってしまうのです。

他にも、人間が人間を支配することで「多くの人は迷惑(害)」を被っているのです。
人間は互いを助け合うことで安全を確保し一人では出来ない多くのことを成し遂げられるものです。
しかし、
人間が大勢集まると「必ず問題が生じます
その原因は「人は各々自分の考え、気持ち、感情」を持っており、それが他の人と対立するからです。
その対策として、法律を作りそれに従うことでこれを解消しようともして来ました。

しかし、その法律は完全ではないため、法律では規制出来ないことも少なくありませんし、時には、企業などが政治家にロビー活動を行い抜本的な規制をさせないということもあります。
更には、法律に従わない人間が現れ、いわゆる犯罪を犯す者も少なくないのです。

その原因の多くは「人間の欲」なのです。
自らの欲を抑えて、全体の平和と安全のために尽くすという人は殆どいないのです。

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人類の問題という点に焦点を当てればどこの国でも以下のような問題の幾つかが発生しています。

人間が大勢集まると、
大量に出るゴミの処理の問題、
下水処理の問題、
浄水、つまり、飲み水の問題、
食料を他人に依存するので食料を確保する問題、
物価の高騰の問題、
衣類や住宅を手に入れる問題、
結婚や生活や子育ての問題、
仕事や収入の問題、

環境汚染の他にこうした問題が生じています。

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人間が抱える問題のすべては「人間が作り出したもの」です。

その最たる問題戦争であり大量殺人兵器であり高性能兵器です。

人は相手より「強い武器」を持てば、有利になり戦いに勝てると思い込んでいます。
確かに、強力な武器を使用すれば、その戦いに勝てるかも知れません。

しかし、人間は更に強力な武器を製造するようになります。
高性能で強力な武器の製造競争に終わりはありません

今や世界はネットで繋がっています。
勿論、原子力発電施設や核ミサイルなどを管理コントロールするために、電気とコンピュータを使用しています。
誰かが、それを外部からネットで破壊することさえ可能なのです。

ネット、AI技術などはそれを可能にするのです。
つまり、原子力施設のコントロール設備がハッキングされると「非常に恐ろしい事態」になります。

プーチンが核兵器を使用すると脅していますが、
移動式の小さい兵器以外は電気とコンピュータ制御が必要です。
これを誰かに乗っ取られたら核兵器は「役に立たなくなる」のです。

つまり、世界中を停電にさせれば核ミサイルの使用も出来なくなるということです。

それを可能にする技術もあります。
例えば、
上空1万メートル以上のところで、あるいは、地球の大気圏外の近くで核爆発させれば、その影響はそこに近い地球のある地域に生じ、あらゆる電子機器が使用出来なくなります
自動車すら動かなくなると言われています。

核兵器を地上で使用させないため、それを宇宙空間で使用するという方法もあるということです。

これを止めることは誰にも出来ません。
つまり、核兵器を持っていいる国が、特定の国の上空で核爆発を起こせばその国のあらゆる電子機器が動かなくなってしまうのです。
そうすれば、一時的に地上で核兵器を使用出来ない状況を作ることが出来るのです

そうなれば、地上ではいわゆる通常兵器で戦うことになり、広島長崎のような酷い状態になることを防げるのです。

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神はこうした状況、状態を何時までも「見過ごされません
神は、初めから人間の行いを知っており、それに基づいて「事物の体制の終わり」つまり「人間の限界点」を定めておられるのです。

今が、その人間の限界点に限りなく近づいている「時」なのです。
単に、悪魔の影響による「人間の悪」を終わらせるという問題にとどまらないのです。

その「時」は、イエスの預言の通り「人々が普通の生活」をしている時に「突然やって来る」のです。
それゆえ、イエスは「油断なく見張っていなさい」と警告しているのです。

 

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あなたは人間の命に格差は存在すると思いますか?

聖書の中で、神に動物の犠牲を捧げるべき律法が示されています。

その殆どが「罪を贖う」ため、つまり、自分の犯した罪に関して「神に許しを請う」ための儀式です。

神の示された通りの犠牲を捧げれば、罪は許されました。

ただし、その犠牲は一度で済まされる場合と毎年行わなければならない場合とがありました。


動物の犠牲を捧げるということは「動物の命」を捧げるということです。
聖書に記述によりますと、この「命」に差別というか区別があります。
つまり、
人間の罪の程度により、
雄牛を犠牲として捧げるか、雌牛か子牛を捧げるか、山羊を、ハトをという具合に求められているものが異なります
これは罪に程度を設けている点(責任の重さを区別している)と捧げる動物に違いを設けることで「命」に差あるいは区別を設けていることになります

神は罪に応じてこれらのものを犠牲として要求したのです。

極端な話、「人間の命にも差や区別がある」と考えるのは道理です。

これは人間の考えですが、
軍隊で大将の死と一兵士の死ではその価値が異なることは明白です。

その権限や能力や働きには大きな違いがあるからです。


同じ人間(の命)でありながらこうした差はあるものです。

しかし、誰でも「人の命」は皆同じだと考えるものです。
小さい子供の命も一家を養う父親の命も同等だと考えるものです。

しかし、本当にそうでしょうか。
明らかに一家の生活を支える父親の命の方が重いし価値があることは明白です。

人間は思考では「理想」を、現実では「価値」を考えるのです。

言葉では「命」は皆同等の価値があると考えたり言ったりしますが、
現実には「命」に格差を付けるのです。

この差、区別はその「命」が宿る肉体が有する能力や立場によることを示しています。

有能な人に宿る「命」には価値があり、
ヤクザな人に宿る「命」は虫けら同然なのです。

聖書の中では、
イスラエル人の「命」には価値があり、
偶像崇拝者である諸国民の「命」は虫けら同然に扱われています。

人類のために贖いの犠牲となったイエス・キリストの場合もそうです。
最初の人間アダムの罪を贖うためには、イエス・キリストでなければならなかったと同じことです、
つまり、
アダムの「命」に対応するのはイエス・キリストの「命」だけだったのです。
他のどんな人間もこれに相当する者はいないからです。

つまり、「命」に価値の差があるということです。
この場合も、
神によって創造されたアダム(罪を犯す前の状態)と「命」を天からマリアの胎に移され生まれたイエスは神により創造された肉体という意味では同等ということです。
どちらも、文字通り神の霊によって形造られたのです。


ただ、イエスの場合はアダムのように地面の塵から創造されたのではなく、人間の胎(人間を形造る仕組みを持つ女の胎)を利用したという違いがあるだけのことです。(神による奇跡)

他のすべての人間は、罪を犯したアダムから受け継いだ命ですから、罪を犯す前のアダムと同等の価値のある「命」を持つ者は一人もいません。

律法によれば罪を贖うにはその罪に対応する贖いが要求されていました。

「命」は「命」が宿る肉体によって価値が決まるということです。

これは聖書の中の次の言葉と合致します。
「死ぬ日は生まれる日に勝る」-伝道の書7:1
つまり、生まれた赤ん坊の命よりも人生でなにがしかのことを成し遂げて来た人の命の方が価値があるということです。

 

(参考:イエスの家系に関しては、イエスが預言されていたメシアであることの証の一つであり、「贖いの犠牲の価値」とは異なるものです。

 イエスの贖いの犠牲の価値は、家系や立場によるものではありません

 特に家系に関しては、ユダヤ人の王の家系に生まれたことを、つまり、ユダどダビデの直系の子孫

 であることを裏付けるものです。)

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例えば、
」は電化製品の「電気」に相当するものです。
物の価値はその製品の持つ機能(能力)によります。

もっとも、役割が異なるので差は付けられないという考えもありますが、
人間の場合は男女の区別以外は大人と子供の違いがある程度です。

電気そのものには「違い」はありません。
どの製品にも同じ電気で動くのです。

日本では東西で周波数が異なり、外国とは電圧が異なりますが、
電気という性質そのものは全く変わらないものです。

そのため、
日本製品を外国に持って行っても電圧を調整するだけで使えます。

人間の「」は電気と同じであり、
人間の能力、立場は電化製品の機能と同じなのです。

ですから、
人間の能力により格差が生じるのは当然のことなのです。
」の格差とは、「人間の能力」による格差のことです。

 

おそらく、これに異論を唱える人は多いと思います。

しかし、格差は現実なのです。

人は能力により、人を区別しているのです。

 

その良い例が、スポーツ選手です。

能力の高い人が選手になり能力のない人は選手に選ばれることはないのです。

 

人の能力人の命の価値は別だと考えますか?

本当に、赤ん坊の命親の命は同じですか?

 

「生き物」としてや「生きる」ことに関しては同等です。

 

しかし、「命」が生かしている「肉体」には、おのおの価値に違いがあるのです。

 

一般的に、人は何かを成し遂げると「評価=価値」が上がるのです。

 

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世の中では、すべての人間に共通な「」は皆同じと考えています。
しかし、
その「」が「命が宿る肉体の能力」に「格差」を生じさせているのです。

例えば、
世の中では、ある人の銅像を作ったり、讃えたりすることは日常的にしていることです。

人間の欲望に、
科学者であればノーベル賞を受けたいとか、
高校生であれば国立の有名大学に入学したいとか、
有名企業、大企業に就職したいとか、

官僚になりたいとか、
つまり、
自分の能力を高め認められたいという思いがあります。
自然なことです。

人間は本能的に他と比較することで「争っている」のです。
それは、その人の自尊心がそうさせるのです。

そのため、人は「他の人に勝つ」ことに「人間の価値」を見出しているです。

こうしたことは身体障害者についても同じです。
身体障害者は肉体の運動機能では幼い子供にも劣るものです。
しかし、
脳の働きについては、脳に障害がない限り普通の人と同じです。
IT技術を用いれば、普通の人と同じ仕事が出来る場合もあります。
(参考:この場合は、製品の一部が機能していないのと同じと見なします)


心の病気は、いわば、脳に障害がある人のことです。
人は脳に障害があるとすべてのことを普通に出来ません。
いわば、欠陥製品なのです。
ですから、人間としての「価値」は下がります。

(参考:この場合は、製品そのものの欠陥を意味します)

聖書の中でも、そうした身体障害者は神に近づくことが出来ませんでした

身体障害者は「汚れた者」と扱われていたのです。
例えば、
身体障害者は幕屋(いわゆる神殿)での奉仕に携わることが許されていませんでした。

神殿での行事や崇拝行為の時には、神の前に立つことすら許されていませんでした。

神殿の聖なる器具に触れることも許されていませんでした。
それは、おそらく、示された手順を滞ることなく行うことが出来ないためだとも考えられます。

ですが、繰り返しになりますが、
あらゆる電化製品に対して、電気は「共通」なものです。
同じようにすべての人を生かしている「」はすべての人に対し「共通」のものです。
これに区別はありません

しかし、電化製品に差や区別や分類があるように、人にも同じことが言えるのです。

人は平等だと考えていますから、こうしたことを普通は余り意識はしませんが、
現実には、学校の成績や、入学試験や、入社試験や、資格試験などで人選が行われています。
これは、人を能力で差別していることなのです。

 

更に、ものみの塔の会衆で、長老や奉仕の僕(援助奉仕者)なども、もし、神やイエスが任命したのなら、他の信者よりは「価値のある人」です。

モーセが他のイスラエル人より価値があったように。

誤解をしないで頂きたい点があります。
価値がある=偉いとは異なるという点です。

ですから、長老は偉い訳ではありません
長老は信者に対する奴隷の立場なのです。

 

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参考:

神の王国の人々の価値は地上で生きる人々より価値があるのです。

イエスは群衆に対して、

「 あなた方に真実に言いますが,女から生まれた者の中でバプテストのヨハネより偉大な者は起こされていません。しかし,天の王国において小さいほうの者も彼よりは偉大です。」-マタイ11:11

と言われました。

 

この後、イエスは犠牲の死を遂げる前日に新しい契約を11人の弟子たちと結んでいます。

 

神の王国の一員である14万4000人は、天に霊者として復活させられ神の養子とされるのです。

-エフェソス1:3-6

 

人間として生まれてこれ程の価値と誉れがあるでしょうか?

神の養子となり、神のみ使いたちのように天で神の組織の一員となれるのです。