知恵を求める人のためのブログです。

人が宇宙に行く科学の時代となっても、いわゆる「地球外生命」は発見されていません。

特に地球に最も近い惑星である火星や太陽系の小惑星に「生命の存在」を探そうと懸命になっていることは多くの人は知っています。

その根拠としているのが、やたんぱく質のもとであるアミノ酸の存在かその元となる物質の存在の発見です。

しかし、この探索は「徒労」に終わると断言出来ます。
なぜなら、
人間が創造された時のことを聖書から読んで見れば分かります。
神は地面の塵から人間を形作りました。
つまり、地面に存在する物質(有機質、無機質、菌、ウィルス、酵母などを用いて)から「人を創造」しました。
しかし、
それだけでは「生きた人間」とはなりませんでした
人が生きるようになったのは、神が人の鼻孔から「命の息」を吹き入れたからです。

創世記2章には次のように記されています。
7 それからエホバ神は地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂になった。

8 さらに,エホバ神はエデンに,その東のほうに園を設け,ご自分が形造った人をそこに置かれた。
9 そうしてエホバ神は,見て好ましく食物として良いあらゆる木を地面から生えさせ,また園の真ん中に命の木を,そして善悪の知識の木を[生えさせた。
10 さて,がエデンから発していて園を潤し・・
この記述を読んでも分かるように、
いわば「地面の土(成分)」で人間を造り、さらに、「命の息」が必要だったことも分かります。
加えて、食物を食べることと水も必要であることが分かります。

 

地球上のあらゆる生物は「酸素」を必要としていることは誰でも知っています。

しかし、

成分や食物は人間でも作ることは可能ですが「命の息」は人間には不可能です。

従って、

宇宙を探索し水やアミノ酸の元になる物質を発見しても、それ自体だけでは「生命」の可能性、あるいは、痕跡とはならないのです。

 

それゆえ、

人類がいくら宇宙を探索しても「徒労」に終わるのです。

生命に関しては、今現在、人間が「自覚」している「そのまま」で、創造の初め以来「全く変化」していないのです。

 

この聖書の記述はBC1513にモーセによって記されたものです。
今から、3537年前のことです。
およそ人類が科学ということを全く知らなかった時代です。

 

こうした肉体的なこと以外に、

人間の「精神」はどのようにして存在するようになったかについては、未だに全く分かっていません。

特に「思考、感情、思い、良心、罪悪感、欲望」などの「存在理由」は未知の領域です。

動物の脳と人間の脳は形態は似ていても、「全く異なるもの」です。

余りにも複雑で今でも解明途上です。

 

更には、

交感神経と副交感神経の働きやホルモンなどの分泌物の作用が「肉体」を生かしている「恒常性(こうじょうせい)ないしはホメオスターシス」についても、その機能は分かっていても、その「存在理由」も分かっていません。

分かっているのは、それが機能しないと「死んでしまう」ということだけなのです。

 

人間が人体について分かっていることは、

原因と結果だけなのです。

中身は「ブラックボックスのまま」です。

人間は、人体を分かっていると「思い違い」をしているのです。

 

実際、人間が生きて行く上に於いては原因と結果」だけ分かれば生きて行けます。

しかし、それだけでは人間を解明したとは言えません。

特に、人間そのものよりも、人間の内部に働いている様々な機能の存在理由とそこに見出される「高度な知恵」の存在でについては「全く不明」です。

 

人間の科学技術の進歩発展は目覚ましいものがあります。

人間がこれだけのことを成し遂げるのに多くの時間と「知恵」と「技術の向上」が必要であることに「疑問」を抱く人はいません。

つまり、「優れたもの」には、「高度な知恵」が働いているということは、すべての人間が自覚していることなのです。

高度な知恵」が働いているということは、それを持つ「存在」がいるということです。

 

人間は「優れたもの」です。

人間を造った存在がいることは明白です。


あなたはどう思いますか?

従って、宇宙を探査して、水やアミノ酸の元となる物質を発見しても、それが宇宙に、地球以外に生命が存在するという証拠にはならないということです。

繰り返しますが、
それゆえ、冒頭でこうした探索は「徒労」に終わると書いたのです。

その根本原因は、

進化論」が間違っている「嘘の理論」だからです。

昆虫記で有名なファーブルも進化論に異論を述べています。

ファーブルは神の創造物を丹念に調べた結果、進化論に異議を唱え、ダーウィンに手紙を送っています。

あなたは知っていましたか?

 

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私は常々、人間は実に不安定な状態にありながら、それをある範囲に維持することで「生きることが出来ている」と考えています。

 

例えば、

水は溜まったままだと「腐敗」し、つまり、雑菌が繁殖し「汚れて」しまいます。

水は絶えず「循環」しているので、「きれい」な状態を作り出しています。

ずっと座ったままでいられる人や動物はいません。

様々な活動をしているから「生きていられる」のです。

人間の思考も思いも感情も常に変化しています。

これらについても、ある限界点を超えると「病気」「異常な状態」になってしまいますが、

常に同じ状態を維持することは困難」です。

短期間では可能でも人生のような長期間では不可能です。

この点分かり易いのは「恋愛感情」でしょう。

付き合う前と付き合っている時と結婚するかあるいは分かれた後では「気持ちも感情」も全く違ったものになっています。

結婚した場合でも、直後と数年後と老齢となった時では全く異なっています。

人は、これを進歩とか成長などと言っていますが、

絶えず変化していることに間違いはありません。

 

三つ子の魂百まで」と言われますが、これは主に性格や性質のことを言っていますが、

親などから言われた「一言」などや「本の一節」や誰かの「一言」などを「生涯」忘れない人は多いものです。

ある意味、精神の「柱」のような「一言」です。

あなたもそのようなものを持っているかも知れません。

大抵は誰でも持っているものです。
決して「忘れない」あるいは「忘れることが出来ない」ものです。
これは、船で例えれば人生の方向を決める「」のようなものです。
人生と言う船は絶えず変化していますが、その時の状況に応じて」を操っているのです。

そこには「知恵」「道理」「道徳」も関係しています。

は天地人の創造者ですが、同じことを繰り返す循環によって「安定」を保っていると以前書きましたが、

人間の活動もの創造に倣って同じように出来るかも知れません。

ただ、人間は忘れたりするので、繰り返しを「明文化」し常にそれを見ながら1年というサイクルで活動すれば、変化しながらでも「安定」した状態を維持出来るのではないかとも考えています。

 

こうしたことは、

農作業をしている人や年金生活者であれは可能ですが、現役で社会で働いている人たちにとっては「おそらく不可能」です。

しかし、そうした人々でも、一定の「枠」からはみ出ない状態を「維持」することで「不安定」ではありますが「活動を継続」出来ているのです。

 

この「枠」からはみ出たら人間は活動することも生きて行くことも出来ないのです。

 

ちなみに、こうした説明は進化論では有り得ないことです。

進化論では、絶えず、進化に向かっているからです。

それゆえ、循環による安定は、進化論では有り得ないことなのです。

 

進化論は「科学」です。

従って、進化論は「科学」の中では、それが「空想」ではあっても「可能性」として論じられているのです。

 

一方、聖書では詳細は論じられてはいませんが、命、肉体、精神、思考、欲望、善と悪、知恵などに関しては明確に記されています。

これらは「空想」ではありませんし、実際、生きているすべての人間が持っているものです。

 

進化論では、これらに関して「的確」に述べることも示すことも出来ません。

出来るのは、今人間が見ている事柄についての「想像」だけなのです。

 

更に言えば、

ある意味「進歩」や「改善」は、他の人との「競争」を生じさせます。

次いで、能力差は差別を生じさせ人々の間に「違和感」が生まれます。

ある人は裕福になりある人は貧しい生活をしているとか、ある人は組織で出世しある人は下っ端で働かされているとか、ある人はその分野で有能となり有名になったりある人は病気や障害で苦しい生活を余儀なくされているなどということは世界中で生じています。

 

こうした違和感は、考えの違いや振る舞いや行動の違いとして現れ、そうしたことが原因で、争いや犯罪に至ることが多いものです。

 

今の「闇バイト」が若者たちの「正常でない生き方」の結果として現れています。

それは、単にお金がないというだけでもあるのですが、そういう生活、生き方をする人が増えた社会になってしまったのです。

辛抱して真面目に働く人が少なくなったということです。

これは、科学、社会、および、政治の責任です。

若者たちが健全な生き方をするための政策を取って来なかったからです。

今の学校教育は、人間教育でありながら、競争も生み出しているのです。

 

こうしたことの「背景」に進化論があると言っても過言ではないのです。

 

あなたは気付いていましたか?

 

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人間がにより創造された時、地球以外に行ったり暮らすことを想定していないことは明白です。

は人間を創造する時、次のように言われました。
創世記1章
26 次いでは言われた,「わたしたちの像に,わたしたちと似た様に人を造り,彼らに海の魚と天の飛ぶ生き物と家畜と全地と地の上を動くあらゆる動く生き物を服従させよう」。
27 そうしては人をご自分の像に創造してゆき,の像にこれを創造された。男性と女性にこれを創造された。
28 さらに,は彼らを祝福し,神は彼らに言われた,「子を生んで多くなり,地に満ちて,それを従わせよ。そして,海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ」。
29 次いでは言われた,「さあ,わたしは,全地の表にあって種を結ぶすべての草木と,種を結ぶ木の実のあるあらゆる木をあなた方に与えた。あなた方のためにそれが食物となるように。
30 そして,地のあらゆる野獣と,天のあらゆる飛ぶ生き物と,地の上を動き,その内に魂としての命を持つすべてのものに,あらゆる緑の草木を食物として与えた」。そしてそのようになった。

創世記2章
7 それからエホバ地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂になった。(これは、いわゆる霊魂になったという意味ではありません。単に、肉体を示しています。生きた、活動する人間になったという意味です。)

8 さらに,エホバはエデンに,その東のほうに園を設け,ご自分が形造った人をそこに置かれた。
9 そうしてエホバは,見て好ましく食物として良いあらゆる木を地面から生えさせ,また園の真ん中に命の木を,そして善悪の知識の木を[生えさせた]。
10 さて,がエデンから発していて園を潤し,そこから分かれ出て,いわば四つの頭となった。
11 第一のものの名はピションという。それはハビラの全土を巡るもので,そこには金がある。
12 そしてその地の金は良質である。そこにはブデリウム樹脂やしまめのうもある。

13 また第二の川の名はギホンという。それはクシュの全土を巡るものである。
14 また,第三の川の名はヒデケルという。それはアッシリアの東を行くものである。そして,第四の川はユーフラテスである。
15 それからエホバは人を取ってエデンの園に住ませ,それを耕させ,またその世話をさせた
16 また,エホバは人に命令を与えてこう言われた。「園のすべての木から,あなたは満ち足りるまで食べてよい。

17 しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」。
18 次いでエホバは言われた,「人が独りのままでいるのは良くない。わたしは彼のために,彼を補うものとなる助け手を造ろう」。
19 さて,エホバは野のあらゆる野獣と天のあらゆる飛ぶ生き物を地面から形造っておられたが,人がそれぞれを何と呼ぶかを見るため,それらを彼のところに連れて来られるようになった。そして,人がそれを,すなわちそれぞれの生きた魂をどのように呼んでも,それがすべてその名となった。
20 それで人は,すべての家畜と天の飛ぶ生き物と野のあらゆる野獣に名を付けていたが,人のためには,これを補うものとなる助け手は見いだされなかった。
21 そこでエホバは深い眠りを人に臨ませ,彼が眠っている間に,そのあばら骨の一つを取り,次いでそこの肉をふさがれた。
22 それからエホバは,人から取ったあばら骨を女に造り上げ,それを人のところに連れて来られた。
23 すると人は言った,
「これこそついにわたしの骨の骨,
わたしの肉の肉。
これは“女”と呼ばれよう。
男から取られたのだから」。
24 それゆえに,男はその父と母を離れて自分の妻に堅く付き,ふたりは一体となるのである。
25 そしてそのふたりは,すなわち人もその妻も共に裸のままであったが,それでも恥ずかしくは思わなかった。
ちなみに、アダムとエバには「へそ」がなかったと思われます

 なぜなら、神により創造されたので「へそ」は必要なかったからです。

 他のすべての人間は、へその緒によって胎内で成長するために「へそ」が残ります。

 しかし、それでも肉体の構造を形作る遺伝子を考慮すると、アダムとエバにも「へそ」はあったか

 も知れません。)
 

こうした記述から考えても人が地球から宇宙に出て暮らすようになるということは全く示されていません

そして、つい最近までは地球から宇宙に行ったことはなかったのです。
しかも、人間の生活は創造の初め以来全く変わっていないのです。

もし、は人間が将来宇宙に行くことを想定していたなら、それを示唆することを述べていたはずです。
は予告なしには何事も行われないからです。

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ものみの塔のエホバの証人たちは、聖書に「親に従順でありなさい」と書いてあると言って子供を無理やり従わせたり「むち」打つ親は多く、それが子供を「躾ける」ために良いことだと思い込まされています

エフェソス6章
子供たちよ,と結ばれたあなた方の親に従順でありなさい。これは義にかなったことなのです。
2 「あなたの父と母を敬いなさい」とあり,これは約束を伴った最初の命令です。
3 すなわち,「それはあなたにとって物事が良く運び,あなたが地上で生き永らえるためである」。
4 また,父たちよ,あなた方の子供をいら立たせることなく,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい。-エフェソス6:1-4

この言葉は、
聖書に通じたパウロが、箴言から引用した言葉です。
参考:箴言1:8、6:20、23:22

と結ばれた」と言っても、それは親が「(ものみの塔による)バプテスマを受けたエホバの証人」であるという意味ではないことは「明白」です。

と結ばれた」とは、イエスの弟子となり、イエスの人格、精神、知恵、知識などを身に付けた人のことです。

イエスの弟子となるため「バプテスマ」を受けた人たちすべてが、エホバの証人を含めて「主とむすばれ」ている訳ではありません

第一義的には「天でイエスと共になる人々」「囲いの中の羊」たちに述べたものです。


現代のエホバの証人でこれに合致する人は「皆無」です。

しかし、だからと言って、子供は親に従わなくても良いと言っている訳ではありません。

現代の法律でも親は子供を養育する責任が課されているからです。

つまり、子供は親に従わなければならない理由があるのです。

それでも、子供の権利も憲法で保証されています。

加えて、各々に義務もあります。

少なくとも、

クリスチャンであっても「法の下」にありますから、法律に従う義務があります。

聖書でも法律を含め上位の権威に従うよう記されています。-ローマ13:1、ペテロ(一)2:13

日本国憲法第三章および人身保護法および扶養義務の準拠法に関する法律(基本六法全書で誰でも確認出来ます)を見て下さい。

しかし、パウロは次のようにも述べています。
コロサイ3章
しかしあなた方は,もしキリストと共によみがえらされたのであれば,上にあるものを求めてゆきなさい。そこにおいてキリストは,の右に座しておられるのです。
2 地上にある事柄ではなく,上にある事柄に自分の思いを留めなさい。
3 あなた方は死んだのであって,あなた方の命は,と結ばれてキリストと共に隠されているからです。
4 わたしたちの命であるキリストが現わされるとき,その時にあなた方もまた,彼と共に栄光のうちに現わされることになるのです。
5 ですから,淫行,汚れ,性的欲情,有害な欲望,また強欲つまり偶像礼拝に関して,地上にあるあなた方の肢体を死んだものとしなさい。
6 こうした事柄のゆえに神の憤りは臨もうとしているのです。
7 かつてそうしたことの中で生活していた時には,あなた方もまさにそのような事のうちを歩んだのです。
8 しかし今は,そうしたものを,憤り,怒り,悪,ののしりのことば,またあなた方の口から出る卑わいなことばを,ことごとく捨て去りなさい
9 互いに偽りを語ってはなりません。古い人格をその習わしと共に脱ぎ捨て,
10 新しい[人格]を身に着けなさい。それは,正確な知識により,またそれを創造した方の像にしたがって新たにされてゆくのです。
11 そこにはギリシャ人もユダヤ人もなく,割礼も無割礼もなく,異国人も,スキタイ人も,奴隷も,自由人もありません。ただキリストがすべてであり,すべてのうちにおられるのです。
12 したがって,の選ばれた者,また聖にして愛される者として,優しい同情心,親切,へりくだった思い,温和,そして辛抱強さを身に着けなさい
13 だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き互いに忍び,互いに惜しみなく許し合いなさい。エホバが惜しみなく許してくださったように,あなた方もそのようにしなさい。
14 しかし,これらすべてに加えて,愛を[身に着けなさい]。それは結合の完全なきずななのです。
15 また,キリストの平和があなた方の心の中を制御するようにしなさい。実際あなた方は,一つの体としてそれに召されたのです。そして,感謝を抱いていることを示しなさい。
16 キリストの言葉を,すべての知恵においてあなた方のうちに豊かに宿らせなさい。詩と,神への賛美と,慈しみのこもった霊の歌とをもって互いに教え,また訓戒し,心のうちでエホバに向かって歌いなさい。
17 そして,あなた方が言葉や業において行なうことが何であっても,すべての事を主イエスの名によって行ない,彼を通して父なるに感謝しなさい。
18 妻たちよ,夫に服しなさい。それは主にあってふさわしいことだからです。
19 夫たちよ,妻を愛しつづけなさい。[妻]に対して苦々しく怒ってはなりません。
20 子供たちよ,すべての事において親に従順でありなさい。これはにあって大いに喜ばれることなのです。
21 父たちよ,あなた方の子供をいらいらさせて気落ちさせることのないようにしなさい
22 奴隷である人たちよ,肉的な意味で[あなた方の]主人である人たちに対し,すべての事において従順でありなさい。人を喜ばせようとする者のように,目先だけの奉仕をするのではなく,誠実な心で,エホバを恐れつつ[仕えなさい]。
23 何をしていても,人にではなくエホバに対するように魂をこめてそれに携わりなさい。
24 あなた方は,しかるべき報いである相続財産をエホバから受けることを知っているのです。主人であるキリストに奴隷として仕えなさい
25 悪を行なっている人は,自分が行なった悪の報いを必ず受けるのです。不公平はありません。
-コロサイ3:1-25

繰り返しますが、これらの言葉は

第一義的には「天でイエスと共になる人々」「囲いの中の羊」たちに述べたものです。

パウロのこの言葉の真意は何処にあるのでしょうか?
新しい人格を身に付けること。
キリストの平和で心を制御すること。
です。

 

ですから、「天でイエスと共になる人々」以外の他のクリスチャンが見倣うべき「精神」はこの精神です。

見倣うべきであって、求められている訳ではありません

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同時に聖書では、子供の愚かさを矯正するために、懲らしめとむち棒が関連付けられているヶ所が多くあります。

その殆どは、

箴言13:24、19:18、22:15、23:13-14、29:15(子供との関連で)

であり、その他にも、

箴言10:13、26:3(子供とは限らない場合)

に記されています。

 

これらが、「世の中の教会で子供に対するむち打ち」の理由とされています。

 

パウロは、

 [父親]は自分に良いと思えるところにしたがって数日の間わたしたちを懲らしめるのが常でしたが,

-ヘブライ12:10

と述べていますが、パウロは幼い時数日間もむちで叩かれた訳ではありません

懲らしめを受けたのです。

 

パウロは次のようにも述べています。

14 わたしがこれらのことを書いているのは,あなた方に恥をかかせるためではなく,わたしの愛する子供として訓戒するためです。

15 あなた方にはキリストにあって一万人の養育係がいるとしても,決して多くの父親はいないのです。キリスト・イエスにあって,わたしが,良いたよりを通してあなた方の父親となったからです。

16 それで,わたしはあなた方に懇願します。わたしに見倣う者となってください。

・・

19 しかし,エホバが望まれるなら,わたしは間もなくあなた方のところに行きます。そして,思い上がっている人たちのことばではなく,その力を知るようになるでしょう。

20 の王国はことばにではなく,力にあるからです。

21 あなた方は何を望みますか。わたしは棒むちをもってあなた方のところに行きましょうか。それとも,愛と霊の温和さとをもってでしょうか。     

-コリント(一)4:14-21

 

パウロの真意は何処にあるでしょうか。

イエスの弟子たちを「愛する子供」と述べ、また、「父親」となったと述べています。

そして、わたしに見倣う者となって下さいとも述べています。

それは、(つまり、懲らしめの与え方として)「愛と霊の温和さ」を持って訓戒することだったのです。

これは、文字通りの子供に対しても同じだったのでこのように述べることが出来たのです。

 

更に、

ガラテア6章

兄弟たち,たとえ人がそれと知らずに何か誤った歩みをする場合でも,霊的に資格のあるあなた方は,温和な霊をもってそのような人に再調整を施すことに努め,それと共に,自分も誘惑されることがないよう,おのおの自分を見守りなさい。(親が子供に対しても同じです

2 互いの重荷を負い合い,こうしてキリストの律法を全うしなさい。

3 取るに足りない者であるのに,自分は相当な者であると考える人がいるなら,その人は自分の思いを欺いているのです。(親の傲慢さを戒めています

4 むしろ各人は自分の業がどんなものかを吟味すべきです。そうすれば,他の人と比べてではなく,ただ自分自身に関して歓喜する理由を持つことになるでしょう。

5 人はおのおの自分の荷を負うのです。

6 さらに,だれでもみ言葉を口頭で教えられている人は,そうした口頭の教えを与えている人と共にすべての良い事にあずかりなさい。

7 惑わされてはなりません。は侮られるような方ではありません。何であれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです。(親の無思慮なむち棒を含んでいます

8 自分の肉のためにまいている者は自分の肉から腐敗を刈り取り,霊のためにまいている者は霊から永遠の命を刈り取ることになるからです。

9 それで,りっぱなことを行なう点であきらめないようにしましょう。うみ疲れてしまわないなら,しかるべき時節に刈り取ることになるからです。

10 ですから,時に恵まれている限り,すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なおうではありませんか。(この中に子供も含まれています

-ガラテア6:1-10

 

このパウロの言葉は、クリスチャンの親たちにも当てはまる言葉です。

ここで示されている「人」には、自分の子供も含まれているのです。

 

更に、クリスチャン・ギリシャ語聖書(新約聖書)には、

「懲らしめ」という言葉は出て来ますが「むち棒」という言葉は用いられてはいません

律法下にあったユダヤ人の子供に適用されても、クリスチャンには「むち棒」は適用されていないのです。

「むち棒」はイエスの教えの精神に反することだからです。

 

なのに、ものみの塔は子供に対する「懲らしめ=むち棒」という考えをエホバの証人たちに教え続けて来たのです。

この背景にあるのは、

ものみの塔の創設者であり初代会長であったラッセルの時代教会に通うクリスチャンたちの間で子供に対する躾と称して「むち棒」が当然のように行われていたからです。

ラッセルとその後の会長たちは、この習慣をものみの塔の教えの中に「持ち込んだ」のです。

そうするなら、子供たちがものみの塔から離れることはないだろうと考えたと思われます。

しかし、実際は逆効果だったことは明白です。

 

現代において、特に西洋では(クリスチャンたち)親は子供に「むち」はしません。

なぜなら、「児童虐待」として罰せられるからです。

場合によっては「親権を剥奪」されるからです。

 

以上が懲らしめとむち棒に関する聖書の内容です。

 

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では、ものみの塔の現状を見て見ましょう。


親が子供のことを思い、子供の「悪い性質」を変えようとして、あるいは、親に逆らう子供に「無理に言うことを聞かせる」ために、時に「むち」を打つ親は多いし、現実にものみの塔のエホバの証人の親たちの間では日常的に行われてきたことです。

(こうしたことが社会問題となったので、今では抑制されているかも知れません。

 もし、これが社会問題化していなければ、未だにエホバの証人の会衆内や家庭内で行われているの 

 です。)

親は子供を従わせる前に、自分が新しい人格を身に付けているでしょうか
答えは「」です。
子供をむち打つ親は、子供を「ただ従わせようとしているだけなのです。
家族の秩序を保つため、あるいは、エホバの証人としての家族の体面を保つためです。
これは、知恵のないことです。
本当に「知恵のある親」は子供に対し「むち」などをしません
知恵のある親」は、「子供をいら立たせることなく,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育て」ます

 

子供にむち打つ親の「良心」は痛まないのでしょうか?

私は子供に一度も「むち」をしたことがありませんが、傍から見ていても心が痛みます

実に愚かな親だと(悪い一面です)。

時に「哀れ」だとさえ思ったものです。

マタイ10章
32 「それゆえ,人の前でわたしとの結びつきを告白する者はみな,わたしも天におられるわたしのの前でその者との結びつきを告白します。
33 しかし,だれでも人の前でわたしのことを否認する者は,わたしも天におられるわたしのの前でその者のことを否認します。
34 わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣を投ずるために来たのです。

35 わたしは分裂を生じさせるため,男をその父に,娘をその母に,若妻をそのしゅうとめに敵対[させるために]来たからです。
36 実際,人の敵は自分の家の者たちでしょう。
37 わたしに対するより父や母に対して愛情を抱く者はわたしにふさわしくありません。また,わたしに対するより息子や娘に対して愛情を抱く者はわたしにふさわしくありません
38 そして,だれでも自分の苦しみの杭を受け入れてわたしのあとに従わない者は,わたしにふさわしくありません。

39 自分の魂を見いだす者はそれを失い,わたしのために自分の魂を失う者はそれを見いだすのです。
-マタイ10:32-39

子供を「むち」で打つ「親」たちは、聖書に従うと言いながら、こうしてとイエスに対する「不信仰」を示しているのです。

こうした親は子供を「躾ける」という態度を取ることでとイエスに対して「自分の魂を見いだ」そうとしている偽善者」なのです。
 

現代のエホバの証人たちは「口ではとイエスに従っている」とは言いますが、行いでは「従っていない」ことは明白です。-マタイ15:3-10

マタイ15章

3 [イエス]は答えて言われた,「あなた方も自分たちの伝統のゆえに神のおきてを踏み越えているのはどうしてですか。

4 たとえば,は,『あなたの父と母を敬いなさい』,そして,『父や母をののしる者は死に至らせなさい』と言われました。

5 ところがあなた方は,『自分の父や母に向かって,「わたしの持つものであなたがわたしから益をお受けになるものがあるかもしれませんが,それはみな神に献納された供え物なのです」と言うのがだれであっても,

6 その者は自分の父を少しも敬ってはならない』と言います。こうしてあなた方は,自分たちの伝統のゆえにの言葉を無にしています。

7 偽善者よ,イザヤはあなた方について適切に預言して言いました,

8 『この民は唇でわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている

9 彼らがわたしを崇拝しつづけるのは無駄なことである。人間の命令を教理として教えるからである』」。

10 そうして,群衆を近くに呼んでこう言われた。「聴いて,その意味を悟りなさい

 

このイエスの言葉の「父と母」を「子」に置き換えて見て下さい。

ものみの塔の親たちは、

子供を養っていることを理由に子供に「従うことを求めている」のです。

イエスは最後に「聞いて、その意味を悟りなさい」と述べています。

 

黙ってただものみの塔に従っているエホバの証人の親たちは「その意味」を悟っていないことは明白です。

 

こうして、現代のエホバの証人の親たちイエスを否認」しているのです。
無理やり子供を従わせる親たちは、
このイエスに見倣ってはいませんし、家族が分裂することが予期されていたことを理解していません。
親子、どちらもイエスに見倣っているなら家族の分裂は生じません
しかし、親と子の両方かいずれかがイエスに見倣っていなければ必ず分裂が生じます

その時、あなたならどうしますか?

親としての立場と権威を主張し子供に「むち」を与えますか、それとも、イエスに見倣いますか?

あなたは子供を「むち」打つことで自分の忠実さを示したいと思っていますか、それとも、神とイエスに見倣いたいと思いますか?

本当に賢い人は「聞いて、その意味を悟る人」です。-マタイ13:18-23

 

+++++++++++++++++++++++++++++++++

最後に。

イエスは、
8 「心の純粋な人たちは幸いです。その人たちはを見るからです。
9 「平和を求める人たちは幸いです。その人たちはの子』と呼ばれるからです。
-マタイ5:8、9
と言いました。


私は最近、この平和が見えるようになりました。
以前は、何となく感じているだけでしたが、
ある人々には平和があり、別の人々には平和がないことがはっきりと見える」ようになったのです。

文字通り具現化した状態で見えている訳ではありません
ある人々と実際に接してそう思いましたし実際平和が存在していたからです。
別の人々と実際に接して、「ああ、この人たちの間には平和はないんだ」と実感したからです。

 

イエスは次のようにも語っています。

ルカ10章

5 どこでも家の中に入ったなら,まず,『この家に平和がありますように』と言いなさい。

6 そして,平和の友がそこにいるなら,あなた方の平和はその人の上にとどまるでしょう。しかし,いないなら,それはあなた方のもとに戻って来るでしょう。

参考ルカ10:5、6

かつて、エホバの証人であった時のことを思い出し、会衆内でもそうであったことを覚えています。

会衆の中にも「平和の友」でない人はいたのです。

 
イエスが言った、この「を見る」とは文字通りではないことは明白です。
神を理解する、あるいは、神の気持ちに接するという意味です。

心の純粋な人は神の気持ちが分かるのです。

そうでない人は、一生かかっても分からないのです。

エホバの証人であるかどうかは「無関係」です。

私には心のきれいな優しい人を「世の中の人の中に見る」ことが出来ます。
エホバの証人のように、教えられた人々ではなく、その人の「本来の気性が優しい」人です。
現代社会に溶け込んだ人々の中には見出すことはありません
それらの人たちは、皆「(ずる)賢い」からです。

こうした点でエホバの証人を見ると「汚れている」ように見えます。

本来の気性が優しい人は、自分では理解していなくても「本当の意味で賢い」振る舞いをしているものです。

エホバの証人の中にも本来の気性が優しい人もいますが、ものみの塔の言うことに「縛られて目が曇っています

文字通りには「汚れている、あるいは、汚されている」のです。
 

この人たちは優しさが「」となったのです。
私から見れば「哀れな」人たちです。
ある意味エバのように、悪魔に騙されたように

それでも、エバは罪を免れませんでした。

 

ものみの塔には「むち」をするよう教えた責任があります。
聖書を正しく理解し適切に指導しなかった責任です。

イエスの忠実で思慮深い奴隷ならものみの塔のようなことはしないし教えることもないのです。
個人的には、ものみの塔はイエスと神の王国の14万4000人に対し「不敬」な態度を取っていると考えています。

   

知恵を求める人のためのブログです。

イエスはヘブライ語聖書(旧約聖書)から引用した時のみ、そのまま「エホバ」という名を用いています。
それ以外では、
特にと自分の関係に於いては、を「」と呼んでいます。
それ以外では、単に「」とだけ言っています。

 

これは、
エホバがモーセに「の名をいたずらに取り上げてはならない」と「十の言葉」で言われたからであり、神のみ名の用い方の模範を示されたのです。
出エジプト19章
エジプトの地を出た後,第三の月のその同じ日に,イスラエルの子らはシナイの荒野に入った。

2 すなわち彼らはレフィディムをたってシナイの荒野に入り,その荒野に宿営を張った。イスラエルはそこで,山を前にして宿営したのである。
3 そしてモーセは[まことの]のもとに上って行った

 

出エジプト20章
それからはこれらのすべての言葉を話してこう言われた。
2 「わたしはあなたの神エホバ,あなたをエジプトの地から,奴隷の家から携え出した者である。

3 あなたはわたしの顔に逆らって他のいかなるものをも神としてはならない。
4 「あなたは自分のために,上は天にあるもの,下は地にあるもの,また地の下の水の中にあるものに似せたいかなる彫刻像や形も作ってはならない。

5 それに身をかがめてはならず,さそわれてそれに仕えてもならない。あなたのであるわたしエホバは全き専心を要求するであり,わたしを憎む者については父のとがに対する処罰を子にもたらして三代,四代に及ぼし,

6 わたしを愛してわたしのおきてを守る者については愛ある親切を千代にまで施すからである。
7 「あなたのエホバの名をいたずらに取り上げてはならない。その名をいたずらに取り上げる者をエホバは処罰せずにはおかないからである
8 「安息日を覚えてそれを神聖なものとするように。

9 あなたは六日のあいだ務めをなし,自分のすべての仕事をしなければならない。

10 しかし,七日目はあなたの神エホバに対する安息日である。どんな仕事もしてはならない。あなたもあなたの息子や娘も,あなたの男奴隷や女奴隷も,あなたの家畜,そしてあなたの門の内にいる外人居留者も。

11 エホバは六日の間に天と地[と]海とその中のすべてのものを造り,そののち七日目に休みに入ったからである。それゆえにエホバは安息日を祝福して,それを神聖なものとしているのである。
12 「あなたの父と母を敬いなさい。それはあなたのエホバの与える地においてあなたの[命の]日が長くなるためである。
13 「あなたは殺人をしてはならない。
14 「あなたは姦淫を犯してはならない。
15 「あなたは盗んではならない。
16 「あなたは仲間の者に対する証人となるとき偽りの証言をしてはならない。
17 「あなたは仲間の者の家を欲してはならない。仲間の者の妻を,またその男奴隷,女奴隷,牛,ろば,仲間の者に属するどんなものも欲してはならない」。

18 さて,民は皆,雷,稲妻のひらめき,角笛の音,煙る山を見ていた。それを見て民はわななき,離れた所に立っていた。

 

申命記5:1-21

5章
それからモーセは全イスラエルを呼んで,彼らにこう言った。「イスラエルよ,わたしが今日あなた方の耳に話す規定と司法上の定めとを聞きなさい。あなた方はそれを学び,注意深くそれを行なわなければならない。

2 わたしたちのエホバはホレブにおいてわたしたちと契約を結ばれた

3 エホバはその契約をわたしたちの父祖たちと結ばれたのではない。わたしたち,今日ここに生きているこのわたしたちすべてと[結ばれたの]である。

4 エホバはその山で,顔と顔を合わせて火の中からあなた方と話された。

5 わたしはその時エホバとあなた方との間に立っていた。エホバの言葉をあなた方に告げるためであり(あなた方はその火のために恐れて山に上って行かなかったのである),こう言った。
6 「『わたしはあなたのエホバ,あなたをエジプトの地から,奴隷の家から携え出した者である。

7 あなたはわたしの顔に逆らって他のいかなるものも神としてはならない。
8 「『あなたは自分のために彫刻像を,すなわち上は天にあるもの,下は地にあるもの,また地の下の水の中にあるものに似せたいかなる形も作ってはならない。

9 それに身をかがめたり,導かれてそれに仕えたりしてはならない。あなたのであるわたしエホバは全き専心を要求するであり,わたしを憎む者については父のとがに対する処罰を子に,三代,四代に及ぼし,

10 わたしを愛してわたしのおきてを守る者については愛ある親切を千代にまで施すからである。
11 「『あなたのエホバの名をいたずらに取り上げてはならない。その名をいたずらに取り上げる者をエホバは処罰せずにはおかないからである
12 「『あなたのエホバの命じたとおり,安息日を守ってそれを神聖なものとするように。

13 あなたは六日のあいだ務めをなし,自分のすべての仕事をしなければならない。

14 しかし,七日目はあなたのエホバに対する安息である。どんな仕事もしてはならない。あなたもあなたの息子や娘も,あなたの男奴隷や女奴隷も,あなたの牛やろば,またどんな家畜も,そしてあなたの門の内にいる外人居留者も。これは,あなたの男奴隷や女奴隷があなたと同じように休むためである。

15 そしてあなたは,自分がエジプトの地で奴隷となり,あなたのエホバが強い手と伸ばされた腕とをもってあなたをそこから携え出されたことを覚えていなければならない。そのためにあなたのエホバは,安息日を守るようあなたに命じたのである。
16 「『あなたのエホバの命じたとおり,あなたの父と母を敬いなさい。それは,あなたのエホバの与える地においてあなたの[命の]日が長くなり,あなたにとって物事が良く運ぶためである。
17 「『あなたは殺人をしてはならない。
18 「『あなたは姦淫を犯してもならない。
19 「『あなたは盗んでもならない。
20 「『あなたは仲間の者に対して偽りの証言をしてもならない。
21 「『あなたは仲間の者の妻を欲してもならない。また,仲間の者の家,その畑や男奴隷や女奴隷,その牛やろば,また仲間の者に属するどんなものも利己的に慕い求めてはならない』。
22 「これらの言葉を,エホバは,あなた方の全会衆に対して山で話された。火の中,雲と濃い暗闇[の中]から,大きな声で[話されたの]であり,何をも付け加えられなかった。その後,それらを二枚の石の書き板に記して,わたしにお与えになったのである。

(参考:これがいわゆる「十戒」です。

 この二枚の石の書き板は後に「契約の箱」にマナとアロンのアーモンドの杖と一緒に入れられてい

 ましたが、エルサレムが最初に滅ぼされた時紛失しそのままになっています。

 再建された神殿には契約の箱はなくイエスの時代にもありませんでした。)


イエスは悪魔の誘惑を受けた時、
三度ともすべて申命記から引用して返答していますが、この時には「記されている通り」に「と書いてあります」と言って「エホバ」という名を用いています。

 

最初の誘惑

マタイ4章
それからイエスは,悪魔の誘惑を受けるため,霊によって荒野へ導かれた。

2 四十日四十夜断食したのちに,[イエス]は飢えを感じられた。

3 さらに,誘惑者が来て,彼にこう言った。「あなたがの子であるなら,これらの石に,パンになるように命じなさい」。

4 しかし[イエス]は答えて言われた,「『人は,パンだけによらず,エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない』と書いてあります」。

 

根拠

申命記8:3

3 それで[]はあなたを謙遜にならせ,空腹にならせてマナを食べさせた。それはあなたがそれまで知らず,あなたの父たちも知らないものであった。こうして,人がパンだけによって生きるのではなく,エホバの口から出るすべての言葉によって人は生きるのであるということを,あなたに知らせたのである。

 

2番目の誘惑

マタイ4章

5 ついで悪魔は彼を聖都の中に連れて行き,神殿の胸壁の上に立たせて,

6 こう言った。「あなたが神の子であるなら,身を下に投じなさい。『[]はあなたに関してご自分の使いたちに指図を与え,彼らはその手に載せてあなたを運び,あなたが石に足を打ちつけることのないようにする』と書いてありますから」。

7 イエスは彼に言われた,「『あなたのエホバを試みてはならない』とも書いてあります」。

 

根拠

申命記6:16

16 「あなた方は,マッサで試みた時のようにしてあなた方のエホバを試みてはならない

(試みるとは、文字通り「神を試す」ことです。)

 

3番目の誘惑

マタイ4章

8 また,悪魔は彼をとりわけ高い山に連れて行き,世のすべての王国とその栄光とを見せて,

9 こう言った。「もしあなたがひれ伏してわたしに崇拝の行為をするならば,わたしはこれらのすべてをあなたに上げましょう」。

10 その時,イエスは彼に言われた,「サタンよ,離れ去れ!『あなたのエホバをあなたは崇拝しなければならず,この方だけに神聖な奉仕をささげなければならない』と書いてあるのです」。

11 その時,悪魔は彼を離れた。すると,見よ,み使いたちが来て彼に仕えはじめた

(天ののみ使いたちがの子人間イエスに仕えたと言っても、イエスがの業、の目的を果たすためであり、更には、イエスの個人的な必要を見えない形で支えたのかも知れません。

実際、イエスは地上で数々の「奇跡」を起こしていますが、それらは、聖霊とみ使いたちによるものと考えられます。

イエスはこれらに対する権限を与えられていたからです。

しかし、イエスはこれらを自分自身の個人的な目的のためには利用していません。)

 

根拠

申命記5:9

9 それに身をかがめたり,導かれてそれに仕えたりしてはならない。あなたのであるわたしエホバは全き専心を要求する神であり

申命記6:13

13 あなたのエホバを恐れ,この方に仕え,その名によって誓いをすべきである。

申命記10:20

20 「あなたのエホバを恐れるように。これに仕え,これに固く付き,その名によって誓いのことばを述べるべきである。

   
こうして見ると、イエスは律法を守ることに関しては、特に申命記に記されている事柄に従っていたと思われます。
なぜなら、申命記1:5には次のように記されているからです。

申命記1章
1 これは,ヨルダン地方の荒野,スフに面する砂漠平原,パラン,トフェル,ラバン,ハツェロト,ディザハブの間でモーセが全イスラエルに話した言葉である。

2 ホレブからセイル山を経てカデシュ・バルネアまでは十一日間であった。

3 そして,第四十年,第十一月,その月の一日に,モーセは,すべてエホバがイスラエルの子らのために命じたところにしたがって彼らに話すことになった

4 それは彼が,ヘシュボンに住んでいたアモリ人の王シホンを,そしてアシュタロテに住んでいたバシャンの王オグをエドレイで撃ち破った後のことであった。

5 ヨルダン地方,モアブの地で,モーセはこの律法を説明することを手がけて,こう言った。

 

つまり、

申命記は律法の説明書ということなのです。

一般的には、申命記は「二番目の律法」あるいは「律法の反復」と言われています。
そのため、
申命記と訳されているギリシャ語は「律法の写し」という語に由来しているとされています。

ですから、
現代のクリスチャンも聖書から引用する時には、記されている通りにの名を用い

それ以外の時には、
イエスと同じように「」と言うべきだと考えます。

ただ、この場合、「真の」ともろもろの神とは区別する必要があります


イエスが「」と言う場合それは「父なる、エホバ」のことであることが認められていたように、
クリスチャンが「」と言う場合、エホバ」を指すと認識される必要があります

イエスは、
ヨハネ17:3では「父なるエホバ」を「唯一真の」とも言っています。

イエスは悪魔や悪霊たちに言及していますが、イエスはこれらの者を「神」と呼んだヶ所もありませんし、「もろもろの神」や「偶像」に言及したヶ所もありません
なぜなら、

これらを暴露したり偶像崇拝を断罪するために天から遣わされた訳(「主たる【任務】」)ではなかったからです。

ただ、書士やパリサイ人の質問や非難や振る舞いに対して「応答」「批判」した時だけ言及したのです。

また、

これらに関連した事柄は、既に律法の中に記されていますから、改めてイエスが自分から言及する必要が無かったのです。

更には、弟子たちの質問に答える時にも言及しています。

 

イエスはエホバのことを、

、唯一のなどと称号で、また、父と言う敬称で呼んでいます。

エホバと言うを、いわば個人名、名称」で呼ぶことは「不敬だと考えていたのかもしれませんし、もそれを望んではいなかったことは明白です。

 

出エジプト記3章

13 それでもモーセは[まことの]に言った,「わたしが今イスラエルの子らのもとに行って,『あなた方の父祖のがわたしをあなた方のもとに遣わした』と言うとしても,『その方の名は何というのか』と彼らが言うとすれば,わたしはこれに何と言えばよいでしょうか」。

14 するとはモーセに言われた,「わたしは自分がなるところのものとなる」。そしてさらに言われた,「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『わたしはなるという方がわたしをあなた方のもとに遣わされた』」。

15 そののち神はもう一度モーセに言われた,
「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『あなた方の父祖の,アブラハムの,イサクの,ヤコブのエホバがわたしをあなた方のもとに遣わされた』。これは定めのない時に至るわたしの名,代々にわたるわたしの記念である。

 

こうしたことを弟子たちには話してはいませんが、自分では「気を付けて」いたと思います。

加えて、

イスラエル人たちは、モーセの時代からイエスの時代に至るまでの名」を口に出すことはありませんでした

そのため、の名を正しく発音すること読むことが「分からなくなってしまった」とも言われています。

これを根拠にの名を用いない人々もいます。

今のユダヤ教を信じているユダヤ人に神の名を尋ねるとおそらく答えられないと思います。

例え知っていたとしても「口に出して言う」ことはないでしょう。

 

一般的に、

自分の父を名前で呼び捨てにする人は殆どいません

他人には大抵苗字や誰々さんのお父さんなどと言ったりするものです。

 

ですから、

神の名前に関しても「同じ」だと考えることは「自然」なことです。

こうして、人は「敬意」を払っていることを示すのです。


私も、これからは、イエスを見倣って、

聖書からの引用以外エホバという「固有名詞」を用いないことにします。
神に言及する時には  [][真の][唯一真の]とすることにします。
 を付けて区別するようにします。
私の場合、と呼んでも「エホバ」を指す場合が殆どです。

悪魔や悪霊や偶像や偶像礼拝などに関して言及する時にも「神」という言葉を用いる場合がありますが、
「真の」との違いがはっきりするようにしたいと考えています。

その場合には_は付けません。

 

既に、出来ている原稿も沢山ありますので、すべてを変えることは難しいので、しばらくはエホバという名前が用いているかも知れません。

それでも、これからは、エホバを指す時には聖書から直接引用する時以外は」と聖書に倣うことにしていきたいと考えています。

 

ただし、エホバの証人という呼び方に関しては、他と区別するために「そのまま」用いたいと思います。

この名称はものみの塔が「決めた」呼び方です、つまり、人間が決めたものなので、その呼び方に関しての「責任」はものみの塔にあります

 

これに関連して、

一部の人たち、特に元エホバの証人たちなどは、JW(エホバの証人の英語の頭文字)とかWT(ものみの塔の英語の頭文字)などと、英語の頭文字を用いている人たちも多く見かけます。

個人的には「違和感」を覚えます。

       

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参考

以下は特に、エホバの証人に対してのことです。

 

イエスは祈りの仕方について教えた時次のように話しています。

マタイ6章

9 「そこで,あなた方はこのように祈らなければなりません。
「『天におられるわたしたちのよ,あなたのお名前が神聖なものとされますように

10 あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように

11 今日この日のためのパンをわたしたちにお与えください

12 また,わたしたちに負い目のある人々をわたしたちが許しましたように,わたしたちの負い目をもお許しください

13 そして,わたしたちを誘惑に陥らせないで,邪悪な者から救い出してください』。
14 「あなた方が人の罪過を許すなら,あなた方の天の父もあなた方を許してくださるのです。

15 けれども,あなた方が人の罪過を許さないなら,あなた方の父もあなた方の罪過を許されないでしょう。
16 「断食をしているときには,偽善者たちのように悲しげな顔をするのをやめなさい。彼らは,断食をしていることが人々に見えるように,自分の顔を醜くするのです。あなた方に真実に言いますが,彼らは自分の報いを全部受けています。

17 しかし,あなたが断食をしているときには,頭に油を塗り,顔を洗いなさい。

18 断食をしていることが,人にではなく,ひそかなところにおられるあなたのに見えるためです。そうすれば,ひそかに見ておられるがあなたに報いてくださるでしょう。
19 「あなた方は自分のために地上に宝を蓄えるのをやめなさい。そこでは蛾やさびが食い尽くし,また盗人が押し入って盗みます。

20 むしろ,自分のために天に宝を蓄えなさい。そこでは蛾もさびも食わず,盗人が押し入って盗むこともありません。

21 あなたの宝のある所,そこにあなたの心もあるのです。
22 「体のともしびは目です。それで,もし目が純一であれば,あなたの体全体は明るいでしょう。

23 しかし,目がよこしまであれば,あなたの体全体は暗いでしょう。あなたのうちにある光が実際のところ闇であれば,その闇はどんなにかひどいことでしょう。
24 「だれも二人の主人に奴隷として仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛するか,一方に堅く付いて他方を侮るかのどちらかだからです。あなた方はと富とに奴隷として仕えることはできません。
25 「このゆえにあなた方に言いますが,何を食べまた何を飲むのだろうかと自分の魂のことで,また何を着るのだろうかと自分の体のことで思い煩うのをやめなさい。魂は食物より,体は衣服より大切ではありませんか。

26 天の鳥をよく観察しなさい。種をまいたり,刈り取ったり,倉に集め入れたりはしません。それでも,あなた方の天の父はこれを養っておられます。あなた方はそれらより価値のあるものではありませんか。

27 あなた方のうちだれが,思い煩ったからといって自分の寿命に一キュビトを加えることができるでしょうか。

28 また,衣服のことで,なぜ思い煩っているのですか。野のゆりから,それがどのように育っているか,教訓を得なさい。労したり,紡いだりはしません。

29 しかしあなた方に言いますが,栄光を極めたソロモンでさえ,これらの一つほどにも装ってはいませんでした。

30 では,が,今日ここにあって明日かまどに投げ込まれる野の草木にこのように衣を与えておられるなら,ましてあなた方に衣を与えてくださらないことがあるでしょうか。信仰の少ない人たちよ。

31 それで,思い煩って,『わたしたちは何を食べるのか』,『何を飲むのか』,『何を身に着けるのか』などと言ってはなりません

32 これらはみな,諸国民がしきりに追い求めているものなのです。あなた方の天のは,あなた方がこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです。
33 「ですから,王国と[]の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これら[ほかの]ものはみなあなた方に加えられるのです。

34 それで,次の日のことを決して思い煩ってはなりません。次の日には[次の日]の思い煩いがあるのです。一日の悪いことはその日だけで十分です。

 

これは山上の垂訓の一部ですが、

祈りの仕方の中で神のみ名を用いてはいません。

わたしたちのと述べています。

更に「個人的な必要」についても「思い煩ってはならない」と繰り返し述べています。

むしろ、そうしたものが必要なことは神は分かっていて与えて下さるとも述べています。

思い煩う人のことを「信仰の少ない人たち」とも述べています。

 

「王国と神の義をいつも第一に求めなさい」そうすれば、これらほかのものはみなあなた方に加えられると断言しています。

あなたはイエスに信仰を働かせていますか?
そうであれば、このイエスの言葉にも従っているはずです。
そして、必要なものはすべて加えられているはずです。
イエスはそのように約束しているからです。

もしそうでないなら、あなたはイエスに「信仰の少ない人」と見なされているのかも知れません。

 

ですから、

個人的な必要」に関して「祈る」ことは、必要なものすべてを与えて下さるに対する不信仰と言えるのです。

 

あなたは自分には信仰があると思い、また、言いながら「不信仰」なことをしているのではありませんか?

例えば、個人的なことで○○して下さいと祈ることはよくあることですが、それは「不信仰」を示しているとも言えるのです。

こうした祈りは、「神を試している」ことにもなるということを理解していますか?

モーセに40年間導かれた古代イスラエルの人々は、神に不平、不満を言うことで神を試し不信仰の故に大勢の人が滅ぼされたことを知らないのですか?

また、

エホバの証人で生活保護を受けて生活している人がいるかも知れません。
とイエスに頼るのではなく、世に頼っていることになり、これも「不信仰」ではありませんか?

 

 

知恵を求める人のためのブログです。

これは、ものみの塔の会衆に属するエホバの証人に対するものです。

本来、監督と言われる長老たちは仲間の信者を様々な面で「助ける」ことが仕事です。
しかし、
こうした長老たちから、いわゆる野外奉仕時間を要求されたり長老の指示に従うことや集会や大会に出席することや世の影響を受けないようになどと様々な点で要求されていることは事実です。

他にも、聖書で禁じられているとして、
国旗に礼をしてはいけない(近年では起立して敬意を払うことは問題ないと変更されました。以前は起立することすら禁じられていたのです。)、国家を歌ってはいけない、選挙で投票してはいけない、偶像崇拝をしてはいけない、輸血をしてはいけない、世の人と親しくなってはいけない、テレビや映画などの世の番組、娯楽を制限するなどについては集会ごとに毎回のように繰り返されています。

反対に、いわゆる全時間の仕事(正社員)をせずにパートで働き余暇で開拓奉仕をするべきだとか、
子供が悪いこと(親に逆らうことも含め)をしたら「ムチ」打つべきであるとか、
長老の指示に従わなければならないとか、集会や大会に出席しなければならないとか、
定期的に個人研究をするべきであるとか、仲間の信者に親切にするべきであるとか、
こうしたことも、集会ごとに毎回繰り返されています

勿論、すべて「命令ではありません」。

しかし、
「エホバを崇拝するなら」とか「永遠の命を得たいなら」(という条件を持ち出し)これらを「守るべきである」と述べているのです。
従うかどうかは「本人が決める」ことですが、
従わないこと=エホバとイエスに対する信仰を否定することになると言われれば、「従わざるを得ない」と考えるのは普通のことです。

これをある人たちは「脅し」と言っています。

確かに「脅し」と捉えられますが、
その一方で、自分の信仰を自分の信念に基づいて行っているなら
いちいちものみの塔に「言われなくても」行っているはずです。

こうした事柄について「ものみの塔の言うことに従っている人」にとっては「警告」となり、その意味を十分理解していないなら「脅し」になります。

信仰は個人的なことです。
知識として学んでいる内は信仰を抱いているとは言えません。
理解していもいないし信じてもいないからです。
希望としての知識を「与えられているだけ」です。

学んだ事柄を良く考え、熟考し理解を深めた上で、自分で信仰の歩みをすると決定して、初めて信仰の道を歩み始めたと言えるのです。

単に、ものみの塔から知識を学び、ものみの塔の言うことに従い、形ばかりの伝道をしバプテスマを受けたからと言って、信仰の歩みをしているとは言えません
なぜなら、信仰において自立していないからです。

バプテスマは信仰の「到達点」ではなく、信仰の「始まり」に過ぎません

長老は、仲間の信者の「奴隷」であって「主人」ではありません
イエスのように「命令」する「権限」は無いのです。
したがって、長老たちの言うことに従う必要はないのです。
長老たちの言うことを「良く考え」信仰の実践になると自分で決定したなら「行えば良い」のです。

 

しかし、エホバの証人のすべてに「要求」し、信仰の主人のようなことをしているのです。

長老たちはものみの塔からの指示に従い、会衆の人々、特にエホバの証人に「要求」しているのです。

ものみの塔はあらゆる事柄に関し、「聖書」に基づくと言っていますが、中には聖書に記されていない事柄、
聖書の考え(神とイエスの考え)を「超えて」述べている場合もあることを「確かめなければなりません
つまり、
ものみの塔は「拡大解釈」や「推測」で述べていることも「少なくない」のです。
なぜなら、聖書に詳細が示されていないからであり、特に預言に関しては「ベール」が掛けられいるからです。
聖書の預言に関して、「解き明かしは神による」と聖書に記されているにも関わらず、「先走って述べて来た」ことも少なくないのです。
そして、実際に、ものみの塔の「預言の解釈」は間違っていたのです。

ものみの塔は彼らの言う「神の組織」ではないからです。

 

神の組織なら、

ものみの塔の指導者たちは、モーセのようであるべきです。

モーセの言うことは「すべて神の言葉」であり、その通りになったからです。

一度だけ「神に栄光」を帰さなかったことがありましたが、

それによって、モーセは約束の地に入ることは許されませんでした。

つまり、

罰を受けたのです。

それもたった一度の罪だけでです。

指導者の立場にいる者の責任は重いのです。


こうしたことは、聖書を良く読み深く考え、それが、ものみの塔の教え、発言と一致しているか、どのように関係しているかを「自ら判断」する必要があるのです。

あなたがエホバの証人であるなら、これらを行うことは、野外奉仕や集会や大会などに参加するより重大」なことです。

ものみの塔の主張とその意図は「出版物」の目的から分かります。
大抵、その目的はその出版物の初めの方に記されています。

内容を考えるのではなくなぜそのように説明しているかを「読み取る」ことです。
そうすれば、おのずとものみの塔の[別の]思惑が見えてきます。
深く考えずに内容だけを読むこと、あるいは、いわゆる「家庭聖書研究」と称してものみの塔の出版物を学ぶなら、
ものみの塔に「洗脳」されるだけなのです。

ものみの塔の「預言の解釈」に関しては、
理解していないことを「話し」聖書の言葉じりだけで「期待」を抱かせていることであり、
神の事柄に「口出し」しているようなものです。
預言神が自ら行うことであり、多くの場合それは「隠されて」いるのです。

こうして、[神]は全能者でありすべての者の上に立つ者[神]であることを示しているのです。

したがって、ものみの塔が「預言」について述べることは、
政治家の公約のようなもので、自分たちの言う通りにはならないことを「大声で叫び」「ことば」だけで「期待」抱かせて、信者を集めているのです。

例えが悪いですが
トランプと同じです。
実現出来ないことを「大ぴら」に言って聞く人々に「過剰な期待」を抱かせ「人気取り」をしているのです。
実現しないと「あれこれ言い訳や誰かのせい」にするのです。

ものみの塔はこうした点でも聖書を超えているのです。

 

誰かに聖書の希望となる事柄を話す時には、
ただ、「聖書にはこのようの記されています」と言うだけで良いのです。
イエスが悪魔の誘惑を退けたように。

 

信じること従うことは「自分個人」のことであり、

伝道や集会で、誰かにエホバの証人を含め)「信じさせたり」「従わせたり」することではないのです。

聖書の言葉を聞いて理解するのは「自分」ですることです。
「教えられた」ことは「自分の理解」ではありません

聖書には次のように記されています。
神の栄光は事を秘しておくこと」-箴言25;2

「そして,夕と朝に関して見た事柄,それはここで述べられたことであるが,それは真実である。だがあなたは,この幻を秘しておくように。それはなお多くの日にわたるものだからである」。-ダニエル8:26

「そしてダニエルよ,あなたは終わりの時までこれらの言葉を秘し,この書を封印しておくように。」
-ダニエル12:4

8 さてわたしは,自分で聞いたが,理解することができなかった。それでわたしは言った,「我が主よ,これらの事の最終部分はどのようになるのですか」。
9 すると彼はさらにこう言った。「行け,ダニエルよ。これらの言葉は終わりの時まで秘められ,封印しておかれるからである。
10 多くの者が身を清め,白くし,練り清められる。そして,邪悪な者は必ず邪悪に振る舞い,邪悪な者は一人として理解しないであろう。しかし,洞察力のある者は理解する。-ダニエル12:8-10

あなたは「洞察力」のある人の一人ですか?

 

すべては聞くことから始まります

しかし、パウロは「すべてのことを確かめなさい」-テサロニケ(一)5:21

ヨハネは、「霊感の表現すべてを信じてはなりません。むしろ、その霊感の表現を試して、それが神から出ているかどうかを見きわめなさい。」-ヨハネ(一)4:1

パウロは「エホバの日が来ているという趣旨の霊感の表現口伝えの音信によって、またわたしたちから出たかのような手紙によって、すぐに動揺して理性を失ったり、興奮したりすることのないようにしてください。」テサロニケ(二)2:2

とも述べています。

 

聞いて信じた人がバプテスマを受けたとしても理解が伴っているとは限りません

信仰の生活が長くなればその人の本心が見えてくるものです。

実際、ペテロやパウロの話を「聞いて信じバプテスマを受けた人」は多くいます。

しかし、それらの人々に対して「何度も繰り返し」「助言」を与えたパウロ自身の記録がローマ人への手紙からヘブライ人への手紙なのです。

ペテロやヤコブやユダ(イスカリオテでない)ヨハネたちの手紙なのです。

 

聖書を読む時には、彼らの「助言」の真意を読み取るべきです。

彼らは自分たちに従うようにと「助言」したのではないのです。

[神]とイエスに従うようにと、時には涙ながらに「助言」したのです。

 

エホバの証人である「あなた」はどう思いますか?

行動するための「時間」は残り少なくなっていることは事実です。

 

 

知恵を求める人のためのブログです。

当然ですが、人は体を覆っているので恥ずかしく思わず自由に振る舞うことが出来ます。

人は体を覆っているから自由に振る舞えるものです。
性を意識しなくても裸だといろいろと不自由なことも少なくないものです。

南国で暮らしている人々でさえ体の一部を覆っています。
その方が活動し易いからです。

これが高じて、
人はファッションを、自分の個性の表現だとして他の人に見せることを好んでいます。
服装は、その人の自尊心の現れでもあります。

人間以外の動物は体を衣服で覆ってはいませんが、それでも恥ずかしいとは思っていません。

人が衣服を身に付けるようになった経緯が創世記に記されています。
創世記2章
15 それからエホバ神は人を取ってエデンの園に住ませ,それを耕させ,またその世話をさせた。
16 また,エホバ神は人に命令を与えてこう言われた。「園のすべての木から,あなたは満ち足りるまで食べてよい。

17 しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」。
18 次いでエホバ神は言われた,「人が独りのままでいるのは良くない。わたしは彼のために,彼を補うものとなる助け手を造ろう」。
19 さて,エホバ神は野のあらゆる野獣と天のあらゆる飛ぶ生き物を地面から形造っておられたが,人がそれぞれを何と呼ぶかを見るため,それらを彼のところに連れて来られるようになった。そして,人がそれを,すなわちそれぞれの生きた魂をどのように呼んでも,それがすべてその名となった。
20 それで人は,すべての家畜と天の飛ぶ生き物と野のあらゆる野獣に名を付けていたが,人のためには,これを補うものとなる助け手は見いだされなかった。
21 そこでエホバ神は深い眠りを人に臨ませ,彼が眠っている間に,そのあばら骨の一つを取り,次いでそこの肉をふさがれた。
22 それからエホバ神は,人から取ったあばら骨を女に造り上げ,それを人のところに連れて来られた。
23 すると人は言った,
「これこそついにわたしの骨の骨,
わたしの肉の肉。
これは“女”と呼ばれよう。
男から取られたのだから」。
24 それゆえに,男はその父と母を離れて自分の妻に堅く付き,ふたりは一体となるのである。
25 そしてそのふたりは,すなわち人もその妻も共に裸のままであったが,それでも恥ずかしくは思わなかった。

創世記3章
さて,エホバ神が造られた野のすべての野獣のうち蛇が最も用心深かった。それで[蛇]が女にこう言いはじめた。「あなた方は園のすべての木からは食べてはならない,と神が言われたのは本当ですか」。
2 それに対して女は蛇に言った,「園の木の実をわたしたちは食べてよいのです。
3 でも,園の真ん中にある木の実を[食べること]について,神は,『あなた方はそれから食べてはならない。いや,それに触れてもならない。あなた方が死ぬことのないためだ』と言われました」。
4 それに対して蛇は女に言った,「あなた方は決して死ぬようなことはありません
5 その[木]から食べる日には,あなた方の目が必ず開け,あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです」。
6 そこで女は見て,その木が食物として良く,目に慕わしいものであるのを知った。たしかに,その木は眺めて好ましいものであった。それで彼女はその実を取って食べはじめた。その後,共にいたときに夫にも与え,彼もそれを食べはじめた
7 すると,その二人の目は開け,ふたりは自分たちが裸であることに気づくようになった。そのため,彼らはいちじくの葉をつづり合わせて自分たちのために腰覆いを作った。

20 この後,アダムは自分の妻をエバと名づけた。彼女は生きているすべての者の母となるからであった。
21 それからエホバ神は,アダムとその妻のために皮の長い衣を作って,ふたりにお着せになった
-創世記3:1-7、20、21

はじめは、動物のように裸でも恥ずかしいとは思わなかったのです。
(人間はおよそ10歳ぐらいまでは、自我が芽生えるまでは裸でも恥ずかしいとは思わないものです。)
しかし、罪を犯し恥ずかしいと思った時、覆ったのは「腰」でした。
つまり、今でいう「恥部」「性器」を見られないように隠したということです。
これは、今でも変わりません。
人はまずブリーフやショーツなどをはいてから衣服を身に付けるのが普通となっています。

これに対して、神は二人に皮(動物の)で長い衣を作って着せています。
長い衣がどのようなものかははっきりしていませんが、体の大部分を覆う衣だったのではないかと思います。
当時、地球は温暖だったので、冬に着るような厚い衣ではなかったと思われます。
それで、天のみ使いが神の使いとして地上に現れた時に身に付けていた白くて長い衣のようなものだったと想像されます。
しかし、動物の皮は大抵厚く重いので、おそらく薄くて軽いものにしたと思われます。
ただ、この衣だと畑作業には不都合ですから、アダムはこれを少し改良し短くした衣を着たと考えられます。(例えば、ノースリーブのような形に)
また、ノアの時代には動物の皮ではなく麻など皮より柔らかく軽い物で作られた衣服を身に付けていたと思われます。
後に、イスラエル人たちは羊毛か亜麻布の衣服を着ています。
エホバはモーセに羊毛、亜麻布、雄羊の皮、山羊の毛、あざらしの皮などを寄進させるようにと命じています。
出エジプト25:4、5

麻糸(大麻草から作られた繊維)と亜麻糸(亜麻という植物から取られた繊維)は全く異なる植物から作られた糸です。 
麻の繊維は、通気性に優れ、 伸びにくく、強靭、という特性があります。
亜麻の繊維は、通気性と吸湿性に優れ、柔らかく、強靭、という特性があります。肌触りがいいので衣類はもちろん、下着、シーツ、タオルなどに重用されています。

は啓示18:12で一度だけ出て来ますから、ユダヤ人が絹で衣を作ってはいなかったと思われます。
綿は聖書には出て来ません。

神が長い衣を着せたことは、後の律法の中でも「裸」(必ずしも恥部とは限りません)を晒してはならないということと関連があります。
性器もしくは恥部に関しては「彼女の血の源」と述べられています。
-レビ記18章、20章

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」に関する「律法」は以下の通りです。
レビ記18章
18章
エホバは引き続きモーセに話してこう言われた。
2 「イスラエルの子らに話しなさい。彼らにこう言わねばならない。『わたしはあなた方の神エホバである。
3 あなた方の住んでいたエジプトの地の風習に従ってはならない。また,わたしがあなた方を携え入れるカナンの地の風習に従ってもならない。彼らの法令によって歩んではならない。
4 あなた方は,わたしの司法上の定めを実行し,わたしの法令を守ってそのうちを歩むように。わたしはあなた方の神エホバである。
5 それであなた方はわたしの法令と司法上の定めとを守らねばならない。それを守り行なうなら,人はそれによって必ず生きるのである。わたしはエホバである。
6 「『あなた方は,すなわちあなた方のうちのだれも,自分の身近な肉親に近づいてその裸をさらしてはならない。わたしはエホバである。
7 あなたの父の裸,また母の裸をさらしてはならない。それはあなたの母である。その裸をさらしてはならない。
8 「『あなたの父の妻の裸をさらしてはならない。それはあなたの父の裸である。
9 「『あなたの姉妹,すなわちあなたの父の娘あるいは母の娘の裸については,同じ家に生まれたにしても外で生まれたにしても,あなたはその裸をさらしてはならない。
10 「『あなたの息子の娘または娘の娘の裸については,あなたはその裸をさらしてはならない。それはあなたの裸だからである。
11 「『あなたの父の妻の娘,すなわちあなたの父の子の裸については,それはあなたの姉妹であるから,あなたはその裸をさらしてはならない。
12 「『あなたの父の姉妹の裸をさらしてはならない。それはあなたの父の血縁である。
13 「『あなたの母の姉妹の裸をさらしてはならない。それはあなたの母の血縁だからである。
14 「『あなたの父の兄弟の裸をさらしてはならない。その妻に近づいてはならない。それはあなたのおばなのである。
15 「『あなたの息子の嫁の裸をさらしてはならない。それはあなたの息子の妻である。その裸をさらしてはならない。
16 「『あなたの兄弟の妻の裸をさらしてはならない。それはあなたの兄弟の裸である。
17 「『女とその娘の裸を共にさらしてはならない。その息子の娘や娘の娘もめとってその裸をさらしてはならない。それらは血縁の関係である。それはみだらな行ないである。
18 「『また,女をその姉妹に加えて,それに張り合う者としてめとり,その裸をあらわにしてはならない。つまり,彼女の生きている間に彼女のほかに[これをめとってはならない]。
19 「『また,不浄である月経の期間中に女に近づいてその裸をさらしてはならない。
20 「『また,あなたの射精をあなたの仲間の者の妻に与え,それによって汚れた者となってはならない。
21 「『また,あなたの子のいずれかをモレクにささげるようなことを許してはならない。あなたの神の名をそのようにして汚してはならない。わたしはエホバである。
22 「『また,あなたは女と寝るようにして男と寝てはならない。それは忌むべきことである。
23 「『また,あなたは獣に対して射精し,それによって汚れた者となってはならない。女も獣の前に立ってこれと交接してはならない。それは自然に背くことである。
24 「『これらの事のいずれによってもあなた方の身を汚してはいけない。わたしがあなた方の前から去らせる諸国民はこれらのすべての事によってその身を汚したのである。

以上からわかるように、男女の区別なく「裸」を晒してはならないと述べており、関連して性的なことも述べています。

つまり、

裸と性関係を結び付けて述べているということです。


レビ記20章
10 「『さて,人の妻と姦淫を犯す者,その者は自分の仲間である者の妻と姦淫を犯すのである。その者は,姦淫を犯した男も女も共に,必ず死に処せられるべきである。
11 また,自分の父の妻と寝た者は,自分の父の裸をさらしたのである。その両人とも必ず死に処せられるべきである。その血は彼ら自身の上にある。
12 また,人が自分の息子の嫁と寝るなら,その両人とも必ず死に処せられるべきである。彼らは自然に背く行ないをしたのである。その血は彼ら自身の上にある。
13 「『また,男が女と寝るのと同じようにして[別の]男と寝るなら,そのふたりは共に忌むべきことを行なったのである。彼らは必ず死に処せられるべきである。その血は彼ら自身の上にある。
14 「『また,人が女とその母とを共にめとるなら,それはみだらな行ないである。その者もその女たちも火の中で焼くべきである。みだらな行ないがあなた方のうちに続くことのないためである。
15 「『また,人が獣に対して射精を行なうなら,その者は必ず死に処せられるべきであり,あなた方はその獣も殺すべきである。
16 また,女が何かの獣に近づいてこれと交接するなら,あなたはその女も獣も殺さねばならない。それらは必ず死に処せられるべきである。その血は彼ら自身の上にある。
17 「『また,人が自分の姉妹,すなわち自分の父の娘または母の娘をめとってまさにその裸を見,彼女も彼の裸を見るなら,それは恥ずべきことである。ゆえにふたりはその民の子らの目の前で断たれねばならない。彼は自分の姉妹の裸をさらしたのである。彼は自分のとがに対して責めを負うべきである。
18 「『また,人が月経中の女と寝てその裸をさらしたなら,その者は彼女の源をあらわにし,彼女も自分の血の源をさらしたのである。ゆえに,その両人ともその民の中から断たれねばならない。
19 「『また,あなたの母の姉妹また父の姉妹の裸をさらしてはならない。その者は自分の血縁の者をあらわにしたことになる。それらの者は自分たちのとがに対して責めを負うべきである。
20 また,自分のおじの妻と寝た者はおじの裸をさらしたのである。それらの者は自分たちのとがに対して責めを負うべきである。彼らは子のないまま死ぬべきである。
21 また,人が自分の兄弟の妻をめとるなら,それは憎悪すべきことである。その者は自分の兄弟の裸をさらしたのである。その者たちは子のない者となるべきである。
22 「『こうしてあなた方はわたしのすべての法令とすべての司法上の定めとを守って,それを行なわなければならない
(21節は、兄または弟が生きている場合のことです。-レビ記25:5を参照してください)

 

聖書でこれほどまでに述べていることには「理由」があるのです。


「裸」を晒すとは、単に人に見られるということだけではなく、性的交わりについて述べたものです。
誰かの前で「裸」を晒すということは性的交わりに同意したことになるということでもあります。

従って、
露出の多い衣服を着ることは、ある意味「人前で裸を晒している」ようなものです。
本人はファッションのつもりでも、周囲の男女はそのようには見ないかも知れません。

現実にそのような服装を見て性欲をそそられた男女は少なくないと思います。

罪を犯したアダムとエバがしたことは「腰を覆った」ことでした。
つまり、
恥部を見られることは、文字通り恥ずかしかったからです。

しかし、神は長い衣を二人に与えています。
寒かった訳ではありません。
実際、罪を犯す前は、二人とも裸だったからです。
神は人が裸を晒すことは「汚れ」となる、あるいは、その要因となるので禁止されたのです。

動物は衣服をに見つけてはいませんが「毛」で覆われていますから、それほど強調されてもいません。

馬のような四つ足の場合はこの限りではありませんが、それでも周囲からは見えにくくなっているものです。

 

様々な生き物を見ても「露出」しているのは、いわゆる霊長類位のものです。

 

他の生き物と人間の違いは「善悪」の判断が付与された点です。

これが付与される以前は「裸」を全く自覚していません。

 

つまり、

理知のある人間では、

裸を晒すことは「罪」であり、汚れとなると[神]は言っているのです。


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現代の世の中でも、性に関する犯罪は日常茶飯事です。
世界中で生じています。
戦争をしている最中(さなか)ですら性暴力は行われているのです。

こうしたことは、
人間だけです。
他の動物ではない事柄です。

アダムとエバの、二人が罪を犯さなければ、人は他の動物と同じように裸のままだったのです。

そして、今のような性暴力、性犯罪、姦淫や淫行は起こらなかったのです。
二人の罪は、単に病気や死や失敗や過ちを犯すということをもたらしただけではないということを理解出来ると思います。

従って、人が顔や手足を除き全身を覆うべきだということには「意味」があるのです。
しかし、
現代は肌の露出の多い服装をファッションとして好んで着ています。
いわば、本人の意思に拘わらず、そのようにして「性的誘惑」を振りまいているとも言えるのです。

全身を覆っていても、体形が分かるような「肌にピッタリとした」服装も「性的誘惑」を誘うのではありませんか?

あなたはどう思いますか?

こうして考えると、
今の世の中は、如何に「乱れている」かが実感できると思います。
また、そうしたことが「悪の根源」となっていることも。

人は、科学が進歩し社会が発展しても、人の道徳は一層悪い方に向かっています
アダムから受け継いだ罪は、人を決して「良い方向」へとは向かわせないのです。

「善いこと」と言えば、人間がこうしたことに「気付く」だけなのです。
しかし、気付いても「注意する」だけしか出来ないのです。

誰もこうした「」から逃れられないのです。

神が何もしなくても、人類は滅亡に向かって突き進んでいることには変わりはないのです。

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余談
聖書によると、今のような水着を着ることは「禁じられている」ということになります。
ミニスカートや肌の露出の多い衣類も「問題」となります。

しかし、これは、律法であって今の時代は律法下にはないので罪には問われません

それでも、
「神の考え」は普遍なので、神の目から見れば罪もしくは好ましくないことなのです。

ものみの塔が現代の世の有り様を「ソドムとゴモラ」に例えている一つの理由でもあります。

ちなみに、
エホバの証人がバプテスマを受けるとき、「水着」を着て水の中に入ります。

バプテストのヨハネによるバプテスマを受けたユダヤ人やイエスは、おそらく、「長い衣を着たまま」受けたのではないかと思われます。
裸をさらすことは禁じられていたからです。
また、バプテスマを受けるために衣を脱いだと言う記録は何処にもありません
ですから、
バプテスマを受ける時に水着になることは神の考えに反するということかも知れません。

 

バプテスマを受け継ために水着姿になったことに「違和感」を覚える人は少なくないと思います。

概ね全身を覆う薄い衣を着て受けるべきだと考えます。

あなたはどう思いますか?

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興味深いことに、聖書の中では「処女」は特別扱いをされていること多いです。
「処女」でない女は「汚れ」た者と見なされました。
従って、「浄め」のための法が定められていました。
射精についても同様です。
また、女性には生理があるので、「処女」であっても、これは明確に「汚れ」とされ「浄め」ることが求められています。
更に、女は男の上に立つことが認められてはいません。
女は頭を覆う必要がありました。

 

参考
コリント(一)11章
3 しかし,あなた方に次のことを知って欲しいと思います。すべての男の頭はキリストであり,女の頭は男であり,キリストの頭は神です
4 だれでも,自分の頭に何かを着けて祈ったり預言したりする男は,自分の頭を辱めることになります。
5 しかし,だれでも,自分の頭を覆わないで祈ったり預言したりする女は,自分の頭を辱めることになります。それは,頭をそった[女]であるのと同じことだからです。
6 女が自分に覆いを着けないのなら,その髪を切るべきなのです。しかし,女が髪を切ったりそったりするのが恥ずべきことであるなら,自分に覆いを着けなさい。
7 男は自分の頭を覆うべきではありません。彼は神の像また栄光だからです。しかし,女は男の栄光なのです。
8 男は女から出ているのではなく,女が男から出ているからです。
9 そのうえ,男は女のために創造されたのではなく,女が男のために[創造された]のです。
10 それゆえに,女はみ使いたちのために自分の頭に権威のしるしを着けるべきです。
11 加えて,主にあっては,女も男なしにあるのではなく,男も女なしにあるのではありません。
12 女が男から出ているのと同じように,男も女を通してあるからです。しかし,すべてのものは神から出ているのです。
13 あなた方自身で判断してください。女が覆いをしないで神に祈るのはふさわしいことでしょうか。
14 自然そのものもあなた方に教えてはいないでしょうか。男が長い髪をしていれば,それは彼にとって不名誉なことですが,
15 女が長い髪をしていれば,それは彼女にとって栄光であるということを。[女]の髪は頭飾りの代わりに与えられているからです。
16 しかし,何かほかの習慣を支持する人がいるようであっても,わたしたちにはこれ以外の[習慣]はありませんし,神の諸会衆にもありません。
-コリント(一)11:3-16

女預言者デボラはイスラエルを裁いていましたが裁き人の一人に数えられてはいません。
イスラエルが敵を滅ぼした時、「処女」だけは生かして連れて帰るということもありました。
とはいえ、
大抵の場合、女性は乱暴には扱われてはいません
男奴隷、女奴隷が存在しますが、奴隷と言っても「性的奴隷」ではありません
古代イスラエルでは妻は大切に扱われています。
妻にはしためがいますが、これは、専属の女中妻の所有物でした。
また、
女性が男性のすることに「口出し」することは、普通許されてはいませんでした。
夫に対する妻でも同様でした。
イスラエルは男性社会だったのです。
それでも女性が虐げられることはなかったのです。
女性は子供を産むための存在として大切にされたのです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++
何処の国でもそうだと思いますが、
日本でも社会的常識が人の振る舞いに制限を加えていたことが戦前まで続いていました。
いわゆる、「はしたない」という言葉を用いて、紳士淑女の振る舞いを「人の振る舞い」として当然と見なしていました。
清廉さ、潔白さ、潔さ、親孝行、毅然とした振る舞い、正義、目上の人に対する敬意や言葉遣い、親切、善良な行いなどを美徳としていたのです。

(現代は、お金など自分の欲望のために、こうした道徳はないがしろにされています。)
 

男女の交際に関しても「恋愛」は「不純」と見なされていたのです。
派手な服装や奇抜な服装に関しても同様でした。

  

何処の国でも「」を見られることは「恥ずかしい」ことであり「」です。
ところが、
戦後、社会に自由が蔓延すると、こうしたことは古いと考え、軽視するようになってしまいました。
代わって、有能なこと、賢いこと、力があること、美しいこと、お金を持っていることなどが評価されるようになってしまいました。

何かほかの習慣を支持する人がいるようであっても,わたしたちにはこれ以外の[習慣]はありませんし,神の諸会衆にもありません」
とパウロは述べています。

何か他の習慣」とは、いわゆる、世の中の一般的な習慣のことです。
こうしたことは「道徳の退廃」です。
道徳が退廃した「世」の行き先は滅亡です。

あなたはどう思いますか?

 

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そもそもにおいて

男性がいわゆるズボンで女性がスカートというのは、おそらく、自然にそうなったのだと思います。

男性はズボンの方が活動しやすいし、女性もトイレや生理を考えればスカートの方が良いからです。

男性がスカートを履くと落ち着かないものです。

 

日本社会では古来より男性は「ふんどし」を締め、女性は「腰巻」でした。

この点、外国、特にヨーロッパではどうしていたかは知りません。

 

近代以前は、ズボンのような長いものをスカートの下に履いていたように思います。

西洋でも中国でも韓国でも、時代劇ではそのような服装をしていますから。

 

古代イスラエルでは、おそらく、今のイスラム教の人々と同じ服装をしていたと思われます。

つまり、

全身を覆う服装をしていたということです。

 

また、

女性の体は子供を産むために、男性より「皮下脂肪が多い体質」となっています。

そのため、女性は男性より「薄着」であることが多いものです。

特に、上半身は。

 

女性が、いわゆるミニスカートを履くようになってから僅か60年足らずです。

歴史的には、
1920年代以前は、西洋の女性は足首までの丈のスカートを履くのが通例であったと言われています。

1920年代には、ココ・シャネルのデザインを筆頭にそれ以前の西洋の女性のスカートよりも丈が短いものが見られ始め、

1950年代後半から、一部の女性の間でスカートが短くなり始めました。

1960年代はプレタポルテの台頭に加えて若者のファッションであるストリートファッションの影響力も強くなっており、その典型的アイテムが『ミニスカート』であったとも言われています。
1965年1月のヴォーグ誌ではジョン・ベイツ(英語版)がデザインしたミニスカートのドレスが特集されると共に、その他のデザイナーたちもミニスカートを発表し始めるようになりました。

この頃から、イギリス出身のモデルツイッギーが着用してブームを呼び起こし、これによりミニスカートは世界中に広がり、ツイッギーは1967年10月に来日し、日本にもツイッギー旋風を起こしてミニスカートを流行させたことは良く知られたことです。 

 

1966年に来日し、6月30日から7月2日にかけてビートルズの唯一の日本公演が行われたことは多くの人が知っています。

それ以前にもグループサウンズはありましたが、ビートルズの来日で若者の音楽に対する考えが少し変化したように思います。

 

このように、若者の文化が戦後直ぐに著しく変化して来たことが分かります。

ファッションもそうです。

男性のパンタロンと言われる裾の広がったズボン、今で言う「パンツ」(下着という意味ではありません)もそうです。

 

イスラム社会は服装においては厳格ですが、キリスト教世界では服装は「個性」であり「自由」なものとされています。

 

戦後の日本はこの西洋の影響を受け今に至っていることは明白です。

 

もし、キリスト教社会でも「聖書に厳格」ならば、ミニスカートのような「露出」の多い服装は「有り得なかった」はずです。

 

エホバの証人の女性たちは、世の中がミニスカートが流行っていた時でさえ、いわゆる「ひざ下」までくる長いスカートを履く服装をするようにと、ものみの塔に「指示」されていたことを知っている人も少なくないと思います。

 

今集会に来る女性たちの服装は知りませんが、中には現代の「ファッション」を取り入れた服装で出席する人もいるかも知れません。

 

更には、

顔を露出するようになってから、人は化粧や髪形を気にするようになり、今ではそれが当たり前になっています。

単に化粧を気にするだけではなく、いわゆる肌の健康も気にしているのです。

髪型も、短髪、長髪、パーマネントを掛けたり、逆にストレートにしたり、見栄えの良い帽子を被ったり、手袋をしたり、ハンドバックを持ったり、指の爪に色を塗ったり付け爪をしたり・・・

いろんなことをして「ファッション」「個性」を示そうとしています。

その要因の一つが「自尊心」です。

人は、「良く見られたい」「奇麗だと言われたい」という「願望」があるからです。

 

一見すると「悪いことではない」ことのように思います。

 

ものみの塔は「世のものとならない」ようにとエホバの証人に「繰り返し」言っています。

しかし、

こうしたことは、正に「世のものとならない」ようにと言われているエホバの証人が「世のものとなっている」証拠の一端となっているのです。

 

あなたはどう思いますか?

このようなエホバの証人を「数多く」目にしているのではありませんか?

 

おそらく、裸に自信のある人は少ないと思います。

誰かに見られる見られないではなく

若い時はそうではなくても、年を取るにつれて「肉体は変化」していきます

脂肪が付いて太ったり、筋肉がたるんだり、お尻がたれたりしてくるものです。

加えて「しわ」も増え「醜く」なってしまいます。

それゆえ、人は服を身に付け化粧をしているので、恥ずかしくなく、あるいは、スタイルを誇れるのです。

 

近年の異常な暑さで熱中症になる人が増えていますが、

イスラム教の女性のように全身を覆っている人はむしろ肌を露出している人たちよりも熱中症になりにくいのではないでしょうか?

日傘より、より効果があるのでは

 

知恵を求める人のためのブログです。

聖書には次のような記述があります。
啓示6章
12 また,彼が第六の封印を開いた時に見ると,大きな地震が起こった。そして,太陽は毛の粗布のように黒くなり,月は全体が血のようになった。
13 そして,いちじくの木が激しい風に揺り動かされてその熟していない実を投げ落とす時のように,天の星が地に落ちた。
14 また,巻き上げられてゆく巻き物のように天が去ってゆき,すべての山と島がその場所から取り除かれた。
15 そして,地の王たち,高位の者たち,軍司令官たち,富んだ者,強い者,すべての奴隷また自由人は,ほら穴や山の岩塊の間に身を隠した。
16 そして山と岩塊とにこう言いつづける。「わたしたちの上に倒れかかれ。そしてみ座に座っておられる方の顔から,また子羊の憤りからわたしたちを隠してくれ。
17 彼らの憤りの大いなる日が来たからだ。だれが立ちえようか」。
(彼らに対する、エホバの大いなる日のこと。つまり、彼らが裁かれる、あるいは、滅ぼされる日のことです。)

7章
この後わたしは,四人のみ使いが地の四隅に立ち,地の四方の風をしっかり押さえて,地にも海にも,またどの木にも風が吹かないようにしているのを見た。
2 また,別のみ使いが日の昇る[方角]から,生ける神の証印を携えて上って行くのを見た。彼は,地と海を損なうことを許された四人のみ使いに大声で叫んで 
3 こう言った。「わたしたちが,わたしたちの神の奴隷たちの額に証印を押してしまうまでは,地も海も木も損なってはならない」。
4 そしてわたしは,証印を押された者たちの数を聞いたが,それは十四万四千であり,イスラエルの子らのすべての部族の者たちが証印を押された。
5 ユダの部族の中から一万二千人が証印を押され,
ルベンの部族の中から一万二千人,
ガドの部族の中から一万二千人,
6 アシェルの部族の中から一万二千人,
ナフタリの部族の中から一万二千人,
マナセの部族の中から一万二千人,
7 シメオンの部族の中から一万二千人,
レビの部族の中から一万二千人,
イッサカルの部族の中から一万二千人,
8 ゼブルンの部族の中から一万二千人,
ヨセフの部族の中から一万二千人,
ベニヤミンの部族の中から一万二千人が証印を押された。
9 これらのことの後,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。
10 そして大声でこう叫びつづける。「救いは,み座に座っておられるわたしたちの神と,子羊とに[よります]」。
11 そして,すべてのみ使いたちは,み座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが,彼らはみ座の前にひれ伏し,神を崇拝して 
12 こう言った。「アーメン! 祝福と栄光と知恵と感謝と誉れと力と強さが,わたしたちの神に限りなく永久に[ありますように]。アーメン」。
13 すると,長老の一人がこれに応じてわたしに言った,「白くて長い衣を着たこれらの者,これはだれか,またどこから来たのか」。
14 それでわたしはすぐ彼に言った,「わたしの主よ,あなたが知っておられます」。すると彼はわたしに言った,「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。
(マタイ24:3、21を参照のこと)
15 それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も[神]に神聖な奉仕をささげている。また,み座に座っておられる方は彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう。
16 彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に[冒されること]もない。
17 み座の真ん中におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」。

22章
また彼は,水晶のように澄みきった,命の水の川をわたしに見せてくれた。それは神と子羊とのみ座から出て,
2 その大通りの中央を流れていた。そして,川のこちら側と向こう側には,月ごとに実を生じ,実を十二回生み出す,命の木が[あった]。そして,その木の葉は諸国民をいやすためのもの[であった]。

これらを総合して考えると、
イエス・キリストの臨在、つまり、事物の体制の終結を生き残る者たちがいることを示しています。
事物の体制の終結とはイエスの言われた「大患難」のことです。-マタイ24:21
それら生き残る者たちは「大群衆」と呼ばれています。
これらの者はヨハネ10:6の「ほかの羊」であり、キリストが栄光のうちに到来し裁きの座に座り「人を一人ひとり」分ける時右に置かれる羊で、義なる者たちは永遠の命に入ると言われた人々のことです。-マタイ25:31-41

これらの者たちは、イエスにより「命の水の泉」に導かれ、また、命の木の実と葉を与えられ「永遠の命に入る」人々なのです。

この聖書の希望は、今生きている人々に対するものです。

 

今地上で生きている人々の中の一部の人の「目標」となっています。

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では、人が肉体のまま永遠に生きることは可能なのでしょうか

 

神は、アダムをみ使いのように創造されたのではありません。
アダムは肉体を持つ者、つまり、食べたり飲んだり、また、休んだりする者として創造されたのです。

また、
いつまでも生き続けられるために命の木の実」から定期的に食べるようにされました。
-創世記2:7、15

地上には、この「命の木」は存在していません
従って、1000年どころか200年も生きる人は一人もいません。
せいぜい120歳が限界です。

ですから、人が永遠に生きるということは、人間の願望ではあっても現実離れした話です。

ですから、中には聖書の中に上記のように記されていても、信じない人は大勢います。

信じる信じないは個人的なことですが、
人が永遠に生きることは「不可能」なのでしょうか

この点を考慮して見たいと思います。

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大患難を生き残り、キリストの世になった時、その時生きている人の肉体は、今と違うのでしょうか?
1000年も生きられるということは肉体に何らかの変化が生じるということなのでしょうか

おそらく、アダムが罪を犯した時、神は永遠に生きられたであろうアダムの肉体から「何かを取り去ったか、あるいは、何かを加えた」と考えられます。
つまり、人が「老化」しやがて「死ぬ」するようにされたのです。

キリストの千年統治が終わった直後に創造される新しい都市には、
「また彼は,水晶のように澄みきった,命の水の川をわたしに見せてくれた。それは神と子羊とのみ座から出て,
2 その大通りの中央を流れていた。そして,川のこちら側と向こう側には,月ごとに実を生じ,実を十二回生み出す,命の木が[あった]。そして,その木の葉は諸国民をいやすためのもの[であった]。」
-啓示22:1-2
と記されているように、
命の水の川が流れており、命の木の実と葉が植えられていることから考えますと、
この水を飲み、命の木の実を食べ、何らかのケガや病気になった時にそれを癒す葉があるということは、
今の肉体のままでも、これらによって「永遠に生きられる」と考えられます。
加えて、神が人間から「老化」を取り去ることも条件の一つとなります

「また[神]は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。-啓示21:4

と約束しているからです。

おそらく、
アダムによる「罪」の遺伝が無くなっても、人は「命の木の実」と「命の水」が無ければ「永遠に生きる」ことは出来ないでしょう。

罪を犯す前に「命の木の実」は備えられており、アダムをそれか食べることを許されています。

罪を犯した後これから食べることが許されていません

創世記3章

16 女に対してはこう言われた。「わたしはあなたの妊娠の苦痛を大いに増す。あなたは産みの苦しみをもって子を産む。あなたが慕い求めるのはあなたの夫であり,彼はあなたを支配するであろう」。
17 また,アダムに対してこう言われた。「あなたが妻の声に従い,わたしが命じて,『それから食べてはならない』と言っておいたその木から食べるようになったため,地面はあなたのゆえにのろわれた。あなたは,命の日のかぎり,その産物を苦痛のうちに食べるであろう。

18 そして,それはいばらとあざみをあなたのために生えさせ,あなたは野の草木を食べなければならない。

19 あなたは顔に汗してパンを食べ,ついには地面に帰る。あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る」。
20 この後,アダムは自分の妻をエバと名づけた。彼女は生きているすべての者の母となるからであった。

21 それからエホバ神は,アダムとその妻のために皮の長い衣を作って,ふたりにお着せになった。

22 次いでエホバ神はこう言われた。「さあ,人は善悪を知る点でわたしたちのひとりのようになった。今,彼が手を出してまさに命の木からも[実を]取って食べ,定めのない時まで生きることのないように―」。

23 そうしてエホバ神は彼をエデンの園から出し,彼が取られたその地面を耕させた

24 こうして[神]は人を追い出し,エデンの園の東にケルブたちと自ら回転しつづける剣の燃える刃とを配置して命の木への道を守らせた

-創世記3:16-24

「命の木の実」を食べなくても、アダムは930年生きていますが、今の人間のように「老化」したことは間違いありません。
「命の木の実」を食べることで、おそらく「老化」しないのかも知れません。
食べなければ、1000年以上長く生きることは出来なかったのです。

今でも、人間は新陳代謝によって日々細胞が生まれ変わっているので平均で80年以上生きることが出来ています。
この新陳代謝という体の機能は、永遠に生きられるようになっても変わらないということです。

従って、

永遠の命のために、罪を取り去る=完全になる(み使いのように食べなくても寝なくても良い、また、疲れることが無い)という意味ではなく
罪を取り去るとは、傷や汚点を除き去るという意味、つまり、神聖な者とされるということなのです。

従って、
人間が肉体のまま永遠に生きることを可能にするのは
1 神が人間の肉体から「老化」を取り去ってくださること。
2 肉体が自然のサイクルのように、永遠に繰り返すことが出来るように、新陳代謝が「永遠に繰り

  返されること」
3 神がそれを可能にする「命の水」と「命の木の実と葉」を備えてくださること。

神がこれらをして下さるのは、
啓示の書に記されている「大群衆」のような人々「義なる人々」だけであるということです。
無条件では誰もこれを手に入れることは出来ないのです。

 

聖書は、命の希望とともにこれらの条件についても記しているのです。

啓示22章

6 また彼はわたしに言った,「これらの言葉は信頼できる真実なものである。すなわち,預言者たちの霊感の表現の神であるエホバが,ほどなくして必ず起きる事柄をご自分の奴隷たちに示すため,そのみ使いを遣わされたのである。

7 そして,見よ,わたしは速やかに来る。この巻き物の預言の言葉を守り行なう者は幸いである」。
8 さて,わたしヨハネは,これらのことを聞き,また見た者である。そしてわたしは,聞いたり見たりすることを[終えた]時,これらのことをわたしに示してくれていたみ使いの足もとにひれ伏して崇拝しようとした。

9 しかし,彼はわたしに言う,「気をつけなさい! そうしてはなりません! わたしは,あなた,また預言者であるあなたの兄弟たち,そしてこの巻き物の言葉を守り行なっている者たちの仲間の奴隷にすぎません。神を崇拝しなさい」。
10 彼はまたわたしにこう言う。「この巻き物の預言の言葉を封じてはならない。定められた時が近いからである。

11 不義を行なっている者,その者はいよいよ不義を行なうように。不潔な者はいよいよ不潔になるように。しかし,義なる者はいよいよ義を行ない,聖なる者はいよいよ聖なる[者]となるように。
12 「『見よ,わたしは速やかに来る。そして,わたしが与える報いはわたしと共にある。各々にその業のままに報いるためである。

13 わたしはアルファでありオメガであり,最初であり最後であり,初めであり終わりである。

14 自分の長い衣を洗って,命の木に[行く]権限を自分のものとし,その門から都市の中に入れるようになる者たちは幸いである。

15 その外にいるのは,犬,心霊術を行なう者,淫行の者,殺人をする者,偶像を礼拝する者,また,すべて偽りを好んでそれを行ないつづける者である』。
16 「『わたしイエスは自分の使いを遣わし,諸会衆のためにこれらのことについてあなた方に証しした。わたしはダビデの根また子孫であり,輝く明けの星である』」。
17 そして,霊と花嫁は,「来なさい!」と言いつづける。そして,だれでも聞く者は,「来なさい!」と言いなさい。そして,だれでも渇いている者は来なさい。だれでも望む者は命の水を価なくして受けなさい。

-啓示22:6-17

あなたはこうした、いわば、人間の究極の願いが聖書により叶うかも知れないと聞いてどのように思いますか?

聖書は真実な書です。
すべての人が、命の希望を自分のものに出来ることを願っています。

ペテロ(二)3章

8 しかし,愛する者たちよ,この一事を見過ごしてはなりません。エホバにあっては,一日は千年のようであり,千年は一日のようであるということです。

9 エホバはご自分の約束に関し,ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです。

10 しかし,エホバの日は盗人のように来ます。そのとき天は鋭い音とともに過ぎ去り,諸要素は極度に熱して溶解し,地とその中の業とはあらわにされるでしょう。
11 これらのものはこうしてことごとく溶解するのですから,あなた方は,聖なる行状と敬虔な専心のうちに,

12 エホバの日の臨在を待ち,[それを]しっかりと思いに留める者となるべきではありませんか。その[日]に天は燃えて溶解し,諸要素は極度に熱して溶けるのです。

13 しかし,[神]の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります。

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参考
コリント(一)15:32-34
もし死人がよみがえらされないのであれば,「ただ食べたり飲んだりしよう。明日は死ぬのだから」[ということになります]。
33 惑わされてはなりません。悪い交わりは有益な習慣を損なうのです。
34 義にしたがって酔いから覚めなさい。罪を習わしにしてはなりません。神についての知識を持たない人たちがいるからです。

コリント(一)15:35-51
35 しかしながら,「死人はどのようによみがえらされるのか。いったいどんな体でやって来るのか」と言う人がいることでしょう。
36 道理をわきまえない人よ! あなたのまくものは,まず死ななければ,生きたものになりません。
37 そして,あなたがまくものについて言えば,後にできる体ではなく,ただの種粒をまくのです。それは小麦,あるいはほかの何かでしょう。
38 しかし神は,ご自分の喜びとなるとおりにそれに体を与え,種の一つ一つにそれ自身の体を[与え]られます。
39 すべての肉が同じ肉ではなく,人間の[肉]があり,また畜類の肉があり,また鳥の肉があり,また魚の[肉]があります。
40 そして,天的な体と地的な体があります。しかし,天的な体の栄光は一つの種類であり,地的な体の[栄光]は別の種類です。
41 太陽の栄光は一つの種類であり,月の栄光はまた別であり,星の栄光はまた別です。事実,星は他の星と栄光の点で異なります。
42 死人の復活についてもこれと同じです。朽ちる様でまかれ,朽ちない様でよみがえらされます
43 不名誉のうちにまかれ,栄光のうちによみがえらされます。弱さのうちにまかれ,力のうちによみがえらされます。

44 物質の体でまかれ,霊的な体でよみがえらされます。物質の体があるなら,霊的な[体]もあります
45 まさにそう書かれています。「最初の人アダムは生きた魂になった」。最後のアダムは命を与える霊になったのです。
46 とはいえ,最初のものは霊的なものではなく,物質のものであり,後に霊的なものとなります。
47 最初の人は地から出て塵で造られており,第二の人は天から出ています。
48 塵で造られた者たちは塵で造られた者のようであり,天的な者たちは天的な者のようです。
49 そして,わたしたちは,塵で造られた者の像を帯びてきたように,また天的な者の像を帯びるのです。
50 また,兄弟たち,わたしはこのことを言います。肉と血は神の王国を受け継ぐことができず,朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはありません。
51 ご覧なさい,わたしはあなた方に神聖な奥義を告げます。わたしたちはみな[死の]眠りにつくのではありませんが,わたしたちはみな変えられるのです。

これらは、今生きている人に対するものではありません
既に、天に復活した「イエスの兄弟たち」のことです。
つまり、神の王国、キリストと共に天から地を支配する者たち、14万4000人、「囲いの中の羊」のことです。

地上で肉体のまま生きることは、パウロの言った「物質の体」で生きることです。
そして、これは「朽ちる様」であるということです。

今地上で生きている人に対する「聖書の希望」は、この「朽ちる様」を「物質の体」を、「永遠に生きられるようにする」というものです。

あなたはこれらのことを聞いてどのように思いますか?
どのように思っても考えても、それはあなたの「自由」です。
ですが、
それによって「命の選択」か「死の選択」が決まるかも知れないのです。

ある意味、これは生死を分けるものとなりますので、
「警告」「脅し」と捉える人もいるでしょう。

しかし、真理は「一つ」です。
つまり、正しいことは一つなのです。
正しいことを正しいと言うことは「正しいこと」「正当なこと」なのではありませんか?

知恵を求める人のためのブログです。

使徒であるペテロやフィリポやパウロについての出来事を、初めから述べると長くなってしまいますので、パウロの話したことを途中から論じたいと思います。

(参考までに、いわゆる福音書の筆者の内、マルコとルカは十二使徒の一人ではありません。)

 

先ずは、聖書の次の部分を読んで下さい。

使徒たちの活動20章です。

20章
さて,騒動が収まったのち,パウロは弟子たちを呼びにやった。そして彼らを励まし,また別れを告げてから,マケドニアへ旅立った。

2 そこの各地を通ってその地の者たちを多くの言葉で励ましたのち,彼はギリシャに入った。

3 そして,そこで三か月過ごしたが,シリアに向けて出帆しようとしていたやさき,彼に対するユダヤ人たちの陰謀が巡らされたので,彼はマケドニアを通って帰ることに決めた。

4 ベレアのプロの子ソパテロ,テサロニケ人のアリスタルコとセクンド,デルベのガイオ,テモテ,アジア[地区]からはテキコとトロフィモが彼に同行していた。

5 これらの者は進んで行ってトロアスでわたしたちを待っていたが,

6 わたしたちは無酵母パンの期間のあとフィリピから船出し,五日以内にトロアスにいる彼らのところに来た。そして,ここで七日過ごした。
7 週の最初の日,わたしたちが食事をするために集まっていた時,パウロは,次の日には出発することになっていたので,彼らに対して講話を始めた。そして話は長くなって真夜中にまで及んだ。

8 そのため,わたしたちの集まっていた階上の間にはかなりの数のともしびがついていた。

9 ユテコという名の若者は窓のところに座っていたが,パウロがずっと話している間に深く眠ってしまい,眠ったまま転げて三階から落ち,抱き起こしてみると死んでいた。

10 しかしパウロは階下に降り,彼の上に伏して抱きかかえ,「騒ぎ立てるのはやめなさい。彼の魂は彼の内にある」と言った。

11 それから彼は階上に行き,食事を始めて食べ,かなりのあいだ語り合って夜明けに及び,こうしてようやく出発した。

12 そこで,彼らは生き[返っ]た少年を連れて行き,一方ならぬ慰めを得た。
13 さて,わたしたちは先に船に行き,アソスに向けて船出した。わたしたちはそこでパウロを乗せることにしていた。彼はそういう指示を与えて,自分は徒歩で行こうとしていたからである。

14 こうして彼がアソスでわたしたちに追いついた時,わたしたちは彼を乗せてミテレネに行った。

15 そして,翌日そこから出帆してキオスの向かい側に着いたが,次の日にはサモスに立ち寄り,その明くる日ミレトスに着いた。

16 パウロは,エフェソスに寄らずに帆走しようと決めていたのである。それは,アジア[地区]では少しも時間を費やさないようにするためであった。できるならばペンテコステ[の祭り]の日にエルサレムに着けるようにと急いでいたのである。
17 しかしながら,彼はミレトスから人をエフェソスに送って会衆の年長者たちを呼んだ

18 彼らが自分のところに着いた時,[パウロ]はこう言った。「アジア[地区]に足を踏み入れた最初の日からわたしがどのようにあなた方と終始一緒にいたか,あなた方はよく知っています

19 へりくだった思いを尽くし,涙とユダヤ人たちの陰謀によってわたしに降り懸かる試練の中で,主のために奴隷として仕えました。

20 同時にわたしは,何でも益になることをあなた方に話し,また公にも家から家にもあなた方を教えることを差し控えたりはしませんでした

21 むしろ,神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスへの信仰について,ユダヤ人にもギリシャ人にも徹底的に証しをしたのです。

22 そして今,ご覧なさい,霊に縛られてわたしはエルサレムに旅をしていますが,そこで自分に起きる事柄を知りません。

23 ただ,どの都市においても,聖霊が繰り返しわたしに証しをし,なわめと患難とが待っていることを述べるのです。

24 でもやはり,自分の行程と,主イエスから受けた奉仕の務め,すなわち神の過分のご親切に関する良いたよりについて徹底的に証しすることとを全うできさえすれば,わたしは自分の魂を少しも惜しいとは思いません。
25 「そして今,ご覧なさい,わたしが王国を宣べ伝えてまわったあなた方すべてが,もうわたしの顔を見ないことを,わたしは知っています

26 ですから,今日この日に,わたしがすべての人の血について潔白であることに関して,あなた方に証人となってもらいます。

27 わたしは何一つ差し控えることなく,神のみ旨をことごとくあなた方に伝えたからです。

28 あなた方自身と群れのすべてに注意を払いなさい[神]がご自身の[み子]の血をもって買い取られた神の会衆を牧させるため,聖霊があなた方をその[群れの]中に監督として任命したのです

29 わたしが去った後に,圧制的なおおかみがあなた方の中に入って群れを優しく扱わないことを,わたしは知っています。

30 そして,あなた方自身の中からも,弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事柄を言う者たちが起こるでしょう。
31 「ですから,目ざめていなさい。そして,三年の間,わたしが夜も昼も,涙をもってひとりひとりを訓戒しつづけたことを覚えていなさい

32 そして今,わたしはあなた方を神とその過分のご親切の言葉にゆだねます。その[ことば]はあなた方を築き上げ,神聖にされた者たちすべての間の相続財産をあなた方に与えうるのです。

33 わたしはだれの銀も金も着衣も貪ったことはありません

34 この手が,わたしの,そしてわたしと共にいる者たちの必要のために働いたことを,あなた方自身が知っています。

35 わたしは,このように労苦して弱い者たちを援助しなければならないこと,また,主イエスご自身の言われた,『受けるより与えるほうが幸福である』との言葉を覚えておかなければならないことを,すべての点であなた方に示したのです」。
36 そして,こう言ってから,[パウロ]はみんなと共にひざまずいて祈った。

37 実際,すべての者は少なからず泣き,パウロの首を抱いて優しく口づけした。

38 自分の顔をもう見ないであろうと語った[パウロ]の言葉に,彼らはひときわ[胸を]痛めたのである。そうしてみんなは[パウロ]を船まで送って行った。

     

これはパウロの宣教の出来事の一部です。

パウロがエフェソスの会衆の年長者たちを呼んで話した事柄です。      

会衆の中の年長者を任命したのは誰でしたか?
聖霊」つまり「」が任命したとパウロは述べています。

 

年長者は古代イスラエルから続く、いわゆる部族の長であったり司たちで最も敬われた人々です。

誰がこの年長者を決めたのかと言えば、各々の部族で決めたと思われます。

この年長者に「聖霊」を置いたのは[]でした。-民数11:16-17

つまり、神がその存在を認めたということです。

年長者はその後も存在し続けますが、常に「聖霊」が注がれていた訳ではありません。

実際、イエスを殺そうとした人々の中にも年長者たちもいたからです。-マタイ16:21、26:3他多数

 

しかし、これらイエスを殺そうとした年長者がいた一方で、

会衆にも年長者たちがいました。

 

使徒14:21-23

21 そして,その都市に良いたよりを宣明してかなり大勢の弟子を作った後,彼らはルステラ,イコニオム,さらにアンティオキアに帰り,

22 弟子たちの魂を強め,信仰にとどまるように励まして,「わたしたちは多くの患難を経て神の王国に入らなければならない」と[言った]。

23 さらにまた,彼らのために会衆ごとに年長者たちを任命し,断食をして祈りをささげ,彼らをその信ずるエホバにゆだねた。

 

エフェソスやアンティオキアの会衆はユダヤ人の会衆とは異なり、民を指導監督する年長者たちという存在はいなかったと思われます。

そのため、クリスチャン会衆を委ねるために年長者を任命し、また、監督としてどうあるべきかを徹底して教えたのです。

 

使徒15:1-4
さて,ある人たちがユダヤから下って来て,「モーセの慣例どおり割礼を受けないかぎり,あなた方は救われない」と兄弟たちに教えはじめた。

2 しかし彼らを相手に,パウロとバルナバによって少なからぬ争論と議論が起きた時,人々は,パウロとバルナバおよび自分たちのうちのほかの幾人かが,この論争のことでエルサレムにいる使徒や年長者たちのもとに上ることを取り決めた。
3 こうして,これらの人たちは途中まで会衆に見送られた後,ずっと進んでフェニキアやサマリアを通り,諸国の人たちの転向のことを詳しく話しては,すべての兄弟たちを大いに喜ばせるのであった。

4 エルサレムに着くと,彼らは会衆および使徒や年長者たちに親切に迎えられ,神が自分たちを通して行なわれた多くの事柄について細かに話した。

 

パウロが使徒20章で話した相手は、エフェソスの年長者たちであり、彼らはパウロによって年長者に任命された者たちだったのです。

これらの人々は、すでにイエスの弟子となっていた人々でした。
しかし、パウロはそれが「聖霊」によって、つまり神が任命したと言ったのです。

実際、使徒たちを介して弟子たちは聖霊を受けていたからです。-使徒8:14-17、19:6

 

その年長者たちを指導するパウロ自ら働いて弱い人たちを援助したとも述べています。

会衆の誰からもお金や衣服を貪ったことはないと述べています。

自分と自分と共にいる者たちのために働いたとも述べています。

こうして年長者たちに模範を示したのです。

 

パウロはイエスにより任命された使徒でした

そして、イエス以上にイエスについて、また、神の王国について熱心に宣べ伝え、弟子たちに教えました。

 

そこで、

「[神]がご自身の[み子]の血をもって買い取られた神の会衆を牧させるため,聖霊があなた方をその[群れの]中に監督として任命したのです。」

というパウロの言葉をもう少し深く掘り下げますと、パウロは次のようにも語っています。

 

テモテ(一)3:1-10

3章
このことばは信ずべきものです。
監督の職をとらえようと努めている人がいるなら,その人はりっぱな仕事を望んでいるのです。

2 したがって,監督は,とがめられるところのない人で,一人の妻の夫であり,習慣に節度を守り,健全な思いを持ち,秩序正しく,人をよくもてなし,教える資格があり,

3 酔って騒いだり人を殴ったりせず,道理をわきまえ,争いを好まず,金を愛する人でなく,

4 自分の家の者をりっぱに治め,まじめさを尽くして子供を従わせている人であるべきです。

5 (実際,自分の家の者を治めることも知らない人であれば,どのようにして神の会衆を世話するのでしょうか。)

6 また,新しく転向した人であってはなりません。[誇りのために]思い上がり,悪魔に下された裁きに陥るようなことがあってはいけないからです。

7 さらに,その人は外部の人々からもりっぱな証言を得ているべきです。非難と悪魔のわなに陥ることのないためです。
8 同様に,奉仕の僕たちもまじめで,二枚舌を使ったりせず,大酒にふけらず,不正な利得に貪欲でなく,

9 清い良心をもって信仰の神聖な奥義を保っているべきです。
10 そして,その人たちがふさわしいかどうかまず試し,とがめのない者であるなら,奉仕者として仕えさせなさい。

 

監督や奉仕の僕たちは「会衆の奉仕者」であり、命令・指示の権限者ではないということです。

奉仕者とは、無償で人々のために働き仕える者のことです。
 

テトス1:5-16

5 わたしはこの理由であなたをクレタに残しました。すなわち,わたしが命じたとおり,あなたが不備な点を正し,都市ごとに年長者たちを任命するためです。

6 つまり,とがめのない人で,一人の妻の夫であり,放とうの責めを受けたり無規律であったりすることのない,信者である子供を持つ人がいるならばです。

7 監督は,神の家令としてとがめのない人で,我意を張らず,すぐに憤らず,酔って騒いだりせず,人を殴らず,不正な利得に貪欲でなく,

8 むしろ,人をよくもてなし,善良さを愛し,健全な思いを持ち,義にかない,忠節で,自制心があり,

9 自分の教え[の術]に関して信ずべき言葉を堅く守る人でなければならないのです。それは,健全な教えによって説き勧めることも,また,言い逆らう者を戒めることもできるためです。
10 というのは,無規律な者,無益なことを語る者,そして[人の]思いを欺く者,特に,割礼を堅く守る者たち多くいるからです。

11 こうした者たちの口を封じることが必要です。まさにこうした者たちが,不正な利得のために[教える]べきでないことを教えて,家族全体を覆してゆくからです。

12 彼らのうちのある者,彼ら自身の預言者が言いました,「クレタ人は常に偽り者,害をもたらす野獣,無為に過ごす大食家」と。
13 この証しは真実です。それゆえにこそ,絶えず彼らを厳しく戒めなさい。彼らが信仰の点で健全になり,

14 ユダヤ人の説話や,真理から離れてゆく人々のおきてに気を奪われることのないためです。

15 清い[人たち]にとってはすべてのものが清いのです。しかし,汚れた不信仰な[人たち]にとって清いものは何一つありません。彼らは思いも良心も汚れているのです。

16 彼らは神を知っていると公言しますが,その業では[神]を否認しています。彼らは忌むべき者,不従順な者であり,どんな良い業に対しても是認を受けていないのです。

 

実際、ものみの塔の会衆の長老たちの中には、
「無規律な者,無益なことを語る者,そして[人の]思いを欺く者,・・が多く、
 まさにこうした者たちが,不正な利得のために[教える]べきでないことを教えて,家族全体を覆して」いるのです。

ものみの塔の教えにも関わらず家族が分裂しているエホバの証人は非常に多いものとなっています。

 

ヘブライ13:17

17 あなた方の間で指導の任に当たっている人たちに従い,また柔順でありなさい。彼らは言い開きをする者として,あなた方の魂を見守っているのです。

 

現代において、

パウロが述べた監督の資格に適合する「ものみの塔の長老たち」が「一人もいない」ことは明白です。

特に、組織の指導的立場にいる人たちは。

 

しかも、聖霊によって「任命」出来る人は「一人もいない」のです。

 

エホバの証人である「あなた」はどう思いますか?

それでも会衆に留まりますか?

 

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現代の長老、奉仕の僕(援助奉仕者)はものみの塔が設けた制度であり、聖書には長老を示唆する表現は出て来ますが、文字通りにはヨハネへの啓示の書以外は出て来ません。
ヨハネへの啓示の書では、天のみ使いたちのある者たちに対して用いていますが、人間にこの言葉を用いている個所は皆無なのです。

 

ところが、ものみの塔は、

年長者という語を長老という語に置き換えた聖書を発行しました。

それは2019年と2022年の最近のことです。

それは、自分たちが設けた長老という制度を正当化するためです。

 

ものみの塔が「長老」という言葉を用いる他の理由は、

天の[神]のみ座の前にいる二十四人の長老によるもので、

ものみの塔は彼らが「神の王国」の人々を示していると論じているからです。

持っている人は「その時、神の秘儀は終了する」という本の12ページを読んで下さい。

これは明確な誤りです

聖書には年長者とか指導の任に当たっている人とか監督とか奉仕の僕などが示されています。
聖書ではこの言葉を用いる時には、知識や人格やいわゆる霊性が高く「有能な男子」に関して用いています。

ものみの塔はパウロの言う「監督」を「長老」という言葉に置き換えて用いています。

それでも、
ものみの塔の長老たちパウロの言う監督たちに当てはまるとは言えないことは二つの点で明白です。
知識に於いても人格に於いても霊性に於いても「適合」する人は皆無です。

彼らは「思慮深さ」に於いても欠けています。
そもそも長老とは何かということが分かっていないばかりか、自分の割り当てを果たしているだけでそれを扱う時の知識、経験などは他の信者に劣る点も多い点です。

二つ目は、「聖霊」によって任命されていないという点です。

現在、「聖霊」によって任命をすることの出来る人は地上には存在していないからです。

キリスト教の教皇、司教、牧師などと同じく組織化、制度化したものです。

長老、奉仕の僕(援助奉仕者)はものみの塔組織を円滑に運営するために設けた制度なのです。

パウロの多くの手紙を読むと、当時の会衆に監督たちや僕と称される人々が存在していることは分かります。

使徒たちやパウロが聖霊によって年長者たち」を「監督たち」を任命しましたが、それらの人々に対するパウロの「助言」も多く含まれています。

 

しかし、キリストが会衆内に設けた制度ではないのです。

キリストが設けたのは「十二使徒」だけです。

 

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以下の聖書の言葉を熟考して下さい。

マタイ24章
3 [イエス]がオリーブ山の上で座っておられたところ,弟子たちが自分たちだけで近づいて来て,こう言った。「わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。

・・・

45 「主人が,時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため,彼らの上に任命した,忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。

 

コリント(一)4章
それで人は,わたしたちを,キリストに従属する者,また神の神聖な奥義の家令と評価すべきです。

2 さらに,この場合,家令に求められるのは,忠実であることです。

3 さて,わたしにとって,あなた方に,あるいは人間の審判の場で調べられることは,ごくささいな事柄です。わたしでさえ自分を調べることはしません

4 わたし自身,責められるようなことは何も意識しないからです。しかしそれによって,わたしは義にかなっていると証明されているわけではありませんわたしを調べる方はエホバなのです

5 それゆえ,定めの時以前に,つまり主が来られるまでは,何事も裁いてはなりません。[主]は,闇の隠れた事柄を明るみに出し,また心の計り事を明らかにされます。その時,人は各自神からの称賛を受けるのです。
6 さて,兄弟たち,わたしは,あなた方のために,これらのことを移し変えてわたし自身とアポロとに当てはめました。それは,わたしたちを例にして,「書かれている事柄を越えてはならない」という[定め]を学んでもらい,あなた方がそれぞれ一方に付いて他方を退け,思い上がるようなことのないためです。

7 というのは,だれが人を他と異ならせるのですか。実際,自分にあるもので,もらったのではないものがあるのですか。では,確かにもらったのであれば,どうしてもらったのではないかのように誇るのですか。
8 あなた方はすでに存分に持っているのですか。あなた方はすでに富んでいるのですか。あなた方はわたしたちを抜きにして王として支配しはじめたのですか。いや,あなた方が王として支配しはじめていてくれたらと願うのです。わたしたちもあなた方と一緒に王として支配するためです。

9 というのは,神はわたしたち使徒を,死に定められた者として,出し物の最後に置かれたように思えるのです。なぜなら,わたしたちは,世に対し,み使いたちに対し,また人々に対して,劇場の見せ物のようになっているからです。

10 わたしたちはキリストのゆえに愚かな者ですが,あなた方はキリストにあって思慮深い者となっています。わたしたちは弱いのに,あなた方は強いのです。あなた方は評判が良いのに,わたしたちは不名誉のうちにあります

11 今この時に至るまで,わたしたちはずっと飢え,また渇き,着る物に乏しく,こづき回され,家もなく,

12 手ずから働いて労しています。ののしられれば祝福し,迫害されれば忍び,

13 名誉を損なわれても懇願するのです。わたしたちは,今に至るまで,世のくず,すべてのもののかすのようになってきました。
14 わたしがこれらのことを書いているのは,あなた方に恥をかかせるためではなく,わたしの愛する子供として訓戒するためです。

15 あなた方にはキリストにあって一万人の養育係がいるとしても,決して多くの父親はいないのです。キリスト・イエスにあって,わたしが,良いたよりを通してあなた方の父親となったからです。

 

ヘブライ3章
そのようなわけで,聖なる兄弟たち,天の召しにあずかる人たちよ,わたしたちが[信仰を]告白する使徒また大祭司,イエスを思い見なさい

2 彼は自分をそのようにした方に対して忠実でした。モーセもまたその方の家全体にあって[忠実で]あったのと同じです。

3 [家]を造る者がその家よりも誉れを受けるからには,その方はモーセ以上の栄光に値するとみなされるからです。

4 言うまでもなく,家はすべてだれかによって造られるのであり,すべてのものを造られたのは神です。5 そして,モーセは従者として,その方の家全体にあって忠実であり,後に語られる事柄の証しとなりましたが,

6 キリストはその方の家の上に立つ子として[忠実でした]。はばかりのないことばと希望にかかわる誇りとを終わりまでしっかりと堅く保つなら,わたしたちはその方の家となるのです。
7 それゆえ,聖霊が述べるとおりです。「今日,もしこの方の声を聴いたら,

8 あなた方は,苦々しい怒りを引き起こした時のように,荒野で試した日のように心をかたくなにしてはならない。

9 そこであなた方の父祖たちは試みをもってわたしを試したしかもそれはわたしの業を四十年のあいだ見たのちのことであった

10 そのためわたしはこの世代に嫌悪を覚えて,こう言った。『彼らの心は常に迷い,彼ら自身はわたしの道を知るに至らなかった』。

11 それでわたしは怒りのうちに誓った,『彼らにはわたしの休みに入らせない』と」。
12 兄弟たち,あなた方のうちのだれも,生ける神から離れて,信仰の欠けた邪悪な心を育てることがないように気をつけなさい。

13 むしろ,「今日」ととなえられる限り日ごとに勧め合い,あなた方のだれも,[人を]欺く罪の力のためにかたくなになることのないようにしなさい

14 初めに抱いた確信を終わりまでしっかりと堅く保ってはじめて,わたしたちは本当にキリストにあずかる者となるのです

15 もっともそれは,「今日,もしこの方の声を聴いたら,あなた方は,苦々しい怒りを引き起こした時のように心をかたくなにしてはならない」と言われている間のことです。
16 聞いたのに苦々しい怒りを起こさせたのはだれでしたか。実に,モーセのもとにエジプトを出たすべての人たちではありませんでしたか。

17 また,[神]はだれに対して四十年のあいだ嫌悪を覚えられたのですか。罪をおかして,その死がいが荒野に倒れた人たちに対してではありませんでしたか。

18 また,[神]は,ご自分の休みに入らせないということを,不従順に行動した人たち以外のだれに対して誓われたでしょうか

19 こうしてわたしたちは,彼らが信仰の欠如のゆえに入れなかったことを知るのです。

 

これらは、パウロが述べているように「天の召しにあずかる人々」に対するものです。

これを読んでも、自分はものみの塔の「長老」としてふさわしいと思ったり、考えたりする人、その人は「偽り者」です。

その立場にある人々もです。 

    

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最後に、

霊に満たされなければ霊即ち神の言葉を正しく語ることは出来ません。
増して、聖書から論じることも出来ません。

神の言葉を語る時には、そこには霊が宿るのです。
神の言葉について深く考える時も同じです。

神の霊が離れれば神についてや神の言葉について深く考えることは出来ません

しかし、それでも、その人の思いや考えが神に導かれ容易(たやす)く真理に至るとは限りません
深く考え求め続けてやっと真理を手にすることが出来るのです。-マタイ7:7-11

 

使徒10:44-48

44 ペテロがまだこれらのことについて話しているうちに,聖霊がみ言葉を聞いているすべての人の上に下った

45 そして,割礼を受けた人々で,ペテロと一緒に来ていた忠実な者たちは驚嘆した。無償の賜物である聖霊が諸国の人々の上にも注ぎ出されていたからである。

46 彼らが[いろいろな]国語で話し,神をあがめているのを聞いたのである。これに答え応じてペテロは[言った],

47 「わたしたちと同じように聖霊を受けたこの人々に,だれか水を禁じてバプテスマを受けさせないでいることができるでしょうか」。

48 そうして,イエス・キリストの名においてバプテスマを受けるようにと彼らに命じた。

 

使徒15:6-11

6 そこで使徒や年長者たちは,この件について調べるために集まった。

7 さて,多くの議論が出てから,ペテロが立って彼らにこう言った。「皆さん,兄弟たち,あなた方がよく知っているとおり,神は早いころからあなた方の間で選びを行ない,わたしの口を通して諸国の人たちが良いたよりの言葉を聞いて信じるようにされました

8 そして,[人の]心を知っておられる神は,わたしたちに行なわれたと同じように,彼らにも聖霊を与えて証しをされました

9 また,わたしたちと彼らとの間に何の差別も設けず,彼らの心を信仰によって浄められたのです。

10 それですから,どうして今,父祖もわたしたちも負うことのできなかったくびきを弟子たちの首に課して,神を試したりするのですか

11 それどころか,わたしたちも,その人たちと同じように,主イエスの過分のご親切によって救われることを頼みとしているのです」。
 

また、聖霊を受けても「自分自身の確固たる態度から離れ落ちる人々もいた(いる)ことも事実です。
-ペテロ(二)3:17   

 

知恵を求める人のためのブログです。

初めに、

神聖とは、清く汚れがないこと、尊くて侵しがたいことであり、

神聖さを汚すとは、神に示された方法や手順を踏まないで行うことなどと定義されます。

 

聖書では、神エホバについて次のように描写されています。

イザヤ6章
しかしながら,ウジヤ王の死んだ年に,わたしはエホバを見た。高大で,高く上げられた王座に座しておられ,そのすそは神殿に満ちていた。

2 セラフたちがその上の方に立っていた。各々六つの翼を持っていた。二つで顔を覆い,二つで足を覆い,二つで飛び回るのであった。

3 そして,この者がかの者に呼びかけて言った,「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,万軍のエホバ。全地に満ちるものはその栄光である」。

(注意:文字通り、エホバの姿を見た訳ではありません。)

 

啓示4章
これらのことの後,わたしが見ると,見よ,開かれた戸が天にあった。そして,わたしが聞いた最初の声はラッパのようであり,[その声が]わたしと話して,「ここに上れ。必ず起きることをあなたに示そう」と言った。

2 これらのことの後,わたしはすぐに霊[の力]の中に入った。すると,見よ,天にひとつの座が据えてあり,そのみ座に座っておられる方がいる。

3 そして,座っておられる方は,見たところ碧玉,また赤色の宝石のようであり,み座の周りには,見たところエメラルドのような虹が[ある]。
4 そして,み座の周りには二十四の座が[あり],それらの座には,二十四人の長老が,白い外衣をまとい,頭に黄金の冠を頂いて座っているのが[見えた]。

5 そして,み座からは,稲妻と声と雷が出ている。また,火のともしび七つがみ座の前で燃えており,それらは神の七つの霊を表わしている。

6 また,み座の前には,水晶に似たガラスのような海があるかのようである。
そして,み座の真ん中とみ座の周りには,前にも後ろにも目がいっぱいある四つの生き物が[いる]。

7 そして,第一の生き物はライオンに似ており,第二の生き物は若い雄牛に似ており,第三の生き物には人間のような顔があり,第四の生き物は飛んでいる鷲に似ている。

8 また,その四つの生き物は,その各々にそれぞれ六つの翼があり,周りも下側も目でいっぱいである。そして彼らは昼も夜も休むことなくこう言う。「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,全能者なるエホバ神,かつておられ,今おられ,これから来られる方」。
9 そして,それらの生き物が,み座に座っておられる方,限りなく永久に生きておられるその方に,栄光と誉れと感謝をささげるごとに,

10 二十四人の長老は,み座に座っておられる方の前にひれ伏し,限りなく永久に生きておられる方を崇拝する。そして自分たちの冠をみ座の前に投げ出して,こう言う。

11 「エホバ,わたしたちの神よ,あなたは栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方です。あなたはすべてのものを創造し,あなたのご意志によって[すべてのもの]は存在し,創造されたからです」。
(注意:ヨハネも文字通りエホバの姿を見た訳ではありません。

 幻ではあっても、エホバは「光」としか見えていないのです。

 これは、イザヤも同じです。)

 

共に、「聖なるかな」を三度繰り返しています。

これは「最高度の神聖さや清さ」を表しています。

 

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これと似た言葉に「神性」という言葉があり、聖書では一度だけ出て来ます。-ローマ1:20

神性を備えているとは、神のような性質を持っているということを意味します。
 

では、神性を備えている者すべては「神」でしょうか?
答えは「」です。

イエスは、父である神を見倣う者として「神性」を備えていました
ヨハネはこの点に関して、

ヨハネ1章
「初めに言葉がおり,言葉は神と共におり,言葉は神であった
2 この方は初めに神と共にいた
3 すべてのものは彼を通して存在するようになり,彼を離れて存在するようになったものは一つもない。」-ヨハネ1:1-3
と述べています。

 

ある聖書では、「言葉は神性を備えていた」(「神のような者」)となっています。

どの聖書でも、言葉=神(a god)とし、言葉≠神(The God)と使い分けています。


もし、言葉=イエスが神ならば、1節は矛盾することになります。

この点、聖書の他の部分では、
コリント(二)4:4では、パウロは、悪魔またサタンのことを「神」と呼んでいます。
明らかに、真の神エホバとは異なりますが、「神」と言われたことには違いがありません。

イエスも「神」と呼ばれていても、真の神エホバとは異なることは明白です。
「真の神」はただお一人エホバだけですが、「神」と呼ばれる者は多くいるのです。

 

例えば、

日本人の中には八百万の神といって、あらゆるものに「神が宿る」と考えている人が多いです。
日本の神社の、いわゆる「ご神体」と言われるものは「」であることが殆どです。
天皇家の三種の神器(鏡、剣、勾玉)は、それを持つ者を天皇とするという仕来りで、天皇=神という考えから来ています。
これは、天皇の人間宣言以前のことですが。

         

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神性を備えた者=神のような者とはどういうことでしょうか?
神に似た様であるということです。

 

ヨハネ5:19

19 それゆえ,それに答えてイエスは彼らにさらにこう言われた。「きわめて真実にあなた方に言いますが,子は,自分からは何一つ行なうことができず,ただ父がしておられて,自分が目にする事柄を[行なえる]にすぎません。何であれその方のなさること,それを子もまた同じように行なうのです。


ヨハネ8:28

28 それゆえイエスは言われた,「ひとたび人の子を挙げてしまうと,そのときあなた方は,わたしが[その者]であり,わたしが何事も自分の考えで行なっているのではないことを知るでしょう。わたしはこれらのことを,ちょうど父が教えてくださったとおりに話しているのです。
 

コロサイ1:15-17

15 彼は見えない神の像であって,全創造物の初子です。

16 なぜなら,[他の]すべてのものは,天においても地においても,見えるものも見えないものも,王座であれ主権であれ政府であれ権威であれ,彼によって創造されたからです。[他の]すべてのものは彼を通して,また彼のために創造されているのです。

17 また,彼は[他の]すべてのものより前からあり,[他の]すべてのものは彼によって存在するようになりました。


ヘブライ1:1-9

1章
神は,昔には,多くの場合に,また多くの方法で,預言者たちによってわたしたちの父祖に語られましたが,

2 これらの日の終わりには,み子によってわたしたちに語られました。[神]は彼をすべてのものの相続者に定め,また彼を通して事物の諸体制を作られました。

3 彼は[神の]栄光の反映,またその存在そのものの厳密な描出であり,その力の言葉によってすべてのものを支えておられます。そして,わたしたちの罪のための浄めを行なった後,高大な所におられる威光の右に座られました。

4 こうして彼はみ使いたちよりも優れた名を受け継ぎ,それだけ彼らに勝る者となられました。
5 たとえば,み使いたちのうちのだれに[神]はかつてこう言われたでしょうか。「あなたはわたしの子。わたしは,今日あなたの父となった」。また,「わたしは彼の父となり,彼はわたしの子となるであろう」と。

6 しかし,その初子を人の住む地に再び導き入れる際にはこう言われるのです。「そして神のみ使いたちはみな彼に敬意をささげよ」。
7 また,み使いたちについてはこう言われます。「そして[神]はご自分の使いたちを霊とし,自分の公僕たちを火の炎とする」。

8 しかしみ子についてはこうです。「神は限りなく永久にあなたの王座,あなたの王国の笏は廉直の笏である

9 あなたは義を愛し,不法を憎んだ。それゆえに,神,あなたの神は,歓喜の油をあなたの仲間に勝ってあなたにそそがれた」。

更に、
ヨハネ10:30

30 わたしと父とは一つです」。


ヨハネ14:9-11

9 イエスは彼に言われた,「わたしはこれほど長い間あなた方と過ごしてきたのに,フィリポ,あなたはまだわたしを知らないのですか。わたしを見た者は,父を[も]見たのです。どうしてあなたは,『わたしたちに父を示してください』と言うのですか。

10 わたしが父と結びついており,父がわたしと結びついておられることを,あなたは信じていないのですか。わたしがあなた方に言う事柄は,独自の考えで話しているのではありません。わたしとずっと結びついておられる父が,ご自分の業を行なっておられるのです。

11 わたしは父と結びついており,父はわたしと結びついておられると[言う]わたしを信じなさい。そうでなければ,業そのもののゆえに信じなさい。


コリント(二)4:2-15

2 むしろ,わたしたちは恥ずべき隠れた事柄を捨て去ってしまい,こうかつに歩むことなく,また神の言葉を不純にすることもありません。かえって,真理を明らかにすることにより,神のみ前で自分をすべての人間の良心に推薦するのです。

3 そこで,もしわたしたちの宣明する良いたよりに事実上ベールが掛けられているとすれば,それは滅びゆく人たちの間でベールが掛けられているのであり,

4 その人たちの間にあって,この事物の体制の神が不信者の思いをくらまし,神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです。

5 わたしたちは,自分自身ではなく,キリスト・イエスを主として,また自分自身をイエスのためのあなた方の奴隷として宣べ伝えているからです。

6 神は,「光が闇の中から輝き出よ」と言われた方であり,キリストの顔により,神の栄光ある知識をもって明るくするため,わたしたちの心を照らしてくださったのです。
7 しかしながら,わたしたちはこの宝を土の器に持っています。それは,普通を超えたその力が神のものとなり,わたしたち自身から出たものとはならないためです。

8 わたしたちは,あらゆる面で圧迫されながらも,動きが取れないほど締めつけられているわけではなく,困惑させられながらも,逃れ道が全くないわけではなく,

9 迫害されながらも,見捨てられているわけではなく,倒されながらも,滅ぼされているわけではありません。

10 わたしたちは常に,イエスに加えられた致死的な仕打ちを,自分たちの体のいたるところで耐え忍んでいます。わたしたちの体の中でもイエスの命が明らかになるためです。

11 生きているわたしたちは,イエスのために絶えず死に直面させられていますが,それは,わたしたちの死すべき肉体の中でも,イエスの命が明らかになるためなのです。

12 こうして,わたしたちのうちには死が働いていますが,あなた方のうちには命が[働いています]。
13 さて,わたしたちは,「わたしは信仰を働かせた。ゆえに語った」と書かれているのと同じ信仰の霊を持っているので,わたしたちも信仰を働かせ,それゆえに語ります。

14 イエスをよみがえらせた方がイエスと一緒にわたしたちをもよみがえらせ,あなた方と一緒に立たせてくださることを知っているからです。

15 すべての事はあなた方のためなのです。それは,増し加えられた過分のご親切が,さらに多くの人の表わす感謝のゆえに満ちあふれ,神の栄光となるためです。

 
王座、王権

詩編103:19

19 エホバ自ら天にその王座を堅く立てられた。
その王権はすべてのものの上に支配を行なった。

 

真実の神、生ける神、定めのない時に至るまで王

エレミヤ10:10-13

10 しかし,エホバは真実に神である。生ける神,定めのない時に至るまで王である。その憤りのゆえに地は激動し,いかなる国民もその糾弾の下で耐え抜くことはできない。

11 あなた方は彼らにこのように言うであろう。「天をも地をも造らなかった神々は,地からもこの天の下からも滅びうせる者となる」。

12 [神]はその力によって地を造った方,その知恵によって産出的な地を堅く立てた方,その理解によって天を張り伸ばした方である。

13 [神]は[その]声によって天に水の騒ぎを与え,地の果てから蒸気を上らせる。[神]は雨のために水門溝をも造られた。そしてご自分の倉から風を出される。

 

ダビデの調べ。

詩編15:1-3
エホバよ,だれがあなたの天幕の客となるのでしょうか。
だれがあなたの聖なる山に住むのでしょうか。
 2 それは,とがなく歩み,義を行ない,
その心に真実を語る人です。
 3 その人は舌で中傷したことがありません
自分の友に何も悪いことをしたことがなく,
親しい知り合いに対するそしりを取り上げたこともありません
 4 彼の目には卑しむべき者は必ず退けられ,
彼はエホバを恐れる者たちを敬います。

 

全能者なるエホバ神

出エジプト6:2―3

2 そして神はモーセにさらに話してこう言われた。「わたしはエホバである。

3 そしてわたしは,アブラハム,イサク,ヤコブに対し常に全能の神として現われたが,わたしの名エホバに関しては自分を彼らに知らせなかった。

 

啓示19:6

6 またわたしは,大群衆の声のような,多くの水の音のような,そして激しい雷の音のようなものを聞いた。彼らはこう言った。「あなた方はヤハを賛美せよ。全能者なるわたしたちの神エホバは,王として支配を始められたからである。

 

とこしえの王

テモテ(一)1:15-17

15 キリスト・イエスが罪人を救うために世に来られたとは,信ずべく,また全く受け入れるべきことばです。わたしはそうした[罪人]の最たる者です。

16 それなのにわたしが憐れみを示されたのは,わたしの場合を最たる例としてキリスト・イエスがその辛抱強さの限りを示し,永遠の命を求めて彼に信仰を置こうとしている人たちへの見本とするためだったのです。
17 では,朽ちることがなく,[人が]見ることのできないとこしえの王,唯一の神に,誉れと栄光が限りなく永久にありますように。アーメン。

 

詩編96:1-5
96章
エホバに向かって新しい歌を歌え。
地のすべて[の者]よ,エホバに向かって歌え。
 2 エホバに向かって歌い,そのみ名をほめたたえよ。
日から日へとその救いの良いたよりを告げよ。
 3 諸国民の中でその栄光を,
もろもろの民すべての中でそのくすしいみ業を告げ知らせよ。
 4 エホバは大いなる方,大いに賛美されるべき方だからである。
[ほかの]すべての神々に勝って畏怖の念を起こさせる方である。
 5 もろもろの民の神々はみな無価値な神だからである。
しかしエホバは,まさしく天を造られた。

 

これらの聖句から、

神エホバは「神聖」であり「神性」であるのに対して、神の独り子であるイエス・キリストは「神性を備えた」存在と言えます。

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神性=神の特質とはどういうことでしょうか?
創世記17:14-17

14 そして,自分の包皮の肉に割礼を受けない無割礼の男子,そのような魂は民の中から断たれねばならない。その者はわたしの契約を破ったのである」。
15 神はアブラハムになおもこう言われた。「あなたの妻サライについては,あなたはその名をサライと呼んではならない。サラがその名となるのである。

16 そしてわたしは彼女を祝福し,また彼女によってあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福し,彼女は幾つもの国民となる。もろもろの民の王たちが彼女から出るであろう」。

17 これを聞いてアブラハムはうつ伏し,笑いながらその心の中でこう言った。「百歳の人に子供が生まれるだろうか。それにサラが,そう,九十歳にもなる女が子を産むだろうか」。

 

 参考イザヤ9:6-7

 6 わたしたちのためにひとりの子供が生まれ,わたしたちにひとりの男子が与えられたからである。

 君としての支配がその肩に置かれる。そして彼の名は,“くすしい助言者”,“力ある神”,“とこしえの

 父”,“平和の君”と呼ばれるであろう。

 7 ダビデの王座とその王国の上にあって,君としてのその豊かな支配と平和に終わりはない。それは,

 今より定めのない時に至るまで,公正と義とによってこれを堅く立て,支えるためである。実に万軍の

 エホバの熱心がこれを行なう


出エジプト20:5-6

あなたの神であるわたしエホバは全き専心を要求する神であり,わたしを憎む者については父のとがに対する処罰を子にもたらして三代,四代に及ぼし,

6 わたしを愛してわたしのおきてを守る者については愛ある親切を千代にまで施すからである。


出エジプト34:4-7

4 そこでモーセは初めのものと同じような石の書き板二枚を切り出し,朝早く起きて,エホバが命じたとおりシナイ山に上って行った。その手に石の書き板二枚を携えていた。

5 するとエホバは雲のうちにあって下って来られ,彼と共にそこに立ち,エホバの名を宣明された。

6 そしてエホバは彼の顔の前を過ぎ行きつつ,こう宣明された。「エホバ,エホバ,憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ちる神,

7 愛ある親切を幾千[代]までも保ち,とがと違犯と罪とを赦す者。しかし,処罰を免れさせることは決してせず,父のとがに対する処罰を子や孫にもたらして,三代,四代に及ぼす」。

全能(力の表現)
啓示4:8
8 また,その四つの生き物は,その各々にそれぞれ六つの翼があり,周りも下側も目でいっぱいである。そして彼らは昼も夜も休むことなくこう言う。「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,全能者なるエホバ神,かつておられ,今おられ,これから来られる方」。

公正と義
イザヤ28:17

17 そして,わたしは公正を測り綱とし,義を水準器とする。

(公正とは、測り綱=ものさし=法や規則に合っているかどうかを計るもの
 義とは、水準器=上下前後左右のバランスを見るもの=偏らない、差別をしないこと)

イザヤ56:1-2

エホバはこのように言われた。「あなた方は公正を守り,義にかなったことを行なえ。わたしの救いは今にも到来し,わたしの義は[今にも]表わし示されるからである。

2 死すべき人間でこれを行なう者は幸いである。それをとらえ,安息日を守ってこれを汚さないようにし,自分の手を守ってどんな悪をも行なわないようにする人間の子は[幸いである]


(公正を守り=おきて、命令、法令、司法上の定め、規則を守ること。
 義にかなったことを行う=行動や振る舞いを指している。)

 

参考: 

 身に付けるもの=イザヤ59:17-18

 17 それから,義を小札かたびらのように身に着け,救いのかぶとを頭にかぶられた。さらに,復しゅう

 の衣を衣服として身に着け,熱心をそでなしの上着であるかのようにして身を包まれた。

 18 [神]はその仕打ちに応じて,それに相応する報いを施される。敵対者には激しい怒りを,敵には当

 然の仕打ちを。島々には当然の仕打ちをもって返報される。
   

 義の胸当て=エフェソス6:10ー14

 10 終わりに,主にあって,またその力の強大さによって強くなってゆきなさい。

 11 悪魔の策略にしっかり立ち向かえるように,完全にそろった,神からの武具を身に着けなさい。

 12 わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく,もろもろの政府と権威,またこの闇の世の支

 配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するものだからです。

 13 このゆえに,完全にそろった,神からの武具を取りなさい。あなた方が,邪悪な日にあって抵抗でき

 るように,また,すべての事を徹底的に行なった後,しっかりと立てるようにするためです。
 14 それゆえ,真理を帯として腰に巻き,義の胸当てを着け,

 15 平和の良いたよりの装備を足にはき,こうしてしっかりと立ちなさい。

 16 何よりも,信仰の大盾を取りなさい。あなた方はそれをもって,邪悪な者の火矢をみな消すことが

 できます。

 17 また,救いのかぶと,それに霊の剣,すなわち神の言葉を受け取りなさい。

 18 それと共に,あらゆる祈りと祈願をもって,すべての機会に霊によって祈りなさい。そのために,決

 してたゆむことなく,またすべての聖なる者たちのために祈願をささげつつ,終始目ざめていなさい

 19 そして,わたしのためにも[祈ってください]。わたしが口を開くときに話す能力を与えられ,はば

 かりのないことばで良いたよりの神聖な奥義を知らせることができるようにするためです。

 20 その[良いたより]のために,わたしは鎖につながれた大使となっています。わたしがそれについ

 て,当然の大胆さをもって語れるようにと[祈ってください]。

   

神の人格的特質

ローマ1:17-32

17 信仰のゆえに,また信仰のために,神の義がその中に啓示されているのです。「しかし義なる者―その者は信仰によって生きる」と書かれているとおりです。
18 神の憤りは,不義な方法で真理を覆い隠している人々のあらゆる不敬虔と不義とに対して,天から表わし示されているのです。

19 神について知りうる事柄は彼らの間で明らかだからであり,神がそれを明らかにされたのです。

20 というのは,[神]の見えない[特質],すなわち,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言い訳ができません。

21 彼らは,神を知りながら,それに神としての栄光を付さず,また感謝せず,その推論するところにおいて無能な者となり,その悟りの悪い心は暗くなったのです。

22 自分は賢いと唱えながら,彼らは愚かとなり,

23 不朽の神の栄光を,朽ちる人間の,また鳥や四つ足の生き物やはうものの像のようなものに変えました。
24 そのため神は,彼らをその心の欲望に合わせて汚れに渡し,彼らの体が彼ら自身の間で辱められるようにされました

25 すなわちそれは,神の真理を偽りと換え,創造した方より創造物をあがめてそれに神聖な奉仕をささげた者たちです。[創造した]方こそ永久にほめたたえられるのです。アーメン。

26 このゆえに神は,彼らを恥ずべき性欲に渡されましたその女性は自らの自然の用を自然に反するものに変え,

27 同じく男性までが女性の自然の用を去り,互いに対し,男性が男性に対して欲情を激しく燃やし,卑わいな事柄を行なって十分な返報を身に受けました。それは彼らの誤りに対して当然なものです
28 そして,ちょうど彼らが正確な知識をもって神を奉ずることをよしとはしなかったように,神も彼らを非とされた精神状態に渡して,不適当な事柄を行なうにまかされました。

29 彼らがあらゆる不義・邪悪・強欲・悪に満たされ,ねたみ・殺人・闘争・欺まん・悪念に満ち,ささやく者,

30 陰口をきく者,神を憎む者で,不遜,ごう慢,またうぬぼれが強く,有害な事柄を考え出す者,親に不従順な者であり,

31 理解力がなく,合意したことに不誠実で,自然の情愛を持たず,憐れみのない者であったからです。

32 こうした事を習わしにする者は死に価するという,神の義なる定めを十分に知りながら,彼らはそれを行ないつづけるだけでなく,それを習わしにする者たちに同意を与えてもいるのです。

 

ダニエル7:9-10

9 「わたしがずっと見ていると,ついに幾つかの座が置かれ,日を経た方が座られた。その衣服は雪のように白く,その頭の毛は清らかな羊毛のようであった。その方の座は火の炎,その車輪は燃える火であった。

10 火の流れが流れていて,その方の前から出ていた。その方に仕えている者は千の数千,その方のすぐ前に立っている者は一万の一万倍いた。法廷は座に着き,幾つかの書があって,それが開かれた

 

ヘブライ12:22

22 しかしあなた方は,シオンの山,生ける神の都市なる天のエルサレム,幾万ものみ使いたち,

23 [すなわちその]全体集会,天に登録されている初子たちの会衆,すべてのものの裁き主なる神,完全にされた義人たちの霊的な命,

24 新しい契約の仲介者であるイエス,そして,アベル[の血]よりさらに勝った仕方で語る振り注ぎの血に近づいたのです。

 

イザヤ40:10-14

10 見よ,主権者なる主エホバご自身が強い者として来られ,そのみ腕はご自分のために支配を行なうのである。見よ,その報いは[神]と共にあり,その支払う賃金はそのみ前にある。

11 [神]は羊飼いのようにご自分の群れを牧される。そのみ腕で子羊を集め,[それを]その懐に抱いて携えて行かれる。乳を飲ませるものたちを[注意深く]導かれる
12 だれがただの手のくぼみで水を量り,単なる手尺で天を測定し,地の塵を升に盛り,あるいは山を計量器で,丘をはかりで量ったか。

13 だれがエホバの霊を測定したか。だれがその助言者として[神]に何かを知らせることができようか。

14 [神]はだれと一緒に協議したので,その者が[神]に理解させることができたというのか。だれが[神]に公正の道筋を教え,知識を教え,真の理解の道を知らせるのか。
 

ローマ11:19-36

19 ここであなたは言うでしょう,「わたしが接ぎ木されるために枝は折り取られたのだ」と。

20 そのとおりです! 彼らは信仰の欠如のゆえに折り取られ,一方あなたは信仰によって立っているのです。高ぶった考えを抱かず,むしろ恐れの気持ちでいなさい。

21 神が本来の枝を惜しまなかったのであれば,あなたを惜しまれることもないからです。

22 それゆえ,神のご親切と厳しさとを見なさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあります。一方あなたに対しては神のご親切があります。ただし,あなたがそのご親切のうちにとどまっていればのことです。そうでないと,あなたも切り落とされることになります。

23 また彼らも,信仰の欠如のうちにとどまっていなければ,接ぎ木されることになるのです。神は彼らを再び接ぎ木することができるからです。

24 というのは,あなたが本来野生のオリーブの木から切り取られ,自然に反して園のオリーブの木に接ぎ木されたのであれば,まして,本来それに属するこれらのものは自らのオリーブの木に接ぎ木されるはずだからです。
25 兄弟たち,あなた方が[ただ]自分の目から見て思慮深い者とならないために,わたしはあなた方がこの神聖な奥義について無知でいることがないようにと願うのです。すなわち,諸国の人たちが入って来て[その人たちの]数がそろうまで,感覚の鈍りがイスラエルに部分的に生じ,

26 こうして全イスラエルが救われることです。まさに書かれているとおりです。「救出者がシオンから出て,不敬虔な習わしをヤコブから遠ざける。

27 そして,わたしが彼らの罪を取り去る時,これが彼らに対するわたしの契約である」。

28 確かに,良いたよりについて言えば,彼らはあなた方の益のために敵となっていますが,[神の]選びについて言えば,彼らはその父祖たちの益のために愛されています。

29 神の賜物と召しとは,[神]が悔やまれる事柄ではないからです。

30 あなた方がかつては神に不従順で,今は彼らの不従順のゆえに憐れみを受けているのと同じように,

31 彼らがいま不従順になってあなた方に憐れみが及んでいても,それは彼ら自身も今や憐れみを受けるためなのです。

32 神は彼らすべてを共に不従順のうちに閉じ込め,こうしてそのすべてに憐れみを示そうとされたのです。
33 ああ,神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは何と探りがたく,その道は[何と]たどりがたいものなのでしょう。

34 「だれがエホバの思いを知るようになり,だれがその助言者となったであろうか」,

35 また,「だれがまず[神]に与えてその者に報いがされなければならないようにしただろうか」とあるのです。

36 すべてのものは[神]から,また[神]により,そして[神]のためにあるからです。[神]に栄光が永久にありますように。アーメン。

(参考:

 接ぎ木された「園のオリーブの木」は既に満たされており、更にこれに「接ぎ木」されることはあ

 りません。

 つまり、現代においては、いわゆる14万4000人の残りの者は存在していないということです。

 したがって、

 ものみの塔の「統治体」は偽り者の存在なのです。

 彼らは、いわゆる天的な存在ではないのです。)
・・・・

上記に示した、神とその特質は、余りにも人間から遠い存在であり「偉大」なものです。

従って、人間は神やイエスのようにはなれません

しかし、神やイエスに「倣う」ように「努力」することは出来ます。

 

神はこのような者を喜ばれるのです。   

知恵を求める人のためのブログです。

一般的には不可能ですが、

もし、完全に近づきたければ、まず「完全とはどういうことなのか」ということのすべてを理解する必要があります。

一般的な概念で完全とは「すべて備わっていて、足りないところのないこと。欠点のないこと。すべてに及ぶこと」と定義されています。
こう考えると、人間にとって完全は不可能であり、完全とは幻想に過ぎないということになります。
つまり、「現実的でないこと、有り得ないこと」の代わりとして口にしているということになります。

完全という言葉に近い言葉に完璧という言葉があります。 

一般的な概念で完璧とは「欠点がなく、すぐれてよいこと。完全無欠」などと定義されています。

 

完全と言う言葉はどちらかというと「否定的」な意味で用いることが多いものです。

「完全なんて有り得ない」「完全とは言えない」「完全な人間はいない」と言うように。

それでも、

「完全な勝利」「完全に揃った」「完全な形」「完全に分かった」などと言う時もあります。

これらの場合、完全の代わりに完璧という語を用いる時もありますが、どちらでも「さほど」意味は変わりはありません。

抽象的な用い方もありますが大抵動作が関係しています。

 

一方、完璧という言葉は「肯定的」な意味で用いられることが多いものです。

「完璧に出来た」とか「完璧な○○だった」「誰々は完璧だ」「彼の演技は完璧だった」などと言うように。

大抵結果を表現する言葉となっています。

   

ある動作などに関して「完璧」という言葉を用いる時には、例えば「完璧な演技」とはどういうことかを理解しているからそう言えるものです。

これに対して、

「完全な演技」と言うと「?????(何、分からない)」ということになってしまいます。

完璧とはある限られた事柄に関する完全性だからです。
例えば、
数学のある二次方程式を解いたら、それは、完璧です。
他に解は存在しないからです。

これは、数(=実数と複素数)すべてに当てはまります。
しかし、その二次方程式はすべての二次方程式の解を備えている訳ではありませんし、実際そのような二次方程式は存在しません。
つまり、完全な二次方程式は「存在しない」のです。

アインシュタインは、ニュートンが発見した「万有引力の法則」のような完全な方程式」を追求したのです。
それが相対性理論だったのです。
しかし、
その相対性理論も、量子論が出て来てから「様相が変化」しました。
これは、物質の外の世界の理論(相対性理論)と物質の内部の理論(量子理論)の違いなので、互いに相容れない部分があるのです。
ですから、両方とも「完全な方程式」とは言えません。

ネジなどを規格通り精密に、1万分の1㎜の精度で作ったら、そのネジは完璧な部品であり、その仕事は完璧であると言えます。
普通、その部品を完全な部品とは言いません。
また、
その完璧な部品が加工製品に用いられても、その製品は完璧であるとは限りません。

現実にはそれ程の精度を必要としていませんから、そういう精密機械は存在しません。
大抵は許容範囲というのがあって、その範囲内の誤差であれば良いとされます。

それでも、最近では半導体の製造機械はミクロを通り越してナノnの精度の世界に入っています。
ナノnとは10の-9乗のことです。
mが㎝でも㎜でも同じです。
これが、更に×10の2乗、×10の3乗になるだけです。
また、ピコp=10の‐12乗m=10の-9乗㎜ となります。
これは、1億分の1m、あるいは、の1兆分1㎜という単位のことです。

こうした技術により、外見上は小さな部品ですが中には膨大な回路が組み込まれているCPUやメモリーが作られているのです。
勿論、人間の手作業では不可能です。

部品の精度に関しては完璧と言えても、組み込まれている回路とその働きが完璧とは限りません。

日本人は、何となくではありますが完全と完璧は使い分けています

例えば、普通、完璧な投球とは言いますが、完全な投球とは言いません。

ある意味、三球三振に取れば完璧な投球と言えるかも知れません。

しかし、完全な投球とはと言われるとそれがどのようなものかは誰にも「確定」出来ないものです。

いろんな投球パターンが考えられるので一つには決められないということです。

 

また、完全試合とは言いますが完璧な試合とは異なる意味で用います
完全試合とはランナーを一人も出さずに勝った試合のこと(引き分けでは言いません)ですが、

完璧な試合だったとは、必ずしもランナーを出さなかった訳ではありませんし、試合に勝つとは限らないということです。

 

余り、良い例えがなかったので、

非常に分かりにくい説明となってしまいました。


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繰り返しますが、
完全」と「完璧」の違いについて。
一般的には
「完全」とは「すべてが備わっていて、足りないところがないこと。欠点が無いこと。すべてに及ぶこと

「完璧」とは「欠点がなく、すぐれて良いこと。」

です。


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参考
聖書の中では完全という言葉は132回出て来ますが、完璧という言葉は出て来ません
ただ、完全という言葉の注釈や参考として完璧となっている場合があります。

 

完全と完璧の用語について。

ヘブライ語(旧約聖書)

完全=שָׁלוֹם Shalom

完璧=שְׁלֵמוּת  shemlemut

 

ギリシャ語では、

完全=πλήρης   plíris

完璧=τελειότητα  teleiótita

 

英語翻訳のもとになったラテン語では、

完全=completum

完璧=perfectum

 

英語では、

完全=Complete

完璧=perfection

 

それぞれ異なる語があることが分かります。

従って、用い方も異なるものです。

 

しかし、ある聖書では、
エゼキエル書のある部分で、完全を完璧とされているものもあります。
ソロモンの歌のある部分で、とがめがないを完璧とされているものもあります。

つまり、完璧という言葉をある聖書では、「完全あるいはとがめがないこと」とは使い分けているということです。

完全と完璧は似たような意味合いがありますが、言葉の用い方としては違いがあるのです。


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参考

普通、完璧な演技とは言いますが、完全な演技とは言いません。
完璧な演技というものは存在しても、完全な演技というのは存在しないからです。

 

完璧な演技とは
予め示された演技を少しも咎められるところが無いまでに演技することです。
つまり、ある限定された事柄についての完全さを完璧と言っているということです。

しかし、「完全」というとそれは限定されていない事柄について、つまり、すべてにおいて咎められるところがないことということを意味しているのです。

例えば、
真の神エホバは、完全であって完璧ではないのです。
真の神エホバは全能、つまり、almightyなのです。

参考:申命記32:4

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聖書の中で、
モーセが神の名を尋ねた時、神は自分のことを「なるところのものとなる」という表現をしました。
出エジプト記3章
13 それでもモーセは[まことの]神に言った,「わたしが今イスラエルの子らのもとに行って,『あなた方の父祖の神がわたしをあなた方のもとに遣わした』と言うとしても,『その方の名は何というのか』と彼らが言うとすれば,わたしはこれに何と言えばよいでしょうか」。
14 すると神はモーセに言われた,「わたしは自分がなるところのものとなる」。そしてさらに言われた,「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『わたしはなるという方がわたしをあなた方のもとに遣わされた』」。
15 そののち神はもう一度モーセに言われた,
「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『あなた方の父祖の神,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神エホバがわたしをあなた方のもとに遣わされた』。これは定めのない時に至るわたしの名,代々にわたるわたしの記念である。
-出エジプト3:13-15

この「なるところのものとなる」という意味は、裏を返せば「神が行うことで為し得ないことは一つも無い」ということであり、
すなわち全能ということです。

更には、「傷も汚点もない状態」「不正なところは少しもない、義であり、廉直である」という意味で用いられている場合もあります。

イエスが弟子たちに完全であることを求めました。、
48 ですから,あなた方は,あなた方の天の父が完全であられるように完全でなければなりません
-マタイ5:48
イエスの言われた完全という言葉は「信仰」において「傷も汚点もない状態を保たなければならない」という意味で用いられたのです。

また、
完全」とは「全部、すべて」という意味も含まれています。
40 生徒は教師より上ではありませんが,すべて完全に教え諭された者は自分の教師のようになるのです。
-ルカ6:40

参考

エフェソス5章
21 キリストへの恐れをもって互いに服し合いなさい。
22 妻は主に対するように自分の夫に服しなさい。
23 夫は妻の頭だからです。それは,キリストが会衆の頭であり,[この]体の救い主であられるのと同じです。
24 そうです,会衆がキリストに服しているように,妻もすべての事において夫に[服し]なさい。
25 夫たちよ,妻を愛し続けなさい。キリストが会衆を愛し,そのためにご自分を引き渡されたのと同じようにです。

26 それは,[会衆]を神聖なものとし,み言葉による水の洗いをもってそれを清めるため,
27 そして,輝かしいばかりの会衆をご自身のもとに立たせ,こうしてそれが,汚点やしわ,またそうしたものの何もない,神聖できずのないものとなるためでした。
-エフェソス5:21-27

夫も、妻もキリストに倣うことが「神性できずのないもの」となるための条件だということです。

 これは、信仰における「完全」を意味します。)

テモテ(一)の手紙
14 わたしたちの主イエス・キリストの顕現の時まで,汚点のない,またとがめられるところのない仕方でおきてを守り行ないなさい。
-テモテ(一)6:14

ヤコブの手紙
27 わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです。
-ヤコブ1:27

ペテロ(二)の手紙
8 しかし,愛する者たちよ,この一事を見過ごしてはなりません。エホバにあっては,一日は千年のようであり,千年は一日のようであるということです。
9 エホバはご自分の約束に関し,ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです
10 しかし,エホバの日は盗人のように来ます。そのとき天は鋭い音とともに過ぎ去り,諸要素は極度に熱して溶解し,地とその中の業とはあらわにされるでしょう。
11 これらのものはこうしてことごとく溶解するのですから,あなた方は,聖なる行状と敬虔な専心のうちに,
12 エホバの日の臨在を待ち,[それを]しっかりと思いに留める者となるべきではありませんか。その[日]に天は燃えて溶解し,諸要素は極度に熱して溶けるのです。
13 しかし,[神]の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります。
14 それゆえに,愛する者たちよ,あなた方はこれらのものを待ち望んでいるのですから,最終的に汚点もきずもない,安らかな者として見いだされるよう力を尽くして励みなさい
15 さらに,わたしたちの主の辛抱を救いと考えなさい。それはわたしたちの愛する兄弟パウロも,自分に与えられた知恵にしたがってあなた方に書いたとおりです。
16 彼は[その]すべての手紙の中でしているように,これらのことについて述べているのです。しかし,[彼の手紙]の中には理解しにくいところもあって,教えを受けていない不安定な者たちは,聖書の残りの部分についても[している]ように,これを曲解して自らの滅びを招いています。
17 したがって,愛する者たちよ,あなた方はこのことをあらかじめ知っているのですから,無法な人々の誤りによって共に連れ去られ,自分自身の確固たる態度から離れ落ちることのないように用心していなさい。
18 そうです,むしろ,わたしたちの主また救い主なるイエス・キリストの過分のご親切と知識において成長しなさい。この方に,今も,またとこしえの日に至るまでも栄光が[ありますように]。
-ペテロ(二)3:8-18

以上のことから、
完全とは
人間に関して用いる時には、「傷も汚点もない状態」「不正なところは少しもない、義であり、廉直である」という意味になります。
これは「神聖できずのないもの」という意味でもあります。
イエスが弟子たちに言われた完全とは、信仰において傷も汚点もないという意味なのです。

従って、
「すべて」において、「傷も汚点もない」「不正なところは少しもない、義であり廉直である」「神聖できずのないもの」ということが「完全」という言葉に含まれているのです。

完全という言葉が用いられていても、おのおの状況によって意味に多少の違いがあるということも分かりました。

真のイエス・キリストの弟子たちには「傷も汚点もない状態」「不正なところは少しもない、義であり、廉直である」こと、すなわち「完全」が求められているのです。

ですが、これを完璧に行うことの出来る人は一人もいません
ですから、イエスのこの言葉は「努力目標」だということです。
イエスは言われました。
「狭い戸口を通って入るため、精力的に励みなさい。あなた方に言いますが、入ろうと努めながら入れない者が多いからです」
-ルカ13:22-27

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人間的な観点から完全ということを考えて見ますと、
ある程度の許容、あるいは、寛容さがあれば、物事は「やり易い」ものとなるということは言うまでもないことです。

であれば、
人に対しては必ずしも完璧も完全も求める必要はないということです。
むしろ、人に完全や完璧を求めることは
人の行いを極限まで制限するということでもあり、絶対に失敗を許さないということでもあります。

実際、こうしたことは、不可能であり窮屈極まりないことです。
誰も、こうした生き方をしたいとは思いません

今、人間に許されている「自由」はこうした点における「寛容さ」「許容」の上に成り立っているのです。

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傷や汚点ということから考えますと、
例えば、アダムは創造された時完全でした。
それが、神の命令に違反したことで完全性を失い、いわば、傷物になったのです。
この傷はその後の子孫全体に遺伝され今日に至っています。

唯一完全だったと言えるのは、神の力によって天での命を人間の胎内に移し誕生させられたイエス・キリストです。

 

では、完全だったイエスはどういう存在だったのでしょうか?
その完全性は知識においてですか?、それとも肉体においてですか?、それとも精神においてですか?
それとも思考や感情においてですか?
それとも話すことや行動においてですか?

完全な人は食べることも寝ることも休むことも必要ないのでしょうか?

実際、イエスは食べることも休むこともしています
おそらく、ぶどう酒も飲んだと思われます。
空腹も感じています。
自分を殺そうと企んでいる人々から逃げてもいます(これは恐れから逃げたのではありません。彼らを滅ぼすことも出来ましたが、まだその時が来ていなかったので「避けた」のです)

イエスの完全性は、神への崇拝に関しても、世での生活に関しても「傷も汚点もない」という点で示されました。
イエスが病気やケガをしたという記録はありません。
が、犠牲の死を遂げられています
つまり、完全であれば死なないということでもないということです。
肉体としては、普通の人間と同じだったのです。

繰り返しますが、
人は、イエスを模範として人間という肉体(不完全な体)を持ちながら「傷も汚点もない状態を保つ」努力をする必要があるということです。

これが、

信仰における「完全」性ということです。

あなたはどう思いますか?

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ここまで来ればある程度完璧と完全の違いが理解出来ると思います。
人間に対しては、
完璧とは欠点がなく優れて良いことと定義されていますが、
完全と言う言葉には、

「全部、すべて」という意味に付け加えて、

「汚点やしわ,またそうしたものの何もない,神聖できずのないこと」

「汚点のない,またとがめられるところのないこと」

「自分を世から汚点のない状態に保つこと」

という意味があるということです。

 

に対しては、

申命記32:4 

「岩なる方,そのみ業は完全,そのすべての道は公正である。
 忠実の神,不正なところは少しもない。
 義であり,廉直であられる。」

 

エホバは、欠点がなくすべてが備わっていて足りないところが無い神です。

almighty、つまり、全能なのです。

神における完全とは、「為し得ないことが何も無いこと」です。

-マタイ19:24-26、創世記18:14

(ただし、神は「偽ることは出来ない」と言われています。

「偽ることの出来ない神」-テトス1:2

「神が偽ることのできない二つの不変の事柄によって」-ヘブライ6:18

とあるように、

これは、神の「約束」(預言を含む)と「誓い(宣言)」に関してです。

神が不完全ということではありません。

むしろ、神の完全性を強調するものとなっているのです。)

 

知恵を求める人のためのブログです。

古代に於いて、神秘的な出来事が生じたのは事実かも知れません。
それは、人間には「知られざる能力」あるいは「秘められた能力」更には「霊感」があるからです。

 

(ただし、霊感は、その能力がすべての人間に備わっていても、その「」は自分では開けないので

 す。

 神のみがそれを可能にするのです。

 読者はこの点を注意して読んで下さい

 人が「霊感」があると言っても、それが「神からのものではない」場合があるからです。)

聖書の中にも霊媒が出て来ます。
また、

ある民族にも霊媒や祈祷師やシャーマンなどの存在があります。

日本でも、霊媒師や祈祷師などの存在が伝えられています。
昔ほど信じられてはいませんが現代でも存在しています。
その代表的なものが、青森県下北半島の恐山にいる「いたこ」と言われる存在です。
この「いたこ」は死者の霊の「口寄せ」をすると言われています。
つまり、あたかも既に亡くなった人が「語っている」かのように話すのです。

聖書の中に出て来るイスラエルの最初の王サウルが霊媒師を通して「祭司だったサムエル」に事の次第を訪ねている場面が出て来ます。
-サムエル(一)28:3-19
この記述を読むと、死んだサムエルが霊媒を通してサウルの前に現れサウルが尋ねたことに応えたことになっています。
しかし、この記述ではサムエルについて“サムエル”となっていて、本当のサムエルではないことが示唆されています。
実際に霊媒を通して語ったのは、亡くなったサムエルの霊ではなく、悪霊がこの霊媒に「語らせた」というのか真実です。

現代は、学校教育で様々なことを学習し、それが多くの人の思考の原点ともなっています。
科学中心の現代に於いて、こうしたことは「有り得ない」こととして常識のようになっています。
余程悩んだ人が「藁をもすがる思いで【霊媒や占い師】に尋ねる」ことはあっても、普通は決して近づこうとはしないものです。
なぜなら、「気味が悪い」からです。
常識では考えられない「不可思議」なことであり、実際、何をされるか分からないからです。

しかし、科学が発達する以前の知識が限られた時代では「迷信」が信じられていたことも事実です。

参考

 崇拝において「犠牲」を捧げることは世界中の様々な宗教に見られる行為です。

 その時、殆どの場合、「霊媒や祈祷師や占い師」などが行います。 

 聖書では律法に示されているように祭司が動物の犠牲を神に捧げますが、
 古代に於いて、ある地域では、動物だけではなく「人間」を犠牲として捧げることもあります。
 日本でも神話の中の出来事として、あるいは、江戸時代などに「人身御供う」とされた人がいたこ

 とは事実です。
 現代に於いて、人間が犠牲にされたら「世界中から非難」が殺到します。

 

 ちなみに、

 神への崇拝には犠牲捧げ物が付き物です。

 その犠牲は人、動物、物であるものです。

 一方、

 仏教では犠牲としてではなく「供養」として物やお金を捧げることはあります。

 供養とは、 仏(=亡くなった人)や菩薩(高い霊性を備えたとされる架空の存在)に食べ物や花を

 供え、心を込めて尊敬の念を示すことだと言われています。

 更には、「修練」を行い「自分の霊性を高める」ということもします。

 いわゆる修行や比叡山で行われている千日回峰行などです。

 しかし、

 それによって「霊感」が得られるということではありません

 仏教では、悪いことは「消し去る」ことが多く、大抵の場合、それは「焼却」つまり燃やすことで

 行われます。)

科学の時代は理知の時代でもあります。
しかし、昔は神秘的な出来事が信じられた時代です。
分からない不思議な出来事を、悪霊の仕業だとか誰かの呪いだとか神罰だなどと「勝手な憶測」が噂となり、
それが信じられて来たことが殆どです。
そして、おそらく「奇跡的な出来事」「不思議な現象」は実際に起きたと「思われます」
そうした、偶然の出来事や自然の出来事を「祟り」だなどと言ったのです。

 

一般的に、

「悪い出来事」は「悪魔、悪霊」の仕業と考え、

「善い出来事」は「神」の仕業と考えるものです。

また、様々な願いは「神」にするものです。

気持ちは分かりますが、どれも「真実」あるいは「真理」から離れています。

聖書の中では霊媒師や出来事の職業的予告者(ある意味、予言者)たちは「忌み嫌われ」除かれています。
それは、彼らと彼らの行為そのものが真の神に敵対することであり、時には「悪霊」が関与している場合」があるからです。

現代では殆どの人が科学や人間の理知を信じ、それによって生きていますから、こうしたことの「影響」を受けることが殆どないように思われています

悪霊たちが天から追放されて「地の近く」に投げ落とされたとしても、【直接には】人間に影響を与えることは出来ないかも知れません。-啓示12:7-9
ノアの大洪水前に「人間の姿」をして地上に現れましたが、その後は許されていないのでこうしたことは起きないのです。-創世記6:1-2、ペテロ(二)2:4

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しかし、悪霊に関することと人間の霊感とは別の問題です。
現代でも、例えば人間が大勢集まって「同じ思い」で強力に結ばれると「何らかの霊的な力」を発揮する場合、可能性があるのです。
これは「空気感」などと言う時がありますが、ある種の「霊感」と言えるものです。
これは必ずしも悪霊的なことではありません

参考:これと似たような出来事があります。
ご存じの方も多いと思いますが「コックリさん」とは一枚の紙に「はい」「いいえ」「五十音」などを書き、その上に硬貨を乗せ数人が人差し指を添えて質問をするとひとりでに硬貨が動くという占いの一種。 
日本では狐の霊を呼び出す降霊術の一種という説が一般的で、「狐狗里(こっくり)」という字を充てられることが多い。というものです。

世界には非常に危険な「降霊術」なるものが存在しています。
日本の降霊術または交霊術一覧
コックリさん、ひとりかくれんぼ、百物語
海外の降霊術または交霊術一覧
ウィジャボード、スリーキングス、ブラッディ・メアリー、ドライ・ボーンズ、ミッドナイトゲーム
などがあります。)

一人の霊感の強い人間がいても不思議はありません
ただし、
そこに悪霊が付け入る「」が出来ることを忘れてはなりません。

しかし、神がそのような者とコンタクトを取る必要も理由もないことを知っておく必要があります。

悪霊的ではありますが、人間の霊感は確かに「存在」するのです。
その一端は「直感」などです。

理由は分かりませんが、なぜか「そのように感じる」時というものは誰にもあることです。
ある種の霊感なのです。

もしかすると、神がそのように思わせたのかもしれません

そして、過去において実際に神がこれを「用いられた」ことも事実です。
それは「預言」「」「」という形で示されています。

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個人的な考えとして、
すべての人間には「霊感」が備わっていると考えています。
しかし、それが出現するのは脳の病気かケガによるものか、あるいは、神による場合です。

すべての人間には「神と交信する霊感」というものが備わっているのす。
-エゼキエル1:1、使徒7:55-56

すべての人間というより、すべての「生き物」と言った方が正しいです。
なぜなら、
神は、カラスやイナゴなどでさえ「自在にコントロール」出来るからです。

神は「必要なら人間の心や考えさえ「変えることが出来る」のです。
実際、ヨハネへの啓示の書に出て来る「野獣」に「大いなるバビロンの正体である娼婦」を「焼き尽くす」ように「一つの考え」遂行するようにされるからです。-啓示17:15-17

こうしたことは、

いわゆる「神による霊感の表現」の一つなのです。

特に、預言や幻や夢などは「神による啓示」とも呼ばれています。

 

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参考:霊感に関する聖書による「注意

コリント(一)12:4-11

12章

4 さて,賜物はさまざまですが,霊は同じです。

5 奉仕の務めはさまざまでも,主は同じです。

6 働きはさまざまでも,すべての人の中であらゆる働きをされる神は同じです。

7 しかし,霊の顕現は,有益な事柄を目的として各々に与えられます。

8 たとえば,ある人には霊によって知恵のことば,ある人には同じ霊にしたがって知識のことば,

9 ある人には同じ霊によって信仰,ある人にはその一つの霊によっていやしの賜物,

10 さらにある人には強力な業の働き,ある人には預言すること,ある人には霊感のことばを識別する力,ある人には種々の異言,そしてある人には異言を解釈する力が与えられています。

11 しかし,これらのすべての働きを同一の霊が行なうのであり,その欲するとおりに各々に分配するのです。

 

テモテ(一)4:1-5

4章
しかし,霊感のことばは,後の時代にある人たちが信仰から離れ去り,[人を]惑わす霊感のことばや悪霊の教えに注意を寄せるようになることを明確に述べています。

2 それは,偽りを語り,その良心に焼き金によるような印を付けられた者たちの偽善によるのです。

3 そうした人たちは結婚することを禁じたり,信仰を持ち真理を正確に知る人が感謝してあずかるために神が創造された食物を断つように命令したりします。

4 神の創造物はみな良いものであって,感謝して受けるなら,退けるべきものは何一つないのです。

5 それは,神の言葉と[それ]に関する祈りによって神聖なものとされるからです。

 

ヨハネ(一)4:1-6

4章
愛する者たちよ,霊感の表現すべてを信じてはなりません。むしろ,その霊感の表現を試して,それが神から出ているかどうかを見きわめなさい。多くの偽預言者が世に出たからです。
2 あなた方は神からの霊感の表現をこれによって知ることができます。すなわち,イエス・キリストが肉体で来られたことを告白する霊感の表現はすべて神から出ていますが,

3 イエスについて告白しない霊感の表現はどれも神から出たものではありません。しかもこれは,来るであろうとあなた方が聞いていた反キリストの[霊感の表現]であり,今やそれはすでに世にあるのです。
4 子供らよ,あなた方は神から出ており,あなた方はそうした[人々]を征服したのです。あなた方と結びついている方は,世と結びついている者に勝るからです。

5 彼らは世から出ています。そのために,世から[出る]ことを語り,世は彼ら[の言うこと]を聴くのです。

6 わたしたちは神から出ています。神について知る者はわたしたち[の言うこと]を聴きます。神から出ていない者はわたしたち[の言うこと]を聴きません。こうしてわたしたちは,真理の霊感の表現誤りの霊感の表現とに気づくのです。

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エホバの証人は霊媒師や出来事の職業的予告者を聖書に基づき「忌避」しているので、誰もこれらに近づく者はいません。

しかし、
エホバの証人も霊感」には強い関心があります。
なぜなら、
それによって直接「神のご意思」を知りたいと思っているからです。

非常に危険な降霊術ですが、
聖書で禁じられているそういうものを使ってでも「神のご意思」を知りたいとさえ思う人もいるかも知れません

しかし、降霊術は「悪霊との交信」であって、「神との交信」ではないことを銘記している必要があります。
これらの者や術に決して近づいても行ってもいけません。
これは「警告」です。

あなたが悪霊による「被害」を受けないためです。

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霊感と言うと「奇跡的な出来事」と思われがちですが、必ずしもそうとは限りません。
長く、そして何度も聖書を読んで、また、深く考えていると、自然に神がどういう方かどういう考えを抱いているかが分かるようになります
なぜなら、
聖書は、初めから終わりまで一貫しているからであり、矛盾したところが無いからです。
イエスが言われたことやペテロやパウロやヤコブやユダなどが言ったことの真意が分かるようになってくるのです。

私は聖書筆者たちが必ずしも「神の啓示、幻」などを受けて書いたものとは思ってはいません。
特に、クリスチャン・ギリシャ語聖書(新約聖書)については。

ヘブライ語聖書(旧約聖書)においては、歴史の事実などは非常に良く纏められていたり、背景などや裏付けなどに関しては、
霊感」により、また、聖霊により導かれたものとしか考えられない点も多くあります。

実際、出来事が生じた後から記述されたものであり、その時に「預言や神の考えが付け加えられている」のです。
モーセが創世記を記したことも、伝承としていくつかの点は聞かされていたとしてもすべてを事細かく知っていた訳ではありません。
ですから、おそらく、み使いか幻か聖霊に導かれて記したものと考えられます。

 

「聖書全体は神の霊感を受けたもので・・・」とありますが、-テモテ(二)3:16
神の霊感とは「神の霊によって」とあり、それは「聖霊」のことです。
更には「預言」はいつでも神から出ています。-ペテロ(二)1:20-21

新約聖書の筆者たちはこうした旧約聖書に通じており、そこにイエスに関する出来事を適合させて書いたものだと考えています。

旧約聖書の預言の多くはイエス・キリストに関するものであり、弟子たちはその点をイエス自身から教えられていたのです。

 

新約聖書の中では預言の殆どはイエス自身が語ったものであり、「ヨハネへの啓示の書」もイエスの使いによるものでした。
ヨハネへの啓示1章
イエス・キリストによる啓示,これは,ほどなくして必ず起きる事柄をご自分の奴隷たちに示すため,神が彼にお与えになったものである。そして,[イエス]は自分のみ使いを送り,その[み使い]を通して,しるしにより[それを]自分の奴隷ヨハネに示したのである。」

モーセ、ヨシュア、サムエル、ダビデ、ソロモン、エズラ、ネヘミヤ、エゼキエル、イザヤや他の預言者などは、
すべて神の聖霊により導かれて記したのです。

しかし、四福音書や使徒たちの活動からユダの手紙までは聖霊に導かれたと言うよりは、イエスの発言と預言にイエスに関する出来事と弟子たちの活動と使徒たちが話した事柄を「纏めたもの」と言えます。

 

ですから、いわゆる新約聖書は「神による霊感」が無くても「書く」ことは出来ると考えています。

それでも、新約聖書はイエス・キリストに関して「一貫」していますし「矛盾」もありません。

また、筆者も皆同時代を生きた人々、イエスを目撃した人たちなのです。

いわば、イエスの「目撃証人たちの証言」と言えるのです。

 

新約聖書は、旧約聖書のように長い歴史の中で、また、異なる状況の中で書かれたものとは違うのです。

それでも、旧約聖書と新約聖書における神の考え、律法、預言に齟齬は全くありません

これは、明確に「神の霊」によると断言出来ます。


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事故などにより、突然特別な能力を発現するサバン症候群は時々聞く話です。
ただ、身近では余り見かけませんが。

このように、人間の脳の能力の可能性は科学が進歩した今の時代でも未知の領域です。

言語を混乱させた神が、すべての人の言語を一つにすることが可能なように、
すべての人の脳に「律法」を授けることは可能です。

アダムは、創造された初めから話すことも知的能力も付与されていたからです。

 

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最後に、以下の聖書の記述に注目して下さい。

エホバの証人であれば、何度も「聞かされた言葉」です。

 

啓示12章

7 また,天で戦争が起こった。ミカエルとその使いたちが龍と戦った。龍とその使いたちも戦ったが,

8 優勢になれず,彼らのための場所ももはや天に見いだされなかった。

9 こうして,大いなる龍,すなわち,初めからの蛇で,悪魔またサタンと呼ばれ,人の住む全地を惑わしている者は投げ落とされた。彼は地に投げ落とされ,その使いたちも共に投げ落とされた。

10 そして,わたしは大きな声が天でこう言うのを聞いた。
今や,救いと力とわたしたちの神の王国とそのキリストの権威とが実現した! わたしたちの兄弟を訴える者,日夜彼らをわたしたちの神の前で訴える者は投げ落とされたからである。

11 そして彼らは,子羊の血のゆえに,また自分たちの証しの言葉のゆえに彼を征服し,死に面してさえ自分の魂を愛さなかった。

12 このゆえに,天と[天]に住む者よ,喜べ! 地と海にとっては災いである。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りを抱いてあなた方のところに下ったからである」。
13 さて,自分が地に投げ落とされたのを見た時,龍は,男の子を産んだ女を迫害した。

14 しかし,大きな鷲の二つの翼が女に与えられた。荒野の中の自分の場所に飛んで行くためであった。そこは,一時と[二]時と半時のあいだ彼女が蛇の顔から離れて養われるところである。
15 それから,蛇は口から川のような水を女の後ろに吐き出した。彼女をその川によっておぼれさせるためである。

16 しかし地が女の救助にまわり,地は口を開いて,龍が自分の口から吐き出した川を呑み込んだ。

17 それで龍は女に向かって憤り,彼女の胤のうちの残っている者たち,すなわち,神のおきてを守り行ない,イエスについての証しの業を持つ者たちと戦うために出て行った

13章
そして[龍]は海の砂の上に立ち止まった。
また,わたしは一匹の野獣が海から上って行くのを見た。十本の角と七つの頭があり,その角の上には十の王冠があったが,その頭には冒とく的な名があった。

2 さて,わたしの見た野獣はひょうに似ていたが,その足は熊の[足]のようであり,その口はライオンの口のようであった。そして,龍は自分の力と座と大きな権威を[その野獣]に与えた
3 そしてわたしは,その頭の一つがほふられて死んだかのようになっているのを見た。しかし,その致命的な打ち傷はいえた。それで,全地は感服してその野獣に従った

4 そして彼らは,野獣に権威を与えたことで龍を崇拝し,また,「だれがこの野獣に等しいだろうか。いったいだれがこれと戦いうるだろうか」と言って野獣を崇拝した。

5 そして,大いなることや冒とく的なことを語る口がそれに与えられ,また,四十二か月のあいだ行動する権威が与えられた。

6 そして,それは口を開いて神を冒とくした。そのみ名と住まい,さらには天に住む者たちを冒とくするためであった。

7 そして,聖なる者たちと戦って彼らを征服することが許され,あらゆる部族と民と国語と国民に対する権威がそれに与えられた

8 そして,地に住む者は皆それを崇拝するであろう。ほふられた子羊の命の巻き物には,彼らのうちのだれの名も,世の基が置かれて以来書かれていない
9 耳のある者がいるなら,聞きなさい。

10 捕らわれの身となる[はずの]者がいるなら,その者は捕らわれの身となる。剣で殺す者がいるなら,その者は剣で殺されなければならない。ここが聖なる者たちの忍耐と信仰を意味するところである
11 また,わたしは別の野獣が地から上って行くのを見た。それには子羊のような二本の角があった。それは龍のように話しはじめた。

12 そして,第一の野獣のすべての権威をその前で行使する。また,地とそこに住む者たちに,致命的な打ち傷のいえた第一の野獣を崇拝させる。

13 また,大いなるしるしを行なって,人類の前で火を天から地に下らせることさえする
14 そして,野獣の前で行なうことを許されたしるしによって地に住む者たちを惑わし,一方では,剣の一撃を受けながら生き返った野獣のために像を作るようにと地に住む者たちに言う。

15 またそれには,野獣の像に息を与えることが許された。それによって野獣の像は話すようになり,また,野獣の像をどうしても崇拝しない者たちをみな殺させるようにするのである。
16 またそれは,すべての人,すなわち,小なる者と大なる者,富んだ者と貧しい者,自由な者と奴隷を強制して,その右手や額に印を受けさせ,

17 また,その印,つまり野獣の名もしくはその名の数字を持つ者以外にはだれも売り買いできないようにする。

18 ここが知恵の関係してくるところである。そう明な者は野獣の数字を計算しなさい。それは人間の数字なのである。そして,その数字は六百六十六である。

14章
またわたしが見ると,見よ,子羊がシオンの山に立っており,彼と共に,十四万四千人の者が,彼の名と彼の父の名をその額に書かれて[立っていた]

2 またわたしは,多くの水の音のような,そして大きな雷鳴のような音が天から出るのを聞いた。わたしが聞いた音は,自分で弾くたて琴に合わせて歌う歌い手たちの[声]のようであった。

3 そして彼らは,み座の前および四つの生き物と長老たちの前で,新しい歌であるかのような[歌]を歌っている。地から買い取られた十四万四千人の者でなければ,だれもその歌を学び取ることができなかった。

4 これらは女によって自分を汚さなかった者である。事実,彼らは童貞である。これらは,子羊の行くところにはどこへでも従って行く者たちである。これらは,神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られたのであり,

5 その口に偽りは見いだされなかった。彼らはきずのない者たちである
6 また,わたしは別のみ使いが中天を飛んでいるのを見た。彼は,地に住む者たちに,またあらゆる国民・部族・国語・民に喜ばしいおとずれとして宣明する永遠の良いたよりを携えており,

7 大声でこう言った。「神を恐れ,[神]に栄光を帰せよ。[神]による裁きの時が到来したからである。それゆえ,天と地と海と水のわき出るところとを造られた方を崇拝せよ」。
8 また,別の,二人目のみ使いがそのあとに従って,こう言った。「彼女は倒れた! 大いなるバビロン,あらゆる国民に自分の淫行の怒りのぶどう酒を飲ませた者は倒れた!
9 また,別のみ使い,三人目の者が彼らの後に従い,大声でこう言った。「野獣とその像を崇拝して,自分の額または手に印を受ける者がいれば,

10 その者は,憤りの杯に薄めずに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲むことになり,聖なるみ使いたちの見るところで,また子羊の見るところで,火と硫黄による責め苦に遭わされるであろう

11 そして,彼らの責め苦の煙は限りなく永久に上り,彼ら,すなわち,野獣とその像を崇拝する者,まただれでもその名の印を受ける者には,昼も夜も休みがない。

12 ここが,聖なる者たち,すなわち神のおきてとイエスの信仰を守る者たちにとって,忍耐となるところである」。
13 またわたしは,天から出る声がこう言うのを聞いた。「こう書きなさい: 今からのち主と結ばれて死ぬ死人は幸いである。しかり,彼らはその労苦を休みなさい,彼らの行なったことはそのまま彼らに伴って行くからである,と霊は言う」。
14 またわたしが見ると,見よ,白い雲が[あり],その雲の上には人の子のような者が座っており,その頭には黄金の冠があり,その手には鋭い鎌があった
15 また,別のみ使いが神殿[の聖なる所]から現われ出て,雲の上に座っている者に大声でこう叫んだ。「あなたの鎌を入れて刈り取ってください。刈り取る時が来たからです。地の収穫物はすっかり熟しているのです」。

16 すると,雲の上に座っている者がその鎌を地に突き入れ,地は刈り取られた
17 また,さらに別のみ使いが天にある神殿[の聖なる所]から現われ出たが,彼も鋭い鎌を持っていた
18 また,さらに別のみ使いが祭壇から現われ出たが,彼は火に対する権威を持っていた。そして,鋭い鎌を持つ者に大声で呼ばわって言った,「あなたの鋭い鎌を入れて,地のぶどうの木の房を集めなさい。そのぶどうは熟したからである」。

19 すると,み使いは鎌を地に突き入れて,地のぶどうの木の取り入れを行ない,それを神の怒りの大きなぶどう搾り場に投げ込んだ

20 そして,その搾り場は都市の外で踏まれ,搾り場から血が出て馬のくつわに届くほどになり,千六百ファーロングの距離に及んだ。

 

14-20節は、イエスが言われた小麦と雑草の例えと一致します。

マタイ13章

24 [イエス]は彼らに別の例えを示してこう言われた。「天の王国は,自分の畑にりっぱな種をまいた人のようになりました。

25 人々が眠っている間に,その人の敵がやって来て,小麦の間に雑草をまき足して去りました。

26 葉が生え出て実を生み出すと,その際に雑草も現われました。

27 それで,その家あるじの奴隷たちがやって来て言いました,『ご主人様,畑にはりっぱな種をおまきになったのではありませんでしたか。それなのに,どうしてそこに雑草が生えてくるのでしょうか』。

28 彼は言いました,『敵である人がそれをしたのだ』。彼らは言いました,『では,わたしどもが行ってそれを集めることをお望みですか』。

29 彼は言いました,『いや。雑草を集めるさい,小麦も一緒に根こぎにすることがあってはいけない。30 収穫まで両方とも一緒に成長させておきなさい。収穫の季節になったら,わたしは刈り取る者たちに,まず雑草を集め,焼いてしまうためにそれを縛って束にし,それから,小麦をわたしの倉に集めることに掛かりなさい,と言おう』」。
31 [イエス]は彼らに別の例えを示してこう言われた。「天の王国はからしの種粒のようです。人がそれを取って自分の畑に植えました。

32 実際それはあらゆる種の中で一番小さなものですが,成長したときには野菜のうちで一番大きくて木のようになり,天の鳥たちが来て,その枝の間に宿り場を見つけます」。
33 [イエス]は彼らに別の例えを話された,「天の王国はパン種のようです。女がそれを取って大升三ばいの麦粉の中に隠したところ,やがて塊全体が発酵しました」。
34 イエスはこれらのすべてを例えで群衆に話された。実際,例えを用いないでは話そうとされなかった。

35 それは預言者を通して,「わたしは例えをもって口を開き,[世の]基が置かれて以来隠されてきた事柄を言い広める」と語られたことが成就するためであった。
36 それから,群衆を解散させた後,[イエス]は家の中に入られた。すると弟子たちがそのもとに来て,「畑の雑草の例えをわたしたちに説明してください」と言った。

37 [イエス]は応じて言われた,「りっぱな種をまく者は人の子です。

38 畑は世界です。りっぱな種,それは王国の子たちです。それに対し,雑草は邪悪な者の子たちであり,

39 それをまいた敵は悪魔です収穫は事物の体制の終結であり,刈り取る者はみ使いたちです。

40 それゆえ,雑草が集められて火で焼かれるのと同じように,事物の体制の終結のときにもそのようになります。

41 人の子は自分の使いたちを遣わし,彼らは,すべてつまずきのもとになるものや不法を行なっている者を自分の王国から集め出し,

42 それを火の燃える炉の中に投げ込みます。そこで[彼らは]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう。

43 その時,義人たちはその父の王国で太陽のように明るく輝くのです。耳のある人は聴きなさい。
(41節で、つまずきのもとになるものや不法を行っている者」たちは、初めは「王国の子ら」だった

 点に注目して下さい。

 しかも、これは過去の話ではなく、「今」の出来事なのです。)