こんにちは、じきです。
今回は、一昨年末に20年程つとめた会社を辞め、現在アラフォーヒモニートである私が、人間関係に関して思うことを書こうと思います。
不快な方はいつもとおりブラウザバックお願いします。
↓ 参考 私が読んでおすすめだった書籍です ↓
友人の存在
私は、今までの記事でも書いてきたとおり、学生時代は異常な頭の形・わきが等の体臭・低すぎる身体能力により、常に誹謗中傷等のいじめを受けてきました。
自分で言うのもなんですが、一般的な人よりもおそらく、つらい学生生活を過ごしてきました。
↓ 参考 こんな頭の形です↓
ですが、そんな私にも、ほんの数人ですが友人が存在します。
私にとって、彼らは大事な存在です。
私という、とてつもなく欠陥の多い人間に対して、今日現在に至るまで、匙を投げず友人で居てくれました。
彼らと私は、小学生低学年から現在までの付き合いです。
これまでの間で、微妙な関係になった時期もありましたが、多感な時期に、それは仕方のないことかと思います。
ちなみに、数人程度の友人と申し上げましたが、私が高校入学以降に新しく出来た友人だけに限って言えば、現在も連絡がとりあえる仲の友人は1人しか居ません<サビCー
反逆の代償
数少ない友人が居てくれる反面、若かりし頃の私の言動により、私から離れていった友人も多かったです。
私は、学生時代のいじめ等により、基本的に自分に自信がなかったので極力、自己主張をしないように生きておりました。
しかし、そんな私でも一時期、明らかにタガが外れてしまったような時期がありました。
特に、20歳~20代中頃までは、今から思い返してもひどかったなぁと思います。
学生時代の私とは様相が大きく変わり、激しめの自己主張をしてしまう場面が多かった気がします。
そのころの私は、まさに絵に書いたような嫌な人間だったと思います。
一応、そうなってしまった理由として、思い当たることがあります。
私は、過去の記事で書いたとおり、自身の身体の特徴を原因とする数々のいじめをうけ鬱蒼とした学生時代を過ごし、常に強烈な劣等感を感じながら生きてきました。
それが社会人となり、わりと安定した会社で給与もそれなりに貰えるようになったり、20歳になった直後に人生初の彼女がたまたま出来たりと、それまでの人生で縁の無かったイベントが発生しはじめました。
↓ 参考 初彼女・魅惑のサセ代さん ↓
学生時代には、思い描いても手に入らなかった「普通っぽい人の人生」が手に入ったような気がして、相当嬉しかったのだと思います。
そのため、気持ちがすっかり舞い上がり、調子こいてしまったのでしょう。
いま思えば愚かしいことこの上ないです。
しかし、なにせ学生時代の間、ずっと羨ましかったのです。普通のことを普通に出来る人達のことが。
逆に、学生時代に絶好調だったけれど社会人になってからは不調な同級生等も多く見てきました。
その中には、学生時代に私をこれでもかという程いじめていた人物も含まれていました。
そんな彼らに対して、私は社会人となった後に得た仮初めの自信を盾にして、あの頃はよくもやってくれたなと、マウントを取りたかったのでしょうね。
気持ち的には反逆です。
自分の言動を省みて、今も昔も、本当に器の小さい人間だと思います。
しかし、当時の私は、どうしてもそういう衝動を我慢することが出来なかったです。
また、社会人時代の強烈なパワハラにより20代の中頃から服用した精神薬により、私自身の言動が不安定な時期が長かったのも、私の交友関係にとって悪い要因の一つになっていたと思います。
そういった私自身の言動が原因で、私から離れていった人も、とても多いです。
嫌いだった人もですが、長らく友人だった人もです。
↓ 参考 クレイジーサイコパスのパワハラ劇場 ↓
私から知人・友人が離れてしまった要因はたくさんありましたが、半分くらいは反逆の代償かなと思います。嫌な人間だったのです。
ていうか
「嫌な人間だった」
と過去形にするのは早計ですね
思ったことをそのまま発信した場合、これまで投稿した記事の文面通り、私は今でも、特に褒められるような人格ではありません。
なので猶更、今でも私の友人で居てくれる彼等に対し、ありがたく感じますね。
たったの数人ではありますが、今でも連絡を取り合えるような友人が居ることは、私にとって非常に幸運なことだと思います。
もちろん現在の私は、表立って当時のような無礼な言動をすることは、ほぼ無くなったかなと思います
咎ってるアラフォーヒモニートとか、強制的にベーリング海カニ漁船労働の刑に処されても何ら文句は言えません。
丁度良く思える距離感
上記のとおり、私は友人を尊く思っております。
その一方で、学生生活や、約20年間の転勤族としての会社員生活を終え、実に様々な人間関係を経験してきた身として、普段から思うことがあります。
それは、私と友人が「友人という間柄」で居られてるのって「適度な距離感」があるからなのだろうなということです。
仮に、職場が一緒だったり、日常生活で同居していたり等、もし現在と距離感が異なる環境に身を置いた場合、友人という間柄に至れたか・あるいは友人のままで居られるかは、定かではありません。
これに関しては、たとえ対象が友人じゃなくても、親兄弟や職場の人間関係等、自分の経験してきたどんな人間関係においても考えてしまうことです。
今まで、私に親しく接してくれた様々な人たちとも、距離感が違ったり、あるいは出会う場面が違ったら、関係性は大きく変わっていたことでしょう。
逆に、私が今まで出会ってきた苦手だった相手とも、出会う場面等が違ったら、ひょっとしたら友人や、良き理解者になってくれるようなケースもあったのかなと思ったりします。
例えば職場では嫌な性格だったり、周りに仕事をおしつけまくって迷惑をかけるような人だったとしても、ごく稀にプライベートで会って遊ぶだけの関係性・距離感等ならば、自分にとっては良い友人等だと認識したとしても全く不思議ではありません。
友人という話からは逸れますが、親子という関係についても、上記と同じようなことを感じます。
私が両親と、あの人たちの子供という立場で出会ったわけじゃなければ、両親のことを、どういう人間として認識していたのだろうか、と。
↓ 参考 離婚した私の両親について↓
赤の他人として両親を見た場合、両親の、口下手だけど情に厚い性格なんて全然知りもせず、多くの場合はただの見た目の怖い人たちとしか、認識出来ないと思います。
書いたのはほんの一例ですが、そういうことはしょっちゅう考えていました。
人と人がわかりあう、なんていうのは多くの場合で幻想でしょうけれども、誰かのほんの一部分・表面に触れただけでその人を毛嫌いしたりするのは、寂しいことのような気がします。
とはいえ、現時点ですごく仲の良い友人等と、ごく近い距離で生活するようになった結果、強烈に印象が変わって仲違いする、なんてケースも往々にしてあろうかと思いますが。
↓ 距離感ガ、ダイジナンダネー ↓
フラットな認識を心がける
職場でお世話になったり、学生生活等のコミュニティで、自分が尊敬している相手に関してはどうでしょう。
例えば、親兄弟や友人はわかってくれないけれど
「自分が尊敬している〇〇さんだけは、本当の自分のことをわかってくれる!」
…等のような認識をすることって、わりとありがちですよね。
しかし、それって、自分が、その〇〇さんと日常生活を常に共にするような間柄ではなくて、自分にとって都合が良かったり、適度な距離感であるからこそ、成立する感情なのかもしれませんよね。
自分が尊敬している人と、出会った場面や現時点での距離感が違っていたら、それらの人のことを、今と同じように尊敬の対象として認識出来るかどうか、少し興味はあります。
尊敬する人物たちと、例えば日常生活を共にしたり、仕事で実際に隣り合って作業する場面があれば、諸々の理由で超絶大っ嫌いになる可能性は、ゼロではないと思います。
反対に、自分が嫌悪していたり、苦手としている人とも、同じく関係性や距離感等が変われば、もしかしたら劇的に大好きになるかもしれないですよね。
学校・職場等じゃ憎たらしかったのに、日常生活ではもの凄く気配りできるいい奴だったりするかもしれません。
家では口うるさくて煙たいだけに感じていた親が、いざ会社で隣り合って仕事をしたら超絶頼りになるスーパーマンだったりするかもしれません。
なので、誰かと、ほんの少しコミュニケーションをとっただけだけで、積極的に相手のことを解ろうとしないままに、その人の人柄や地位等を簡単に自己判断して、下に見て小馬鹿にしたりだとか、人間関係を切ったりしまったりするのは、勿体ないことのように思います。
また、この人とコミュニケーションをとる価値があるとか無いとか、果たしてそんなことを正確に判断出来るほど、自分の感性とは上等なものなのだろうかと、たまには省みるのもいいかもしれません。
完全に心が通じ合う・わかりあうなんていうことにはあまり期待出来なくても、良い意味で相手にあまり過度の期待をせず、気長に人付き合いしてみるのも一興かなと。
…
……
さて、年齢を重ねると、新しく知り合った人と深い付き合いをするなんてのは至難の業です。
私自身も、自身の経験則や世間の評判に左右されず、気長に人と向き合えるような心の余裕が欲しいと感じます。
これからも、私の友人でいてくれた数少ない人と良好な関係で居られるよう、適度な距離感を大切に生きていければと思います。