前回は「技術革新とハムの黎明期」と題して、真空管の発明によってハムが生まれ育ったという話でした。鉱石ラジオでアマチュア無線を受信するためには大きなアンテナが必要ですね。
 
しかも手作りになる送信機は回路を簡便にするために、アマチュア的には無線電信(A1またはA2)が向いていた。今更ながら老眼鏡を片手に表面実装部品と格闘するのも良いが、どうせチャレンジするなら黎明期のハムの心意気を感じるのも悪くない気がしてきた。
 
このシリーズ「黎明期の探索」の{連載リスト」はこちらをクリック
 

 
火花式無線
火花式無線電信機wikipedia
日露戦争では火花送信機コヒーラ検波器による受信の組み合わせで交信していた。火花送信機は、固有の周波数を持たない雑音の一種を発信し、その雑音により空間に発生した電界をコヒーラが捉える方法で、非同調型に分類されている。その後、アンテナの共振や同調回路を使って、ある程度帯域を絞ることができたが、周波数帯域は相当広かった。
 
固有の周波数の電波を使う同調型受信機の中では、鉱石ラジオは感度が不足していてハムには向いていなかった。オートダイン(再生検波)の発明でハムが始まったと言っても過言ではないだろう。特にハムの多くは国内外を問わず長距離交信(DX)を目指していたので、雑音や混信に強い電信が有利であった。
 

 
A1信号の場合、搬送する電波の入り切りだけなので、鉱石ラジオで聞いても信号の始まりと切断時のクリック音しか聞こえない。このA1信号を人間の耳で聞く(復調)ためには、飛来する電波に受信機内でビート(うなり音)を加えなければならない。
 
これは受信した電波を一旦真空管で増幅し、その一部を入口に返す(正帰還)ことでビートを発生させるオートダインが適していた。受信した信号を増幅して、再び入り口であるグリッド側に戻す。これを帰還というが、同じ位相で戻すことを正帰還という。この正帰還の量を再生量という。
 
オートダイン(再生検波)で放送など無線電話(A3)を復調する場合は、ビート音が聞こえなくなるまで再生量を減らせば音声だけが聞こえる。一方無線電信(A1)は。ビート音を聞こえるまで再生量を増やせば復調できる訳だ。
 

 
WD-11
米放送開始前後のオーヂオン管 WD-11
V-24
マルコニ型の国産オーヂオン管 UM-104
前回は「技術革新とハムの黎明期」にも述べたが、明治37年(1904年)にフレミングが考案した二極真空管(フレミング管)に、2年後の明治39年(1906年)ド・フォレストは、三極真空管を(ドフォレスト管)を発明して世に送り出した。
 
少し外れるが、この時代の三極真空管は、日本では広告や書籍に度々「オーヂオン・バルブ(audion valve)」と表記されていた。
 
オーヂオンまたはオーディオンは、「聞く能力、聴力機能」の意味で、オーディオ(audio=可聴周波の)、オーディエンス (audience=観客、聴衆)、オーディション(audition=聴力から試験の意味)などの派生語がある。
 
このオーヂオン・バルブによって、エレクトロニクスの世界は一変した…と云うより、本格的エレクトロニクスの時代が到来したと云えよう。ド・フォレストは、有線電話で長距離回線の減衰を補う目的で音声増幅の回路(リピーター回路)に使った。
 

 
アームストロング原図
アームストロングの再生検波回路
ド・フォレストは三極管の実験中にプレートからグリッドへ正帰還させる量を増やしていくと、やがて発振が起こる現象を発表していた。
 
これを知ったコロンビア大学工学部の学生であったエドウィン・アームストロング(1890年~1954年)は、大正3年(1914年)に受信機の再生検波回路(autodyne)を発明して特許を取得した。
 
アームストロングは大正6年(1917年)にアメリカ陸軍通信隊の大尉になり、自らの特許を米軍に無料で使用許可している。また技術者としては珍しいが、企業に入ったことがない。終生コロンビア大学に籍をおいて、独自に研究開発を行い、特許を完全に自分で所有していた。
 
アームストロング再作図
現代風に書き直したオリジナル回路図(B電源(B2)の極性は変更)
 
彼の有名な発明の中に、第一次大戦中の大正7年(1918年)「スーパーヘテロダイン」がある。代名詞でもある「5球スーパー」などそれまでより真空管の数が多く価格も高かったが、スーパーラジオは世界に普及しAM(振幅変調 A3)ラジオ受信機の主流になった。
 
昭和8年(1933年)には、放送の概念を変える「FM(周波数変調 F3」を発明して提唱した。
 
アームストロングの業績を挙げればキリがないのだろうが、ここではハムの黎明期に戻ることにします。
 

 
逓信省は昭和元年(1926年)から「実験用私設無線電信無線電話」の許可をおろし始めて、アマチュア無線局は次々に開局していった。ハムが使った受信機は、ラジオのコイルを巻きなおして短波帯用に改造するか、回路を参考にして自作していたようだ。
 
当時、受信機に使う真空管は、電球と同じ白熱フィラメント(UV-200などソフトバルブ)を使用していたが、性能も低く動作も不安定だった。大正13年(1924年)、真空管のフィラメントがトリエーテッド・タングステンになり、UV-199、UV-201Aなどのハードバルブが生まれた。性能が格段に向上したことで、グリッドにリーク抵抗(グリッドからの電子抑制)を入れるようになった。
 
単球受信機
UX-201A単球受信機の例
 
また自作の場合はUX-201Aなどを使った単球の受信機が、当時の雑誌などにも掲載されている。図の回路は、再生検波だけで、同調コイルと再生コイルの結合度で再生量を調整して、フィラメントに直列に入れた巻線可変抵抗気(レオスタット)で増幅率を最適に調整する方法がとられた。
 

 
真空管の開発当初は、フィラメントを加熱(A電源)、プレートの高電圧(B電源)、グリッドにバイアスを与える(C電源)など、個別のバッテリーが使われた。放送開始前後のラジオも数種類のバッテリー使って動作させていた。
 
米国KDKAが大正9年(1920年)、英国BBCが大正11年(1922年)、日本NHKが大正14年(1926年)が相次いで開局した時代には、製造メーカーが「高周波同調受信機(TRF=Tuned Radio Frequency Receiver)」を製造した。以下は手元にあるTRFラジオの写真を公開します。
 
AK10
Model 10 4340 ATWATER KENT UX-201A x 5
Radiola
Radiola Ⅲ R1
RCA
WD-11 x 2
CR52SD
>Model 52SD
CROSLEY
201A x 3
CR51
Model 51
CROSLEY
1926年
国産
国産
メーカー不詳
UX-26B x 3

 
バッテリーを使ったラジオは、乾電池や蓄電池のメンテナンスが大変で、家庭に来ている交流をラジオに使えないか…と一時的に登場したのが、バッテリー・エリミネーター(battery eliminator)であった。二極真空管(フレミング管)の検波作用に大きな電流を取扱う整流機能が実用化され、一部でエリミネータが使われた。
 
そのエリミネータとラジオ本体に一体化させたのが交流ラジオだ。昭和4年(1929年)には三極管にスクリーン・グリッドとサプレッサー・グリッドを組み込んだ五極管が登場し、さらに昭和9年(1934年)にはST管(ダルマ管)が作られるようになった。
 
放送受信のラジオは交流化され、中でも廉価版の並四球式受信機(並四)は低周波増幅2段で大きな音量を得ることができた。並四ラジオは放送普及に多大な貢献をした。さらに廉価な低周波1段の三球式ラジオ(「並三」という呼称は戦後に使われだしたようだ)も人気を博した。
 
いずれもハムにとっては格好の素材で、放送帶のラジオを改造、または回路を参考にして自作が行われた。以下に並四、並三のメーカー製セットの中身です。
 
エレマン
ELMAN 3型
大洋無線
27A+26B+26B+12F
アリア
ARIA 427號型
ミタカ電機
6C6+27A+12A+KX-12F
テレビアン
TEREVIAN P-312
山中電機
UY-56+UX-12A+KX-12F
ナナオラ
NANAOLA 70型
七歐通信機
UY-227+UY-47B+KX-12F
いづれも昭和10年頃までの製品で、「国民受信機」、「放送局型」、「国策型」など徹底したコストダウンが図られる前の堅牢な作りのラジオです。
 

 
豆コン
並三、並四で使う豆コン
逓信省が昭和元年(1926年)「実験用私設無線電信無線電話」の許可がおろされた時代、アマチュア無線が運用できる周波数は、1.5~2.0Mc、3.50~4.0Mc、7.00~8.0Mc、14.00~16.0Mc、56.0~64.0Mcとなていた。しかし当時の技術では海外DXバンドは3.5~4.0Mcか7.00~8.0Mcで、国内QSO(交信)は1.5~2.0Mcが主流だったようだ。
 
ハムの視点で見れば、並三は「0-V-1」で、並四は「0-V-2」と云われる。そこで並三の回路の例を以下にまとめてみた。
 
並三1
24B-47B-12Fの一般的な並三回路
 
帰還量の調整に豆コン(50~80pF)を用いた比較的安定した動作の回路で、検波増幅の真空管はUY-224、UY-224A、UY-224B、UY-24Bなど、カソードの付いた傍熱型四極管、低周波増幅はUY-247B、UY-47B、3Y-P1など直熱型五極管、整流は半波整流管のKX-12F。昨今ではフィラメント電圧が2.5Vということで電源トランスを探すのも苦労しそうですね。
 
並三2
24B-47B-12Fの並三ECO回路
 
使用真空管は上図と同じだが帰還回路の調整方法が異なる。ここで使用したECO(Electron Coupled Oscillator)回路は、スクリーン・グリッドの電圧を調整して、帰還量をコントロールする方法で、三極管時代のフィラメントの制御と同様の働きをした、豆コンの入手が困難になってからよく使われている。
 
並三3
6C6-6ZP1-12Fの標準的な並三回路
 
傍熱型五極管が広く普及して、検波増幅にUZ-6C6。低周波増幅に6Z-P1が使われている。帰還調整は豆コンで行ているが、上図のECO回路にすれば、豆コンを使わずに済む。また戦後のミニチュア管で構成すると、6C6は6BA6、6Z-P1は6AR5や6AQ5、KX-12Fは5M-K9になる。
 

 
アマチュア無線の黎明期で、「真空管、電磁波、オートダイン」といえば最先端技術だったのでしょう。現代の理科系若者が「人工知能、量子コンピュータ、核融合、超電導」などの先進科学に触れるときに、同じような「篤い想い」が駆け抜けるでしょう。
 
rabbit
今回は受信に関する話題でしたが、次回は送信機に関する話を行う予定です。
 
内容や表現の不備、間違い、誤用、ご質問などはコメント欄からお願いします。閲覧するタイミングによっては、返信に時間がかかる場合がありますのでご承知おきください。
 
 
 
 
 
フォロー4649
 



 
 
ハム黎明期の探索 連載リスト
 
  戦前の素人無線局    技術革新とハムの黎明期
オートダインへの篤い想い    虎の子をはたいたお宝送信管
  盆栽趣味の単球送信機    盆栽趣味は安定電源から
  使えそうなトランスがあった    安定化電源の回路設計
    
明治16年(1883年)、トーマス・エジソンが白熱電球の劣化を研究中に発見したエジソン効果が発端となって、明治37年(1904年)にジョン・フレミングがフィラメントの周囲を金属板(プレート)で覆い、検波機能を持った真空管を発明した。
 
このシリーズ「黎明期の探索」の{連載リスト」はこちらをクリック
 
Fleming
フレミング・バルブ(1904)-PA情報局
RE-88
TELEFUNKEN RE-88(1925)-grandpas-shack
DeForest
ドフォレストのオーヂオンバルブ-Wikipedia
フレミングの二極真空管に続いて、2年後の明治39年(1906年)リー・ド・フォレストは、フィラメントとプレートの間に電子の流れを制御するグリッドを設けたオーディオン・バルブ(三極真空管)を発明した。
 
火花送信機
日露戦争当時の36式無線電信機
これにより1920年代では、感度が低く動作の不安定だった鉱石検波式ラジオから、乾電池または蓄電池を使った本格的な真空管ラジオで、放送の時代を迎えた。
 
同様に送信機(電信機)も、日露戦争以来使われてきた火花送信機から、真空管式の送信機に取って代わっていった。
 

 
kwm-2
Collins KWM-2のフォーンパッチ
ところで日本では無線従事者以外の第三者通信は、アマチュア無線設備で音声を送ることが出来ない。一方、アメリカでは、有線電話のつながらない地域や、つながりづらい地域などから、アマチュア無線局が地域間の有線電話回線を無線中継する「フォーン・パッチ」(第三者通信)が合法的に行われていた。「ARRL」とは「American Radio Relay League」の略称なのだ。
 
こうした法規制の違いから、アメリカでは無線電話(A3)の時代を迎えると、アマチュア無線人口は急激に増加した。コリンズなどのハム用機器の多くに、フォーン・パッチ端子が標準装備されていた。
 

 
話を黎明期に戻すが、大正4年(1915年)に無線電信法が改正されて、私設無線局(素人無線局)の開局が許可さた。実際には大正11年(1922年)2月に東京発明研究所の濱地常康氏(東京一番・二番)、同年8月に後の放送事業に携わった本堂平四郎(東京五番・六番)が無線電話、大正12年(1923年)日本におけるエレクトロニクスの開拓者と云われる安藤博氏氏(JFPA、東京十九番)無線電話と無線電信の許可がおりた。
 
現代の電子技術革新にも増して、1910年~1920年には世界中の技術が急激に進歩した。こうした時代背景の中で、大正3年(1914年)にアマチュア無線家によるアメリカ無線中継連盟(ARRL)が創設された。
 
ただし、日本アマチュア無線連盟の年表には、上記3名は登場しない。いずれも発明家や事業家であったことで職業人と判断され、「アマチュア精神」から排除されたのだろうか?
 
当時は、アマチュアと業務実験の境界がなく、東京朝日新聞社(東京三番・四番)、東京日日新聞社(東京七番・八番)、日華無線電信機製造所(東京九番・十番)、報知新聞社(東京十番・十一番)、無線科学普及展覧会(東京十二番)、帝国ホテル(東京十三番・十四番)、東京毎夕新聞社(東京十三番・十四番)、横浜貿易新報社(横浜一番・二番)、新愛知新聞社(名古屋一番・二番)、新愛知新聞社(岐阜一番・二番)、日本生命保険株式会社(大阪五番・六番)、大阪毎日新聞社(大阪五番~八番)、南満州鉄道株式会社(大連六番・七番)など企業や団体への許可も行われていた。
 
放送マイク
放送局仕様のカーボンマイク
これら私設無線電話局に与えられた「東京X番」は無線電話局の呼出符号で、昭和2年(1927年)に国際呼出符字が私設実験局(含むアマチュア)にも摘要されるまでのコールサインであった。
 
さらにラジオ放送の実験放送なども一くくりに私設無線局に区分され許可され、全国各地の新聞社や企業などで実験がで行われていたようだ。
 

 
1920年代に入るころには、真空管の入手も比較的容易になり、無許可の無線局(アンカバー)が中波帯に出没し、船舶無線やラジオ実験放送への妨害となっていた。所管していた逓信省は、当時未開とも云える短波帯に「実験用私設無線電信無線電話」を、昭和元年(1926年)10月安藤博氏(JFPA)に短波帯の使用を許可し、翌昭和2年(1927年)4月に楠本哲秀氏(JLZB)と有坂磐雄(JLYB)、5月には國米藤吉氏(JMPB)、9月には草間貫吉氏(JXAX、草間貫吉)を許可していった。
 
1920年代には日本でも無線電信(A1orA2)によるアマチュア無線が増加し、大正15年(1926年)6月に日本素人無線聯盟(JARL=後の日本アマチュア無線連盟)が結成された。
 
QST
ARRL QST誌(1926年8月) 48p~49p
 
この時、JARL結成の宣言文が全世界に電信で打電された。大正15年(1926年)8月の米国QST誌にJARL発足の件が掲載されている。QST誌によると「u6BQはpi1HRから『日本では送信が許可されてない』と言っていたが、jlKK(草間氏)のメッセージを受けたu6DCQは。JARLが結成され、またu6BQもj1TS、j1SS、j1TM、j8AA、j1ZQ、jASM、j1SK、jlKKを確認している」と書いてある。
 
国家間の交流はあっても、国民相互の交流はほとんどない時代の出来事だった。日本からは「the Japanese Amateur Radio League」と送信しているのに、米国側では「the Japanese Radio Relay League」と勝手に書いているのも面白い。
 
戦前は余程の上級国民でもない限り、外国人と接することはなかった。大東亜戦争の終戦までは、朝鮮半島と台湾そして南洋諸島は、日本の統治下にあった。一般庶民から見れば、「外国人」と云えばせいぜい支那人と満人だったのだろう。
 
進駐軍が全国各地を闊歩したことによって、初めて日本人以外を見た人々も多かっただろう。それでも一般サラリーマンが外国人と直接触れ合うようになったのは、高度成長がピークを迎えたころだ。企業戦士達は、こぞって海外企業と交流して、外国人を知ることになった。
 
やがて日本が豊かになり、21世紀に入ると世界に認識されるようになって、訪日外国人が急増した。そして街の隅々まで外国人が暮らすようになった。
 

 
長々と外国人のことを書いたのは、アマチュア無線への影響が実に大きいと感じるのです。戦前は特権階級だけが享受していた外国人との交流を、アマチュア無線家は貴賤なく可能にしてくれた。戦後の高度成長の半ば頃までは、夜の静寂から微かに届くDX(遠方)の外国局とQSO(交信)に成功したり、お国柄を感じるQSLカード(交信証)が手元に届くときは、心より誇らしく思えた。
 
QSL-2023
最近届いたQSLカード(交信証)
 
このことが、昭和に青春を過ごしたアマチュア無線家にとって、大きな魅力の一つであった。1980年代に入ると海外に渡航する日本人が増え、外国に対するある種の幻想が徐々に衰えていった。
 
無論、アマチュア無線の楽しみ方は人それぞれで、DX(遠距離通信)、工作や実験、QSLカードの収集、年間数多く開かれるコンテスト参加、アワード集め、ローカルラグチューを楽しむなど多岐にわたる。一方で携帯電話の普及により、無線機を使ったラグチュー(電話ごっこ)の面白さが低下したことも有るだろう。また理科系が軽視される社会情勢も有るかも知れない。
 

 
寄る年波で、ハンダを握る意欲も減退して、「昔はよかった…」と戯言を繰り返している次第です。そこで思い切って、未知なる世界に対して前途洋々たるチャレンジを繰り返した、ハムの原点の時代を、掘り下げて「先人たちは何を考えていたのか?」を考えてみることにしました。
 
rabbit
1ページでは語りつくせませんので「ハム黎明期の探索」と称してシリーズ化する予定です。
 
内容や表現の不備、間違い、誤用、ご質問などはコメント欄からお願いします。閲覧するタイミングによっては、返信に時間がかかる場合がありますのでご承知おきください。
 
 
 
フォロー4649
 



 
 
ハム黎明期の探索 連載リスト
 
  戦前の素人無線局   技術革新とハムの黎明期
  オートダインへの篤い想い    虎の子をはたいたお宝送信管
  盆栽趣味の単球送信機    盆栽趣味は安定電源から
  使えそうなトランスがあった    安定化電源の回路設計
    
昭和41年(1966年)08月18日に電信級アマチュア無線技士(現在の第三級)の免許を取得したのを機会にアマチュア無線局「JA1ULF」を開局しました。29年後の平成07年(1995年)10月31日にJA1ULFのコールサインが仕事の関係で再申請を怠り失効となった。
 
H24-09-28(移動
JH1LMD再開局時の免許状(平成24年)
その後、JA1ULFのコールサインは他の方に移り、友人の勧めもあり平成24年(2012年)09月28日にJH1LMDのコールサインを取得して、アマチュア無線を再開局しました。
 
平成16年(2004年)ごろから、旧コールサインの割り当てを無線局等情報検索したが、JA1ULFの検索結果は「1件」というのが18年間続いた。
 
旧コールサインの復活については、JARLの「旧コールサインを復活しよう!」を参照ください、
 

 
call_S51
開局10年後の呼出符号(昭和51年)
call_H02
開局24年後の呼出符号(平成2年)
call_H24
再開局の識別信号(平成24年)
call_R04
再開局10年後の識別信号(令和4年)
平成02年(1990年)に電話級→四級、電信級→三級へと「無線従事者の資格再編」が行われ、当局は電信級から第三級になった。翌年「日本アマチュア無線振興協会」が設立された。
 
平成05年(1993年)から本格的に「三級、四級アマチュア無線技士の養成課程」がピークをむかえ、アマチュア無線人口は、平成06年(1994年)末で136万人超となり、元祖アマチュア無線大国であったアメリアを抜いて日本は世界一のアマチュア無線大国となった。
 
JA、JH、JRとアマチュア無線の割り当てられたコールサインは、JE、JF、JG、JI、JJ、JK、JL、JM、JN、JP、JQ、JS、7K、7N、8J、8Nと関東エリアでは割当てが飽和状態になっていた。
 
その結果、JA1(関東)とJR6(沖縄県)を除くコールサインの再割り当てを平成06年(1994年)から順次開始された。
 
平成15年(2003年)からJA1が再割り当ての対象となり、当局が再開局しようとした時点でJA1ULFは、すでに他の方に再割り当てされていました。
 

 
旧コールサインにこだわるのは、単なる懐古趣味と一笑されるかも知れません。まさにその通りでしょう。
 
しかし当局にとっては学生時代を過ごしたコールサインで、社会人になってからも144MHzSSBのモービル運用、CQ誌、ハムライフ誌、モービルハム誌への寄稿、ロールコール、JARL周波数委員会など、JA1ULFとしての29年間の軌跡でした。
 

 
今年に入って久々に検索すると「検索結果が0件です」となり、さっそくJH1LMDとして再免許を怠っていた「移動局」の免許で「旧呼出符号希望」を記入して、令和4年(2022年)01月28日に開局申請をしました。
 
ところが令和4年(2022年)02月22日に審査が終了し、届いた免許状には無情にもJH1LMDのコールサインが記載されていた。
 
慌てて関東総合通信局アマチュア局担当((03)6238-1937)に電話で問い合わせると、「同一管内で複数の識別信号は割当てできない」ので、すでに「固定局」として割当てられたコールサインJH1LMDが適用された」とのことであった。
 
平成24年(2012年)09月28日に取得したJH1LMDでは、DXCC146エンティティー/378スロットを取得し、当ブログ、Facebook、Twitterでの交流もある。果たしてJA1ULFにこだわるのか?否か?
 
1週間悩んで結局、固定局、移動局ともに旧呼出符号「JA1ULF」への「無線局の変更申請(届)」を令和4年(2022年)02月28日に申請した。
 
令和4年(2022年)03月22日に審査が完了して、04月01日にJA1ULFの識別信号が記載された無線局免許状が届いた。
 
R04-03-22(固定)ct.jpg
旧コールが復活した固定局免許状(令和4年)
R04-03-22(移動)ct.jpg
旧コールが復活した移動局免許状(令和4年)

平成07年(1995年)以来、27年ぶりの復活である。今後はJH1LMDではなくなるので、JARLの手続き、DXCCの件、所属クラブへの周知、当ブログやSNSの変更を一つずつ解決しなければならない。
 

 
JH1LMD/exJA1ULFからJA1ULF/exJH1LMDになりました。
 
当局は旧コールサインの復活にこれほど時間がかかると思わなかった。諸OMには、仕事や他の趣味でアマチュア無線を忘れている方もおられることと存じますが、多少の迷いがあったとしても、取れる時に「旧コールサイン」を復活されることをお勧めします。
 
 
 
 
フォロー4649
 


 
 
CO-90W
アイデアル CO-90W
中華電源を収納するケースを、前回までは「中華激安電源の工作妄想」でリードのフタ付きシャーシ P-311(税別 2,112円)を検討していた。
 
購入直前にマルツでアイデアル(摂津金属工業)のモジュールケース CO-90W(税別 1,660円)を見つけました。(価格は2021年4月1日現在)
 
 
アイデアルCO-90Wは前後のパネルが7mmセットバックしているため奥行きは190mm-14mm=176mmになる。P-311(奥行 180mm)より奥行が少し小さい。一方、リードP-311の高さ70mmに対してCO-90Wが90mm(ゴム足を除く)と20mm高い。
 
シャックの配置から、できるだけ薄くしたかったのが、手ごろな既製品が乏しく値段に負けた。
 
安いケースには有りがちだが、CO-90Wもパネルの固定が難しい。今回はあまり操作することもないので、気にならないと思うが、あまりひどいようであれば側面からビスで固定することも考えます。
 

 
そこでCO-90Wをもとに、集まった部品と加工部品の配置を考えてみました。グーグル・ドライブに原画を入れてあるので、各画像をクリックすると、大画像をご覧いただけます。
 
RU
外観上面図
 
カバーは0.8mmt鉄板をメラミン塗装しているが、緑色は当局の趣味と違うので、再塗装も考えたいと思っています。また通風孔があるのも電源ユニットに適しているだろう。
 
LU
上面部品配置断面図
 
ボディは1.0mmtカラーアルミで、前後パネルとボディが一体構造になっている。前回の「大電流コネクタで苦戦」で作ったコネクタのおかげで、配置スペースにもゆとりができた。
 
出力には、5.5mmSqの電線を引き回すので、実際には相当窮屈になるだろうと思います。
 
RS
側面部品配置断面図
 
今回は2cm高くなったので中華電源S-360-12の上に親亀の上に子亀でコモンモードフィルターを置くことにする。
 
出力端子には、計装、制御盤などで使われるショートバーを使いたいところだが、端子台がインチ系なので圧着端子を単芯銅線でつないでショートバー代わりにした。
 
LFT
外観前面図
 
前後面パネルが一体化された構造なので、シルバー処理のままでも良いが、穴あけ加工するので後処理として塗装することを考えた。
 
レイアウト的に少し間が抜けたのでレタリングを入れてみた。前面にも出力端子(ジョンソンターミナル)を設けたのは、通常機器以外に電源供給する際に使用する。
 
LBT
外観背面図
 
この中華電源はmax30Aなので、100W級2台の同時送信はできない(まずないだろう)が、今回作ったコネクタを2個並べた。なにせ安かった。
 
裏面にもアクセサリーなどの電源供給に、抜き差し容易なバナナチップが使えるジョンソンターミナルを使った。
 

 
次回はこのレイアウトをもとに穴あけ加工図を作成する予定です。
 
 
 
 
フォロー4649
 


100W機に対応できる30A以上の許容電流をもったコネクタは、どれを探しても数K円以上と大変高価だ。折角、ローコストな中華電源に相応しくない。
 
今回はケースのパネルに取り付け可能なコネクタを探していたが、ケーブル間に入れる中継型のコネクタであれば比較的安価なモノもある。そこで中継型コネクタをパネルに取り付けることを考えました。
 

 
XT-90H
選択したコネクタは「Changzhou Amass Electronics」の「XT-90H」というシリーズだ。
 
データシートによると、定格電流45Aで尖頭電流90Aになっている。コンタクトを見る限り高耐電流の仕様には間違いなさそうだ。
 
推奨電線が10AWG(5.26mmSq相当)というのも、5.5mmSqまでならハンダ付けがしやすそうだ。
 
マルツの通販サイトでメス(XT90H-F)140円、オス(XT90H-M)140円売っていた(2021年3月31日現在)。マルツが売っているので少しは安心できそうだ。
 
販売のページ(メス)https://www.marutsu.co.jp/pc/i/1359459/
販売のページ(オス)https://www.marutsu.co.jp/pc/i/1359460/
 

 
このメス側コネクタに手作りのフランジを接着して、パネルに固定しようと考えた。フランジは使い古した物差し(アクリル製2.5mmt)を40×20mmに切って準備した。
 
draw
 
Flange
難関はコネクタを差し込む穴で、ヤスリで少し削っては現物合わせするという気の遠くなる手作業だった。
 
コネクタ本体の0.3mmの突起をストッパーに利用するため、フランジを削り過ぎれば即お釈迦。見た目は良くないが、ピッタリと勘合した。
 
縦横5mmピッチで入っている線は、物差しの名残りで穴あけのガイドにもなった。
 

 
一般的にプラスチック・コネクタの多くは、接着に向かないナイロン系の素材が使われている。このXT-90HのケースもPA(ポリアミド)とあり、エンジニア・プラスチックの一種だ。
 
ppx
ABSと同じような見た目だったので、愛用している「アロンアルファEX」で試したが、全く歯が立たない。
 
色々調べて、セメダイン PPXセット CA-522がナイロン系に強いことを知った。
 
モノタロウで売っていたので税別999円(2021年3月31日現在)で購入した。接着剤にしては高価だが、評判に期待した。
 
 
PPXセットは、下地処理のプライマーとシアノアクリレート接着剤がセットになっている。フェルトペン形状のプライマーを塗って、1分以内に接着を行う。
 
この1分以内というのは大変で、あらかじめ接着剤を段取りして、素早く接着する必要がある。
 
XT-90H-F XT-90H-MF
瞬間接着剤なのだが、丸1日置いてから強度を加えたり、オスメスを勘合したり、着脱したり試したが、しっかり付いているようだ。
 

 
手間は食ったが、これで許容電流45Aのコネクタになれば、安いモノだと思います。
 
次回からケースを加工して組み立てる作業に入るが、前回まで予定していたパネル付きシャーシ「リードP-311」ではなく、アイデアル(摂津金属工業)の「CO-90W」に変更する予定だ。
 
 
 
 
フォロー4649