明治16年(1883年)、トーマス・エジソンが白熱電球の劣化を研究中に発見したエジソン効果が発端となって、明治37年(1904年)にジョン・フレミングがフィラメントの周囲を金属板(プレート)で覆い、検波機能を持った真空管を発明した。
 
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Fleming
フレミング・バルブ(1904)-PA情報局
RE-88
TELEFUNKEN RE-88(1925)-grandpas-shack
DeForest
ドフォレストのオーヂオンバルブ-Wikipedia
フレミングの二極真空管に続いて、2年後の明治39年(1906年)リー・ド・フォレストは、フィラメントとプレートの間に電子の流れを制御するグリッドを設けたオーディオン・バルブ(三極真空管)を発明した。
 
火花送信機
日露戦争当時の36式無線電信機
これにより1920年代では、感度が低く動作の不安定だった鉱石検波式ラジオから、乾電池または蓄電池を使った本格的な真空管ラジオで、放送の時代を迎えた。
 
同様に送信機(電信機)も、日露戦争以来使われてきた火花送信機から、真空管式の送信機に取って代わっていった。
 

 
kwm-2
Collins KWM-2のフォーンパッチ
ところで日本では無線従事者以外の第三者通信は、アマチュア無線設備で音声を送ることが出来ない。一方、アメリカでは、有線電話のつながらない地域や、つながりづらい地域などから、アマチュア無線局が地域間の有線電話回線を無線中継する「フォーン・パッチ」(第三者通信)が合法的に行われていた。「ARRL」とは「American Radio Relay League」の略称なのだ。
 
こうした法規制の違いから、アメリカでは無線電話(A3)の時代を迎えると、アマチュア無線人口は急激に増加した。コリンズなどのハム用機器の多くに、フォーン・パッチ端子が標準装備されていた。
 

 
話を黎明期に戻すが、大正4年(1915年)に無線電信法が改正されて、私設無線局(素人無線局)の開局が許可さた。実際には大正11年(1922年)2月に東京発明研究所の濱地常康氏(東京一番・二番)、同年8月に後の放送事業に携わった本堂平四郎(東京五番・六番)が無線電話、大正12年(1923年)日本におけるエレクトロニクスの開拓者と云われる安藤博氏氏(JFPA、東京十九番)無線電話と無線電信の許可がおりた。
 
現代の電子技術革新にも増して、1910年~1920年には世界中の技術が急激に進歩した。こうした時代背景の中で、大正3年(1914年)にアマチュア無線家によるアメリカ無線中継連盟(ARRL)が創設された。
 
ただし、日本アマチュア無線連盟の年表には、上記3名は登場しない。いずれも発明家や事業家であったことで職業人と判断され、「アマチュア精神」から排除されたのだろうか?
 
当時は、アマチュアと業務実験の境界がなく、東京朝日新聞社(東京三番・四番)、東京日日新聞社(東京七番・八番)、日華無線電信機製造所(東京九番・十番)、報知新聞社(東京十番・十一番)、無線科学普及展覧会(東京十二番)、帝国ホテル(東京十三番・十四番)、東京毎夕新聞社(東京十三番・十四番)、横浜貿易新報社(横浜一番・二番)、新愛知新聞社(名古屋一番・二番)、新愛知新聞社(岐阜一番・二番)、日本生命保険株式会社(大阪五番・六番)、大阪毎日新聞社(大阪五番~八番)、南満州鉄道株式会社(大連六番・七番)など企業や団体への許可も行われていた。
 
放送マイク
放送局仕様のカーボンマイク
これら私設無線電話局に与えられた「東京X番」は無線電話局の呼出符号で、昭和2年(1927年)に国際呼出符字が私設実験局(含むアマチュア)にも摘要されるまでのコールサインであった。
 
さらにラジオ放送の実験放送なども一くくりに私設無線局に区分され許可され、全国各地の新聞社や企業などで実験がで行われていたようだ。
 

 
1920年代に入るころには、真空管の入手も比較的容易になり、無許可の無線局(アンカバー)が中波帯に出没し、船舶無線やラジオ実験放送への妨害となっていた。所管していた逓信省は、当時未開とも云える短波帯に「実験用私設無線電信無線電話」を、昭和元年(1926年)10月安藤博氏(JFPA)に短波帯の使用を許可し、翌昭和2年(1927年)4月に楠本哲秀氏(JLZB)と有坂磐雄(JLYB)、5月には國米藤吉氏(JMPB)、9月には草間貫吉氏(JXAX、草間貫吉)を許可していった。
 
1920年代には日本でも無線電信(A1orA2)によるアマチュア無線が増加し、大正15年(1926年)6月に日本素人無線聯盟(JARL=後の日本アマチュア無線連盟)が結成された。
 
QST
ARRL QST誌(1926年8月) 48p~49p
 
この時、JARL結成の宣言文が全世界に電信で打電された。大正15年(1926年)8月の米国QST誌にJARL発足の件が掲載されている。QST誌によると「u6BQはpi1HRから『日本では送信が許可されてない』と言っていたが、jlKK(草間氏)のメッセージを受けたu6DCQは。JARLが結成され、またu6BQもj1TS、j1SS、j1TM、j8AA、j1ZQ、jASM、j1SK、jlKKを確認している」と書いてある。
 
国家間の交流はあっても、国民相互の交流はほとんどない時代の出来事だった。日本からは「the Japanese Amateur Radio League」と送信しているのに、米国側では「the Japanese Radio Relay League」と勝手に書いているのも面白い。
 
戦前は余程の上級国民でもない限り、外国人と接することはなかった。大東亜戦争の終戦までは、朝鮮半島と台湾そして南洋諸島は、日本の統治下にあった。一般庶民から見れば、「外国人」と云えばせいぜい支那人と満人だったのだろう。
 
進駐軍が全国各地を闊歩したことによって、初めて日本人以外を見た人々も多かっただろう。それでも一般サラリーマンが外国人と直接触れ合うようになったのは、高度成長がピークを迎えたころだ。企業戦士達は、こぞって海外企業と交流して、外国人を知ることになった。
 
やがて日本が豊かになり、21世紀に入ると世界に認識されるようになって、訪日外国人が急増した。そして街の隅々まで外国人が暮らすようになった。
 

 
長々と外国人のことを書いたのは、アマチュア無線への影響が実に大きいと感じるのです。戦前は特権階級だけが享受していた外国人との交流を、アマチュア無線家は貴賤なく可能にしてくれた。戦後の高度成長の半ば頃までは、夜の静寂から微かに届くDX(遠方)の外国局とQSO(交信)に成功したり、お国柄を感じるQSLカード(交信証)が手元に届くときは、心より誇らしく思えた。
 
QSL-2023
最近届いたQSLカード(交信証)
 
このことが、昭和に青春を過ごしたアマチュア無線家にとって、大きな魅力の一つであった。1980年代に入ると海外に渡航する日本人が増え、外国に対するある種の幻想が徐々に衰えていった。
 
無論、アマチュア無線の楽しみ方は人それぞれで、DX(遠距離通信)、工作や実験、QSLカードの収集、年間数多く開かれるコンテスト参加、アワード集め、ローカルラグチューを楽しむなど多岐にわたる。一方で携帯電話の普及により、無線機を使ったラグチュー(電話ごっこ)の面白さが低下したことも有るだろう。また理科系が軽視される社会情勢も有るかも知れない。
 

 
寄る年波で、ハンダを握る意欲も減退して、「昔はよかった…」と戯言を繰り返している次第です。そこで思い切って、未知なる世界に対して前途洋々たるチャレンジを繰り返した、ハムの原点の時代を、掘り下げて「先人たちは何を考えていたのか?」を考えてみることにしました。
 
rabbit
1ページでは語りつくせませんので「ハム黎明期の探索」と称してシリーズ化する予定です。
 
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