しばしば「キリスト教は西洋の思想」といったことを耳にするが、
キリスト教は古代オリエント(中近東)発祥なので、
現在の基準からすれば、東洋思想というべきかもしれない。
仮にキリスト教が西洋思想だとすれば、北部インド人は印欧語族なのだから、
北部インド発祥の仏教も西洋思想に数えても良いはずだ。
まあ、これはあくまで冗談めかした極論に過ぎないが、実際のところ、
世界宗教はすべて中近東から南アジアにかけての狭い範囲で生まれている。
よって、宗教思想を単純に冷戦思考=東西で分けて考えるべきではないことが分かる。
ちなみに、このユーラシア大陸のほぼ中央部にあたる地域こそ、
人類史における宗教思想のハードランド(心臓部)であり、
現在に至るまで三大宗教を越える宗教体系は誕生していない。
つまり、世界宗教に限って言えば、そこには東西は存在し得ないのだ。
ところで、ラテン語で宗教は「再帰的束縛」を意味する religio という。
すなわち、個人の生活を至るところで拘束する決まり事を意味する。
それは生活上の決まりでもあり、宗教儀式上の決まりでもある。
こういった各種の決まり事を守ることで、人間は超越的存在との結び付きを再確認する。
この「結び付きの再確認」も religio と言い表すことが出来よう。
(※前者はキケロ説、後者はラクタンティウス説)
さて、世界宗教は心臓部で生まれたが、世界中へ伝播するに従って大きく変貌を遂げた。
キリスト教は西洋へ向かい、仏教は東洋に向かった。
イスラム教は中近東周辺から同心円状に広まったが、ここではあえて触れないでおく。
中心部から離れることによって各宗教はどのように変わっただろうか。
俗に言われるように、西洋と東洋の宗教観は大きく異なるのだろうか。
実際は「ほとんど同じような変貌を遂げた」と言って良い。
例えば、西洋の極としてイギリス、東洋の極として日本を挙げて考えてみよう。
イギリスには聖公会があり、日本には浄土真宗があるが、
端的に言って、これら二つの宗教は良く似ている。
宗教が個人生活に不都合を生じさせないように上手く出来ているのだ。
宗教 religio が「束縛」を意味するとすれば、
必然的に宗教とは個人生活にある種の支障をもたらすものである。
しかし、聖公会は、当時の英国王が個人的な理由で離婚するために創始されており、
様々な点で個人生活に都合が良いように作られている。
また、浄土真宗は「悪人正機」といった具合に
どのみち誰であれ仏の慈悲によって救済されると主張しており、
言い方は悪いが、「何でもアリ」な人生観である。
この両派は明らかに個人生活に支障をもたらさない。
すなわち、宗教本来の意図からは逸脱している。言い換えれば、世俗化している。
これは偶然の一致ではない。
世界宗教はユーラシア中央部から発生して、その周辺部で布教上の理由から必ず世俗化する。
例として挙げれば、クリスマスは冬至を祝うローマの民俗行事を起源だし、
お盆の風習は先祖供養が仏式で行われるようになったことを起源とする。
また、世俗化することで宗教的機能を失い、形骸化する。
形骸化した宗教は、個人の心理的な救済機能を失う代わりに、
個人生活に何の支障ももたらさない。すなわち、個人を自由にする。
無論、個人を縛り付けるものは宗教のみならず、社会風習や政治制度などがあるため、
イギリス人であれ日本人であれ、完全に自由な身というわけではないが、
少なくともハートランドの人々に比べれば、格段に宗教的拘束から自由である。
ここまで来て良く考えてもらいたいのは、
宗教思想には東西があるのではなく、中心と周辺があるということだ。
発祥地から近いか遠いか、その遠近が内実に決定的な違いをもたらす。
そして、宗教思想に違いがあるとすれば、それは人生観や規範的思考の差とも言える。
つまり、私たち日本人は同じアジアだからといって
インドやチベットといったアジアの人々と考え方が近いと思い込んでいる節があるが、
実際のところ、考え方が正反対だと思い込んでいるヨーロッパ人、
特にイギリス人と良く似た人生観を有しているのだ。
そう考えれば、欧米人が日本を評価するのは実に単純なことで、
考え方に似通っているからに過ぎない。
また、「栄光ある孤立」が国是であるはずの大英帝国が
日本との軍事同盟(=日英同盟)を結んだのも、単に地政学的な理由だけではなく、
両国間の心理的距離感の「近さ」が背景にあったのである。