逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯 -24ページ目

逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯

A Counterpoint of the Formless Self and the Omnipotent

哲学者カール・ポパー は、人間の物の見方について


バケツとサーチライトという二つの類型を用いて説明している。



バケツ型とは、人間は環境から情報をありのまま受け取るのであり、


同じ事物から受容される情報は万人共通である、という考え方。


サーチライト型とは、人間は環境から情報を


各人の偏見や思想といった色メガネを通して受け取るため、


同じ事物であったとしても情報の中身は異なる、という考え方。



ポパーは前者の考え方は間違いであり、後者が実態に即していると考えた。


では、ポパーの考えは正しいだろうか。考察してみよう。



例えば、「渡り廊下走り隊 」を例に挙げてみる。


このアイドルグループの中で「一番カワイイ女の子」は誰だと訊かれれば、


ある人は「まゆゆだろ常考」と答え、別の人は「わさみんハァハァ」と答えるかもしれない。



しかし、この名指し(メンバー名)と内容(一番カワイイ)には必然的な関係はない。


ある人物にとって最も愛らしいと思える人物でも、別の人物にとってはそう思えない。


こういうことは良くあることで、不思議なことでも何でもない。



仮にバケツ型が正しいとすれば、ある人と別の人が各々異なったメンバーを


最も萌えるメンバーとして名指しすることはあり得ない。


そして、それが まゆゆ や わさみん であるわけがない。 ← サーチライト型思考



つまり、ポパーが言った通り、私たち人間は環境から受け取った刺激に対して


各人の好みや信念といった「味付け」をした上で受容=認識していることが分かる。


同じ事物であったとしても、各人にとって受け取り方は異なる。


極論を言えば、ある対象についての認識内容は、人の数だけ異なるというわけだ。



ただし、ポパーならば更にこう付け加えただろう。


はるごん激萌え、と。

ある作品を楽しんだ結果として、


その作品の表面的なメッセージをそのまま鵜呑みするほど、多くの人間は単純ではない。



例えば、殺人鬼を題材にしたマンガを読んだ結果として、


殺人鬼になることを憧れるような人間は多いだろうか。


少なくとも、(直感的に考えて)平均的な思考の持ち主だろうか。



あくまで直感主義に徹するならば、


逆に人を殺すことの罪深さを再認識して人命をもっと大切にしよう、


と考える方がより自然に思えてならない。



あるいは、凄惨な死体の有様を通して


殺人という行為の残虐性を理解するということも十分に考えられるだろう。



ところが、世の善良な大人たちは、


児童ポルノを題材にした創作物に関しては然に非ず、と考えているらしい。


子どもが性的対象として扱われる作品を目にした途端、


その読者は子どもに性的虐待を加えることに関心を持つ、といった具合だ。



そういった考え方をする人々は、不倫を題材にした作品を目にした途端、


不倫をしたくて堪らなくなるのかもしれないが、それは平均的な反応ではない。



実際、人間の脳は前頭葉が極度に発達しているため、


環境から受け取った刺激に起因する情動を適切に抑制することが出来る。


一方、昆虫は受け取った刺激にそのまま反応する。


つまり、人間は明らかに昆虫のような生物ではない。



結論として、児童ポルノ的創作物への規制を


「犯罪を助長するから」といった理由で賛成する人々は、


それが人間性の冒涜であることを理解していない。



しかし、規制派が児童ポルノ的創作物こそが


「人間性の冒涜」と主張していることを考えると、何とも皮肉な話ではある。



ところで、仲川遥香は見た目は U-15 でも年齢的には成人しているので、


色んな妄想をしても一向に差し支えないことを忘れてはならないんだよ。

某所で外国人と会話していたら、ビッグマックを食べたことがないという人がいたので


「アップルストアではビッグマックは売ってないよ。マックは売ってるけどね」


(No wonder, in Apple Store you can't get any Big Mac, even though they sell Macs.)


と絶妙なユーモアを混ぜた会心のジョークを飛ばしたつもりが、


リアルに怒られた (´・ω・`)ナゼ



もしかすると、相手はアップル信者か、あるいは逆に相当にアップル社が嫌いで


アップルの名を不用意に出されたのが気に入らなかったのかもしれない。



理由はよく分からずじまいだったけど、ようするにコンピュータ関係のジョークは、


受け手によっては「宗教問題」になるので出来るだけ避けた方が良い、


ということなのだろう。

ィソ夕-ネッ卜を楽しんでいると、


コソヒ゜ュー夕の排熱が部屋の気温を致命的に上昇させる。


そんな真夜中のお話・・・。



無力な小市民である小生に出来ることと言ったら、


エアコンの設定温度を 18 度にすることくらいしかない。


熱交換器の調子悪いから、半端な温度設定では熱くて仕方がない。



節電はみんなで頑張ってネ!


恨むなら電力会社か神様にしてくれ。



あとは頼むぞ (´^ε^)ノシ

しばしば「キリスト教は西洋の思想」といったことを耳にするが、


キリスト教は古代オリエント(中近東)発祥なので、


現在の基準からすれば、東洋思想というべきかもしれない。



仮にキリスト教が西洋思想だとすれば、北部インド人は印欧語族なのだから、


北部インド発祥の仏教も西洋思想に数えても良いはずだ。



まあ、これはあくまで冗談めかした極論に過ぎないが、実際のところ、


世界宗教はすべて中近東から南アジアにかけての狭い範囲で生まれている。


よって、宗教思想を単純に冷戦思考=東西で分けて考えるべきではないことが分かる。



ちなみに、このユーラシア大陸のほぼ中央部にあたる地域こそ、


人類史における宗教思想のハードランド(心臓部)であり、


現在に至るまで三大宗教を越える宗教体系は誕生していない。


つまり、世界宗教に限って言えば、そこには東西は存在し得ないのだ。



ところで、ラテン語で宗教は「再帰的束縛」を意味する religio という。


すなわち、個人の生活を至るところで拘束する決まり事を意味する。


それは生活上の決まりでもあり、宗教儀式上の決まりでもある。


こういった各種の決まり事を守ることで、人間は超越的存在との結び付きを再確認する。


この「結び付きの再確認」も religio と言い表すことが出来よう。


(※前者はキケロ説、後者はラクタンティウス説)



さて、世界宗教は心臓部で生まれたが、世界中へ伝播するに従って大きく変貌を遂げた。


キリスト教は西洋へ向かい、仏教は東洋に向かった。


イスラム教は中近東周辺から同心円状に広まったが、ここではあえて触れないでおく。



中心部から離れることによって各宗教はどのように変わっただろうか。


俗に言われるように、西洋と東洋の宗教観は大きく異なるのだろうか。


実際は「ほとんど同じような変貌を遂げた」と言って良い。



例えば、西洋の極としてイギリス、東洋の極として日本を挙げて考えてみよう。


イギリスには聖公会があり、日本には浄土真宗があるが、


端的に言って、これら二つの宗教は良く似ている。


宗教が個人生活に不都合を生じさせないように上手く出来ているのだ。



宗教 religio が「束縛」を意味するとすれば、


必然的に宗教とは個人生活にある種の支障をもたらすものである。



しかし、聖公会は、当時の英国王が個人的な理由で離婚するために創始されており、


様々な点で個人生活に都合が良いように作られている。



また、浄土真宗は「悪人正機」といった具合に


どのみち誰であれ仏の慈悲によって救済されると主張しており、


言い方は悪いが、「何でもアリ」な人生観である。



この両派は明らかに個人生活に支障をもたらさない。


すなわち、宗教本来の意図からは逸脱している。言い換えれば、世俗化している。



これは偶然の一致ではない。


世界宗教はユーラシア中央部から発生して、その周辺部で布教上の理由から必ず世俗化する。


例として挙げれば、クリスマスは冬至を祝うローマの民俗行事を起源だし、


お盆の風習は先祖供養が仏式で行われるようになったことを起源とする。



また、世俗化することで宗教的機能を失い、形骸化する。


形骸化した宗教は、個人の心理的な救済機能を失う代わりに、


個人生活に何の支障ももたらさない。すなわち、個人を自由にする。



無論、個人を縛り付けるものは宗教のみならず、社会風習や政治制度などがあるため、


イギリス人であれ日本人であれ、完全に自由な身というわけではないが、


少なくともハートランドの人々に比べれば、格段に宗教的拘束から自由である。



ここまで来て良く考えてもらいたいのは、


宗教思想には東西があるのではなく、中心と周辺があるということだ。


発祥地から近いか遠いか、その遠近が内実に決定的な違いをもたらす。


そして、宗教思想に違いがあるとすれば、それは人生観や規範的思考の差とも言える。



つまり、私たち日本人は同じアジアだからといって


インドやチベットといったアジアの人々と考え方が近いと思い込んでいる節があるが、


実際のところ、考え方が正反対だと思い込んでいるヨーロッパ人、


特にイギリス人と良く似た人生観を有しているのだ。



そう考えれば、欧米人が日本を評価するのは実に単純なことで、


考え方に似通っているからに過ぎない。


また、「栄光ある孤立」が国是であるはずの大英帝国が


日本との軍事同盟(=日英同盟)を結んだのも、単に地政学的な理由だけではなく、


両国間の心理的距離感の「近さ」が背景にあったのである。