★今日のベビメタ
本日12月11日は、2016年、Red Hot Chili Peppers UKツアーのSpecial Guestとして、バーミンガム、GENTING ARENA(2日目)に出演した日DEATH。
小島ファッションマーケティング代表の小島健輔氏によれば、「カワイイ」のサブカルチャー化は、大正時代に始まったという。
日本では、夫が出勤し、妻が家事を分担する「勤め人」のライフスタイルは、大正時代の都市生活者から始まった。
大阪梅田から郊外の宝塚まで延伸した阪急電鉄が、乗客誘致策として宅地開発を行い、その延長で宝塚歌劇団を創ったのは大正3年(1914年)。
大正時代には、吉屋信子の「花物語」や川端康成の「乙女の港」といった少女を主人公にした小説や、『令女界』や『少女倶楽部』(のちに『少女フレンド』に発展)といった少女雑誌が創刊され、竹久夢二、高畠華宵、中原淳一といった美人画家たちも活躍した。
江戸時代に鈴木晴信が描いた茶屋娘「お仙」の浮世絵が、日本初のアイドル・ブロマイドであるという説があるが、大正期から昭和初期までの美人画家たちが描いた少女の姿は、少なからぬ男性ファンがいたとはいうものの、基本的には若い女性を購買対象としたものであり、サブカルチャーとしての少女文化を形成したという意味で、「カワイイ」の原点かもしれない。
東京・浅草に少女歌劇(レビュー)の「カジノ・フォーリー」が開演したのは、それよりやや下った昭和元年(1926年)である。
これが秋葉原AKB劇場の原型だという人もいるが、ぼくにはKOBAMETALが、まだ小学生だった中元すず香の歌声を聴いて、「メタル少女歌劇団」を構想し、それがBABYMETALになり、2012-13年のLegend “I・D・Z”で花開いたという事実が想起される。
戦時中、「欲しがりません勝つまでは」のスローガンの中で大正~昭和初期の「Kawaii文化」は壊滅してしまい、終戦直後はアメリカ文化の影響力が強くなる。
例えば、女児向けの着せ替え人形「バービー」(マテル社)はアメリカ人がデザインしたので、「Sexy」でグラマーである。実は高度な技術を駆使して製造にあたったのは日本の企業であり、1959年にアメリカで発売されると爆発的に売れたが、日本では、値段が高かったこともあって、なかなか売れなかった。
ところが、1967年にタカラ(現タカラトミー)から、日本人のプロポーションに合わせた「リカちゃん」が発売されると大人気となり、バービーは一時日本市場から撤退してしまう。
このように、1960-70年代の高度経済成長期になると、日本のサブカルチャーは、アメリカ文化の影響を脱して、日本的な「カワイイ」文化が再び主流になってくるのだ。
メイン媒体となったのは、『なかよし』(創刊1954年)、『りぼん』(同1955年)、『少女フレンド』(同1962年、旧少女倶楽部)、『マーガレット』(同1963年)、『少女コミック』(同1968年、現Sho-Comi)、『ちゃお』(同1977年)、『花とゆめ』(同1974年)といった少女コミック誌だった。
少女コミックに描かれた人物は、男女とも顔の半分近い大きさの目を持ち、瞳の中に星やハートが踊り、西洋人のように鼻が高く、8頭身、10頭身は当たり前といった非現実的なプロポーションだったが、それもまた「カワイイ」の表象だった。
『魔法使いサリー』(1966年)以降は、少女向けアニメも始まり、小中学生男子、すなわち少年同様、小中学生女子=少女も、消費者として商品企画の対象となる。
少女コミックやアニメのキャラクターだけでなく、もう一つ「カワイイ」を象徴する商品が1970年代に生まれる。
1975年に発売されたサンリオのキャラクター「ハローキティ」である。
現在、正規品が販売されているのは世界70か国といわれるが、不正・劣化コピー商品は、ほぼすべての国で販売されているだろう。
1986年に公式ファンクラブが発足。2006年には外務省の観光大使に任命されるなど、キティちゃんは日本のサブカルチャーの象徴にもなった。
ちなみに菊地最愛の体重は、キティちゃんの「リンゴ3個分」にならって、さくら学院転入時には「コアラ3匹分」だったが、2011年には「コアラ4匹分」になった。
2000年代に入ると、政府の公的機関が「カワイイ」文化を意識的に海外に向けて発信するようになる。
NHKは、2008年4月~2013年3月まで約5年にわたって、土曜深夜枠で『東京カワイイ★TV』という番組をスタートさせた。内容は10代~20代の女性のファッションやアクセサリーなどの流行を紹介するもので、上海など海外でも放映された。
外務省は2009年2月26日に、「ポップカルチャー発信使(通称「カワイイ大使」)」として、藤岡静香、青木美沙子、木村優の女性3名を任命し、彼女たちは1年間にわたって日本の「カワイイ文化」を海外に向けて発信した。
「カワイイ」はやがて海外で「Kawaii」と呼ばれるようになり、2010 年4月にハワイで行われたコミック・コンベンションのタイトルは“Kawaii Kon”だった。
2010年6月、経済産業省内に「クールジャパン室」が設置され、「クールジャパン戦略」は国策となる。2013年11月、政府と電通など官民ファンドによる海外需要開拓支援機構(愛称:クールジャパン機構)が設立され、「クールジャパン推進会議」にはAKB48のプロデューサー秋元康も加わっていた。
当時、AKB48はシンガポールにグッズの直営店を持ち、そこを拠点にアジア各国に展開しようとしていた。しかし、シンガポールの店は2013年末には閉店に追い込まれ、AKB48本体がツアーライブを行うのではなく、国内同様、市場となる現地に、現地出身者をメンバーにした拠点を設けるJKT48(2011年~インドネシア・ジャカルタ)、SHN48(2012年~中国・上海、2016年に契約解消)のビジネスモデルが成功事例となった。
ちなみに、現在、AKBグループの海外拠点としては、JKT48のほか、BNK48(2017年~タイ・バンコク)、MNL48(2018年~フィリピン・マニラ)、SGO48(2018年~ベトナム・サイゴン)、CGM48(2019年~タイ・チェンマイ)が、姉妹グループとしてはAKB48 Team SH(2018年~中国・上海)、AKB Team TP(2018年~台湾・台北)が活動している。
2012年12月に第二次安倍政権が発足すると、「クールジャパン戦略担当大臣」が設けられた。2014年5月、初渡欧直前のBABYMETALが稲田朋美大臣室に呼ばれたのは、K-POPが欧米でウケているのに対して、日本の大衆音楽はアジアどまりであるという課題があったためだった。
K-POPは「Kawaii文化」とは無縁である。
とりわけ女性グループに関しては、欧米人と同じような「Sexy」なプロポーションと整った美人顔、よく訓練されたチームダンスが売りであり、それがウケていた。
いかにして「Kawaii文化」でありながら、欧米人に受け入れられるか。
稲田朋美大臣との対談では、YouTubeの公式MV「ギミチョコ!!」が海外で話題になっていたとはいえ、渡欧前のBABYMETALは確信を持った処方箋は示せなかった。何しろ、YUIとMOAはまだ中学3年生、SU-も高校2年生だった。
だが、渡欧してみると、答えは簡単に出た。
出演したSonisphere 2014で、BABYMETALは、待ち構えた6万人のメタルヘッズをノックアウトしてしまったのである。
(つづく)