仏画を極めるために、作業所に通う事にした。


菊陽病院のデイケアの責任者から「不満があるならば来なければいいじゃん。」と言い放たれた事が後押しとなった。


この言い放った相手はそもそも自分の責務を果たす事なく、安直な排除の理論を出した事は非常に腹が立つ。


この相手は私にこう言った。


「私は徹底的に調べなければ気が済まない性分なので、調べてから返事をします。」



しかし、いつまでたっても音沙汰なし。


調べてから返事をすると言う事は、どんな行動が行われ、どんな話の内容が返ってくるのか、その返事としては私の文章の内容が正しいのか間違いなのかを吟味してそれに対して批判をする事である。


しかし、その人がやった事はめんどくさがり簡単で単純な排除理論にしがみついたのであり、そもそも返事の内容として的ハズレである。そして、排除理論を出したら、それは一方的な問題解決の手段であり、事態の強制終了を意味する。


私は怒った。もういい、今はネット社会、菊陽病院デイナイトケアの参加者として経験したエスノグラフィーを作り、ホームページ上で永遠に社会保存を行う事にする。


http://www.ookawa.com

↑私のホームページ



と、ここまで、見た第三者の人は何の事だか判らないと思います。今の段階はそれでしかたありません。この

記事は判る人には判る内容となっていますから。



しかし、まー別の人が利用者の前で「社会を良くする為に声をあげなければならない。」とは言ったが、本当に声を上げたらどうなるかが良く判った。難しい漢字を読めるようにしようとかではなく、まさかのまさか、ひらがなの数え方、基本の基本の間違いの指摘して、それの変更を求めたら突っぱねるんだもんなー


「我々は困らない。」だとさ。


そりゃ職員の立場ならば困るわけないだろ。恥をかくのは職員ではなく利用者なのだから。


本来、デイナイトケアは利用者にとっては人生の乗換駅でなければならない、しかし、職員は終着駅にしてしまっている事に全く気がついていない。プログラムは常に「This is a pen.」である。物事の習得には基本があってその先に応用がある。応用があってこそ新しい社会に乗り変える事ができるのである。その応用にあたるのが「自主活動」である。自分でやることを決め、自分で計画し、自分で行動し完成させる。ここでのデイナイトケアのプログラムでは「自分で」の部分が「職員が」になっているのである。「自分の頭で考える」重要性が全く認識される事なく職員は仕事に流されているだけなのである。

ソウルの南大門のヒルトンホテルにあるセブンラックカジノにシングルゼロのラピッドルーレットが昨年の二月に導入された。その情報を入手して以来、どんなものか試したかったのだが、今回その体験をしてきた。


結果は20万ウォン程の勝利で終わった。


普通のルーレットはプラスチックで出来たコイン(チップ)を一つ一つディーラーが手で処理しながらルーレットも回すのに対して、ラピッドルーレットとはルーレットは人で回すが、掛け金は機械操作で受け付けるもので、当りの配当も自動的に行われるために、ディーラーは単にルーレットを回すだけで済むシステムである。なので一回当りのゲーム数が格段に多い、大体40秒に一回の設定である。通常のルーレットはどれだけ速くても一時間20ゲームが精一杯である。


このラピッドルーレットの最低掛け金は配当三倍以下の部分は4000ウォン、それ以上の配当部分は2000ウォンである。速いゲームと低配当部分の高い最低掛け金で最初は面食らったが、そもそも大穴狙いの私は2000ウォンの部分しか掛けないので、まっいいかとなった。


シングルゼロのみと言う事は寺銭は2.5パーセント程、シングルゼロとダブルゼロが二つがある通常のルーレットの半分のリスクである。だからゲーム回数を上げて最低掛け金を高く設定したのだな・・・・同じラピッドルーレットタイプは同じソウルのウォーカーヒルにもあるが、こちらは普通のルーレットを使用している為に最低掛け金は500ウォンからとなっている。実はこのウォーカーヒルのラピッドルーレットでは私は一度も勝った事が無い。寺銭5パーセント超えでの長時間ゲームはやはり運が見方しても勝てないのだ。


そして、ラピッドタイプは相手が機械なので常に孤独だ。普通のテーブルを囲むルーレットはゲームが遅い為に参加者同士世間話もはずむから一種の社交場の側面もあるが、ラピッド型はそれが無い、次から次に進むゲームに隣同士でさえ打ち解ける暇も無い。


ルーレットはやはりシングルゼロのみのマカオでやるべきゲーム。テーブルを囲んでやるゲームだと思った。

 遅ればせながらと言うか、やっとアイポッドを買った。最近のアイポッドタッチはアイフォンに電話機能を無くしただけのような物になった。勿論wifiもつかえるので、ソフトバンクやイーモバイルが提供しているポケットwifiのサービスを使えばスカイプ経由で電話も出来る。私にはスマートフォンは必要ないが、スマートフォンに匹敵するシステムを持ち運んでいる。


今回のアイポッドタッチはアップルの直営ストアーから購入した、直営店での特典として本体裏面に好きな言葉を二行書き込む事が出来る。私は名言「Stay Hungry Stay foolish」とそれを言った人の名「Steave jobs」と入れた。


ぶす犬くーちゃん-川平湾


私が大好きな沖縄、その中でも沖縄の美しさを手軽に体験できる場所がこの石垣島の川平湾、どこまでも続く白い砂浜に留められた船、それはみんなが抱く南の島のイメージそのものです。


写真、文 ぶす犬くーちゃん

 大阪へ行った時に、行列が出来ているたこ焼き屋にならんで、たこ焼きを食べてみた。


感想は・・・・


「俺のたこ焼きのほうが旨い。」だった。


大阪のたこ焼きの最大特徴は中身とろとろ、外見はカリカリ。これが基礎である。何故このような形態になったかは、経費削減と質の向上の歴史と努力の結晶である。トロトロカリカリと言う事はそれだけ小麦粉を少なくする事が出来る。噛んだときにジューシーな出汁が口いっぱいに広がる。旨さは増す、材料費は削減、これが大阪のたこ焼きだ。


やり方はわかった。出汁に何を使うかだ。たこ無しのたこ焼きで「旨い」と言わせるレベルのたこ焼き。私はこれが作れる。

菊陽病院のデイナイトケアでの日本語の文字の数え方の記事を書いたが、今回その場を仕切る人、言い方を変えると、その人だけで「我々」の立場の人に「○○さん「おしょうがつ」は何文字ですか。」との質問をした。


返ってきた答えは何と!!!!


「そんな事、考えた事もない。」


だった。


私の質問は非常にシンプルで日本語学校の4課が終わった生徒に質問しても十分理解できる事で、タスク的には指折り数えるだけの話であり、「5」だとか「6」だとか具体的な数として発話できる内容の質問である。つまり、生活者として西洋人東洋人とわず、大切な数字を扱う内容の質問である。


しかし、


「そんな事、考えた事もない。」


言い方を変えたら

「私には、数を数える能力がない。」


である。


しかし、そんな事はあるはずは無いよね~。世の中に上司は仕事が出来ない方がよい、との意見がある。この「仕事が出来ない」とは本当に出来ないの意味では無く、部下の能力を引き出す為にわざと無駄な努力を見せ付けて「しゃ~ね~な~俺たちががんばるか。」との気持ちを誘うなどの仕事には見えない重要な上司としての仕事の比喩である。逆に上司がやり手だと部下は萎縮して自分の能力を発揮できないし発言もない。独断になり多様性が無くなるのである。

しかし、今回の菊陽病院デイケアの責任者の出来ないふりの行動は人間としての基礎能力の破綻の部分にまで大きく踏み込んでいる。つまり、上記の『仕事が出来ない。」とは一線を画しているのである。

私は無能を装ってまで自分たちのエラーを力ずくで誤魔化そうとする姿勢に哀れさを感じた。


過ちて改めざる 是(これ)を過ちと謂(い)う

人が過ちを犯すことはやむを得ないが、過ちと気づいたらすぐに改めるべきで、改めようとしないことこそ真の過ちであるという教え。

日本語教師養成講座をやっと修了した。これで日本語教師として仕事をする事が出来るスタートラインにたった。

ぶす犬くーちゃん-やっと修了

教授法を教えてくれた小川先生と記念撮影です。


この先生からは教授法としての技術だけではなく教員としての心構えを教えてもらった。教師は教えない(生徒の気づきをいざなう)は特に印象的に残った。教授法の大家クラッシェンの名言に「教えた事は役に立たない。」がある。教授法が専門の人の言葉であり、そのままの意味にとったら自ら教えた事は無駄であると言っているようなものだ。しかし、深いメタファーがある言葉であり、「習得を進めるのは気づきのみである。」が前提とするれば、教えた事は問題にぶつかった時の道具として作用するものであり、習得に作用するものではないのだ。いわれればもっともな事だ。そして、この気づきを促す事は外国語教育だけでなく、全ての教育に当てはまる。

 今後、私は学生に勉強を教えない、面白いと思わせ、気づきを促せるような教師になりたい。


 外国語教育に関して言えば、もう一つ重要な事は「教師は喋らない。」教師ばかりが喋ると学生の発話の機会を奪うのだ。その究極の教授法が「サイレントウェイ」教師は色の付いた棒を持ちひたすら黙って棒で指示をする。正解とも不正解とも言わない、ひたすら学生に考えさせて発話を促す究極のやり方。実はこのサイレントウェイを体験してきます。


 そして、教師は「わかりましたか。」と言わない。「わかりましたか。」と生徒に言えば、相手は大人ならば周りや教師に気を使ってしまい、「判りました。」と言ってしまう。それなり人間関係が構築された後ならば遠慮も無いのだが、最初にうちは「わかりましたか。」は禁句である。


 人間は言葉により活動をする。その根幹を担うのが語学教師である。相手は子供から大人までそして、必要とする言葉の範囲もさまざまである。それに対応する教授法は勿論存在する。しかし、それら全てに含まれる精神は「気づき。」これのみ。今後はこの気づきについて考えて行きたい。

今日、聾者との飲み会があった、日本語教育が専門の私は、普段の話言葉が日本手話で日本語の書き言葉が完璧な聾者数人に「本机の上にある。」と「本机の上にある。」の違いを訊ねてみた。いずれも完璧な回答であった。恐れ入った。この質問は普通の日本語話者にしてもまともな答えは返ってこない。ネイティブとは「何故母語が出来るのか」を知らないのだ。私は強く思った。


「母語は聾者から学べ。」


と。