演算機器の歴史(上) 紀元1世紀頃 ~ 1960年(昭和35年)
  演算機器の歴史(中) 1961年(昭和36年) ~ 1980年(昭和55年)
  演算機器の歴史(下) 1981年(昭和56年) ~ 2015年(平成27年)
演算機器の歴史(まとめ) 1900年前からの世界と日本の関わり

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_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ そろばん _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
 
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漢の時代の「算盤」
計算の為の道具はアバカス(abacus)と呼ばれ、紀元前2700年頃からメソポタミアで使われ始め、やがてエジプト、ペルシャ、ギリシャ、インド、前漢、インカ、ローマなど、各地で計算道具に変化していったようだ。
 
前漢の頃、中国に伝わって算盤(そろばん)になった。
 
そろばんは算木(さんぎ)と共に我が国には飛鳥時代に伝来した。詳しくは日本人と数学史を参照下さい。
 
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 計算尺 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
 
1620年から1624年に英国のエドマンド・ガンターが対数を扱う計算尺を発明した。欧州は大航海時代を迎え、航海に必要な三角関数を計算するために「ガンター尺」が使われた。
 
1850年頃、フランス砲兵隊のアメデー・マネーム (Amédée Mannheim)によって、乗算、除算、二乗、平方根が計算できる現代に近いスライド式の計算尺を考案した。マネームをドイツ語読みすいるとマンハイムになり、ドイツ製「マンハイム計算尺」は世界に広く普及した。
 
明治42年(1909年)に逸見治郎が温度や湿度の変化に強い孟宗竹を使った日本製の計算尺を完成させた。
 
Henmi-45K-ts
ヘンミ計算尺
第一次世界大戦の敗戦でドイツ製計算尺の生産が困難になり、大正9年(1920年)頃にはヘンミ計算尺が世界に供給されるようになった。現在でも計算尺を手放さない技術者も多い。
 
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 機械式計算機 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
 
16~17世紀は科学革命ともいわれ、コペルニクスケプラーガリレオニュートンパスカルなどが登場し、科学の概念を一変した。
 
有史以来、加減乗除の四則計算は生活に欠かせない計算であったが、計算結果を短時間で出すために色々な工夫が行われた。機械式計算機は歯車の歯数を数えるなど機械要素を使って計算を行う。
 

段付き歯車 Wikipedia
わずか16歳で「パスカルの定理」を発見したブレーズ・パスカルは、1642年(19歳)で歯車式計算機「パスカリーヌ」を完成させた。
 
哲学者、数学者、科学者など幅広い分野で活躍した学者であったゴットフリート・ライプニッツは、1694年にデジタル機械式計算機「Stepped Reckoner」を完成させた。
 
パスカリーヌは高価な上に操作が難しかったようで1ダースほど売れただけだったようだ。ライプニッツの計算機は段付き歯車(ライプニッツ・ホイール)を考案して、後の機械式計算機に多大な影響を与えた。
 
タイガー計算器 No.59
タイガー計算器 No.59(1924年)
機械式計算機の量産化が始まったのは1820年頃の「アリスモメーター(Arithmometer)」からで、ロシア在住のスウェーデン人のヴィルゴット・オドネルらが改良して、1876年に「オドネル式計算機」をアメリカで発売した。
 
我が国では、27年後の明治36年(1903年)に矢頭良一が「自働算盤」と名付けて発売した。続いて大正時代に大本寅治郎によりタイガー計算器が作られ、昭和45年(1970年)まで販売された。
 
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ プログラム制御計算機 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
 
複雑な計算結果を得るために、一定の流れ(フローチャート)に従って計算する必要がある。機械式計算機では、頭の中で流れを考えて手順を整理して計算していた。この手順を計算機械に覚え込ませるのがプログラムだ。
 
第二次世界大戦(大東亜戦争)では、各国が競って様々な新兵器を開発したが、中でも計算機は大きな戦力となった。種々の条件を考慮して発射する砲弾の弾道計算をリストにして命中精度を上げる。敵国の暗号通信を傍受して解読するなどであった。
 
Zuse Z1
コンラート・ツーゼ - Zuse Z1(1938年)
九元連立方程式求解機
佐々木達治郎 - 九元連立方程式求解機(1938年頃)
ドイツのコンラート・ツーゼによる「Zuse Z1」は、電動の機械式である。二進法を用いたデジタル計算機で、さん孔テープでプログラミングする世界初のコンピュータともいえる。ツーゼは自費で昭和13年(1938年)に完成した。その後、昭和15年(1940年)にZuse Z2、昭和16年(1941年)にZuse Z3と発展した。
 
日本では東京帝国大学航空研究所の佐々木達治郎による九元連立方程式求解機はり9個の変数を持つ連立方程式を解くアナログ計算機で、10本の軸の角度変化で答えを求めるようだ。昭和13年(1938年頃)には実用になり、1944年頃に九元連立方程式求解機に完成したようだ。詳細は「コンピュータ博物館」から下記研究資料を参照されたい。
 
情報処理技術遺産「九元連立方程式求解機」和田英一(IIJ 技術研究所)
http://museum.ipsj.or.jp/guide/pdf/magazine/IPSJ-MGN500914.pdf
 
一方、英米は精密加工技術に頼らない、真空管技術を使った計算機の開発に一早く着手した。いずれもデジタル式であった。
 
Colossus
英国 Colossus(1944年)
Eniac
米国 ENIAC(1946年)
英国のサイラトロン(真空放電管の一種)を使った「コロッサス(Colossus)Mark I」は、1944年2月に完成した。主にドイツの暗号解読に使われたようだ。
 
米国では、米陸軍の弾道研究室によってENIACに1946年2月完成。17,468本の真空管を使って、プログラミングはパンチカードどパッチコードで行った。
 
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 汎用電子計算機 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
 
やがて科学計算だけではなく、統計や企業の会計、売上管理などのビジネスとして電子計算機が利用される。ビジネスでは、どの様に活用するか…という点でプログラムが大きなウェイトを占めることになった。
 
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UNIVAC I(1950年)
商用電子計算機として、世界に先駆けて登場したのがレミントンランド社「UNIVAC I」だ。昭和25年(1950年)に完成して第1号機は米国の国勢調査局に納入され、第29号機は東京電力に納入されて従量電灯計算など大量データ処理に使われたようだ。
 
事務用計算機のメーカーであったIBMは、 ENIACの開発に携わった。その蓄積で昭和27年(1952年)に「IBM 701」を発表した。
 
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FACOM 100(1954年)
富士通は電話交換機などで信号リレーを多用していたため、戦前からリレーを使った装置の応用として演算回路を試作し、昭和18年(1943年)には海軍からの委託で暗号解読装置を製作している。その技術力から昭和27年(1952年)に試作を終え昭和29年(1954年)には「FACOM 100」として発売された。
 
その後、リレーと真空管から、一部をトランジスタに置き換えて、電気試験所が昭和31年(1956年)7月に「ETL Mark Ⅲ」を完成させる。
 
富士通は昭和31年(1956年)に本格的な商用電子計算機として「FACOM 128」を送出した。日本電気もNEAC-1101昭和31年(1956年)3月を完成させた。
 
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 電卓 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
 
この時代、一般的な事務所では相変わらず「そろばん」が使われ、少し高度な計算には機械式計算機が使われていた。大型の電子計算機のプログラム指向が進む中で、逆に計算だけに特化した電子計算機も生まれた。そして机の上で取り扱えることから「電卓」と呼ばれるようになった。
 
世界初の電卓は昭和38年(1963年)に発売された「Anita Mark8」といわれている。真空管を使用し、金銭登録機と同じ押しボタンが0~9まで桁数分ならび(フルキー)、重さは約15Kgであった。
 
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早川電機-CS-10A(1964年)
我が国では、早川電機(現、シャープ)が世界初となるトランジスタ製の「CS-10A」を昭和39年(1964年)に発売した。同じ年にキャノンが「Canola 130」を発売。CS-10Aがフルキーだったのに対してCanola-130は世界で初めてテンキー(一般的な電卓)を採用した。機械式計算機を意識して販売価格も53万5千円、39万5千円と高額であった。
 
戦前から手回し機械式計算機を手掛けていた日本計算器販売(後のビジコン)が昭和41年(1966年)電子式卓上計算機「Busicom 161」を29万8千円で発売した。
 
CASIO MINI
カシオ-CASIO MINI(1972年)
やがで、トランジスタやダイオードなどのディバイスを組立てる時代から、ディバイスの集積化が進み、使用目的に合せた専用ICが開発される。中でも昭和46年(1971年)に「Busicom 141-PF」の発売はパソコン時代を開いたといえる。
 
戦後一貫して計算機を手掛けてきたカシオ計算機(現、カシオ)は、昭和47年(1972年)にCASIO MINIを定価12,800円という破格値(当時)で発売した。これを皮切に電卓は小型軽量化、低価格が進み、オフィスのツールから、一家に1台、更に一人に1台の時代に一気に変貌していった。
 
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ マイコン _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
 
マイコンとパソコンの境目はあいまいだが、ここでは単純にCPU(中央演算処理IC)に対して、直接命令と処理を行う装置を「マイコン」と言い、Windows、Linux、macOSなどOS(オペレーティング・システム)を通じて命令や処理を行う装置を「パソコン」とした。
 
当初売出されたマイコンは、機械語と呼ばれる言語で、8~16ビット(8~16個)のスイッチを操作して、1命令ステップごとにメモリーに記憶させ、RUNボタンで実行していた。
 
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ソード SMP80/20(1972年)
世界で最初に製品としてフランスのR2E社が「Micral N」昭和47年(1972年)に発売。我が国では同じ年にソード(現、東芝パソコンシステム)の「SMP80/20」を発売した。
 
何れにしても100万円(当時の新車が買えた)前後と高価であったため、広く研究者や学生まで普及しなかった。そこで自作キットとなるボード・コンピュータが考えられた。
 
TLCS-12A
東京芝浦電気 TLCS-12A(1975年)
TK-80
日本電気 TK-80(1976年)
昭和51年(1975年)にインテルが「SDK-80」、同じく昭和50年(1975年)に東京芝浦電気が「TLCS-12A」、昭和51年(1976年)に日本電気がTK-80を、ボード・コンピュータのキットとして10万円以下で発売した。
 
これによってマイコンの認知度は一気に高まり、技術者の中に広まった。日本マイクロコンピュータ連盟「I/O」、アスキー出版「月刊アスキー」、電波新聞社の「月刊マイコン」などが刊行された。現代のRaspberry Pi(ラズパイ)やArduinoは、マイコンの考え方を継承していのだろう。
 
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マイコンの普及により、より幅広い層を取込むために、人とコンピュータを近づける必要が生まれた。マイコンの段階では必ずしも必要のないキーボード、ディスプレイ(画像)、スピーカー(音声)、プリンター(印刷)など周辺機器をCPU(中央演算処理装置)とつなぐことで、操作する人間とコンピュータの距離が近づいた。
 
これを可能にしたのがOS(オペレーティング・システム)になる。WindowsLinuxmacOSなどのOSは周辺機器との整合性だけでなく、OS上で使えるプログラム開発を容易にした。
 
8ビットCPUを使って昭和52年(1977年)、8月に米国のタンディから「TRS-80」、9月に我が国のソード電算機システム(現、東芝パソコンシステム)から「M200」、10月にカナダのコモドールから「PET 2001」と、相次いで発売された。
 
これらの発売にさかのぼる昭和39年(1964年)に数学者ジョン・ケメニーらによってBASIC言語が開発されていた。
しかしBASICは、限られた英文命令をCPUが理解できる機械語に変換するだけで、BASIC命令文を機械語に変換する橋渡しとなるインタプリタ(中間言語)は統一されていなかったので、機種が違えばプログラムの互換性はなかった。
 
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日立 Basic Master(1978年)
BASICの命令語と構造は、「GOTO…」「IF…THEN…」「FOR…NEXT」…、など、現代使われているプログラミング言語(C、Visual Basic、Java Script、PHP…など)の中で生きている。
 
我が国では昭和53年(1978年)から大手メーカーがパソコン市場に参入した。9月には日立製作所が「Basic Master」、12月にシャープが「MZ80K」、翌年5月に日本電気が「 PC8001」を発売した。
 
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シャープMZ80K(1978年)
そもそも「パソコン」という言葉は、Basic Masterが最初だと言われている。しかし人間がキーボードで打込むBASICをCPUが理解するためのインタプリタは、各社マチマチだった。
 
ほとんどの機種は、あらかじめBASICのインタプリタを搭載してたが、シャープのMZ-80シリーズは、その都度カセットテープから読込む「クリーン・コンピュータ」という方法だった。
 
この時代は専門書や雑誌に掲載されたBASIC文をキーボードで入力して、それぞれのパソコンで動作させていた。作成したBASIC文をカセットテープやフロッピーディスクに記憶させていた。BASICが理解できるようになると、プログラムの一部をアレンジしたり、新しいプログラムを作るパソコン・ユーザーも現れた。
 
Apple II
Apple Ⅱ(1977年)
創業間もないアップル社はAppleⅠの起死回生を計って「Apple Ⅱ」を昭和52年(1977年)に発売した。
 
Apple Ⅱは、8ビットCPU(MOS6502)ながら、高解像度ディスプレイ、フロッピーディスク、プリンタなど周辺システムを含めたシステムの構築と統合に成功した。それまでのパソコンと比較して2フロッピーディスクなど拡張性を格段に改善し、高度なソフトウェアの開発を可能にした。
 
ホームコンピュータ市場にソフトウェアの充実と共にアップルコンピュータが普及することに対して、世界的に統一した規格が求められるようになった。その状況に大型コンピュータを制覇していたIBMが名乗りをあげた。
 
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IBM 5170(1981年)
一方、業務用の市場では、大規模な電算機室を設けて磁気テープが回転していた時代から、ミニコンが主流となってオフコン(オフィス・コンピュータ)になった。そしてICの集積化が進んでワークステーションと呼ばれる机の上に置けるサイズまで小型化した。
 
昭和56年(1981年)IBMは、16ビットCPU(Intel 8088)を搭載して5170を発売した。IBM自身も含めて各種の拡張が行われ、パソコン市場の標準的なシステム構造を提示した。
 
我が国では、「PC/AT互換機」として、NECのPC-9800、富士通のFM-TOWNS、東芝のJ3100(Dynabook)、シャープのX68000などが順次IBM互換となった。
 
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NEC PC-9801(1982年)
当初、BASIC機の多くは8ビットCPUで、ホーム市場は安価な8ビットであったが、次第に高速化が求めれられ、業務用の16ビットCPUに移行しつつあった。
 
昭和57年(1982年10月)IBM互換としてNECから「PC-9801」が発売され、オフィス市場だけでなくホーム市場に16ビット時代をもたらした。
 
NECは8ビット、16ビットの上位互換を踏襲していたので、ワープロからCAD(設計作図ソフト)まで国内で圧倒的な数のソフトウェアを誇っていた。NECはOSにMS-DOSを採用していたこともあって、一早くIBM互換に賛同した。
 
DOS(ディスク・オペレーティング・システム)は人間のキーボード操作とCPUを結ぶOSの一種で、マイクロソフト社が昭和56年(1981年)にMS-DOSを開発してIBMに納めた。
 
マイクロソフトは、IBM以外にもMS-DOSを供給したことで、アップルを除く多くのパソコンメーカーがMS-DOSを採用した。
 
コンピュータはソフトウェアがなければ「ただの箱」と言われるが、アップルもソフトウェアの充実で市場を開いた。GUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)の充実を図ったのが「Windows」であろう。
 
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マイクロソフト Windows 3.0(1990年)
平成2年(1990年)にマイクロソフトが操作する人間とパソコンを近づけるGUIに重点を置いた「Windows 3.0」を発売した。
 
また日本語でパソコンを使うための変換は、常用漢字1,945字(当時)と4,087音訓の識別が必要で他の言語にはない難しさがあった。ジャストシステムがワープロソフト「JS-WORD」をPC-100(NEC)向けに昭和58年(1983年)を開発し、次いで1985年「一太郎」を発売した。
 
ジャストシステムは日本語入力システム「ATOK」を構築したことで、ワープロのみならず多くのソフトウェアが日本語で対応できるようになった。
 
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ロボトロニクス _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
 
産業分野で「NC加工」とは、数値制御による機械加工の方法で、工作機械を始め、溶接、塗装を自動化する上で、欠かせない制御技術だ。
 
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MOTOMAN-L10(1974年)
こうした制御は、機械技術と電子技術が一体化して生まれるメカトロニクスで、これをコンピュータで人間の動きに近づけたのがロボトロニクスだ。黎明期から我が国はその先頭を走っていた。
 
世界に先駆けてNCを使ったのがFANUCで、昭和31年(1956年)に製品化された。安川電機は昭和49年(1974年)に実用化が困難だったモータ駆動式ロボットアームの1号機を完成している。こうしたNC機器にはコンピュータが欠かせないが、リアルタイムで処理する技術は他の追従を許さない。世界シェアの50%(2018年度産業用ロボットメーカーの世界売上高ランキングトップ9の分析より)を占めている。
 
すっかり有名人になったホンダの「ASIMO」は、平成12年(2000年)に完成した。階段の昇り降りや重心の移動などに視覚と聴覚が加わって、究極の多軸制御技術だといえる。
 
リアルタイムな人間との対話や、指先までの挙動は、現代の「鉄腕アトム」と言えよう。
 
ASIMOで人工知能(AI)の処理能力に驚かされたが、今後は産業分野、軍事分野で一段の進歩を果すことは間違いないだろう。メカトロニクス、センサー技術、人工頭脳の組合せで、新しい労働環境が醸成されることを期待したい。
 
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 音楽用コンピュータ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
 
Mathews84Violin
コンピュータ音楽のマックス・マシューズ
レコードがCD(コンパクトディスク)に変わり、今やデジタル技術は音楽に欠かせない要素だ。音楽のデジタル化はコンピュータによってもたらされたが、マックス・マシューズは、この融合を初めて手掛けたといえる。
 
マシューズはオーストラリアのコンピュータ「CSIRAC」によって昭和26年(1951年)に演奏されたものが、世界で初めてのコンピュータによる音響合成をであった。
 
1963年にドン・ブフラ(Don Buchla)がシンセサイザ「Buchla Series 100」を完成させた。
 
1980年代、ロバート・モーグは、電子楽器の開発に没頭して、多くのアーティストが使った「モーグ・シンセサイザー」を完成させる。しかし、ブフラもモーグも電子回路発振器のアナログ音源を使用し、デジタル音源やデジタル制御ではなかった。
 
カシオ計算機は、昭和56年(1981年)に世界初となるIC化したデジタル音源のワンキーボード電子楽器「Casio VL-1」を35,000円で発売した。シンセサイザーと
 
昭和58年(1983年)ヤマハは複数の発振器を合成するFM音源を使ったDX7を発売した。またMIDI端子をそなえ、コンピュータとの接続を可能にした。
 
ローランドはアナログ、デジタルのシンセサイザーを手掛けていたが、昭和62年(1987年)フルデジタル・シンセサイザー「D-50」を発売し、次いでコンピュータと組み合わせに特化した音源モジュールを売り出した。
 
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ゲーム用コンピュータ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
 
マイクロソフトとアスキーによって昭和58年(1983年)に提唱されたMSXが、本格的なゲーム向けコンピュータのはじまりと言えるだろう。あらかじめプログラムを書込んだROMカートリッジを使った点で、プログラミングの知識がなくても使えたことから、ある程度普及した。
 
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任天堂 ファミリーコンピュータ HVC-001(1983年)
昭和58年(1983年)、任天堂が「ファミリーコンピュータ HVC-001」を発売した。MSXコンピュータと同じようなROMカートリッジを使い、キーボードの代りに専用コントローラにした。
 
子供にも使いやすくしたことで爆発的なヒット商品となった。昭和60年(1985年)には上陸して衰退していたアメリカのテレビゲーム産業を復活させた。
 
PSX-Console-wController
ソニー(SIE)PlayStation
ファミリーコンピュータの成功を見て、ソニーのSIEは平成6年(1994年)に「プレイステーション」を発売した。PlayStationはカートリッジ式ではなくコンパクトディスク(CD)を使用し、3D映像を実現した。
 
平成10年(1998年)には、セガ・エンタープライゼスが「ドリームキャスト」で参入した。更に平成13年(2001年)には米国マイクロソフトがネットワーク技術を生かして「Xbox」を発売した。
 
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ スーパーコンピュータ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
 
スパコンについては「科学の進歩と最新のスパコン」を参照してください。