最近、「どうやって英語を勉強したら良いですか?」とよく聞かれます。ネットや関連書籍が乱発していて、どうしたら良いか分からなくなってしまうのかもしれません。僕はとりあえず「英語力の向上は型の習得にあり」だよ、と言っています。型はパターンと同じです。英語にはいくつかお決まりの言い方(型・パターン)があるのでまずはそれを覚えるのがなによりも先です。

ひとまずその型を習得してしまえば、あとはその型に単語を埋め込んでいって自分が伝えたいことを言えば良いのです。ですから型というのは「お弁当箱」みたいなものです。お弁当箱にはいろいろな決まった形があります。四角だったり楕円だったり水筒型だったり、ほんとにいろいろです。これは決められた形なんですから力ずくで変形させることは出来ません。出来るかもしれないですけど、いびつな形になります。そのお弁当箱の中に様々なものをいれて「メッセージ」を送ることが出来ます。バランス良い食材があれば「健康でいてね」だったり、たこさんウィンナーがあったら「お友達と仲良くね」だったり、ハート形で「愛してるわ」を表現したりします。

この「お弁当の中身」は英文で言えば「単語」ですね。さっき僕が「型に単語を埋め込んでいって自分が伝えたいことを言えば良い」と言ったのはそういうことです。まず決まった型を習得します。これは自力では変えられない。それが英語の言い方なんですからネイティブに「そんな言い方、英語じゃしないよ」と言われたら終わりです。変えられるかもしれないですけど、それはいびつな英語になってしまいます。外国のひとが「きみはホントに僕の足を(ひっぱりあげる)ねぇ」とあなたにいったらどうですか。言いたいことはわかるけど「ヘンナニホンゴネェ」と思うでしょう。

僕も自力でこの型を変形させようとしていた時期がありました。高校の時に英作文の添削を先生に頼んだのですが、真っ赤になって返ってくるわけですね。で、僕は苛ついて、「だって日本語をそのまま英語に変換できてるじゃないか!辞書使ったんだ!」と言いました。でもそれに対する回答は「そんな言い方、英語じゃしないの。ごめんね。」です。逐語訳じゃダメだってことですね。日本語→英語の変換はまず、「この日本語は何を言いたいのか」を考えてから「自分の持つ英語の型でどれが一番表現しやすいか」を見極めて適したお弁当箱を引っ張りだしてくればいいのです。その型の中でどの単語をつかっていくかで伝わる内容(メッセージ)を変えていくことができます。お弁当の中身ですね。

たとえば英語のひとつのパターンに

I want you to come. があります。want … to - で「…に-をしてほしい」って意味です。

この時の want と同じ型を使えるものがあります。それが ask / encourage / tell / get / need / allow / force / (help) などです。この型の中に適した単語を埋め込んで言いたいこと(メッセージ)を伝えていければいいんですね。型を習得してその型を使える単語を覚えてしまえば自分の言いたいことの多くは言えるようになります。だから「型の習得はどうしても先決」なんです。だって、お弁当をひとにあげたかったらまずお弁当箱を準備しなきゃダメです。中身だけ渡されたら伝わるメッセージは「わたし、頭おかしいの」の一つだけですから。

型の習得が生かされるのは何もアウトプットだけではありません。文章を読むリーディングの時にも当然やくに立ちます。これ、はっきり言っていいのか分からないですけど、「英文を読む時に、型を習得してる人はしてない人とは見えてる景色が違う」ような気がするんです。型を見られない人は一文一文がくっきり見えてきません。「この単語は~って意味だから、ん、えー、どういうことだろ」の連続です。型を習得してれば「あ、この単語はあの型か、この型で使われるやつだ。じゃぁ文のつぎの形は…。あ、やっぱり。」と先を見越して英文を読むことができるし、何百ワードある文書でも数十個の型に分類しながら読み進められるんです。

不思議なんですけど、ぼくは「こういう風に読めるようになったその瞬間」をいまでも鮮明に覚えています。高2の時に池袋にあった塾に通っていて、そこからの帰り道に早稲田大学の過去問を13回目くらい読み返していたときです。教室を出てすぐ読み始めて、おおきい階段を降りて、次のちいさい階段を降り始めた時に、「うぉぉ!わかった!」って思ったんです。なんか良く分からないんですけど「英語ってこうやって読むのか!」という感じです。よく「雷に打たれた感じ」って言いますけど、まさしくそれがヒットしてきたんです。そこからは英語を読むのがたのしくなって、わくわくしながら次々と読み込んでいきました。

じゃぁ、「どうやって型の習得をしていけばいいの?」てことですけど、先人の知恵や僕の経験から言えることは「英作文。そして例文暗記。」です。

英作文の参考書籍は僕はひとつしかやってないですから他のものより何が良いのかは説明できませんが、竹岡広信さんの『竹岡広信の英作文が面白いほど書ける本』は非常にためになりました。英語のパターンを60個ほどに絞っていて、これで英作文をやっていくと自然と型が自分の中に刷り込まれていきます。そしてとりあえず自分で答えをつくってみて模範解答を見てみる。そしてそれをそらで言えるくらいになるまで覚える。ここまでやると英作の練習というよりは例文暗記の領域に入ってきます。

僕がこれをやったのは高2の夏やすみです。ちかくにあるドトールで、毎日平均して3時間から4時間くらいやりました。最終的には日本語をちょっと言ってくれれば、模範解答を暗誦できるほどにしました。こういうことはセコいこと言わずに、一気に短期間でやってしまうのが良いと思います。お弁当箱は早く集め終えた方が良い。そしたら中身をどうしようかわくわくの毎日です。新しい食材との出会いもわくわくします。英語でいうなら、新しい単語に出会うたびに「あ、これはこの型で使えるから、表現できる幅がひとつ拡がったなぁ」ということの連続です。

リーディングに関してですけどこれも多くの種類をたくさん読むよりも、おなじ読み物を何度も何度も読み込む方が英語力の向上にはよろしいのではないかと思います。同じものを繰り返しよんでいると、そこから出てくる「英語のリズム感」が分かってきます。

僕の個人的な感覚では、英語を読む時に、もし黙読していたとしても聴覚が働いているような気がします。目で追った字面が、声に出して読んでいなくても、頭の中で鳴り響いていて、それを聴覚が感じ取っている、そんな感じです。だから僕は速読が苦手です。自分の中で鳴っている音はひとが話せる早さが限界です。だから速読をしなきゃいけない時は、頭の中の音を消さなきゃ出来ないんですけど、それはなかなか難しいことなんです。

とにかく、僕は英語の上達に「よい耳」が必要だと思います。これを駆使するには同じ英語を何度も読み英語のリズム感をつかむことは効果的に働きましたよ。声に出して読むとなおさら良かったです。

ここまで言ってみると、「英語は同じことの繰り返し」をやっていくことが大事だということだと思います。その繰り返しのなかで「型」を覚え「リズム感」を覚えていく。そうするとどこかで雷にうたれますから、そんな日を楽しみにしていてください。でも、打たれた後からの方が実はずっとたのしいイングリッシュ・ライフが待っています。少なくとも僕はそうでした。

ご参考になるでしょうか。
「日本人は英語が出来ない」。そんなことがよく言われます。僕たち日本人は、中学への入学とともに英語を学び始めます。そして大学までいけば10年間も英語をやることになるわけです。なのに、出来ない。日常会話さえまともに出来ない。「日本人は英語が出来ない」と言われる所以です。

でも、ちょっと待ってください。いますよ、いや「いましたよ」、日本にもすごい英語力のひと。例えば、岡倉天心は明治期に活躍した「日本の美術界のドン」みたいな人ですけど、着物姿でニューヨークをふらついている時にアメリカ人に馬鹿にされたんです。それは、こんな具合にです。

“What kind of ‘nese are you people? Chinese, Javanese, or Japanese?” (君たちはいったい、「ナニニーズ」なの?「チャイニーズ」、それとも「ジャヴァニーズ」?ひょっとすると「ジャパニーズ」かな?)

ニューヨーカーからするとアジア系のひとはみんな一緒にみえて区別がつかないことを馬鹿にしてるわけです。でも天心は英語でこう言い返しました。

“We are Japanese gentlemen. What kind of ‘key are you? Donkey, monkey, or yankee?” (我々は紳士たる日本人也。ところで貴殿は「ナニキー」だ?ドンキーかそれともモンキーか。はてはヤンキーかな。)

ドンキーは「ロバ」ですけど「あほなやつ」の象徴です。ださいってことです。モンキーはまぁ「サル」ですよね。「ヤンキー」というのはニューヨーカーのことを指す言葉です。 “gentlemen” と複数形になっているのは天心が弟子の横山大観と一緒に歩いていたからです。大観は師匠の英語での切り返しにいたく感動して、帰国後みんなにこの逸話を言って回ったようです。

それにしてもとっさに英語でこの切り返しをするのは並大抵の英語力じゃありません。天心は後に “The Book of Tea” (茶の本)を素晴らしい英語で記して日本文化を英語圏の人々に伝えます。他にも、禅を英語で海外に紹介した鈴木大拙や、「日本には宗教がない」といわれて「なにくそ」と思いながら “Bushido” を書いた新渡戸稲造もいます。新渡戸の英語なんてすごい渋くてシビレます。この人たちの時代は YouTube もなければ英語の教授法が発達していた時代でもありません。でもみんなすごい英語力なんですね。詳しくは斉藤兆史さんの『英語達人列伝』をご参照ください。面白いハナシがたくさん載ってます。

では、ことの次第は「日本人だって(昔は)英語が出来たけど、だんだん出来なくなってぜんぜんダメになった」なのでしょうか。そんなことないんじゃないですかね。確かに「日本人の平均的な英語力」は確実に落ちました。だって昔のひとで英語をやる人ってものすごいインテリに限られていましたから。そういった時代だったんですね。でも、今は違いますよ。「普通の子」が英語をやる時代です。勉学にもアートにも茶にも医学にも宗教にも大して興味をもってないひとでも英語をやるんです。ですから単純に英語学習者の分母が昔よりずっと大きい。だったら「日本人の平均的な英語力」が落ちるのは当然です。でもそういった「特に英語に興味もないし、英語を勉強する必要性を感じることもない」子たちが、センターの英語の試験では平均にして6割くらいとるんです。これ、すごいことじゃないですか。大した数字だと思うんですよね。疑わしいと思う人はセンター試験の英語を制限時間でやってみてください。結構たいへんですよ、6割。

そうなると今度は、「日本人は英語の読み書きやグラマーは得意だけど、べしゃりの方がねぇ」となります。確かにセンターで6割もとれるのに日常会話さえもたどたどしいのはちょっと変ですね。たぶんそれはただ単に「英語で話す訓練」を積んでいないからじゃないですかね。「英語で話せば話すほどスピーキング能力は伸びる」とぼくは思います。だから「スピーキング能力がのびないのは話す機会が少ないからだ」と思っちゃうんです。

だって、そうじゃないとやっぱり変ですよ。読み書きは出来ているんですから。逆なら分かるんです。「べしゃりはいけるけど、読み書きになるとテンでダメ」みたいなひと。というのも、会話を成立させるためには大した語学力は必要ありません(大人の会話は除きますけど)。だから「英語でお買い物くらいは出来るけど、新聞を読むレベルになるともうだめ」、っていうひとは別に珍しくないと思うんです。逆の場合を考えてみてください。ボビー・オロゴンさんって日本語がめちゃくちゃ上手ですけど、川端康成とか大江健三郎を「オ、イイネェ」なんて言いながら読んでいる姿はなかなか想像しづらいです(あのひと、頭いいからできるかもなぁ)。

だから読み書きのしっかりしている日本人が英会話になるとダメになるのは「機会がないせいだ」なんて単純に思っちゃうんです。もっと訓練の時間を学校でとったら上手くいくんじゃないですかね。どうでしょう?もしかしたら「日本人はシャイだからまずそこを除去しなければ…」なんていうこともあるかもしれません。

ま、とりあえず僕がいいたいのは「日本人=英語デキナイ」っていうのは必ずしも正しい表現じゃないということです。

でも、「昔のひとがあんなにものすごい英語を駆使できたのは何故だろう?」という問に答えを見つけようとすることは大事かもしれません。それに対して僕は「学び方を学ぶ、その仕方が確立していたからだ」と思ってます。「学び方」というのは「どうやって勉強していったら良いか」です。それを学ぶ。昔はみんな同じような学び方をしていたんですね。今は違います。本屋に行けば英語の学習法は五万とありますし、ハウツーのウェブサイトは十万とあります。

でも、あの切り返しが出来る英語の達人を生んだんですから、ちょっとくらい彼らの「学び方」を参考にしてもバチはあたらないはずです。でもそういった達人たちがやっていたことは案外、顧みられません。「学び方を学ぶ」ことの質が劣化してきていると思います。

昔のひとが最初に外国語に触れるのは「素読」を通してでした。中国の古いお話で全文漢字で書かれているものをただただ読むんです。これをずっとずっとやってるとその中国語のパターンみたいなのが分かってきます。漱石なんて漢詩を読み込んだ後にマスターして自分でも完璧につくれたそうです。

渡辺照宏さんは『外国語の学び方』のなかで文章の暗記をしてきたと仰っています。英語の一級書物をページごと暗記していたようです。他の達人たちも結構この「暗記」という手法を取り入れています。これはなかなか良い勉強法なんでしょう。外国語はまず覚えることが基本です。いくら天才でもそれをやらないと原書を読めるようにはなりません。

江戸時代のえらいひとに勝海舟という人がいて、英語で書かれた文書を出された時に、先生を雇ってみますか?と聞かれました。でも海舟は「同じ人間が書いたものだ。ずっとみていれば自ずと意味も分かるだろう」といってジーとその英文を睨み続けました。睨み続けて三日目に「やっぱり先生を呼べ」なんて言います。海舟でもダメだったんだから普通のひとにはとてもじゃないけど無理です。

高校生に例文暗記なんかやらせると最初はイヤイヤやるんですけど後になって「あれが役に立った」なんていう人が多いんですね。暗記の利点は、ひとえに「型を習得できる」からだと思います。僕もその一人でした。高校生の時分に型を徹底的に身につけていったんですけど、今おもうとあの時の訓練がいまにも生きています。近いうちに僕がどうやって型を習得する訓練をしたかをご紹介するのでご参考にしてください。

「ご参考にしてください」なんて偉そうな物言いですけど、これも「俺のやり方みてみな!」という態度というよりは「英語できるひとがやってることを僕もやってみたら、これがけっこうナカナカよかったのよ」と受け売りをしているだけですから勘弁してください。でもそうやって「学び方を学ぶ」ことってとっても大事な気がしています。

では。
“That’s it!” という表現は、「以上!」という感じで使われることもあります。 “That’s it for my presentation.” といえば「私のプレゼンは以上です」という意味になります。

みんなで円卓を囲んで会議をしたり意見交換をしたりするときにも、自分の意見を終えて「以上です」という意味で “That’s it” と言いたくなるのですが、こういう場合はなるべく使わない方が良いみたいです。

英語学習の集まりに行ったときのことです。10人ほどのクラスで読んできた本の感想を述べたあと、 “That’s it” を使いました。ネイティブの方がすぐに反応して「その表現は使わなくていい。内容を言い終えたらゆっくり椅子にくつろぐ仕草で十分です」と言われました。それから僕は「以上!」の意味で “That’s it” を使うことをやめました。

でもなぜ使わない方が良いのでしょうか。おそらく「ちょっと卑屈に聞こえるから」かもしれません。

最近受けているクラスで同じように意見交換をする機会があります。いくつかの人は “That’s it” を使います。先生はネイティヴの方でとっても優しい方ですが、 “That’s it” と聞いた後はいつも同じ言葉から始めます。それは “No! It was very interesting.” です。

つまり “That’s it” という表現は日本語の「以上です」に完全に対応しているわけではないのでしょう。「以上です」と言われれば、「ええ、では~の点についてはいかがですか」など、まず「ええ(Yes)」から始めます。

でも “That’s it” の後では “No” から返答が始まるのです。これは “That’s it” にすこし「僕の意見なんてこんなもんです」といったニュアンスが入っているのかもしれません。だから「いやいや、とっても面白いですよ」で返事が始まります。

お土産を「つまらないものですが…」と渡す日本人にとってちょっと卑屈に聞こえる That’s it” は親和性が高いのかもしれません。でもやっぱり使わないですむならそうした方がよさそうです。

That’s it for this post.