「日本人は英語が出来ない」。そんなことがよく言われます。僕たち日本人は、中学への入学とともに英語を学び始めます。そして大学までいけば10年間も英語をやることになるわけです。なのに、出来ない。日常会話さえまともに出来ない。「日本人は英語が出来ない」と言われる所以です。
でも、ちょっと待ってください。いますよ、いや「いましたよ」、日本にもすごい英語力のひと。例えば、岡倉天心は明治期に活躍した「日本の美術界のドン」みたいな人ですけど、着物姿でニューヨークをふらついている時にアメリカ人に馬鹿にされたんです。それは、こんな具合にです。
“What kind of ‘nese are you people? Chinese, Javanese, or Japanese?” (君たちはいったい、「ナニニーズ」なの?「チャイニーズ」、それとも「ジャヴァニーズ」?ひょっとすると「ジャパニーズ」かな?)
ニューヨーカーからするとアジア系のひとはみんな一緒にみえて区別がつかないことを馬鹿にしてるわけです。でも天心は英語でこう言い返しました。
“We are Japanese gentlemen. What kind of ‘key are you? Donkey, monkey, or yankee?” (我々は紳士たる日本人也。ところで貴殿は「ナニキー」だ?ドンキーかそれともモンキーか。はてはヤンキーかな。)
ドンキーは「ロバ」ですけど「あほなやつ」の象徴です。ださいってことです。モンキーはまぁ「サル」ですよね。「ヤンキー」というのはニューヨーカーのことを指す言葉です。 “gentlemen” と複数形になっているのは天心が弟子の横山大観と一緒に歩いていたからです。大観は師匠の英語での切り返しにいたく感動して、帰国後みんなにこの逸話を言って回ったようです。
それにしてもとっさに英語でこの切り返しをするのは並大抵の英語力じゃありません。天心は後に “The Book of Tea” (茶の本)を素晴らしい英語で記して日本文化を英語圏の人々に伝えます。他にも、禅を英語で海外に紹介した鈴木大拙や、「日本には宗教がない」といわれて「なにくそ」と思いながら “Bushido” を書いた新渡戸稲造もいます。新渡戸の英語なんてすごい渋くてシビレます。この人たちの時代は YouTube もなければ英語の教授法が発達していた時代でもありません。でもみんなすごい英語力なんですね。詳しくは斉藤兆史さんの『英語達人列伝』をご参照ください。面白いハナシがたくさん載ってます。
では、ことの次第は「日本人だって(昔は)英語が出来たけど、だんだん出来なくなってぜんぜんダメになった」なのでしょうか。そんなことないんじゃないですかね。確かに「日本人の平均的な英語力」は確実に落ちました。だって昔のひとで英語をやる人ってものすごいインテリに限られていましたから。そういった時代だったんですね。でも、今は違いますよ。「普通の子」が英語をやる時代です。勉学にもアートにも茶にも医学にも宗教にも大して興味をもってないひとでも英語をやるんです。ですから単純に英語学習者の分母が昔よりずっと大きい。だったら「日本人の平均的な英語力」が落ちるのは当然です。でもそういった「特に英語に興味もないし、英語を勉強する必要性を感じることもない」子たちが、センターの英語の試験では平均にして6割くらいとるんです。これ、すごいことじゃないですか。大した数字だと思うんですよね。疑わしいと思う人はセンター試験の英語を制限時間でやってみてください。結構たいへんですよ、6割。
そうなると今度は、「日本人は英語の読み書きやグラマーは得意だけど、べしゃりの方がねぇ」となります。確かにセンターで6割もとれるのに日常会話さえもたどたどしいのはちょっと変ですね。たぶんそれはただ単に「英語で話す訓練」を積んでいないからじゃないですかね。「英語で話せば話すほどスピーキング能力は伸びる」とぼくは思います。だから「スピーキング能力がのびないのは話す機会が少ないからだ」と思っちゃうんです。
だって、そうじゃないとやっぱり変ですよ。読み書きは出来ているんですから。逆なら分かるんです。「べしゃりはいけるけど、読み書きになるとテンでダメ」みたいなひと。というのも、会話を成立させるためには大した語学力は必要ありません(大人の会話は除きますけど)。だから「英語でお買い物くらいは出来るけど、新聞を読むレベルになるともうだめ」、っていうひとは別に珍しくないと思うんです。逆の場合を考えてみてください。ボビー・オロゴンさんって日本語がめちゃくちゃ上手ですけど、川端康成とか大江健三郎を「オ、イイネェ」なんて言いながら読んでいる姿はなかなか想像しづらいです(あのひと、頭いいからできるかもなぁ)。
だから読み書きのしっかりしている日本人が英会話になるとダメになるのは「機会がないせいだ」なんて単純に思っちゃうんです。もっと訓練の時間を学校でとったら上手くいくんじゃないですかね。どうでしょう?もしかしたら「日本人はシャイだからまずそこを除去しなければ…」なんていうこともあるかもしれません。
ま、とりあえず僕がいいたいのは「日本人=英語デキナイ」っていうのは必ずしも正しい表現じゃないということです。
でも、「昔のひとがあんなにものすごい英語を駆使できたのは何故だろう?」という問に答えを見つけようとすることは大事かもしれません。それに対して僕は「学び方を学ぶ、その仕方が確立していたからだ」と思ってます。「学び方」というのは「どうやって勉強していったら良いか」です。それを学ぶ。昔はみんな同じような学び方をしていたんですね。今は違います。本屋に行けば英語の学習法は五万とありますし、ハウツーのウェブサイトは十万とあります。
でも、あの切り返しが出来る英語の達人を生んだんですから、ちょっとくらい彼らの「学び方」を参考にしてもバチはあたらないはずです。でもそういった達人たちがやっていたことは案外、顧みられません。「学び方を学ぶ」ことの質が劣化してきていると思います。
昔のひとが最初に外国語に触れるのは「素読」を通してでした。中国の古いお話で全文漢字で書かれているものをただただ読むんです。これをずっとずっとやってるとその中国語のパターンみたいなのが分かってきます。漱石なんて漢詩を読み込んだ後にマスターして自分でも完璧につくれたそうです。
渡辺照宏さんは『外国語の学び方』のなかで文章の暗記をしてきたと仰っています。英語の一級書物をページごと暗記していたようです。他の達人たちも結構この「暗記」という手法を取り入れています。これはなかなか良い勉強法なんでしょう。外国語はまず覚えることが基本です。いくら天才でもそれをやらないと原書を読めるようにはなりません。
江戸時代のえらいひとに勝海舟という人がいて、英語で書かれた文書を出された時に、先生を雇ってみますか?と聞かれました。でも海舟は「同じ人間が書いたものだ。ずっとみていれば自ずと意味も分かるだろう」といってジーとその英文を睨み続けました。睨み続けて三日目に「やっぱり先生を呼べ」なんて言います。海舟でもダメだったんだから普通のひとにはとてもじゃないけど無理です。
高校生に例文暗記なんかやらせると最初はイヤイヤやるんですけど後になって「あれが役に立った」なんていう人が多いんですね。暗記の利点は、ひとえに「型を習得できる」からだと思います。僕もその一人でした。高校生の時分に型を徹底的に身につけていったんですけど、今おもうとあの時の訓練がいまにも生きています。近いうちに僕がどうやって型を習得する訓練をしたかをご紹介するのでご参考にしてください。
「ご参考にしてください」なんて偉そうな物言いですけど、これも「俺のやり方みてみな!」という態度というよりは「英語できるひとがやってることを僕もやってみたら、これがけっこうナカナカよかったのよ」と受け売りをしているだけですから勘弁してください。でもそうやって「学び方を学ぶ」ことってとっても大事な気がしています。
では。
でも、ちょっと待ってください。いますよ、いや「いましたよ」、日本にもすごい英語力のひと。例えば、岡倉天心は明治期に活躍した「日本の美術界のドン」みたいな人ですけど、着物姿でニューヨークをふらついている時にアメリカ人に馬鹿にされたんです。それは、こんな具合にです。
“What kind of ‘nese are you people? Chinese, Javanese, or Japanese?” (君たちはいったい、「ナニニーズ」なの?「チャイニーズ」、それとも「ジャヴァニーズ」?ひょっとすると「ジャパニーズ」かな?)
ニューヨーカーからするとアジア系のひとはみんな一緒にみえて区別がつかないことを馬鹿にしてるわけです。でも天心は英語でこう言い返しました。
“We are Japanese gentlemen. What kind of ‘key are you? Donkey, monkey, or yankee?” (我々は紳士たる日本人也。ところで貴殿は「ナニキー」だ?ドンキーかそれともモンキーか。はてはヤンキーかな。)
ドンキーは「ロバ」ですけど「あほなやつ」の象徴です。ださいってことです。モンキーはまぁ「サル」ですよね。「ヤンキー」というのはニューヨーカーのことを指す言葉です。 “gentlemen” と複数形になっているのは天心が弟子の横山大観と一緒に歩いていたからです。大観は師匠の英語での切り返しにいたく感動して、帰国後みんなにこの逸話を言って回ったようです。
それにしてもとっさに英語でこの切り返しをするのは並大抵の英語力じゃありません。天心は後に “The Book of Tea” (茶の本)を素晴らしい英語で記して日本文化を英語圏の人々に伝えます。他にも、禅を英語で海外に紹介した鈴木大拙や、「日本には宗教がない」といわれて「なにくそ」と思いながら “Bushido” を書いた新渡戸稲造もいます。新渡戸の英語なんてすごい渋くてシビレます。この人たちの時代は YouTube もなければ英語の教授法が発達していた時代でもありません。でもみんなすごい英語力なんですね。詳しくは斉藤兆史さんの『英語達人列伝』をご参照ください。面白いハナシがたくさん載ってます。
では、ことの次第は「日本人だって(昔は)英語が出来たけど、だんだん出来なくなってぜんぜんダメになった」なのでしょうか。そんなことないんじゃないですかね。確かに「日本人の平均的な英語力」は確実に落ちました。だって昔のひとで英語をやる人ってものすごいインテリに限られていましたから。そういった時代だったんですね。でも、今は違いますよ。「普通の子」が英語をやる時代です。勉学にもアートにも茶にも医学にも宗教にも大して興味をもってないひとでも英語をやるんです。ですから単純に英語学習者の分母が昔よりずっと大きい。だったら「日本人の平均的な英語力」が落ちるのは当然です。でもそういった「特に英語に興味もないし、英語を勉強する必要性を感じることもない」子たちが、センターの英語の試験では平均にして6割くらいとるんです。これ、すごいことじゃないですか。大した数字だと思うんですよね。疑わしいと思う人はセンター試験の英語を制限時間でやってみてください。結構たいへんですよ、6割。
そうなると今度は、「日本人は英語の読み書きやグラマーは得意だけど、べしゃりの方がねぇ」となります。確かにセンターで6割もとれるのに日常会話さえもたどたどしいのはちょっと変ですね。たぶんそれはただ単に「英語で話す訓練」を積んでいないからじゃないですかね。「英語で話せば話すほどスピーキング能力は伸びる」とぼくは思います。だから「スピーキング能力がのびないのは話す機会が少ないからだ」と思っちゃうんです。
だって、そうじゃないとやっぱり変ですよ。読み書きは出来ているんですから。逆なら分かるんです。「べしゃりはいけるけど、読み書きになるとテンでダメ」みたいなひと。というのも、会話を成立させるためには大した語学力は必要ありません(大人の会話は除きますけど)。だから「英語でお買い物くらいは出来るけど、新聞を読むレベルになるともうだめ」、っていうひとは別に珍しくないと思うんです。逆の場合を考えてみてください。ボビー・オロゴンさんって日本語がめちゃくちゃ上手ですけど、川端康成とか大江健三郎を「オ、イイネェ」なんて言いながら読んでいる姿はなかなか想像しづらいです(あのひと、頭いいからできるかもなぁ)。
だから読み書きのしっかりしている日本人が英会話になるとダメになるのは「機会がないせいだ」なんて単純に思っちゃうんです。もっと訓練の時間を学校でとったら上手くいくんじゃないですかね。どうでしょう?もしかしたら「日本人はシャイだからまずそこを除去しなければ…」なんていうこともあるかもしれません。
ま、とりあえず僕がいいたいのは「日本人=英語デキナイ」っていうのは必ずしも正しい表現じゃないということです。
でも、「昔のひとがあんなにものすごい英語を駆使できたのは何故だろう?」という問に答えを見つけようとすることは大事かもしれません。それに対して僕は「学び方を学ぶ、その仕方が確立していたからだ」と思ってます。「学び方」というのは「どうやって勉強していったら良いか」です。それを学ぶ。昔はみんな同じような学び方をしていたんですね。今は違います。本屋に行けば英語の学習法は五万とありますし、ハウツーのウェブサイトは十万とあります。
でも、あの切り返しが出来る英語の達人を生んだんですから、ちょっとくらい彼らの「学び方」を参考にしてもバチはあたらないはずです。でもそういった達人たちがやっていたことは案外、顧みられません。「学び方を学ぶ」ことの質が劣化してきていると思います。
昔のひとが最初に外国語に触れるのは「素読」を通してでした。中国の古いお話で全文漢字で書かれているものをただただ読むんです。これをずっとずっとやってるとその中国語のパターンみたいなのが分かってきます。漱石なんて漢詩を読み込んだ後にマスターして自分でも完璧につくれたそうです。
渡辺照宏さんは『外国語の学び方』のなかで文章の暗記をしてきたと仰っています。英語の一級書物をページごと暗記していたようです。他の達人たちも結構この「暗記」という手法を取り入れています。これはなかなか良い勉強法なんでしょう。外国語はまず覚えることが基本です。いくら天才でもそれをやらないと原書を読めるようにはなりません。
江戸時代のえらいひとに勝海舟という人がいて、英語で書かれた文書を出された時に、先生を雇ってみますか?と聞かれました。でも海舟は「同じ人間が書いたものだ。ずっとみていれば自ずと意味も分かるだろう」といってジーとその英文を睨み続けました。睨み続けて三日目に「やっぱり先生を呼べ」なんて言います。海舟でもダメだったんだから普通のひとにはとてもじゃないけど無理です。
高校生に例文暗記なんかやらせると最初はイヤイヤやるんですけど後になって「あれが役に立った」なんていう人が多いんですね。暗記の利点は、ひとえに「型を習得できる」からだと思います。僕もその一人でした。高校生の時分に型を徹底的に身につけていったんですけど、今おもうとあの時の訓練がいまにも生きています。近いうちに僕がどうやって型を習得する訓練をしたかをご紹介するのでご参考にしてください。
「ご参考にしてください」なんて偉そうな物言いですけど、これも「俺のやり方みてみな!」という態度というよりは「英語できるひとがやってることを僕もやってみたら、これがけっこうナカナカよかったのよ」と受け売りをしているだけですから勘弁してください。でもそうやって「学び方を学ぶ」ことってとっても大事な気がしています。
では。