我が家の息子も娘も、高校には一般生として受験して入学し、そして、野球部に入部しました。

息子の場合は特待生が同学年に6人くらいいたかな、娘の場合は彼女以外は全員特待生か推薦組でした。

当然、特待生と一般生とでは、扱いに雲泥の差がありました。

特待生は、入学直後から試合に使われますが、一般生は、まずは基礎トレ、みたいな。

でも僕は、こういう不平等があるからこそ、一般生からの下剋上を起こそうという気概が生まれるのだと思っています。



▼ 完全な平等の世界は地獄


たまに、SNSなどで見かけたり、実際の声として聞くことがあって、それは


機会を平等に与えてくれ


などという声です。

その内心には、アイツより俺の方が上手いのに…とか、なんでアイツが試合に出て俺が出られないのか…とか、そんなことがあるのだと思います。

そういう声は、本人よりもむしろ、親御さんから上がることが多いように思いますが…


ただ僕が思うのは、もしも完全に平等な世界になるとしたら、それはそれで、かなりしんどい世界になるぞ、ということです。


どういうことかというと、完全に平等に機会が与えられる、完全に平等に扱われるとすると、純粋に力の差によって優劣が決まるわけです。

控えになるのだとしたら、それは、純粋に、自分の劣等性によるものなわけです。


スポーツの世界においては、そこは完全なる競争の世界だから、完全な弱肉強食となるのは、当たり前ちゃ当たり前なんですけどね。


ただこれはこれで、地獄だと、僕は思うんですよね。



▼ 平等でないからこそ起こせる下剋上


特待生は一年生から機会をたくさん与えられて、一般生はなかなか機会が与えられず、黙々と日々練習を続けるけど、試合となるとボールボーイやバット引きや駐車場案内などなど…


でもそれは、そこに、特待生と一般生、というどうにもしようがない階層というか、士農工商的な仕組みがあって、だからこそ一般生はそういう扱いだし、特待生はそういう扱いなんですよね。

だから一般生は、そこを受け入れて、その上で特待生と勝負をしていく。


チャンスを与えられなくても、それはただ単に自分が「一般生」だからであって、決して


自分に力がないから


ではない。

自分にも、チャンスが与えられれば、特待生並みに、いや、それ以上のパフォーマンスを発揮することができる。


そう思うからこそ、日々の下積みでも、レギュラー組のサポートでも、駐車場案内でも、なんでもこなせるんですよね。


力的には俺の方が上だ!

って思ってるから、ここから這い上がってやる!下剋上起こしてやる!って炎が燃え上がるんですよね。


こういうことは、一般の社会とか、会社とか組織でも言えることだと僕は思っています。

例えば、人事評価とか、実績評価とか、人事配置とか、完全に平等に評価されているとするならば、例えば同期の中で、出世してなかったとして、それは、完全に、ただ単に、自分の劣等性によるものになるわけです。

そういうのって、地獄じゃないですかね。

出世してないとして、アイツはあの上司に気に入られているから、とか、そういう不平等があると考えることができるから、なんとか、現状を受け入れることができるんじゃないかな。

なんか、そんなことを思うんですよね。


平等な世界っていうのは、望ましい状態なのかもしれないけど、もしかしたら、とても残酷な世界になるのかもしれないです。


我が家の息子は高校時代、ベンチ外で過ごすことが多かったけど、でも彼を支えていたのは、「一般生という不平等」だったんじゃないかなぁと、最近、思ったりしています。


平等でないからこそ起こせる下剋上


そういうことかなと思います。



以上でーす。