James Setouchi

2025.9.15

 

  明治28年(1895年)の正岡子規

 

 私は俳句についてはスタンスがすでに決まっていて、もはや俳句などにはかかわらぬことにしているのだが(やりたい方はやられてもかまいませんよ)、明治28年というエポック・メイキングの年(色々な意味で)に注目した展示と講演があったので、参加してみた。

 ここでは講演についてポイントを記し、所感を述べる。

 

 講師はこの分野の専門家のA教授。彼は子規関係に非常に詳しい。ただ物知りなのではなく、同時代の文脈の中に子規を位置づけるのが得意だ。講演を聞きたくなる一人だ。

 聴衆はざっと数えて50名ほどだった。ほとんどがシニア世代で、もしかしたら俳句実作者で「センセイ」と呼ばれている方々なのかな? と想像してみた。

 時間は90分(途中休憩少し)。

 

 ポイントを以下に記すと、

 

・子規は、すでに政治家にも哲学者にも小説家にもなれず、決死の覚悟で行った日清戦争従軍記者の仕事でも喀血(かっけつ)して帰ってくる。病気療養で考える時間が出来た。虚子に俳句の後継を依頼すると断られる(道灌山事件)。子規は挫折していた。そこから新しいものが生まれる。

 

・明治28年、帰国して松山で夏目金之助(漱石)の下宿にころがりこみ、仲間たちと句会をした。近隣に連句の宗匠がいて、一緒に連句もしてみたらしい。それらとの交わりの中から、俳人子規の考え方が固まってくる。またこの仲間たち(虚子、碧梧桐、漱石、内藤鳴雪、柳原極堂といった人びとが周囲にいた)が育っていく。いわゆる『日本』派、また『ホトトギス』派が広がっていく。

 

・明治25年『獺祭書屋(だっさいしょおく)俳話』が子規における転換点だとよく言われるが、実は俳人子規が俳人子規としてかなり輪郭(りんかく)をはっきりさせてくるのが明治28年

 

・明治28~29年『俳諧大要』連載。「俳句は文学の一部だ」と宣言。つまり江戸以来の「俳諧は俳諧で独自の価値を持つものだ」ではなく、西洋のいわゆる文学(それは個人のもの)の一つとして俳句を位置づけた。

 

・明治28年『増補版 獺祭書屋(だっさいしょおく)俳話』で「発句(ほっく)は文学だが、連俳(れんぱい)は文学ではない」と断定。つまり俳句(個人が作る)は文学だが、江戸以来大勢で規則に従ってやっている連句・俳諧(はいかい)は文学とは言えないから、論じなくてよい、と断定した。二十代の若者・子規が何の根拠もなくこう断定したが、当時の連句の宗匠(そうしょう)たちに言わせれば、暴言そのものだったろう。しかし、その子規の断定が実現していくところにこの男の凄(すご)みがある。

 

当時の連句の宗匠たちは、芭蕉を神格化しており、芭蕉の連句について注釈が出来るのが偉いとされた。子規は神格化された芭蕉像と俳諧・連句の伝統を否定した。

 

・子規は、西洋に植民地化されそうな日本に危機感を抱き、文学も西洋風に革新しなければならない、江戸以来の俳諧・連句などやっている場合ではない、と考えたのだろう。

 

・子規は日清戦争に従軍記者として参加するときも、松山藩士族の正装で(大原観山から借りた日本刀を差して)写真を撮っている。決死の覚悟で行っている。(殿様から拝領の刀だと長らく言われてきたが、そうではなかった。)松山藩は佐幕派で薩長に敗れ朝敵とされた。藩の汚名を返上するためにも子規は必死だった。

 

・つまり彼なりの決死の使命感があり、私的な名誉や野心ではなく、公的な使命感があった。これが彼にカリスマ性を生んでいる。(二十代でいながらこれだけのものを持ってしまったということは、それまでに過酷(かこく)な挫折(ざせつ)を経験し思いつめていたということでもある。)

 

小林秀雄は、習慣は無自覚に継承してしまっているものだが、伝統は日々新たに発見すべきものだ、という趣旨(しゅし)のことを言っている。子規がやろうとしたことを今日の我々一人一人が自覚して伝統として発見していく、それが今日のこの町の文化になる。

 

(・他に、ミュージアムに行って現物を見るとよい、そこにその人が生きていた実感が感じられる、ミュージアムの学芸員はモノを相手にしているからすごい、などの発言もあった。)

 

 ざっとこのような内容だった。紙面の都合で大幅に省略したが。

 

 以下、私的感想。

 

有益だった。さすが大学の研究者で、具体的な資料(当時の雑誌など)にあたりながら説き起こしていく。専門家ならではの仕事だ。聴講できてよかった。ありがとうございました。

 

・ミュージアムの学芸員の方が頑張っているのはその通り。ありがとうございます。

 

西洋の「文学」概念を入れようとしたということは、江戸以来の連句をやる人びとから見ると、伝統破壊・外国文化追従(ついじゅう)というふうに見えたということでしょうかね・・戦後桑原武夫(くわばらたけお)が俳句を批判(『第二芸術論』)したときは、「桑原は伝統破壊だから・・」と俳句連は言ったものだが・・? 明治には正岡子規一派こそ「伝統破壊」とみなされたのだ。・・何が伝統か? は一筋縄(ひとすじなわ)ではいかない。

 

・「文学」はそもそも個人がやるものか? は議論のあるところだ。それに「文芸」と「文学」の区別もつけた方がいいと思うが・・

 

・子規は国家のため、松山藩のためという公的な使命感で動いていたと言うが、自分の名誉心や立身出世欲はなかったのだろうか? 『舞姫』の太田豊太郎は「身を立てる」「家を興す」を明確に語っている。子規も没落士族だから同様のメンタルを持っていたかも。また、子規は周囲に対してリーダーになりたがるメンタルがあったように私には思える。(時々いますよね、そういう人。)なお松山藩は幕末維新の戦いで佐幕派ゆえ朝敵(ちょうてき=朝廷の敵)とされた。優秀だった正岡子規は旧殿様の資金で松山藩の名誉挽回(汚名返上)の使命を持って東大(帝大)に行った(が落第した・・)ことは有名である。これは果たして「公的使命」と言うのだろうか? 結構「私的」では? 

 そもそも「公的」とは何だろうか? 

 鴎外『舞姫』で言えば、「国家のため」を相沢謙吉は信じただろうが、それはエリス(と太田)を踏みにじるものでもあった。具体的な人間を踏みにじる「国家のため」とは一体何か? そんなものが「公的」かというと、あやしい。藩のため、家のため、自分の名のため、すべて「公的」とは言えるかどうかあやしい。(「公立中学」と言えば県立や市立中学などを指すが、「公」イコール県や市、というわけでもない。国や県や市の公務員が努力していると私は感謝しているが、それでも取りこぼされるものが現実には多々あり、本当に「公的」であるとは、国や県や市を越えたところにあると考えざるを得ない。)太田豊太郎は、立身出世に挫折し家も国家もないところに放り出され、しかもそこでせっかく出会ったエリスと別れさせられ、茫然自失(ぼうぜんじしつ)の中でサイゴンの港まで連れて行かれ、そこで手記を書き終えて初めて「公的」使命感が覚醒(かくせい)した、と読める。「相沢を憎む」のは私怨でなく公憤と取ってみたい。エリスを破壊し暴走する国家(相沢・天方的帝国)とは一体何なのか? を問うのだから、国家を越えた極めて「公的」な問いだと言える。

 漱石『それから』で言えば、代助は父親の「熱誠」を説く説教の前で「誠は天の道と額に描いてあるが人の道ではない」と言いたい気分に駆られる。父親の意識は混濁しており、国家社会のためと家のためと自分のため、人のためと自分のためとの区別が付いていない、と代助は感じている。『こころ』で言えば、中巻の「父」は乃木大将や明治帝に個人的に結びつき国家(帝国)にからめとられてしまったが、「先生」は思索の果てに「明治の(国家や天皇ではなく)精神に殉死する」つまり明治の精神を終わらせる、新しい時代の若い人は新しい精神で生きて欲しいと期待する、と遺書を残した。これも国家を越えた「公的」な使命を命がけで果たそうとしていると言える。

 「公的使命感」とは、国家のためでも藩のためでも家のためでもなく、もしかしたら、国家も藩も家もすべてをはるかに越えたところを狙(ねら)っているかもしれないのだ。「文学」は国家など越える。だが、正岡子規にそこまでの思索(哲学すること)があったかどうか? 

 北村透谷は文学は「事業」であってはいけない(『人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ』ほか)とし、人類の輝く精神史上に自分も尽力しようと考えたろう(『一夕観』)。

 内村鑑三も国家などはるかに突破してしまった。旧約聖書を読めば国家など滅ぶものだとはっきりわかる。(滅んでいいと言っているのではないよ、念のため。)

 漱石も『三四郎』の広田先生に「日本よりも世界は広い、世界よりも・・頭の中は広い」と言わせる。「日本は亡ぶ」とも。

 われらが正岡子規は残念ながらそこまで考えていなかったのではないか? だからナショナルな情熱に流されるままに(与謝野鉄幹とはまた違うが)日清戦争に行ってしまったのではないか? 「行かば我れ筆の花散る処まで」とは風雅(ふうが)に死ぬ覚悟を述べた(芭蕉の「行き行きて倒れ伏すとも萩(はぎ)の原」同様)ようでもあるが、また、特攻隊の思想に近似した危険な感覚のようでもある。その覚悟で大陸に出かけたが、挫折して帰国し、戦争も軍隊も帝国主義もつまらない、というところまで思索を深めたかどうか? その時間はなかったと同情してあげるか? では門人たち(たとえば虚子)は戦争中どうしたのか? などが疑問として浮き上がってきた。

 そこで、次のミュージアム展示と講演は、「戦争及び帝国・軍国主義と子規及び子規派の俳人たち」でお願いしたいと思う。副題は「俳句は戦争を防止しうるか?」あるいは「戦争の前で戦争は有力か無力か?」でどうですか?

 

参考

内村鑑三は明治27~28年の日清戦争で戦争はダメだと非戦論に転じ、『日本及び日本人』を大幅に書き改めて『代表的日本人』とする。

夏目漱石は明治28年に松山中学にいたが、その後熊本~ロンドンを経て東京に戻り、文学者・作家として思索と著述を展開していく。

北村透谷は明治27年日清戦争開戦前に自死した。せっかく日本平和会を作り雑誌『平和』編集長もしていたのに。

大日本帝国は明治28年(1895年)日清戦争の勝利で獲得した賠償金で軍拡を行い、日露戦争を経て軍産官学複合体が強固に成立、昭和20年(1945年)=明治28年のちょうど50年後=の滅亡まで歩を進めていくことになる・・・