James Setouchi
2025.11.15
読書会記録 2025.11.15(土)に実施した。
ジャック・ロンドン『野性の呼び声』大石真・訳 新潮文庫
The Call of the Wild
1903年出版。作者27歳の時の作品。傑作で、発売直後1万部を売り尽くし、さらに大ベストセラーになった。
深町眞理子訳を使った人もいた。やや訳が高度だったか? 海保眞夫訳を使った人もいた。アオゾラ文庫にもある。訳によってやや違いがあった。
[1]ジャック・ロンドンJack London1876~1916
新潮文庫解説(大石真)によれば、1876年サンフランシスコに生まれた。父は旅回りの星占師、生まれる前に母が離婚しいわゆる私生児として育てられた。母親はジョン・ロンドンと再婚。新しい父ジョンはカリフォルニアの農場を渡り歩く移住労働者。やがてオークランドに住む。ジャックは小学校時代から新聞を街頭で売り、小学校を出ると直ぐ働く一方、図書館に通い多くの書物を読んだ。十代後半で失業者の群れに加わりアメリカ・カナダを放浪。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』(1848)を読み影響を受けた。オークランドに戻り高等学校や大学に学ぶがすぐ退学し洗濯屋で働きながら作品を出版社に送り込むも採用されなかった。ゴールド・ラッシュで極地に旅立つが壊血病になり帰郷。『野性の呼び声』は6番目の著作で、非常に人気となった。他に『狼の子』『雪の娘たち』『どん底の人びと』『海の狼』『白い牙』『鉄の踵(かかと)』『マーティン・イーデン』などがある。1916年に狂気の恐怖に駆られて自死した。40才。
集英社世界文学事典の折島正司によれば、「彼の中には、アメリカ的個人主義や社会進化論的弱肉強食思想などが、社会主義思想と同居している。」
[2] 最初の感想
・犬の話で面白い。またアラスカという異世界の話で面白い。中学生の時読んで面白かった。今読んで、動物の生態について、犬と人間の関係について、人間のあり方についてなどなど、ロンドンが使っている知見に今の科学の学説から見れば誤りがあるのではないか、と感じた。でも面白かった。
・面白い。イベントも面白く文体も生々しい、犬から見た世界で独特の世界感だった。
・読む前は犬が主人公と思わなかったが、犬が主人公だから感情移入しやすかったのかもしれない。臨場感があった。
・犬が主人公で、野性に帰るのだなと思いながら読んだが、最後にソートンに愛されている。人間との愛情の関係を一回経由しているのはどうしてかと思った。
[3] 出た話
・アメリカがアラスカを併合したのは1867年。読者たちにとって関心の高まる異世界だったかもしれない。
・棍棒の掟で犬をしつけると言うが、南極観測隊などでも同じなのだろうか?
・極地で環境が厳しいからエスキモー犬が南から来た犬を襲って殺すなどもあるのか? 本来はしないのか? 犬は喧嘩をしてもお腹を見せれば攻撃をやめると言うではないか? 弱肉強食のジャック・ロンドンの世界観(ロンドンはそれを肯定しているわけではないが)に読者はいつの間にかからめとられてしまうので、批判力のない中学生には勧められないかも?
・ジャック・ロンドンは人間社会を批評しているのであって、動物についての記述の不正確さは気にしなくていいのかも?
・ある小説でケニアの象が弱っている仲間の象を突き殺す描写があるが、本当か?
・犬のバックは先祖の狼だったころの記憶がよみがえると言うが、どうなのか。幼少期の体験を思い出すことはあるが、先祖の体験を思い出すだろうか? フロイトはユダヤ民族がモーセを殺害した先祖の記憶を数世代後によみがえらせた、という説を立てているが、そんなことがあるのか? 経験から学んだことが世代を超えて蓄積されるのなら、お祖父さんが勉強した知識が孫に残っているはず? それはデジャヴのようなものか? デジャブはなぜ起きるのか? 心霊現象か? 自分はデジャヴの経験はない。いや自分はある。「それはデジャブだよ」と解説されてデジャヴだと認識するようになるのだから、SNSで多様な言説が出回る今日、「これはデジャヴだ」と思い込む人が増えているだけでは?
・人間社会のシステムに守られたカリフォルニアの世界と、そこから排除されドロップアウトする人間、人間社会のシステムのあまり通じない極北の世界が、描かれる。
・日本では、西洋の社会進化論(スペンサーやハックスレー)・弱肉強食の思想を誤解した富国強兵思想と、そのカウンターとしての東洋の大調和思想がある。ロシアも同様。
・グローバル化する世界の中で、もっと法と契約、裁判を徹底させるべきなのか? それとも礼や徳による解決(慣例による示談など)を重視すべきか? スマホやアプリの契約で「同意します」と言うとき、人びとは丁寧に契約を読んでいるだろうか? では、どうすればよいのか? 大多数の日本人に使いやすいように日本Microsoft社なりがルールをわかりやすく簡単なものに改変して使うべきか? 秦朝は法で強権的に支配しようとして十年くらいで滅んだ。漢朝は法と儒(礼と徳)を併用した。(法家思想と言っても、西洋の近代法とは同じではないことに注意。上の者が下の者をいかに操作するかの術を含意する場合もある。)
・大阪万博でパビリオン建設が納期に間に合わなかった、契約違反だとして相手国(仲介業者)が支払いを拒否した例があるという。だが引き受けた中小企業は困難の中で残業しながら懸命に努力したのだ。情から言えば酷い話だ。相手が支払わなくても、せめて国や大阪府が払ってやるべきか? 最初の契約時に「間に合わなかったときはいくら」と明記すべきだったのか? そもそも大阪万博などやるべきではなかった、という意見はさておき。
・宮沢賢治は生き物を殺すことに罪悪感を感じる。動物と植物の違いを学問的に言う前に、情が移ると残酷なことは出来なくなるのだ。『ジャングル大帝』は(動物が動物を殺さない世界を思い描くが)極限状況でヒゲおやじはレオを殺して泣きながら食べてしまう。同じ世界に生きていると思うとゴキブリさえもかわいくなるかも。殺される牛は事前に察知して涙を流して泣くと言う。魚はどうか?・・だが、ヒトは雑食で肉や魚も食べながら生存してきた。自分はシカやイノシシを解体した経験がある。解体パフォーマンスでショー化するのはどうかとも思うが、殺して食べること自体は可哀想だが生きるためには仕方がないことだと割り切る。大多数の人は、誰かが肉を解体してハムなどにしてくれたのをスーパーで買っている。畜産関係者は畜魂祭を行い家畜の魂を弔う。植物はどうか? 小鳥を埋葬するために花を沢山ちぎってくるとは。植物も生きようとしているのに。
・犬が主人公だから物語の世界に入っていけたかもしれない。人間だったら、弱肉強食で書いてしまうと、慈悲の心はどうなる、などとひっかかる。極地で犬の世界だから読めたのか。イエスもブッダも出てこないのは確か。
・冒頭の犬泥棒について。賭け事に夢中とあるが、大勢の家族を養う必要もある。彼は道徳的に問題があるとも言えるが、給金が安く、社会構造の中で搾取されている人だとも言える。訳によってニュアンスが違う。
・ラスト近くで犬ぞりが氷の割れ目に落下して仲間の犬たちが死ぬ。バックは仲間をもっと惜しんでもいいと思うけどあっさり書いているのはどういうわけか。・・これは、北極地帯の氷で落下すると助けようがない、ということでは?
・ソートンが先住民に殺され、バックが報復をするシーンがある。それ以来バックは人間を恐れなくなった、とある。棍棒の掟をたたき込まれ人間に対する恐れがあったが、それから解放されたということだ。それを描くためにソートンとの交流の描写は必要だったのか。
・先住民に対する捉え方はどうか。当時の北米の人びとの認識に対してジャック・ロンドンはどれくらい違っていただろうか。これは研究してみないとわからない。
[4] 『白い牙』(1906年)にも少し触れた。オオカミの血を引く「白い牙」が極地から南下してカリフォルニアの温かい家庭に住むようになる話。
[5] 『ザ・ロード』(1907年)にも少し触れた。「ホーボー」と書いてあるが、社会からドロップアウトして放浪する「トランプ」という存在と見るべきだそうだ。芭蕉の紀行文とは全く違う。
[6] 『どん底の人たち』(岩波文庫)も紹介された。20世紀初頭のロンドンの貧しい人びとのくらしを記述。
[7] なぜか武道の話も出た。武道の授業で裸足になる話がきっかけだった。
・武術を武道と言い換えたのは大正時代で大日本武徳会がそれをやった。大日本武徳会は日清戦争(明治27~28)の頃に京都の人が始めたもので、戦場で国のために死ねる人間を育てようとの意図があった。そこでの特徴は、A殺傷能力、B礼節(己をつつしみ相手を敬う)、C上の命令に絶対服従、であって、D魂の修行による霊的覚醒は除外されている。明治以降大日本帝国の「武道」なるものの正体はこれで、江戸までの「武術」=D魂の修行を大事にする、とは違うものだ。つまり日本の伝統ではなく、明治以降の帝国が捏造(ねつぞう)したニセ伝統に過ぎない。それを知らず平成末の文部官僚(背後にはアベ政権。教育基本法に「伝統」という文言を入れた)が必修科目「武道」として入れてしまった。「伝統」でもなんでもないものを。武術の修行が進んで本当にD魂の修行による霊的覚醒を体得したら、砲弾飛び交う戦場に立ち上がり敵味方に対したたかいをやめて愛と平和を説き始めるかもしれないから、帝国の軍隊にとっては都合が悪かったのだ。植芝盛平(合気道)は軍部が合気道を教えてくれと言ってきたとき「それは日本人みなを鬼にすると言うことじゃ」と言って拒否し岩間に引退してしまわれた。殺傷能力ばかりに注目し、魂の修行(霊的覚醒)について見落としているのは危険、と考えたのだろう。このへんは内田樹(合気道)が言っている。つまり必修科目「武道」は日本人の伝統である「武術」を継承してはいない。明治以降に作られた奇妙なものを伝統だと言い張っているに過ぎない。
・「武道」としての剣道に郷愁のある人は、道場で一対一で戦うイメージを持っている。戦場での「武術」としての武士たちは、実際にはどうだったか。『平家物語』は一対一もあるが多くは多対多で、敵将と戦っているとわきから郎党に刺された、などとある。まずは騎射で遠距離で戦い、次に接近戦をするが、最後は組打ちで噛みついてでも勝とうとする。応仁の乱に足軽隊が実力を見せ、信長は鉄砲隊を使い、秀吉は足軽隊の槍を極めて長いものにしたとか。道場で一対一でやるようなきれいなものではなかったのだ。幕末に千葉周作道場辺りから竹刀で打ち合う稽古が始まった。新選組は足(すねなど)を切り払う戦法だったと司馬遼太郎が『燃えよ剣』に書いてあるが本当か。先日剣道の大会をTVで見ていたら竹刀で首や肘に随分当たっているが、有効打突にカウントされない。もし真剣だったら互いに血まみれの重傷で、息も絶え絶えだろうな・・と思った。などなど。
・宮本武蔵は兵法者を必要とする時代に「遅れてきた」兵法者だった。高名な、しかし自分より弱い相手を、トリッキーな手段で破り、有名になり、高いサラリーで大名に就職しようとした。吉岡一門(足利将軍家の剣術指南)や佐々木小次郎(小倉藩の剣術指南、実はすでに高齢だったとか)などを倒したのもそれだと。剣聖などと崇められるようになったのは二天一流の開祖として祭り上げられてからだろう。一般大衆に有名になったのは吉川英治の小説からだ。実際には若い頃の殺人と言い、そう褒められたものではない。(若い頃は兵農分離が進んでいなかったので、農民と武士の区別はつかず、武蔵だけが無法者というわけでもないかもしれないが。)
・ A殺傷能力、B礼節(己をつつしみ相手を敬う)、C上の命令に絶対服従、が「武道」の本質だとすると、空手や柔道、なるほど。武器を手に持つ剣道や居合道や棒術の類いは? なるほど。飛道具を使う弓道や手裏剣道は? なるほど。・・では、アーチェリー道は? あるかもしれない。では、ライフル道は? テポドン道やトマホーク道もあるのか?・・・それらも「武道」になってしまうのでは? どうですか? すると、やはり何かが根本的に足りませんね。
→「武士・武道を考えるための基礎知識」へ(本ブログ テーマ「日本思想」で、2024年10月1日付けアップ)
[8] 原武史『《出雲》という思想』についても言及した。
・もともとヤマト、ミワヤマ、カツラギヤマ、イセ、イズモ、クマソ、サツマハヤト、エゾその他その他など、多元的、多層的な日本だったのに、なぜイセ・天皇中心の国家神道で統一してしまったのか?・・それこそが、「欧米列強と対抗するために中央集権化しないといけないという強迫観念」の結果なのだろう。領邦国家や合州国のような形もありえたかもしれないのに。長年の日本人の歴史・伝統を否定し単一の思想に統制した結果、多様性・柔軟性・寛容性を失い、硬直化した挙げ句、わずか78年で大日本帝国は滅亡した。では、今の日本は?
[9] 次は12月20日(土)カポーティ『ティファニーで朝食を』・・恋愛小説であるだけでなく実は社会批評?