幕末史跡巡り2012年12月 -京都- Part8 | 以蔵のblog

以蔵のblog

大河ドラマ「新選組!」放送以来から現在まで新選組…幕末にはまってます。さらに最近は宇宙に夢中…

引き続き、史跡巡り京都をお送りします。今回で8回目…まだ終わりそうもないですw
前回は、京都市中でもかなり北上したところで締め括りましたが、今回は南下して京都駅からわりと近場にある史跡をご紹介します。
まずは、京都駅北口を出て、塩小路通を西に進むと左側にハトヤ瑞鳳閣というホテルがある。

以蔵のblog-不動堂屯所跡2
そのハトヤホテル前に石碑が建っている。最近建てたのだろうか…かなり新品w
「此付近 新選組最後の洛中屋敷跡」と刻まれている。その名のとおり、新選組最後の屯所、所在が明確ではないので、幻の屯所とも言われている不動堂屯所跡の石碑である。
そして、ハトヤホテルを通り過ぎ、堀川通にぶつかり、歩道橋を渡ったところにあるリーガロイヤルホテルへ…

以蔵のblog-不動堂屯所跡3
ここは3日間宿泊していたホテルなんだけど、ここにも不動堂屯所跡を示す石碑がある。昭和まで生きた新選組最後の隊士と言われる池田七三郎の証言によると、不動堂屯所は大名屋敷のような実に堂々とした建物だったらしい。このホテルもかなり大きく敷地も広い…っとすると、ここが屯所跡だとしても何ら不思議ではない。しかし、池田を含む複数の人物が屯所の住所を、「醒ヶ井通木津屋橋下ル」「醒ヶ井七条下ル三丁目」としている。この証言から跡地を特定すると、リーガロイヤルのある場所は屯所跡では無いということになる。そこで、堀川塩小路の歩道橋へ…

以蔵のblog-不動堂屯所跡
歩道橋からの眺め。見えるのはビルとだだっ広い堀川通。現在の堀川通は、幕末時は醒ヶ井通と呼ばれ、現在の道路の左(西)半分…いやさらに左(西)半分ぐらいの広さだった。とは言え、堀川通が無かったわけではない。醒ヶ井通よりもっと西に堀川が流れており、その川沿いの道が堀川通だった。現在は埋め立てられてしまったのか、地下に流れているのかわからないけど、かつて存在していた堀川は地上からは見えない(^_^;)。
現・堀川塩小路から北上して一つ目の交差点が木津屋橋通。まさに歩道橋から見える堀川通の右(東)半分と目の前に見える資生堂ビルを含む辺りが、正確な不動堂屯所跡と言えそうだ。また、近藤勇妾宅についても同じ住所なので、屯所のすぐ近くだったのは間違いない。正確と言えそうな場所に石碑が無いのが淋しいが、とにかく写真の手前から屯所跡、近藤勇妾宅跡って感じです…イメージするのは大変ですが(^_^;)
おまけに…この件について以前、個人的に実像に迫っていますので、よろしければこちら(新選組の実像迫ってみるPart7) もご覧くださいw
次は、木津屋橋を東に歩き、1本目の交差点、油小路通へ…

以蔵のblog-本光寺
油小路通を左に曲がってすぐの所に本光寺がある。ここは、慶応3年11月18日に当時新選組から分離して御陵衛士となっていた伊東甲子太郎が絶命した場所。近藤勇妾宅で開かれた酒宴の帰り道、伊東は新選組に襲撃され、この本光寺門前の門派石に座ったところで、力尽き絶命したと伝わる。その門派石は現存しているが、現在は門前ではなく、門の中である。当時門はもっと奥にあった。現在の門前には、写真からもわかるように石碑が建っている。しかし、文武両道に秀でた伊東としては、あまりにあっけない死だった(^_^;)
本光寺を過ぎ、油小路を北上し、七条通りへ…

以蔵のblog-七条油小路
油小路通と七条通の交差点。一見ただの交差点だが、ここでは現在では想像できないような、血生臭い出来事が起こっていた。本光寺で絶命した伊東は、新選組の手により、この交差点まで運ばれた。新選組は、伊東の死体を囮に使い、御陵衛士壊滅を図ったのだ。伊東の状況を知り、現場へ駆けつけた御陵衛士残党を、新選組は計画通り襲撃。数名は逃げたが、服部武雄、毛内有之助、そして新選組結成から在籍していた藤堂平助の3名が斬殺された。さらなる壊滅を図り、伊東ら4名の死体は数日間放置されたが、残党は現れず、新選組の手により、光縁寺に埋葬された(後に戒光寺に改葬される)。この出来事を「油小路の変」と呼ぶ。
現在は、七条通が大幅に拡張され、車通りが多い騒がしい道路だが、当時はかなり狭い道で、周辺は禁門の変により焼け野原状態となっていて、民家がぽつぽつ残っている程度の淋しい場所だったと言う。
七条通を渡り、油小路をさらに北上…

以蔵のblog-天満屋跡
ここは天満屋跡。マンションの前に石碑が建っているが、よく見て歩かないと、見過ごしますw
ここは天満屋事件 が起こった場所です。石碑には、「中井正五郎殉難跡」と刻まれています。十津川郷士・中井庄五郎は、天満屋事件で亡くなりました。
天満屋跡を過ぎ、旧花屋町通を左折し、再度堀川通へ…

以蔵のblog-西本願寺
すると目の前に、ど~んと西本願寺が現れる。ここは、新選組第2の屯所だった所です。まさに新選組全盛期の屯所だったと言えるでしょう。ここでの新選組の無茶ぶりは凄かったようで…寺側の新選組嫌いは相当なものだったようです。その後、西本願寺が費用を全額負担し、不動堂屯所を建てて新選組に提供…そこまでして、新選組を追い出したかったようです(^_^;)
尚、屯所としていたのは北集会所(写真の右側)だったそうで、当時の建物は姫路にある亀山本徳寺に移築されているそうです。だから現存していると言えば、現存してるんだろうけど、かつての場所には存在してません。現在は参拝会館となってます。唯一、太鼓楼が当時のまま残っているのみです。
余談ですが、新選組隊士の島田魁が、明治に入ってから西本願寺の警護を務めています。寺側から憎まれていた新選組ですが、新選組隊士達にとっては全盛だった頃の場所であり、良き思い出がいっぱい詰まった場所だったのでしょう。

っというこで、今回も長々書きましたが、史跡巡り京都、まだまだ続きます。