新選組の実像に迫ってみるpart7 | 以蔵のblog

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大河ドラマ「新選組!」放送以来から現在まで新選組…幕末にはまってます。さらに最近は宇宙に夢中…

昨日から雨が降り続き…さらに寒い…何だか暗い週末だな(^_^;)
「新選組の実像に迫ってみる」7回目。自分でもよく懲りずに続けてるなぁなんて思ってますが、まだまだ続けていきたい所存ですw
今回は、前回ピックアップした「油小路の変」が起こった時期に新選組が屯所としていた「不動堂屯所」について迫ってみます。
山南敬助の死の直後(慶応元年3月)に西本願寺に屯所を移転した新選組だったが、寺側にとっては大迷惑だったようで、2年以上経った慶応3年に寺側が新選組の為に屯所を新築し提供した。これはある騒動(騒動の詳細は抜粋)をきっかけとして、新選組が新屯所建設を西本願寺に要求、これに西本願寺が応えた形である。一刻も早く立ち退いてもらいたい寺側にとっては、この要求は願ったり叶ったりだったのかもしれない。こうして、慶応3年6月に新選組は不動堂屯所に移転した。
新屯所である不動堂屯所については、当時入隊したばかりだった池田七三郎という隊士が「実に堂々たる大名屋敷のよう…」と晩年に語っており、かなり大きく立派な建物であったことが窺える。また、屯所は「醒ヶ井通り七条下る三丁目」にあったという。西本願寺の侍臣であり、後に新選組記録を世に送っている西村兼文も同屯所のことに触れており、場所は「堀川通りの東、木津屋橋の南」としている。
やっとマイホームならぬマイ屯所を持った新選組であったが、滞在期間は僅か半年と短く、また明確な所在地も伝わっていないことから「幻の屯所」とされている。現在、堀川通り沿いにあるリーガロイヤルホテル前に不動堂屯所の石碑が建っているので、そのホテルがある敷地こそが跡地なのかと思ったら、どうもそうではないらしい。そんなことから「幻の屯所」の所在地については、熱心に研究された方々がいるようで、今ではある程度特定できる。
所在地特定の鍵となったのは、上記の同時代人の証言と古地図だったみたいである。そこで、現在の屯所跡周辺の地図(yahoo地図より)に、古地図(大正2年のもの)から抜粋した当時の○○通りなどを重ね合わせてみました。半透明だけど、灰色の線が当時の通り、水色の線が当時の川、その他バックは現在の地図です。

以蔵のblog-不動堂屯所周辺

どうでしょ?けっこうよくできた図じゃない(自画自賛)w。まず、同時代人の証言を整理すると、場所は醒ヶ井通り七条下る三丁目、堀川通の東で木津屋橋の南である。醒ヶ井通のバックにある広大な道路は、現在の堀川通で、当時の堀川通は現在よりずっと西で、今は地下に埋もれているであろう堀川沿いにあった(だから堀川通という名前なんだろうけど)。図を見ていただければ一目瞭然だけど、醒ヶ井通は堀川通の東にあるから証言は間違っていない、そして七条下る三丁目は七条通から下(南)の三丁目ってことだから、木津屋橋通と梅小路通の間ということになり、木津屋橋の南という証言も間違っていない。2人の証言はほぼ一致しているのだ。
以上の証言で広範囲ではあるけど場所は特定できた。あとは醒ヶ井通の東西のどちらであったか?という問題を残すのみとなる。そこで古地図に目を向けると、醒ヶ井通沿い東側に学校があった、これは「安寧尋常小学校」で、明治2年開校で700坪以上の敷地があったという。そこは現在堀川通となっているので、もちろん移転しているんだけどね(現在は安寧小学校)。開校時期と敷地に注目すると、明治2年とは戊辰戦争が終結、明治政府が樹立して間もない頃である、さらに明治2年に開校するならば、それ以前に建設しておかなければならないわけで…ってことは戦争中に建設したってことになる??。当時の政府に、民家を壊したり、田畑を潰したりして一から広大な建物が造れるほど、余裕があったとは思えない。それよりも幕府が無くなったことにより不要となった建物や敷地が数多くあったのだから、そこを利用しようとするのが自然の流れではないだろうか。
不動堂村近辺に学校建設を計画したら、大名屋敷のような広大な建物であった不動堂屯所が真っ先に候補に挙がったはず。おそらく建物はそこを再利用して、小学校を開校したものと思われる。
以上のことから、図にある「文」の位置こそが、幻の屯所とされていた不動堂屯所の跡地である可能性が極めて高いと言える。ただ、史跡巡りしても、現在は堀川通の道の上ということになるので、そんなところでつっ立ってたら、車にひかれてしまう…(^_^;)。下の写真は、その堀川通沿い…道も含んだこの辺りが屯所跡ということになるんでしょうか…全く想像できないw
以蔵のblog-不動堂