幕末史跡巡り2012年12月 -京都- Part7 | 以蔵のblog

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大河ドラマ「新選組!」放送以来から現在まで新選組…幕末にはまってます。さらに最近は宇宙に夢中…

今週に限って、集中して仕事のOfferが殺到…それに対処するための資料作り、Meetingの繰り返し。このご時世に誠にありがたいことで、嬉しい悲鳴をあげたいところだけど、1人で対応するのは至難の業(^_^;)。今回は何とか無事乗り切って、すべてのOfferを受け入れることに成功したけど、この状況が続くとなると厳しいと言わざるを得ない…(^_^;)。会社にバックアップ要請を願い出なければ…(笑)
っということで、今回Blogは史跡巡り京都編です。今回で7回目だよ!!3日間という短期間の中でよく隅々まで周ったなと我ながら感心w
前回は、木屋町通周辺を四条から三条まで北上し、新選組最大の史跡である池田屋跡までをご紹介しましたが、今回は、三条から南下し、五条木屋町周辺からスタート。

以蔵のblog-五条大橋
新選組の基本的な仕事と言えば、市中見廻り。新選組の警備区域を調べると、慶応2年11月は「北は五条通、南は御土居まで、東は鴨川、西は御土居まで」とある。ちょっと分かりにくいが、ここから読み取ると、北東方面は五条鴨川、まさに五条大橋周辺ということになる。ということで、写真は五条大橋ですw
ここは、平安時代末期にあの義経と弁慶が戦った場所、出会った場所であります。1回目で紹介済みですが、五条大橋前には、2人の銅像が建ってます。
話を幕末に戻すと、この周辺は新選組警備区域に入るため、日頃隊士達はここら辺を行き来していたはず!?。でも、五条周辺の新選組にまつわるエピソードって無いね…そう言えばw
以蔵のblog-五条木屋町
五条大橋から木屋町通へ。特に何の史跡があるわけでもありませんが、情緒溢れる町並みだったので、紹介しましたw
さて次は、そこから一気に北上し、四条、三条、二条を通り抜け、幕末時に天皇(当時は孝明天皇)が居た、まさに京都の中心…いや日本国の中心であった御所へ…

以蔵のblog-蛤御門
御所は広い。御所には何度も足を運んでいるので、今回は幕末に絡む最大の史跡である蛤御門のみに照準を絞りました。ここでの最大の事件と言えば、禁門の変(蛤御門の変とも呼ぶ)。禁門の変から約1年前の八月十八日の政変で京都を追放された長州藩は、その1年後(池田屋事件の1ヶ月後)、挙兵し京都に攻め込んだ。この戦争で京都の大部分が焼失したらしいので、町一体が戦場となっていたのは間違いなさそうだが、その中でも最大の激戦地だったと言われるのが、この蛤御門。ここで幕府軍(薩摩・会津)と反幕府軍(長州)による激しい銃撃戦が展開された…その時の弾痕が、門のあちらこちらに生々しく現在も残っている。
その蛤御門から烏丸通を僅か北上し、中立売通を西へ進み、堀川通を渡り、少し進んだ所にある大和屋跡へ…

以蔵のblog-大和屋跡
ただの道路と建物と言った眺めではありますが…この周辺に大和屋があったそうです。ちなみに跡地の特定はできません(^_^;)。その大和屋と言えば、芹沢鴨らによる大和屋焼き討ち事件 が有名です。御所から近い場所での大火事、公卿らをも驚愕させたこの事件が致命的となり、芹沢鴨らは近藤らに粛清されています。近藤らに芹沢排除を指示したのは会津藩という説がありますが、本当はどうだったんでしょう?
さて、今回のLASTは、大和屋跡をさらにずっと北上し、上賀茂方面へ

以蔵のblog-御土居
やってきたのは、大宮交通公園。ここは御土居が良好な形で残っている唯一の場所だそうです。
冒頭の新選組警備区域の中でも、「御土居」が出てきましたが、そもそも御土居とは何かわかりますか?
御土居とは、豊臣秀吉が京都市中を囲むように築かれた土塁(土盛り)のことです。これは軍事防衛や洪水対策、洛中と洛外を明確にするために築かれたと言われています。現在は、ここぐらいしか残っていないらしいですが、幕末時はほとんど残っていたようです。まさに京都市中は、土盛りに囲まれた要塞みたいな感じだったんだと想像できる。
新選組警備区域は、西と南の御土居迄とあるので、京都駅周辺と壬生辺りの御土居だったんでしょうね。
以上のことから、大宮交通公園に残る御土居は、新選組との直接的絡みは無いですが、どんなものなのか確かめるには、現存しているこの場所しかない…(^_^;)。果たして、写真で土盛りの姿形がわかるだろうか…?

っということで、今回は御土居で締め括らせていただきます。史跡巡り京都はまだまだ続きますw