「新選組!と史実」もとうとう10回目。記念すべき10回目!!。
本日は10回目に相応しい…アンコール放送されたほど、もっとも人気が高かったあの回です。
それでは、いざPart10!!
第32話 山南脱走
第33話 友の死
今回は前編・後編って感じなので、1つに集約します。
江戸で近藤の誘いに応じた伊東甲子太郎が新選組加入。参謀となる。
伊東を含めた新選組幹部が集結し、屯所を西本願寺に移転することを協議する。
移転案に異議を唱える山南だが、土方に押し切られる。
山南は、新選組での居場所を失い、土方に休暇を申し入れるが受け入れられず、ついに隊の脱走を決断する。
唯一の心の拠り所であった恋人の明里を連れて隊を脱走した山南だったが、勇から追手を命じられた沖田の存在を目にする。
「もはやこれまでか…」と言わんばかりの微笑を浮かべた山南は、自ら追手の沖田に声をかける。
沖田は、必死に逃がそうと説得するが、山南の心は折れず…明里は実家に帰るよう指示し、沖田とともに屯所に戻る。
近藤も土方も、戻ってこないこないでくれ…これが本音だったが、山南は屯所に戻ってきた。
近藤は苦渋に満ちた顔で、山南に切腹を命じなければならないことを打ち明かす。
そんな山南はすでに覚悟を決めており、近藤に礼を告げる。
山南の切腹に、伊東は異論を唱え、平隊士らは必死で助命嘆願するが、土方は例外は認めないと押し切る。
そして、近藤、永倉、原田、井上も山南のもとを訪れ逃がそうとするが、山南の心は折れず…最後は土方も訪れ逃がそうとするが、それでも心は折れず…。
山南は、駆けつけた明里と格子窓越しで別れを告げ…山南自身が頼んだ沖田の介錯で切腹して果てた。
その夜、試衛館時代からの友を失った近藤と土方は泣き崩れた…。
っと、ドラマでは悲しみをそそる素晴らしいストーリー展開と演出であった。視聴者が助命嘆願するほど、堺正人演じた山南敬助は人気が高く、この回だけ再放送されたほどだ。
そんな隊士だけではなく視聴者にも惜しまれて惜しまれて…死んだ山南だが、大河が始まる以前はひじょうに存在感薄く、知名度もさほど無い人物であった。
まさに大河が山南人気に火をつけたと言っても過言ではない!!。
さて、そんな山南敬助の実像とはどうだったのか…!?
残念ながら、山南に関する史料はひじょうに少ない…試衛館時代から芹沢暗殺ぐらいまでは登場するのだが、そこから死ぬまでの間は、まったくと言っていいほど登場しない。
池田屋事件の少し前の戦闘で大怪我をしたとも、鬱病だったとも原因は定かでないが、池田屋事件にも関わってないし、試衛館時代の旧友が壬生を訪れた時も、山南1人だけ顔を見せてないそうだ。
そんな山南が長い沈黙期間を経て、再び史料に登場するのだが、いきなり死である。
その死を伝えた同時代史料は、沖田総司が故郷に送った手紙の最後に記されている「山南兄死仕り候」という文と、京都光縁寺にある墓石ぐらいか…。
まぁとにかく元治2年2月23日に山南が死んだのは、動かせない事実であるが、問題は死因である。
定説は、脱走による切腹であるが、事実だったのであろうか…!?
近藤が「浅野内匠頭でもこうは見事にあい果てまい」と賞賛した伝えがあり、伊東が「山南氏の割腹に…」と死を悼んで4種の和歌を読んでいることから、切腹も事実であった可能性は高い。
切腹の原因となった脱走は、晩年の永倉が語った回想には出てくるが、同時代史料にはどこにも記されていないため、脱走ではないという説もある…。
追手が沖田総司説も真相不明であるが…壬生屯所の近くにあった熊本藩邸に居たある人の日記で、まさに脱走した日とされる2月22日に、「大勢の新選組隊士が抜き身の槍などを持ち、駆け抜けていった…」と記録している。日記に記録してしまうほどなのだから、かなり殺伐とした異常な雰囲気だったんだと思う。
この日記こそ「脱走説」に絡む唯一の同時代史料ではないか!?。
本当は、大勢の人数で脱走した山南を追ったのかもしれない…だが確定的ではない…。
そして、ドラマで一番泣いた明里との別れのシーン。これは子母沢寛という作家の史料にしか書かれてなく、永倉や西本願寺の西村兼文の手記には出てこない。
この別れのシーンも明里という存在自体も、実は子母沢寛の創作だったという説があるが、確定的なものがないため、どちらかはわからない(苦笑)。
やはり長くなりましたが、ぜんぜん比較になってません(苦笑)。
まぁドラマと史実では大きなギャップがありそうだねw。
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