7月9日(木)雨 『絵本のよろこび』

 福音館書店の月刊物語絵本『こどものとも』を生みだし、編集してきた松井直さん。創刊は1956年4月。第1号は、与田準一文、堀文子絵『ビップとちょうちょう』。そして第2号が宮澤賢治原作、茂田井茂画『セロひきのゴーシュ』。教室に持ち込んだのは、改訂版だったのだ。茂田井さんはこの作品に全霊を打ち込み、4月発行後、11月に亡くなられた。私の手元にあるぼろぼろのこの絵本は1966年4月発行のもの。

 私たちが親しんできた『こどものとも』絵本がどのようにして作られていったか、とても興味深い話だ。

 その長い蓄積に立って、絵本を語っている。

1絵本とは何か、2子どもの眼、大人の眼 3絵が語る物語世界 4わたしの絵本開眼 5絵の力、文章の力 6ほんとうの絵本体験 7絵本づくりの思想 8絵本事始め 9絵本の道を拓く 10昔話の再発見 11絵本のこれから

 絵本論をやろうとする若い人には、まずここから入ることをおすすめしたい。生意気だった私は、「わかってる、わかってる」みたいな気持ちで、読み飛ばしてきた。いま、何かのために読む必要がなくなって、好きで読んでいると、ほんとうにすっきりと共感、共鳴し、学ぶことができる。遅かった…(笑)

 松井直『絵本のよろこび』日本放送出版協会2003.11 杉並図書館の本

 7月8日(水)雨のち曇り

 

 友へ 一句

   ソウルの鄭基元先生へ

 

 無窮花(ムグンファ)と 君が呼ぶ花 路地に咲く

 

              2020.7.8   泰吏

 

 

 

 7月5日(日)雨のち曇りそして雨

      こんなときには・・・ =谷川俊太郎『詩人の声をきいた木』

 今日は都知事選投票日。天候も荒れ模様で、投票率が大変低いと報道されている。とても残念。東京都だけの選挙ではない。日本の現状を打開していく上にとても大切な選挙だ。ぜひ足を運んでいただきたい。

 さて、熊本、鹿児島では豪雨の被害も大きくなっている。コロナ禍に重ねての災害に本当に大変なことだと思う。ただ、こういう災害の度に、「想定外の・・・」ということになるのだが、それでいいのだろうか。日本の自然環境が弱く、もろくなっていないだろうか。故郷の山を見ていても、子どもの頃と比べて荒れてきている。山の手入れがなされなくなっている。澄んだ流れで魚の宝庫だった川が、いくつものダムがつくられてやせた、貧しい川になって、その上、雨が集中すると治水の役割を放棄したようにダムの放流がなされて急激に増水する。雨などの降り方も豪雨となっている。地球的規模の環境破壊が背景にあるのではないだろうか。そして、行政が見栄えのいいところに金を注いで、インフラの整備を怠ってきた。東京都も水道管、橋、トンネル等、60年代からのインフラがそのまま残っていて、緊急の課題だという。本来はとてもオリンピックどころではなかったのだ。医療体制の整備も急がれている。

   *

 さて、巣ごもりの日々に、ぜひ心洗われる一冊を。新しい本は買わないと決めて、せっせと図書館通いをしているが、やはり欲しくなってしまった本。の眠れぬ夜に手元に置いて読む。読むというより、眺めるというような美しい写真。

「たった一本の〈槐の木〉が立っていた。そこは、夏はキャベツ畑、冬は人を寄せつけない程の雪に覆われる、標高1400メートルの山の麓である。その木は、かつて雷に打たれ、焼け焦げた絵だと裂けた幹のまま生きている。今にも倒れそうな木だが、それでも、夏は台風の強い風に、冬は豪雪と北風に吹かれながらも賢明に生きている。」

と、写真家の加賀見博明氏は扉で書いている。

 この一本の木を主人公として長年にわたり撮影し続けてきた風景写真に、谷川俊太郎の作品の中から選んだ詩を添えたアルバムである。写真だけのページもあって、もううっとりと見ている。

 『詩人の声をきいた木』求龍堂2019.3、2700円

 7月2日(木)晴れ 中学生のキャリア体験=『天使のにもつ』

 政治家や官僚などの思い付きで、新しい施策がおろされてきたり、変えられたりするのは、現場はたまらない。中学2年生の「職場体験活動」もその一つだろう。中学校任せだから、受け入れ先を探すのに、現場は大変な苦労をしている。14歳に5日間、「無事に」過ごしてもらうことが第一の目標になる。受け入れ側にとっても、送る学校側にとっても。

 斗羽風汰は担任にせっつかれて、保育園にする。まことに「どうでもいい」選び方である。「子どもとあそんでいればいい」と。そこで過ごした短い時間の中で、彼は子どもたちにも(親にも)それぞれの物語があること、小さな心を悲しませ、苦しめるものに気づいていく。そして、それを受けとめつつ、子どもたちの豊かな育ちを支えていく保育士の姿から学んでいく。

    *

「保育士って、ベビーシッターとか子守みたいに思われがちだけで、そうじゃないのよ」

「そうなんすか?」

 園長は布団の位置をもう一度確認して、うなずいた。

「子どもがどうしたらその子らしく、幸せに生活することができるか。その子の持っている力を引き出すことができるか。正しい成長や発達を遂げることができるか、とかね。そういうことを考えて保育しているの」

「メチャ大変じゃないっすか!」

「「専門職だからね、保育士は」

「センモンショク?」

「そう。鬼ごっことか、おままごととか、泥んこあそびにも、ちゃんとねらいとか、目標があるのよ」

 園長は楽しそうに保育について話しているけれど、風汰には、園長の言っていることの半分もわからなかった。

    *

 作者はカリカチュアして描いている意図もあると思うが、「職場体験活動」の中には実際、こんな積み重ねがたくさんあることだと思う。最後に届いた保育園からの「職場体験・評価表」をめぐるエピソードにうるっとさせられた。中高校生の今年度課題図書とか。どんな感想が寄せられるのか、楽しみだ。

 いとうみく『天使のにもつ』(童心社2019.2)杉並図書館の本。

 そうそう、コロナ禍の下で、今年はどう対処しているのだろう?

 6月30日(火)雨 「大人になることのむずかしさ」

 河合隼雄先生の本や講演の語り口のよさは、何に基づくものだろうか。だれに語っているのかを腹においてぶれないからだろうか。物事がよく分かっているからだろうか。

 「大人になることのむずかしさ」は、私のように喜寿を迎えた後期高齢者にとっても突きつけられている課題である。「大人とは何か」という問いに答えることが難しい時代なのだと、河合先生は繰り返している。青年期の「自立」への苦しみがある。深く長いトンネルに入ってしまって、出口の光が見えないことがある。しかし、ある年齢がきたからといって、もう職業人であるからといって、もうそういう役割はすんだからといって、「大人になる」ことの課題に回答できるというわけではない。

「創造過程を歩むものとしての大人を考えるとき…、真の大人というものは、そのなかに子どもっぽさを残している人だ、というふうにはいえないだろうか。ここにいう子どもとは、世の中のことをすべてきまりきったこととは考えずに、あらゆることに疑問をもち、イマジネーションをはたらかせる存在だということである。」

「(本当の大人は…)大人になっても、自分のこころの中に住んでいる子どもを、殺さずに生かしておくのである。」

 子どもの本に関わる者としては、こういう言葉が、とてもうれしい。

「単純に他人を非難せずに、生じてきたすべての事象「わがこと」として引き受ける力をもつことこそ、大人であるための条件であるといえるであろう。」

・・・、ここがむずかしさだなあ。

 この本は、岩波現代文庫が、「〈子どもとファンタジー〉コレクション」として、シリーズ化して出している5巻だ。結局、繰り返し読むことになる本だ。2014.2、940円。

 明日からは7月。4日(土)はアニマシオンクラブ例会を再開しますが、完全予約、定員制です。すでに締め切っています。藤條学さんファミリーが、カナダの小学校で過ごした1年間をスライドトークします。それは『ファンタジスタ!』特集号として会員には郵送されます。60ページに及ぶ、とても興味深い内容です。ぜひ入会下さい。アニマシオンクラブHPを参照ください。

6月29日(月)晴れ 『父さんがかえる日まで』

 「不安」がテーマだろうか、それとも「勇気」だろうか‥‥?

船乗りの父さんは航海に出かける。帆船の時代です。長い航海でしょう。母さんは呆然とした毎日を送っています。うつろな顔。アイダが妹のめんどうをみています。しかし、しばしば自分のことに夢中になって、妹としっかり向きあうことができません。アイダはホルンが大好きなのだ。そのすきに、コートに身を隠した小さな魔物ゴブリンが妹を連れ去ってしまう。気がついて後を追うアイダ。母の力を借りるべくその黄色い大きなレインコートを着て、ポケットにはホルンを入れて追う。しかし、その時でさえ”上の空“。後ろ向きに窓から出て、ふわふわとさまよう。そこへ、父さんの声が聴こえてくる。

「アイダよ。うわのそらの アイダよ。よそ見しないで くるりとむきをければ ゴブリンたちが 見つかるぞ! とくいの ホルンを やつらに ふいてごらん」

 これが、作品のだいじなメッセージだ。

アイダはくるりと向きを変えて(つまり、現実にしっかりと向き合って)、ゴブリンに囲まれた妹を見つける。妹そっくりのたくさんのゴブリンたちに、ホルンを吹いて躍らせ、ついに妹を見つけて、連れ戻す。そこに、父さんからの手紙が届いている…。

センダックは、『かいじゅうたちのいるところ』と『まよなかのだいどころ』とこの作品を自分の作品の中心にすえて、「絵本の三部作」と呼んでいる。アーサー・ビナードさんは翻訳をとおして、「ゴブリンとは何者か」と問いかけている。

ゴブリンとは、いま、我々を取り巻き、情報を支配し、経済を支配し、市民を監視下に置き、地球環境を破壊してなおとどまるところのない勢力であり、センダックはこういうものへの警告を発しているのだ。そして、このまま気がつかないで(まっすぐに向きあうことをしないで)行くならば、取り返しのつかないことになるだろう、と。

さて、1981年に出されたこの本は、2019年12月、アーサー・ビナード訳として、わたしたちに届いた。そして、サイン入りだ。(新しい本は買わないといっていたのに!)

まだ、アイダがいくぶん上の空の時、アイダの部屋の窓から見える船(父さんの乗る)は嵐に遭い、難破する。それは暗示だけで、物語では説明されない。一つの伏線となっている。

原題は「OUTSIDE OVER THERE」(うわのそら)だ。偕成社2000円

6月27日(土)晴れ 『かぜは どこへいくの』

 小さい子の問いに答え続けることはむずかしい。先日ここで、イタリアの教師と子ども合作物語『チピ―』の中での会話のすばらしさもあげました。この絵本は、まさにそう。

男の子がベッドにはいると、お母さんに尋ねます。脈絡もない質問。お母さんは丁寧に答えます。日本ではあまりこういう絵本はないように思いますが。

 さあ、答えは考えてください。

―どうして、ひるはおしまいになってしまうの?

―ひるがおしまいになったら、お日さまはどこへいっちゃうの?

―かぜはやんだら、どこへいくの?

―たんぽぽのふわふわは、ずっととんでいって、どこへいくの?

―みちは、ずっといって、みえなくなったら、どこへいくの?

―山は、てっぺんまでいったら、どこへいくの?

‥‥

 まだ、半分ですよ(笑)

 根気づよく、丁寧に。シャーロット・ゾロトウ作、ハワード・ノッツ絵、まつおかきょうこ訳、偕成社1981 杉並図書館の本

 6月24日(水)曇り 『人生に大切なことはすべて絵本から教わった 2』

 アニマシオンクラブ読書会ZOOM会議おしゃべり会で教えてもらった本。末盛千枝子さんの『人生に大切なことはすべて絵本から教わった』の続編。2013年3月刊。

 2011年3月11日の東日本大震災に際して、末盛さんは、被災地の子どもたちに絵本をとどける「3.11絵本プロジェクト」を立ち上げた。そこには23万冊もの絵本が届けられた。今回の記録は、その話を中心にして、絵本とは何かこどもの本とはなにか・・・が語られた。

 末盛さんの千枝子は高村光太郎が妻千恵子の名前を持ってきて、文字だけを変えたのだという話など、両親や、子ども、家族のことも縷々語られて、興味深い。ここでは、とても印象的な言葉だけを引いておきたい。

――(子どもの本は)ハッピーエンドでなければいけない。

  万が一ハッピーエンドでなくても希望があること。

――人の心を打つものってなんだろう。

 「悲しみのひとはけが塗られているものが人の心を打つ。」

 「絵本は悲しんでいる子どものそばに立っているものでなけらばならない。」

――こどもの本の出版というのは、将来の大人、あるいは将来の世界を育てる仕事だから、絶対に手抜きはできない。

・・・・

いや、全てを書き写さなければ終わらないなあ。

 末盛千枝子『人生に大切なことはすべて絵本から教わった 2』現代企画室。杉並図書館の本

 6月22日(月)雨 子どもたちと創作した『こすずめチピのぼうけん』

 サブタイトルは、「マリオ・ローディ先生と子どもたちがつくったお話」。マリオ・ローディは1922年生まれ。小学校教師であり、「教育協同運動」の活動家、作家。これは、教室の窓の向こうの建物の屋根の下に巣作りしたすずめの親子を観察し続けた中から、子どもたちと共に、まさに「想像の翼を広げて」創作した物語。チピが生まれ育ち、仲間たちと共に様々な困難を乗りこえていく物語だ。子どもたちとくりかえし相談しながら書きすすめていった実践の書でもある。とても豊かな、ヒューマンな心が育って、表現の細やかなひと言ひとことから伝わってくる。

 チピーとお母さんとのこんな会話がある。

「母さん、『草や木』ってなあに?」

「草や木っていうのはね、はじめてお空を飛ぶときに、わたしたちがそこで一休みする、緑の腕のことですよ・‥‥‥。」

「それじゃあ、『火のボール』って、なあに、母さん?」

「それはね、お空にまん中で、光をあたえてくれたり、あたためてくれたりして燃えている、わたしたちのお友だちですよ。」

「母さん、『空』ってなあに?」

「わたしたちのとおり道のことですよ。」

「それから『銀色のリボン』ってなあに?」

「それはな、おまえの羽がきれいにはえそろったら、その羽をうつしてみられる鏡ですよ。」

「『羽』って、母さん、『羽』ってなあに?」

「それはね、おまえをあたためている、これのことですよ。」母さんは、チピをやさしくだきしめながらいいました。――

 『こすずめチピのぼうけん』マリオ・ローディ作、佐藤智子訳、伊藤寛絵、福武書店1989年。杉並区図書館の本

 *

 この本は、山梨の佐藤美智代さんから送っていただいた故窪田富男先生の私家版の翻訳處『チピ―』を読んで、すぐに図書館から借りて読み返したものだ。窪田先生は、ジャンニ・ロダーリの研究家であり、その普及に努力された。そして、読書のアニマシオン研究会発足時に何度も足を運んで、『ファンタジーの文法』(ちくま学芸文庫)の講義をしてくれた。それがなければ私たちのアニマシオン活動は違った方向に歩いていたことだろう。窪田先生と私たちを結んでくれたのが,佐藤さんだ。

 さて、窪田先生は「チピ―」との出会いは、若い日にフィレンツェに語学留学されていた時に見つけたもので、当時小学1年生の娘のために読ませたいと翻訳し始めたものだと、訳者おぼえがき」に書いている。そして、こう書いている。少し長くなるが紹介しておきたい。

「『チピー』が児童文学として優れたものであるかどうかは、その道の専門家に判断をゆだねてもいいと思います。読者によっては、子どものファンタジーはすばらしい、しかし「教師」の顔がのぞきすぎている、多少のお説教くささがある、と感じるひともいるでしょう。しかし少なくとも、教師と児童との協力関係がすばらしければ、こんなに感動的な、独創的な物語――ローディのいう「真実の寓話」が生まれるのだという事実は否定しようもないと思います。「真実の」とは、事実の観察や実際の体験に基づいた、という意味です。「寓話」としたのは、観察や体験から得られたファンタジーによってまとめ上げ、ある意味をもたせたお話、という意味です。その作成の意図や経過からみれば、つまり創作の背景を知れば、童話というよりは明らかかに教育実践の記録です。訳者は、児童はどこにでもいる児童だ、それらの児童はだれでもすばらしいファンタジーを持っている。それを引き出し、まとめ上げることのできる教師はどこにでもいる教師ではない、と信じています。しかし、どこにでもいる教師にする――そんな教師を育てることが「教育協同運動」のひとつの目的でもあるのです。」

と。こうした訳書の一冊一冊に、丁寧な解説と共に、自分の熱いメッセージ、教師、教育への期待を添えてきた窪田先生の思いを、受けとめていきたいと思う。

 6月17日(水)晴れ 『宮沢賢治 イーハトーブの光と影』

 

 できるだけ書店を避けて街歩きをしている。ちょっとのぞきたくなる、のぞけば手に取って見たくなる、手に取れば買いたくなる…。買うのは、古書店で…、と決めたのだ。

『宮澤賢治 イーハトーブの光と影』(高野健三・写真、山と渓谷社1996年)。1800円が300円の新品。C・w・ニコルさんが「ナチュラリスト賢治」と、巻頭の文章を書いている。谷川雁に誘われて、賢治の作品を英訳する作業に取り組んだ。その6か月間の苦闘の末に、「賢治との出会いが、その後の私の人生を決めたといっても過言ではない」と書いている。

多くの場所で多くの教師たちと「賢治作品をどう読むか」、もちろんアニマシオンという楽しみ方で、語り合ってきたが、本音で言わせると圧倒的多数者が「賢治作品は好きじゃない」「暗い」「教えにくい」と敬遠する。賢治作品が好きだという人は、限られた作品を読んでいることによるか、(宗教的に?)深く、マニアックにはまっているかのどちらかである。私はその3分の2くらいはまっている側の人間だ。

この本は、写真家の高野健三氏が、30年余り、東北の地を訪ね歩き、そこに賢治の世界を見いだしていったフィールドの書である。発行が1996年だから、1960年代から東北を撮り続けてきたことになる。それはちょうど日本という国が、経済第一に流れて、自然、とりわけ風景とか景観とか、“故郷”としての自然・地域とかいうものを価値としては考えないようになっていった、激しく変貌していくときだった。(私のふるさとなぞ、見る影もない)だから、賢治作品の理解の上でも非常に貴重な記録となっている。

「春めいたころ、東北の山や川を歩くと確かに賢治の宇宙というようなものが見えてきます。どこで賢治とつながっているのか分かりませんが、そう思わせるものが東北の自然にはあります」と書いている。

私は、賢治ファンとしては識見に富み、フィールドも豊かな霜村三二さんに何度も案内してもらってきた。二人だけの賢治祭の旅も組んでもらった。とても楽しかった。ゼミ生も2年間にわたってガイドしていただいた。感謝に堪えない。

高野さんは「あとがき」をこう結んでいる。

「賢治はもちろん人間ではあるけれど、ある意味では異星からやってきた全然別な宇宙人的な存在なのだと考えれば理解しやすいかもしれません。/どこか遠い宇宙の彼方からやってきて、人間・宮沢賢治として東北の地に生きて、賢治の宇宙に帰っていったと考えたほうが私自身納得できるような気がします。/そう思って自分なりの宮沢賢治に出会う。そうやって自分なりの宮沢賢治を撮る。そんな想いが写真表現できていたらいいと考えています。」

もう、何かのために、アニマシオンのために、読むという必要はなくなった。だから、好きな作品を、好きな表現を、拾い読みして楽しんでいる。解釈の必要はなくなったので、とても楽しい。