涙が出た2回目の精神科受診 | ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

25年以上1つの会社に健常者として勤務し、係長として人の上に立つようになった私が、
どのようにASD(自閉症スペクトラム)の特性と折り合いをつけて生活しているか、
その方法をお伝えしていきたいと思います。

昨日は2回目の精神科受診日でした。

ウェクスラー式知能検査の中の16歳以上の成人知能検査である、
WAISIIIを受ける流れを書かれた紙を、
見せてもらいながら説明を受けたのですが、
多分、その時の私の頭の中は、
検査を受けて自分の状態をはっきりさせたいという思いでいっぱいで、
その説明の紙をもらったのか、
ただ見せられただけなのかも記憶になかったため、
2回目の検査の流れを把握していませんでした。

臨床心理士の方と個室に入り、
絵の書かれた簡単な質問に、
◯、✖️、△、で答えるように言われたのですが、
これが難しすぎて、私は思わず涙を流してしまいました。

その質問は、子供の頃の自分と、現在(大人)の自分で答えるようになっていて、

「子供の頃の自分は小学校6年生くらいで構いません」

と臨床心理士の方は言われました。

そして、こう付け加えたのです。

どちらも自分で努力して身につけたものではなく、
努力しなかったならばどうなっていたか、で答えてください。

この一言で、この質問の難易度は格段に上がってしまいました。

言いたいことは、分かります。
後天的に身につけた社会性で答えてしまったら、
ちゃんとした発達障害の診断が、出来ないですものね。

でもね。

私はすでに小学校3年生くらいの時に友達に、

「私に普通を教えてください」

と頭を下げて、

「私のマネをしたらいいよ」

と言われ、

自分を殺して、その子のマネをして生きてきた人間でした。

それくらい、集団生活での生きづらさと、
普通に出来ないプレッシャーに、
小さな頃から苦しめられてきたのです。

小学校6年生の私はすでに努力の結晶の人間でした。

それでも中学校の担任の先生から、友達の家での家庭訪問で、

「あの子は変わっている」

 と言われ続けて、友達からは、

「私の家庭訪問だったのに、あなたの話ばかりだった」

と苦情を言われたのです。

そんな私の本質は、大人になってからも変わりません。

35年以上努力しても変わっていない自分の心の中の本質に気付いたから、
私は父親からキチガイ呼ばわりされた精神科受診を決意したのです。

自分で努力して獲得したものを抜いて回答したのなら、
子供の頃の自分と、現在(大人)の自分の違いなどありません。

そして、小学校6年生では意味がありません。

私が私らしく小学校でいられたのは、
小学校1年生で入学した、ほんの最初の時だけだったからです。

その時の私は、小学校中の人間が遠巻きに見つめる中、
体育教師と1対1で睨み合い、
自分から突進していって簡単に張り飛ばされ、
それでももう1回、立ち上がって突進していくような子供でした。

まぁ2回目も、簡単に張り飛ばされて終わりましたが。

体育教師は体が大きく力が強かったため、
小学校1年生の入学したての女の子の体など、
頰を思い切りひっぱたいただけで、
簡単にすっ飛んでいきました。
(早生まれだったため、同級生と比べても体は小さい方でした)

それから授業を妨害するくらいの暴れ方は、
しなくなったと思います。

そんな人間に。

「小学校6年生の時に、授業中にじっとしていられませんでしたか?」

などという質問をされても、
私には何て答えようもありませんでした。

私が暴れる時には、私なりの理由がありました。

ただ、じっと出来ないという理由ではなかったのです。

こんな画一的な質問に答えて、
自分はこんな人間だと診断されることを、
私はとても恐れました。

精神科受診は、自分にとって発達障害と愛着障害を改善する、
最後の希望だったからです。

けれど臨床心理士に、私のこの気持ちは伝わりませんでした。

私は今までの人生で繰り返してきたように、
ここでも自分の気持ちが伝わらないことにもどかしさを感じながら、
苦しい気持ちでこの質問に画一的に答えていったのでした、、、